清泉女子大学受講生のページへ    平安時代の化粧              大橋 令奈  日本語日本文学科2年 98001015

   平安時代の化粧              大橋 令奈  日本語日本文学科2年 98001015

         

私は平安時代の化粧について調べました。平安時代の基本的な化粧。化粧はもともと神事などの晴の日にられていました。人間の心が神々の霊に通じるためには、平常とは違った心理状態にならなければならず、そのためには、化粧は欠く事の出来ないものでした。それがやがて、日常の身だしなみとして美容に定着していったのです。平安時代の基本化粧は、1油綿、2眉墨、3白きもの、4紅、5歯黒め、の五つでした。「油綿」は昔、香油を浸しておき、髪につけるのに用いた綿のことです。「眉墨」とは、眉を墨でかくことです。また、その眉、また、墨でかいた眉のことをいいます。まゆかきともいいます。「引眉」とは、眉毛を抜いたり、そったりして、その後で眉墨で描いた眉のことをいい、また濃く見せるために眉毛の上をなぞり描いた眉のことです。つくりまゆ、まよびき、ひきまゆげ、ひきまみえともいいます。「青眉」とは、昔、結婚した女性は眉毛をそりおとしていましたがその様子を表すためのものです。女子は年頃になると眉毛を毛抜きで抜き、眉墨で眉をかきました。剃った眉あとを青眉といいました。眉墨は黛とも書きますが、これは、黒色の墨でかいて、眉毛に代えるという意です。眉型は奈良時代には細く三日月型に引いたようですが、平安時代のころはもっと太くなり、鎌倉初期にさらに、太くなりました。鳥羽院の頃からは公卿までが、女のように描き眉や歯黒めをするようになり、近世では、男女、年齢、凶事、その他に応じ、棒眉、横眉、横眉は天井眉ともいいます。鶯眉、みかづき眉、わすれ眉、霞眉、岸立眉、唐眉、雲分眉など、眉の描き方がきわめて複雑になりました。描き方が寝崩れるのを、「乱る」といい、毎朝必ず鏡を見たといいます。眉作りは、男は右、女房は左から作り始めるとされていました。左の絵を見て下さい。眉墨をつけている絵です。「白粉」とは、「御白い」の意です。白粉とは、顔や肌に塗って色白に美しく見せる化粧料の事で、粉白粉、水白粉、練り白粉、紙白粉などの種類があります。日本では、持統天皇六年に、観成が唐にならって、初めて鉛で作ったと伝えられています。古くは鉛を焼いたりモチゴメの粉末を用いたこともありますが、平安時代には水銀製のものである伊勢白粉も現れました。「白粉」はしろいもの、はふにともいいます。

「紅」とは、

1、紅花の花弁に含まれる色素から製した鮮紅色の顔料のことで、染料や頬紅、口紅など化粧品の原料としており、食品の着色などに用います。

2、1に白粉に混ぜ合わせたものをいいます。頬紅、ももいろおしろいともいいます。

3、口紅のこと。古くは猪、皿、茶碗などに塗り付けたものを、指や筆で溶いて用いました。平安時代ではすでに、紅には口紅と頬紅があり、「口脂」「面脂」と記しています。銀製の紅皿にいれて保存しました。濃く塗ると玉虫色に青光りするので、「玉虫光りの口紅も、ほんのりとさす薄桜」式が上手とされていました。「歯黒」とは、歯を黒く染めるのに用いられる液のことで、鉄くずなどを、茶、かゆなどを加えて発酵させて作ります。主成分は酢酸第一鉄で、酸化をうけてタンニン分と結合して、黒くなります。はぐろがね、はぐろみ、はぐろ、おはぐろ、かねともいいます。「歯黒皿」とは、歯黒をつけるとき、液のしたたりを受ける皿のことです。

はぐろざらともいいます。「歯黒壷」は、歯黒を入れておく壷のことです。はぐろつぼともいいます。「歯黒筆」とは、歯黒をつけるときに、用いる筆のことです。

おはぐろふでともいいます。歯黒めの時期は、平安時代ではおよそ、女子が十二、三歳のころで、まだ形式ばったものではありませんでした。しかし、室町時代には礼式化されます。時期は九歳、十三才、十七歳、または結納、嫁入り、妊娠の折など、そして広く既婚者の標示となります。

次に宇津保物語における「化粧」の描写についてです。まず「化粧」を日本国語大辞典でひいてみると、白粉や、紅などをつけて顔などを美しくみせるようにすること。とあり、つくり、けわいともいうとあります。宇津保物語において「化粧」という言葉がでてくるのは次の三つです。A、相撲の節会と御賄の事。これは、初秋の153ページです。B、仲忠、先祖の遺文を天覧に供す。これは蔵開中の249ページです。C、仲忠、石作寺参篭と宰相君母との邂逅。これは楼上上の365ページです。

<A>かくて相撲の節、明日になりて、内裏にいとかしこく賄にあたり給へる御

息所、(更衣)たちとまうのぼり給ふべきことを思しつつ、手つくしたる御化粧

をしおはします。その相撲の日、仁壽殿にてなむきこしめしける。

この訳は次のようになります。

このようにして、相撲の節は明日となって、内裏にたいそう盛大に準備する

役についていらっしゃる御息所(更衣)たちと、参上しなさることをお思いに

なりながら、(御息所や更衣達は)ある限りの御化粧をしていらっしゃいます。

このAの場面では、顔化粧をしています。誰がというと、御息所と更衣です。どういう化粧かというと、考えられる豪華な御化粧です。何のためにかというと、明日の相撲の節のためにです。

次は、Bの蔵開中です。

<B>かくて、一二日ありて、大将殿、内裏の仰せられし文ども持たせて参り給

ひて、その由奏せさせ給ふ。帝「此の朝臣に見ゆるこそ恥かしけれ。警策

に心憎くて、見るに神さびたる翁にて見ゆれば、女一の御子の面伏也や」

との給うて、うち化粧し給ひて、晝(ひ)の御座におはしまして、召し入

れて「いづを」との給へば、沈の文箱一具、淺香の小唐櫃一具、蘇枋の大

いなる一具持て参れり。

このBの訳は次の通りになります。

このようにして、一二日たって、仲忠は帝の仰せられた先祖の文書を持たせて

参内し、その趣を奏上おさせになる。帝「この朝臣(仲忠)に見られる事は特

別恥かしい。性格的に勝れていて心憎いほどだのに、見かけたところ私は古め

かしい翁に見えるから、女一宮の御子の面目潰しだな。(これが父親かと軽蔑

されたら宮に気の毒だ。)とおっしゃって御化粧しなさって、帝の常御殿であ

る清涼殿の内の、起居せられる御座所にいらっしゃって、仲忠を御座所近く御

召入れになって「本はどこにあるのか」と仰せられると、沈の手紙の入ってい

る箱一つ、浅香の小唐櫃を一つ、蘇枋の大きいのを一つ持って参上した。

この場面では顔化粧をしています。誰がというと、帝です。なんのためにかと

いうと、自分が古めかしい翁に見られて、娘の女一宮が仲忠に面目を失わない

ようにです。

次はCの楼上上の場面です。

<C>大ととこの御堂の内より来ためれば、乳母なるべし、さようのおとなお

となしき声にて「此君の御事、よかむべく祈り給へや。親におはする殿に知ら

れ給へと申給へと、いと心苦しうなむ思し歎くをみ奉る」などいふ。「逢期

あるにやあらん、あはれなる事なりや。親子と見ず知らざらむよ。誰ならん」

と聞き給ふほどに、八九ばかりなる男子、髪もよぼろばかりにて掻練、濃き

袿一襲、櫻の直衣のいたうなれ綻びたるを着て、白う美しげにあてにうつくし

げなる、けさうのもなく唯見に立出でて、外の方に立ちたり。よう見給へば、

宮君の顔に似たり。

このCの訳は次の通りになります。

大徳が御堂の内から来たらしく、乳母らしい大人っぽい声で「此君の御事を

宜しいようにお祈り下さい。親でいらっしゃる殿に知られますようにお願い

申と、主が大層心苦しそうに嘆くのを、私(乳母)は御見上げするに忍びない

のです。」などという。仲忠は「会う機会があるだろうか、可愛そうに。親も

子も知らずにいる事よ。(親というのは)誰だろう。」申し上げなさるあいだに、

八つ九つぐらいの男の子で、髪が膝の後ろの窪みくらいまであり、掻練、(掻練

とは、灰汁などで煮て糊を落とし、柔らかくした絹のことです。)濃い袿、

(袿とは、男子が単衣の上に着た平常服の事です。)が着慣れて柔らかくなり、

縫い目がとけているのを着て、白く美しく上品で美しい、化粧もしないでただ

見に外出して外の方に立っていた。仲忠がその男の子をよく御覧になると宮君

の顔によく似ていた。

この場面では、実際には化粧をしていません。「化粧もしないで・・・」と書かれています。この場合の化粧は顔化粧です。誰がというと、八つ九つくらいの男の子で、宮君で、右大臣の子です。「八つ九つくらいの男の子が化粧もしないでただ見に、外出して外の方に立っていた。」という所から、本来ならば、八つ九つぐらいの男の子でも、外に出るのに化粧をしていなければならないという事が分かります。

次のあて宮の所は「化粧」という言葉はでてきませんが、化粧に関する単語がでてくるので載せておきました。

かくて、其時になりて、御車数のごとし。御供の人しなじなさうぞくきて、

日の暮るるをまち給ふほどに、仲忠の中将の御許より薪絵の置口の箱四に、

沈の挿櫛よりはじめてよろつ。御梳髪の具、御髪上の御調度四。御仮髻、蔽髪、

釵子、元結、彫櫛よりはじめてありがたくて。御鏡、畳紙、歯黒よりはじめて

一 具。薫物の箱、銀の御箱に唐の合せ薫物入れて、沈のおものに銀の箸、薫

爐(一番 )沈の灰入れて奉るとて、御髪の箱にかく書きて奉りたり。

この訳は次の通りになります。

こうしてその頃になると御車が指定された数どおりにそろった。御供の人は身

分に応じ た装束をして、日が暮れるのをお待ちになっている時に、仲忠の中将

の御許から、蒔絵 の置口の箱四つに沈水で作った飾櫛をはじめとして、その装

飾用の髪かざりが四通り。 仮髻、蔽髪、釵子、元結、彫櫛をはじめとして全て

が世にある事の難しい珍しい物ばかり。 御鏡、畳紙、歯黒をはじめとして一式

道具。薫物の箱、銀の御箱に唐の合せ薫物を入れて、 沈で御飯のように造って

銀の箸、火とりに沈の灰を入れて、墨物を薫物の炭のようにして、 銀の炭取の

小さなものなどして、細やかに美しく入れて差し上げると、御髪の箱にこう書

いて献上した。

釵子とは、平安時代、宮廷で婦人が正装の時髪上げに用いた飾り物の事で、金属性で、かんざしの類のことです。畳紙とは、折りたたんで懐中に入れておき、鼻紙または歌などを書くのに用いた紙のことです。元結とは、髪の髻を結び束ねる糸で、紐の類です。

これまでは、宇津保における化粧の描写について言ってきましたが、これからは、源氏における化粧の描写について述べたいと思います。源氏物語には化粧する男性、つまり光源氏の姿が描かれています。光源氏が化粧をするのは、A、大堰の山荘の明石の君訪問。これは薄雲です。B、桃園宮廷の朝顔姫君訪問。これは、朝顔です。C、六条院の女性達へ年賀の訪問。これは初音です。D、新婚五日目の昼渡りでの女三の宮訪問。これは、若菜上です。

<A>山里のつれづれをも絶えず思しやらば、公私もの騒がしきほど過ぐして

(大堰の明石の君の許に)渡りたまふとて、常よりことにうち化粧じたま

ひて、桜の御直衣にえならぬ御衣ひき重ねて、たきしめ、装束きたまひて、

罷申したまふなき、隈なき夕日にいとどきよらに見えたまふを、女君(紫

上)ただならず見たてまつり送りたまふ。

このAの訳は次の通りになります。

光源氏は、山里の退屈な様子を常にご想像になり、世間や私の周りのものがや

かましくしている間に通り過ぎて、大堰の明石の君のもとにいらっしゃって普

段よりも念入りに御化粧しなさって、桜の御直衣になんとも言えないほど素晴

らしいお着物を重ねて、香をたきしめなさって 服を着なさっておっしゃる様子

は、陰りのない夕日にたいそう気品があって美しく見えなさったのを、紫上は

普通ではないと御覧になりお送りなさった。

次は朝顔における源氏の化粧の描写です。

<B>夕つかた、神事などもとまりてさうざうしきに、つれづれと思しあまりて、

五の宮に例の近づき参りたまふ。雪うち散りて、艶なる黄昏時になつかし

きほどに馴れたる御衣どもを、いよいよたきしめたまひて、心ことに化粧

じ暮らしたまへれば、いとど心弱からむ人はいかがと見えたり。

この訳は次のようになります。

夕方、祭りなども中止になり物足りなく退屈どと御思いになって、五の宮に

いつものように御近寄りになって参上しなさった。雪がとけてつやつやと

光っている夕暮れ時に、親しみが感じられるほどに、着慣れて柔らかくなっ

たお着物などを、いっそう香をたきしめなさって格別に御化粧しなさったの

で、ますます情にもろい人は良くないだろうと思われた。

次は初音における源氏の化粧の描写です。

<C>今日は、宮(女三の宮)の御方に昼渡りたまふ。心ことにうち化粧じた

まへる(光源氏の )御ありさま、今見たてまつる女房などは、まして

見るかひあり、と思ひきこゆらむかし。

このCの訳は次のようになります。

今日は、女三の宮のお方に昼にいらしゃった。格別に御化粧しなさる光源

氏のご様子、すぐに ご覧になった女房などは、いっそう見る価値があると

お思いになった。

という訳になります。次は若菜上における光源氏の化粧の描写です。

<D>女君(紫上)には、(源氏)「東の院にものする常陸の君の、日ごろわ

づらひて久しくなりにけるを、ものさわがしき紛れにとぶらはねば、い

とほしくてなん。昼などけざやかに渡らむも便なきを、夜の間に忍びて

となん思ひはべる。人にもかくとも知らせじ」と聞こえたまひて、いと

いたく心化粧したまふを、例はさしも見えたまはぬあたりを、あやし、

と(紫上は)思たまひて、思ひあはせたまふことも、あれど、姫君の御

事(女三の宮の降嫁)の後は、何ごとも、いと過ぎぬる方のやうにはあ

らず、すこし隔つる心添ひて、見知らぬやうにておはす。

このDの訳は次のようになります。

紫上には源氏は「東の院にいる常陸の君がこのところ病気になっていて長く

なっているが、穏やかでない気晴らしに訪れなければ、いやだな。昼にはっ

きりと移動するのも都合」が悪いが、夜の間に人目を避けようと思う。人に

もこのような事はしらせないつもりだ。」とお申し上げなさって、たいそう

素晴らしくお心配りしなさったが、普通はほどと目に映らない辺り辺りを異

常だと紫上は御覧になって、思いくらべなさることもあるが、女三の宮の降

嫁の後は、何事も、たいそう度を越えるようではない。少し打ち解けない心

が加わって分からない様子でいらっしゃった。

このようにA、B、Cに書かれている「化粧」は「顔化粧」ですが、Dは「心化粧」である事が分かります。心化粧とは、「相手を意識して気を使うこと。緊張すること。心配り。」のことです。

それでは、「宇津保物語」と「源氏物語」の「化粧」の描写の比較をしてみることにします。源氏物語では顔化粧と心化粧がかかれているのに対し、「宇津保物語」では、顔化粧だけで、心化粧はかかれていません。

そして次に、誰が、何のために、どういう化粧をしたか、それは顔化粧であるか、それとも心化粧であるかをまとめてみました。「宇津保物語」のAの初秋の相撲の節会と御賄の事で誰が化粧したかというと、御息所と更衣で、明日の相撲の節のために、ある限りの化粧をしています。この場面では顔化粧をしています。Bの蔵開中の、仲忠、先祖の遺文を天覧に供すの場面では、帝が化粧をします。何のためにかというと、自分が古めかしい翁に見られ、娘の女一宮が仲忠に面目を失わせないためにです。この場面では顔化粧をしています。C

の楼上上の、仲忠、石作寺参籠と宰相君母との邂逅では八つ九つぐらいの男の子が顔化粧をするとかかれています。次に「源氏物語」における源氏が化粧する描写です。Aの薄曇の、大堰の山荘の明石の君訪問では、明石の君の許に向かうために、普段よりも念入りに顔化粧をしています。Bの朝顔の、桃園宮廷の朝顔姫君訪問では、朝顔姫君の許に向かうために、格別に顔化粧をしています。Cの初音の、六条院の女性達へ年賀の訪問では、女三の宮の居所である寝殿の西の間に行くために、昼間に通うので格別に顔化粧しています。Dの若菜上の、新婚五日目の昼渡りでの女三の宮訪問では、二条宮廷の朧月夜の許に行くために心化粧しています。

まとめです。

「源氏物語」で「化粧」をする男性の姿が描かれているように、「宇津保物語」でも「化粧」をする男性の姿が描かれています。しかも、八つ九つ位の男の子でも、化粧をしていたという事が分かります。

また、「源氏物語」では心化粧が出てくるのに対し、「宇津保物語」ではでてきません。顔化粧だけが描かれています。

日常の身だしなみとして化粧をするのは、現代とかわりませんが、相撲の節などの行事がある時や異性に少しでも美しくみせるために化粧をしています。そういった化粧をする目的は現代とは変わりません。しかし、「宇津保物語」「源氏物語」が書かれた時代では、男性も女性も子供も化粧をするという現代とは違う観念があった事がわかりした。

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