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<論評> 有事法制定は古い日本人体質からの脱却の第一歩である。

遠藤琢郎

 有事立法の重要さは先の阪神大震災の時に明白になったはずである。それなのにたいした論議もされずに、今回また、テロ事件で対応の遅さを露呈してしまった。そもそもテロという国家の安全が人為的におびやかされるという事実と、地震という自然災害の問題を一緒くたにするのはおかしいという話もあるが、有事の際に対応できるような法律が必要であるという事実が広く浸透したことは間違いないだろう。

まだこれに関して、「軍国主義の復活だ。」とか「国民の主権はどうなるのか」という意見は出てくると思われるし、なかなかこのような意見は消えないものだと思うが、この種の立法が可能になったことは進歩であると思う。現在国際的に見ても有事法が存在しないのは日本くらいのものである。

「日本は平和の国家である。」と自他ともに認識しているのは間違いないと思うが、日本には軍事的、戦略的思考がないその分、平和の観念が希薄であるといえる。平和を守るためには何が必要なのか、というところに目を向けず、ただ自分の国が戦争に巻き込まれることが無ければよい、もしくは巻き込まれることはありえないだろう、と大部分の人が思っているのではないだろうか。平和を維持するためには、維持するための機関が必要である。いまのところその役目を万一の事態にはたしてくれるであろう機構は、軍隊、日本で言えば自衛隊に当たる。もちろんこのような軍事的機関が無い上で平和を果たせるのであれば、理想的には無いほうがいいだろう。しかし、もしそのような軍事機関がなかったとすれば反乱を鎮圧したり、侵略に抵抗したり、もしくはこの度の米のテロに対する時のような対応が必要になったりした際、どのような措置を今の日本でとったらいいであろうか。

多くの人は平和を維持するためには何が必要なのか、ということをまったく無視しているのだ。無視しているというよりは、日本人は安保の存在によって、そのようなことを考えなくても日本の安全が維持できているため、国を守るという概念自体が認識の外にあるのだろう。平和は平和を願ってさえいれば手に入ると思っている理想主義が蔓延しているのである。

日本人は、一度作った教えをひたすら遵守することに美徳を覚える。江戸時代ではお家のきまりを守ることがなによりも正しいとされた。現在でも終身雇用制により一つの会社で一生をつとめあげるのが賢いと思われる。自分はそのような旧きを温め、という考えが好きだ。しかしそこで新しきを知る、をみていければなおよい。だから例えば自分は終身雇用の制度はすばらしいと思う。そのようなところで会社には雇用者を守る役目があると考えるからだ。しかし最近は新しきを知る、面だけをおいかけ、つまり終身雇用のように一度抱えた人間を守るという役目を果たさず、出来る人間、アイディアのでる人間を積極的にとりいれ、出来ない人間はどんどん削っていく、という会社がよく成長していく。そんなやり方をしていれば、伸びるのは当たり前だ。しかしどうも旧きを温め、の部分を忘れている。倫理観の喪失である、と思う。

今回の有事立法制もそうだ。旧きを温めすぎて、新しいことを見ようとしない日本の体質には問題がある。だからといって、あまり右寄りになってどんどん軍事的な考えを進めていけ、という事ではなく、バランスをとることだ。今回はそのように、日本は平和の国家であり、日本人は平和を願っている、ということを念頭におきつつ、有事法の必要性を野程度を見極めつつ、また、どれだけ他国家(特に中国、北朝鮮、もしくはアメリカなど)を刺激せずに、という外交上の問題としても、いかにバランスをとって立法をできるか、ということが最も重要である、と思う。「日本」の有事法がつくられることを期待する。

狂牛病問題について

             与那覇 佐智

2001年、最も身近な問題として起こったのが狂牛問題であろう。いきなり、ニュースで、千葉県において国内初の狂牛病の牛が発見されたと放送されたが、唐突に「狂牛病」と言われても、何年か前にイギリスで問題になった牛の病気だと言うことだけが記憶にあり、実際はピンとこなかった。私達の食生活の中で牛肉というのは、もはやなくてはならない物である。焼肉を始めハンバーグや牛丼,ステーキ等々、我々が大好きなものばかりだ。「ああ、しばらくは食べない方がいいんだな」とその時は漠然と思っただけであった。しかし,私が恐怖を感じたのは、狂牛病が人間に感染するとヤコブ病という名前の病気になると知った時だった。(ヤコブ病)といえば、昔からヤコブ病訴訟で問題になっていたので、その病気が人間の脳を破壊していって,必ず最後は死に至る病気だということを知っていた。その時私は初めてだからこんなにも騒がれているということを理解した。しかも、よくよく考えてみると、最も病原菌が集中する所が、牛の脳や、脊髄、目の周りなど、食材の中に含まれていたとしても、目には見えない部分ばかりである。1頭見つかったということは,実際には日本

中の牛たちの何頭もがかかっている可能性があるということなので、ゾッとした。今まで何食わぬ顔で食べ続けてきた牛肉が、もし狂牛病に感染した牛のものであったかも,と考えるだけで恐ろしく感じた。しかも,人間に感染したからといって、すぐには発病せず8〜10年の潜伏期間がある。もしも今,普通に生活していても、もしかすると8年後に、人生最高だという時にいきなり病に冒されるかもしれないのだ。

今回のことを通してやはり感じるのは、(狂牛病)の牛が発見されて、はじめて慌て出した日本政府の情けなさである。イギリスで問題になった時に、自国にもその可能性のあることを認識し,危機感を持って何らかの対策を考え,防止できるようにしてくれていたら,,,,と思った。厚生省も、日本国民の生活の安全を守ることが仕事であるならば、前もってできたのではないかと、いつも批判されることだが,そう感じた。

 この問題を通して、何事においても(明日はわが身)ということを忘れてはならないなと痛感した。確かに何もかもを防止するのは困難だし,不可能な部分もあるが、せめて、過去の様々な経験を活かせるように,今後は起こってしまう前に、防止できるような国の姿勢を願う。

       

拓大「日本刀事件」で佐々木教授が懲戒免職に

森下 由夏子

拓殖大学の研究室で学生が日本刀で刺されて、重傷を負ったという事件が起こった。事件をテレビで朝、初めて聞いた時、かなり辛口な人を含む数人のアナウンサー達が口を揃えて「不思議な事件」と言っていたことに、私は非常に驚いた。アナウンサー達は、この事件に居合わせた生徒達や同僚教授や男性会社員の証言が皆、それぞれ違うことや、「覚えていない」という証言について、ただ「不思議ですね」と言っていた。いろいろな推理が出来ますね、とも。

 確かに、突飛な事件であるとは思う。大学内で、日本刀で胸を刺されて重傷を負うと言う事件は、非常に珍しい事件であるし、これから先もなかなか無いのではないかと思う。しかし、この事件は、ただ珍しい、で終わってもいいのだろうか。現場に居合わせた学生や社会人、教授らは皆、飲酒をしていてかなり泥酔していた事が伺える。研究室内に日本刀があり、それを話しのネタに持ち出して、チャンバラのような事をして遊んでいたが、酔いがひどく、事の危険さがわからずに振り回しすぎて、負傷者が出た、と言う事ではない、と私は考えている。被害の重さとは裏腹に、あまりにも原因が軽薄なので、被害を負わずに済んだ人達も今はとても生きた心地がしないのではないだろうか。酔った勢い…とはいえ、引き起こした事件があまりに大事になってしまい、あきれてしまうのが本当のところである。

 私が実際に聞いたこんな話もある。

 ある大学の研究室の学生ら十数人が合宿にでかけ、宿に宿泊した。夕食時に宴会用の広間を借り、そこでの宴会が盛り上がり、その広間をもう少し長く使いたくなったので、宿の主人に訪ねると、主人は快くその広間を翌朝、朝食の予約の時間まで使ってもいいと言ってくれた。それから先は、聞いていた私も顔をしかめずには居られないほどの醜態であった。

 まず、ワインや焼酎などは畳の上に水浸しになるくらいこぼし、ふすまを二、三も破り、破れてしまったものは、押し入れの中に隠してしまう。ワインなど色のついてしまった場所には、座布団を置いてごまかす。床の間においてあった陶器や置物は残らず壊され、それらは、窓から外の崖下へ放り捨てられ、壊れ物だけなくなっては怪しまれるだろう、と壊れていない箸や茶碗なども沢山、窓から放り捨てられたと言う。そして、畳の上に嘔吐してしまったものなどは、何とそこに座布団を置き、そのまま、何事も無かったかのようにしておいたのそうだ。

 私は、この話を聞いていたため、拓殖大学の事件を聞いてすぐに、悪ふざけが過ぎたゆえに起こった事件だろう、と思った。しかし、社会では少し有名な大学であったりすると、このような事件を耳にしても、すぐには信じられないのかもしれない。しかし、上のような学生達に宿を貸した主人などは身にしみて分かっている事だろうと思う。

 私は、お酒の席で楽しく盛り上がることに何ら反対はしないし、むしろ好きであるが、このような話しや事件にはがっかりさせられるし、残念である。でも、いつでもこうした事件の加害者、または被害者となるかもしれない可能性はゼロではない事を、覚えておきたいと思う。

狂牛病の問題

栗原 幸夫

 欧州で、狂牛病の問題が先に出ていて、その時点で対処すれば、もしかしたら防げていたかもしれない。当時の政府の対応は、とても雑だと思う。大学の体育会でさえ、問題に対する対策ぐらいは早急に考える。「自分達の国で起こったら」と考えなかったのだろうか。「他国のことだから」と甘く考えたのか。自分達にかかっている責任を甘く考えすぎではないか。たくさんの人達の生活が、自分達に左右されていることをわかっていないようである。

 武部農相の発言に対して、小泉首相は弁護しているが、明らかに軽率な発言である。自分の立場がわかっているのだろうか。この問題で被害を受けている酪農家の立場からしたら、生活がかかっている重大な問題であり、こんなことを言われたら、政府が真剣に自分達のことを考えてくれているとは思えないだろう。

 狂牛病対策としての経済的な補助は、不可欠だと思う。金額が十分かどうかはわからないが、酪農家にとっては、助けとなるだろう。被害者のために、有効に使われてほしい。

 僕にとって、正直、今騒がれている狂牛病に関する問題は、ほとんど関係がないように思える。むしろ、焼肉屋等が安くなったりしたため、逆に牛肉を食べるようになっている。牛肉の値が下がって、悩んでいる人や、警戒して全く牛肉を食べない人がいる中で、何も気にせずに生活している。しかも僕は、最近、焼肉屋で見るようになった「豚トロ」(牛肉の代わりに出てきたらしい)が、おいしくて、ハマっている。政府の対応や官僚の発言に対して、いろいろ書いたが、実際、自分に影響のないことには、全く危機感がない。同じような人は少なくないだろう。(僕の周りは、多分、みんな同じ。)ただ、官僚はそうであってはいけないのが当たり前である。被害を受けている人達の身になり、全力を尽くすのが、理想の官僚ではないか。報道陣やカメラの前で高価な牛肉を食べても、何の役にもたたないだろう。それでは、僕達が焼肉屋で食べているのと同じではないか。せめて、そこら中を走りまわって働いている姿や、会議で被害者の保護対策について、熱弁を振るっている姿でも見せてほしいものである。

「狂牛病について」

黒澤邦良

 9月に国内で狂牛病に感染した牛が初めて発見されてから、今日までこの関連の事が新聞、テレビで載らない日はなく、社会的に多大な影響を及ぼしてきた。先日に至っては、国内で3頭目の感染牛が確認され、今後も狂牛病感染牛が増えていきそうな気配である。現代人の生活において、牛肉は欠かすことの出来ないものであるだけに、これだけの大きな問題となっているのだろうと思われる。

 この事に関して、新聞、テレビ等の報道を見ていると、農水省や厚生労働省などの公共機関のずさんな対応や体質に対する批判をよく目にする。確かに、国内初の狂牛病発見の第一報とともに、農水省がその事を隠そうとしたというニュースが流れてきたのを私は覚えている。また、狂牛病の原因と言われている肉骨粉を輸入していたり、狂牛病にかかった牛を流通させてしまったりと挙げれば枚挙にいとまがない。国民生活の安全を守る事が一番大切な役目である官庁にとって、本来こういったことはあってはならないことだ。毎度のことではあるが、今後きちんとした対応をとって、信頼を取り戻すべく努めなければならない。

 しかし、私はお役所批判をするよりも、牛肉という私達の生活に直結している事だけに、今度の問題は消費者の反応が見ていてとても気になった。つまり、狂牛病発見直後から、牛肉を食べるのを控えるという行動である。狂牛病は、牛の脳が細菌に侵され、スポンジ状になり、やがて死に至るという恐ろしい病気だ。今のところ治療法はないそうだ。それが、人にも感染する可能性があり、人の場合「クロイツフェルトヤコブ病」というそうだ。テレビの映像で狂牛病の牛が足をガクガクさせて倒れているのがあったが、あの病気になるとあんな風になるのかと思うと、怖かった。あれを見てしまうと、牛肉を拒否しても仕方がないと思った。では、現在三頭の狂牛病牛が確認されている日本において、牛肉を食べて「クロイツフェルトヤコブ病」<以下ヤコブ病とする>になる危険性はどのくらいあるのだろうか?専門家によると、まずヤコブ病の原因が狂牛病の牛の肉を食べた事によるのか、否か、ですでに論争があるようだ。比較的新しい病気であるために、まだ原因究明、治療法ともに研究段階なのである。ヤコブ病の原因が仮に狂牛病牛の物を食べたことだとするならば、狂牛病発祥国の英を例にすると、その確率は人口5700万人に対して、狂牛病感染牛が18万頭いて、ヤコブ病感染者が111人だそうである。これを日本の場合にあてはめて計算すると、人口約1億2000万人に対して、800頭の感染牛がいてはじめて一人のヤコブ病患者が見つかるのだそうだ。これはあくまで確率の問題だが、狂牛病牛たった三頭のわが国では、それからヤコブ病患者が出る可能性は極めて低いということだ。加えて、狂牛病に感染した牛を食べて人に感染する可能性のある部位は、牛の脳、脊髄、眼などに限られる。これらのことから、消費者が牛肉を食べてヤコブ病に感染する可能性は極めて低く、また牛肉を一切受け付けないという行動には科学的にも根拠がない。

 牛肉拒否という行動の背景には、メディアから送られてくる情報を鵜呑みにして、それに振り回されていることと、少しでも危ない又は汚い物には触れないようにするという、異常なまでの潔癖主義に見受けられるような、現代社会の問題点があると言える。情報化社会といわれている現代において、たくさんの情報のなかから正しいものを、自分で取捨選択する能力はますます必要とされているのに、今度の消費者の行動は、まだそれが発展途上であるということを示していると思う。もちろん、その原因が、情報を送る側の方にもあることはいうまでもない。また抗菌グッズにあるように、現代人は細菌にたいして過剰に反応しすぎである。そもそも、それはある程度、人に必要なものであるし、過度にそれをしすぎると、逆に体に良くないそうだ。細菌というミクロなもの小さなものを気にしている割に、会社ではその何倍もの危険性のあるタバコを吸っている。牛肉についても同じ事が言える。感染の可能性が極めて低いという科学的な根拠にも関わらず、その小さなことを気にするあまり一般家庭で食されている牛肉ではほとんど感染しないという事実に気付かないのだ。狂牛病に限らず、今後、何か深刻な事が起こったときに、私達はどのように行動すべきなのか改めて考えるべきだ。

評論

児玉大介

 9月半ば位に狂牛病が発見されて、3ヶ月余りが経とうとしているが、依然として感染源が特定されていない。やはり、その辺りの入荷ルートなどを、行政側がきちんとした管理体制を整えておかなかったからであろう。故に、国民も過剰に反応してしまったのである。また、農水省も新たな食肉管理の制度を導入することを検討しているという記述があるが、この程度の対応では、消費者の不安は取り除くことはできないだろう。「何処の誰が育てて、何を与えてきたのか」、というところまで消費者に分かる。それくらいのことはして欲しいものである。現状に目を向けてみると、軒並み焼肉店では、客が入らない。それもそのはず、何処の肉を使っているか分からないからだ。そんな中で、生産者の名前や入荷ルートを、消費者にちゃんと公表している店は狂牛病の影響を、ほとんど受けていない。約6年ほど前に「狂牛病に感染する牛がいるかもしれない」、という報告があったとき、農水省が、このような事を義務付けていれば、おそらくこんなことにはならなかったであろう。今後、もっとしっかりとした管理システムを構築することを、やってもらいたいものである。だだし、期待はしていない。

 次に、狂牛病問題での消費者の不安と過剰反応について。今回の狂牛病問題は、我々に、「食の安全」を考えるきっかけを与えてくれた。普段、何気なく食べているものでも今回のように一歩間違えば、我々の命に関わる大きな問題となってしまう。それゆえ、不安も出てくるだろう。しかし、過剰反応は避けたい。狂牛病の人体への潜伏期間が2〜8年と言われている。実際に今、牛肉を食べなかったからといって、どうこうなるというものではない。だから、日本人特有の過剰反応はさけたい。また、もう少し突っ込んで言えば、牛肉を食べるよりも、ポテトチップスなどの焼肉風味風のものを食べる方が、よほどまずいと思う。

 今回のこの狂牛病問題が、ここまでの大きな問題となってしまったのは、本来、草食である牛に対して、牛の肉骨粉を食べさせるという自然の摂理に反した飼育がもたらした結果だ。ある意味では、そうした生産者側の行為が生んだものかもしれない。しかし、我々消費者も生活が豊かになるにしたがい、自然の恩恵を当たり前のように感じ、食べ物を単なる「物」としか見なくなったのもこの問題を生み出した一つの要因であると思う。むかしのように「食」に対して感謝することも大切ではないだろうか。

 

狂牛病について

山本真理

欧州で発生していた狂牛病が日本でも発生してしまった。

欧州で発生した時点で、これは日本でも起こりうることだと認識し、きちんとした対応を政府や農水省などは取るべきであっただろうに、全く根拠もなく「日本は安全です」などといい、放置してしまった。

さらに、今もって狂牛病の感染ルートはいまひとつ不明である。

なぜ、どこから、どのように感染したのかが明らかにならない限りは、狂牛病が、日本国内でどの程度広まっているのかの予測もつかず、さらに消費者の牛肉への不安も消えることはない。

このような状況にあるにもかかわらず、政府の対応として目立ったことは、「風評被害」を避けようとすることだった。

確かに、牛を食べると狂牛病になるから恐ろしい、という噂が広まってしまうと、牛肉を食べることを避けるようになってしまい、畜産農家や、牛肉を使った食品を売る店などに大きな損害を出すことは避けられないことだ。

そしてその被害が少なくなるよう、牛肉の安全性を訴えることも必要だったのかもしれない。

しかし、そうは言っても、まず、はじめになすべきことは、原因の解明と、正しい情報を国民に知らしめることであり、それをしないで、風評被害に気を配ることは間違っていた。

国会議員の有志で集まったという、「牛肉を大いに食べる会」が焼肉を食べるパフォーマンスを見せたことも時期尚早であったし、また、潜伏期間が長いといわれる狂牛病であるから、いくら老人の議員が肉を食べて見せたところで、説得力は弱い。

さらに、彼らが食べていたのは当然高級肉で、狂牛病にかかっている危険性のある、つまり汚染肉骨粉などを摂取した危険性のあるような安物の肉ではない。

今回の事件で感じたことは、官僚・役人への不信感だった。

薬害HIVのように、今までも彼らは何度となく、しっかりした対応もせずに「安全です」と繰り返し、あげくのはてに大変な被害を出してきたのだから、到底その言葉を信じることはできない。

また、これからの肉は、しっかり検査して安全かも知れないが、問題なのは、すでに今までに狂牛病に感染した牛の肉が市場に出回って、それを口にしてしまっているかもしれないことだ。

そういえば、一頭目が発見されたのも、たまたま、行動がおかしかった牛を 調べてみてわかったことだった。

そうすると、それ以前の牛が見逃されていたと考えられなくはないのだ。

 やはり、抜本的な対応策が必要と言うことだろう。

 

田代容疑者 覚せい剤使用認める

及川裕一

 この記事を見た時、私は、驚いたのと同時に、「またか。」とも思った。というのも、田代まさし容疑者には、世間でも知られているように、『前科』があったからだ。昨年9月の盗撮事件は記憶に新しく、また、謹慎生活の後に、芸能界に復帰してから間もない。そんな矢先の出来事だったので世間で騒がれるのも無理はない。前回の事件後には、反省して頭を丸め、ボランティア活動をするなど、確かに改心したかに見えた。それなのに、今度はのぞきである。しかも、覚せい剤使用のおまけ付きだ。芸能人という、社会的な地位を築き上げてきた大の大人が、同じような過ちを繰り返すとは、私には信じ難いが、もっと信じられない思いなのは、家族や関係者であろう。

 容疑者が、つい先日芸能界に復帰した際、「自分がここまで頑張ってこられたのは、家族の支えがあったからだ。一番大切なものが何なのか、今わかった。」というようなことを、記者会見で言っていた。確かに、その通りだと思う。盗撮といえば、罪としては軽い方かもしれない。しかし、ある意味、殺人などよりも恥ずべき行為と言えるし、死刑にこそならないが、社会的には“死んだ”も同然であり、そこから復帰するのは、並大抵の苦労ではないだろう。世間の注目を浴びる芸能人であれば、なおさらだ。容疑者の復帰が、家族のおかげだというのも頷ける。なまじ有名であったために、家族に対する世間の目も冷たかったであろう。それでも、耐えに耐え、家族が支えて来られたのは、夫を、そして父を信じていたからではないのだろうか。そんな家族の信頼を、容疑者は、最悪の形で裏切ったのである。家族の絶望感は計り知れないものがある。

 だが、それだけではない。容疑者は、関係者やファンの信頼をも裏切ってしまったのである。いくら家族が頑張ってみたところで、ファンやスタッフあっての芸能人である。両者の協力があり、家族の支えがあって初めて成し遂げられた今回の復帰は、容疑者にとってラストチャンスだったのだ。それにも関わらず、くだらない事件で自ら棒に振ってしまうとは、まさに「救いようがない」の一言である。しかし、別の観点から見てみると、もしかしたら容疑者は『救われた』のかもしれない。というのも、私たちは容疑者を非難することはできるけれども、容疑者が何を思って今回の事件を起こしたのかを知ることはできないからである。容疑者ほど、失う物の大きい人間が、覚せい剤に手を出したのであるから、何かしらの悩みがあったのではないだろうか。一見、華やかに見える芸能界ではあるが、現実には相当厳しい世界であると聞く。全盛期に比べ、人気も落ちてきた容疑者が、覚せい剤に手をだしてしまったのは、仕方のないことかもしれない。容疑者にとっては、もはや、芸能界にいること自体が苦痛であったのかもしれないのだから。

 こう考えてみると、本当は、容疑者も復帰を望んではいなかったのではないかとさえ思えてくる。家族の支え、スタッフの信頼、そしてファンの期待。それらすべてが、容疑者にとってはひどい重圧となってのしかかっていたのかもしれない。前回の事件後の取材での、「ミニにタコが(耳にたこが)・・・・・」などというふざけた発言も、二度と復帰できないようにと、あえて言った言葉なのかもしれない、と思うのは考えすぎだろうか。今回の事件でも、容疑者がのぞいたのは男性の風呂場である。また、容疑者の所持品であったとされるビデオカメラにも、テープは入ってなかったというような話を聞いた。やましい行為をする人間にしては、謎が残る行為ばかりである。これを、ただ単に、「薬でおかしくなっていただけ」で済ませてしまってよいのだろうか。なぜこんなことをしたのかは、容疑者の口から直接聞くしかないし、真偽の程はまだわからない。しかし、できることならば、ただいたずらに容疑者を非難したり、復帰を望んだりせずに、容疑者がスカートの中や風呂場をのぞいてしまう前に、周囲の人間が、容疑者の心の中を“のぞいて”あげるべきではなかったのだろうか。

 

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