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日本古典文学基礎演習     99001024     海瀬美貴子

源氏物語の教養と教育について

光源氏と公的な学芸

 若き光源氏の魅力にあふれ、しかもそれが公的に社会に認知される場面に紅葉賀巻の青海波の舞と花宴巻の作文がある。

 光源氏の舞姿は語り手に絶賛され、相手方の頭中将を花のかたはらの深山木なりといわせた。

 光源氏は舞を見事にこなしたわけだが、それとともにこの紅葉賀巻では桐壺帝、弘徽殿女御、藤壺らの反応が記され、人間関係、さらにはそれぞれの人々の人間性があぶりだされる。決して光源氏を認めず、周りの女房にまで反発される弘徽殿、光源氏と同様に優れた人であるが故に光源氏の美質を理解し、惹かれ、さらに苦しまざるをえない妊娠中の藤壺などが見物の中から浮かび上がる。

 その夜、桐壺帝は藤壺に向かい、頭中将も含めてこの日の青海波を誉め

  舞のさま手かひなむ、家の子はことなる。この世に名を得たる舞の男どもも、げにいとかしこけれど、ここしうなまめいたる筋を、えなむ見せぬ。

  舞振りにしても手さばきにしても、良家の子供はやはり違ったものだ。当世に名手の評判をとった専門の楽師などもなるほどなかなか上手だけれど、おっとりとした魅力のある趣を、とても見せてはくれない。

と簡単ではあるが、舞を論じる。良家の血筋、育ちがもたらす素直さを高く評価するものである。そしてこれは、源氏物語全体に通じる教養の評価のあり方と言える。

 花宴巻の光源氏も探韻の動作、声、一くさりだけの舞が魅力あるものとして描かれているが、博士達が感動のあまり読み切れなかったという作文が注意される。つく光源氏と左大臣の会話から光源氏がこの儀式の行事、すなわち統括者であったことがわかるからで、左大臣が、

  翁もほとほど舞ひ出でぬべき心地なむしはべりし

  この老人までつい舞いだしてしまいそうな気がいたしました。

と賞賛するだけの盛儀を設営しえた光源氏の実務能力、また学問への理解を花宴の儀式自体が示している。当時にあってはそれは作文の力量と無縁ではありえない。光源氏はその学才によっても賞賛されるべき人である。

 光源氏の漢学の才能は早くから明らかであった。桐壺巻の七歳の読書始に

  世に知らず聡うかしこくおはすれば、あまり恐ろしきまでご覧ず。

  またとないほど聡く賢くていらっしゃるので、あまりに恐ろしいことだとまでお思いあそばす。

とみえ、さらに

  わざとの御学問はさるものにて、琴笛の音にも雲居をひびかしすべていひつづけばことごとしう、うたてぞなりぬべきひとの御さまなりける

  特にお習いの学問は言うに及ばず、音楽によっても、官中の大評判を引き起こし、一つ一つ教えていくと、大袈裟すぎて本当らしくなくなりそうなご様子でした。

とあり、光源氏の能力の根底の際があることが解る。

光源氏は、舞と学問という公式の教養にきわめて優れ、貴族社会の中で単なる若く美しい貴公子で終わらないだけの基礎を固めた。

<光源氏の男子教育>

 光源氏の男子教育については蛍兵部卿宮が絵合わせ巻において、光源氏の絵を誉める。院の御前にて、親王達、内親王、いづれかはさまざまなりとりどりの才ならはさせたまはりざりけむ。そのなかにも、とりたてる御心に入れて、つたへいけとらせたまへるかひありて、文才をばさるものにていはず、さらぬことのなかには、ことひかせたまふことなんの才にて

  院の御前で、親王達や内親王、それのうちの誰が色々と思い思いの才芸をお習いあそばさないでいらっしゃったでしょうか。その中でも、特別熱心にお励みになってそうでんをおうけあそばしていらっしゃるかいがあって、あなたは文才は当然のことで言うまでもなく、そうでないことでは琴をお弾き遊ばすことが第一の才能で

といっている。光源氏の教養の当然の前提としてあったということだろう。光源氏自身は、同じ父桐壺亭に受けた教育について

  みづからは、九重の中に生日出で侍り手、世の中の有様も知り侍らず。夜昼御前にさぶらひて、わずかになむ、はかなきしょなどもならひはべりし。ただ、賢き御子よりつたへはべりしだに、何事も広き心知らぬ程は、分の才をまね分にも、琴笛の調べにも、音たへずおよばぬところのおおくなむはべりける

  私自身は宮中の奥深く成長いたしまして、世間のことも存じませず、四六時中おそばにおりまして、ほんの少々学問なども致しました。直接主上からお教えいただいてさえ、何事も広い知識を持たない間は、漢学を勉強するにも、琴笛の調べにしても、不十分で、至らないところが多くございました。

と述べている。

大宮に、夕霧の教育方針を説明する箇所であるし、謙遜もあろうが、父帝による内々の教育に足らないものがあったとし、夕霧を大学寮の学生にして厳しい教育を施そうとする。

 光源氏が教育した男子は息子である夕霧一人である。その唯一の機会にこのような教育方針を取ると言うことは漢学の才能を身につけるべき最も基本的な教養として考え、きわめて重視している。

 漢学は当時、官人として生きていくための必須の教養であった。しかしまた、実務と言うことになるとそれだけではすまない。当時の官人のつとめとして、諸儀式、諸行事をこなすことが要求される。儀式の細かい先例を知っているか否で、人を評価するところが見えない点である。これは当時の男性達の常識からすれば異様とも言える。

光源氏は、

  なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用いらるる方も強うはべらめ

  やはり学問を基礎にしてこそ、こころの働きが世間に認められる所もしっかり致しましょう。

ともいっているが、大和魂すなわち、物事を実務的に処理する能力の方がむしろ先じて要求されるのが当時の実体だった。

 光源氏の教育は非常に理想主義的であった。

 光源氏も蛍兵不卿宮も父桐壺院に受けた教育に言及している。父親が、教育に深くかかわり、子供がその影響を強く受け止めるというのが源氏物語の教育観と言える。したがって人はその教育の在り方成果によっても評価されることにある。

<光源氏の女子教育>

光源氏の女子教育は頭中将のそれと照らし合うものとしてある。

二人の教育観の相違は、夕霧の教育方針に対する頭中将の批判として、男子教育に関して見えている。

この大将なども、あまりひき違へたる御ことなりと、かたぶけはべるめる

  この大将などもあまりに思いがけない御処置すぎると不審がっておりましたようです。

しかし女子を天皇家に入れ、天皇との血縁的紐帯によって栄達を求めようとする当時の権勢家としては、女子教育の在り方はより利害に直結するものであった。

常夏巻で頭中将は、光源氏の女子教育の在り方を述べ、それを皮肉っている。

  太政大臣の后がねの姫君ならはしたまふる教えは、よろずのことにかよはしなだらめて、かどかどしきゆえもつけじ、たどたどしくおぼめくこともあらじと、ぬるらかにこそ掟たまふなれ。げにさもあることなれど、人として、こころにも、するわざにも、たててなびく方は方とあるものなれば、生ひいでたまふさまあらむかし。

  太政大臣がお后候補の姫君をしつけしてらっしゃる教育は、何でも一通りは心得て偏らず、目立つ特技も持たすまい、不案内でうろうろすることもないように、と余裕のある教育でいらっしゃるとの話。それはもっとものことだが、人というものは考えにも行いにも好きこのむ傾向はあるものだから、大きくおなりになるにつれて特色も出るであろう。

光源氏の中庸を重んじる教育に対し、それにおさまりきらない人の心を見てる。確かに光源氏自身、このような教育を目指していた。

玉鬘巻では明石の姫君の教育について、紫の上に話している。

  すべて女は、たててこのめること設けてしみぬるは、さまよからぬことなり。何事もいとつきなからむはくちおしからむ。ただ心の筋を、標はしからずもてしずめおきて、なだらかならむのみなむ、めやすかるべかりける

  総じて女というものは、特に気に入ったことを身につけて、それに凝っていしまうのはみっともないことだ。何事であれ、少しも知らないのは感心しないものだ。ただ心の内をふらふらさせずおちつけて、上辺は穏やかにしているこそ、感じのいいものなのだ。

もちろん、おっとりと構えていて、それでありながら何事に付け、ともに語り、行うに不足のない女性はそれだけで魅力的である。しかし、光源氏がここまで指示するからには、また理由があると考えるべきだ。

上に立つものには激しい好き嫌いがあってはならない。得意とする方面の人間をひいきし、不得意なものにかかわる人々を差別する異なりやすいから。

 頭中将は東宮にもと考えていた雲居雁と夕霧の中を知り教育者である母大宮を非難する。それに対し、大宮は、

  もとよりいたうおもひつきたまふことなくて、かくまでかしづかんとも思したたざりしを、わがかくもてなしそめたればこそ、春宮の御事をも思しかけためれ

  もともとそんなにかわいがっていらっしゃったのでもなく、これほど大事にしようともお思いではなかったのに、自分がこんなに世話してきたからこそ、東宮へのこともお考えなさるようになったのだ。

と逆に頭中将を恨ましく思う。

 雲居雁の母との離婚によって祖母大宮に預けたものの、頭中将は大宮に任せきりで、娘の教育には光源氏ほどの熱意も配慮のない。

 光源氏の教育を照らすもう一人は朱雀院である。女三宮を迎えた光源氏はその幼さに失望し、紫の上の少女時代と比較する。

  かの紫のゆかり尋ねとりたまへしをりおもしでづるに、かれはざれて言ふかひありしを、これは、いといはけなくのみ見えたまへば、よかめり、しくげにおしたちたることなどはあるまじかめり、と思すものから、いとあまりのもののはえなき御さまかなと見てたてまつりたまふ

  あの紫のゆかりを探してお引き取りになったときのことを思い出しになると、あちらは気が利いていて手応えがあったが、こちらはまるきりあどけない一方でいらっしゃるご様子ゆえなかろう。憎らしくて強気に出ることなどないだろうとお思いになるものの、あまり張り合いがなさすぎる方だと御覧になる。

これは単に持って生まれた資質を言うだけではない。女三宮はすでに十四才であり女性として十分な教養を身につけているべき年齢である。朱雀院は女三宮を光源氏に降嫁させるにあたり、後見として世話するように依頼もしている。歳に合わない幼さからである。

 光源氏は琴の演奏を懸命に教える。その結果まずまずの演奏を行うまでに至った。教育の在り方によって身に付く教養は変わる。女三宮の幼さは朱雀院の教育の結果でもあった。

<光源氏の教養が示すもの>

須磨・明石において、流人同様の光源氏は琴の演奏にわずかに心を晴らしていた。教養は時代の孤児を際立たせるとともに、不通の人間の生きる助けにもなる。

 朱雀帝の時代になり、父帝の死が重なって、光源氏は政権から疎外される。光源氏はその不満を頭中将らと文事にふけることで慰める。それは

  世の中には、わずらはしいことえもやうやう言ひ出づる人々あるべし

  世の中では、うるさいことをあれこれとだんだん言い出す人達もきっとあることでしょう。

と次第に悪評を立てて行くが韻蓋ぎの催しにて専門の博士にも勝るその学才を

  いかでかうしもたらひたまひけん。なほさるべきにて、よろづのこと。人にぐれためへるなりけり

  どうしてこれほどまでに完全に備わっていらっしゃったのだろう。やはりそうあるべき前世からの宿縁で、全てのことが人に勝っていらっしゃるのだった。

と周囲の人々は賞賛する。不等な処遇という位置づけがその教養から浮かび上がる。

 賢木巻で、光源氏が自邸に集えた博士達は暇であったという。右大臣方の政治が学問を軽視いたのか、あるいは学問の差別を行ったものだろう。これは

  すべて何ごとにつけても、道道の人の才のほどあらはるるよになむありける

  すべて何ごとにつけても、それぞれの道につとめる人の才能が発揮される時代であった。

と称えられ、後の光源氏執権の世と明らかな対象を示す。学問への姿勢が物語り中のそれぞれの時代や為政者の評価へもつながっている。

光源氏はそのたぐいまれな教養によって、時代に追従することはもちろん対抗することもない。政権の変転に対し、自ら働きかけることはない。外から求められない場合には、内側に向かって教養は発揮される。光源氏の教養は彼を時代の中心に据える。光源氏はそれを武器に自ら対抗していくことはない。光源氏の教養、さらにはその人としての格は、あくまで卓越した位置に不動のものとしてあり、時代の方が、その基準に達することもあれば劣ることもある。

感想

 今まで源氏物語がそこまで面白いものとは思はなかったけど、他の班の発表を聞いたり自分で詳しく調べたりして、いろいろと興味を持ちました。

 源氏物語をあまり読んでいなかったので、発表を聞いていてもわからないこととかもありました。だから、発表を聞いてただ納得するだけで、何も質問が思いつかなかったことが多かったです。後期は人の発表を聞くだけなので、しっかり聞いて質問がかけるようにしたいです。そのためにも、夏休みの間にあさきゆめみしを全巻読んでみようと思っています。

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