1998.8.10

 

上原訳『源氏物語』現代語訳抄

若紫巻

1北山に遊ぶ少女

 (光源氏は)瘧病みを患われて、いろいろと祈祷や、加持などしておさせになるのだが、効果があらわれず何度も発作をお起こしになったので、ある人が、「北山の某寺という所に効験あらたかな修行者がございます。去年の夏も世間に流行った病を人々がまじないあぐねた時に、たちどころに治してしまった例が多数ございました。こじらせますと、厄介ですから、早くお試しあそばすのがよいかと存じます」などと申し上げるので、お召しを遣わしたところ、「年老いて腰も曲がってしまい、室の外にも外出いたしておりません」と申したので、「しかたない。ごく内密に行こう」とおっしゃって、お供に親しい者四、五人ほどを連れて、まだ夜明け前にお出かけになった。

 やや山深く入った所であった。三月の晦日なので、京の花盛りはみな過ぎてしまっていたが、山の桜はまだ盛りで、山に入って行かれるにつれて、霞のかかった景色もなお趣深く見えるのだが、(なにより)このような山歩きはご経験がない、窮屈なご身分なので、とても珍しく思われなさるのであった。寺の有様も実にしんみりと趣が漂っている。峰高く、深い岩屋の中に、聖は分け入って暮らしていたのだった。お登りになって、誰ともお知らせなさらず、ひどく簡素な身なりをなさってはおられるものの、紛れもない(高貴な)方とわかるお姿なので、「ああ、恐れ多いことです。先日、お召しになった方でいらっしゃいましょうか。今は現世のことを考えておりませんでしたので、修験の方法も忘れておりますのに、どうしてこのようにわざわざお越しあそばしたのでしょう」と、驚き慌てながらも、にっこりしながら拝したのであった。まことに立派な大徳であった。しかるべき薬を作って、お呑ませ申し上げ、加持などして差し上げるうちに、日が高くなっていた。

 少し外に出て見渡しなさると、高い所なので、あちこち、僧坊などもはっきりと見下ろされる、ちょうどこのつづら折の道の下に、同じ小柴垣があって、きちんとめぐらせて、こぎれいな建物に、廊などが続いて、木立がとても風情あるのは、「どのような人が住んでいるものか」とお尋ねになると、お供である人が、「これは某の僧都が二年間籠もっております所でございます」「気遅れがするような人が住んでいる所のようだな。何とも粗末な身なりをしていたのであったな。聞きつけたら困るのだが」などとおっしゃった。美しそうな童女などが大勢出て来て、閼伽棚に水をお供えしたり、花を折ったりなどする所までも、はっきりと見える。「あそこに女がいる」「僧都はまさか女性などを囲って置かれまいに」「どのような女たちだろう」と口々に言う。下りて覗く者もいる。「きれいな女の子たちや、若い女房、童女などが見えるよ」などと言うのであった。

 

 人もおらず、何もすることがないので、夕暮のたいそう霞がかかっているのに紛れて、あの小柴垣の付近にお立ち出でになってみた。供人はお帰しになって、惟光朝臣とお覗きになると、ちょうどこの西面に仏を安置して勤行なさっているのは尼であった。簾を少し上げて、花を供えてあるようである。

 中の柱に寄り掛かって座り、脇息の上にお経を置いて、とても苦しそうに読経している尼君は、普通の出自の方とは見えない。「四十過ぎくらいだが、とても色白で品があり、痩せているものの、頬はふっくらとして、目もとの涼しさ、髪がきれいに切り揃えられている端なども、かえって長い髪よりも、この上なく現代的ではないのかな」と、感心して御覧になる。

 小綺麗な女房二人ほど、他には童女が出たり入ったりして遊んでいる。その中に、十歳ばかりかと見える、白い袿に、山吹襲などの、着ならしているのをまとって、駆けてきた女の子は、大勢見えた子供とは比べものにならぬほどたいそう将来が想像され、かわいらしげな姿である。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔はても赤くこすって立っている。「どうしたの。童女とけんかでもなさったの」と言って、尼君が見上げていると、少し似ているところがあるので、「尼君の子どもなのだろう」と御覧になる。「雀の子を、犬君が逃がしちゃったの。伏籠の中に、閉じ籠めていたのに」と言って、とても残念がっている。ここに座っていた女房は、「いつもの、うっかり者が、こんないたずらをして、叱られるなんて、ほんうに困ったことね。どこへ行ってしまったものか。だんだんにとてもかわいくなってきていましたものを。烏なんかが見つけたら大変だわ」と言って、立って行く。髪はゆったりととても長く、親しみのある女のようである。少納言の乳母とみなが呼んでいるのは、この子のご後見役なのだろう。

 尼君、「何とまあ、幼いことを。聞き分けもなくていらっしゃること。わたしがこのように今日明日ともと思われる命なのを、何ともお考えにならず、雀を追いかけていらっしゃるとは。罪を得ること、と、いつも申し上げていますのに。情けないこと」と言って、「こちらへ」と言うと、ちょこんと座った。

 顔つきがとてもかわいらしげで、眉のあたりがほんのりと美しく、子供らしく掻き上げた額や、髪の生え際は大変にかわいらしい。「成長して行く様子まで見守りたい子だなあ」と、見入ってしまいなさる。それと言うのも、「限りなく心を尽くし申し上げているあの方に、とてもよく似ているので、目が引きつけられてしまうのだ」と、思うにつけても涙が落ちてしまうのだった。

2光源氏の秘密

 藤壷の宮は、体調をお崩しになって、(宮中を)ご退出されていた。主上がお気にやまれ、ご心配申し上げていらっしゃるご様子を、(源氏は)まことにいたわしくお見守りなさいながらも、「せめてこのような機会に(宮に逢いたい)」と、魂も浮かれ出るように、どこかしこにもお出かけにならない。内裏にいても里邸にいても、昼間は所在なく深い物思いに沈んで、夕暮れになると王命婦をお責め続けになる。どのように手引したものであろうか、強引な形で逢瀬の時間を持っている時でさえ、(本人の源氏にすら)まさか現実とは思われもしないのは、なんとも切ないことである。

 宮も思いもしなかった出来事が自分の身にふりかかった事実の意味をお考えになることだけでも、生涯忘れることのできないご苦悩の種となるわけで、「せめてこれ一度の苦しみで終わりにしたいもの」と深く決心されるものの、とりわけ情けなく、ひどく切なそうなご様子でありながらも、優しくいじらしくもあり、かといって馴れ馴れしくなく奥ゆかしく気品のあるご態度でいらっしゃるのがやはり並の女人とは違っていらっしゃるので、(光源氏)「どうして、わずかばかりの欠点すら少しもお持ちでいらっしゃらないのだろう」と、切ないまでにお思いになられる。切ない思いをどこまでお話し申し上げきれようか。鞍馬の山にでも泊まりたそうなところだが、あいにくの短夜に、切なくかえって辛い逢瀬となったことであった。

「お逢いしても 再び逢うことの難しい夢のようなこの世(逢瀬)ですので 夢の中にそのまま消えてしまいたいほどのわが現し身であることだ」

 見てもまたあふよまれなる夢の中にやがて紛るるわが身ともがな

 と、涙にむせんでおられるご様子も、何ともいじらしくはあるものの、

 「世間の語り草として語り伝えられてしまうのではないでしょうか この上なく辛いこの現し身が (もしかしたら)覚めることのない夢の中のことであったとしても」

 世がたりに人や伝へむたぐひなくうき身を覚めぬ夢になしても

 ご苦悩になっておられる様子も、まこと(重大な罪を犯した)こととて恐れ多いことである。命婦の君がお直衣などは、取り集めて持って来る。

 お邸にお帰りになっても、泣き臥してお暮らしになった。(藤壺の、光源氏に対しての)お手紙にもご覧にならないことのみ記してあるだけのつれないものであるのはいつものこととは言いながら、すっかり茫然自失になられて、内裏にも参内せず、二、三日閉じ籠っていらっしゃるので、また、(帝は)「どうかしたのだろうか」と、ご心配あそばされているらしいのも、恐ろしいこととのみお思いになられる。

  本文は大島本を校訂した 『古典講読 源氏物語・大鏡』(角川書店・1998)によります。

Text By Sakukazu Uehara Copy right 1998(C)Allrights Reserved