●あしたのジョー2 パート3 yujin 高森朝雄・ちばてつや 講談社 | |
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矢吹 丈(少年期バージョン)当時16歳〜18歳? ブタに乗って少年院から遁走を試みるが、力石徹に妨害される。クロスカウンターを得意とし、両腕をだらりと下げた「ノーガード戦法」という独特のファイティングスタイルを持つ。身長170.5cm,体重53.52kg(ともに推測値)1969年プロデビュー(8月にプロテスト合格)[タイトル]東洋バンタム級王者。防衛2回。世界バンタム級第4位[生涯戦績]24戦18勝5敗1分18KO[通算戦績]33戦23勝5敗3分24KO中止1、失格1(プロ・アマ・エキジビション含む) |
丹下段平(丹下拳闘クラブ会長) 丈の師匠。日本タイトルに挑戦するほどの実力をもつプロボクサーだったがその直前に左目を痛め引退。後に極西拳闘クラブというボクシングジムの会長になるが、選手に恵まれず多額の負債を抱えたまま解散。さらに非科学的な練習方法や試合態度が災いし、ボクシングジム会長のライセンスをも剥奪される。ジム解散後は下町に流れ着き、その約3年後、飲んだくれて玉姫公園の階段で倒れていたところを踏みつぶされてケンカになったのがきっかけで丈にボクシングを伝授。最初こそ丈に裏切られるが少年院から出てきた後は共にボクシング界で活躍。丈が東洋バンタム級王者になった頃にジムを新築している。 |
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金 竜飛 東洋太平洋バンタム級チャンピオンであり韓国陸軍の中尉でもあった金。タイトル戦の6Rにて、ジョーの頭部の出血を見て狂乱し、ジョーのストレートをうけて、リングアウトして完全KO負けした。血を見ると発作を起こすという変な癖があった。必殺技は舞々(チョムチョム) |
ごろまき権藤 「ボクサーのパンチは、こうじゃなくちゃいけねえ」とジョーに殴られて笑う権藤の台詞。「勝てないゴロはまかねぇ」は、かっこよかったです。出番は少なかったけど存在感は、かなりありましたね。モデルは梶原一騎の実弟、「ワル」の原作者、真木日左夫という話もあります。 |
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泪橋(情景)正面丹下拳闘クラブ 「丹下ボクシングジム」の前身「丹下拳闘クラブ」です。最初は小さな掘立小屋だったんですが、泪橋の下の河川敷に建てられていたんですね〜。ジョーが少年院から出てくるまで、一応使われました。シャワー用のドラム缶が屋根に載っております。左側には川にせり出した水洗トイレが見えます。ちなみにここには屋根裏部屋があり、段平をはじめジョーや西達のねぐらのなっていたりします。池袋に近いところにあったように思います。 |
ウルフ金串 アジア拳所属のバンタム級ボクサー。若手ホープと期待され、昭和44年度新人王決定戦では相沢誠二をKOし素質の片鱗をうかがわせた。ジョーとの6回戦卒業決定戦ではダブルクロスカウンターで丈の動きを封じるが、逆に丈からトリプル・クロス・カウンターを受け、あごを砕かれ引退した。[タイトル]昭和44年度バンタム級新人王[公式戦成績]10戦9勝(2KO?)1敗[通算成績]14戦11勝2敗1分け |
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あしたのジョー 原作:高森朝雄【梶原一騎】・漫画:ちばてつや 講談社・週刊少年マガジン連載(1968.1〜73.6) ジョーのモデルは、梶原一騎のがファンだったピストン堀口とか、海で無くなったコメディアンの「たこ八郎」(宅八郎じゃないよ)が、モデル!という話(パンチドランカーになってお笑いに転向)をずっと信じていましたが。某飲み会で、「Yさん!そりゃデマだよ」と、ちば先生のマネジメントをしてたご子息から聞くまではずっとホントと信じていました(笑)明日のジョーはよかった。でも当時少年だった私は「紫電改のタカ」の方が、もっと好きだったんです実は・・・(笑) ちばてつや先生のホームページです!o(^o^)o |
泪橋(情景)側面 「なあジョーよ 二人でこの涙橋を 逆に渡って行こうじゃねえか」 by おっつぁん |