及川裕一
しかもありえない事に今回は風呂場の覗き。しかも男の。
そしてその後の家宅捜索によって覚せい剤取締法違反の容疑で再逮捕された。
芸能界に限らず最近の世の中の薬物汚染は深刻であるように思う。覚せい剤の法定刑が大変重く殺人罪なみだということは、あまり知られていないことだ。
前回のパンチラ盗撮、今回の風呂場の覗きまでは、笑えたけど、今回は洒落になってない。 まーしー実刑で監獄行きもありえるはなしではないだろうか。
とにかく芸能界はパクラれまくっている。記憶に新しいのは、カルーセルまきの覚せい剤アンド大麻、役者系の人が合法きのこ、昔になるけどけっこう世間に衝撃を与えたのが三田佳子の息子が地下室で覚せい剤パーチィー。
また、一般にも自衛官が捕まったり、おまわりが捕まったり、逆に覚せい剤中毒の奴が人を刺したり。
昔から音楽家が大麻などをやってる事が多いのはあったと思うけど、最近は普通っぽいやつでも気軽に手を出しているように思える。
僕も覚せい剤中毒の奴を紹介されたことがあるけれど、外見からはまったく想像もつかないようないたって普通の奴だった。
今年大麻取締り法違反での検挙者は過去最高になりそうだ、半期で去年の五倍もの人が捕まったと新聞に載っていた。薬物は世界を震撼さえたアルカイダの資金源でさえもあった。
何故こんなにも薬物が氾濫しているのであろうか。
もちろん、本人達の心の弱さがあるのは当然だと思うが、問題はそれだけなのであろうか。
思うに、今の日本では薬物が簡単に手に入りすぎる。またそれに関する情報も大変多い。 たとえば、渋谷に行けばイラン人たちがすぐに「買わないか」と声をかけてくる。彼らが捕まったとしても、また、同じような顔をした別の奴がその場所にたって平気な顔をしてさばいている。路上では合法なソフトドラッグが売られ、覚醒剤など、重い薬物への敷居を低くしている。また、一般向けの某若者雑誌にはドラッグ体験記なるものがあたりまえのことのように掲載される。テレビはそれらを特に深刻に報道するわけではない。いかにも深刻そうに、悪いことであるように伝えているのは、警察24時系の番組だけである。
それで、手を出してしまう無知な奴がいたとしても、ある意味仕方がないことのようにも思える。
僕には捕まえる側の警察行政もよくわからない。「ダメ、絶対!!」といった無駄なキャンペーンを展開している一方で、もちろん現実の取り締まりにも全力を尽くしているのだとは思う。しかし薬物関連の犯罪が減らず、むしろ増加傾向にあるのであれば、別の効率的な方法を検討しても良いのではないか。また、表現の自由からメデイアに規制をするのは不可能であるとは思うが、ならばこそ情報を発信する側の大人達が良識ある行動をとるべきなのである。芸能人など一応は公人なのであるから特に節度ある行動を、とるべきである。続々と捕まってる場合じゃない。
だから僕など、誤った情報から、薬物などある程度社会では黙認されているもので、運の悪い奴か、芸能人が見せしめに捕まる程度なんだなーと、誤認していたほどでる。
実際重い刑罰が科されるなんて法学部に入っていなかったら、一生知ることもなかったと思う。
薬物汚染は本当に深刻である。日常会話の中で、「政府は今のアムステルダムみたく覚せい剤などのハードドラッグ増加防止のために大麻などのソフトドラッグを限定的に合法化することを検討しているらしい」などとまことしやかに語られていたりするのである。ファッション感覚ということは決してないけれど、罪の意識が低い事は間違いない。これは正しい情報を持たない事に依るものではないか。
だから、今回の田代まさし容疑者の逮捕も彼個人の性格の問題とだけで終わらせてしまうのではなく、社会が抱える大きな問題として考えてみることが必要であると思った。
和泉の2年間で得たもの
坂本明日香
はやいもので大学の二年生も終わろうとしている。あっという間の二年間だったというのが正直な感想だ。
九州の福岡から大学進学のため、上京して、一人暮らしを始め、大学生の定番、テニスサークルにも所属してみた。高校までとは違って、全く拘束のない長期休暇に戸惑いつつも、友達と海外旅行も楽しんだ。はじめて経験するアルバイトの研修に苦戦したりもした。その間、実家は家を新築し、長年住んだ借家から引越しをした。入院していた祖母も亡くなり、短いと思った二年間も、振り返ってみると、やはり、二年分の時の重みを感じる。
二年前の春、上京の引越しの手伝いに来た両親が帰るとき、空港のX線チェックに消えていく両親を見送りながら、まだ一人暮らしをする実感がわかなくて、不安も覚えたが、しばらくたつと、地元で、高校生だった頃の自分が遠い昔のことのように思えた。毎朝、早起きして、まじめに補習授業に通った自分がなつかしく、もう一度やれと言われても、今はもう、とても無理だとも思う。そのくらい、遠くに思え、ピンと来ない。人は割りに早く環境の変化に適応できるんだなと感じた。大学生という時間のゆとりと、両親の目の届かない快適さを満喫する一方で、両親のありがたさにも気づかされた。自分には、家族という帰る場所があるから、自由気ままな一人暮らしを楽しめるんだと実感した。
私が、和泉の二年間で得たもの、ーその一つはなんとか自分一人で生活していける自信ではないかと思う。それともう一つは、自分は両親や友達に支えられてこその自分だ、決して一人では生きていけないという、謙虚な心と、他人への感謝の心だと思う。
来年はいよいよ、三年生になる。校舎も心機一転、お茶の水の駿河台校舎にかわる。月日はゆっくりと、しかし確実に流れていることを肝に銘じ、これからもいろいろな経験をして、充実した日々を送っていきたいと思う。
和泉の二年間で得たもの
和泉の二年間で得たもの、という題材について、なにを書こうかと考えてみたけれど、特にこれというものが思い浮かばなかった。この二年間を簡単に振り返ってはみたものの、正直なところ、ただなんとなく過ぎてしまった二年間だったようなきがする。高校生のころから、大学はもう誰も面倒をみてくれないのだから、自分で自分を管理して、自分で全て決めていかなくてはいけない、と、そのかわり、何をやるのも自由なんだからその四年間を有効につかいなさい、と親や教師から言われていたものだ。そうして、私自身大学に入るまでは、この自由な四年間に、なにか残せるものをしようと固く思い、大学入学後、まず部活に入った。航空部では先輩や同期、今では後輩もいるけれど、そうした人達と様々な苦労や悩み、そして幸せを分け合っては絆を深めあってきたし、グライダーという、なかなか体験できない空のスポーツの魅力をしることができた。
そして、グライダーが空を飛ぶ時が舞台だとしたら、その瞬間のために二倍、三倍の裏方作業があるわけで、そのために辛いと思う様々な出来事に「耐える」ということを覚えた。この「耐える」ということが、今までの私にはなかなかできないでいた。興味のあることでも、それに伴う少しの苦痛がどんどん大きくなってしまって、その興味も苦痛に飲み込まれ、結局すぐに投げ出してしまっていたものだ。母はよくそんな私に、「面白くなくても一回何かをやり遂げなさい、やり抜くということが大切なのよ」と話して聞かせていたが、私は自分の興味のなくなったものを続けていても意味がないと思い、そんな母の言葉を素直に聞き入れることはなかったのだが、今なら母の言っていたことがわかりかけている気がする。高校生のころ、私は毎朝六時におきて学校に行き、月曜日から金曜日まで決められた時間割りを一週間、一ヶ月、一年間繰り返していくだけの生活に嫌気がさしていて、勉強が嫌いだったのも手伝っていると思うけれど、そのためによく高校を勝手に休んでは友達と遊んだりしていた。今にして思えば、そのころだって、毎日がただなんとなく過ぎている気がしていた。だけど、そのなんとなく過ぎている気がしていた日常の中で、私はあれが嫌だとか、こういう瞬間に喜びを感じるんだとか、感情の揺れ動きから、自分らしさを見つけ出し、そして次の瞬間の自分を決めていった。もちろん、私の人生のあれが分岐点だったんだろう、と思えるような大きな出来事が、生きている中でいくつかあるけれど、私らしさを作っているのはこんな何気ない日常であって、こういう日常の中で、傷ついたり、誰かを傷つけたりしながら、悲しみや怒りや、喜び、感動、を見つけ、そして幸せを見つけ出すのだと思う。この和泉での二年間という区切りで、今までの道を振り返り、改めて、なにげない日常を過ごせていることに感謝している。
和泉での二年間
島田美紀
明治大学の合格証を手にし、改めて大学発行のパンフレットを見て、大変驚いたのを昨日のことのように思い出す。早いもので、あれからもう2年が過ぎたのだ。私はリバティータワーに通うはずだった。というより、そう思い込んでいた。大学見学で、その近代的なつくりに圧倒され、和泉校舎の存在など頭の片隅にもなかったのだ。
まさか、こんなにも時間がかかるなんで夢にも思っていなかった。1限の授業がある日なんて、家を出てから2時間以上もかかるのである。早朝から満員電車との戦いである。そのため、途中で下車しそうな人を見極める洞察力はかなり磨かれたと思う。
和泉校舎は買い物に行くにはとても便利な場所にあると思う。新宿、渋谷、下北沢、吉祥寺とどこに行くにも電車一本で行ける。それまで池袋までしか進出したことのなかった私にとって、都会デビューを飾ることが出来たのも和泉のおかげである。
しかしながら、和泉校舎は都会にある割には緑が多く、田舎者の私にとって、割合い居心地のいい環境であった。お昼休みに中庭や屋上でお昼を食べていると、これぞ大学生!という感じで自分に酔ったこともあった。
そして、何より和泉での学生生活を楽しいものにしたものは、友達である。大学は勉強する場であり、人間関係を学ぶ場であると思う。今の友達関係がなかったら、私の大学生活はもっともっと味気ないものになっていたと思う。
友達関係の中で、私が大変面白く思ったのは、試験前になると友達の友達は友達に、クラスで一度も話したことのないような人も友達に変身するということだ。みんなで情報交換をして、どうにか資料を手に入れようとする姿には、我ながらかなり笑えた。今まで私は、よく知らない人には自分から話しかけようとしなかったので、大変貴重な経験をしたと思う。
大教室での授業は出席を取らないものがほとんどで、自分のやる気が試されている気がした。出たくなければ一回も出ないで遊んでいることも出来たと思う。しかし、何のために大学に来ているのか考えると、出ないわけにはいかなかった。けじめをつけて大学生活を送るためにも大教室の授業はよい刺激になったと思う。出席してはいたが居眠りをしてしまっていたことが悔やまれる。
このように和泉での二年間は私を人間的に大きくしてくれたと思う。来年はついに駿河台デビューである。待ちわびていたリバティータワーだが、今の校舎を離れると思うとなぜか少しさびしい気がする。今度は緑もなければ大教室での授業も少ないと思う。都会のど真ん中の和泉での経験を生かし、自分を見失わずに学生生活を送っていけたらと思う。
和泉校舎での2年間で得たもの
小林春香
私は、名古屋で18年間生まれ育った。「東京へ出たい」、そう思ったのは、高1の時だった。その頃私は、親との折り合いが悪く、一刻も早く家を出たいと思っていた。その時憧れたのが、東京だった。高3になり、親との関係も回復していた私は、名古屋に残ることを決めたのにも関わらず、受験に失敗し、結局いろいろな選択肢の中から、悩んだ末、東京へ出る道を選んだ。
見知らぬ大都会、初めての一人暮らし、1からの友達づくり・・、本当に不安でいっぱいだった。
和泉校舎に初めて登校した日、私は、ある女の子に視線が止まった。話すきっかけを作ろうと、その子を見失わないよう、頑張ってついて行った。振り返って話しかけてくれたその子は、偶然にも同じクラスだった。それが有紀との出会いである。今まで私の周りにいなかったタイプの有紀をなかなかつかめず、戸惑った。いろいろなことが起こり、大きな喧嘩をし、大嫌いになっても、関係をなんとか保ち続けた季節を経て、今の2人がある。
悩んでいた時、話を聞いてくれた他の何人かの友達の存在も、とても暖かいものだった。
そして私は、恋もした。その恋はとても辛いものだったけれど、私は、その人に恋をしたことによって、徐々に外見も、考え方も変わっていった。今はもう話すこともないその人は、私に、いろいろな世界を見ること、自分というものを持つことの大切さを教えてくれた。私が変わるきっかけをくれたその人に、すごく感謝しているし、一生忘れることはないと思う。
そして、私は、東京の街にも、一人暮らしにも、いつのまにか慣れ、今はここでの生活を楽しんでいる。また、同じ高校から東京へ出てきた何人かの友達と、2年生になってからよく集まるようになり、いろいろな話をして、高校時代よりはるかに仲良くなり、今ではみんなで支えあっている。また、wスクールにも通い始め、時々サボってはいるものの、目標ができて、ある程度めりはりのある毎日が送れるようになった。そして、名古屋を離れて、はじめて、名古屋の街、家族、名古屋に残っている友人達を、私にとって、かけがえのない大切な存在だと実感することができた。
あっという間に過ぎて行った2年間。私は、先に挙げたようないろいろな物を、手に入れ、徐々に変わっていったが、その代わりに失ってしまったものも、きっとたくさんあるのだろう。変わることができなかった部分も、まだまだたくさん残っているはずだ。これから私は、何に出会い、何を得て、何を失って、どんな風に変わっていくのだろう。いつか自分らしく、羽を広げて、綺麗に飛べる日を夢見て、和泉校舎に別れを告げようと思う。
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