Last Up Date 2001.01.01          

日記を物語る 2000年12月INDEXホームに戻る

(青山のキャンパスで今年も点火されたクリスマスツリー)             


12月30日(土曜日)

大掃除はやってもキリがない。あきらめて帰省することにしました。所用時間二時間。毎週高速道路を使っているため、運転も上手になったようです。さすがに佐久平は寒かった。夏にお見舞いをした、上原の総本家の叔母さんが癌で亡くなっていたことを知らされる。合掌。

この11月17日付けの『信濃毎日新聞』の投書欄に、塩尻市在住の僕と同姓同名の大学の先生が、長野県の農業問題で投書をしている記事を見せられる。名前を借りる時にはひとこと断わってほしかったですね。My Brother。

12月31日(日曜日)

20世紀最後の日。この十年間の私的重大ニュース。@90年04年博士課程進学、恩師のマンツーマンの徹底指導を受け、研究活動の基盤を作ることが出来た、充実した三年間を送り、93年03月に単位取得退学、13年間の長い学生生活を終える。A大学の教壇に立ち、新たな邂逅に、視野狭窄だった自分の、人間としての精進を誓う。B板橋区赤塚から現在地に転居、日々近隣の人々の好意に接する。C予備校受験産業と大学経営の栄枯盛衰にバブル経済の破綻と少子化を実感する。D少年時代、ノストラダムスの大予言をマジで信じていたため、37歳以降の人生設計をしておらず、「なんとかしなきゃ」と思い始める(もちろん、半分冗談ダス。 m(+0+;)m ) 。


12月01日(金曜日)

明治大学。学生さんの要望で論文演習まで三島由紀夫になってしまいました。来週からの教材『文化防衛論』はたいへんそうですね。青山学院女子短期大学。『源氏物語』の世界において琴がどれほど重要かという話など。演奏は65点くらいでしょう。『うつほ』のレポートは卒論前のためか出が宜しくありません。ウインクしたり、ニッコリ微笑んだまま席を立とうとしなかったあなたがた、僕と違って社会はそんなに甘くはありません。また前回のレポートに「文学に対する愛が足りないなあ」と書かれたあなたがたにも今回は頑張っていただきます。『古典演習』は僕の琴の薀蓄学と出家の話など。ここの出席者の卒論は安心のようです。

『青山学院女子短期大学開学50周年記念誌 50年のあゆみ』が出来たようで一冊いただいてきました。僕の名前も兼任講師の二百数十番目にありました。昨年退職された書道の長尾先生は僕の母と同じ年だったのですが、足掛け30年お勤めになられたのですね。こうしたことがひと目で判る本です。それにしてもこの大学の教壇に立った教員スタッフは凄いですね。諸橋徹次、川瀬一馬、加藤楸邨、太田晶二郎、益田勝実、コシノジュンコなど。徳川美術館の徳川義宣先生は現在も出講中、といった具合に。編集長は藤本勝義先生。ご苦労様でした。

12月02日(土曜日)

所沢市松井公民館で古典に親しむ会。『源氏物語』「朝顔」の巻。旧全集本を読み終えた後どの本にしようか迷うところですね。

12月03日(日曜日) 50000カウント

50000カウント。本年01月01日までは通算23878カウントだったから、今年一年のアクセスは激増しているということになりますね。そりゃ、どうもどうも m(!''!)m。

12月04日(月曜日)

清泉女子大学。『竹取物語』『宇津保物語』『源氏物語』の光」について。物語史の様態を分析的に考えてくれていました。

12月05日(火曜日)

『うつほ物語』を読む会も今年度最終回。はやいものです。とにかく今年の後半はあっという間に終ってしまった感じです。

12月06日(水曜日)

終日『文学用語辞典』に取り組み書き終える。締め切りには六日遅れの投函となりました。

12月07日(木曜日)

東京成徳大学。国語科教育法。よく予習された模擬授業は安心できます。『源氏物語』はレポートを提出していただきました。教員になりたい学生さんから相次いで相談を受ける。まず、情報収集が何より大切です。

12月08日(金曜日)

明治大学。論文演習は「和泉02年間で得たもの」の実作。「国語」は三島由紀夫の『文化防衛論』の中の「文化概念としての天皇」。

午後は青山学院女子短期大学。卒論も無事出し終えて安堵した様子。『源氏物語』は婚姻制度と後宮社会の話。『古典演習』は「薫香」。レジュメの文章にセンスを感じさせる内容でした。

すごいサイトに出会えました。題して、「角川文庫黄帯とか読め」。これぞマニアのお手本です。25歳の誕生日に角川文庫の『宇津保物語』三冊を揃えたのだという(どこの本屋にあったの?)。この三冊を渇望する研究者は山ほどいることを僕はよく知っています。僕は、今は店主が豊島区長になってしまった池袋西口の高野書店で、三万円でゲットしました。1991年、某高校からもらった夏のボーナスで。暮れにはおなじく『新編国家大観』を。あの頃はバブルだったからね〜。さてこのサイト、角川文庫『松浦宮物語』の書誌情報も精確で、『松浦宮全注釈』までに目を通したコメントにはひたすら感激しました。著者にもお届けしたいしたいほどです。それよりなにより、角川書店関係の、ベテラン古典編集者のみなさんが泣いて喜びそうな、そんなサイトなのです。

今日はジョンレノンの命日。力道山が暴漢に刺された日。そして真珠湾。それにしても平和な一日でした。

12月09日(土曜日) 

深夜に琴の猛稽古。でも「広陵散」の聶政のように鬼気迫るものではなく、アルコール片手だから、絃を押さえる手が勝手に「由の音」になってビブラートしていました。なんたることだ ゅ____(!_!)m 。ではおやすみなさい。。。。。

12月10日(日曜日)

阿佐ヶ谷で琴のレッスン。午後は、久しぶりの共立で、リンクフリーの会。『古事記』と『源氏物語』のシンクロを考える貴重な時間となりました。

12月11日(月曜日)

清泉女子大学。「『宇津保物語』『源氏物語』の立坊争い」について。発表はこれで終り。なかなか充実した内容で僕も勉強になりました。このキャンパスはすっかりクリスマスカラーですね。

『解釈と鑑賞 特集・21世紀の日本語研究』(至文堂・2001.01.10)が届きました。僕とおなじブランチには鈴木泰、近藤泰弘という著名陣が並んでおり、かなり萎縮してしまう感じです。ただし、近藤論文が僕とおなじく、藤井貞和さんの研究を例に、文法研究と文学研究のブリッジを提言しているのにはまったく同感です。ぜひ、御高架をお願いします。

12月12日(火曜日)

身辺年末の些事に費やして心身ともに疲れる。こんな日もたまにはあっていいでしょう。夜、久保田孝夫さんから電話を頂戴する。この電話ですっかり心が和みました。

12月13日(水曜日) 51000 カウント

当面の原稿の仕事もあげたので、上野の「中国国宝展」へ。仏像の容貌も、ササン朝ペルシャ形あり、飛鳥仏形ありの、まさに「中の華」の文化が繰り広げられていました。それにしても首のない仏像の多いこと。「金剛力士像」などは『うつほ物語』の「ないしのかみ」巻にも出てくるジャータカ説話の主人公のため、ぜひその龍顔を拝したかったなあ。また、唐代は他の時代に比べるとかなりあでやかな感じですね。最後の兵馬俑は、その昔、まだ学生だった弟と、サンシャイン美術館に見に行ったことがあります。こちらは、あの時の方がもっと像の数も多く壮観でした。ちなみに開催は今度の日曜までですので。念のため。

12月14日(木曜日)

東京成徳大学。国語科教育法。教材は『石豪吏』と『桃花源記』でした。『源氏物語』は第ニ部を読み終えていよいよクライマックスです。

12月15日(金曜日)

明治大学。論文演習はテキスト『日本語練習帳』で敬語について考えました。「国語」は『文化防衛論』。『源氏物語』の話も出て来るところです。

午後は青山学院女子短期大学。文学史は『源氏物語』の第ニ部の世界など。僕の「解釈と鑑賞」論文をもう読んでいた学生さんが居ました。光栄です。『古典演習』は「手紙」。なかなか洗練された内容で、有終の美を飾ってくれました。

12月16日(土曜日)

フェリス女学院大学。文学部が緑園都市に移転のため、横浜山手では最後の物語研究会。入試も一段落終えたためか、たいへんな盛会で、創設メンバーも勢ぞろい。レジュメや「ふぇりす国文ニュース」に「玉藻」まで頂戴できました。合評会も充実していました。横浜中華街での二次会では最新の「文学・語学」が話題となりました。

12月17日(日曜日)

都内で勉強会。参加者が少なくて寂しかったけれども、将来への蓄積になったことは確かです。

12月18日(月曜日)

清泉女子大学。前期発表者が寄せられた質問に答えながら、発表のまとめをするという内容。薫りの発表には実際に黒方を持参してくれ、平安のみやびを実感できました。日本文学科事務室のみなさんや、長谷川政春研究室で、琴の音色も聴かせられたしね。

誌友会員である、早稲田の『平安朝文学研究』(復刊九号.2000.12)が届き、原豊二さんから「稽古有文館蔵『礼儀類典』図絵」(「米子工業高等専門学校研究報告」36.2000.12)を頂戴しました。前者に収められた新美哲彦さんの「『うつほ物語』の伝流」は力作です。明日、文献目録更新します。原さんのは釈文も欲しかったなあ。でもでも、萬謝です。ハイ。

12月19日(火曜日)

母校で『元輔集』注釈。晩年の肥後守・元輔が、京で式部丞・兼澄に死亡説を流された時の、「今度逢えてもお化けじゃないぞ〜」という主旨の強烈な皮肉の歌(でも直後に元輔は病没)と、「むすめたち」の着裳の儀の歌。複数のむすめのために、同時に成人の儀を用意したのか、何年か隔ててまとめて歌を作ったのでしょうか。

水泳の折りに立ち寄ったブックオフで、宮内正勝・阿部泉『文学作品で学ぶ日本史』(山川出版社、1986.07)を見つけました。近代の歴史小説中心の選択で、エポックを学ぶという企画物。正月の散読はこれですかね。

河添さんの日記にも、僕の竹取物語のページが出てきたようです。公共性がますます強くなってきているようですね。

12月21日(木曜日)

東京成徳大学。国語科教育法。模擬授業はすべて終了。うまく進められた人、後悔の残る人、実習校で本領発揮といきましょう。『源氏物語』は宇治十帖へと進みました。

12月22日(金曜日)

明治大学。論文演習は、本日も『日本語練習帳』で敬語について考えました。レポートに究極のゴマ摺り作文がありましたのでアップしておきます。御覧下さい。「国語」は『文化防衛論』。『源氏物語』の「みやび」が明治維新の「テロル」と連結してくるくだりです。

青山はすでにクリスマス休暇。期末テストを教務にとどけ、図書館で『吏部王記』『長秋記』を借りて帰りました。帰宅すると電話多数。「日本文学」の阿毛編集長からは、先日の日本文学協会大会の議事録の件。これは次のリアクションも予想されはしますが、、、。

12月23日(土曜日)

午後、日本文学協会の『うつほ物語』を読む会に出席。俊蔭の巻。夜は琴の稽古。 ゅ_____(!_!)m 。本日これまで。。。。

12月24日(日曜日)

本日もデイズニーランドでアルバイトという学生さんから、電子メールでクリスマスカードを頂戴する(男子学生です。念のため)。年賀状は半分書き終りました。

12月25日(月曜日)

末木文美士『日本仏教史−思想史としてのアプローチ』(新潮文庫、2000.06)を読んでいたら、亀井勝一郎の『聖徳太子』が、聖徳太子の生涯を、亀井自身の転向の問題に照らしつつ、「古代の知識人の悲劇」と捉える見解が引用されていました。そこで、思いついて、すでに読者も稀になった批評家、『亀井勝一郎著作集/第三巻』(創元社、昭和27年<1952>)を書架の奥から取り出して見ました。もう、20年近く前に買った揃いの美本です。この本は、昭和19年から20年にかけて、空襲の中で書き継がれた、亀井38歳の著作となります。僕自身と同じ年齢でこの思考とは。自身の不勉強を恥じ入りつつ、深夜まで読みふけりました。

12月26日(火曜日) 52000カウント

年内の仕事も数えるほどになりました。来年は、企画物の辞典、うつほ物語の漢籍総合索引と解説、ある叢書の一巻を担当して古典の全訳などの仕事を控えています。もちろん、出版は再来年になるものもありますが。また、ここ五年くらいの文章もまとめる目処はつけたいですね。さ来年は、もっと忙しくなりそうですから。

12月27日(水曜日)  

平凡に過ごしております。みなさん忙しいらしい。カウントも平常時の半分です。

12月28日(木曜日)  

愛用のコンタクトがいかれてしまったので、池袋で新調する。ジュンク堂に寄ったら拡張工事が終り、東側の駿台予備校を見渡せるところにまで広がっていました。でも古典文学関係が箱詰めのままで、開架されていないのは仕方がないのかなあ。西武リブロで手帳と原武史『大正天皇』(朝日選書.2000.11)を購入する。大正天皇は生母が権典侍だったため、『源氏物語』の桐壷更衣と連結させて話すことが多く、勉強しなければ、と思っていたのでした。即日読み終えましたが感想は明日書きましょう。著者は僕と同年齢。なかなかやるじゃないか。なとど偉そうに書かせていただきましょう(でも、ほんとうは参ったと思っていますが m(+_+)m )。

どこまでも自己中心的な僕は沼尻くんが修論執筆中であることもすっかり忘れ、バーナーを作って頂きました。ありがとうございます。ついでに、懸案の文藻録も立ち上げました。御覧下さい。

12月29日(金曜日)  

PM11:10発信と明記した電子メールで、明治大学の教務部の時間割担当者の方より、来年度の時間割の確認が届く。月曜日の03時限目をあけて三コマ、くわえて、金曜日の01時限目などという変則的な時間割を申請したためででしょうか。我侭で申し訳ない。金曜日の井の頭通りは昼間混むんですよね〜〜。

さて、原武史『大正天皇』について。この本は、まず、何より、著者の、大正天皇への畏敬と愛に貫かれた本であるということが言えるでしょう。"原"史観とも言うべき歴史の再構築がはかられ、従来は奇行としか捉えられていなかった天皇の言説を、ことごとく極めて好意的な解釈で捉えて行く方法を累積させてゆくところに本書の特色があります。ただし、昭憲皇后が実母ではなく、生母が権典侍・柳原愛子だったことを知ったのは後年で、それゆえ、後宮制度の廃止を決断したことにはまったく言及がないのは残念です。また、内定していた、伏見宮禎子内親王との破談も二行で済まされてしまっています。これは僕が調べようかな。そう言えば、清泉女子大学のひらかれたお庭には、1917年、大正天皇御行幸啓(行啓は皇太子・裕仁親王も同伴の意)の小高い丘に碑が残されていて、元気だった頃の天皇のありし日の姿を思い浮かべることができます。また、天皇の子煩悩ぶりは、周囲も目を細めるような繊細さを持ち合わせていたようで、夕食時には幼い親王たちが次々にお酌をし、酔った天皇(当時は皇太子)が、侍従や女官にもお酌するように命じ、さらに興が乗ると節子妃のピアノに合わせて一家のみならず、侍従・女官らも一緒に「世界漫遊の歌」などを合唱したこともしばしばだったようです(140〜141頁)。病弱だった皇太子が健康を取り戻したのはやはり結婚が大きな役割を果たしたともあります。その後、明治大帝の薨去後に即位、激務によりみるみる衰弱して、晩年には脳動脈硬化症を患って意志も伝える事が出来なくなり、政治のパワーゲームに翻弄され、超国家主義体制の摂政宮の時代へと突き進んで行ったというのが、"原"史観による真相のようです。出来得るものなら、大正二、三年頃の天皇に拝謁いたしたく願挙げ言上奉りたく候。謹言。


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