清泉女子大学受講生のページへ

  「源氏の薫り」について

日文2年 98001040 澤野 奈緒  

 『源氏物語』という作品の骨組みには、「日常生活の文化」という大きな柱が立っています。その中でも、この物語に描かれたくらしの中に登場する、さまざまな「香り」について私たちは調べました。

 なお、用例調査・分析・原稿作成は全員で行いました。

 まず、1枚目を見てください。「源氏物語に出てくる香りに関する言葉」をのせました。各自読んでください。次に、「香りの舞台」についてです。光源氏は太政大臣になってから、四季になぞられた4つの町に分けた六条院を造営します。源氏と紫上の「春の町」、花散里の「夏の町」、秋好中宮の「秋の町」、明石御方の「冬の町」があります。

 「香り」の世界は、このように行き届いた美意識に基づいて成り立つ日常生活の中で、最も効果を発揮した、と言えます。「香り」に魅せられ、「香り」を創り出していくという文化は、単純に香りだけが発達したものではなく、日常文化の成熟度と常に相関しています。六上院での栄華の四季を描いているのが、「初音」「胡蝶」「蛍」「常夏」「 火」「野分」の巻々です。

 2枚目は「初音」の描写です。

  春の御殿の御前、とりわきて、梅の香りも御簾のうちの匂いに吹きまがひて、生

 ける仏の御国とおぼゆ。                      (初音)

 六条院の中でも、とりわけ、紫上の住んでいらっしゃる春の御殿のお庭は、梅の花の香りが風に乗って吹いてくると、御簾のうちの空薫物の匂いとまじりあって、まるで極楽浄土かと思われるばかりです。

 当時、「梅の花」が好まれていました。花の香りは「風」によって家の中に運び込まれてきますが、他にも「追い風」という言葉がしばしばあらわれてくるように,「香り」と「風」は常に不即不離の関係にあります。また、室内には「空薫物」が日常的に使われていました。最高のぜいたくが描かれてはいますが、寝殿造りの構造そのものもどちらかといえば重々しく暗く、湿気の多い京都という土地に構えられた邸には、どことなく薫る「空薫物」が欠かせない「くらしのたしなみ」になっていたのでしょう。

  いたうそそのかされて、ゐざり寄りたまへるけはひ、忍びやかに、えびの香いと

 なつかしう薫りいでて、おほどかなるを、さればよとおぼす。    (末摘花)

 まわりの女房などにむりにすすめられて、御簾の向こうでそっといざり寄ってこられる気配が忍びやかにしますと、それにつれて、えびの香のいい香りが、たいそう心ひかれるさまに流れてきて、それがいかにもおっとりしているのを、源氏の君は、やはり、と思われました。

 ここでの「えびの香」とは、 衣香という字で書かれ、内容は栴檀の葉や樹皮を材料とします。いまの「匂い袋」に近い、日本的で淡白な香りです。

 次は、「薫物の系譜」についてです。『源氏物語』の中に、はっきり名前の出てくる薫物には、「黒方」「梅花」「侍従」「荷葉」「百歩香」「薫衣香」そして「 衣香」などがありますが、これらの香りは、いずれも「薫物」といわれるものです。「薫物」とは、後に「香道」として成立した「聞香」のように、伽羅などの香木そのものをくゆらすのではなく、香木を粉にして、調合して自分の好みの香りを作り、これを丸めて固め、密封して熟成する、いわゆる「練香」の形をしています。「梅枝」の巻にこの作り方が描写されています。

 これらの薫物は、仏前に焚かれると同時に、室内の「空薫物」としても、衣にたきしめる「衣香」としても用いられました。はじめは中国からの伝来だったのでしょうが、じきに日本独特の調合が工夫されるようになり、四季観の確立とともに、その香も四季にちなんで用いられるようになりました。

 その後薫物は次第に発達して、新しい調合のものが多く現れ、命名を競い合って楽しむ「薫物合」も、しばしば催されるようになります。同じ素材で同じ薫物を作るにしても、それぞれ個人の工夫と創意が加わっているところに、「かおり」という、とらえどころのない一種の文化の、著しい特色があるように思えます。

 『源氏物語』のころまでの薫香については、大体の秘方の伝法者のほとんど全部が、帝とその周辺であることが記されています。少なくとも、政治的にはともかく、王朝文化の最高の権威者は帝とその後官であり、薫香の世界においてもその点は同じでした。とくに、その原木がすべて舶載品であって、一般人の手に届くものではなかったことが、薫香を人々に近しいものにしなかった最大の理由ではなかったか、と思われます。しかも、その「秘方」はごく一部にしか伝えられず、密かに作られました。帝みずからが伝法者となり、側近の女房などに手伝わせても正確な量などは教えることはありませんでした。各家には口伝があり、また秘伝書にはしばしば「秘すべし…」という文字が見られます。こうした閉ざされた世界であった薫香は、その分、一般人の強い憧れの対象にもなったことだろう、と思われます。

 次は「空薫物」についてです。当時のくらしの中の薫香は、仏前にくゆらす「名香」、衣類に香りをつける「衣香」、室内にくゆらす「空薫物」、の大体三つに分けられます。

  そらだきもの、いとけぶたうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひな

 して、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、いまめかしきことを好みたるわた

 りにて…                            (花の宴)

 空薫物がたいそうけむいほどくゆり立って、衣ずれの音が、ことさらはなやかにきこえるようにと、わざと体を動かしているような立居ふるまいは、奥ゆかしいと感心するにはほど遠く、まあ、当世風な派手なことのお好きなお邸ですから。

 ここでは、少し非難がましい口調から、「空薫物」の理想なあり方とは、もっと、それとなくほのかに漂うべきものだ、という平安人の美意識がはっきりとよみとれます。

  空に焚くは、いづくの煙ぞと思ひわかれぬこそよけれ、富士の峰よりもけに、く

 ゆり満ち出でたるは、本意なきわざなり。講説のをりは、おほかたの鳴りをしずめ

 て、のどかにものの心も聞きわくべきことなれば、憚りなき衣の音なひ、人のけは

 ひ、しづめてなむよかるべき。                   (鈴虫)

 空薫物は、どこから薫ってくるのだろう、とわからぬほどにたくのがよいのだ。あの富士山の噴煙よりもひどくけぶるようでは、本来の心がけからはずれてしまう。人の多く集る説教の場では、周りでいろいろな音をたてないようにして、心しずかに、説教の中味もよくわかるようにと心がけなければならないのだから、遠慮もなしに衣ずれの音を立てたり、人の気配をあらわに感じさせたりせずに、静かにしているのがよかろう。

 ここでは、いつもながらものを知らない若い女房たちへの心がけのお教えが書かれています。

 ここまでのまとめです。このようなとらえどころのない、そしてこころよい雰囲気、例えば色彩の配合、光と翳、音、香り、などなど、暮らしの中にさりげなく工夫されていく趣味のよさ、風情、個性的でしかもあまりわざとらしくない、「自分の」色、声音、文字、香り。一見は、ないものが重層をなして『源氏物語』の根底を、しっかり支えています。「空薫物」ひとつでも、決しておろそかにはかれていない世界、ともいえるでしょう。

 清泉女子大学受講生のページへ