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筒井エッセイ  プロフェッショナルについて            筒井俊輔

 

例えば、芸人、まずはこれについて述べよう。しかもお笑いに限定する。

まず、芸人について自分が感じること、それは多くあるが、主に挙げるとしよう。1,おもしろさ、2,用意周到さ、3,芸の緻密さ、4,引き出しの多さ、5,芸にかける、情熱にも近いハングリーさ・・・挙げるときりがないがないが、何が言いたいか。プロの内容である。「プロ観」と言うのは人によって違うだろうし、職業によっても違うと思う。だから自分の論を書く。

こういう,見ている側の要求を忠実に一つ一つ満たしていくほどプロとしての真価が上がると思う。そうなると、実力はもちろん、見栄えも良い。

しかし、その華やかな分、道も険しい。それを全部ひっくるめて惹かれるし、だからこそ尊敬できる。事実、自分はいくつかの分野で尊敬する人がいる。これから、勝手ながら自分の興味のある分野からプロをいくつか紹介する。プロについてなどずうずうしく恐縮ですが。

 

 まず芸人。あまり固有名詞は出したくないが、とりあえずきらいな芸人はほとんどいない。というのも、芸人はプロ意識が色んな所で現れる。

ぼくが見る最高峰は、やはりタモリである。すべてが一級品である。しかも、長年コンスタントに続けることに意義があり、揺るがない。番組も人気があるし、観客を引きつける。まさにエンターテイナーと言えよう。しかしここで主観を入れるが、彼の唯一の欠点があるとすれば、いいとも選手権である。最後にクールダウンしてしまう。まあ運動後の整理体操だと思って黙認する。他にも優れた精鋭達が群雄割拠しているが,割愛させてもらう。そして賛否が激しい論争を生む、江頭2:50をあえて書く。

彼は、凄いの一言に尽きる。何が凄いかというと、まず名前。父親が2:45だから五分後だ。それと、数少ないチャンスで忠実に仕事をこなす。

情熱もある。まさにプロだ。意識はとても高い。だが尊敬はしない。ただ、人気がある芸人は沢山いるので、そこを避けて、あえて彼を評価した。

 次にスポーツの選手。本当に尊敬するプロが数多くいる。自分はバスケにしか多くを語れないが、スポーツについてのプロは本当にすごい。

心・技・体とよく聞くが、その全てが卓越している。しかも、そのほとんどが努力の成果である。逆から述べるが、「体」では、極限まで鍛え、どんな技術にも対応できるように、しかも怪我をしないようにバランスを考える。「技」では、基礎練習を中心に何度も反復して練習する。これらがあった上に「心」で差がつくとぼくは思う。まず成長の早さが違うし、プレッシャーがすごい時は勝負強さが勝敗を分ける試合もあり、バスケのNBAでも何度も見た。バスケは最後の0.1秒まで逆転できる。プロで差がつくのはミスの数と集中力、気力、監督も含むチーム力、それと経験だと痛感した。少なくともバスケでは。今年のプレーオフは、あるチーム、自分はそこを応援していたが、そこが三連覇を狙うチームに挑戦したが、惜しくも破れた。チームはよくまとまっていていいチームだが、やはり,フリースローのミスの数と経験の差などが出たと思う。負けはしたが最高の敬意をコートの五人に捧げたい。来年は優勝。

 

 最後に超一流を紹介する。「ゴルゴ13」である。彼は自分を常に第三者の目で見ることができ、任務は必ず遂行する。プロの参考書。是非夏休みの課題図書にして下さい。

 

えっせい

                 中道紗治子

最近よく感じることだが、私は歳をとった。何がまずいってこのやる気のやる気のなさだろう。大学入学当時はこんな予定ではなかった。大学に入ったら、友達と楽しくほどほどに勉学に励み、趣味を活かしたアルバイトに励み、私腹を肥やしつつ、休みには友とちょっとした旅に繰り出し、泣いて笑って…これ以上は悲しくなるのでやめておくが…とりあえず大誤算である。何故って決して嫌なわけではないのだが、とりあえず塾で小学生に囲まれて、受付で笑って、たまに高校生にも囲まれて、勉強もなんとか教えて、家庭教師もして、やっぱり教えて、たまにいっしょにご飯食べて、家に着く頃には体力の衰えを感じて…決して嫌なわけではないのだが…だからって週平均五日は働きすぎってものではないか?五日…七日のうちの五日である。七年この生活を繰り返したら、丸々五年働きっぱなし。しかも今週は試験前だというのになぜか週六日。こんな生活ではやる気がなくなっても仕方がないってもんだろう。と、最近納得さえしつつ、このままではまずいと悩む日々。

 とまあそんな話は置いておき、そんな私は最近考え方が少々変わった。どう変わったかと一言でいうならば、大学に入ったからか、職業柄か、何事も(特に人)外見より中身を重視するようになった、というところ。やはり人間中身が全て。とまでは言わないが、人に関してもやはり尊敬できる人や、お互いによい影響を与えられる人と一緒に居ることはよいことだ。ということをつくづく感じるようになったのだ。人は様々な人とお互いに影響しあいながら、自分という形をかたどっていく。自分に無いものを他人から学んだり、またその逆もあったり。とかく自分の周り、近ければ近い人からは受ける影響も大きい。今まで、自分は自分、自分がしっかりしていればそれでいい、と思っていた時期も長くあったが、振り返ってみれば、それさえもいろいろな人に影響されて行き着いた考えであって、一つの通過点に過ぎない。頭では分かっていても、この歳になって初めて実感できたというのは意外だったが、だてに歳をとってきたわけじゃないんだなと思えて嬉しかったりもする。今までとは異なる考え方や、新しい視点。こういった自分の器を広げてくれる多くの人に出会えるということはとても面白いし、ありがたい。私も人にいい影響を与えられるような人でありたいものである。

 ふとそんなことを考えていたら、なんとなく週五日バイトに明け暮れて、いろんな小学生や中学生、高校生に勉強を教えたり、話したりして毎日を忙しく生きることもそんなに悪いことじゃないな、と思えてくるから不思議だ。たまにはもっと別な時間の使い方もしたいが…まあ今回このエッセーを書いたことによって、こんな悲惨な生活にも活路を見出せたことだし、ひとまずはよしとすることにしよう。             

 

利便性と倫理観の間

 

 大西 潤

 

東京で自転車を利用していると困ったことにぶつかる。それは、置くことが出来る所定の場所の少なさとスペースの問題だ。僕の住んでいるところは、最近話題になっている中野駅に近く、よくその周辺に行くので、特にそれを感じる。頻繁に自転車に「一時間以内に移動しなければ撤去する。」というようなことが書かれた紙を自転車に貼り付けている人を見かける。

確かに、狭い歩道に無造作に置かれた自転車を見ていると、いい気分はしない。はっきりいって街の美観を損ねている。しかし、置き場所が自転車の数に比べて圧倒的に少ないという現実がある。「指定の場所においてください」といっても、その指定の場所がない。区の自転車置き場はいつも満杯だ。しかも料金を取る。勝手な論理だが、地方出身者にとって、この制度には賛成できない。だから僕は中野区の政策から逃れる工夫をしている。出来るだけ近くにある図書館に自転車を置いておくのだ。ここの駐輪場は、建物の地下にあるし、図書館の閉館まで時間無制限だ。この方法を利用している人は少ないようで、僕は得をしている。

もちろんこんな手段を使う人間を増やしていっても、何の解決にもならない。倫理観の回復ためにも、結局は指定の駐輪場を増やしていくしかないのだ。撤去するための見回りを雇う人件費があるぐらいだから、作れるはずだ。そして料金制度もやめてほしい。たかが100円程度のものであっても、それによって一気に気分が悪くなる。商店街に行きたいという人をキープするためにも、きれいな街づくりのためにも、考慮してほしい。

 

「壊れ行く終身雇用制」

吉田 靖

 バブルが弾けて、約十年がたった。景気は回復せず、自明の理であるが、今日、企業からリストラされる者が枚挙に遑がない程の数に上り、再就職は大変困難と聞く。そこで現れたのが雇用の流動化だ。

 雇用の流動化とは、端的に言えば、終身雇用制の反義語である。この制度の利点は、二つある。まず一つ目は、失業者の減少だ。すなわち、被雇用者が短いサイクルで辞めてゆくため、企業側は、人材の雇用が容易になるのだ。第二に村意識からの開放である。終身雇用制では、同じ会社に留まるのだから、上司の命令はたとえ法に触れるものでも従わねばならない。管見によれば、最近頻発した食品業界の偽装事件もこれに無関係とはいえない。しかし、果たして、雇用の流動化はいいことばかりなのだろうか。

 管見によれば、終身雇用制は絶対悪ではない。今日、日本は不景気だが、その原因の一つは、内需だ。日本が好景気の頃は、人々の購買力も高かったが、私には、この内需を引き出していたのが他ならぬ終身雇用制であったと思えるのである。というのも、畢竟、職への安定は内需を引き起こすからだ。また、この制度は、自己アピールの下手な日本人によく合っていたし、前述の村社会的上司との付き合いは裏を返せば、上司との信頼関係でもある。更にこの制度の利点は企業倫理、換言すれば、雇ったからには簡単には解雇できないという責任をもたらした事である。私見によれば、この点が、雇用の流動化の弱点である。というのも雇用の流動化の下では、社員の切捨てが容易だからだ。

 そうは言っても、日本は不景気なのだから、マジョリティーの意見のように、雇用の流動化はより進むだろう。私が言いたいのは温故知新という事だ。換言すれば、終身雇用制を絶対悪とするのではなく、雇用の流動化を取り入れつつも、前述の企業倫理の様な良き制度は失わない様にせよ、という事である。方法の発見は困難だが、見つけねばならないのではなかろうか。

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