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「和泉での二年間を振り返って」     森下由夏子

この大学に入る事が決まり、決まってから入学するまでの時期を思い出す。いろいろと心配したものだった。3年という年の差の中で、私はどんな大学生活を送るのだろうか。いや、そんなことは考えずに今度こそ、真面目に勉学に励まなければいけない…などと、心の底から考えていた。一つ目の大学では友達はたくさん出来たものの、授業もろくに出席せずに、そのまま辞めてしまったし、二つ目の大学ではしっかり授業も出て単位も取ったものの、結局続けずに今の大学へ来てしまった。今度こそこのチャンスを無駄にせずに、今までのロスを埋めるためにも、気持ちを引き締めて真面目に勉強に取り組まなければ。そう誓った。

あれから、早くも二年経ってしまった。時の経つのは、本当に早い。そして改めてこの二年を振り返ってみると、そんな誓いを立てた自分が居たような、居ないような…とてもとても、遠い過去のような気さえしてくる。

この二年間、本当にあっという間だったが、綿密には一年目と二年目でずいぶんいろいろなことが変わったように思う。簡単に言うと、「慣れ」だ。二年目はかなりこの学校に慣れてきた。そして、始めは心配していた、いや正直に言えばかなり気にしていた年の差を忘れるほど、私はこの和泉での生活になじんでいた。私は、中高一貫教育の学校で6年間通してバスケットボール部に所属していたため、年の差をどうしても当時の部活内の「階級」と重ねて考えてしまう。良くある事かもしれないが、例えば三歳年下と言うと、私がクラブ内で年長だった時ちょうど一緒に試合に試合に出られない年代、と言うように考えてしまう。だからその年の差を越えてなじむ事は、当初、到底無理、または非常に難しい事のように思われたのだ。

しかし実際は、そんな心配はまったく必要無かったようだった。一年目は、今考えるとまだまだ自分だけ気にして、突っ張っていたような気がする。あれはコンプレックスだろうか。仲間とも、一線置いて付き合っていたかもしれない。しかし先も述べたように、二年目にもなると、環境に対する「慣れ」や根っこが環境にしっかりと植わったような安堵感が生まれて、ずいぶんと気持ちが楽になり、生活も非常に楽しくなった。また二年目には授業のない日が一年目よりも多く、自分の時間が増えたことも喜ばしい事だった。そして、結果的に来なければならない日も来ていないことが増えてしまったことも事実だ。

一番今でも悔いている事がある。今年度の前期の終わり、試験期間の事だった。出欠を取ず、レポートの提出と試験だけで成績を決める授業があった。私はその授業を取り、はじめはこまめに出席していた。しかし、だんだんと先生の話が毎回子守唄に聞えるようになってからは出る回数が減っていき、前期の真中あたりでは、決まってその授業の時間は帰宅していた。しかし、試験の日程やレポートの事はいつも気にかけていたので、試験期間になったとき、掲示板を見たがその授業についての情報は何も見あたらなかった。そこで同じ授業を取る友人に試験の事を聞いてみると、既に試験は終わったと言われ、とてもショックを受けた。やはり過去に大学を二つも放り投げてしまった十字架を背負っているので、心の片隅のどこかでは「真面目に生きなければ」と思っているのだろう。その日は本当にショックが大きかった。

そうこうしていると、和泉に来てから二度目の夏休みも終わり、後期も始まったと思うと、今度は交通事故に遭い、生まれてはじめて入院すると言う事になってしまった。自分でもびっくりである。入院すると、病欠になり授業を休んでも欠席扱いは免れるため、友人などは「気にしなくていいから気が楽だろう」と私に言ったが、とんでもない、その逆だった。普段、寝坊などで学校に行きそびれてしまう時などは、起きると既に昼だったり、ひどい時は夕方だったりするため、悔やんでもその日の予定は終わってしまっている事がほとんどである。しかし病院では、朝は6時にきっちり起こされ、7時には朝食。入院してからはじめの五日間は絶対安静を命じられた私は、起きて何か出来るわけでもなかったため、退屈である。その上、安静が続くに連れてひどくなる一方の肩こりと腰痛。退屈なため時計を見ると、「今ごろは…」と大学のことを考えてしまうのだ。だから、いくら病欠と言えど、非常に精神衛生上良くない欠席であった。

このように、私の和泉での二年間は当初心に固く誓った模範的大学生活は、その「摸」の字をかすめる事も出来ずにそろそろ終わりを迎えようとしている。しかし、このまま「可」で成績表が埋まるのはあまりにも納得しがたいので、最後のチャンスの試験に向けて勉学に励み、「真面目に過ごした」と無理にでも思えるようにして、和泉を後にしたいと思っている。来年、一週間の内の一日でもこちらへ戻って来ることのないよう、きちんと和泉校舎と手を切るつもりで試験に臨もうと思う。

和泉の二年間で得たもの   山本真理

私が大学生になって、早いものでもう二年がたとうとしています。ついこの間入学式だったような気がしますが、確実に、あれから二年弱がたっています 。

しかし、わたしはこの二年間いったい何をしていたのか、と考えてみると、いまひとつ、何をしていたのか、よく分からないような、しかし、色々な事があったような、はっきりしない気がします。

そこで、私が大学二年間であったことをいくつか思い返してみることにします。

まず、私が大学生になって一人暮しをはじめ、それまでの生活と大きくかわったことといえば、食事のことです。

実家にいた間は、親が食事をつくったり、食料を買ってきてくれていたので 、まったく食べるものに気を使うことはありませんでした。

それが、一人暮しをするようになったとたんに、すべて自分でやらなければならなくなりました。当然のことですが、自分で買ってこないかぎり、家の中に何も食べるものがないのです。(もちろんお菓子であっても。)

それでも最初は、四月病(年度始めの四月にだけやたらとやる気がある病気)にかかっていたらしく、自炊をしよう、などとしていました。自炊する、といっても、私は米があまり好きではないので、自炊の代名詞であるような炊飯器を買わなかったので、食パンを焼くか、マカロニ類をゆでるかしていたのですが、作って食べた後の後片付けが嫌になったので、長続きしませんでした。

そして、そのあとは、毎日のように外食か、コンビニ弁当のようなものを食べていたわけですが、これをすると食費がかさむ上に、毎日同じようなものしかたべないので、飽きてきました。

そこでつぎに、食費をきりつめてやろうとおもい、加えて、人間はどの程度食べなくても大丈夫なのか実験をしようとおもい、あまり食べなくしてみました。

しかしこれをやりすぎると、胃がおかしくなるらしく、非常に不健康なことがわかりました。

このようにして、わたしは、食費をできるだけおさえることと、健康であることの、自分としての境界線を知ることができました。

食べ物の事ばかり書いても不毛な気がしますので、次は、本来大学生活のメインであるべき授業のことについて触れることにします。

一年生の四月にまずやったことは、シラバスを読み、とる授業を決めることでした。

はじめは、やはり四月病だったらしく、面白そうな授業をとろうか、などとおもっていたのですが、「履修王」などを見ていたりするうちに、すぐに考え直し、なるべく単位が取れ安そうな授業で、1限をなるべくさけることにしました。

どうもこうすると、やる気が感じられないようにおもわれますが(実際そうなんですが)、しかし、これは正しい選択だったとおもいます。

どうせやる気があるのは、四月病のせいなので、硬い選択をしているとあとで痛い目に合うことになりそうだからです。

このことは、二年生のはじめに、1年の単位をいくつか落とした知り合いが 、同じことを言って、簡単そうなのにしておけば良かった、と嘆いていたので、どうやら本当みたいです。

しかし、良く考えてみると、私は1年の授業は楽なことを優先で選びましたが、二年では役に立ちそうかどうかで選んだようにおもいます。

せっかく大学にいるのだから、すこしは勉強しようと当時思っていたらしいのですが、その二年が終わる今、かんがえてみると、やはりなにも頭にのこって

いないようなきがします。

話がずれましたが、わたしは、授業や定期試験を通して、要領のよさというものがすこし身についたことは確かだと思います。

思うに、これから、残りの大学生活を送る上でも、そしてその後もことを考えてみても、要領良くやっていくことは大切です。

そこで、わたしは、それをもっと身につけることができるように、これからしたいとおもいます。

和泉の二年間で学んだこと

栗原 幸夫

 和泉の二年間で、今まで以上に自分のことがわかってきた。一人暮しをしてわかったこと、大学生活の中でわかったこと、そして、部活の中でわかったこと。一言でいうと、自分は『意外に情けない奴』だった。今までは、自分の事を、『結構、周りに気を配れる奴』だと多少は思っていた。でも、練習中、疲れている時、周りを見られない。自分の事だけで精一杯になってしまう。自分に余裕のある時にだけで、切羽詰まった状態の時に何もできないのでは意味がない。それに、いつのまにか練習をこなすだけになっていた。努力をしなくなった。高校の時もそうだった。中学のころは何もしなくても、勉強や運動は十分にできた。(塾に通っていたから、勉強はしていた。でも、自分の中では努力ではない)そのまま、高校にいってしまい、成績はどんどん下がって、野球部でも、結局はスタメン落ち。振り返ると、努力の形跡がない。また同じ事を繰り返すのか。1年の時は、先輩のすべてを盗もうとしていたし、努力も今よりは確実にしていた。高校の時と同じ思いはしたくなかったから。でも、いつのまにかやらなくなっていた。いろいろ理由はあるけれど、言い訳はしたくない。私生活でも、部屋が片付いてなかったり、はじめの理想と大違い。自分の中には、しっかりとした理想があって、それに近づこうとしているけど、途中で妥協している自分がいる。妥協するのは悪くはない。自分で納得した妥協なら。でも、多分違う。前から気付いていたが、「自分が『意志の弱い奴』なんだなぁ」と実感する。しかも、カッコ悪いことに、たまに、過去にこだわることがある。過去にこだわっても何にもならない。今の自分と向き合わなければならないはずだ。

 一つだけいえるのは、以上にあげた『情けない奴』を変える環境が、周りに揃っているということだ。上級生になるのだから、常に周りに気を配っていなければならないし、上手くなるための努力をしなければならない。下級生を意識していれば、自然と『意志の強い奴』になっていけるはずだ。

 今、「二年間何をやっていたんだろう。」と思うことがあるが、よく考えれば、十分な事をやっていた。なんとなく二年過ぎたけど、実は充実していたのかもしれない。この二年間で培ってきたものは、形として表れるものではないから、振り返ってみる機会がないと、自分でも気付かない。これからの自分次第で、自分を成長させられる。今は、その確信を持てるだけで十分だと思う。

和泉での2年間

児玉大介

 明治大学に入学しておよそ2年が経とうとしている。今思うと、短かった気もするし、長かったようにも思える。今年の単位を大体取れれば、もう和泉には来ることもない。そう思うと、なんとなく寂しい気もする。

 入学したばかりの頃、自分の中には「大学って休みがたくさんあって、朝寝坊ができる」というような、ある種の先入観があった。しかし、実際は週6日大学に来なくてはならなくて、「これでは、高校のときの方がましだ」と思ったくらいだった。そのせいでもあるのか、1年の前期は自主休講することが多々あり、語学の先生から「次休んだらテスト受けられないよ」、と言われたほどだった。それからは真面目に授業にでた。その後、いろいろな友達と話すようになった。真面目に授業に出でいなかったのが、なんか馬鹿らしく思えてきた。真面目に学校に行かなかった時、たとえ授業に出たとしても、授業が終わればそのまま帰っていたのに、「飯、一緒に食おうよ。」とか「今から呑みに行かない?」、と言われると必ず付いて行った。こんな風に誘ってくれることがすごくうれしかった。自分には中学、高校とあまり友達は多くなかった。だから、何かクダラナイ事でも、ある意味「バカ」になって一緒に騒いだりできる友達がいたらな、と思っていた。大学でそんな友達と出会えてとてもうれしかった。そんな中、クラスの友達が海外留学するという。だからみんなで送別会をやることになった。その友達とはイングリシュセミナーが同じだということもあって、快く送別してあげたいと思ていた。2年前の自分なら、絶対断っていたのに不思議だ。今、私の親友が、チェコに留学している。今年の10月に留学して、連絡する、とか言っておきながら未だ連絡が来ない。そしてつい最近やっと連絡がきた。携帯に17桁位の電話番号で見たときには「何だこれは」と思ってでてみると、彼だった。そして、でた時に思ったのが「あー、彼らしいな。」だった。何故、そう思ったのか分からなかった。彼は今年の2月にいったん帰国する、と言っていた。そんなことが重なったのだろうか、送別会を熱いものにしたい、と思った。大学に入って、こんなにいい仲間に出会えて、本当によかった。

 最後に明治大学に入って2年、もう和泉に来なくていいと思うととても嬉しい。単位を落とさないよう頑張るぞ。高校のときは、何か周りに流されるまま、志望動機も適当なまま、推薦を受けた。これからは、その時のようにはいかない。あと2年ある、いやあと2年しかない、と思って、この2年間、何をしたいのか、何ができるのか、何をすべきなのかをよく考え、自分が後悔しないように自分の進む道を見つけたいと思う。

「和泉での二年間で得たもの・・・」   黒澤邦良

 和泉校舎での二年間???まだ終わったわけではないが、今こうして思い返して思い返してみると、ほんとうにあっという間であった。早い、早いとよく聞いていた大学生活ではあったが、自分で実際に経験してみると、ほんとうにその通りであると思った。入学式のあと、学生証をもらいに和泉校舎に来たのが、ほんとうについ昨日のようだ。思えば和泉校舎での二年間は、サークルの勧誘、そして新歓コンパで始まりを迎えた。まだ酒の「さ」の字もわからなかったあの時の私にとって、あの新歓コンパでの明大生の酒との付き合い方はある意味、いままでで一番のカルチャアショックだった。毎回自分の許容範囲をはるかに超えた量を飲み、一気なんてあたりまえ、こんな人たちを前に、その時は少しやだなあ、とさえ思っていた。それから2年後、この前の忘年会での自分・・・「ビンだービンだ〜・・・」の掛け声でビンビールを一気してい

る自分。迷いはない。というより、むしろそんなことしてる自分がなんとなく誇らしげに思えている。和泉での二年間で得たもので、まず真っ先に挙げられるのがこれだろう。これは私だけではなくて、他の多くの明大生にあてはまるはずである。ほんとにこれは意識しないで、気付いたら、こうなっている。これがいい事なのか、悪い事なのか、それは人によって異なると思うが、個人的にはよかったと思っている。そして、そんな新歓コンパの時期が終わりになるころ、私は免許を取りに教習所に通っていた。和泉で得たもの、二つ目は、「免許」だ。私は教習期間は一ヶ月ほどですんなり免許が取れたので、教習所自体に思い出はないが、取る時よりも取った後、自分で車を運転できるようになったことは、とても大きな出来事だった。車はまず、運転すること自体がおもしろかった。その不思議な魅力で、取立てのころは、私は意味もなく夜中に車を乗り回したり、友達の家にいったり、そして旅行に行ったりと、おかげで、東京23区内の道はほとんど覚え、今では地図なしで東京は運転できる。最近では、友達と車で温泉に行ったりすることが日々の生活の楽しみの一つである。それから、車の免許をとってから、今まであまり聞かなかった音楽というものに興味を持ち始めるようになった。特に洋楽、この「洋楽の知識」も和泉で得たものの一つであると思う。きっかけは、車を運転している時に、せっかくだから自分の好きな音楽をかけたいな、という、ドライバーなら誰でも考えるような事だったが、洋楽はジャンルやアーティストの数も多く色々知ったとしても、まだまだ他にも自分の知らないことが出てきて、どんどんはまっていった。音楽の聴き方は人それぞれで、曲のメロディーを重視する人、詞を重視する人<このタイプは曲の詞がパッと入ってこないので、あまり洋楽は聴かない>、音の大きさ、スピード・・・などあるが、私はどちらかというと、歌の詞はあまり聴かずに、メロディーやインパクトで音楽を聴くタイプなので、そういった意味で、よりインパクトの強い洋楽を好むようになった。最初は何もわからなかったので、とりあえずCD屋で試聴してみたり、よさそうなCDはないか友達に聞いたり、それにTSUTAYAで借りたりもした。そうしている内に、自分の好きなアーティストやジャンルなども固まってくるので、後はそのCDを買ったりする。大学入学当時はほとんどゼロに近かったCDの数も、いまでは30枚近くにまでなった。大体洋楽ならば、ロック系のものからR&Bまで幅広く聴くので、特定のジャンルが好きというのはないが、最近は、ジャネットジャクソンなんていいかなあ、と思っている。それにしても、ちょっと2年前まではそういった知識がゼロだったことを考えると、感慨深いものがある。あらためて、この2年という時の長さを感じてしまう。

 と、このようにちょっと考えただけでも、こんなにたくさんのことが考え付く。他にも海外旅行に行ったり、この校舎でできた友達など、挙げればきりがないほど出てくる。逆にそれだけたくさんの経験をしてきたからこそ、この2年間が、ほんとうにあっという間に過ぎたともいえる。まだ人生先は長いが、この一見早いように思える2年間での経験は30代、40代になったときの4年、6年分の経験に匹敵するものだろう。今の時の流れはこの先の人生の何倍分もの価値があると考えると、改めてこの時期の過ごし方を考えさせられる。そういった意味では、和泉での二年間で得たものはまあそれなりの価値があったといえる。2年で4年分も6年分もかかるものを手に入れたといえるかもしれない。しかし大切なことはまだここから先もう二年あるということだと思う。就職や卒業など大きな出来事がまだ自分には待っている。そういった中で、この和泉での2年間を土台にして、この先の10年、20年分かかっても手に入れられないようなものを手にしていきたいと思う。

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