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自分の糧となるもの     2年1組29番 高橋 千尋

「高橋、お前、法学部に決まったぞ」  2000年12月22日。明治大学法学部に推薦が決まったあの日、電話口から聞こえた担任の第一声は喜びに満ちていた。 高校時代、幾度となく書かされた進路志望調査票に「法学部」の文字は無かった。法学部は同学年の中でも成績優良者しかいけない、という暗黙の了解のようなものがあったし、法律になんて興味の「きょ」の字もなかった。  しかし高校3年の6月。付属生のために催される公開授業の際、友人に付き合って法学部の授業(N先生とK先生)を受けた瞬間、衝撃が走った。この先生たちの授業を受けてみたい、と。  危険な賭けだった。10段階評価で8以上あれば明大推薦される、という学校方針に反し、総合評価は7.8。農経志望だっただけに、理系科目ばかりに肩入れしすぎて文系科目はがた落ち。国語なんかは赤座布団(評価4。赤点3間際なので赤い線が下に引かれること)。急すぎる進路志望変更。担任にも止められたし、自分でも無理だとわかっていた。下手すれば、明大推薦さえ危うくなる。あおれでも考えあぐねた末、最終進路志望調査票に書き込んだ。最初で最後の、「法学部」の文字を。  1年次。無事法学部に入ったものの、相変わらず文系科目は苦手だった。公式に当てはめられない、答えが一つじゃない、だらだらと長い教授の話、なぜ結論だけ言ってくれないのか、言いたいことはわかるが、理解ができない。中学時代から数学や物理でガチガチに固められた私の頭は、そう簡単には柔らかくならなかった。  真剣に転部の道も考えたが、せっかく法学部には入れたのだからと、夏休み中、法律書と格闘した。そのおかげか、後期になってようやく論理的思考力がほんの少し身についてきた。事実と意見をきちんと分けて、明瞭に記述することも覚えてきた。それでも遅すぎるスタートなわけで、法律科目を二つ落とした。  2年次。渇望していたN先生の授業を選択。「弱い者の権利が保障されていない社会は、決して健全な社会とは言えない。」これは初回授業で、N先生がおっしゃった言葉である。N先生の授業は、私の今までの視点を180度変えるものであった。カエサルやクレオパトラの話より、スパルタクスに興味を持つようになった。秀吉の天下統一よりも、当時の農民たちの生活に目がいくようになった。そのことに気付いたとき、改めて法学部に入って良かったと実感した。  人生にはいろいろなことがある。思い通りにならなかったり、挫折感を味わったり。でも、そんな中で私たちは精一杯生きている。確かに舗装された道路は歩きやすいけれど、脇道にそれたり、回り道をしても決してがっかりすることはない。そこにはかけがいのないたくさんの宝物が落ちているのだから。

 和泉で得たもの                               山田 稔

 早いもので、明治大学法学部に入学して、もう二年もたってしまった。二年前の二月、第一志望の大学に落ちて、この学校に入学することになったのだが、それまでの長く辛い受験生活の反動で、本当にダラダラした日々を過ごしていた。そうしてすごしているうちに、あっという間に、二年も経ってしまったのだが。その和泉での二年間を終えようとしている今、この二年間で得たものは何だったであろうかと考えてみたが、すぐにはその答えが思い浮かばなかった。普段の生活において、自分が何を得たかなんてあまり意識したことがなかったからだ。でも、入学当時の自分と今の自分を比較して、よく考えてみると、はっきりとではないが、この二年間で得たもの・培われたものがわかったような気がする。  まず一つは、自分で自分を管理し自分のした行為に対して責任をもつということがある程度できるようになったことである。大学生になって、多くの面で、拘束されることが無くなり自由になったが、その反面、そのことに対して自分でちゃんと責任を負わなければならなくなった。高校までは、まだ子供ということで、まわりの大人たちが助けてくれたり、注意してくれた。しかし、大学生という大人に対して、そのようなことをしてくれる大人はほとんどいない。そういった以前とは異なる環境の中で生活し、そのことを意識しているうちに、ある程度自分のことは自分で管理することができるようになったと思う。  もう一つは、物事に対しての考え方・視野が広がったということである。高校までとは違って、大学では、自分とは異なるさまざまな価値観をもった人たちがたくさんいて、さらに、そういう人たちと接触する機会がたくさんあり、いろいろな事を感じるようになった。そのことによりいろいろと学び、より多くの視点でものごとをとらえることができるようになった。さらに、大学での生活は時間的にゆとりがあり、その時間的なゆとりのおかげで様々なことを経験できた。このことによっても、視野が広がったと思う。受験生活によって近視眼的になっていた入学当時の自分と比べて、この変化は大きいと思う。  今年の春、和泉から駿河台へとキャンパスが変わり、そこで三・四年の二年間を過ごすことになる。駿河台では、和泉で得たもの・経験をもとに、残りの二年間の大学生活をより充実したものにできるようにがんばろうと思う。

 和泉の2年間で得たもの                                    2年8組48番 村山征央

 明治大学に入学した時、私はそれまでの中学・高校生活と一回の浪人生活によって、自発性がない何事にも受身な人間になってしまっていた。原因としては、自分の性格と学校が中高一貫校だったことだろう。もともと積極的な人ならそうなることもないだろうが、怠けぐせがある私は、長い間新しい環境におかれることも無いと、何をするのも仲間の間だけで満足で、わざわざ面倒くさい思いをして新しい環境に飛び込もうという気などなかった。浪人時代もこの状態が続いた。こうして小さい世界で怠けてきた自分が、積極性がないと何もできない大学生活に入って戸惑うのも当然のことだった。サークルに入るわけでもなく、資格を取るために一年から猛勉強するわけでもなく、バイトだけはしていたものの、たいした目的意識もないまま日々を過ごしていた。今振り返ってみても大学に入ってからの半年は自分がなにを考えていたのか覚えていない。そんな状態が二年の春辺りまで続いた頃、このままではだめだと思い、新しい人間関係を作る為に、面倒だと思いながらも少しだけ積極的になるように心がけてみた。すると友達の知り合いなどで普通に考えたら接点があるはずも無い10才近く年が離れているお笑いの劇団の人と知り合いになることができた。それまでは下北沢とかで行われているコントなんて興味もなかったが、その人達が出るというから見に行ってみた。見るまでは吉本みたいなものを私は想像していたのだが、それは物語がまずあって、その話の中に笑えるシーンが入っているというもので、以外に面白く、久しぶりに新鮮な思いをした。また、今バンドを組んでいるのだが、それもももともとは顔見知り程度だった人達といつのまにか一緒にやる事になっていた。この他にもいろいろあるのだが、2年の一年間はなかなか充実していたと思う。この一年で、結局、積極的に自分から動いていかないとほとんど何も得ることはできないということを実感することができた。すでに目標がある人は、それに向かって行けばその過程でいろいろ得るものがあるだろうからいいのだが、自分のように、これといって特に明確な目標を持っていない人間にはそのことが必要だと思う。積極的に動くことは精神的にもいい。いちいち失敗した時のことを考えていたら身が持たないのでいやでもプラス思考になっていく。このように心がけることで学校の外での行動は充実してきたものの、肝心の明治大学での自分はどうかというと依然として全然だめである。どうやら留年しないですみそうなので、ゼミも始まることだし和泉での反省を踏まえて、駿河台での二年間を過ごそうと思う。

和泉での2年間で得たもの      2年14組 小沼良子

 和泉での1年目を振り返ってみると今までで一番楽しかったが、だれていた1年だったと思う。高校3年間の不勉強が祟って1年間の浪人生活、そこまで勉強漬けというような生活を送っていたわけではないが、やはり毎日勉強だけの生活だったので、大学生になれるという事が決まった時点で私は正直遊ぶ事しか考えていなかった。大学なんか勉強するところではないと思っていたし、実際勉強なんかしなかった。それが甘い考えだったと気付いたのは2年の春、大学内が、そして私自身も新勧でうかれている頃だった。かなり悲惨な成績だった。成績表を見た瞬間、毎朝通勤ラッシュの電車に揺られて会社に行っている父の顔が浮かんだ。父は毎日大変な思いをして私の学費を払ってくれているのに・・・申し訳ないからこの成績表はなかった事にした。  授業は出ない、出ても殆ど聞いていないと、勉強の面ではかなりほめられたものではなかったが、大学はとても好きな場所である。和泉校舎の雰囲気が好きというのもあるが、やはり友達に会えるというのが最大の理由である。大学生活で何を得たのか、と聞かれたら、私は迷わず一番に友達と答える。  元々、友達が少ない方ではなかったが、大学では一度にたくさんの人達に出会う事が出来た。地方出身者が多いのにも驚いた。みんな個性があって、色々な人がいて、たくさんの考え方がある。いきなり世界が広がった。そんな中で、自分もみんなからたくさんのものを吸収して、だいぶ成長したと思う。ものの考え方とか客観的になったし、色々な考えを受け入れられるようにもなった。後ろ向きな所は相変わらずだが、それは友達が指摘してくれるので、そのうち直りそうだ。こうしてみるといい事ばかりあったように思えるが、やはりお互い自分の気持ちを解って欲しいがために、ぶつかったりもした。たくさん泣いたりもした。でも、お互いに正直に向き合ったからこそ、信頼関係も築けたのだと思う。  私の大学生活を語るにあたり、絶対不可欠なものとして、不勉強、友達、友達とのつながりの場所としてのサークルが挙げられる。何故か浪人時代、私の友達だった男の子達はサッカーをしている子だけで、サッカーの楽しさを吹きこまれていた。それはまるで洗脳の様に。サッカーにあまり詳しくなかった私も段々サッカーに興味を持つようになり、大学に入るとサッカーサークルのマネージャーになっていた。中学生の頃から大学生=テニスと思っていたのに全く人生何があるかわからないものだ。私の生活の中で今やサークルが一番大切な時間である。たかがサークルと思うかもしれないが、応援しながら試合に感動して泣いてしまうとは自分でも驚いた。 このように和泉での2年間を振り返ってみると、私は自分一人で成長した訳ではなく、たくさんの偶然の重なり合い、めぐりあわせで成長しているという事を強く思う。今まで私は友達や先輩など、たくさんの人達から色々なものをもらっている。果たして私はみんなにも何か与えられているだろうか?これからはみんなに何か与えられるような人になりたいと思う。

和泉の二年間で得たもの                2年20組37番宮地陽平

 僕が大学に入学してから、もう2年が終わろうとしている。早い。毎年、毎年、時間の過ぎるスピードが早くなっているような気がする。大学生活は何となく過ごしているとすぐに終わってしまうと聞くけれど、まさにそのような感じである。正直言って「この2年間でこれができるようになった。」と、人に自慢できるものが1つもない。  そもそも僕がなぜ明治大学法学部に入学したかというと、僕は明治大学志望というよりも、法学部志望だった。だから法学部であったらどこでもよかったのだけど、合格した大学の中で一番偏差値が高かったから明治大学に入学したのだ。このように言うと、すごく法律に興味があるように聞こえるが、法学部を志望していた理由は、文系学部の中で金の動きを学ぶ経済学部系は何となく嫌だったし、最低限の知識は持っているつもりで興味もなくはないけれど、どこかうさんくさい政治を学問にしたくもなかった。また、本をあまり読まない僕にとって文学部はもっての他だっただけである。だから、決して法律を学びたくてしかたがないから、法学部に入ったというわけではない。しいて選ぶなら、これかなというレベルである。世間で一番嫌われるタイプの学生かもしれない。 そこで、志望動機はどうであれ法学部に入学した以上、「法律は全くわかりません。」では本当にダメな学生になると思い、法律科目をちょっとは真面目に勉強してきた。しかし、最初のうちは新しい学問という感じで楽しかったが、法律を学ぶにつれてだんだん嫌気が差してきた。というのも、法律の問題に直面するごとにやれ判例だとか学説だとかで、結局何が言いたいのかが分かりにくいし、裁判だって納得がいかなかったら控訴だとか上告だとかで前と判決が変わるのも、よくわからない。それに、人間の嫌なところばかりが見えてくる。幼稚な考え方かもしれないけど、人が自分の問題を自分できちんと解決できれば、本当は法律なんて必要ないと思う。それなのに法律をがちがちに定めなければ生きていけない人間は、やっぱり自主規制ができていないだけのような気がする。  長々と法学について愚痴を書いてきたけれど、僕は別に法律を学ぶ事そのものを否定しているわけではない。むしろ適当に進路を決めたわりには、けっこう気に入っている。やっぱり法律のない社会なんてきれいごとで、法律は現代の世の中で必要不可欠のものであるし、生きていくためには知っておかなければいけないものだと思う。だから法律を学んでいる以上、それを自分なりに使って、いざこざに巻き込まれないように生きていけたらいいな、と和泉の2年間法律を学んで思った。

和泉の2年間で得たもの 2年19組2番 赤松絢

 私が高校生だった頃、大学は夢を叶えるために行くものだと思っていた。私には夢があった。だから、何の目的もなく大学に行くという人や、夢は大学に入ってから探すという人が信じられなかった。私は明治大学法学部の学生になった。法学部に入ることは、私の夢を叶えるために必要不可欠であった。真面目に勉強して、絶対に夢を叶えようと思っていた。 しかし、いざ授業に出てみると、あれだけ学びたかったはずの法律なのに全く興味が持てなかった。そして、授業にあまり出なくなった。いつの間にか将来の夢もなくなっていた。私は高校生の時に1番なりたくないと思っていた大学生になっていた。こんな私だが、1つだけこの2年間で頑張ったと思えることがある。それはサークル。私はESSに所属していて、ディスカッションをやっている。ディスカッションと言ってもみんなで楽しく英語で話すみたいなものでなく、社会問題をどうしたらよくなるのか英語で話し合うというものである。たぶん、知らない人から見たら何でそんなことをするのか、何がおもしろいのかわからないことだと思う。けれど、私はこれにものすごく真剣に取り組んでいた。活動にはほぼ毎日といっていいくらい行っていたし、学校に来るのはESSのためだった。私がこんなにディスカッションを頑張っていたのには理由がある。それは、ディスカッション自体が魅力的だということもあるけれど、友達がいたから。その友達は1番近いけど1番尊敬できる人で、その子がいたから今の私はESSで楽しくやっていられると思う。しかし、最近、自分に疑問を感じてきた。ESSは確かに楽しいけれど、本当にそれでいいのか。ふと周りの友達を見てみたらみんな将来について真剣に考えていた。私はというと、楽しさにかまけて将来について何も考えていなかった。これから自分はどうするべきか真剣に考えてみた。そしてたどり着いたのが、原点に戻ろうということだった。原点は、夢があって大学に入ってきた自分。私は今、ダメ学生だけど、もう一度やりたいことを見つけてそれに向かって頑張ってみようと思う。そして何事にも貪欲に取り組もうと思う。 私が和泉の2年間で得たものは2つある。1つはかけがえのない友達。もう1つは新しい自分。この2つを私に与えてくれたこの2年間に感謝したい。そして、2つともこれからずっと大切にしていきたいと思う。

     和泉の二年間で得たこと                       二年二十組十二番 小野寺 晃

サークルに入らずに過ごしたこの二年は、良いときもあれば悪いときもあったりで、それなりに充実してすごすことが出来たと思います。時間に縛られることなく、自分のペースで日々を送ったこの二年は、ある意味ストレスのない穏やかな期間であったとも言えるでしょう。それは、裏を返せば学生としてのあらゆる刺激に乏しかった二年であるともいえるのですが・・・。それはさておき、この機会に、そんな僕の二年間を振り返っていこうかと思います。  まず、学生の本分たる、学業についてですが、これはお世辞にも頑張ったとはいえません。授業には欠かさず出席するようにはしましたが、それとテストのとき以外は特に教科書を開いて学習することもありませんでした。結局のところ、教科書は、最初から最後まで、新品の教科書と見劣りしないぐらい、きれいなままでした。そして、僕は、案の定、単位を落としました。そんなわけで、今年こそはと奮起した二年目ですが、当初の自分はどこへやら。今は、かなり追い込まれた状況にいます。正直なところ、一月の後半から始まるテストへ向けて、気持ちはなえる一方です。果たして心穏やかな春を迎えることが出来るかはわかりませんが、今は、とにかくしゃにむにやるしかないなと実感しています。  学生として過ごす以外の時間は、アルバイトに精を出しました。週に四日ほど一日につき、三・四時間ぐらい働いたでしょうか、これが、自分にとって、なかなか良い人生経験になりました。それまで、金銭をもらう身だったのが今度は自分で稼ぐ身になってみて、お金を得ることの大変さが骨身にしみて分かりました。そして、そのせいか、以前に比べ、無駄遣いや衝動買いをすることもなくなったように思います。また、そこで知り合ったアルバイトの同僚とは、一緒に飲みに行くなど交流を深めて、今ではすっかり良い友達になっています。  このように、この二年は、和泉の学生生活から得た、自分に与えられた時間を、自分なりに有効に使うことが出来た二年でもありました。しかしながら、大学生の時分にしかできないことに、アタックせずじまいできてしまった自分についても後悔の念を抱いています。なので、駿河台に移る残りの二年は、学習面についても、遊びの面についても、今以上に充実させていけたらなと思っています。また、今年は、自分の就職活動がはじまる年でもあります。その時期までに、自分の進むべき道をはっきりさせ、来年の春に満足のいく結果を得られるように精進していかなければと思っています。

和泉校舎の二年間で得たもの 森 茂樹

この二年間は私の今までの生活の中で最も早く過ぎていったように思えます。今までの高校までの生活とは全く違った生活の連続で、ただ無駄にすぎたのではなく、毎日充実して過ごせたと思います。和泉校舎で得たものは、形になる物ではありませんでした。時間、経験、が得たものかと思います。私は、高校まで本当に忙しい生活を送っていました。その時は目の前にある時間を精一杯過ごすことで満足していたように思えます。毎日、勉強に部活と暇な日はほとんどありませんでした。学園生活を思い出すと、ほとんどそのことしか浮かびません。ひたむきでしたが、今思うと、ぎりぎりの生活の中で、前しか見ることが出来ず、視野が狭かったように感じます。毎日同じような生活の連続で、固定された世界しか知りませんでした。それに比べて大学生になってからの生活は、一言で表すと開放でした。時間があるし、自分のやりたいことは何でも出来る。勉強、遊び、バイト。すべてが新しい経験で自分の中で徐々に新しいものが生まれていました。なんでこんなことを今までやらなかったのだろう?もったいない時を過ごしたと何度思もったか分からないくらいです。 もうひとつ言えることは、自分の経験の中でたくさんの人とのコミュニケーションがあったことです。高校までは友達も同年代の人ばかりで、考え方も似ていたのですが、大学に入ってからは、むしろ同じ年の人と知り合うことの方が珍しいくらいです。考え方も全く違っていて、私に影響を与える人ばっかりだったような気がします。物事に対しても今までよりも多くの視線で見ることができるようになりました。良い人、嫌な人、多くの人がいましたが、良くも悪くも自分にとってはいい経験をさせてもらったと今ならはっきりと言えます。そのおかげで私は人間として成長できたと思うからです。他人とのコミュニケーションの中で改めて私を発見しなおしました。やりたいことをやる分、責任も自分にあることも知りました。今までは何をやるにも自信の無かった私ですが,今は自分のやりたいことに確信をもてるようになれたと思います。 この二年間の経験は私を人として大きく成長させてくれました。今までの人生で最も波乱に満ちて意義のある二年間だったと思います。これからの学園生活は将来のことを考える上でも大切な時間になると思うので、この経験を生かして、自分と向き合って生活していきたいと思っています。

和泉の二年間で得たもの  2年16組32番 中谷正和

この二年間、僕は自由だった。別に言いなりになっていたわけではないが、今思えば学校の教育方針に従っていただけの中学・高校時代、ただ大学に入る手段のために勉強をしてきた浪人時代。今までの僕の人生は用意されたレールの上をただ歩いてきただけなのかもしれない。そんな人間が、初めて自由になった。それまでの僕は自由と聞けばプラスのイメージしかもっていなかったが、実際経験してみるとそうではなかった。特に、特別将来について考えていない人間にとって、自由という生活は、何も張り合いのない、目的のない毎日の連続だった。 しかし、今思えばそれがよかったのかもしれない。それまでは決められたことに向かって歩いきた。でもこの二年間は、いく当てもなく、フラフラと自分の気が向くままに歩いた。それは時間の無駄だという人もいるだろう。つまらないと思う人もいるだろう。でも、僕はそんな生活の中で、これまでとは違ったことにたくさん触れ、その中で、自分にとっていいこと、合わないこと、自分が何がしたいのか、自分はどこに居たいのか、漠然とではあるがわかってきた気がする。そして、今は自分が歩きたい方向が少しずつ見えてきたと思えるようになった。 周りの大人はそろそろ将来のことも考えろという。もちろん、少しずつ考えはじめてはいる。でも、まだ、自分の道をひとつに決めることはないのではないか。前だけ見てたら一つのことしか見えなくなってしまう。僕らはまだ、よそ見をしながら歩いていいんじゃないかな。もっとたくさんのことを見たり試したり、時には失敗をしながら学んでいくべきだと思う。こんなことを言ってると、社会の厳しさを知らないいい加減な若造だと思われるかもしれない。でも、それでいい。こんなこと学生でいられる今しかできないんだから。 この二年間を一言で言うならば、自由という生活の中で、自分という人間を探し出す時間だった。二年間という長い時間をかけたおこげで、自然とそれが見つかり始めてきた。でも、さすがにこれからは今までのようにのんびりとはしていられない気がする。しかし、あせってもしょうがない。後の二年間、特に就職活動が始まるまでのこの一年は自分と向き合う時間にしたい。これからもいろんなことを試しながら、自分が納得できる道を探していきたい。

『和泉の二年間で得たもの』                          小泉賀央

 私が明治大学に入学して、もうすぐ二年が経とうとしている。初めて和泉校舎に登校した時の、あの人の多さに圧倒された雰囲気は、今でも鮮明に覚えている。中学・高校の入学の時もそうだったが、人見知りをする自分にとって、大学に入学をした嬉しさと同時に不安もかなりあった。だが、実際大学生活を送ってみると、それまで思っていたような不安はすぐに解消され、今振り返ってみると、二年という月日も、長いようで、あっという間という感じだ。 まず大学に入って勉強面に関して言うなら、入学して初めて学ぶ法律科目の難しさを、身をもって感じ、今現在も感じ続けている。実際、この二年間で得たものを考えてみると、正直とても難しいが、自分としては、物事を今までよりも、より多義的に、かつ、より柔軟に考えられるようになったこと、また、いろいろな考えを受け入れられるよう少なからず器量が大きくなったこと、だと思う。別に今まで凝り固まった頭で、相手の意見を聞かない、などと言うことでは決してないが、やはり、大学でたくさんの人たちと出会えたことによって、今まで思いもよらなかったことにも気づかされたと思う。これは自分にとって非常にプラスになったことである。 また、高校時代は週六日部活に没頭していたために、勉強との両立が難しく、なかなかその機会がなかったアルバイトをするようになり、接客業という仕事を通して、不特定多数の人を相手にすることにより、世間一般の厳しさと言うものを、身をもって経験することによって、また、十代から四十代と幅のあるスタッフ達と仕事をすることによって、自分の考えとのギャップを知ることもできたのも大きい。このことは、自分の人見知りする性格を多少なりとも緩和したと思う。 これから就職のことに関しても真剣に考えなければならない時期に入って行く。小学生の頃から教師になることに憧れていて、もちろん今でもその思いはあるのだが、大学に入って得た考え方を生かして、資格・試験なども含めて、今まで以上にあらゆる分野のことに興味を持ち、もっと積極的に行動していき、様々なことを経験して、自分なりにじっくり考えていきたいと思う。

和泉の二年間で得たもの 法学部二年十三組四十二番 早川崇弘

 得たものは沢山ある。  しかし、いざ!となると、何も浮かんではこない。終いには、“何もなかったのかなぁ?”なんて思えてきてしまう。しかし、そこには確実に二年間という月日が存在したのである。その時間が存在する以上、そこには何かしらのモノがあるはずである。そんなことを考えながら、自分の部屋を見渡していると、本棚にある一冊の本が目に入った。それは、カバーがかかっていて、“まだ読み切ってねぇぞ?”というオーラを放ち、隣にある『オーケンののほほんと熱い国へ行く』を威圧していた。“何の本だろう?”と思い、カバーを外してみると、それはカミュの『シーシュポスの神話』だった。  一年の秋頃、浪人時代の友人に、“ものすごい読むのが苦痛になる本があるから、機会があったら読んでみろ”といわれ、なにしろ、時間だけは腐るほどあったので(実際、腐ってしまっていたため、現在の僕がいる。)、“完膚なきまでに読破し、その友人を、カミュと共にやっつけてしまおう”と勇ましく、本屋に出かけたのを記憶している。  当然、ものの見事に敗れてしまったわけだが、その過程において得た、ある真理がある。  それは、“現実とは常に不条理である”ということである。  カミュは『異邦人』で、人を殺した理由を“太陽のせい”として描き、そしてこの『シーシュポスの神話』では、“不条理な論証”としてその“不条理という名の現実性”について論証を試みた。カミュによると、“不条理”とは“この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態。この対立関係”だと説明している。  この“不条理”を、我々の生の流れのシステムで考えてみる。まず、我々は、物事に対して、経験という知識を持つ。知識は思考を精製する。思考は動機を生み、動機は行動を生む。そして、行動は結果を生み、結果は経験として、また新たな思考を生む。思考→動機→行動→結果→経験→思考→…このサイクルは、まさに、シーシュポスの地獄での責苦と似た論理である。シーシュポスは、休みなく岩を転がして、ある山の頂まで運び上げるという刑罰を、神々によって、課せられる。それは、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのだ。この行為は、一見、無益で希望もない、最も恐ろしいものである。しかし、彼が、麓へと戻っていくという行為は、また岩を転がして、山の頂まで運び上げるという行為を生み出す。つまり、“岩を転がして山の頂まで運び上げる”という行為は、彼自身によって作り出されているのである。その点で、彼は、神々が課した運命より勝っているのである。故に、シーシュポスは幸福である。カミュは、ここで“苦しみ”が、一方では“悦び”であるという矛盾の同時的現存としての不条理を描いている。  しかし、ここにはある矛盾した論理が存在する。それは、ここに述べた現実論はそれ自体が思考の産物に過ぎず、決して現実では無いという点である。そして僕の現実もまたこの矛盾の中にある。ここに述べたことには、一縷の価値も認められない、また、そのことが活かされることもない。しかし、現実は如何なる不条理をも含んでいる。そこではあらゆる可能性をも意味を失う。しかし、その可能性の消滅は、新たな可能性を生み出すのである。  つまり、僕におけるこの二年間もまた、不条理である。“ある朝、起きてみたら、自分が蜘蛛になっていた!”とはならないにしても、“ある朝、起きてみたら、自分が、ボブ・サップばりのハゲになっていた!!!!!!!”となることは、大いにあり得るのである。ここでは、“うちの父は髪の毛がフサフサであるから、自分は禿げない”などといった現実は、何ら意味をもたない。そして、その恐怖に怯えながら、残りの二年間、ひいては、残りの人生を過ごしていくのである。

和泉の二年間を振り返って… 2年8組43番 細田 愛加里

 大学入学…。初めの一週間くらいは、不安と緊張と慣れていない場所へ通う疲れとで、精神的に一杯一杯だった。高校が恋しくてしょうがなく、高校に戻りたいとばかり言っていた。今考えると、そんな頃がすごく懐かしく、ずいぶん前のことにも思える。しかし、授業が始まり、友達もでき、学校に慣れ始めてからは、今日まであっという間のスピードで過ぎって行ったように思える。  大学は高校のように与えられた授業ををみんなで一緒に勉強していくのではなく、自発的に学んでいくところだ。出席のとらない授業でどんどん人数が減っていくのを見ながら改めてそう感じた。同じように授業料を払って、大学に在籍しているのに、こうもやる気のある人と無い人が分かれてしまう。さて、私はどうだったかというと、これまた中途半端なところに位置している。授業は比較的出席していたが、真面目に聞いていなっかたり、あまりの眠さに耐えきれない授業が山ほどあった。そして、テスト前に苦しむ。これは高校の時からほとんど変わっていない傾向だ。一見成長していないように思えるが、大学生になってからは、以前よりも勉強意欲が湧いてきたように感じる。あんなことも勉強してみたい、こんなことも勉強してみたいと思えるようになった。高校のときは押しつけられて嫌々勉強をしているような感じだったが、今は自分から勉強しよう、勉強しなければと思えるようになった。資格学校に通おうと思ったのも一つの勉強意欲の表れだと思う。そして勉強させてもらっている親に対して、ありがたいなぁと感謝の気持ちを持てるようになった。来年度こそは学校の授業を大切にしよう。  大学で部活を始めたことも、私にとって大きな変化だった。高校の時は何もしていなかったし、今までも熱心に部活動をしたことはなかった。大学での部活は、練習日数も多く、忙しく、辛く、本気でやめようと思ったこともあったけれど、すてきな人たちに囲まれて、何よりもみんなで一つの目標に向かってがんばるすばらしさを実感した。自分で考えて動くことの大切さを知り、精神的にも一回りも二回りも成長したように感じる。  和泉校舎。特におしゃれでもなんでもない普通の校舎だが、私はこの校舎が好きだ。住めば都というか慣れてしまえば落ち着いていられる場所の一つとなった。しかし、この校舎をあまり活用出来なかったように思う。もっと図書館で本を借りたり、AV棟で映画を見たり、トレーニング機器を利用すればよかった。このままリバティに移ってしまうのはなんとなく淋しい気持ちもするが、新たな場所で残りの学生生活を充実させるよう、すがすがしい気持ちでスタートを切りたいと思う。

和泉の二年間で得たもの 呉原 恵美子  私が和泉で過ごした二年間は、ほんとうにあっという間だった。ほんとうに二年たったのか疑わしいくらいに。 何を得たのかといわれても、正直これだといえるものはない。 一年生のときは、受験から開放され、新しい環境での生活が楽しいばかりだった。それと同時に親元を離れ、一人で生活することに慣れるのは一苦労だった。学校へ行って、授業に出て、家に帰る、を繰り返しているうちに、いつの間にか一年が終わっていた。  しかし、二年生になり、生活にも余裕が出てくると、少し自分の将来についても真剣に考えるようになった。それは、高校時代の友達の話やWスクールをし始めた周りの友達の影響がある。そのとき、大学では自分が何かしなければ、何もなしに終わるとよく言われることを、改めて思い返した。そして、このまま、ただ単調に四年間の大学生活を終わらせたくはないと思った。かといって、いまだ将来何をやりたいかを決められずにいる私は、何をしたらいいか分からず、当分そのことについて考える日々が続いた。そもそも、私が法学部を選んだのは、弁護士になりたいとかではなく、親の勧めとただ法律への興味だった。しかし、確実に法律への興味は拡大しているし、面白いとも思ってきている。今もまだ、将来については迷走中ではあるけど、せっかくそう思えるようになったのだからと思い、少しでも将来へのきっかけになればいいと思って、来年に向けて小さい目標をたてた。  この小さい目標を一つ立てるのにも、かなりいろいろなことを考え、時間を費やした。けれど、私にとってこの考えに考えた時間は失った時間ではなく、何かを得た時間であるといいたい。 来年から駿河台に移るけれど、今まで以上に何かに積極的に取り組み、自分を磨いていけたらなぁと思う。

 和泉の二年間で得たもの                   2年8組10番 榎本紘子

 和泉での二年間を振り返ってみると、「光陰矢のごとし」という言葉を痛切に感じる。  この二年間で、私はどれだけのものを得ることができたであろうか。また、どれだけの価値あるものを見出せたであろうか。  まずは、いうまでもなく、人との出会いである。クラスの友人、サークルの仲間、高校時代を女子校で過ごした私にとって、大学での様々な人々との触れ合いは、自分の視野の狭さと、自己の考えの甘さを認識させてくれた。  高校時代の管理された世界から解放され、大学の自由な雰囲気に呑まれ、ぬるま湯にどっぷりと浸かってしまった。自由には責任が伴うものであるが、頭ではわかっていながら、私の自由には節度がなかった。二年目には、出席を取らない講義は当然のごとく欠席し、また、生活のあらゆる場面においても、自分を少しでも安易な方向へと導いていた。  しかし、大学生活も折り返し地点に差し掛かろうとしている今、私はあることに気がついた。それは、この大学四年間というものが、これから社会人になるための、「人生の実力」を養成する期間であるということだ。物事がうまくいっているときは、「人生の実力」はよくわからない。実力の有無がわかるのは、苦境に陥ったときである。苦しいとき、悲しいとき、物事が思い通りにいかないときに、どのように振舞うかに「人生の実力」が現れる。  「人生の実力」を定義すると、「自分にとって、不都合な事態が発生したとき、その中にも自分が人間として生きている証しを見ることができ、その事態を解決するための方法を冷静に考え、それを実行する力」となる。  この二年間の自分には、「人生の実力」は到底身についていない。これからは、安逸な生活に甘んじた自分を戒め、失敗を恐れず、自ら苦境に立ち向かっていきたい。  もちろん、それは学問だけに限らないが、もう一度、入学当初の勉学に対する意気込みを、持ちたいと思う。  「青にして学べば、壮にして成すところあり、壮にして学べば、老にして衰えることなし、老にして学べば、死して後、朽ちることなし。」  この言葉を座右の銘として、何事にも好奇心を持って、学んでいきたい。  二年間で得たものというよりも、むしろ二年間の反省になってしまったが、自分自身を見つめなおし、まだまだ自分は未熟者で、成人になったといえども名ばかりで、まだまだ半人前だと自覚できた。そして、これから向上していこうという意欲が湧いたことは二年間を振り返って得た大きな収穫だと思う。

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