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エッセイ       島田祐里

携帯電話は便利です。いつでもどこでも、わざわざ公衆電話を探さずに、電話ができるようになりました。携帯電話は、一度持つと手放せなくなります。公衆電話は携帯電話の普及と共に数が減り、携帯の普及に、さらに拍車を掛けました。

 しかし、携帯電話には、長所しかないわけではなく、もちろん短所もあります。だいぶ前から、電車内や店内でのマナーが問題になり、今は、心臓医療機器の、ペースメーカーが、携帯電話からでている電波によって支障をきたすことがわかったり、携帯電話からでている電磁波が、人間の体に悪影響を与えるのではないか、とも言われていて、人間の生死に関わる問題にもなってきています。

また、最近では、電車に乗ると、必ずといっていいほど、「携帯電話の使用はご遠慮ください」という、アナウンスが流れます。しかし、それでも電車内で通話をする人が、後をたちません。そういう私も、友達からメールがくれば、「メールならいいか。」とついつい携帯を使ってしまう一人です。

 どうして携帯を手放せないのでしょう?携帯電話があることになれきってしまった生活の中で、つい、携帯電話を家なんかに置き忘れてきた日には、誰かからメールが、電話がきていないかな、と無性に不安になったりするのは、私だけではないと思います。いまでは、携帯電話で、誰かとつながっていたい、という強迫観念のようなものを持つ人が、増えていて、医学的にも、ちゃんとした病名がつけられているらしいです。

 いくら携帯電話が便利でも、「携帯電話に使われる」のではなく、「携帯電話をつかいこなす」ように、していきたいものだな、と思います。

Time is money!!

2年19組2番 赤松絢

 

 もうすぐ夏休みがやってきます。夏休みになったら、あれもしたい、これもしたいといろいろ楽しいことを思い描いているけれども、その前にあるのが前期テストです。テスト・・・私はこの単語を聞いただけで、吐き気がします。授業に出てもちゃんと聞いていない私は、この時期になるといつも焦り始めます。前期は法律科目がないのにもかかわらず、ピンチです。いつもいつも「次こそはちゃんと勉強するぞ!!」と思うのです。けれども、思うだけで実行できていません。高校の先生が「反省は次に同じ状況が来たときに、それができて完了」と言っていました。その通りだなぁと思います。本当に次こそは、授業にちゃんと出て、復習をして、テスト勉強をちゃんとしようと思います。

 そこで、私は時間を有効的に使うということを考えました。私は千葉に住んでいるので通学に1時間半かかります。いつもはその通学時間を睡眠に充てているのですが、これからは勉強しようと思います。また、普段はなんとなく過ごしている授業の空き時間も勉強しようと思います。

 時間の有効利用は勉強だけでなく、日々の生活にも応用できるのではないでしょうか。私は今、サークルなどで毎日楽しく大学生活を過ごしています。しかし、それだけではだめだと思うのです。大学生というのは、やろうと思えばなんでもできるし、何もしなければ何もない、全て個人にゆだねられていると思います。だから、大学生である私に与えられた時間を有効に使っていきたいと思うのです。そのために、なるべく早く自分が将来やりたい事を見つけたいと思います。そして、大学生活を今よりもっと有意義なものにしていきたいです。

スターウォーズについて

前田悠

韓国とトルコのW3位決定戦を観戦しなかったのは、スターウォーズマニアと私ぐらいであろう。スターウォーズマニアは観なかった、私は観られなかった、という違いがあるにせよ、あの晩、サッカーを観なかった人は少数派だったに違いない。

W杯の盛り上がりがピークを迎える中、多くの一般の方は知らなかっただろうが、スターウォーズの先々行レイトショーが行われた。私は、「テーハミングッ」と叫びながら韓国戦を観戦したい気持ちを抑えて、W杯なんか眼中にもないスターウォーズマニアたちの相手をしていたのである。スターウォーズの公開は一部の人にとっては、まさにW杯やオリンピックと同じレベルにある熱狂的なイベントであるのだ。彼ら相手には、映画のパンフレットに指紋をつけることも許されないのである。

一部では、ここまで盛り上がるスターウォーズだが、はっきり言ってそこまでの価値がある作品には思えない。内容はありふれているし、物語に深いテーマ性があるわけでもない。ルーカス監督は、アクションは描けるかもしれないが、心情の動きなどエモーショナルな部分は描けないということは、映画を見れば、明白である。映画史に照らしても、スターウォーズは、ハリウッドを腐敗させた戦犯映画であると定義されても間違いではないであろう。そもそも、一度完結した物語を遡り、また映画にするというプロセスが、商業映画としてのスターウォーズの姿を映し出しているように思える。

W杯においてナショナリズムを見たように、スターウォーズにおいてもナショナリズムに近い熱狂的な何かが渦舞いているようだ。しかし、その中核にあるものは、ドル箱と化した映画である。

「竹薮に 白々と舞う 虹の精」             高橋千尋

 脳血管性痴呆を患い、もう三年も入院生活を続けている祖父の「夢」を叶えるために、少し無理をして横浪(よこなみ)半島へ飛んだ。

横浪半島――そこは、高知県南部にある祖父の故郷。入江で波が横ざまに波紋を広げることから「横浪」と名付けられた、太平洋に向かって伸びる細長い半島だ。

祖父は、ヨレヨレの帽子を目深に被り、虚ろな目をしてゆっくりと「横浪の自然」を歩いた。鬱蒼とした竹林の中にある青龍寺(しょうりゅうじ)という寺まで来ると、広大な著莪の群生が迎えてくれた。それは、祖父が日頃から大切にしていて、ボロボロになっている写真そのままの風景だった。その写真には、着物姿の若々しい祖父母の姿があった。祖父のことを心配しながら「もっぺん、あの著莪たちに囲まれよったら、この人の物忘れも治るに」と言い残して逝った祖母の面影が浮かんできた。

眼前に広がる著莪たちは、あまりに優雅で、雄大であった。深緑色の葉の海に咲く、無数の著莪の花々。「蝶みたい」と思わず言うと、祖父が隣で何かを呟いた。「なに?」と聞き返すと「イリスヤポニカ。著莪の学名じゃったがか。虹の精っちゅう意味じゃき」と祖父は、気丈な土佐弁で答えた。私は驚いて祖父の顔を見た。口元には笑みを湛え、虚ろだった目には、輝きが戻っていた。

帰路に着く頃には、祖父は再び虚ろな表情となってしまったが、私はある決心をした。また祖父を連れて横浪の「虹の精」に会いに来よう、と。

最近のテレビ番組

 小野 育心

 最近、新聞や雑誌では、テレビ番組への批判がよく取り上げられている。この頃のテレビはおもしろくないというのだ。これには、私も同感だ。

 まず、手法の点で、私が好きではないのが、「繰り返し」だ。これは、最近のほとんどの番組に言えることだ。CM明けに、再度同じ映像が流されることがよくある。同じ場面を何度も繰り返し、後へ後へと引っ張ることが多い。このような手抜きをせずに、しっかりと番組をつくってほしいものである。

 次に、内容の点では、やらせや嘘の多さが気にかかる。最近のテレビ番組には、必ずと言っていいほど、やらせが含まれていると聞いたことがある。見ていて「やらせだ」と気づく番組も多いが、もし、ほとんどがやらせであるなら、テレビ局は視聴者をばかにしている。事実でないことを事実と信じて、私たちが楽しんだり感動したりしているとすれば、非常に腹立たしい。だからといって、「すべてがうそだ」と割り切ってテレビを見るのでは、おもしろみがない。最近のテレビはおもしろくない、という意見が多いのは、このことに多くの人が気づいたからだろう。

 やらせに似たもので、テレビ特有の誇張表現も目につく。もっとも気になるのが、テロップの多用である。大したことでなくても、大きなテロップを用いて、大げさに表現している番組が多い。番組の内容をおもしろくするためのものならよいが、ただ話していることにまでテロップをつけ、視聴者を注目させようとしているのは、フェアなやり方ではないと思う。内容で勝負できる番組が少ないというのは、テレビ好きの私にとって、とても残念なことである。

 今後、テレビ番組はこのままでよいのであろうか。テレビ局側も、視聴者側も、テレビのあり方を改めて見直す必要があると私は思う。

夢日記

 呉原恵美子

 私は、最近、夢日記をつけていた時期があった。私は、もともとそんなに夢を見るほうではないと思っていたし、実際、見てもすぐに忘れてしまって、見てないも同じような状況であった。そんな私が夢日記をつけるようになったのは、友人がきっかけだった。

 ある時、私の友人の一人が、よく夢を見るといって、夢特有のつじつまの合わない話を「今日もこんな夢を見た」という風に話してくれていた。その後、その友人は、本屋に行って「夢日記」という題名の本を買った。この本は、自分がいつ、どんな夢をみたかを書き込めるようになっていて、本の最後には、夢占いというのが付いていて、夢に出てきたキーワードで、占いができるようになっている。そんな夢を楽しんでいる友人を、少々うらやましく思った私は、前に「特命リサーチ」という番組で、夢を見たいと強く思えば、見られるようになると言っていたのを思い出し、さっそく寝る前には、夢が見られるようにと強く思うようにした。それから数日たった頃、私は、「夢を見たな」と自覚していることが多くなった。「特命リサーチばんざい。」早速、夢日記をつけて見ようと試みた。

 ところが、夢というのは、寝起きが一番鮮明に頭の中に残っているので、目が覚めてすぐに書くのが賢明なのであるが、これが意外にも私には苦しかったのだ。まだ頭が働かないうちにものを書くということは、こんなにも辛いものかと思った。そう思いながらも、読み返したときの達成感と面白さのために、力の入ってないミミズのような字で初めの頃は毎日のようにつけた。しかし、そのうちその辛さを体が勝手に悟ったせいか、あまり夢を見なくなり、当然、書くこともそんなになくなってしまった。

今となっては、私の夢日記は、めったに開かれ開かれることはない。よく夢を見て、且つ寝起きのいい人ならもっと楽しむことができるのに…と思う。

 

剣道ってきつい       森 茂樹

 

今年も暑い季節がやってきた。この体温を上回る熱気の中で、きつかった剣道の日々をふと、思い出した。剣道は、当然防具を着けながら稽古をやるので、稽古中はおそらく、四十度を越える暑さの中で運動をすることになる。稽古の終了した後は、例え、体温と同じような気温でも涼しく思えたものであった。そんな辛い剣道を何で十年以上やっていたのかを考えてみた。

 

 友達に剣道の印象を聞いてみると、やっぱり挙げられるのが、「くさい、あつい」である。剣道をやる人は誰も批判はしないだろう。自分でも「暑いわ、寒いわ、苦しいわ、こんな季節に何をやってるんだ」と何度も思ったことがある。

 武道は一様にして、過酷なスポーツだ。剣道の特徴を言えば、夏だろうと、冬だろうと、服装は変わらず、夏は立っているだけで汗をかくし、冬の床はまるで氷のよう。試合は個人一人で戦うから、誰も助けてくれないし、自分しか頼れない。稽古で楽をするも、苦しい思いをするのも、自分しだいだ。つまりは、自分との戦いのである。

 

 武道と球技系のスポーツの違いは、この精神面が挙げられると思う。球技などのスポーツでは、試合に勝つ喜びとか、チームの団結感とかを味わえるだろうが、相手に対する恐怖感、責任感、忍耐力などは味わえないだろう。

 

 今、思えば、自分の剣道をやっている目的は、試合に勝つというよりも、精神を磨くためだったのだ。確かに、いじめられっこだった小学生時代に比べれば、精神的にずいぶん強くなれたと思う。今後、何度も生活で辛いことがあるだろうが、そんなときは、倒れるまで稽古した、あの剣道の日々を思い出そう。そうすれば、何でも越えられるような気がするのである。

 

ロックフェス               宮地陽平

 私はロックが好きだ。特にライブで聴くと、すべてのことが「もうどうでもいいや。」と思えるほど、テンションが上がる。みんな水をかけられたようにびしょぬれになって、前の人の髪が口の中に入り

ながら、大暴れする。私も最初はとまどったが、今はこんなに楽しいところはないと思っている。

 ライブは、基本的に1組(2,3組のときもあるが)のアーティストが行う、ワンマンライブが主流だが、夏になると、何十組のアーティストが大自然の中演奏する、ロックフェスティバルが多数行われる。もっとも有名なのが、新潟であるフジロックフェスティバルと呼ばれるものだが、実は、他にも5,6個あるのだ。

 ロックフェスの醍醐味は、なんといっても好きなアーティストを一度にたくさん見られるということだ。1万円ほどで、20組近くが見られるのだから、値段も割安だ。また、自然の中、オールナイトで騒ぎ通せるのも、大きな魅力の一つだと思う。もちろん酒も飲んで、お祭り騒ぎだ。泊まりたい人は、フェスの中にあるテントサイトで、泊まることができる。友達もできたりと、なかなか楽しい。

 私は北海道であるフェスに参加するつもりだ。少し遠いのが玉に傷だが、がんばって行ってみると、きっといい思い出ができると思う。

ロックが好きな人も、そうでない人も、特に予定がなければ、ぜひ参加して欲しいと思う。

「ハタチをむかえて」

 安島亜耶

 

 この間、ハタチになった。タバコもお酒も合法、もう私を縛り付ける規制は何もない!と粋がっていたその時、実家の母から電話がきた。開口一番「おめでとう」と思いきや、母の口から出た言葉は「国民年金なんだけど」であった。感無量で舞い上がってた私も、その言葉で一気に意気消沈してしまった。・・・国民年金。噂に聞いていたアレだ。ひとつ年上の友達が払うだのまだいいだの言ってたなあ。その他にも住民票について、挙句には選挙権についてなど、小一時間母親に説教されてしまった。年金・・・つまり「税金」。わたしも税金を払う年になったんだ。とりあえず住民票は実家の福島のままにしてもらい、国民年金については大学卒業後から納める、といった方向でまとまった。一通り説教を終えた後、母はやっと「お誕生日おめでとう」と言ってくれた。

 電話を切った後、しばらく私はぼんやりしていた。二十歳になった瞬間、私は開放感でうかれていた。目の前に広がった自由に心がときめいていた。ところが今はどうだろう。なんでも自分で出来る、そのかわりその分背負うものも格段に増えてしまった。いつまでも周りに甘えてはいられない。自分が「大人」になったんだな、と実感するとともに、なんだか今までとは別物の「責任感」が私の中に芽生えたような気がする。わたしも成人の仲間入り、中身も大人にならなくちゃ!とりあえず当面の抱負は「カッコいい女になる」こと。前を向いて、進んでいこうと思う。僕は時々思う・・・

中川雅之

 

もう夏がやってくる。

僕は夏が好きじゃない。夏は、哀しいから。

中学・高校とバスケットボール部にいたので、六年間体育館の中で夏を過ごした。

僕の中の夏は、燃えるような太陽でも、焼け付ける砂浜でもなく、蒸し風呂のような体育館の中で、酸素が足りない中走り回ることだった。だから、夏は嫌いだった。暑いからじゃない。友達が真っ黒になって、夏の思い出を楽しそうにしゃべっているのに、バスケ部だけ白いままで、夏の間中バスケットばかりしていた自分が悲しかったからだ。

去年の夏は、180度違う夏だった。海辺をジープで走って、汚い伊豆の海に飛び込んだりした。好きな娘と花火にも行った。多摩川沿いの河川敷で,一晩中騒いだりもした。僕が憧れていた夏の過ごし方のはずだった。

ただ、去年の夏は、夏休みは、何かが足りなかった。楽しかったのだけど、哀しかった。自分を傷つけては喜んでいるようだった。去年、伊豆で浴びた日差しは暑かったけど、何も感じなかった。熱くない夏だった。熱くなれない夏だった。日焼けした姿は、まるで自分が自分じゃないみたいで、なんだか少し哀しかった。

今年も夏がやってきた。今年の夏も相当暑そうだ。今年の夏も、海にもいくし、旅行にも行く。バーベキューだってするし、益子焼も作りにいこうと話している。きっと毎日が楽しくて、昼間だって夜だってずっと腹抱えて笑っていられるに違いないけど、きっと夏が過ぎれば、僕は哀しくなるだろう。

熱くなれない夏だから。

夏には、悲しみが付きまとう。だから、僕は夏が好きじゃない。

水谷謙介

毎年夏がやってきて、「土用の丑の日」が近づいてくると、脳裏にあの出来事が甦る。それはマンションの自治会が運営した「夏まつり」でのことだった。焼きとうもろこしやスイカ、それに氷水につかったジュースなどが子供たちのために用意されていた。そして、「つかみどり」。餓鬼に摑ませるのはイワナだと相場が決まっているのだが、何故かその年は「うなぎ」だった。空気を入れて膨らまされた家庭用プールには、何十匹もの「うなぎ」がとぐろをまいていた。黒いうどんさながらの奴等は実にいきがよく、日によく焼けた餓鬼共の相手にふさわしかった。会長は、我ながら趣向を凝らしたイベントだと皺だらけの顔に笑みを浮かべていた。無論「今日あつまってくれた坊やたち」は大喜びだった。好奇心とあり余った元気は、スタートの合図と共に爆発した……。

 その場所に、小学校にあがったばかりの私もいた。私は「うなぎ」が嫌いだった。口に入れると、無数の骨が口腔につきささる。見た目もミミズそっくりでおぞましかった。舌にのせるだけでも汚らわしいから、ピーマンと同じように、噛まずして牛乳で流し込もうとする。この時、骨がのどに突き刺さって、一晩中痛みに耐えねばならぬ事もあった。

 私は自分を無理やり引っぱってきた父に言った。「ね、帰ろうよ。ぼく、うなぎなんて嫌だよ。」

「何を言うか、謙介。うなぎをとって男になるんだ。」「うなぎは、つるつるしてるもの。つかめないよ。」「よし、パパが見本をみせてやる。」そして父は餓鬼共の間に割り込んで、大人気なくもはしゃぎながら、遂に一尾を掴まえた。「どうだ、簡単だろう!」しかし得意なのもここまでだった。宙に掲げられたその一尾は、にょろっと父の手を逃れ、地面に落ちた。砂にまみれた。のたうちまわっていた……。「どうした?あれなら掴まえられるだろう。弱ってきているし……。」剛毅果敢で知られる父もさすがに手をだしかねた。あのミミズ野郎には。父はたじろぐ姿を糊塗すべく、すくんでいる私に、更に追い討ちをかけた。「あのミミズ……いや、うなぎを掴まえなければ、今晩からずっと、飯にはうなぎをのせる。」だから私はうなぎを握った。仕方がなかったんだ。「よくやったぞ。これでお前の体育の成績もうなぎ登りだ。」奴は暴れた。砂は石刃の役目を果たし、暴れれば暴れる程うなぎの表皮を傷つけた。そして裂いた。飛び出た内臓が私の手を血の色に染めた……。

 永遠にうなぎと縁を切ったつもりであった私。しかし運命は私の意思になど関わりなく進んでいく。小学校六年生の給食のときであった。「うなぎとホウレンソウのあえもの」が献立にあらわれた。しかし、うろたえることはなし。予め、教師にバレずに捨てられる戦略をたてていた。頬袋に詰め、便所で吐き出すのだ。ハムスター作戦。楽勝だ。かかってこい。今の俺は、六年前の俺とは違う!勢いに乗った私に、弱点は無い筈だった。「女の子」という存在を抜かせば。箸を手に持ったとき、よく透る声が私の耳朶を打った。隣に座っている可愛くて憧れの美保ちゃん(仮名、12才)だった。「ねえ、お願いがあるの。聞いてくれると、うれしいな。」手を伸ばせばすぐ届くところに位置しながら、私は彼女にほんの一言すら話しかけられなかった。それが、今、彼女が私にその美しい声を聞かせてくれている。「な、なんだい!どんなことでもきいてあげるよ!!」「うなぎを食べて欲しいの。わたしの代わりに……。」初恋の相手から救いの手を乞われ、放っておける男がいるだろうか?我が身を投げ出さない男が、この世界のどこに?「いいとも。大好きなんだよ。君、じゃなくて、うなぎが。」私は食った。食いまくった。「よかった。『ごんぎつね』を読んで以来、食べられなくなってしまったの。涙が浮かぶのよ。」そういえばあの悲劇は『ごんぎつね』がうなぎを男のびくから盗み出すところから始まるんだっけ、そう思っている間もなく、臭気が口の中に充満した。吐きそうだった。

……次の週もうなぎが給食にでた。彼女が給食当番だった。私の心臓の音は高まっていた。彼女が私を見つめていたが、それが理由ではない。恐怖のためだった。「水谷君はうなぎが大好きなんでしょ。この前のお礼。山盛りにしてあげるね、三人前!」

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