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今考えている事         今泉雄一

 今、僕が考えている事。そう言われるとよくわからない気がするけど、きっとそれは腐敗した政治でもなく、いりくんだ国際情勢でもなく、ましてや環境問題などでもない、もっと小さな自分自身の事だと思う。この授業で自分史を書いて、上辺だけだけど自分の事を振り返って、自分の事を今まで以上に考え始めた。

 その中の一つが友達の事である。まだ十九年しか生きていないけれど、色々な友達に出会ったなと思った。よく遊んだ幼稚園時代の友達や、小学校の時に一緒にいたずらをした友達。中学時代に、僕に負けず嫌いの性格を芽生えさせたライバルや、色々話し合って喧嘩して仲良くなった友達。高校でも、僕の性格を変えた友達や、同じ音楽の趣味を持っていて、仲良くなった奴、その他に部活の友達もいた。今でも連絡をとりあって遊んだりもする。一緒にいると落ち着く、良い友達だと思う。そして、今、大学二年生になって、一緒にいる仲間達。一年と四ヶ月しか一緒にいないけれど、既に様々な影響を受け、色々な話をしてきた気がする。まだ、二年の前期が終わる所なので、気が早いかもしれないけど、こんな友達とあと二年と半年、そしてそれ以降も連絡をとりあう仲間でいたいと思う。

 二つ目は、自分のこれからの事。これから成人式を迎え、自分がどのように変わって行くのか、少し楽しみである。

先日、従兄弟の結婚式に行った。初めての結婚式への参加であったから、余計だったかもしれないけれど、久々に大きな刺激を受けた。結婚式そのものも素晴らしかったけど、二歳年上の従兄弟の兄に久しぶりに会ったら、振る舞いが大人になっていて驚いた。学年的には一つ上の先輩なので、僕も一年後にはこういうふうになっていたいと思った。

 三つ目は、今の自分の事。あと少しで前期試験が終わろうとしているけれど、毎日の生活を無駄にしないように、大事に生きて行こうと思う。先に書いたように、今後の自分も楽しみだけれど、今は、現在自分がしたいこと、しなければならないことを、積み重ねて行こうと思う。

 以上が、僕が今考えている事の一部分だ。あと半年後、数ヵ月後、何を考えているかはわからないけど、今は、考えている事を大事にして、行動して行きたいと思う。

 

サッカーW杯、なぜ韓国はベスト4、日本はベスト16だったのか。 山ア 祐輔

 

今年6月、日本と韓国で今世紀最初のサッカーW杯が開催され、日本は初勝ち点、初勝利、初決勝トーナメント進出という輝かしい記録を残し、強豪ぞろいの大会でベスト16というすばらしい成績を残した。もちろん、この結果に対して、人それぞれ様々な反応があるだろう。最も多くの意見としては、共催国である韓国がベスト4まで行けたのに、なんで日本はベスト16止まりなのだ、という意見であろう。確かに、日本人と韓国人ではヨーロッパや南米などと違い、身体能力や体の大きさなどを理由にすることができない。むしろ韓国のほうが組み合わせ的には日本よりはるかに厳しい条件であったと思える。しかし彼ら韓国チームは、一度ならず二度、三度と強豪国を倒して勝ち上がってきたのだ。

なぜなのか?日本と韓国の試合を見ていて決定的に違うことがいくつかあった。まずひとつは国民の意識の違いだ。韓国は、まさに国を挙げてのものすごい応援をし、いくつもの会社や学校が休みになった。当然,日本でも多くの人たちが応援していたが、韓国に比べれば微々たるものだった。もうひとつはピッチに立つ選手一人一人の迫力の違いだ。韓国の選手達を見ていると、絶対に負けたくない、というものすごい気迫を試合中絶えず感じさせられた。残念なことに日本チームからは韓国ほどの迫力は全く感じられなかった。知り合いの韓国人にこの話をしたところ、それは国民性の違いだと言っていた。韓国人はもともとものすごい負けず嫌いらしく、どんな些細なことでも勝負と名のつくものであれば誰一人として絶対に譲らないという。だから、韓国では全てのギャンブルが法律で禁止されているらしい。そうでないと韓国人の場合、勝つまでギャンブルをやり続けようとしてしまうため、非常に危険なことになってしまうそうだ。

そういう彼も大学で自分と同じバレー部に入っているのだが、関東ベスト4の実力を持つわが部において、たった一人の未経験者だった。当然、最初は練習についてこられるはずもなく、誰もがすぐに辞めてしまうと思っていた。しかし韓国人である彼の負けず嫌いさと根性はすばらしく、誰よりも早く体育館に集合し、みんながあきらめて取りに行かないようなボールも、一人で最後まで追いかけ続けた。今では彼も、たった1年で何年間もバレーをやってきた他の部員と見分けがつかないくらい立派な選手になっている。気持ちの持ち方しだいで人間はどんな不可能も可能にすることができるのだということを私は多くの韓国人に教えられた。どんなときでもけっしてあきらめることなく、強い心を持ち続ければ、必ず結果は付いてくるのである。4年後、韓国以上の強い心を持った日本人選手たちがドイツのピッチで活躍することを心から期待している。

『夏は暑い』

 

              前澤高志

 

 最近はうんざりするほど、とても暑い日々が続いている。自宅ではもうクーラーを使わないといけないくらいな暑さである。もちろんどこにでかけても建物の中はクーラーでガンガンに冷やされている。これからの季節、設備の整った建物の中での生活は快適であるが、一度外に出てしまえば全く逆の世界が広がっているのが現状だ。しかしこの地獄のような暑さが現実なのである。とくに都会の高層ビルなどが密集している地域の気温は、コンクリートからの日光の照り返しや、ビルで使われているクーラーの屋外機からの熱などでたちまち急上昇するという。また夜になってもその昼間の熱がどこにも逃げず、たまっている。暑いからさらにクーラーの設定温度を下げる、こんなことをやっていたのではどうしようもない。そこで最近はビルの屋上やそのほか空きスペースを使って、緑地化計画が勧められている。緑があるかないかでは全然違うそうだ。確かに真夏のこの時期に避暑地と呼ばれる自然に囲まれたところへ行くと、昼間は確かに同じように暑いが、日が沈んで少し経つと半袖の服では少し肌寒いくらいになってくる。これは周りにたくさんある自然のためにこの暑さを吸収してくれているのである。自然はすばらしいものだ。だからこの計画はたしかによいものであると思うが、その場しのぎにしかすぎないと考える。ここ数年、夏期の気温は年々上昇してきているではないか。まだ20年くらいしか生きていない私でも毎年のように感じることであるのだから、もっと長く生きている方々には今と昔ではあまりにも違っていてはっきりとわかるであろう。このままいけば本当に外では暮らすことのできない世の中になってしまいかねない。恐ろしいことである。そんな事態を避けるために、今私たちにできることはなんであろうか。早急に考えねばならぬ問題である。しかし、暑い・・・。

これ以上考えるのは止めておこう。

 

秦 優一

 

 僕等が生まれるより以前、NASAは人間を月に送ったそうな。。。ここ数十年に見られる宇宙科学技術の進歩には目を見張るものがある。一体ヒトは、どの星を次の移住地に選ぶのだろうか?

 宇宙。広過ぎて眩暈がする。どこまで続いているのだろう。この果て無き疑問について考えた事のある方は少なくないだろう。宇宙人の端くれとして、

僕自身もしばしば考えては頭をパンクさせています。そう、実は僕達も「宇宙人」なのです。

 宇宙人の存在を否定する人がいますが、それは不可能なのです。その大きさすらも未だ解明されていないこの大宇宙で、地球という惑星のみに知的生命体が存在するなどとは誰にも言い切れないのです。どこかの遠い星にも文明があるのだと想像するだけで、僕はワクワクしてたまりません。

 ここで、僕等以外の知的生命体がどこかに存在すると仮定しておいて、その彼らを「ヒト2」と勝手に名付けることにします。ヒト2はどこにいるのでしょう、そしてどんな姿で、何を食べているのでしょう?気になりますねぇ。歩いているのか、這っているのか、それとも飛んでいるのか。全てはベールに包まれていますが、もしかすると、ヒト2は僕等の事を知っているかもしれません。いや、知り尽くされているのかも。世界中から寄せられるUFOの目撃情報、それらが真実ならば、地球人は既にヒト2との接触に成功していることになります。NASAの握っている情報は、果たしてどれほどなのでしょうか?僕も接触してみたいものです。

 あなたは、ヒト2の存在に賛成ですか、それとも反対ですか?反対派ならば、賛成派への転向を是非お薦めしたいと思います。きっと天体観測が楽しくなるはず。空を眺めるだけで、どこかのヒト2と目が合っている可能性だってあるのです。そういうロマン、今の日本に必要だと確信します。他人事ではありませんが、世間では不況の嵐が猛威を振るっているようです。ですが、僕等日本人、いや地球人も、彼等に負けてはいられません。ヒト2に舐められてしまいます。いつか彼等と交流を持つ時がきたら、地球人のパワーを見せつけてやろうではありませんか。

 この疑問、「そこはかとなくかきつく」ればかきつくるほどに深みにはまっていく気がします。しかし、その深みの計り知れない部分が魅力であり、またロマンでもあるのです。今後も僕は、そのロマンに迷走し続けようと思います。

 

 戦艦ヤマトが発進するその日まで。。。。

 

  野球と自分・・・ 西谷信則

 

       

 

物心ついたときから、野球に興味を持ち、大きくなるにつれ、実際自分もやってみたいと思う気持ちが大きくなっていった。小学生の頃、周りの友達が入っていた少年野球のチーム、本当は自分も入りたかった…。しかし、中学入試を控えていた為、入ることができず、中学に入学したら、必ず野球部に入部するという思いのみ、持っていた。そして、めでたく中学に入学し、念願であった野球部に入部した。先輩後輩の厳しい縦社会の中、毎日練習を重ね、休日には他の学校と試合を行うといった生活を繰り返していた。自分がやりたかったことだけに、きつい練習にも耐えられ、毎日が充実していた。自分が任されていたポディションは、キャッチャーという守りの要のポディションだった。このポディションのおかげで、毎日の様に監督に怒られた。今となれば、それも懐かしい思い出となっている。野球を始める前、かなりポッチャリとした体格であったが、どんどん背が伸びて、体格もがっちりとしていった。野球をやって一番変わったことは、精神面の成長ではないだろうか。以前よりも我慢強くなり、何事にも積極的に取り組めるようになった!

今現在も野球と離れることが出来ず、3つの草野球チームに所属している。きっと、体力の限界が来るまで、続けていることだろう。野球と自分…、それは友達のような関係でありながら、時には色々なことを学ばせてくれる先生と生徒のような関係でもあるように思う。

 

「嫌いな自分」

 田母神 圭司

 

僕は時々自分のことが嫌いになる。それというのも自分が不器用だからだ。僕はひとつのことに集中しようとすると、そのことで頭がいっぱいになる。そうすると他のことを考える余裕がなくなってしまうのだ。そして自然と毎日なにかにイライラしてしまう。僕はこんな自分が嫌いだ。しかし、今またこの嫌いな自分が僕の中に現れている。原因はテストだ。テスト前になると、僕は決まっていつもこうなる。

僕はこういう自分と長い間一緒に生きてきている。だからこういう自分にはもう慣れてしまった。しかし、友達は別だ。みんなはこういう僕がいることを知らないはずだ。なんと言ってもそんな自分は格好悪い。それに僕はみんなにとって、常におもしろい存在でありたいし、それが自分らしさだと思っている。だからそれ以外の自分はなるべく隠すようにしてきたからだ。だけど今は、そういう格好悪い自分を隠す余裕すらない。みんなの前ではため息ばかりついているし、面白いことを言ってみんなを楽しませることも出来ない。そんな自分がダサいのはよく分かっているけど、どうすることもできないでいる。だから今は毎日がとても憂鬱だ。

テストを終えて早くもとの自分に戻りたい。それが今の気持ちだ。だからみなさん、もうしばらくこんなダサい僕にお付き合いください。夏休みになったら、山ちゃんの期待に応えられるような、今まで以上の(?)おもしろキャラになってみせますから☆それに嫌いな自分を見せているということは、それだけみなさんのことを信頼しているということなので…

ではみなさん、楽しい夏休みを迎えられるように、テストがんばりましょう!!

(テストが出来ても出来なくても、夏休みは楽しいものですけどね)

 

 

私の人間観察日記   

私の数多い趣味の一つに、人間観察がある。どんなことかというと、相手の外見、服装、言葉使い等から、相手の半生、性格、相手の育った環境、親の人物像等を、また、相手の動作から、相手の考えていることを自分で勝手に想像するのだ。そして、その想像は当たっていることが多い。人は見た目によらないという言葉は嘘である、人は見た目だけで九割は判断できる。想像はたまにはずれるが、そのとき味わう意外性も、また面白いのだ。そこで、私の日記に人間観察を織り交ぜながら、随筆をかいてみたいと思う。

ある日、電車を降りて改札を出ると、携帯電話をかけている中学時代の友人に出くわした。私は、小中学校時代、彼とはそこそこ仲がよかった。しかし、会った瞬間嫌な気分になった。別に彼のことが嫌いなわけではない。色々な理由があって、彼に限らず、昔の知り合いには会いたくなかったのだ。しかし、おもいっきり眼が合ってしまったので、無視するわけにもいかず、声をかけた。相手は驚いたようだが、返事を返してきて会話が始まった。彼と話すのは3年ぶりだ、私は彼をしげしげとながめた。う〜ん、3年という月日はこうも人間を変えるのか。3年前の面影はない、しかし、私には3年前の彼の姿が記憶に残っていて、目の前にある現在の彼とのギャップが面白かった。会話が進むうちに、最近死んだ友人の話題になった。彼は、その死んだ友人と仲がよかった、バンドを組んでいたこともあるときいている。私は死因を知らなかったので、彼なら知っていると思い、彼に聴いてみた。すると、なんと彼は友人が死んだこと自体知らなかったのだ。彼は私の話を聞いて、非常に驚いていた。誰も彼に知らせなかったのだろう、私の周りには薄情なやつが多い。私が何故知っていたかというと、通夜の日時を知らせるメールが回って来たのだ。わたしは、怒りとも焦りとも読み取れる表情を浮かべている彼に対し、そのことを言うと

彼は、「えっ、じゃあおまえ行ったんだろうな。」「いや、行かなかった。」「はっ、なんで。」「用があったからさー。」「しんじらんねー。」彼は、怒っていた私に対しては勿論だが、それ以上に、彼の死を一ヶ月近く知らずにいた自分に対し苛立っているように思えた。しばらくして彼と別れ、帰宅を急いだ。しかし、世の中不条理なものだ、通夜にも行かなかった人間ですら知っていたことを、彼は知らなかったのだ。彼が私に対して怒ったのは、私に死んだ友人と彼との友情を踏みつけられたと感じたからであろう。まあ、恨まれても仕方がないな、罪滅ぼしになるだろうか、心の中で冥福を祈った。

死因は脳内出血だったらしい、かれのことを思い出してみた。別に太っていたわけでもないし、持病を持っていたとも聞いていない、二十歳で脳内出血とは。いまだかつて、こんな生々しい死を見せ付けられたことはなかった。ある意味、家族が死ぬよりも衝撃的だった。同じ年齢の人間の死を真近で感じたのは初めてだった、しかも、自然死である。自分もいよいよ死を意識する年になったのか、人間いつ死ぬか分かったもんじゃないな。彼は、朝、家族が起こしに行ったら死んでいたそうだ、私は実家にいるからまだましかな、ひとり暮らしだったら悲惨だ。眠くなってきた、勉強は全くしていない、かといって何か他にやっているわけではない、どうしようか、何かするか。そんなことを考えているうちにいつのまにか眠っていた。明日、起きられるかな。

 

エッセイ

 所 隆亮

 東京千代田区が歩きタバコ条例を制定した。内容は路上禁煙地区での喫煙と吸殻のポイ捨てを禁じ、全国初の罰則規定で悪質な違反者に最大で二万円の過料を科すということである。他の自治体にも同じような条例を認めようという動きがあるほか、民主党が同じ目的で国会に提出した軽犯罪法改正案をめぐる議論にも影響を及ぼすだろう。

 歩きタバコは、分煙が進む中で、人込みで煙を吐き散らす自分勝手な行為である。というのは、衣服を焦がしたり、火が人体に触れるトラブルも多い。94年1月に千葉県のJR

船橋駅で、母親に手を引かれていた3歳の女の子がまぶたにやけどを負っている。

 「もはや、個人のマナーやモラルを求めるだけでは限界がある。罰則規定で抑止効果を上げたい。」という同区の説明ももっとものことである。人の良心に期待するのも無理な事だと思うし、下手に注意をすれば、逆に怒られそうで怖い。歩きタバコを「違法行為=罪」とすれば、愛煙家の自粛も進み、注意もしやすい。

 しかし、禁止法令や罰則規定では、問題の抜本的な解決はあり得ない。法令で取り締まれば、法令で禁止されていないことはやっていい、と抜け道を探る風潮がある。例えば、千代田区を歩いていた愛煙家が、同区を越えた途端、タバコを吸い始める。といった事があるのも、法令で禁止されていないことはやっていいという認識があるからである。

 言うまでもなく、法令や規則でがんじがらめにされた社会は住みにくい。しかも、何でも法令に頼れば、人は法令で定められた義務しか果たさなくなる。例えば、シルバーシートができたら、席を譲る人が減り、シルバーシートにまで、若者や健全な人に占拠されるようになったのもいい例である。

 私が思うに、法令を作るのはもっともであるが、法令に依存することに問題があるのである。こうなると、携帯電話の乱用処罰法、満員電車でのヘッドホンからの漏出禁止条例、さらには、細部に至るまでのことを法令にしかねないのである。法令に縛られた社会は、前にも言った通り住みにくい。やはり、法令に依存するのではなく、遠周りになるが、マナーやモラルをもっと向上させる必要がある。最近では、マナーやモラルは軽視されているように感じる。そこには、家庭でのしつけや学校教育において、マナーやモラルをきちんと学ぶ機会が少ないこと、学んでいても、都合のいいときにしか使わないことが考えられる。家庭のしつけや学校教育を根本から問い直すことから始めないと、実は、自分の方が馬鹿にされていることが気づかないのである。人から見たら、自分のしている事というものがどういうものなのか、少しは分かるのではないかと思う。

 

最近感じたこと

 

 渋井政晧

 

 最近、思いついたことがあった。それは、この世から「争い」をなくすには、どうすれば良いのかというものである。我々人間には、争いはつきものである。この地球上に人間が登場してきた古代から、今日まで、人間と争いは密接で不可分な関係にある。個人的には、争いというものは、もはや、永遠に消すことが出来ないものだと思っている。

しかし、私はあえて、「争い」をなくす方法を考えた。そうして浮かんだ答えは、常に「相手の幸せを考える」というものである。だが、そのようなことは、頭で理解することは出来るが、心の底からするのは難しい。そもそも、人間の多くは、我欲に満ち溢れた生き物である以上、自分の幸せが満たされなければ、相手の幸せを感じることは出来ない。むしろ、相手が幸せになっている場面を見れば、嫉妬さえ持つ人もいるであろう。このように、もはや、「相手の幸せを考える」ことは非現実的だと思えても仕方がない。

けど、それは自分に自信を持てないからだと、言えるのではないだろうか。自分に自信が持てれば、何よりも、精神的に一種の“ゆとり”が出来上がる。その“ゆとり”さえ出来れば、「相手の幸せを考える」ことができるはずだ。なぜなら、もし、“ゆとり”がなければ、自分のことで精一杯になっているからだ。“ゆとり”を持ててこそ、他人を優しい目で見ることができるのである。

相手の幸せを考えれば、相手に対する憎悪はなくなり、やがて、この世から争いは消え失せるであろう。

エッセイ

法学部 二年五組 中村真之

 今年もまた八月十五日「終戦記念日」が近付きつつある。毎年この時期になると、各テレビ局が急に思い出したか、何かに憑かれたかのように「反戦」「平和」をテーマに特番を組み出す。それらが今後の安全保障、国防問題などを前向きに論じるのならまだ見る物があるだろうが、大半が感情論オンリーの、目も当てられない駄作が雨後の竹の子の如く、目白押しなのだから救い難い。

 ドラマ仕立てで戦争を扱う番組がその際たる物だろう。大抵は人気のあるアイドルを起用した、トレンディードラマ(!)仕立ての物になっている。しかもその内容たるや戦後生まれの人間の脚本による、判で押したかのような、いかにも「教科書に書いてある戦中」のオンパレードで、パロディーなのかと思える位、始末に終えない作品が多い。終戦記念日すら、視聴率競争の食い物にしてしまう風潮なのか知らないが、(筆者は未見だが)去年は人気女優総出演のドラマが合ったくらいだ。すると今年は某多人数人気アイドルグループあたりが主演するのだろうか?もっとも大河ドラマすらああいう様相を呈しているのだから、推して知るべしと言うのも仕方が無いが。

 またこの時点(七月十二日現在)では確認してはいないものの、日本テレビは今年も「火垂るの墓」を馬鹿の一つ覚えで放送するだろう、と予言したい。原作は戦後文壇の(元)寵児野坂昭如であり、監督は今をときめく巨匠宮崎駿(勿論皮肉)で、しかも映画として確かに名作だ。よもや巨人戦よりは視聴率が上がるであろう安全牌を捨てるとは思えない。

 これら物は最初から当てにしていないからまだ心理的ダメージは少ない。しかし肝心の、頼みの綱であるオピニオンリーダーの先生方も心許ない。筑紫哲也は大江健三郎あたりとニヤニヤボソボソと煮え切らない議論とお題目を唱えるだろう。田原総一郎はせっかくの自分の特番で、相変わらず話の腰を折って議論を迷走させるのは目に見えている。石原慎太郎が九段くんだりでキナ臭いことを自慢気に言うのは夏の恒例行事。云十年間変わらぬ罵り合いばかりで何ら進歩が無い。あの野坂センセもテレビタックルあたりで、ビートたけしに笑いの種にされるに違いない。もっとも今年は、某社民党T女史の口角泡飛ばす関西弁を聞かないで済む分、まだマシかもしれないが。

 これらの番組は「プライベートライアン」のエンディングを笑う位の度量が無ければ、本当の意味で楽しめないのかも知れないが(アーリントン墓地に翻る星条旗に感動する日本人などいるのだろうか?)、毎年同じ事の繰り返しである。好い加減見る気も消失して来る。そんな訳で今年の夏、筆者は先日鬼籍に入られたナンシー関先生よろしく、テレビ消灯を検討している最中なのだが、皆さんはどうだろう?

 

 最近の家族は・・・

      稲田怜子

この前ハッシュという映画をみた。主演は田辺誠一と片岡礼子と高橋克也である。田辺誠一が出ているので見てみたのだけれど、これがなかなか面白かった。田辺と高橋はゲイのカップル役で、そこに子供は産みたいけれど、結婚はしたくないという女が現れる。この女が田辺を父親と見初めて、微妙な三角関係が始まるのだった。この三人の関係だけでなく、周囲の人々との関係も考えさせられた。周囲は異性との結婚を望み、本人たちは親というものがどういうものか分からず、悩みつつ答えを出していくのだった。

今は結婚にとらわれないシングルマザーが増えているそうだが、この映画で取り上げられたものはまた別の形である。産む性でない男は、自分の子供でない子供を、何の違和感もなく育てることができるのだろうか?もし、私のパートナーとなった相手に違う男性の子を産みたいといったら、どういう反応を見せるだろう。もしくは子供のいる友達と住むことになったら、その子供を一緒に育てることが出来るのだろうか?私は自分のパートナーにはそれが出来る人を選びたいと思う。それは実際そういうことがあるかどうかという

より、そのように柔軟に対応できるような人という意味で。

家族とは、血縁関係だけで成り立っているのではなく、子供と、それを保護する大人の集合体である。大人は子供を責任もって守らなければいけないのだ。

子供を育てるのはこの上なく大変だと聞く。しかし、同居人の協力があれば、それらを乗り切ることも難しくないのではないだろうか。そうしてみんなが協力する関係こそ家族といえるだろう。二世帯、三世帯家族は少なくなったが、新しい家族の形が出来てきているのだはないだろうか。

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