清泉女子大学受講生のページへ 

「源氏物語」の遊びについて

発表者: 99001003  新野真理子(双六)

     99001012  上村育世(碁)

     99001022  小野木美香(絵合)

     99001032  金子桃子(当時の絵画観・紫式部の絵画観)

 

 

*双六

 源氏物語の中で、雙六は四例ありましたので順に紹介していきます。

1.「須磨」

   (都から須磨へ退去した光源氏の元を、宰相の中将が訪問する場面)

「碁、雙六の盤、調度、弾碁の具など、田舎わざにしなして、念誦の具、行ひつとめ給ひけりと見えたり」

この場面の少し前から現代語訳をすると、

  源氏の君のお住まいの御様子は、いいようもないくらいに異国の風情である。所の有様がまるで絵にも描いたかのようである上に、竹を編んだ垣をめぐらして、石の階段や松の柱など、かりそめながらもめったに見られぬ風情がある。・・・(中略)・・・碁、双六の盤やそ の付属品、弾碁の具なども、田舎風に作ってあって、念仏読経の調度がそろっているところを見ると、勤行していらっしゃるらしく見える。

となります。

 

2.「常夏」

   (内大臣が近江の君の所を訪れ、近江の君と五節の君が双六を打つのを覗く場面)

「簾高くおしはりて、五節の君とて、されたる若人のあると、雙六をぞ打ち給ふ。手をいとせちにおしもみて、せうさい、せうさいとこふ声ぞ、いと舌疾きや」

 

 簾を中からぐんと大きく張り出して、五節の君といってしゃれた女房がいるのだが、それを相手に近江の君は双六を打っておいでになる。しきりにもみ手をして、「小賽、小賽」と祈り願う声がまことに早口なのだ。

「この人も、はやけしきはやれる、御返しや、御返しや、と筒をひねりて、とみにも打ちいでず」

 この仲良しもまたはしゃいでいて、「お返しよ、お返しよ」と、筒をひねってすぐには打ちだそうとしない。 (注:「この仲良し」とは、五節の君のこと。)

 この場面では、内大臣が「情けないことだ」と思ってしまうほど、近江の君と五節の君が双六に大変夢中になっている様が描かれています。

3.「若菜下」

    

「よろづの事につけてめであさみ、世の言種にて、明石の尼君とぞ幸い人にいひける。かの致仕の大殿の近江の君は、双六打つ時の言葉にも、明石の尼君、明石の尼君、とぞ 賽はこひける。」

 万事につけて人々はばかぼめし、世間話の種として、「明石の尼君」といえば、それは幸い人のことなのだった。あの致仕の大殿の近江の君は、双六打つときの祈り言にも、「明石の尼君、明石の尼君」と言って、良い賽の目が出るのを望むのであった。

 

4.「椎本」

    (宇治の山荘で、薫が匂宮を迎える場面)

「所につけて、御しつらひなど、をかしうしなして、碁、双六、弾碁の盤どもなど取り出でて、心々にすさびくらし給ふ」

 一行はこうした山里なりにお支度を風情も豊かに整えて、碁、双六、弾碁の盤などの数々をを取り出して、思い思いに好きなことをして一日をお暮らしになった。

 

☆双六とは

 双六は、古代インドに発生し、中国を経て渡来しました。これは「盤双六」で、一般に、厚さ四寸、横八寸、縦一尺二寸の盤上で行うものです。盤上には両側に十二の目を盛り、それぞれ六個ずつの二つの地に分け、これに黒白十五の石をおきます。盤上の遊びとしては、碁とともに最古のものです。

 <「和名抄」「箋注」は、レジュメに参考のため掲載>

☆遊技法

 二人の競技者が対座し、二個の賽を筒に入れて振り出し、その目数・組み合わせによって自分の石を進め、早く敵地に運び入れた方を勝ちとしました。(この点、江戸時代より発生した“絵双六”とは全く別個のものであります。)しかし、ルールには簡易なものから相当複雑なものまでがあり、相手の駒を殺し、自分の駒を有利に進めるといった知的でかつ技能的な競戯でもありました。

☆双六に関する史実など

@ ・「雙六、一名六采、俗云須久呂久」 『和名類聚抄』

  ・「きよげなるおのこのすぐろくを日ひとひうちて猶あかねにや」 『枕草子』

・「雙六、すくろく」 『和漢三才図絵』

・「雙六、又ハ博陸ト云フ」 『下学集』

 古くは「すくろく」と言い、「すごろく」はその転訛であります。和名抄にはスクロクとあります。また、平安期の枕草子にスグロクともみられ、スグロクとも訓んだことがわかります。室町初期の通俗漢字辞書『下学集』には、スコロクと訓じています。

 スクロクの訓がスコロクに転じたのは、中世南北朝期以降のことかと推察されます。

A ・「天武天皇十四年九月」

 「辛酉に天皇大安殿に御して王卿等を殿の前に喚して博戯せしむ」 『日本書紀』

                              (注:博戯=双六による賭博)

・「一二の目のみにあらず五六三四さへあり雙六の采」 『万葉集』

                               巻大十六、三八二七の歌

 双六は日本で最も古く行われた盤競戯の一つとされています。『万葉集』三八二七の歌「雙六ノ頭ヲ詠ム歌」は戯歌風で、当時、二つの賽で遊ぶこの盤遊戯が広く好まれていたことを示してくれます。

B ・(倭人は)「棊博、握槊、樗蒲ノ戯ヲ好ム」 『隋書・東夷伝・倭国』

 双六は大陸から伝えられたもので、しかもかなり古くに伝えられたことは疑いない。その伝来の時期は確定しがたいのですが、『隋書』の記述があることから、すでに推古天皇の時代(592〜628)以前に「雙六」が移入されていたと推察されます。

C ・「雙六乃レ天竺ニ出ズ、涅槃経ノ波羅賽戯ノ名者是也」『類要』(中国宋時代)

 古代インドの仏教法典『涅槃経』の漢訳に「波羅賽戯」がみられ、これが「雙六」であるとされています。

 「波羅」は梵語のParaであり、「彼方の岸」の意とされます。「波羅蜜多(Paramita)」は、仏典で「致彼岸」と漢訳されていて、「涅槃」の悟りに至ることを云います。「波羅賽戯」とは、すなわち目的のことであります。

 この事から、双六は、「彼岸」を目指す競戯と解されます。

D ・「十二月己酉朔丙辰。禁断雙六」 『日本書紀』(持統天皇の条)

 持統天皇三年(689)の記に「十二月ノ己酉ノ朔。雙六ヲ禁メ断ム」の条があります。双六禁制のことですが、Aで述べた天武天皇十四年の記はこの四年前の事でありました。

 双六は移入されてきた盤競戯の中で最も賭博性の強い競戯として遊ばれました。それは、「囲碁」「将棋」が知的な競戯であって偶然の要素の介入が少ないのに比べ、「雙六」は賽を振りその目で駒を進めるという偶然への賭けが基本的な構造であるためでしょう。「禁断」の命令を出さなければならないほどに、広く賭博として盛行していたともうかがえます。

E ・「凡ソ博戯ニ賭レラム財、席ニ在リテ有ラム所ノ物、及ビ句合、出九シテ物ヲ得テ、人ノ為ニ糺告サレタラバ、其ノ物ハ悉クニ糺サ    ム人ニ賞ヘ」 『養老律令』

  ・「博戯ハ雙六、樗蒲之類也」 (注:樗蒲=賭博、博打のこと)

    「凡ソ僧尼、音楽ヲ作シ及び博戯セラバ百日苦使、碁琴ハ制スル限ニ在ラズ」 

                                    『令義解』

 賭博を禁じる条文は、『大宝律令』や『養老律令』にも見られます。「博戯」は、律令の公的注釈書『令義下』で、すべて「雙六、樗蒲之類也」としていて、「博戯禁令」はすなわち「雙六禁令」に等しいわけです。同じ盤競戯の中でも碁は「博戯」と見なされなかったということも『令義下』から解ります。その後江戸時代まで、繰り返し「博戯禁令」は出されています。

F ・「大芹は 国の禁物 小芹こそ ゆでても旨し これやこの せんばん さんたの木 柞    の木の盤 むしかめの筒 犀角の    賽 平賽頭賽 両面かすめ浮けたる 切りとほし 金    はめ盤木 五六がへし 一六の賽や 四三の賽や」 

 『万葉集』と同時代の『西馬楽』に、「雙六」を詠んだ歌とされる「大芹」があります。

 この歌謡の解釈は様々在りますが、「大芹」が「樗蒲」、「小芹」が「雙六」とも解されていて、賭博の国禁の意とされたりします。 「せんばんさんたの木、柞の木の盤」は、栴檀珊瑚の木、柞の木で作った盤の意といい、「むしかめの筒」は、虫に食われた跡のある木で作った筒、それは平賽や頭賽を入れて振る。「両面かすめ浮けたる切りとほし 金はめ盤木」は、両面に桝を刻んだ装飾した双六盤のことと推察され、「一六の賽」「四三賽」は、賽の目のことと解される。このように解釈すれば、「博戯国禁」なれども、と詠いだした「雙六賛歌」とも言えるでしょう。

 

☆文芸作品の中の双六

『蜻蛉日記』

「すぐろくうたんといへば、よかなり、ものみつぐのひにとて、女うちぬ」

『枕草子』

「心ゆくもの・・・(中略)・・・ちようばみに、ちよう多くうち出でたる」

「つれづれなるもの・・・(中略)・・・馬おりぬ雙六」

「清げなる男の雙六を日一日うちて、なほあかぬにや、みじかき燈台に灯をともして、いとあかうかかげて、かたきの賽をせめこひて、とみにも入れねば、筒を盤の上にたてて待つに、・・・」

『新猿楽記』

「大君ノ夫ハ高名ノ博打ナリ  筒ノ父傍ニ擢キ、賽ノ目意ニ任セタリ」

 ・博戯もまた当時の「芸」の一つとされ、それをよくする人を「職人」と呼び、その「職人」をこうして挙げているわけですが、その態  様、手法の記述から、すごろくの博戯として  認められます。

 ・また同書の中には、京の賀茂の祭りでの「獨雙六」も芸人の演戯として登場しています。

『大鏡』

「ひさしく雙六つかまつらで、いとさうざうしきにけふあそばせ」(と藤原道長が訪れてきた藤原道隆に言い、)

「雙六の坪をめして」(双六を競った。)

「この御ばくやうは、うちたたせ給ぬれば、ふたところながらはだかにこしからませ給ひて、よなかあかつきまであそばす・・・(中略)・・・いみじき御かけものどもこそ侍れけれ」

 ・すなわち、「ふたりとも打つのに夢中になって、衣類を腰にだけ絡ませ、夜明けまで競戯した。掛け物はすばらしい物であった。」と  いっているのです。

『今昔物語』

「今ハ昔、鎮西(一字空白)ノ国ニ住ミケル人、合聟也ケル者ト雙六ヲ打ケリ、・・・(中 略)・・・雙六ハ本ヨリ論戦ヒヲ以テ宗トスル事トスル此等箕論ヲシケル間ニ遂ニ戦ニ成ケリ」

                  (注:合聟<あいむこ>=妻の姉妹の夫)

 ・ここにいう「論戦」とは、互いに相手に有利な目が出ないように、自分に都合の良い目が出るようにと、口汚くからかい合うことで、  「口遊び」の一種であり、「賽論」ともいう。それをしているうちに「戦」つまり格闘となり、挙げ句の果てに殺害沙汰にまで及んだ  という説話であります。

『明月記』

(家ろく二年二月十四日)

「近日、先宰相中将信盛卿ノ家ノ門並ニ築垣ノ辺リ、京中ノ博奕狂者群ヲ成シ、座ヲ賭ケテ雙六ノ芸ヲ施ス」

 ・街頭賭博で双六をする様子が書かれています。この後の記述で、当時双六賭博禁断であったため、この街頭賭博を行った者らが処罰さ  れる様子も書かれています。

『徒然草』

「雙六の上手といひし人にその手立てを問ひ侍りしかば、勝たんとうつべからず負じとうつべきなりいづれの手が疾く負ぬべきと案じてその手を使はずして一目なりともおそく負くべき手につくべし といふ」

 ・この記述から、双六がただの賽の目の偶然による競戯だけではなく、どう駒を動かすかの「手」によって,上手下手が決まる知的競戯で  あることが解ります。

『柳亭記』

「廃れし遊びは雙六なり。予をさなき頃も雙六打つ者百人に一人なり。されど下り端を知らざる童はなかりしが、近年はそれも又廃れたり 。」

 ・江戸時代後半に入ると、次第に双六は行われなくなったようであります。なお「下り端」というのは、双六の簡易化された競戯です。

 

☆まとめ

 以上のことからもわかる通り、双六は多くの書物や文学作品に登場しています。平安時代では、『源氏物語』を始め、『枕草子』、『蜻蛉日記』、『大鏡』に上流階層の日常の競戯としてしばしば現れます。

 源氏物語の中では、「須磨」や「椎本」にあるように、その家の調度品として登場し、その場面の様子や有様を表すために用いられていました。また、「常夏」や「若菜下」では、実際に双六で遊んでいる様子が描かれています。

 双六は、遊びとして勝負として、また賭事として古くから伝わっていました。賭事の要素があるので、皆夢中になったようです。『大鏡』では、藤原道長と藤原道隆の様子が描かれています。「常夏」で、近江の君が五節の君と夢中になっている場面がありました。・・・近江の君は、どこかかわいらしいところがあり、髪はきちんとしているし無邪気に見えるが、「小賽、小賽」と早口で言い、上っ調子な様子なので、内大臣は「なんと情けないことだ」と思った。・・・というように、賭事になると、人の普段では見られぬ一面を覗かせることもあるようです。

 双六は広く好まれた競戯でありました。したがって、作品中に登場させることによって、読者に親しみや共感を覚えさせ、読みやすくするのではないかと思います。

 

★参考文献

・「源氏物語辞典」 池田亀鑑

・「源氏物語辞典」 岡一男

・「新編日本古典文学全集 源氏物語」 (小学館)

・「日本書紀通釈」 飯田武郷

・「ブリタニカ国際大百科事典」

・「遊びの大事典」 (東京書籍)

 

 

 

*ゑあわせ

まず、絵合わせの模様が十七巻目にあるので、その説明をしていきたいと思います。

「絵合」

 ・源氏物語から始まる。紫式部の創始であり、以後は実際行われたこともある。

 ・主な勝負どころは、物語の優劣、その他に絵・装飾などの優劣、も競った。

 ・絵の画風は、いわゆる大和絵。競合が終わると管弦の興に移り、一同に禄・御衣が下賜された。

 絵合わせは二回行われていて、一回目に藤壺の前で行う物語についての競合、二回目は冷泉帝の前で行う絵の競合です。

 ここでは、二回目の冷泉帝の前での競合を紹介します。

〇絵についてのはじめの部分

「上はよろづのことにすぐれて絵を興あるものに思したり。」

 (帝は何にもましてとりわけ絵に興味をお持ちでいらっしゃる。)

〇絵についての終わりの部分

「さるべき節会どもにも、この御時よりと末の人の言ひ伝ふべき例を添へむと思し、私ざまのかかるはかなき御遊びもめずらしき筋にせさせたまいて、みじき盛りの御世なり。」

 (しかるべき数々の節会につけても、この御代から始まったのだ、と後世の人が言い伝えるであろう、そのような新例を加えようと源氏  の大臣はお思いになり、私事のようなこうした些細なお遊びごとも、目新しい趣向でお催しになって、見事な盛りの御代である。)

 

☆背後にある斎宮の女御と弘徽殿の女御の争い

 背後には源氏勢である斎宮の女御と権中納言の娘の弘徽殿の女御との争いがあります。どちらが冷泉帝の寵愛を受けるかとここぞとばかり攻め合っているのです。

 

 はじめ冷泉帝は絵をたしなんでいらっしゃる斎宮の女御に心をお寄せになるのですが、それを見た権中納言は名人を呼び出して「あくまでかどかどしくいまめきたまへる御心にて」(意地を張って現代風に派手でいらっしゃる御性分から)見事な絵を最高の立派な紙にお描かせなさりました。この後も軸、表紙、紐の飾りなどにこだわったり、「そのころ世にめずらしくをかしきかぎりを選り描かせたまへれば」(その頃世間で目新しく面白がられているものばかりを選んでお描かせになったので)して四苦八苦している姿がうかがえます。

 

 一方、光源氏は権中納言がこそこそと絵を準備なさっているのを見て、「なほ権中納言の御心ばへの若々しさこそあらたまりがたかめれ、など笑ひたまふ」(やはり権中納言のお気持ちの大人げなさは相変わらずのようだな、と笑いなさる)。

 そして、源氏自身でお選びになる場面では「長根歌、王昭君などやうなる絵はおもしろくあはれなれど事の忌あるはこたみは奉らじと選りとどめたまふ」(長根歌などのような絵はおもしろく心打たれるけれども、不吉なことを描いたのはこのたびはさしあげまい、と選り分けてお外しになる)と、あえておもしろいは選びません。

慎重に選んでいます。

 

 源氏は決着をつけようと宣言なさり、この時に須磨、明石の二巻をお見せになります。

 絵合わせの日取りも決まって、左方・右方に分かれています。左方には斎宮の女御、平典侍、侍従内侍、少将の命婦で、右方には弘徽殿の女御、大弐典侍、中将の命婦、兵衛命婦です。彼らに関しては「ただ今は心にくき有職どもにて」(今の世では優れた有職たちであって)と記してあり、藤壺の前で様々な弁舌を転開し、藤壺がおもしろく聞き入った人たちです。

 

☆服装・家具

 競合の様子はまず、服装や家具の説明から入ります。

<左方>

 ・紫檀の箱に蘇芳の華足、敷物には紫地の唐の錦、打敷には葡萄染の唐の綺である。

 ・女童が六人、赤色の袿に桜襲の汗衫、袙は紅に藤襲の織物である。

<右方>

 ・沈の箱に浅香の下机、打敷には青地の高麗の錦、足結いの組紐、華足の趣など当世風である。

 ・女童は青色の表着に柳の汗衫、山吹襲の袙を着ている。

これは、装飾の優劣を競っていますが、同時に、紫式部の色彩感覚を表していると思います。

 ・袙(あこめ)=婦人が素肌に着る衣服

 ・汗衫(かざみ)=正装の時に一番上に着る衣服

ここで左方に赤色系、右方に青色系を対比させています。汗衫では、[桜]と[柳]、袙では、[紅に藤襲]と[山吹襲]とを対比させています。

[桜]表が白で裏がえび染め

[柳]表が白で裏が青

☆紫式部の芸能論

 紫式部の芸能論と思われる文章を抜き出しました。

@源氏の弟であり、絵合わせの判定者であった師宮は、

「何の才も心より放ちて習ふべきわざならねど道々に物の師あり、まねびどころあらむは事の深さ浅さは知らねどおのづからうつさむに跡ありぬべし」

 何の芸能でもその気がなくては習得できるものではありませんが、その道その道に師匠があって、学びがいのあるような芸能でしたら、深さ浅さは別として自然に学んだ結果が得られるに違いありません。

続けて、

「筆とる道と碁打つこととぞ、あやしう魂のほど見ゆるを、深き労なく見ゆるおれ者も、さるべき

にて描き打つたぐひも出て来たれど、家の子のなかには、なほ人に抜けぬる人の、何ごとをも好み

得けるとぞ見えたる」

 筆をとる道と碁打つことだけは、不思議に天分の差が表れるもので、深く勉強しているとも見えない愚か者でも、備わっているその方面の天分によって、描いたり打ったりする例も出て来ますが、名門の子弟の中には、やはり才量の抜きんでた人がいて、そうしたお方はどの道もよくたしなんで、それを会得するものだと思われるのです。

また、「絵はなほ筆のついでにすさびさせ給ふあだ事」(絵はやはり筆のついでの慰みにお描きあそばす余技)といい、絵も筆に劣らぬ位の芸能性を持っている、と源氏を通して言っています。

 しかしこのように絶賛された絵というのは、源氏が苦難の体験をしてできた作品であります。

「おぼつかなく浦々磯の隠れなく描きあらはしたまへり。草の手に仮名の所どころに書きまぜて、まほのくはしき日記にはあらず、あはれなる歌などもまじれる、たぐひゆかし」

歌と絵がマッチして“たぐひゆかし”と言っています。

A須磨の巻には、源氏が絵を描いている場面があります。

源氏が都を離れ、わびしい閑居で、「いみじくていとかく思ひ沈むさまを心細しと思ふらむと思せば昼は何くれと戯れ言うちのたまひ紛らはし、つれづれなるままに」(全くこうして自分がくよくよと沈み込んでいる様子を見ては心細くもなるだろうとお思いになるので昼間は何かと軽口をおっしゃって皆の気を紛らわしたり、所在なさに)絵を描いています。

 

☆まとめ

 絵の評価はいかに鑑賞者の同情を引くかによって評価されました。“もののあはれ”とか“あはれにおもしろし”とは、そういう意味だと思います。光源氏の須磨の体験が今になって功をもたらしました。

 

☆主な登場人物

*斎宮の女御・・・六条の御息所の娘で、伊勢に下っていたが上京。後、梅壺の女御とよばれる。

         読者には、秋好む中宮と呼ばれる。(→紫の上・・・春好む中宮)

*冷泉帝・・・・・藤壺の女御と光源氏の子供。公では、桐壺院の子となっている。

*権中納言・・・・藤原一派。葵の上の兄である。

         弘徽殿の女御(桐壺院の正妻)の勢力が弱まった今、源氏と対立。

*師宮・・・・・・源氏の弟で、絵合わせの時、判定者となっていた。

*弘徽殿の女御・・故桐壺院の妻で、朱雀帝を生む。

*朱雀帝・・・・・桐壺院と弘徽殿の女御との子。源氏の兄である。

※絵合わせの時、斎宮の女御は二十二才、冷泉帝が十三才。

★参考文献

・日本古典文学 第九巻 「源氏物語」(角川書店)

・源氏物語A(小学館)

・古語事典(三省堂)

・日本を知る事典(社会思想社)

 

 

*当時の絵画観

 当時の絵というのは、「やまと絵」と呼ばれるもので、七世紀以来取り入れられた中国の山水表現や唐風の人物画などです。形態としては、冊子仕立て、巻物仕立てのものや、一枚の紙に書かれたものなどがあります。本文中では、上流貴族の子女の愛玩具として登場しています。

〇当時絵は貴重な物であり、一部の上流階級の者しか眺めることができませんでした。ふつうは物語を母親や乳母などが昔あった出来事を文字通り物語るのを耳から聞いて楽しむというのがほとんどでした。

 その例として挙げられるのが「更級日記」の一節です。菅原孝標女は『更級日記』中に、「光源氏の事を継母や姉がところどころに話すのを聞いてもっと詳しく知りたいと思った」と書いています。

 この他に、『紫式部日記』中にも侍女が読む物語が耳に入るという記述があります。

〇また、本文では絵が上流貴族の物であることを裏付ける場面があります。

〈東屋の巻〉

「絵など取り出でさせて、右近に詞書読ませて見給ふに」

(現代語訳)物語などを取り出させて、右近に詞書きを読ませて御覧になる。

→父帝や母后の愛を一身に受ける皇子(匂宮)に見そめられた異腹の姉である中の君のもとに身を寄せる浮舟が、中の君に絵を与えられる場面

〈若紫の巻〉

「御かたちはさしはなれて見しよりもいみじう清らにて、なつかしううち語らひつつ、をかしき絵、あそび物ども、取りにつかはして見せ奉り、御心につく事どもをし給ふ」

(現代語訳)御器量は離れて見たよりもずっとお綺麗で、やさしくお話ししてはおもしろい絵やおもちゃをあれこれと取り寄せてお見せし、お気に入りそうな事を色々なさる。

→幼い紫の上を連れてきた源氏がすねる紫の上のご機嫌をとる場面。おもちゃと一緒に絵が与えられている。

〇物語絵は『枕草子』の中にもやはり高貴な人々の持ち物として登場しています。初めて宮仕えに出て緊張している清少納言を気楽にしてやろうと、皇后御自身が自ら絵解きをなさったという記述があります。

 絵解きというのは、物語絵について、誰が何をしているシーンか、またその絵の良い所などを解説することです。「絵合巻」で侍女たちが繰り広げる論争と同じ様な物のようです。

〇また、『源氏物語』の中で、「絵」が効果的に使われているのは、「絵合巻」です。絵合わせは紫式部が創作した遊びであり、絵解きのようなことをして優劣を競う物です。その後も実際に遊ばれたようです。ここで、一回目の絵合わせについてふれます。(二回目の絵合わせについては、先の発表を参照)

梅壺方・・・竹取物語:絵―巨勢相覧

           字―紀貫之

弘徽殿方・・宇津保物語、俊蔭の巻:絵―飛鳥部常則

                 字―小野道風

「絵は常則、手は道風なればいまめかしうをかしげに、目も輝くまで見ゆ。左にはそのことわりなし」

(現代語訳)絵は常則で字は道風だから、当世風で立派で、目もまばゆいばかりに見える。左にはそれを打ち負かす理屈がなかった。

→ここでは、巨勢相覧(詞書きは紀貫之)の竹取物語は古代の絵として数えられており、飛鳥部常則(詞書きは小野道風)の宇津保物語は当世風の物であると評されています。

〇九世紀に入ると、単に既存の場面を題にして歌を詠むだけでなく、屏風画や障子画を新造する際に、逆に有名な歌人に和歌を詠進させ、それを主題として絵を描くという事も行われました。

『源氏物語』は本文中に実在の歌人である巨勢相覧や飛鳥部常則が登場するし、その常則の絵を「今めかしうをかしげに」(当世風で立派であるので)と言っているので、10世紀と11世紀あたりが舞台だと思われます。とすれば、絵にも字が書かれているのも理解できます。

*巨勢相覧(こせのおおみ)・・・九世紀から十世紀前半

*飛鳥部常則(あすかべつねのり)・・・村上朝(946〜967)に活躍

*紫式部の絵画観

 紫式部の絵画観は、「帚木」の巻中の雨夜の品定めの場面で、女性論と絵画論とを比較している場面に見ることができます。

※雨夜の品定め・・・五雨月の一夜、宮中にこもる十七才の光源氏のもとを左馬頭、藤式部丞、頭中将が訪れそれぞれの女性論を交わす場 面

〈帚木の巻〉

「また絵所に上手多かれど墨書きに選ばれて、つぎつぎにさらに劣りまさるけめふとも見え分かれず。かかれど、人の見及ばぬ蓬莱の山、荒海の恐れる魚の姿、唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔などのおどろおどろしく作りたる物は心にまかせてひときは目驚かして実には似ざらめど、さてありぬべし―(略)」

(現代語訳)それからまた絵所に名人は沢山おりますが、墨書きに選ばれて次々に書いてゆくとき、上手下手の区別はちょっと見ただけではいっこうにわかりません。けれども人の見たこともない蓬莱の山、荒海の猛々しい魚の姿、大陸の猛獣の形、目に見えない鬼の顔などの大げさな作りの物は、思いのままに書くことができて、一段と人目を驚かしまして、実際には似ていなくてもそれはそれとして通る物なのでしょう。ありきたりの山の有様、水の流れ、見慣れた人の住みかの有様をいかにもと思われる様に書き、親しみのある柔らかな形などをしっとりとかき混ぜて、険しくはない山の姿を、木深く俗世を離れたように幾重にも書き込み、近景の垣根の中をばその意匠や作法まで名人は筆の勢いも格別でして、未熟者には及ばぬところが多いようです。

→墨書きとは、絵所の職制の一つで、実際の絵の製作にあたる画家のことです。また、墨書きの志望者が多い場合は、実技試験が行われたようです。

→このような空想的な事物より、身近に見慣れた対象を真実らしく描くことこそ難しいとする絵画観は紫式部の独創ではなく、中国古代の写実主義の絵画思想を基盤としています。

・『韓非子』―「犬馬は難し」「鬼魅最も易し」

・『准南子』―「図工は鬼魅を画くを好みて狗馬を図するのを憎むは何ぞや。鬼魅は世々出でざるも狗馬は日々見るべければなり」

・『後漢書』―「画工は犬馬を図するを悪みて鬼魅を作るを好む、誠に事実は形し難く、虚偽は窮らざるを以なり」

〇また紫式部は風景の描写に「絵の様である」という表現をよく使っています。

・病を癒やしに晩春の北山に登った光源氏が都の方を見渡す眺めに感嘆する〈若紫の巻〉の場面

「(源氏)『絵にいとよくも似たるかな。かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし』といへば、(供)『こはいとあさし侍り。人の国などに侍る海山のありさまなどを御覧させて侍らば、いかに御絵いみじうまさらせ給はむ』」

(現代語訳)源氏が「絵に本当にそっくりだ。こんな所に住む人は自然美に堪能することだろう。」とおっしゃると、供の者が「これはまだ山も浅く、景色も平凡でございます。遠国などにございます海や山の景色などをお目にかけましたら、どんなに御絵が素晴らしくご立派になりますことでしょう。」と言う。

・紫の上の屋敷の豪華な庭園での春の御遊びの場面〈胡蝶の巻〉

「中島の入り江の岩蔭にさし寄せて見れば、石のたたずまひもただ絵にかいたらむやうなり」

(現代語訳)中島の入り江の岩蔭に舟を寄せて眺めると、ちょっとした立石もまるで絵に描いたようである。

・幼い紫の上の目に映る源氏の邸の前栽の描写

「東対にわたり給へるに立ち出でて庭の木立、池の方などのぞき給へば、霜枯の前栽、絵にかけるやうにおもしろくて実も知らぬ四位五位こきまぜにひきなう出で入りつつ」

(現代語訳)紫の君は東の対においでになったので、君は端に出て庭の植木や池の方などをおのぞきになると、霜枯れの植え込みは絵に描      いたように美しくて見たこともない四位や五位の人々が色とりどりの袍で入り混じって出たりは入ったりしている。

・須磨での源氏の住まいと周辺の風物の表現

「人々の語り聞えし海山のありさまをはるかに思しやりしを御目に近くてはげに及ばぬ磯のたたずまひ、二なく書き集め給へり『この頃上手にすめる千枝、常則などのを召して作り給ふかうまつらせばや』と心もとながりあへむ」

(現代語訳)皆がお話申し上げた海や山の様子を遠くご想像なさっていらっしゃったのを、すぐ目の前になさって、「なるほど、思いも及      ばぬ海岸の景色」と又となくお書き集めなさった。「この頃の名人と言われる千枝、常則を召して彩色をさせたいものだ」と      皆残念がっている。

☆まとめ

 当時の貴族たちが日頃接する自然の風景と言えば、庭前に植えられた前栽や、邸内の木立、池水などであり、都を離れた諸国の名所などは、彼らが日頃親しむ屏風障子絵の中にそのイメージを求めるほかありませんでした。

 そして、『源氏物語』の人物達の起居する環境もこうした絵画世界の中に想定されていたのでしょう。これは語りかける読者(この読者というのは、当時この物語を読むであろうとされていた貴族のこと)にも共通のイメージがあることを予想してのことだったと思われます。

★参考文献

・『源氏物語講座第五巻』(有精堂)

・『愛蔵版源氏物語』(別冊太陽)

・『日本人名辞典』(新潮社)

 清泉女子大学受講生のページへ