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源氏物語「結婚と出産について」

【発表者】

結婚:99001010 岩間 裕美子

99001030 門田 朋子

出産:99001001 青木

99001020 岡本 知佳

<源氏物語の結婚について>

 平安時代の結婚制度の特徴として招婿婚と一夫多妻制というのが挙げられる。招婿婚とは婿を招く結婚形態のことをいう。また、一夫多妻制は夫が挙げられる。招婿婚とは婿を招く結婚形態のことを言う。また、一夫多妻制は夫が多数の妻妾を持つことである。

その多数の妻妾の中で特に地位や権威が高く他の妻達をうまくまとめることのできる女性は正妻となり男の邸に入り、家刀自として家全体の経営を行うのである。正妻になると弘徽殿の女御と桐壷の更衣・葵の上と六条御息女のように他の妻との間で対立が起こりやすくなるのである。

 当時、結婚についての規則、婚姻令が定められていた。その内容は、まず一つ目には男は十五歳、女は十三歳以上に達しなければ婚姻は許されない、というものである。平安時代は早婚であったので一般的に男性が十七、十八歳前後で、女性は十三歳くらいで結婚していたのである。二つ目は、女の結婚にあたっては特にその祖父母・伯叔父母・兄弟・外祖父母の承諾を得なければならない、というものである。その為親兄弟の反対を押し切って自分の気持ちに任せてこっそりと恋愛沙汰に走るのはとんでもないことであった。三つ目は、結婚には媒人を必要とする、というもの。四つ目は、正妻を有する者がさらに他の女を正妻としてめとることは許されない、というものである。一夫多妻制であったため、妻と妾を区別し、妻のほかに妾は何人持とうとかまわなかったが正妻は一人のみに限られていたのである。

当時の結婚生活は男女がそれぞれ別々に生活し夫が妻の家へ通う「通い婚」が一般的であった。しかし妻が孤児同然であったような場合には夫の家に同居することもあったのである。当時は結婚するために役所へ届を出したりする現代とは大きく異なり、男性も女性も経済的に独立していたので、比較的自由に行われていた。なので、結婚において重要なのは経済力ではなく愛情だったのである。つまりすべては男性と女性の心のままにつながったり、切れたりするのであった。

 平安時代の婚姻成立までの過程は今とはまったく違い、なかなか大変なものであった。まず、当時の女性は顔を見せないようにしていた為男性は「垣間見」(のぞき見)や世間の噂から意中の女性を見つけるのである。そしてその女性に「懸想文」といわれる恋文を贈り相手の女性から承諾の手紙をもらい、女房に手引きを頼んで吉日の夜にその女性の部屋へと行くのである。一夜を共にした後「後朝の歌」を贈答し、三日間続けて女性のところに通うのである。そして三日目に「露顕の儀」「三日夜の餅の儀」などを行って初めて婚姻が成立するのである。ここで注意しなくてはならない点は男性は三日間続けて女性の所に通わなければならない、という点である。三日間ではなく一夜限りの関係では単なる浮気、とみなされてしまうからである。「三日夜の餅の儀」とは三日目の朝に「三日夜の餅」という祝餅が届けられ、催される盛大な宴のことである。

貴族の子弟は意中の女性を見つけるため、どこぞに美しい女性がいるらしい、という噂にはたいそう敏感であった。その噂の出所はどこなのであろうか。それは姫君の周囲からそれとなく流されることが多く、身分の高い姫君の場合にはその父や兄がこれぞとおもう人に対してそれとなく言うこともあったのである。また、姫君の周囲に仕える乳母や他家へ出入りする女房たちが意識的に噂を流して関心を引く場合もあった。

 男から女への求愛の手紙懸想文は人の眼にふれる前に乳母や女房たちによって検討されるのである。母親が加わることもある。その時、手紙の文章や和歌が巧みかどうか、字は上手いか、身分や姫君たちとの関係やこれからの出世の見通し、性格なども調べられるのである。以上の結果よしとなればその手紙は女のもとへ渡されるのである。

 当時の貴族社会では、女性は、人目を避けるのがたしなみとされ、同世代の男性が直接に、適齢期の女性と知り合う事はまれであった。男性は、まず女性の風聞を耳にしたり、苦労の末の垣間見によってその容色を知り、求婚の歌や手紙を送った。女は最初女房の代筆の返事を送り、交渉の進展によって、自筆のものを送った。やがて、親達の同意を得、男が夜女のもとを訪れ、契りを結ぶ。翌朝、男が女の元にふみを送る。これを後朝のふみという。早く届けられるのが、誠意の証とされた。三晩にわたって、男が女のもとに通うのが男の結婚の意志をあらわす事であった。一晩二晩で通わなくなる男もいたわけである。

男が最初に訪れた際に従者が手にしていた松明の灯は、閨の帳前の灯台に移して、三日消さずに灯し続けた。これは結婚の成就を期す女の家の願いを表す風習であった。また男が

通ってきた夜に、女の両親が男の靴を抱いて寝る習慣も、同様である。三日目の夜は、三日夜の餅を供え、夜が明けて、露顕という、女の両親や親類知己との対面があり、祝宴が行われた。ここに結婚が成立するのである。当時、わが国でも古代中国の制度により、法令に規定された結婚年齢は男子15歳、女子13歳以上であったが、平安中期以降、貴族社会では次第に早婚となり、不自然なまでに年齢は低下した。

<通過儀礼としての結婚>

 新手枕……新婚早々の手枕。最初の共寝、またその相手。「源氏物語」には1例。手枕と

      は、女が男の腕を枕にして寝る事。「新枕」とも言う。

   用例:新手枕の心苦しくて、「夜をや隔てむ」と思しわづらはるれば、(葵)

    訳:新手枕のお相手がいじらしくて、「一夜として逢わずにいられようか」という

      歌のように気におかかりになるので、   

他の女に心を移す気にまったくなれぬ源氏の執着と、最愛の妻への紫の上の第1歩を示す。

 後朝………男女が共寝をした翌朝、それぞれ自分の着物を着て別れること、またその朝

      をいう。「後朝の別れ」ともいう。男は家に帰ってから女のもとへ歌を贈るこ

      ともあり、この歌を「後朝の歌」、文を「後朝の文」、その使いを「後朝の使      

      い」といった。1例ある。

   用例:風の音もいろ荒ましく霜深き暁に、おのがきぬぎぬも冷ややかになりたる心    

      地して、御馬に乗りたまふほど、(浮舟)

    訳:風の音もほんとに荒々しく、霜の深い夜明け方なので、それぞれに別れ着る

      衣も冷え冷えとした心地がして、御馬にお乗りになるときには、

共寝の暖かさゆえに、着物の冷たさをいっそう感じる匂宮の、浮舟への執心が示されている。冷たくなる衣に共寝の朝の別れが象徴され、この後、匂宮は正気を失ったように別れを悲しんでいる。

 添臥………東宮・皇子などの元服の夜、添い寝をする妻。公卿の娘で、年長が普通。そ

      して、そのまま正妻格となる事が多かった。光源氏の添臥には左大臣の娘葵

      の上がなっている。用例は3例あり、ただの添い寝をする事にも使われる。  

   用例:かく幼き御けはいの、事にふれてしるければ、殿の内の人々も、あやしと思

      ひけれど、いとかう世づかぬ御添臥ならむとは思はざりけり。(紅葉賀)

    訳:このように子供っぽいご様子が、何かにつけて目立つので、邸の中の人々も

      合点のいかぬことと思ひはしたものの、まさかこれほどに世間離れしたお添

      臥しであろうとは思いもしないのであった。

源氏19歳、紫の上11歳の正月のこと。

   用例:内裏にも、御気色賜はらせたまへりければ、「さらば、このをりの後見なかめ

      るを、添臥にも」と、もよほせたまひければ、さ思したり。(桐壺)

    訳:帝に対しても、このことについてのご内意をうかがっていたところ、「それで

      は、この元服の祭の後見もないようだから、添臥にでも」と、お促しになっ

      たので、大臣のほうもそのつもりになっておられる。

左大臣は、東宮も葵の上を所望のことを知っていたが、源氏と結婚させたいと考えていた。

源氏の卓抜さを示す重要なエピソードである。

   用例:致仕の大臣も、またなかすづく一つ女を、兄の坊にておはするには奉らで、

      弟の源氏にていときなきが元服の添臥にとりわき、(賢木)

    訳:あの辞任した左大臣も、比類ないほどかわいがっていた一人娘を御兄の、東

      宮でいらしゃる方にはさしあげずに、その弟の、源氏でまだ幼い方の元服の

      添臥のためにとっておいたり、

源氏が、妹の朧月夜の尚侍のもとにひそかに通ったことを知って、弘徽殿の女御が憤懣の

あまりにもらす、源氏を誹謗することば。「ひとつ女」とは葵の上のこと。

 三日の夜…結婚三日目の夜のこと。「三日の夜の餅」といって、この夜には新郎・新婦に

      祝いの餅が供された。そして「露顕」といって、新婦の家で酒肴を用意して、

      初めて婿が新婦の両親以下親族と対面する結婚披露の祝宴が行われた。2例。

   用例:三日の夜の御消息ども、聞こえかはしたまひける気色を伝え聞きたまひてな

      む、この大臣の君の御心を、あはれにかたじけなくあり難しとは思ひきこえ

      たまひける。(真木)

    訳:三日の夜のお祝いのご消息をあちこちお取りかわしになった様子を、父大臣

      は人伝にお聞きになられて、この源氏の大臣の君のお気持ちを、見にしみて

      もったいなく、またとありえないことを思い申しあげられるのであった。

玉鬘と髭黒との結婚第三夜に、源氏が新夫婦と手紙を取り交わしたことを聞いて、内大臣

がよろこぶ。

   用例:三日の夜は、大臣卿よりはじめて、かの御方の心寄せになさせたまへる人々

      家司に仰せ言賜ひて、(宿木)

    訳:三日の夜の儀は、大蔵卿をはじめとして、かの御方のご贔屓にしておいでに

      なった人々や家司に仰せ言を賜って、

三日の夜、女ニの宮の親戚筋の大蔵卿らに今上帝のご下命があることを語り、栄えある婚儀と薫の盛運を示す。

<源氏物語における結婚の位置付け***まとめ***>

 結婚というものは、この時代、女の一生を決めるとても大きなことであると思う。特に親という後ろ盾がない女性にとっては本当に人生最大のターニングポイント《転換点》であっただろう。自分の夫になる人がどのような人か、どれだけの地位にいて、どれだけの経済力があるかによって人生が変わってしまう。「源氏物語」という作品は、光源氏という一人の男の一生を描いた作品であるように見えて、根底では、数多くの女性達の一生を結婚という形を通して表しているような気がした。

 

<源氏物語の出産について>

では、出産についてのプリントを見てください。

平安時代においては、お産は医術の遅れのために、女性にとって命懸けのものでありました。当時、難産は「物の怪」の仕業とされ、さかんに加持・祈とうを行い、これを調伏しようとしたが、しかし効無く、命を落とす女性も少なくなかったのであります。

お産は汚れとされていたので、後宮では行わず、里に下って行いました。『源氏物語』では、桐壷更衣が光源氏を生んだところは里邸であり、明石女御が若宮を生むのも、六条院です。産所のしつらえ白描屏風・白几帳など白に統一し、産婦や侍女の衣装も白一色でありました。お産に際しては、陰陽師や僧侶、山伏によって祓除・加持・祈とうが行われました。赤子を取り上げた後、胎盤を取り出す後産で命を落とす女性も少なくありませんでした。誕生後は、臍の緒を切る儀・乳(ち)つけの儀・御湯殿(おゆどの)の儀などが行われます。御湯殿の儀は、産湯とは別に、儀式として行われ、吉方の水を汲み用いました。虎の頭と御剣を捧持した女官が付き従い、撒米(うちまき)・鳴弦(めいげん)・読書(とくしょ)の儀が続いて行われました。

出産当夜、および三日、五日、七日、九日の夜には産養(うぶやしない)という、親族などが食物や衣服を贈って出産を祝う宴が行われます。生後五十日は五十日(いか)と呼ばれる祝儀がなされ、赤子に餅を含ませる真似をする。百日目にも百日(ももか)という同様の祝儀が行われました。なお、皇子誕生とその産養の儀式については『紫式部日記』が詳しく書き留めていて参考となります。

次に、出産についての儀式をいくつか詳しく説明します。

≪出産についての儀式≫

<葵の上>

葵の上が夕霧を出産した後に、男子が生まれたこともあって、桐壷帝はじめ親王らが盛大に催しました。[葵十九]

<中の君>

中の君が男子を出産した際に、三夜は、夫の匂宮が二条院で内々に催し、五夜では、薫が屯食(握り飯)や襁褓(子供の産着)などを贈り、七夜は明石の中宮が、九夜は夕霧が祝宴を主催しています。[宿木七十]

∴他に、明石姫君の誕生のときは、冷泉帝が、薫のときは今上帝が、それぞれ催している。

*『源氏物語』においては、「宮の若君の五十日になりたまふ日数へとりて、そのもちのいそぎを心に入れて」(宿木)とあるのは薫が匂宮、中君の男君の祝いの準備に、身を入れている場面や、ほかに源氏が明石で生まれた姫君を思い、「五月五日にぞ、五十日にはあたるらむと、人知れず数へたまひて」(澪標)、祝いの品を贈る場面などがあります。また、『源氏物語絵巻』から、「柏木」は、薫の五十日の祝いの一場面を描いています。扇で、顔を隠す女房の姿などが、祝いの華やぎを示す反面、一人醒めている源氏の姿を写しています。それは、不義の子、薫を抱き、死んだ柏木への哀れみと苦哀を胸に、自嘲的に白楽天の詩を口ずさむ源氏の、複雑な思念の一端をしめしているといえます。

レジュメの裏を見てください。先ほども少し触れましたが、産婦や侍女の衣装はすべて白一色だと述べられていましたので、お産の白について話したいと思います。

「御湯殿すべきともなりぬれば、その儀式、みな白がさね白き綾をつかはれたり。おん湯殿は、春宮の若宮の御迎え湯にまゐり給ひし内侍のすけ、白き綾の生絹に、ひとへがさねのうちぎうへに著て、綾の湯巻、御槽の底にも敷き、迎へ湯のかんの大臣、白き綾のうちぎ一重ね同じき裳一重ねゆひこめ給へり。中納言、白き綾のうちぎ一かさね、ろうのあを、指貫著て、湯引き給ふ。」とあります。

『源氏物語』は、出産の物語はあるものの、白のくだくだしい叙述はありません。葵上の夕霧出産のくだりに、「白き御衣に、色あいとはなやかにて、恩髪のいとながうこちたきを引き結ひてうち添へたる。」[葵三二]とあるばかりである。

産屋の白は、当然のこととして、省筆したのでありましょう。そして、今まで出産について、色々と述べてきましたが、「白」については、お産において、いかに当然のこととされてきたかがうかがえると思いました。なぜ「白」かというのは、私たちの勝手な解釈ではありますが、この時代は、お産は生きるか死ぬかと言っても過言ではないくらい、命の懸かった一大イベントでありました。「物の怪」のせいで、難産になると考えられていたりしたために、撒米・鳴弦・読書など、今から見れば、少し子供じみたまじないが実際に行われていたのであります。ですから、一番、悪魔や邪気から遠いとされる色、つまり「白」が用いられたのだと思います。現代も病院などは「白」が多いので、誕生や死に、「白」は深く関わっているのだと思いました。

ちなみに、この時代の出産方法については、レジュメの絵を参考にして欲しいのですが、当時の出産は、産婦が懐抱と腰抱の二人に寄りかかり、座ったままで生むという座産でありました。生まれた赤子は、竹刀で臍の緒を切られました。

次に、私は「若紫」「葵」「若菜下」の中に出てくる出産と懐妊について、三つのあらすじと共に紹介したいと思います。

まず「若菜」では、北山の僧院に赴いた源氏は、藤壺宮の面影を持つ少女に出会う。少女は、藤壺宮の兄(兵部卿宮)の娘で、祖母の尼君と暮らしていた。帰郷した源氏は、病で里に下がっていた藤壺宮と契りを交わす。藤壺宮は懐妊し、二人は罪に震える。北山の尼君が他界する。孫娘の少女(紫上)を源氏が、二条院に引き取る。というのが、簡単なあらすじです。

次に、懐妊と出産についてが表されている原文の一部分と、その口語訳を紹介したいと思います。

<若紫>

暑きほどはいとど起きも上がりたまわず。三月になりたまへば、いとしるきほどにて、人々見たてまつりとがむるに、あさましき御宿世のほど心憂し。人は思いよらぬことなれば、「この月まで奏せさせたまはざりけること」と驚ききこゆ。わが御心一つには、しるう思し分くこともありけり。御湯殿などにも親しう仕うまつりて、何事の御気色をもしるく見たてまつり知れる、御乳母子の弁、命婦などぞ、あやしと思へど、かたみに言いあはすべきにあらねば、なほ逃れがたかりける御宿世をぞ、命婦はあさましと思ふ。内裏には御物の怪の紛れにて、とみに気色なうおはしましけるやうにぞ奏しけむかし。見る人もさのみ思ひけり。いとどあはれに限りなう思されて、御使いなどの隙なきもそら恐ろしう、ものを思すこと隙なし。

(口語訳)

暑いうちはいっそう起き上がることもなさらない。三月におなりになるので、とてもはっり分かるようになって、女房たちがお見受けし気にかけるので、思いも寄らなかったご宿縁のほどがあまりにも嘆かわしい。だれもが思いもつかないことであるので、「この月になるまでご奏上なさらなかったとは」と驚き申しあげる。ご自身のお胸一つには、はっきりと思い当たられるふしもあったのだった。お湯殿などにも身近にお仕え申して、どのようなご様子をもはっきりと存じあげている。御乳母子の弁、命婦などは、おかしいと思うけれど、お互いに口にすべきことではないので、やはり逃れるわけにはいかなかったご宿縁を、命婦はなんということだと思う。

帝には御物の怪の紛れで、すぐには兆候がおわかりにならなかったように奏上したのであろう。周囲の女房もそうとばかり思うのであった。帝はいっそういとおしくこの上なくお思いあそばされて、お見舞いのお使者などがひっきりなしであるのもそら恐ろしく、ものをお思いなさることは絶えない。

というふうに口語訳されています。そこで、この原文の中に「この月まで奏せさせたまはざり…」とあるが、この“奏せさせ”が懐妊のことを表すことになります。また、“三月”は懐妊の兆候を意味します。しかし、物の怪のせいで帝は妊娠に気付かなかった…ということをこの原文の中では、“御物の怪”という一語で表わしています。

次に、「葵」の紹介をします。

「葵」は、賀茂の新斎院(女三宮)の御けいの行列見物の際、見物場所競いで葵上の従者からはずかしめを受けた六条御息所は怒り、深くこれを恨んだ。身重の葵上に六条御息所の生霊(いきりょう)がとりつき、夕霧を生んだが急死した。葵上の喪が明けてから、源氏は葵上と新枕(にいまくら)を交わす。というのが簡単なあらすじです。

そこで、次に葵の原文と口語訳の一部分を紹介したいと思います。

<葵>

大殿には、かくのみ定めなき御心を心づきなしとおぼせど、あまりつつまぬ御けしきのいふかひなければにやあらむ、ふかうも怨(え)じきこえたまはず。心苦しきさまも御心地になやみたまひてもの心ぼそげにおぼいたり。めづらしくあはれと思ひきこえたまふ。

<訳>

左大臣のお邸―葵―では、ひたすらこんなふうに落ち着かない君のお心を、「気にくわない。」とはお思いですけれど、あまりにもお隠しにならない君の御様子が、言ってもかいがないからでしょうか、深くもお恨み申し上げなさいません。傍目にもいたわしい御様子と見える御気分におなやみなさって、何となく心細そうに思っておいでです。

その御様子を君は珍しいとも、またしみじみいとしいともお思い申し上げなさいます。

というふうに口語訳されています。そこで、この文章の中で「心苦しきさま」とあるが、これは懐妊したことをあらわします。また、「めづらしくあはれと思ひきこえたまふ。」というところは、源氏の心境であり源氏が葵の上をはじめて「あはれ」と思ったことをあらわします。

次に「若菜下」について紹介したいと思います。

「若菜下」は、冷泉帝は東宮(今上帝)に譲位し、明石姫君の皇子が東宮になった。源氏は、朱省院の五十賀の女楽を催す。その後紫上は病にかかり、二条院で床についた。柏木は女ニ宮と結婚したが、まだ女三宮を思っている。小侍従のはからいで女三宮と契った。柏木は深く後悔したが、宮は懐妊してしまう。宮の懐妊を不審に思っていた源氏は柏木の手紙を発見しすべての真相を知った。それに気づいた柏木はつみの意識から重い病の床に臥した。源氏は自分の過去との不思議な巡り合わせを思う。というのが簡単なあらすじです。

<若菜下>

さるは、いとふくらかなるほどになりたまひて、悩ましくおぼえたまひければ、御琴も押しやりて、脇息におしかかりたまへり。

この文章のなかで「悩ましくおぼえたまひければ」というところが懐妊中であることを表しています。

これが、三つの大まかなあらすじと、懐妊についての紹介文です。

以上これで、源氏物語「結婚と出産について」の発表を終わります。

1999年7月14日(水)日本古典文学基礎演習A・上原

<参考文献>

「源氏物語の鑑賞と基礎知識」伊藤博 至文堂

「全釈 源氏物語巻三」松尾 ちくま書房

「源氏物語(四)」阿部秋生 明治書院

「源氏物語辞典」秋山 虔 学灯社

「源氏物語図典」秋山 虔 小町谷照彦 小学館

「源氏物語必携」(別冊大学改装版) 秋山 虔 学灯社

「源氏物語必携事典」秋山 虔 室伏信助 角川書店

「源氏物語事典」岡一男 春秋社

「源氏物語を知る事典」西沢正史 東京堂出版

「常用源氏物語要覧」中野幸一 武蔵野書院

「源氏物語講座 別巻」(源氏物語事典)有精堂出版

「源氏物語事典 上・下」池田亀鑑 東京堂出版

「日本古典文学全集」 阿部秋生 小学館

   源氏物語(1)から(6) 秋山虔

                今井源衛

「源氏物語への招待」 今井源衛 小学館ライブラリー

「源氏物語の発想」 林田孝和 桜楓社

「光源氏の四季」 尾崎左永子 朝日新聞社 

 

 

  

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