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   紫式部と源氏物語            小島佳子 品川恵美                    

  私は紫式部の人物像について調べました。発表者は品川です。

 

    まず《紫式部関連年譜》を見てください

九七〇

紫式部誕生か?

九七二

弟惟規誕生。

九八六

父為時、式部大丞。

九九〇

藤原宣孝(後に紫式部の夫)御嶽参詣の逸話が、『枕草子』に見える。

八月、宣孝、筑前守になる。

九九六

父為時、越前守。晩秋、紫式部越前に行く。

九九八

春、紫式部、越前より帰京。晩秋頃、紫式部、宣孝と結婚。

九九九

賢子、誕生。

一〇〇一

春、為時帰京。四月、宣孝死去。秋頃から紫式部『源氏物語』執筆?

一〇〇五

一二月二十九日、紫式部、中宮彰子へ出仕。

一〇〇七

三月、興福寺の桜の取り入れ役を伊勢大輔に譲り、和歌を代作。

一〇〇八

三月十四日、為時、正五位左少弁蔵人。この頃、『源氏物語』は宮中で

好評、「日本紀の御局」とあだ名される。冬、『源氏物語』の清書が進む。

一〇一〇

この頃、『紫式部日記』を編集。

一〇一一

二月一日、為時、越後守。

一〇一三

この頃、小野宮実資の彰子訪問に、紫式部が取り次ぎ役をする。

九月下旬、紫式部宮中を去り、年末『源氏物語』を編集か?

一〇一四

正月、越後の父に歌を送る。一月二〇日頃、彰子の病気に紫式部は

清水寺参詣。一説によると二月頃、紫式部、死亡。六月、為時帰京。

一〇一六

四月二日、為時、出家、七〇歳。

一〇一九

紫式部なお生存か?

(今井源衛『紫式部〈新装版〉』による)

ここで、注目してもらいたいところは九八六年です。紫式部の父、藤原為時は詩文の才のある人でした。母は藤原の為信の娘であるようです。また、九七二年から分かるように紫式部には惟規という名前の弟がいました。その他にも弟がいるらしく惟通という名前のようです。

九九〇年からも分かるように紫式部は藤原宣孝という男と結婚しています。九九九年にある“賢子”という人は二人の間に生まれた子供です。宣孝は同族で、父である為時と親交もあったためにこの二人はお互いを知るようになったようです。宣孝が死んで、紫式部は宮仕えをするようになり、『源氏物語』を執筆するようになりました。

一〇〇五年から分かるように紫式部は中宮彰子に仕えていました。性格はどちらかというと あまり華やかではなく、繊細な神経を持ち、引っ込み思案だったのでは・・

と考えられます。悪く言うと陰険な性格だったのではないでしょうか?というのも、

『紫式部日記』に清少納言や和泉式部の悪口を書いていて実生活では自分の本当の性格をあらわさずに原稿上で本音を書くという行動をしているからです。

実は『源氏物語』の中でも実在の人物をモデルにして、その人物を作品中で失態させ読者に小気味よく思わせる話があります。以下の文章はその人物についての話です。

年いたう老いたる典侍、人もやむごとなく、心ばせあり、あてにおぼえ高くはあり

 ながら、いみじうあだめいたる心様にて、そなたには重からぬあるを、・・・

*語句*は見ておいてください。

典侍・・内侍所(三種の神器のうちの一つ、鏡をまつるところ)の次官。定員は四名。

やむごとなし・・家柄や地位などが一流。

心ばせ・・気だて。心遣い。

おぼえ・・世の評判。評価。

あだめく・・浮気っぽく振る舞う。

心様・・性質。

*訳*

たいそう年をとった典侍で家柄もよく才気もあり、上品で、人々から尊敬されていながら、ひどく好色な性分で、そちらの方面では軽々しい女がいました。

 

この典侍こそ実在の人物をモデルにしています。それが誰であるかは後で詳しく述べたいと思います。

 

こんなに年をとっていてもどうしてそう好色なのかと興味を抱いた源氏は誘ってみると 典侍のほうも不釣り合いと思わずに、その誘いに乗ってきました。源氏は情事の相手に したこともありましたが、いつしかよそよそしい態度をとるようになっていきました。

 

夕立して、なごり涼しき宵のまぎれに、温明殿のわたりをたたずみありきたまへば、

この典侍、琵琶をいとをかしう弾き居たり、・・・

 

*語句*はまた見ておいてください。

温明殿・・内侍所の詰所。

たたずみありく・・辺りをうろつく。

*訳*

ある日、夕立がきて、その後涼しくなった宵闇にまぎれて源氏の君が温明殿の辺りを

そぞろ歩きしていらっしゃいますと、この典侍が琵琶をたいそう見事に弾いていました。

 

久しぶりに出会った源氏に典侍は誘いかけ、源氏もここでこの誘いを断ったらあまりに

もひどいと思って、その誘いに乗りました。一方、頭の中将はいつか源氏の忍び歩きを

暴いて咎めてやろうと思っていたところこの現場を見つけたので、夜がふけた頃、中に

入っていきました。源氏はぐっすり眠っていなかったのでこの気配に気付き直衣だけを

とって屏風の後ろに隠れました。頭の中将は部屋の中でわざと大げさに騒ぎます。

中将、いかでわれと知られきこえじ、と思ひて、ものも言わず、ただいみじう怒れる

気色にもてなして、太刀を引き抜けば、女、あが君、あが君、と向ひて手をするに、

ほとほと笑ひぬべし、・・・

*語句*はまたまた見ておいてください。

気色・・人の様子。そぶり。

もてなす・・振る舞う。

あが君・・「わが君・あなた」と親しみを込めて呼びかける語。

ほとほと・・もう少しで。あやうく。

*訳*

頭の中将も何とかして自分だと知られまいとして、無言のまま、ただ非常に激怒して

いるふりをして、太刀を引き抜きます。典侍は「あなた、あなた」と言いながら頭の中 将に向かって手をすり合わせて拝むので、頭の中将はあやうく吹き出しそうになります。

あまりに大げさ過ぎて源氏は、頭の中将だと気付いてしまいます。源氏が気を緩めて

直衣を着ようとすると頭の中将は直衣を着せようとしません。そっちがその気なら・・

と源氏も頭の中将の直衣を脱がそうとします。しかし、頭の中将は脱ぐまいと抵抗して

強く引っ張り合ううちに直衣は破れてしまいました。その後、どちらも恨みなしの、

だらしない姿になって連れ立って帰っていきました。

【紅葉賀】より

源典侍という宮中に通っている通りの名前でその人物を登場させ、老年であるにも関

わらず好色である姿を暴露しています。この後の【葵】や【朝顔】の巻にも“源典侍” の話は出てきますが、紫式部の最も描きたかった場面はこの場面だと思われます。

この源典侍は紫式部の嫂である源明子という人物だと推測されます。

“源典侍”と呼ばれるには典侍で源の氏姓を帯びた婦人でなければなりません。

↓ 藤原説孝の妻で“源典侍”と呼ばれる官女がいました。

↓ その官女の父は陸奥守で源信明、母は典侍従三位で紀頼子と言います。

信明と頼子との間の娘の名前は源明子と言います。

↓ 藤原説孝は、紫式部の夫である宣孝の兄にあたります。

↓ 紫式部の嫂である源明子こそ源典侍です。

そしてもう少し詳しく源明子(源典侍)に迫ってみますと・・・

源明子は命婦→掌侍→典侍と出世していきました。彼女の浮気相手は多くいるようですが特に有名な人物は、平親信で修理大夫という官職です。

恐らく紫式部は義兄の社会的に公認された妻でありながら老齢になっても男の出入りの絶えない嫂に怒りをおぼえ、『源氏物語』の中に登場させて失態させたのだろう。

源明子が五〇歳位のときに辞表を提出したが道長に受け取ってもらえなかったという出来事がありました。『源氏物語』を読んだ人々の噂な耐えかねて辞表を提出したのでしょう。

これは私の予想でしかありませんが、明子が紫式部に対して仕返しをするということは、なかったと思います。というのも、もし明子が紫式部に文句を言いたかったとしても所詮は『源氏物語』という名の物語の中のことでしかなく、紫式部にそう    言われてしまえばそれまでで、どうしようもありません。だから、もしかしたら明    子は紫式部に仕返しをしたかったのかもしれませんができなかったのです。

以上のことから、紫式部の性格を判断するとしつこくて根に持つタイプのようです。

しかし、賢明な紫式部はその性格を表面に出さず、感じの良い、なだらかな性格の

ように装い、振る舞っていたのです。

  現代にもこのタイプの人は存在しているために悲しく感じますが、悪い部分を隠そう

とする紫式部が現代の私達と同じ普通の人なのだと身近に感じ、嬉しく思いました。

最後に、なぜ私達がこのテーマを選んだのか・・?と言いますと

今までの発表で調べるテーマは調べつくしたと感じたため、『源氏物語』の作者である

  紫式部自身を調べてみよう!ということになったからです。

以上で私の発表を終わりにします。

源氏物語と紫式部の出家観について 99001044 小島佳子

源氏物語において、多くの女性達が出家を切願し、実際に出家をした人と、願い叶わず死を迎えた人とがいる。この世を憂しと観たのならのなら出家すべきであり、それによって救済されるということが当時の思想であるが、紫式部は出家をどのように考え、それが源氏物語の登場人物にどのように現れているか、紫の上を例に考えていきたい。

まず、『紫式部日記』より紫式部の出家についての記述をみていく。

本文 いかに、いまは言忌しはべらじ。人、といふともかくいふとも、ただ阿弥陀仏にたゆみなく、経をならひはべらむ。世のいとはしきことは、すべてつゆばかり心もとまらずなりにてはべれば、聖にならむに、懈怠すべうもはべらず。ただひたみちにそむきても、雲に乗らぬほどのたゆたふべきやうなむはべるべかなる。それにやすらひはべるなり。としもはた、よきほどになりもてまかる。いたうこれより老いほれて、はた目暗うて経よまず、心もいとどたゆさまさりはべらむものを、心深き人まねのやうにはべれど、いまはただ、かかるかたのことをぞ思ひたまふる。それ罪ふかき人は、またかならずしもかなひはべらじ。さきの世しらるることのみおほうはべれば、よろづにつけてぞ悲しくはべる。

さあ、今はもう言葉を慎むこともしますまい。他人がとやかく言っても、ただ阿弥陀仏に向かって一心にお経を習いましょう。世の中のいとわしいことは、すべてほんの少しばかりも、心もとまらなくなってしまいましたから、出家して仏道修行に精進したとしても、怠けるはずもありません。ただ一途に世を背いて出家の道にはいったとしても、来迎の雲に乗らない間の心が迷って動揺するようなこともきっとあるでしょう。それを思って出家をためらっているのです。年齢もまた、出家をしてもよい年ごろにだんだんなってきました。ひどくこれ以上に老いぼれては、また目がかすんでお経も読まず、心もいっそう愚かに鈍くなってゆくでしょうから、思慮深い人の真似のようですけれど今はただこういう出家のほうのことだけを考えているのです。いったい私のような罪深い人間は、また必ずしも出家の志がかなうとはかぎらないでしょう。前世の宿業の拙さがおのずと思い知られることばかり多うございますので、何事につけても悲しゅうございます。

ここでは特に下線部分に、阿弥陀の浄土に救いを求め、自ら出家の決意をしつつも、俗世を離れ得ずに続ける人間の姿が描かれている。軽々と一時の激情にかられての出家をよしとしない考えや出家したからといって即救済されるのではないという紫式部の考えがみられる。

次に、このような紫式部の考え方が源氏物語の作中でどのようにみられるか、紫の上の苦悩、出家切願についてみていく。

・紫の上の苦悩

女三宮の降嫁により源氏を愛しながらも傷つけられた紫の上の苦悩が描かれている。

その女三宮との新婚三日という紫の上にとって最大の屈辱の夜に、自身の苦悩を口にするのではなく次の歌に詠み込んだ。

本文 目に近く映ればかはる世の中を行く末とほくたのみけるかな (若菜下)

目のあたりこうも変われば変わるあなたとの仲でしたのに、行く末長くとたよりにしておりましたとは

このように紫の上の性格から、表にはださずに、孤独の中で苦悩が進行していく。

源氏が紫の上と過去を語るという場面で、源氏は紫の上に、須磨での別れの一件以外に紫の上が悲しむようなことはなく、自分の庇護下で気楽な生活を送り、「人にすくれたるすくせ」<人よりすぐれた宿世>であったという。それに対して、紫の上は、

本文  のたまふやうに、ものはかなき身には過ぎにたるよそのおぼえはあらめど、心に   たへぬもの嘆かしさのみうち添ふや、さはみづからの祈りなりけるとて、残り多げなるけはひ恥づかしげなり。                   (若菜下)

仰せのとおり、ふつつかな私には分に過ぎて幸せな身の上のように、世間の目には見えましょうけれど、この心にとても堪えきれない何か嘆かわしいことばかりが離れずにおりますのは、それが自分自身のための祈りのようになっているのでした、とおっしゃって、なおおっしゃりたいことがたくさんおありの御面持は、いかにもこちらのきまりわるくなるようなご様子である。

また、紫の上が源氏のいない夜に、女房達に物語などを読ませているところでは、

本文 かく、世のたとひに言い集めたる昔語どもにも、あだなる男、色好み、二心ある人にかかづらひたる女、かやうなることを言ひ集めたるにも、ついによる方ありて   こそあめれ、あやしく浮きても過ぐしつるありさまかな、げに、のたまひつるやうに、人よりことなる宿世もありける身ながら、人の忍びがたく飽かぬことにするもの思ひ離れぬ身にてややみなむとすらん、あぢきなくもあるかな、など思ひつづけ、世更けて大殿籠りぬる暁方より、・・・・           (若菜下)

 このように世間にありがちな話としていろいろと書いてある昔の数々の物語にも、移り気の男や色好みの男、二道かけた不実な男にかかわりあった女、このようなことをたくさん書いてあるが、それでもしまいには頼る男に落ち着いているようだのに、この自分はどうしたことか浮草のように過ごしてきた身の上ではないか。なるほど殿のおっしゃるように、自分は誰よりも格別の幸運に恵まれた身の上ながら、普通の女としてはとても堪えがたく、満たされることのない悩みから逃れられぬ身の上のままで世を終わらねばならないのだろうか。なんともやるせないことよなどと思い続けながら、世更けてお寝みになった、その明け方から、・・・・

 このような紫の上の苦悩は、源氏には目の届かないところで進み、源氏の心の頼み難さから、今まで源氏だけを頼みに生きてきたことを「浮きてもすぐしつるありさまかな」と省みている。この、源氏1人を支えとしてきた紫の上の浮草のように過ごした身というような様子が紫式部にもみられる。

本文 水鳥を水の上とやよそに見むわれも浮きたる世をすぐしつつ (紫式部日記)

あの水鳥どもを、ただ無心に水の上に遊んでいるはかないものと、よそごとに見ることができようか。わたしだって、あの水鳥と同じように、浮いたおちつかない日々を過ごしているのだから。

この歌は『紫式部日記』にあるもので、一条天皇の土御門邸行幸のため、いっそう豪華に美しく磨きたてられていくその雰囲気にどうしても溶けこむことのできない自分に深く苦しむという場面で詠んだ歌である。紫式部が華麗な宮廷生活と自己との隔絶に悩む姿が詠われている。

本文 かき曇り夕立つ浪の荒ければ浮きたる舟ぞ静心なき (紫式部集)

まるで夕暮れのように、空がすっかり暗くなり、夕立が降ろうとして、湖上の浪も荒れているので、いま湖上で私たちが乗っている船と同様に、私の心は落ちつかず、不安にゆれ動いていることです。

この歌は式部が父につき添い越前へ下向するということ「夕立」とし、その「夕立」にわが身をまかせた身の上がすでに「浮きたる舟」であるといっている。

このような、紫の上の女三宮の降嫁より深刻になっていった悩みは解消されることなく、出家を望ようになっていく。

・紫の上の出家切願

紫の上が源氏にはじめて出家の願いを申し出るところで、

本文 今は、かうおほぞうの住まひならで、のどやかに行ひをも、となむ思ふ。この世はかばかりと、見はてつる心地する齢にもなりにけり。さりぬべきさまに思しゆる    してよ・・                           (若菜下)

もう、このように通り一ぺんの暮らしではなく、心静かに仏のお勤めをも、と願っております。この世の中はおおかたこのようなものと見極めのついた年齢にもなって  しまいました。どうぞそうさせていただくことをお許しくださいまし。

本文  対の上、かく年月にそへて方々にまさりたまふ御おぼえに、わが身はただ一とことの御もてなしに人には劣らねど、あまり年つもりなば、その御心ばへもつひにお    とろへなむ、さらむ世を見はてぬさきに心と背きにしがな、とたゆみなく思しわたれど、さかしきやうにや思さむとつつまれて、はかばかしくもえ聞こえたまはず。                                    (若菜下)

 対の上は、このように 年月のたつにつれてさまざまに高まってゆかれる御方々のご声望に対して、「わが身はただ殿お一人のお世話によりすがって誰にもひけをとらず  にいるけれども、あまりに年老いたならば、そのご情愛も結局は衰えてしまうだろう、そのような目にあわぬ前に、自分から進んで世を捨てたいもの」と絶えずお考えつづ   けになっていらっしゃるけれども、小賢しい者のように殿がお思いになられるかと遠   慮されて、はっきりとは申しあげることがおできにならない。

紫の上の出家切願の動因は、源氏の情愛が衰えてしまうのではないかという、人の心の移ろい易さの認識からはじまる。このような再三に及ぶ出家の切願が源氏によって許されることはなかった。紫の上を一時の感情で簡単に出家に踏み切らせずに、またこの後も紫の上に死ぬまで孤独な苦悩をつづけさせたのは、紫式部の考えがみられるところである。

紫の上は病を患い、全快せぬまま弱っていくところでは、

本文 この世に飽かぬことなく、うしろめたき絆しだにまじらぬ御身なれば、あながちにかけとどめまほしき御命とも思されぬを、年ごろの御契りかけ離れ、思い嘆かせたて  まつらむことのみぞ、人知れぬ御心の中にもものあはれに思されける。  (御法)

 この世にこれ以上望むことはないし、気にかかる障りさえもまったくないご境遇でいらっしゃるから、無理にでも生かしておきたいわが命ともお考えにならないのであるが、 長年の院との御縁をふっつり断って、院にお嘆きをおかけすることだけを、誰にもいえないお胸の中でも身にしみて悲しくお思いになるのであった。

ここでは、紫の上の出家切願にあらたに現世に対する未練な心が語られてくる。また、この心は紫の上のあわれ深い人情がうかがえるところでもある。

本文 この事によりてぞ、女君は恨めしく思ひきこえたまひける。わが御身をも、罪軽かるまじきにやと、うしろめたく思されけり。              (御法)

 このことのために、女君は院をうらめしいとお思い申すのであった。またご自身をも、在業が深い身なのであろうかと、不安なお気持ちになっていらっしゃるのであった。

このように、紫の上は自分が出家できないのは自身の罪深さのためだといっている。この紫の上の到達した境地はほとんど、『紫式部日記』にみられるのと通じるものがあるといえる。出家は救済の門にすぎないのであって、それを拒まれたことによって紫の上は救われ難い人間の罪障に思い当たり、なによりもそれを自らのものとしてたじろかずに見据えているのである。

 

このように、紫式部と源氏物語をみてきて、作中で紫の上に描かれた人間性と紫式部の考え方は全く同じとは言えないが、紫式部が表現しようとしたものを考えることができた。紫式部は、世に憂いを感じるのではなく、自身の罪深さ、自身の心の嘆きといった人間の宿命的な苦悩というものは、出家という方法で俗世に生きても払いきれるものではなく、救済はされないのであると考えているのである。そして、出家では救われない人間の内面的な部分を、生涯出家することを許されなかった紫の上に描いたのである。

《参考図書》は見ておいてください。

☆『紫式部とその時代』  角田文衛  角川書店

☆『源氏物語の世界』  中村真一郎  新潮選書

☆『源氏物語 巻二』  瀬戸内寂聴  講談社

☆『最新 詳解古語辞典』  佐藤定義  明治書院

   

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