教室の中の『源氏物語』−『古典講読 源氏物語・大鏡』完成によせて

                               (「国語科通信」101号・角川書店・1998.2)

 一昨年(一九九六年)一月に発足し、編集委員はもとより、編集部諸氏ともども編修作業に渾身のエネルギーを費やしてきた、『古典講読 源氏物語・大鏡』が完成する。今春までには最終検定も終了し、いよいよ教育現場の第一線の先生方の机案にお届けすることになると言う。広く江湖に受け入れられることを願ってやまない。

 時に教育界を取り巻く現状は、言葉に尽くせぬ厳しいものがあり、まさに教育現場は空前の危機的状況にあると言わねばならない。少年事件が頻発し、青少年の心を現場の教師は測りかねている。一方で、社会では少子化が進み、学校経営の危機すら囁かれる一方で、魅力的な学校づくりが叫ばれ、カリキュラム改革は、大学から初等教育まで進行中である。つまり、教育現場は、自らの五年先の予想だにつかぬビックバン時代を迎えつつあると言ってもよかろう。こんな時代の中で、私たち日本人は、何を人生の指針として行くべきなのだろうか。こんな時にこそ、人を愛すること、生きとし生けるものの心の有り様に立ち返って思量してみる必要があるのではなかろうか。遠き先人の心を古典文学によって辿り返す、学校教育という“かたち”の根幹がこの辺りにあるように私には思われてならない。

古典教科書と私

 さて、教科書編修に携わって以来の私の机の上には、折々の参考とするために、高校の二年次に使用した、角川書店版の久松潜一・吉田精一・佐藤謙三編(『高等学校 古文二改訂版』昭和四七年検定済・昭和五四年三月発行)が置いてある。執筆の折々に参考にするためだが、この教科書は同級生にいたずらされて、今は懐かしい教室の石油ストーブの上に置かれたための焦げ跡が残っている。まさに私の青春の形見のひとつである。

 教科書を繙けば、高校生の私の幼い字の書き込みがあって、昭和五四・五五年(一九七九・八〇)当時の「古文」の授業の進行までも辿り返すことができる。目次を開くと、『万葉集』『土佐日記』『枕草子』『源氏物語』『新古今集』『方丈記』『謡曲』『奥の細道』 が並び、文学史の主要な作品が学べるラインナップを構成していたことが分かる。これに三年次の文系進路選択者は“丸本”と呼ばれる、一作品全体を盛り込んだ『古典文学選』で作品世界を網羅的に学ぶための教科書が与えられていたのであった。その前段階の文学史把握のために、この『古文二』があるわけだが、後にその中の一編『土佐日記』によって、私はとりわけ深い愛着と、運命の縁を結ぶこととなるのである。すなわち、

  男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。

で著名な「門出」と称する冒頭の本文の、二つの「なり」には、私の丸印がついている。伝聞と断定の助動詞の見分け方をここで学んだのである。脚注に目を転じてみよう。

  (1)男もすなる日記 男も書くと聞いている日記 

      *なり 助動詞。伝聞を表す。「なる」は連体形。

とある。他にも、(8)「くらべつる 親しくつきあってきた。」(14)「あざれ合へり「あざる」はふざけるの意。(魚肉などが)腐るの意とかけてある」などに傍線・丸印が伏してある。これらの注は当時としては斬新なものであったようだが、この注の真の斬新さの意味は、それからさらに三年後、なんと私は、この『土佐日記』本文(ほんもん)の底本、『土佐日記全注釈』(角川書店・一九六七)の校注者、萩谷朴先生の「国文学購読1」(学部一年次必修)の受講生となったことにより、その真価を体感することとなったのである。この当時の先生との出逢いについては、少しく綴ったこともあるが@、「すなる」と「するなり」との文法的相違や、「くらぶ」が「校」の訓読語で「学校」の原義を形成していること、文献学の「校本(こうほん)」「校合(きょうごう)」といったテクニカルタームにも応用されていること、「クラブ(=club)」といった英語も、ひょっとするとこの語義に通底している可能性などを、例の甲高い声でエネルギッシュに講じておられたのであった。そして、後にこの『古文』の教科書の脚注は、萩谷説がベースになっていることを知った私の驚きは申すまでもなく、その後徐々に高まる畏敬の念とともに、巡り合わせの幸運に感謝したことであった。

教科書の中の『源氏物語』革命

 残念ながら私は、三年次の文系選択での『古典文学選』を、他社版の『奥の細道・評論』で学ぶこととなったのだが、私どもの手になる『古典講読 源氏物語・大鏡』の前身となった『古典文学選』については、本シリーズの監修者のひとりである室伏信助先生が、本誌『国語科通信』(四〇号・昭和五一年<一九七六>五月)に、教科書の刊行に併せて「『夕顔』巻の位置」なる一文を寄せておられたA。遡上に上せられた『古典文学選』には『更級日記』『源氏物語』『大鏡』が取られており、しかも、『源氏物語』に関して言えば、いわば夕顔・玉鬘の物語とでも言うべき、物語前半のヒロインのはかない人生とその遺児玉鬘の物語がたどられるような編成をしている画期的なものであった。現場の時間割等の現状をふまえながら、最大限、体系的な学習を可能ならしめる配慮が成されていることを、前記室伏論文は、夕顔物語の表現に「二つの相異なる世界」の存在することを簡明に説きながら、いわゆる「並びの巻」の人物の系譜を辿ることで、物語全体の把握を目指す編修の姿勢を、高く評価しておられたのである。曰く、

 

 「古典文学選」によって、『源氏物語』の世界を垣間見た読者は、表現世界の基底を探 ることによって、文学として達成したすがたを自らの目で確かめることができたのである。四二八頁

 

と。この『古典文学選』は先のカリキュラム改正まで使用され、現場の先生方にはおなじみではないかと思う。このシリーズには、同じ編集委員の手になる『つれづれ草』『枕草子』『源氏物語』をセットとした一冊と、なんと夕顔の遺児・玉鬘の物語を編成した教科書『玉鬘』も存在した。まさに、“古典の角川”の面目躍如といったところであろう。

教科書のおもしろい読み方−編集方針開題

 さて、今回、私どもの手になる『古典講読』は『大鏡』を加えて一書とし、現場の要望にも応えるべく十全の配慮をしたつもりである。本書の、『源氏物語』に関する特色を例示して、現場の先生方の採択の参考に供することとしよう。

 ○三部構成説に拠り、物語のストーリー全体を把握できるよう、主要場面を採用する。

 ○物の怪・音楽描写・宿曜と予言等、生徒が関心を寄せるテーマをより深く学べる場面を選択する。

 ○光源氏物語・藤壺物語・夕顔物語・紫上物語・六条御息所物語・明石物語・浮舟物語等、主要人物の人生がたどられるような登場場面を選択する。

 ○コラムにより、『源氏物語』固有の言葉・表現・和歌などへの関心を喚起する。

 ○図版を多用し、ビジュアルで清新なイメージの教科書を目指す。

 ○テクストに『新日本古典文学大系』(岩波書店・一九九三)本文を採用し、適宜、『大島本源氏物語』(角川書店・一九九六)の影印をも参照しつつ、『源氏物語』読解の最前線の解釈をベースに、通説をも考慮して脚注を付す。本文は教科書本文としての基準を設定し、読みやすい本文に校訂する。語彙の清濁・語義等の認定は『必携古語辞典<全訳版>』(角川書店・一九九七)に準拠する。

 ○大学入学試験の出題傾向に照らして、文法設問は品詞分解のみに終始せず、構文・主語を問う脚問を付す。

などの基本方針のもと、編集委員会の十数次の討議を経て編成されたのが本書なのである。なかでも、特筆すべきは、『新編国歌大観』、『平安時代史事典』、『大島本源氏物語』等、出版界の度肝を抜く古典文学研究ための基本図書・データベースの整備を矢継ぎ早に実現してきた、編集部の全面的なバックアップにより、正確な学術的データや、鮮やかな図版の数々が惜しげもなく取り込まれていることも、ぜひ御注目願いたいことである。

その一、小さな物語から大きな物語へ−物語世界の解釈法

まず、構成にあたっては前身である『古典文学選』の人物中心の編成をさらに拡大し、光源氏の物語とその周辺の女君の物語を縦軸に編成している。以下、

 第一部 光源氏誕生・母の面影・夕顔の恋・物の怪出現・北山に遊ぶ少女・光源氏の秘 密・手習ひの歌・紅葉の賀宴・罪の行方・紫の君と箏の琴(そう  こと)・車争ひ・祭り見物・物の怪 顕現・野宮訪問・須磨の憂鬱・光源氏と明石の君の合奏・宿曜の予言・紫の上の嫉妬・ 藤壺の崩御・雪の夜の語らひ・明石の姫君の東宮入内

 第二部 紫の上の孤独・女楽(おんながく)・紫の上蘇生・紫の上臨終

 第三部 宇治の川霧・尼衣・返り事せぬ浮舟

 一瞥して明らかなように、光源氏の物語に重点を置いたため、かなり第一部偏重のきらいはあるが、『源氏物語』そのもののエッセンスはタイトルを一瞥しただけでご理解いただけるのではあるまいか。加えて、本書が三年次の教材であるということもあり、また、光源氏の抱え込んだ罪の問題を、第一部「六 光源氏の秘密」(若紫巻)「九 罪の行方」(紅葉賀巻)で採用してみた。『源氏物語』は、人間が根源的に抱え込んだ<罪と宿世>が物語の主題のひとつである。しかしながら、教科書ということで、物語の本質である<罪>の問題について語られる箇所は掲載されてすら来なかった傾向がある。そうした一種の自己規制的な教科書編修のタブーに、私どもは挑戦したのだとも言えよう。そんなわけで、本書二五頁には、『扇面古写経模本(せんめんこしゃきょうもほん)』中の「添臥(そいぶし)の男女」の図版を掲載してみた。実際は大変かわいらしい図柄である。ほかにも、もちろん相互の章段が様々なテーマごとに連動しつつ、藤壺物語・夕顔物語・紫上物語・明石物語・浮舟物語と言った、現場の先生方のニーズに柔軟に対応し得るような、人物単位の編成によって年間計画を立てることが可能な編修を試みたので、指導書にはこの辺りの関連性をより詳細に示したいと考えている。

その二、テクストひとつから大きな物語へ−文化論へ

 また、近年の王朝文化研究(カルチュラルスタディズ)の進展に伴って、音楽・絵画・宗教・風俗等の問題を物語に読むことも盛んである。そこで、最新の研究成果によりつつ、本書で最も力を入れたのは、「物の怪」「音楽描写」「宿曜の予言」等であった。特に物の怪に限って言えば、『源氏物語』にはっきりと顕形(けぎょう)した物の怪には全員御登場願った。たとえば「四 物の怪出現」「一三 物の怪顕現」「二四 紫の上蘇生」がそれにあたるが、これらに都合一二頁近くを費やしている。

 さらに、主人公・光源氏は、王朝文化の粋を総てマスターしていた、超越的人物としても描かれている。そこで、音楽描写の関連章段として、「八 紅葉の賀宴」「一〇 紫の君と箏の琴」「一五 須磨の憂鬱」「一六 光源氏と明石の君の合奏」「二三 女楽」を揃えた。光源氏は、舞の名手であり、かつ王者の宝器<琴(きん)のこと>の名手でもあった。この楽器は皇統にしか伝授されず、紫の上には箏の琴は教えても、決して<琴のこと>を教えることはしなかった。したがって、第一部の須磨では光源氏がじしんの憂愁をこの楽器で奏でたり、明石の浜では、明石の君と光源氏が、この楽器を合奏することで後の契りを結んだりしてはいるものの、六条院の女楽と言う、この物語正編のクライマックスの場面で<琴のこと>をつま弾くのは、皇女・女三の宮なのであった。六条院の女楽と言う、特殊な物語空間では、楽器そのものの伝統性で、女君達の秩序すら描き分けられているのである。こうした、音楽関連章段の選択も、光源氏の物語がトータルに把握できる可能性がありB、音楽好きな現代高校生の講読演習には、興味惹かれるテーマではなかろうか。

その三、ことばの文化史を守る

 ついで、本文研究者としての専門的な立場から、本文校訂の方針についてもぜひ記しておきたい。それは、何より大島本採択の意義についてである。そこで、『源氏物語』本文史の中でも屈指の問題箇所として知られる、「若紫」巻の「五 北山に遊ぶ少女」の一文を例に解説しておこう。

  人なくて、つれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるに紛れて、かの小柴垣のほどに立ち出で給ふ。<人なくて−日もいと長きに・他社版>   二一頁

 光源氏がはじめて紫の君を垣間見する場面の導入部である。つまり、光源氏は話をする人もなくて所在がないのか、春の一日することもなくて所在がないのか、文脈の流れ等の比較検討では、優劣の判定不可能な本文なのである。したがって、諸伝本間の系統別多数決により、「人なくて」本文は大島本だけの孤立例であることから、他社版では、ほとんどが、『完訳日本の古典』(小学館・一九八三)の明融(みょうゆう)本による校訂本文「日もいと長きにつれづれなれば」を採用することとなったのであろう。むしろ同じ校訂者・阿部秋生氏の手になり、「人なくて」を採用していた『日本古典文学全集』(小学館・一九七〇)本文(底本・古代学協会蔵大島本)は、前者に先行して発市され、学術論文の底本としては、現在も圧倒的な支持のあるテクストではあるのだが、こと教科書本文に関しては、これを「日もいと長きに」と訂しているのが圧倒的な状況である。しかしながら、この本文箇所の校訂については、本書の監修者・室伏信助先生も、この傾向に対して警笛を鳴らし、注意を促して来られたC。なぜなら、角川書店から影印が刊行された、本書の底本・大島本本文の書写形態に目を転ずれば、現行の諸注釈書の本文校訂や、先行していた本文の価値観は一変するはずだからである。口絵の、綴じ糸をはずして撮影された、大島本「わかむらさき」の七丁めの表の図版を御覧いただこう。七行目の真中あたりに「人なくてつれ−−なれは」とある右脇の、抹消跡に注目してほしい。ここには、おそらく、青表紙本諸本に圧倒的な優勢を誇る「日もいとなかきに」が記されていたはずであるが、あえて大島本は、この書き入れ本文を削ってまで、「人なくて」本文を生かした、この伝本の書写者の、まさに親本の複製本を作るが如き見識と書写態度に、私ども編集委員は賭けることとしたのである。最近、物語の時間の循環の論理から、やはり「日もいと長きに」本文に軍配を挙げる見解が示されたりもしたが、公刊以来、戦後五〇年の間、本文研究の拠り所とされてきた池田亀鑑『源氏物語大成』(中央公論社・一九五一/初版一九四二)による翻刻本文での本文批判は、大島本の精密な影印本文の形態を検すれば、前記の如き見解とともに、むしろ近代合理主義的読解の呪縛に絡め取られた、『源氏物語』本文史享受の一形態そのものではないか、との思いを致さずにはいられないのである。

 このように、最新の研究成果を踏まえた、「若紫」巻の本文の問題からも、本書の編集意図の一端は知っていただけようかと思われる。つまり、『古典講読 源氏物語・大鏡』の本文の信頼度は、極めて高い精度を誇るものであって、こうしたミセケチのひとつびとつに、極めて慎重に注意を払って再建されたテクストを校訂したものであるという、監修者・編集委員の総意をお伝えしたいのである。言い換えれば、この日本古典文学の至宝『源氏物語』の伝本を後世に正確に伝えようとした先人の思いを踏みにじることなく、教科書であるからこそ、この本文を採択したのである。

 この方針は、語句の認定にも同様である。たとえば、章段末の頁左下に据えた重要語句・語法には、現場の先生方からすれば、いささか見慣れぬ濁点の無表記等があるやもしれない。一例を挙げよう。二三頁の重要語句に見える「むつまし」がその典型であろうか。これは『必携古語辞典』に盛り込まれた最新の見解をふまえて、「御供にむつましき四五人ばかりして、まだ暁におはす(二〇頁)」とある、光源氏にとっての、心の許せる親密な人たち、という意味での「むつまし」なのだが、これが「むつまじ」と濁ったのは「近世以降」とする『必携古語辞典』の見解に従ったのである。このように、古語についても、正確な表記を以て、教科書本文を提供しようと試みたのが本書であると言えよう。

失われゆく“心”を古典の至宝に復興しよう

 まだ記憶に新しい、長野オリンピックにおいて、運命のいたずらからか、前半の、二人のゴールドメダリストは、亡き父の面影を胸に栄冠を勝ち得たのだ、と口を揃えた。まるで昔物語を読むかのような、こうしたメダリスト達の親子の情は、今も昔も変わることがないことを示してくれたのである。これらのすがすがしい涙を見ていると、『源氏物語』の光源氏や、夕顔、紫上といった主人公達に共通する、亡き母のやさしさを求める人間の普遍的な姿を重ねてしまうのは、私ひとりであろうか。私には彼らの涙からして、教育の現場はすべて荒廃しているとは思えないのである。私は、文学を通して、人間を学び、人間を知るという、本来の「文学と教育の力」を信じているひとりである。教科書の中の『源氏物語』を通じて、遠きいにしえの先人達と心を通わせ、また本書を通して、来るべき世紀を担う若人の魂と出逢いたい。文学を通して“愛”と、“心”を通じ合わせると言う、今まで自然に行われてきた、「親しく学び、つきあう(=くらぶ)」という、学校という“かたち”を、私は信じたいのである。 

 @上原作和「オーラルコンポジション」『萩谷朴−人と教育』(赤堤会・一九九一)

  A室伏信助「『夕顔』巻の位置」『王朝物語史の研究』(角川書店・一九九五)

  B上原作和『光源氏物語の思想史的変貌−<琴>のゆくへ』(有精堂・一九九四)

  C室伏信助「大島本源氏物語研究の展望」『大島本源氏物語 別巻』(角川書店・一九九七)に、これまでの研究成果が包括的に論述されている。