#1023_01

『 "他人"という存在 』

他人の心は決して解らない。
だがら、多くの人がおそらくそうであるように、僕は時として他人の心に恐怖すら覚える。
緊張感の多くは対人的な問題から発生する。
他人の心が有るからこその緊張感というものである。
例えば、共演者も観客もいないとしたら、どんなに大きなステージたった一人で立ったところで、ほとんど緊張するようなことは無いであろう。
例えば、初対面の人物と対峙した時に、例えばそれが感情の無いロボットのような存在であれば、緊張して接する必要性も消え失せるはずである。

かつて僕は、他人に話しかけることが今以上に遙かに苦手であった。
小学生時代、自転車で友人と別の町を探検することが好きだった僕は、ある日の放課後、同級生のミウラ君と出かけた。
何処へ向かっていたかは覚えていないのだが、途中で僕らは目的地の方向がわからなくなってしまった。
その日はどちらかというと、僕が先立って自転車を漕いでいたこともあり、僕は誰かに道を訊ねるかどうか大いに迷ったのである。
その迷いは、見ず知らずの人に道を訊くことへの恐怖心や羞恥心から出たものである。
ミウラ君は違っていた。小学生ながら、彼には一点の迷いも無かった。
「ちょっと道訊いてくるよ。」と言い残し、彼は近くの駅前にいた駅員に、何のためらいもなく道を訊ねたのである。

僕はショックだった。

いつも同じ教室で勉強している卓球の上手いミウラ君が、とても大人に見えた。
ただ道を訊いて戻ってきただけなのに、さっきまでのミウラ君とは別人に思えた。
ショックを悟られまいと努めて平静を装う程度のことしか、僕には出来なかった。
小学生なりの僕の解釈はこうだった。
”他人(ヒト)は自分が思っている程には自分のことを(良くも悪くも)気にしていない”ということである。
恐れたり過剰に羞恥するべき存在ではないということである。
この些細で前向きな出来事は、その後の僕を小刻みながらも大きく変えたといえる。
ミウラ君のことも、おそらく僕の記憶から消えることはないだろう。

composed by mjn,1999.06-09

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