あるた〜ねいてぶ(禁断の書庫)

「知性としての魔法、或は知恵」

著:メイ=メルメイ

第2章 恐怖についての一考

 さて。この章では、人の恐怖についてを中心に、話を進めていきたいと思う。
 では、恐怖とは、なんであろう?
 これは幾つかに分けられるものの、その根は一つ。つまり、本能から来る恐怖、である。
 特に、「死」について、人はそれを恐怖する。ここで興味深いのは、「恐怖」というものに対する人間の反応には著しい差がある、という事である。
 顕著な例としては以下があげられる。

 では、「死」とは何か?
 この場合、必ずしも、肉体的なものとは限らない。結論から言ってしまうと、
自らの存在がなくなる
 という事だ。
 つまり、自己としての己の存在が確認できなくなる状況こそが「死」なのだ。
 それが、生命活動を絶たれる事によるものなのか、自我を完全に破壊される事なのかは、この場合、あまり大きな意味を持たない、と考えていい。

 では、私達が人に恐怖を与える場合に於いて、何が有効であろう?

 人は、自らの身の危険を認識する為に、自らの力と、驚異となるものの力の差を計り、それを検討する事によって判断を下す。
 最終的に、「死」を自らに招きいれるに充分たる力を持つ相手である事が認識できた時、人は、自らに忍び寄る「死」に対し恐怖する。なお、この相対的判断については、後に詳しく述べる。
 では、計るべく相手の力を理解しきれないか、或は、相手そのものの認識が困難である場合、どのような事が起きうるであろう?

 相手の力が強大であるがゆえに理解できない、という場合、あまり大した事は起こらない。あるいは、これによって恐怖するのは、よほどの実力者である、と考えていい。
 なぜなら、通常の人間は、自らの力すら正しく理解していないが為、理解できないほど大きな力、という物がどの程度なのか。それを計るべく尺度が、限りなく曖昧なのだ。
 1リットルの水を持ちながら100ccしかその力を計れないものが、10リットルの水を相手にどの程度の理解を示すであろう?
 実力者は、5リットルの水を持ち、10リットル、20リットルの容器をもつ。彼らは、その力のすざましさを把握しているがゆえに恐怖するのだ。

 では、相手の力が今までに見た事のない類の物である場合はどうであろう?
 そして、相手そのものが認識できない場合は?
 人は、これにこそ恐怖するものである。その力を見たことがないゆえに。相手が見えぬゆえに。
 危険を判断すべく思考する為の材料のうち一つ−どういった物かという認識、或いは分類−が、全くなくなるのだ。
 ここで人間の持つ面白い特性が顕著に現れるようになる。「常に最悪の状況を連想する」という事だ。
 そして、人間の連想には、限界が存在しない。というより、正しくは、「自らの理解できる限界」までしか存在しない。
 そのため、「理解できないほどの恐怖」を「理解して」しまうのだ。

 さて。ここまでの講義を考えれば、いずれの意味にせよ「自らの姿をたやすく見せてはならない」事が、容易に想像がつくと思われる。
 では、次にいきたい。

 他人に恐怖を与える。我々にとっては、たやすい行為である、と言えよう。
 初級の魔術ですら、それを理解し得ぬ−一般人という名を与えられた−愚者どもは、それを未知なる恐怖ととる。
 愚かの極みだ。
 ちなみに。彼らの脳味噌が使われていないのなら、体を使ってやる−言い方を変えれば、我々に体を提供してもらう−事こそが、自然の摂理にかなった行動である、と言えよう。
 さて。我々自身に目を移していくが、たやすく恐怖を与えられる、という点で満足していては、吹いて飛ばそうにも飛ばせないほど少量の知恵しか持たぬ愚者どもと、何等変わりがなくなる。
 より有意義な使い方、或は調教法を学び、研究しなければならない。
 愚者どもが己という資源を使いきれないのならば、その資源はわれわれが正しく使用する権利があり、必要がある。「我々は愚かなる者共を奴隷化しそれを有意義に使う義務がある」と言い換えてもいいだろう。
 では、それをどのようにして行うか。以下に論じてみたいと思う。

 愚かの極みにいるものほど、人を使いたがる。自らのぶをわきまえぬ傍若無人な振る舞いは、しかし、彼らにはなんら罪はない。なぜなら、彼らは、それが愚かであり、或は傍若無人である事がすら、理解し得ないのだから。
 ただ、そこまで肥大した自我を奴隷にもたれても困るので、こういった物は、事前に消去しておく方が良いだろう。

 人間は、その総てを、相対的な感覚によって認識する。自らの幸せ、欲求、その他。
 そして、周囲、と言う、自らの手の届くものと己自身を比較し、善し悪しを決めるのだ。つまり、周囲が殺人を犯すのなら自ら行ってもそれは悪い事ではない、という考え方になる。
 またそれゆえ、自らの生理的欲求は満たされているにもかかわらず、周囲を眺め、精神的欲求不満となり、自滅への坂道を転げ落ちるのだ。

 では。自らと比較すべく者がなくなった場合、どうなるであろうか?
 答えは簡単である。自己崩壊、がそれだ。
 己自身を認識できぬがゆえに、自らの存在が希薄になり、消えていく。
 自らの内面との思考、などという高尚なものははなから期待しないにしろ、もう少し何かあっても、と嘆く者もいると思う。が、これが現状においての事実だ。

 ちなみに、その程度の思考−あれを思考と呼んでいいのかには、かなりの疑問が残るが−しか持たないものを人間と認識するのは難しい、という意見が散見されるが、それはまったくもって正しい考え方だ。
 姿形が似通っているという点でいくのなら、紙で作った人形ですら人間であるという事になる。
 時々耳にする、「同じ人間云々」などという言葉には、嫌悪を通り越して、軽い感動をすら覚えるものである。

 話を元に戻そう。
 あくまで他人との比較にのみ立脚している愚か者共の自我を壊すのは、簡単である。児戯に等しい。
 どのように行うか。他者との比較をするための材料−情報−を、完全に遮断してやればよいのだ。
 五感をことごとく遮断するだけで、ものの数時間で自我が崩壊する。
 なお、これについて興味深いのは、ほぼ完全に遮断した後、通常の限界の2倍ほどの時間、その境遇においた時である。
 時として、なんら外傷もないのに、生命活動をすら停止する場合がある。これについては、各自試されたい。
 手段としては、視覚を完全に奪う「視覚破壊」か「暗闇」、嗅覚を奪い去るか、或は「消臭」、味覚は放置しておいても問題はないが、これに影響を与える場合は舌に対して「麻痺」、聴覚は「静寂」などで音を消す。触覚は、体への「麻痺」でその感覚を奪う。
 これらを完璧に行う一番よい手段は、脳を除いて「麻痺」させる事だろう。
 なお、これらの手法については、様々な方法が考えられる為、より少ない労力で出来る事を考えつつ、異なる5種類から10種類ほどを、常に考察しておくことが望ましい。

 さて。ただ壊すだけでは破壊者となんら変わりはない。我々が研究者である以上、ここに何らかの意義を持ってこの出来事に当たりたい。
 一つには、方法の剪定、というものがある。自らが考え出したいくつもの方法を実験するのだ。
 恐らく、種類は3〜5程度に絞る事が出来るので、実験材料の個体差を考えて3回実験を行ったとして、10〜15匹ほどもいれば、ほぼ事足りる事になる。
 こういった事を通じて、自らの知識をより高めていただきたい。

 次に、人格の改造、である。
 これをある程度研究しておくことによって、幾つかの奴隷作成法が構築できる。
 ゴーレムほど有益ではないにしろ、自らの知力のみで比較的簡単に作れる為、それなりに重宝する。

 さて。
 今までの技術の応用の一つに、「情報の収集」法がある。
 情報を、その真の価値も知らずに抱え込みたがる亡者どもから得る為の技術である。
 まず彼らに共通しているのは「その情報を話す事により、自らに何らかの不利益が発生すると考えている」という点である。
 では、これを克服する為には、何を行ったら良いのであろう。
 手段は二つしか有り得ない。
 一つには、その不利益から守ってやる、と言う事を理解/納得させる事。
 もう一つは、情報を漏らさない場合、それ以上の不利益が身に降り注ぐ事を教えてやる事。
 いずれにせよ、まず必要なのは、その「不利益」の内容と、情報保持者のそれに対する感覚の把握、である。
 ここで、手段の選択のキーを「死」として考えたい。
 つまり、「不利益」が、情報保持者にとって「死」より恐ろしいものか否か、という点を論点の基準にする、という事だ。
 「死」の方が恐い場合、話さなければ「死」を与える、という事を理解させればよい。この場合有効なのは、無関係な相手の友人を半死半生にするか、或は、完全に赤の他人を殺す、というあたりであろうか。
 いうまでもないとは思うが、相手の性格によってはこの方法はかなり厄介な問題をうむので、その辺りは各自研究されたい。
 もう少し確実な線としては、本人を半死半生の目に遭わせる事である。ものの20回ほども繰り返せば、かたくなな神経も少しはほぐれるだろう。

 一方、「不利益」が「死」より恐い場合は、どうすべきであろう。
 まず、その「不利益」の内容を正確に把握している、と言う事を告げてやり、しかる後、守る旨を告げてやるのがよかろう。
 自らに理解し得ないものを理解した相手が、自らの身の安全を保証してくれる。
 このような思いにすがり、素直に情報を差し出す事だろう。
 その後は、実験に使うなり、奴隷にするなり、いくらでも使い道はある。

 とは書いたものの、大抵の場合、自らの「死」よりも恐いもの、というのはそう存在するものではない。
 その場合、いかに相手に「死」を感じさせるか、が、一つのポイントとなろう。
 こういった状況で、まず始めに取り除きたいのは、「俺は情報を握ってるから、殺される事はない」という考えである。
 確かに間違ってはいないのだが、ちょっとした揺さぶりで、この理知的な思考はたやすく失われる−行為が理知的に見えても実体はまったく知性が備わっていないという良い例だ−。
 この考えを壊す場合、「他にも情報源がいる」ように見せかけるか、あるいは「そこまでして情報は要らない」といった態度を取る。前者は「当人の価値」の誤認を導き、後者は「情報の価値」の誤認を導く。
 ある程度脅しをかけて通じない場合、まず確実に「俺は殺されない」という錯覚を最後の拠り所にしているので、確実に潰しておきたいものである。

 なお、最後に、実技的な事を少し書いて、この章の〆とする。
 基本的に、精神的な行為が、最も確実である。と言うのも、肉体にかけるダメージには限界がある上に、比較的耐えられやすい、と言う性質を持つ為、である
 肉体に何らかの行為を行う場合、慎重に行い、最小限のダメージで、最大限の苦痛を与える事を考えなくてはならない。
 腕を切り落とすより、指先を切り裂いた方が、後々まで苦痛である。
 肉を切り刻むより、骨を傷つける方が、より激しい痛みをうむ。
 又、肉体的苦痛は、比較的容易に「慣れ」が生じてしまう。そのため、常に与えつづけるのではなく、時間をあけた方がよい。

 古典的な攻めかたには、下記のようなものがある

・海老攻め
 手を後ろ手に縛り、足首を縛る。足首の紐を少し伸ばし、その紐で、首を縛る。
 背中が限界まで丸まり、海老のように見える事から、「海老攻め」と呼ばれる。
 比較的継続しても苦痛が慣れづらいのと、拘束できる、と言う点で興味深い。他の拷問の合間に使用するのが良いと思われる。

・火焙り
 火による火傷では、人間はなかなか死なない。又、後から苦痛と高熱を伴う為、処刑として優れ、又、ある程度拷問にも使える。
 火の領域の呪文にある程度熟達していれば、室内でも、何等問題無く出来るだろう。
 又、焼けた鉄などを相手に押し付け、肉体の一部を焼く、と言う方法もある。この場合、音と匂い、と言う、通常では難しい感覚に訴える事が出来る点が、興味深い。

・強制性交
 その気が無い時の性行為は、えてして、肉体的にも精神的にも苦痛である。
 なお、相手の性別によらず、ごつい男、というのが一番効果がある。いずれにしろ、「犯される」という、精神的恐怖を喚起する為だ。
 また、そういったものの亜流として、
・快感で縛り付ける
・性器(など)に、乱暴な行為を行う
 等がある。

・単純刺激による拷問
 比較的よくある方法としては、額に、
・一定間隔で水滴を落とす
・一定間隔で何かやわらかいものをぶつける
 等がある。なお、後者には、ブラックジャックがよく使用されている。
 大体、人が1呼吸するごとに1〜2回程度、の速度で良い。
 その刺激のみに精神が集中してしまい、間接的に、五感を遮断するような状況を作り出してしまう。
 ほおっておくと、狂い死にする。

・光源による拷問
 一つは、暗闇にほおりこむ。
 これによって、様々な幻覚を見、個人差によるところが大きいが、大体1〜3日以内に、精神に重大な支障をきたす。
 もう一つは、強力な光を見せつづける。
 効果に関しては、上記と似ている。

 読んでいくとわかる通り、いずれも、肉体的なダメージによる死へ、直接結び付いてはいない。が、被験者に死を連想させるには足るものである。
 このほかにも幾つかあるが、その辺りは、各自文献を当たっていただきたい。

 次の章では、罠と陰謀を中心に、効果的な魔法の使い方を模索したい。

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