注記、初出誌・古代文学研究会編「古代文学研究 第二次」09号 2000年10月19日発行に誤植補訂。

 高橋 亨・小嶋菜温子・土方洋一 著『物語の千年−源氏物語と日本文化』

 本書は、一九八〇年代以降の『源氏物語』研究にエポックを画してきた三人の物語研究者の鼎談集である。こうした座談を中心に据えた『源氏』の企画物の書物としては、丸谷才一・大野晋の『光源氏の物語』、瀬戸内寂聴『十人十色、源氏はおもしろい』などがあって、それらの書物からも数々の示唆を得てきた私ではあるけれども、いわゆる純粋な研究者どうしの一冊の書物ということに限定すれば、もはや私にも記憶がなく、そうした意味においては画期的かつ斬新な企画出版物ということになるだろう。

 こうした、出版物の場合、互いに共通した学問的基盤がベースにあることが、まず必須の条件であり、そうした前提の上に、際立った研究方法やスタンスの差異をそれぞれが兼ね備えていて、かつそのエキスパートでなくてはまったく意味をなさない。そうした意味で、三人ともに時差があるにせよ、おなじ大学院に在籍し、稀代の源氏学の泰斗にして名伯楽に師事していたという共通項は、本書を読む上で欠くことのできないキーワードである、とあえて記しておこう。なぜなら、本書には、相互の確かな信頼感と尊敬の念が底流に貫かれ、また互いの研究の進捗状況が極めて精確に踏まえられた発言で終始一貫していることが挙げられるからである。というのも、こうした学問的土壌というものは、それぞれよく知られるように御三方の温厚篤実な人柄が前提としてあるにせよ、むしろ学生時代のリベラルな雰囲気を如実に反映しているといってよく、九〇年代、やや時代がかった厳格な徒弟制度下に育った私には、同門でこの企画を実現させることは100k不可能であるからこそ、なおさらこの事実を羨望をもって記しおかずにはいられないのである 注@。

 本書を読んでいると、研究発表と質疑応答のみならず、研究会後の座談もまた貴重な勉強時間であることを痛感させられるのは私だけではあるまい。それぞれ、研究者としてのキャリアも四半世紀を数え、硬軟織り交ぜた広汎な読書量と、貪欲な知的好奇心がミックスされた、肩のこらない話柄を枕に話は切り出されはするものの、周到に本題に向って話題が展開されるという構成は巧みである。くわえて、それぞれの教壇での楽しい講義の一齣も垣間見ることの出来る、いわば、それぞれの物語学の薀蓄がぎゅう詰めに詰められた書物となっているということが出来よう。

 逆に読者としての私からすれば、常に柔軟な思考と斬新な世界解釈の要求される知的生産を生業とする者として本書に接する時、この書物は、いわば研究者のための自己の存在確認と、自己の位置を再確認することができる書物であるということになるのではなかろうか。なぜなら、今の私には、《モノ》を知らない《物―語》研究者ほど、欺瞞に満ちた存在はないと思えて仕方ないからである。私じしん、研究会活動に従事する以上、自分よりもモノ知りと接触することが出来なければ、その活動は無意味であると考えているが、自分の《専門》とするテクストですら貪欲に知ろうとしない、そんな研究会構成者に失望することがないわけではない。これは私が気づかぬうちに無駄に馬齢を重ねたが故の驕りなのか、例の学力低下が研究分野にまで侵食してきたのかは詳らかではない。しかしながら、本書の話題の多岐多方面での展開は、自身の不勉強を謙虚に恥じることの出来る爽快さを持っている。これは私にとって、ある山を超えたあとの虚脱感の中で見つけた、オアシスのようなものであったと言い換えても良いのかもしれない。

  駄弁を弄した。本書の構成をたどりながら、内容のいったんを紹介したい。

 1章 みやびとスキャンダル 2章 物語のコスモロジー 3章 恋はなぜくりかえし描    かれるのか 4章 語り・敬語・差別 5章 記号としての自然 6章 セクシャリテイの物語学 7章 歴史という物語 8章 千年の往還、

 これらのテーマは、三人の研究の、その中核と最前線とを構成する三つの輪を繋ぐキーワードともなっている。したがって、それぞれの話題の分析方法や解釈に、欲求不満や理解の及ばないところが生じた場合には、テクストや文学史的テーマに関する注釈として座談の間に施注され、それぞれ独自の見解を敷衍する場合には、巻末に紹介された関連する著作群に戻ることで、それらの多くは解消されるという編成がなされている。

 読者諸賢はお気付きだろうか?座談の間に施注された注の意味は、中世古注を二〇〇〇年の現代において視覚化したものであると同時に、もののけの言説となってもいると言うことを。つまり、語られた学説にくわえて、異なる文体である書記言語で傍書化された学説が、重層化されると同時に微妙な差異を生み出すことで、語られた言説がスタティックに膠着化されない構造をもたらしているとも言えよう。 

 例えば、その真骨頂のひとつ、「もののけ」についてはこのように重層化して書かれている。

 高橋 …略…だから物語のコスモロジーを創成する想像力の原型は、僕の好みでいえば「もののけ」の想像力ということになるんだと思います。

  ▼「もののけ」は、正体不明な霊や魂の「気」。異界と現実の境界領域を往生できずにさまよう遊離魂で、霊媒や人にとり憑いたり離れたりする…略… 2章 77

 小嶋 …略…ただ、非現実的・非肉体的な意味での身体が『源氏物語』の身体記号だと思うものの、もっと実体的なところでこぼれ落ちるものもあるのではないか。たとえば、「もののけ」はどう考えるかということですね。

  ▼「もののけ(物の怪)」は、病気の人や心のすきまに入りこむ邪鬼と考えられていた。『源氏物語』では六条御息所に憑依した例が有名。ただの心霊現象でなく、肉体的な現象でもあるところが、より生々しい。もののけはその意味で、平安の貴族社会における身体の不安の表象であったといえる。 6章 173

 もちろん、物語総体を把握するための、方法としての「もののけ」と、身体記号としての「物の怪」の施注には差異があってしかるべきだが、相互理解によって見解の基本軸がしっかりと据えられていることは明らかなはずである。したがって、私達はこうした多義的な言説のたわむれの中に、物語という広大な宇宙の世界解釈を自分なりに再構築するための指針として、これらの差異をむしろ積極的に読んでゆく必要があるわけだ。

 物語を読むことの意義については、こんな発言も見逃してはならない。

 小嶋 …略…『源氏物語』の表現に即しての解釈でありテクスト批評でありつつ、社会的な多様なイデオロギーに対する自らのスタンスを鮮明にしていければと考えているわけです。敬語や差別の問題を考えるなら、どうしてもそういう視座をあわせもつ必要はあるのではないかしら。

 よくいわれることですが、語り手の視点を通して、何らかのバイアスがかかった世界として物語は読者に提供されている。そしてさらにその外側に、書く主体は隠れている。私たちは読み手と書き手との隔たりは、はなはだしいものであって、モラルとかシンパシーとかの交換も簡単にいかないのがあたりまえですね。でも、そこを何とかなしとげたいというのが、大きな声ではいえませんが(笑)、私の物語批評の本当の願いです。4133 

この発言は、すでに『源氏物語批評』、『かぐや姫幻想』(ともに1995年)、『王朝の性と身体』(1996年)以降繰り返し実践され、今後も継続されつづけるであろうけれども、文学を通して何ができるのか、という真摯な問いかけには何人も心打たれるものがあるだろう。

 私は、文学が今の時代に何が出来るか、という命題について考えると、その無力感に苛まれることがある。しかしながら、こうした心を病んだ若者の、とりわけ少年事件の続発する今日だからこそ、文学を通して、歴史を再認識し、人間存在の根源的な意味を考えて見ることが必要とされているのではないだろうか。

 松田聖子とダイアナ元皇太子妃の物語から語り起された、『物語の千年』は、三島由紀夫の『豊饒の海』をダイナミックに辿り返す発言で、クライマックスを迎えることになる。

  土方 三島の『豊饒の海』は、日本文学史をたどりなおす試みではないかと僕はひそかに思っています。『春の雪』は王朝で、『奔馬』は中世の軍記もの、『暁の寺』は人情本的な近世小説(笑)、最後の『天人五衰』はアイデンテイテイそのものが危機にさらされる、近代小説の世界。そんなふうに日本文学史をたどりかえしてきて、オレで終わりだといって死んだのではないかという見方なんだけど。          8 249 

  土方氏の慧眼に何度か蒙を啓かれてきた私も、この言説にはただ驚嘆せざるを得なかった。「小さな物語」から「大きな物語」へという世界解釈の方法は、たんに新歴史主義の旗の下にあるのでなく、あらゆる物語に普遍化できるということの示唆なのである。総ての物語は、史と思想とをバイアスとすることによって、普遍的な分析が可能ということになるからである。

 そこで、いささか逆説的なレトリックになるが、私なりに本書の物語研究史上の位置を俯瞰して筆を擱くこととしよう。『豊饒の海』末尾、月修寺を尋ねる、癌に侵された本田繁邦(=薫の分身)が、門跡となった綾倉聡子(=浮舟の分身)によって、繁邦の青春の記憶そのものが夢の中の出来事として葬り去られた、その夏の終りに、三島由紀夫という夢物語も文学史的終焉を迎えたとするならば、今年、つまり西暦二〇〇〇年のミレニアムというトポスは、物語文学史上の、物語の収穫の「秋」であったのか、はたまた「厳冬」の時代であったというべきか。

 私には、三島由紀夫没後の物語文学史は、『源氏物語』によって何度目かの転生をとげ、稔りの秋を迎えていると信じたいのである。本書の、各人によって綴られた後記にも、やはり稔りある新世紀が展望されている。だとすれば、物語文学史の「秋」を生きる私達は、まだすこし文学青年でいるための「読書の秋」という季節もまた保証されている、ということにもなると考えるのは、あまりにも我田引水な読み方なのであろうか。

 注@ 私は、これが五年前の私であったなら、このコンテクストは省筆していたはずである。ただ時は流れたのであろうか。

(高橋 亨・小嶋菜温子・土方洋一 著『物語の千年−源氏物語と日本文化』森話社、2800円+税、1999年11月15日発行)