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和泉の二年間で得たもの                      法学部2年1組7番  大高 友志

 今思うと、私の小学校・中学校時代は周りに流されてばかりの日々でした。  好きでもなかった野球も、親に連れられて地元の少年野球チームに見学に行き、いつの間にか入部ということになっていました。日曜・祝祭日が練習日であり、休みが潰されるのがいやだったにもかかわらず、そのことを親に言い出せず、結局小学校3年生から中学校に上がるまで続けることになりました。  中学生になってからもこの傾向は変わらず、友人が入るというバレーボール部になんとなく入部し、中学3年間をバレーボールに捧げました。  高校に入ってからも変わらずで、中学校から一緒に進学し、同じバレーボール部に所属していた友人とともにバレーボール部に入部しました。  上記の野球とバレーボールの例は、結果としてよい方向に作用し、心身ともに鍛えることが出来たので私の人生にとってはプラスになったわけなのですが、両者とも始めるきっかけが曖昧なものだったので、やはり流されたという感が否めません。  受験に突入してから、少しは自分のことを見つめなおしてみようと思い、きちんと志望校を決めて勉強していたつもりだったのですが、努力実らず失敗してしまい、一年間の浪人生活をおくることになってしまいました。  長く苦しい1年を経て、やっとの思いで合格できたのが明治大学法学部でした。ここを私の人生の転換点にしようと意気込んでいたのですが、大学という場における学生たちの自主性の高さにはとても驚かされました。何から何まで自分の力でやらなければ、すぐにでも置いていかれてしまうという状況に置かれて初めて私は自分のふがいなさを痛感しました。  それからというもの、私は主体性を意識して行動することを心がけるようにしました。その甲斐あってか、何とか人並みに主体的に行動ができるようになったのではないかと思います。  今まで、私は自分で何かを決断することから、ずっと逃げていました。大学に入ってからはじめて気がつくにしては遅すぎるのかもしれませんが、気づかずに流され続けるよりはよほどよかったと思います。ですから、和泉校舎で過ごしたこの約2年間という月日は、私の人生の大きな転換点になってくれる重要なもの私に与えてくれました。  これから歩む長い人生において、和泉で得た「主体性」を常に意識し、本当の意味での「自分の決断」というものを下せるように、そしてその決断を尊重していきたいと思います。

和泉の2年間で得たもの 2年20組11番 小野 育心

 大学生となり、2年が過ぎようとしているが、まず思うことは、「あっという間の2年間だった」ということだ。大学というところは、わりと余裕があるものだと思っていたが、いざ大学に入ってみると、大学のことだけでいっぱいいっぱいだった。 将来のことを考える余裕もなく、とにかく大学の勉強をこなすことだけを考えるようになってしまった。大学は家から遠く、時間的余裕もなかった。1限のある日は6時前に起き、5限まである日はまっすぐ帰っても7時半になってしまう。バイトのある日はさらに帰りが遅くなるため、体がもたないと思い、サークルには入らなかった。そのかわり、授業には積極的に出席した。奨学金で学費を払っているため、大学の勉強は一生懸命やりたいと思ったのだ。朝っぱらから学校に行き、通り道である渋谷や下北沢などに寄ることもなくまっすぐ家に帰る。「おもしろくない大学生活送ってるな〜」と思ったこともあった。しかし、大学には好きなことを勉強するために来ているのだということを思い起こし、今はこの生活に満足している。私は高校時代から法律に興味があり、勉強してみたいと思っていた。そして、明治大学法学部に入学し、その夢がかなった。しかし、実際に法律科目の授業に出ると、先生の言っていることがほとんど理解できなかった。法律的な考え方が全然わからなかったのだ。ノートもどうやってとればいいのかわからない。大学の授業はただ聞いていればどうにかなるというものではない。出席しているだけで満足していてはいけない。積極的な姿勢で取り組み、自分なりに工夫して勉強することが大事なのだ。ただ黒板を写していればよかった中学・高校とはまるで違い、私は当初戸惑った。結局、1年次のノートはひどいものだった。 2年生になり、このことを反省して、授業の聞き方やノートのとり方のコツを覚え、自分なりにまとめられるようになった。物事を整理するのが苦手だった私にとっては、大きな進歩だ。さらに、法律を2年間勉強したことで、論理的思考能力を養うことができた。身近なこともさまざまな観点から論理的に考えることができるようになり、高校時代にはあまり興味のなかった時事問題などについても、以前とは見方が変わり、自分なりに考えてみるようになった。この2年間で、私の頭の中は大きく成長したと思う。あと、高校時代と大きく変わったことは、掲示板を見て行動するということだ。大学では甘えは通用しない。自分で掲示板の連絡事項に注意していなければならない。見逃せば、それは自分の責任。そこで自立性が問われるのだ。以前、掲示板を見逃して大きな失敗をしたことがあったため、今では注意している。  和泉での2年間は、私にとって、考え方や自立性を養った貴重な2年間であったように思う。  

和泉の2年間で得たもの 【明治大学法学部 2年14組 北野有里子】

冬休みも終わり、久しぶりに学校へ行くと、随分久しぶりなためか、とても懐かしく感じた。大学に入ってから、高校の時のように、毎日、朝から晩まで学校内で過ごすのと違い、校内にいることも不定期になった。サークルに入っているが、その練習も、校内では行わないし、授業が終わると即バイトという日もたくさんある。そうなってくると、自然学校に対する思いいれも薄いかと思えば、そうでもないのだ。 おととし、入学して最初の説明会で、初めて和泉へ来たとき、とても広いと思ってビックリした記憶がある。第4まである校舎、奥まった体育館、あのころはまだ、AV棟は名前しか知らなかった。そして人の多さ。今思えば、新歓シーズンなので当たり前なのだが、校門前の人だかりを怖いと思いもした。みんながとても大人に見えたし、知り合いもいないので、本当に心細かった。でも、そんななかでクラスが出来、友達が出来、サークルも見つけた。段々と色々なことに慣れ、もちろん、校舎にも馴染んできた。そして今、4月からはリバティーに行くという現実が近づくと、和泉に居たいと切実に思う。もともとあまりリバティーが好きでないのもあるが、私なりに得たものが、思い切り後ろ髪を引っ張るのだ。 何を得たか。まずは友達。クラスの友達は、仲がいい。しかも法学部にあって女の子が20人程もいるというのが大きいのかもしれない。クラコンならぬ、女子コンをやったくらいだから。みんなとはもう、ほとんど集まることはないだろう。切ない。 そしてサークルの人達。私にとって、和泉での2年間は、サークルでの2年間とほぼ同じような気がする。3年生で引退になると思うと、かなりつらい。 テストで苦しんだ思い出…というのは、あまりいらない思い出だが、まあそれも、一応は和泉での思い出ではある。 勉強だとか、人間関係だとか、いろんなことで悩んだこともある。 …和泉での2年間は、高校から大人、社会人になる過程において、私に、かなり広い世界を見せてくれた。知らなかった世界、知らなかった考え方。得たもののなかで、それは、かなり重要だったのかもしれないと思う。 大学生活も、あっという間にもう後2年。リバティーに行ったら就活だとか、試験だとか、そんな話も始まるだろう。でも、私には、まだまだ分からないことや、子供っぽいところもたくさんある。でも、どんなに嫌がったって、子供でなんていられない。だったら、遊べるうちに精一杯遊んで、勉強であれ、他のことであれ、学べることは頑張って学んで、残りの2年を無駄にしたくないなぁ…と、和泉を振り返りつつ考える。 和泉の2年間で得たものを大切に、そして糧にして、リバティーでも頑張りたい。 ≪2年間、お世話になりました。先生の授業、お世辞じゃなく、楽しかったです。≫

和泉の二年間で得たもの 前田 悠

「大学では自主的に考えて、行動しないとただ時が過ぎていってしまう。」今、和泉での二年間を振り返り、大学に入る前によく耳にしたこの言葉が、骨身にしみる思いがする。 実感として感じることは、私は、まさに世間一般でイメージされる「大学生」ではなかったか、ということである。受験からの解放からか、勉強はほとんどしなかったし、大学の授業より遊びを優先させる生活をしてきた。おかげで、法律科目の試験はぼろぼろであった。 入学当初こそ、高校の時との環境の変化に戸惑ってはいたが、今では、高校生の時に、毎朝ちゃんと起きて、学校に通っていたのが、奇跡のように思える。人間の環境変化に対する、順応能力の高さを実感したような気がする。そして、「大学生」とは、自由な時間をたくさん有しているものである。高校の時は、大筋、時間割が決まっていて、みんなの生活リズムがほとんど同じだった。大学では、みなそれぞれの時間割に基づいて行動するため、自分で時間を作ろうとすれば、いくらでも自由な時間を作ることができる。まったく大学に現われない友達もいるが、いったい何をして過ごしているのか、といった具合である。そんななか、私はというと、自由な時間を、遊びとバイトで費やしてきた。こんな生活をしてきたせいか、多くの人と出会うことができ、高校の友達とは違う雰囲気の友達もできた。しかし、その友達のひとりから大学を辞めると聞いた時は、とてもショックであった。なぜショックであったかというと、自分がいかに「大学生」という安定に落ち着いていたか、ということに気づいたからである。自分のやりたい事を見つけ、充実した日々を送る友達は、輝いて見えたし、うらやましかった。それは、私が、未だに、自分のやりたい事を発見できないからであろう。この二年間の生活を参考にして、残り限られた大学生活を、毎日、大切にして過ごして、自分の方向性を発見したいと思う。 三年からは、リバティータワーに校舎が変わる。和泉校舎も、最初こそはショボイ校舎だなぁと思っていたけど、いざ、離れるとなると、緑も多く落ち着いた雰囲気で、いい校舎だった、と寂しいものである。友達との出会いだったり、憎き法律科目たちとの出会いだったり、楽しい和泉二年間であった。最後にしっかり単位を取って、和泉とお別れしたいと思う。『和泉の二年間で得たもの』

法学部2年1組19番 小林靖正

 小学校の卒業アルバムの文集を開いて見ると、自分は将来の夢として、「理系をがんばる」と書いていた。そして今、自分がいるのは、まるで正反対の文系法学部。  法学部に行きたいと思い始めたのは、高校生になってからだ。数学が苦手だったということもあっただろうが、法律の分野に興味があったのも事実。大学受験の末、無事、明治大学法学部に入学することが出来た。自分の新しい夢に一歩前進した気がした。  大学という、今までの小・中・高校とはまるで違う学生生活に、当初は当然のごとく戸惑った。毎日びっしり詰まっているわけではない時間割、自由な服装、新しい仲間、短い期間ではあったけれどもサークル活動、そしてバイト、どれもこれも新鮮だった。  こうした新しい刺激を受けてか、自分の気持ちの中でもいくらか変化が生じてきた。それまでは法律というものしか目に見えていなかったのだが、他の分野のものにも興味が湧いてきた。政治や経済、建築、天文…、全くもってバラバラだ。大学に入り、一気に視野が広くなったようで、自分でも様々なことを知ってゆくのが楽しい。反面、当たり前のように不安も感じる。つまり、「自分は将来何になるのつもりなのか?」という不安だ。 法律職を目指そうとして法学部に入ったのだから、当然にその道を突っ走るものだと思っていた。しかし、こうした新しい物事への興味がその速度を緩ませる。このような興味は一時的なものにすぎないかもしれないし、趣味の域を出ないかもしれない。そんなことを考えていると、自分は本当に法律家を目指そうとしていたのかと、当初の目的さえもぼやけて見えてしまう。こうして自分が悩んでいる(?) 一方で、友人の中には一途に自分の目標に向かってひたすら進んでいる者もいる。琴職人を目指している者、医者を目指している者…、こうした友人をみていると、余計に自分の今の状況に不安を覚え、焦燥を感じてしまう。 こんなことを愚痴半分で話したら、「そんなの、悩んで当たり前だ。」と誰かが言ってくれた。自分でもそう思ってはいるものの、やはり人に言われると心なしかホッとする。くだらない事かもしれないが、今、自分は将来のはっきりとしない不安を抱いている。しかし、それで終わってしまえばこれから先何も起こらない。不安を感じて悩むのは当たり前なのだから、それを受け止めてそれでも前へ進んでいけるかが重要なのだ。目標を早いうちから見つける人、時間がかかる人、人それぞれであり、おそらく自分は後者だろう。大学で新しい目標を発見することだってある。言い訳かもしれないが、そう考えることにした。 大学に入って2年が経過しようとしている。この間、今まで以上に自分を見つめ直すきっかけができたと思う。それまでは世間知らずとは言わないまでも、それなりに限られた範囲内でのものにしか目を向けていなかった。未知の物事に接してゆくことはその分不安をもたらすが、それ以上に、自分の目標をより強くする、または新しい目標を見つけ出すチャンスだ。

和泉の2年間で得たもの 法学部法律学科2年14組 安島 亜耶  

私がこの2年間で得たものは、「自立」という心構えであると思う。  第一に、生まれて初めて親元を離れ、自分に関わるあらゆる事を自らで管理しなければならなくなった。それは、私にとっての大きな転機であったと思う。  高校の時とは違い、勉強でも、コネクションでも、自分で動いて初めてできるものであり、その責任もまた全て、自分に降りかかる。慣れない生活に、はじめはストレスも溜まったが、今は随分と慣れてきた。そしてそういった生活をして、改めて、自分がたくさんの人に支えられていたことを実感したように思う。  第二に、常に将来の事を考えるようになったと思う。未来のビジョンを見据え、そのためには、今、自分が何をすべきなのか、また、何ができるのか。そんな試行錯誤を繰り返すようになった。高校の頃は、与えられた教材やテキストをそれなりにこなしていれば、成績も上がったし、先生方が自分の進路について常に的確なアドバイスをしてくれた。今は、テキストもアドバイスも自分で選び、探さなければならない。「自分のことは自分でする」という、当たり前のことがこれ程大変な事であることを、身をもって学ぶことができた。  それらの責任感を一番痛感したのが、11月にした引っ越しだと思う。私は、今は一人暮らしをしているが、以前は学生寮に住んでいた。寮は、居心地の悪い所ではなかったのだが、門限が早く、時間に拘束されるのが不便だったので、一人暮らしをすることに決めた。両親は、お前が決めたのならそうしなさい、と認めてはくれたが、その代わり、自分一人で物事を対処しなさいと言った。私は、敷金・礼金・仲介手数料など新居にかかわる費用を全て自分で支払わなければならず、アルバイトで稼いだお金を何ヶ月もため続けた。部屋も、あちこちの不動産屋を見てまわり、ようやく今の部屋に決めて、自分一人で契約し、生まれて初めて何十万というお金を動かした。その時期は、ものすごく忙しくて、大変だった。今は部屋にも慣れ、憧れの一人暮らしを満喫しているが、寮に住んでいる時と比べて、自分で処理しなければならないことが多くなった。  体調の管理もまた同じだ。私は、12月に高熱を出して、何日も部屋から出られずにいた時があった。その時も、友達が見舞いに来てくれたりご飯を作ってくれたりして、大変な心配をかけてしまった。バイトもしばらく出来ず、自分が体調を崩すと、他の人にも迷惑をかけることを実感した。自分のためにだけでなく、友達や家族にも心配をかけないよう、体調を管理しなければならない。  とにかく毎日が新鮮で、新しい発見、学習の連続だったように思う。今まで生きてきた20年間の中で、最も内容が濃く、そしてあっという間の2年間だった。大変な時期、辛い出来事もあったが、仲間に支えられ、また自分自身を見つめ直したりして、いろいろな苦難も乗り越えてこれた。思えば、こんなに自分について考えた2年間もなかったように思う。 残りの大学生活も、きっとあっという間に過ぎてしまうと思う。あと2年、充実した毎日を送っていけるように努力したいと思っている。

島田祐里

大学での生活は、高校と比べておもしろくない、という話をきいていた。それは、大学にはクラスの決まった教室というものがなく、クラスでまとまる機会が少なく、みんなで一緒になってさわぐ機会がないからだ、と。学園祭のない明治ではなおさらだと思った。そこで私は、なにかサークルに入ろうと思った。とくにやりたいことは決まっていなかったけれど、みんなで楽しめるようなサークルに入りたいと思った。予定通り、わたしはあるサークルに入った。「サークル」と言うより、その厳しさは「部」のようなものだったが、それでも、ただ遊ぶだけのところよりは私に合っていたし、厳しさと楽しさの両方がつまった部だった。 厳しい面としてはまず、上下関係がある。50年続く私の部には、何百人ものOB,OGの諸先輩方がいらっしゃって、交流する機会も多い。自分の祖父ほどの先輩とも、厳しい上下関係があるからこそ、いい関係が築けるのだと思う。 そして、次に改選。私の部は年に一度、雄弁部と化す。来年度の方針と役職を決めるための話し合いだが、自分を見つめ直し、自分の考えを伝える力を身に着けるいい機会になっている。  最後に,夏合宿が厳しい。とりあえず長い。八泊九日。場所は、茨城県大洗にある神社で、毎年行われる。そして、朝が早い。境内の掃除などがあるので,朝は毎日5時起き。掃除が終わると,朝ご飯も食べずに、体練をおこなう。一応文系のサークルのはずなのに,夏合宿では、腕立て、腹筋、背筋、柔軟をおこない、そしてひたすら走る、走る、走る。そして、練習。やっとご飯にありつき、短い休憩を取る。これを、早朝、朝、昼、と繰り返し、眠りにつくのは、夜の12時過ぎ。肉体だけでなく、精神をも鍛える恐ろしい合宿だ。 楽しい面はいろいろあるが、交流が一番楽しいと思う。さきほども書いたが、たくさんいらっしゃる先輩との、世代を超えた交流。そして、関西や中四国地域にある大学の仲間たちとの、地域を超えた交流。このサークルに入ったおかげで、世界が広がった気がする。そして、現役部員との交流。この部には部室が与えられているので、ちょっとした空き時間に顔を出せば誰かしらに会える。さながら、部室は高校での教室のようで、先輩も同輩も後輩も、みんなで楽しい時間を共有する。 また、練習の回数も多い。昼練習は自由参加だが毎日あるし、放課後の練習は、全員参加,時間厳守を原則に、週に三回ある。明治は、一、二年と、三、四年で校舎が違っているが、会う機会が多いので、四十人ほどいる部員は仲がいい。 もちろん言い合いもするし、軽い喧嘩もする。だけど、このごろよく思う。仲がいいからこそ、言いたいことを言い合えるのだ。 私がこの和泉で過ごした二年間で得たもの。それは、かけがえのない友情、世代や地域を超えた堅い絆で結ばれた人々との出会い、そして、自分自身への挑戦だった。

和泉の二年間で変わったこと 2年1組46番 屋井正憲

この二年間で変わったことの多くは、生活面に見られる。まず、学校に行くのに二時間かかるので、1限を取らなかった今年ですら、高校生のときと変わらない時間におきなけばならない。しかも、バイトが居酒屋で、主に遅番で入るので、睡眠時間が足りない。二限は遅刻、欠席が増加。この論文演習の授業には、間に合わせるために、特急料金を支払うこともしばしばであった。こうして、私の単位は、テストどうこう以前に削られていくのであるが、悪いことばかりでもない。バイトをして自分で金を稼ぐことで、親の金銭面の負担を軽くしていると思うし、バイトも楽しいので、充実している。 それと、浪人というブランクはあるものの、高校からはじめたバスケを大学に入ってからまたはじめた(小・中学校は野球)。最初は部活みたいにガツガツやって生きたいとも思ったが、今はバスケに対する考え方が少し変わった。今、彼女の知り合いでやっている社会人中心のバスケサークルにも参加している。つまり、自分より若い者からおじさんまで、様々な人がいる。ホストもいれば理容師や美容師、トラックの運転手から、タダの不良まで、本当に様々な人が来る。中には、自分より上手い人もたくさんいるし、当然メチャメチャ下手な人もいる。けれども、自分が今後いかにバスケと、そしてスポーツと関わっていくべきか、それが見えたような気がする。いわば、生涯スポーツの観点に立ったといえよう。別に選手としての気持ちを捨てたわけでもなく、今後も出来れば選手として活動したいが、その中でも、自分のバスケに対する考え方が統一されてきた。 また、ひとつ悩みもある。最近の不規則な生活と酒のせいで、脇腹などに若干の肉がつき始めた。手遅れにならない内に対策を練りたい。

和泉の2年間で得たもの                     法学部2年20組47番 横野隆義

 僕が明治大学に入学してから、はやくも2年が経ってしまった。大学生活というものは本当に早いものだ。もう入学した頃のことはほとんど覚えていない。入学式が懐かしく思える。  2年間和泉校舎に通って得たものといっても、すぐには思い浮かばない。何も得てないといえばそれまでなのだが…。和泉校舎での生活を思い返してみると、僕の生活の大半を占めていたのは、サークル活動である。大学でもサッカーを続けることは、高校のサッカー部を引退したときに決めた。自分にはサッカーしかないし、高校の最後の大会がふがいなく終わり、悔いが残ったからである。今思えば、大学でもサッカーを続けて本当に良かったと思う。とゆうか続けていなかったら、本当に何もしない大学生活になっていただろう。幸運にも、サークルの仲間たちにも恵まれた。一生の付き合いになるだろう。  サッカー以外の生活については、さえないものだった。入学時には、一応法律家になろうと考えていた。しかし、法律の勉強はやる気が起きず、授業よりサークルやバイトを優先させているうちに、法律家になるのはいつのまにかあきらめていた。自分の中で「法律系の授業=でなくていい」と言う方程式ができ、今は週に3回しか大学に来ていない。頭も確実に受験期より悪くなっている。  でも僕は、二年生まではそれでもいいと思っている。大学生活中は遊ぶのも大事なことだ。卒業して就職してしまったら、もう全く遊べないのだから。今しかバカなことはできないのだ。しかし、それも二年生までの話。ここからはそうはいかない。  まず僕は、資格を取りたいと思っている。今考えているのは、宅建。それとパソコンもできるようになりたい。それと、もう少し大人になりたいとも思う。いろんなことに挑戦してもっと社会勉強を積みたいと思う。  この2年間を改めて振り返ってみて、あまりにも得たものが少ないことに気づいた。でもそれなりに楽しかったから良しとする。残りの大学生活は有意義に過ごしたいと思う。自分の中で、サッカーの代わりになるぐらい夢中になれるものを、早く見つけたいと思う。

和泉で得たもの 20組39番 森田 夏樹

 和泉で得たものというテーマを聞いて、パッと何も浮かばない自分を恥ずかしく思ってしまった。この二年をよく考えて振り返ってみると自分はいろいろな刺激を受けたり、それまでの自分には予想もできなかったようなことを体験したと思う。それはやはり自分の時間ができたことに理由があるのだと思う。部活や大学に入ることが目標だった高校時代や、ひたすら勉強することが義務というべき浪人時代には経験できなかった、あまりにも目標がない、つまりプレッシャーがない日々が訪れたからだ。  弁護士などこれからの目標を早くから見つけていた人にとって大学入学は、新たな戦いの始まりなのだろうが、自分はまずその目標を見つけることからはじめなくてはならなかった。しかし、今思うとその目標を見つける過程こそが「得たもの」なのかもしれない。  自分の時間を持て余していた自分はまず、アルバイトを始めて社会にデビューした。アルバイトといえどもお金をもらっているので、その責任は果たさないといけないプレッシャーの中、多くのものを得た。そしてひたすらアルバイトをして貯めたお金で自分の夢をひとつかなえることに成功した。世界遺産である遺跡を見たことである、このことも英語の大切さや、多くの人々との出会いでたくさんの刺激をもらった。これでは大学生として得たものが、「自分の時間ができたこと」だけのような感じが出てくる。しかし残念だが、この和泉から直接に学んだことはほとんどないような気がする。確かに法律の知識はある程度身についたし、必修のスペイン語もある程度は話せるようになったが、それは自分の考える「得たもの」ではない。  あるときほろ酔いの親父が言った。「それは経験しただけじゃない。」確かに経験しただけだった。いろいろな刺激を受け経験をしたが、その情報を元にして何か行動を起こすことはしなかった。自分が思う「得たもの」とは、そこで何らかの行動を起こすことによって得るものであって、この二年で得たものは、そのきっかけに過ぎない。和泉の二年間で得たものは自分なりの「得たもの」の定義と、「得たもの」への材料だ。

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