| 宮古湾海戦 |
| 宮古湾海戦の目的は、北海道の江刺沖で座礁し失われた旧幕府軍の旗艦「開陽」の損失を補うため、当時、新政府軍の最新鋭艦であった「甲鉄」を分捕ろうという作戦の決行にあった。甲鉄は元々幕府が米国から購入するはずの船だったが、大政奉還により、すでに新政府軍に所有権が移っていた。当時「回天」の艦長だった甲賀源吾は、フランス海軍のニコール少尉の進言もあり、奇襲(アボルダージュ・ボールディング)によるフランス軍敵艦切り込み戦術(船による接舷)を採択した。そこで榎本艦隊は、土方歳三が乗艦した「回天」を中心に、蟠龍(ばんりゅう)高雄(たかお)を従えて、函館を出航し、新政府軍艦隊が碇泊する宮古湾(岩手県宮古市)を目指す。ところが南下の途中、暴風雨や機関の故障により、三艦はバラバラに離散してしまう。最初の決行は、「高雄」が「甲鉄」に接舷し、白兵戦を持って、船を乗っ取る作戦の予定だったが、やむをえず「回天」がその任務を担うこととなった。だが回天は両舷の大きな外輪で推進する外輪船であり、さらに目的の「甲鉄」は、装甲板の自重により船が沈み、普通の船より甲板がかなり低い船だった。結局、「回天」は艦首から「甲鉄」の左舷へ突っ込む形となり、高低さも省みず数名が飛び込み白兵戦を試みるが、銃器で反撃され、狙い撃ちにあう。その結果艦長の甲賀源吾を初め、大勢の死傷者を出すことになる。回天が「甲鉄」の奇襲を開始したのは、明治2年3月25日の早朝、午前5時のことであり、わずか30分の戦闘で勝敗がついた。その後「回天」はすぐに離脱し、宮古湾を撤退している。 |
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| 新選組の足跡を訪ねて 宮古湾周辺 |
| 宮古湾海戦記念碑と墓 岩手県宮古市 | ||
![]() 宮古山常安禅寺 |
![]() 官軍小西周右衛門の墓 (宮古山常安禅寺) |
![]() 港 大杉神社 |
| 宮古湾海戦とは関係がない。その一年前に宮古に訪れ病死した官軍兵士の墓 | 宮古湾を望む小山の上にある。 | |
![]() 宮古湾戦蹟碑 (大杉神社) |
![]() 宮古湾海戦記念碑 (浄土ヶ浜) |
![]() 宮古湾海戦解説碑(臼木山) |
| 浄土ヶ浜レストハウス前のパーキングから左手に入った小道の傍に立っている。 | 碑の右には、土方歳三と東郷平八郎の写真が飾られている。 | |
![]() 海戦場所・臼木山 |
![]() 幕府無名戦士の墓 |
![]() 幕府無名戦士の墓 |
| 写真手前に見える逆L字型の防波堤の右辺りに停泊していた「甲鉄艦」に土方歳三らの「回天丸」が突っ込んだ。 | 宮古湾海戦の後、浜に幕府軍の兵士と思われる首なし死体が流れついた。それは先陣を切って「回天」から「甲鉄」に乗り込み戦死した新選組隊士、野村利三郎のものかと推測されている。 | |