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 源氏物語の中の男性について

                 日本古典文学基礎演習A 上原先生

                     99001045 後藤麻衣子

                     99001055 嶋田英恵

                     99001065 島直子

<桐壺帝について>             99001065 島直子

 

*桐壺帝……言わずと知れた光源氏の父君。「桐壺」巻の男主人公。「桐壺」に御

      殿を賜る更衣、桐壺更衣を寵愛するが、更衣は周囲からの嫉妬と迫

      害に遭って病死。その後に更衣に酷似する藤壺を得て、深い悲しみ

      から逃れる。モデルは醍醐天皇だと言われている。

 源氏の父親であるが、あまり取り上げられない桐壺帝。ここではその桐壺帝にスポットを当てて彼の恋愛模様を見ていこうと思う。

 

【桐壺帝の恋愛 ―桐壺更衣との恋愛― 】

 光源氏の母君である桐壺更衣を、桐壺帝は溺愛していた。そして桐壺更衣も帝を愛した。しかし、この二人の恋愛は身分の差により悲しい結末を迎えてしまう。

『いづれの御時にか……』「桐壺」巻のこの冒頭文では、実は桐壺更衣の素性、気立て、美しさ、そして桐壺帝との出会いの事すら書かれていない。書かれているのは更衣の身分についてである。彼女は強力な後見がなく、当時の宮廷世界の常識(帝の愛は相手の身分に応じて与えられる、というもの)からは大きく外れる恋愛対象であった。帝が何故この更衣を愛したのかというと、彼自身もこれといった外戚を持たなかったからではないか、という説がある。まだ中宮も皇太子も未定、十代でおそらく即位したばかりの桐壺帝は、有力な後見勢力がなく、不安定な立場にあった。だからこそ外戚による政治壟断を嫌う桐壺帝は、天皇親政への意欲から背後の勢力と結びつかない女性に惹かれたのではないだろうか。

当時の実際の事は知る事は出来ないが、桐壺帝は身分の差を気にせず桐壺更衣を寵愛した。更衣も他のお妃方の怨みや妬みを受けながら、その苦しみに精一杯耐えて宮仕えを続け、光源氏を生み、そして病死してしまった。

  『かぎりとて 別るる道の 悲しきに いかましきは 命なりけり

   いとかく思う給へましかば』

   (「今はそれが定めとお別れしなければならない死出の道が悲しく思われま

    すにつけて、私の行きたいのは生きる道のほうでございます」ほんとに、

    こんなことになろうとかねて存じておりましたら……)

 これは更衣が死の前に帝と別れる時に話した唯一の肉声である。更衣は後に残して行く幼い子に対する母としての悲しみは語らず、ただ〈何としても生きたい〉と帝に告げる。この場面から桐壺帝と桐壺更衣の恋愛感情の強さを窺い知る事が出来るのである。

  『……世に、いささかも人の心をまげたることはあらじと思ふを、ただこの

   人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち

   棄てられて、心をさめむ方なきに、いとど人わろうかたくなになりはつる

   も……』

   (ほんのわずかでも、人々の心を傷つけた事はあるまいと思うのだが、ただ

    この更衣一人の為に、多くの決して恨みを抱かせてはいけないお后たちか

    ら恨まれてしまったあげくに、その更衣にこうして先立たれて、気持ちの

    おさめようもなく、いっそう恥ずかしい愚か者になってしまった。)

 更衣の生前、それへのあまりにも激しい愛情の為に、あるいは周辺の者たちを傷つけることになってしまったという、帝自身の、ある意味では反省とも悔恨とも言いうるような心情を読み取ることが可能なのである。

 天皇というのはお妃たちに情けをかけ、恨みを抱かせないもので、全てに満足を与える存在でなければならず、大袈裟な言い方をすれば全てを超越する〈光〉としての理想体でなければならないものである。絶対と言っていい存在であり、誤りなどあってはならないはずのものだったのだ。それ故この常軌を逸した更衣一人への愛情は、天皇たるもの決して取ってはならない行為であった。

 桐壺帝の恋愛――更衣一人への分別を忘れた盲目の愛は、ある意味では純粋で美しい恋と言う事が出来、そしてその恋はいかにも悲恋という名に相応しい恋であった。しかし、この恋がいやしくも天皇と呼ばれる人の行為としてあるのであれば、それは天皇自身の自己認識を含めて、厳しい批判の刃にさらされるのは、むしろ当然の事であったのかもしれない。

 

参考文献 「源氏物語私見」 円地文子著 新潮社

     「源氏物語の観賞と基礎知識」 監修 鈴木一雄/編集 神作光一

                    至文堂

     「新源氏物語必携」 秋山虔編 學燈社     

 

<夕霧について>           99001045 後藤麻衣子

 

夕霧は、源氏とその最初の妻である葵上との間に生まれた第一子で、葵上の死後は母方の祖母の手で育てられた。十二才で元服するが、大臣公卿といった権門の子弟は元服後ただちに四位や五位に叙せれるという当時のしきたりにもかかわらず、父源氏の意向で、叙爵も六位にとどめられ、大学に入れられて本格的に学問を仕込まれた。これまで目下と思ってつきあってきた友人たちに先を越され、名門の子弟としては必ずしも必要のない学問修業に励まなければならないという境遇は、十二才の少年にとってつらい境遇であったにちがいない。父親の仕打ちをうらめしく思い、祖母の大宮に泣き言を言ったりもするが、不平を抱きながらも父親の言いつけには忠実に従って勉強に精を出す。夕霧は、大学入学という迂路をとらせる源氏の意図を理解していたわけではないし、学問が特に好きだったわけでもない。ただ世の中に早く出たい一心で、そのために必要とあらば、自分を殺して受験勉強にでも何にでも没頭しようというのである。

猛勉強の甲斐があって、難無く寮試に合格して擬文章生となり、翌年の二月には進士に及第し、その年の秋の司召には念願かなって五位の侍従として出仕することになった。出仕後の夕霧が官位もとんとん拍子に昇進し、それが必ずしも親の七光りでなかったことは、若菜上巻の朱雀院の言葉でうかがうことができる。

夕霧がまだ擬文章生であったころに、幼い時から祖母の大宮邸でいっしょに育てられた内大臣の娘雲居雁との間に芽生えていた恋を、父親の内大臣に知られ、仲をさかれるという事件が起る。六年の間軽挙妄動もしなければあきらめるでもなく、辛抱強く機会を待ちつづけ、とうとう内大臣を根気負けさせた。夕霧にとって雲居雁との恋が決していい加減なものではなく、きわめて真剣な、一世一代の恋であったことは、それが六年という歳月に耐え、その間いくつもあった縁談に全く耳を傾けなったという事実が証明している。縁談には耳をかさなかったが、夕霧は、雲居雁との仲をさかれた年の十一月に、源氏の従者惟光の娘が五節の舞姫にえらばれて参内したのに思いをかけ、やがて契りを結んだらしい。夕霧と惟光の娘の藤内侍との仲は雲居雁との結婚後も続いたが、夕霧は一方は正妻、一方は日陰の妻として、けざやかに待遇しわけて関係を続けていた。

玉鬘十帖の野分巻では、野分のまぎれに紫上の姿を垣間見て、その美しさに魂を震憾させる夕霧が描かれている。この時の圧倒的な印象はその後もながく夕霧の心に焼きついていたにもかかわらず、夕霧は最後まで、

  『あながちに、あるまじくおほけなき心などは、さらにものし給はず、いとよ

   くもてをさめ給へり』

 という態度で始終した。要するに夕霧という人は、心の中にいくつも間切りがあって、受験勉強は受験勉強、雲居雁への恋は恋、紫上への憧れは憧れ、藤内侍との情事は情事という具合に、それぞれがそれぞれの間切りの中に収まって、たとえどんなに強い情念でも、それが間切りを破って心全体に氾濫するようなことはほとんど絶対に起りえないような精神の構造をもった人物である。つまり夕霧にとっては、高嶺の花は高嶺の花、正妻は正妻、日陰者は日陰者以外のものではないのであり、そういうものとしてそれぞれの間切りに収まっているのである。夕霧にとっては、どんな挫折やショックも、要するに間切り内の部分的なショックにすぎないから、それによって自分を見失うということがない。これはまめ人夕霧のまめ人性である。

 柏木の死後、遺された朱雀院の女二宮を見舞ううちに、夕霧はいつしかこの友人の未亡人にひかれていく。世間的にも家庭的にも安定した男が、その安定したことに退屈すれば、様々な気晴らしを試みたり、時には恋愛もするであろう。夕霧の恋の動機と性質については、夕霧が一条宮邸を訪問した際のところで語られている。

  『うちとけしめやかに、御琴どもなど弾き給ふ程なるべし。深くもえとりやら

   で、やがてその南の廂に入れ奉り給へり。端つ方なりける人の、ゐざり入り

   つるけはひどもしるく、衣の音なひも、大方のにほひかうばしく、心にくき

   程なり。例の御息所対面し給ひて、昔の物語ども聞え交し給ふ。わが御殿の、

   明暮人しげくて、ものさわがしく、幼き君達など、すだきあわて給ふになら

   ひ給ひて、いと静かにものあわれなり。うち荒れたる心地すれど、あてにけ

   だかく住みなし給ひて、前栽の花ども、虫の音しげき野辺とみだれたる夕ば

   えを、見渡し給ふ』

 このあと、『かやうなるあたりに、思ひのままなるすき心ある人は、静むることなくて、様あしきけはひをも現はし、さるまじき名をも立つるぞかし』という夕霧の独白が続くのだが、夕霧が、大勢の子供たちがうろちょろしそれを世話する侍女たちの出入りが激しく、何よりもその子供たちの母親がでんと腰をおろしている家庭の主人でなければ、一条宮の雰囲気ひいてはその女主人にあれほど強くひきつけられることには、おそらくならなかったであろう。

参考文献 「源氏物語論」 吉岡曠 笠間書院

 

<頭中将について>            99001055 嶋田英恵

 

 源氏物語は女性の生きざま、生き方に力点が置かれて書かれている為主人公の光源氏はしばらくおき、その他の男性は一般に影が薄いように感じられる。中でも頭中将は源氏の引き立て役として源氏と競いながら、いつも一段劣った存在として設定されているので、よけい影が薄いようである。そのためか「人間像」としても際立ったものを示していないばかりではなく、性格設定にも不統一な点さえ見えるようである。

 

≪頭中将(内大臣)の人柄≫

(本文)人柄いとすくよかに、きらきらしくて、心もちゐなどもかしこくもの

    したまふ。学問をたててしたまひければ、……公事にかしこくなむ。

 と、いうように源氏の競争者として当然彼は色好みであり、派手好きで、また有能な政治家でもあった。源氏の君と一緒に漢字や管絃の遊びをして対等に張り合って、腹をわって話し合い、57、8才の浮気女源内侍が源氏と戯れる現場に突然踏み込んで、太刀を抜いて女を脅す茶番劇もやってのけて、あとで源氏と仲良く笑い合ったりもしたのであるが、一方純情で人柄もよく、誠実な面も見せていた。雨夜の品定めに妻の四の君の圧力で娘の玉鬘ごと行方をくらました夕顔の話をして涙を目に浮べながら述懐するのや、現時の須磨退居のころ、弘徽殿大后の不興をも無視して反逆罪を覚悟の上で、

(本文)大殿の三位の中将は今は宰相になりて、人がらのいとよければ、時世

    の覚え重くて物し給へど、世の中いとあわれにあぢきなく、物の折ご

    とに恋しく覚え給へば、事の聞えありて罪に当るともいかがはせむ、

    とおぼしなりて、俄にまうで給ふ。<須磨>

(訳) 左大臣の御子息三位の中将(頭中将)は今では参議になって人柄もな

    かなかいい人ではあり、世間からも重々しいお方として評判を立てら

    れておられるけれど、御自身は今の世の中がいかにもしみじみとして

    おもしろくない気がして何かの折にはいつも源氏を懐かしく思い出さ

    ないではいらっしゃれないので、この事が弘徽殿方に聞えたりして罪

    にあたってもかまうもんかという気持におなりになって突然須磨へ参

    上なさった。

 といったような行動に出たのは、そうしたあらわれといえるだろう。

 ところが澪標巻以後、源氏との関係はにわかに冷却しはじめる。源氏が権勢街道を進もうとするので、このたくましい“権勢家”に対抗しようとして頭中将も激しく競い合った。絵合巻において、源氏の養女梅壷女御に先んじて冷泉帝に入内した一女弘徽殿女御のために絵師を集め、贅を尽くして描かせた絵が、須磨で書いた源氏の絵日記によって敗北を喫したのは、無念の極みであった。さらに帝の立后にかかわる事件として梅壷、兵部卿宮の姫君などと競いあって弘徽殿女御は敗れ梅壷中宮が冊立された時の中将(この時は右大将)の衝撃は深く、その無念の情は二女である雲居雁への絶大な期待へと転生していた。だが、今度こそは東宮に奉って自分の政治的立場を確立しようと志していた娘(雲居雁)が、意外にも夕霧と仲良くなっている事を知って、無理やりに雲居雁を自邸に引き取って仲をさいた時の彼の行動は、源氏の娘明石の姫君という強敵を意識しての彼のあせりもあろうが、祖母大宮の心も、母に生き別れた娘(雲居雁)の心も、その他周囲一切の人の心もまるで思いやりもしない自己中心の俗物の典型のようにさえ変化する。そして、

(本文)大臣の、しひて女御をおし沈めたまふもつらきに、わくばらに、人に

    まさることもやとこそ思ひつれ、ねたくもあるかな。<少女>

(訳) ただ源氏が無理強いをして梅壷を中宮に立てて自分の娘の弘徽殿を圧

    倒なさるのも恨めしいので姫(雲居雁)がひょっとしたら他の誰より

    も優って中宮にも立つことはないだろうかと望みを掛けていたのに夕

    霧に先してやられるとは癪なことだなあ。

 と、思量し、憤慨している。続く物語本文で作者は、

(本文)殿の御仲の、おほかたには、昔も今もいとよくおはしながら、かやう

    の方にては、いどみきこえたまひしなごりも思し出でて、心うければ、

    寝覚めがちにて明かしたまふ。<少女>

(訳) 源氏とこの内大臣とのお関係は大体は昔も今もいかにも親しくおあり

    になりながらもこうした方面のことでは昔源氏に競争をお仕掛け申し

    上げなさった折にこちらが負けてしまった事があった――今度の一件

    でもこちらが負けたんだ――と記憶を辿り辿り思い出しになると情け

    ない気持がなさるのでその夜は寝覚めがちでお明かしになる。

 と説明し、止むに止められない彼の悲憤なのだと言う。だが、むしろ源氏と関わりつづける経緯を通して内大臣の独自性がもたらされたとも見られるのである。

 若年の時は一本気が純情・誠実の面に発揮されたのだが、中年になると権勢欲と身内かわいさとから強く利己に傾くのは、人間の通性として不自然ではないかもしれないが、その権勢欲と身内かわいさとを軸として、人柄が「誠実」から「不誠実」へとすりかえられてしまっている。男性的な性格であることから心情よりも理知に傾き、混沌よりも明晰を好み、総じて凛々しさが見られる反面、冷たさの印象は避けられず、抜群の才幹に恵まれながら非情の人として作者の非難を浴びるのである。

参考文献  「源氏物語講座 第三巻」 有精堂 山岸徳平・岡一男監修

      「講座源氏物語の世界 第五集」 有斐閣 

                      秋山虔・木村正中・清水好子編

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