和泉の二年間で得たもの

                           高橋 謙一

 

 和泉の二年間で得たもので一番大きなものは、正直「人間関係の難しさを体験したこと」である。私は中学・高校と比較的気の合う友人たちの中で生活してきたように思う。さまざまな人が半ば強制的に入れられ共存する部活という枠ではなく、「趣味」によって集まった友人たちの中ですごしてきたからかもしれない。もちろん、それでも友人関係の様々な問題にはぶつかったが、人情のかけらも見られないような感情表現と行動には出会ったことはなかった。

 大学に入り、クラスや部活やアルバイト先でいろいろな人に出会う機会を得た。そして遠まわしな言い方になるが、そこで私は「会えばにこにこしてるのになあ」と思うことが幾度もあった。つまり、気に入らない、気に入られないということがあったのである。もっとも、今思えばどれも自分に落ち度があった。言うべきことを言わずに誤解を招いたり、自分で物事を考えすぎたり、仕事をまじめにやらなかったりと改めて書き出すとぼんやりと感じていた自分の失敗がはっきりしてくる。

 人間関係が一番難しいなどとよく言われるが、その難しさを体験してつくづく実感することがある。それは、例えば、言葉が少ないだとか、一人で抱え込むだとかいう自分のいくつもの不得手さである。好きで向き合ってきたわけではないが、その人間関係の諸問題通し自分の欠点を認識したことによって少しではあるかもしれないが確かに成長できたと思う。具体的にはいくつかの問題には落ち着いて対処できるようになったのではないかと思っている。

二番目に得たものは、法律・経済の知識自体は甚だ乏しいものであるが、法律や経済の勉強を通して社会に対する、また社会における考え方を学べたことである。

 社会に対する見方に関しては、例えば、経済では政府の経済政策の遅れや銀行を含めた大企業のバブル期での失敗を知り、法律では立法の不備や法律起草者も予想をはずすこと、判例への批判などを教わり、一般にお上と言われるような国家機関や政府の要人、また大きな会社も不十分なところがあるのだということを知った。自分の手の届かないところにあるものだと思っていた「社会」が自分の目線で捕らえられるもの、批判できるものと考えられるようになった。一年のころはインターネットでいくつかの雑誌に寄稿するなどもした。

 社会におけるものの見方(今まで知らなかった常識)に関しては、例えば、生き物でも法律では「(ぶつ)」経済では「財」というように、他の物品と同じ権利の対象に他ならないものであること、わざとでなくても自分に落ち度があって他人に損害を与えたら小さいことと思われても法律上はそれを償わなければならないことなど私にとってはシビアまたは厳格だと思われることが常識となっていることを知った。

 和泉で得たものの大きなものはこのようなものだが、他にも和泉で得たものはたくさんあると思う。しかし、これといって示せるものばかりではないし、すぐに思い出せないものもある。ただ、今はやっぱり大学に来てよかったと思えることが多くのものを得た印かなと思っている。

和泉の二年間                         

田村あゆみ

 もうすぐ和泉校舎での二年間も終わろうとしている。順調に単位が取得できれば、もうこの校舎に来ることはあまりないと思うが、あと数時間で提出の課題を今頃取り組んでいる私のような人間は、来年度も週1,2のペースでこの校舎に来ることになると思う。

 法学部に全く興味のなかった私が、東京に出るという目標のためのみに、渋る親を説得し明治大学に入学してから二年、相変わらず法律にはあまり興味が持てないが、この二年間で私自身はずいぶん変わったと思う。

 まず、家族と離れて暮らし始めたというのが大きかった。今までは自分がどういう性格なのかよく分からなかったし、集団の中で暮らしていたせいなのか自分の存在は混沌としていてうまく掴めなかったが、常に誰かと関わるという生活を止めたとき、私はどういう人間なのかがよく分かった。

私は他人の監視の目がないとかなりだらしのない人間らしい。実家にいた頃は、早起きは得意だと思っていたが、今はとても苦手である。しかも、だらだらと一日を過ごしだらだらといつまでも食べる。おかげで5kgも太った。今でも実家に帰ると、毎日意識しなくても身体が勝手に規則正しく活動するが、東京に戻ると元に戻ってしまう。おそらく誰かがいるという緊張が睡眠を妨害するのだろう。一人で過ごすときはボーっとしていて何も考えていないし意識も無いくらいだが、誰かが隣に来ると話しかけなければいけないのではないかという気持ちになって何とか話題を捻り出そうとして、脳味噌はテストの時より活発に働く。私を動かすスイッチは他者の存在によるストレスであるという発見も一人にならないと気付けなかったと思う。

 しかし、20歳を過ぎているのにこの様では精神的に幼すぎるし、自立からは程遠いと思う。まだ自分の性格は把握しきれていないと思うが、これからの二年で箸の持ち方を直すように自分自身を矯正していきたいと思う。

和泉の二年間で得たもの

                    2年6組23番 戸屋 達章

 

 和泉の二年間で得たものといえば、一言で言うとサンクス向かいでなか卯の二階にある雀荘「麻雀ゼミナール」である。他には全く思いつかない。実際どんなことをしたか考えても麻雀ばかり。得たものは麻雀が強くなったくらい。でもこれではあまりにもダメ大学生丸出しなのでちょっとまじめに考えてみたい。

 よく考えてみると得たものより失ったものの方が多い気がする。高校の部活のようにまじめに打ち込んでいるものもない。勉強にしたって、実際学んでも身にならないものばかり。どう考えても使わないドイツ語。まったく身にならない英語。教科書を丸写ししただけの一般教養。専門だけはさすがに自ら学びたいといったものだから、勉強はしている。これだけはやっぱり勉強していて楽しい。でも全体的に授業は休みがち。ただ単に単位習得だけすればいいなんていう腐った考えに汚染されてしまった。生活にしたって一人暮らしを始めたはいいがろくな生活はしていない。一番のごちそうは松屋の焼肉定食。主食は牛丼と冷凍食品。一日一食は当たり前。ダメ人間の典型である。

 たまに、自分の能力についても、もちろん天才でもなく勉強だってできない。格好だってよくない。自分には何にもないなと落ち込んでしまう。

 こんなことを考えたら和泉で得たものは、「こんな大学生になったらいけない」と言うことになってしまう。

 ただ、全くの逆だっていいとは思わない。いくら優を沢山とって自慢したってなんにもならないし、遊ばずに勉強だけをしていればいいものとも思わない。得たものは何ですかと聞かれて、こんな勉強をしましたというのも素晴らしいことだと思うが、それだけでは悲しい気がする。

諺に「よく学びよく遊べ」といものがあるが、それを実行できるのもあと2年である。これからやらないといけないことはこの「よく学び」の部分だ。自分がどんな遊びが好きかはわかっている。しかし、どんなものを学んだらいいかははっきりしていない。早く見つけてそれに打ち込んでみたい。

自分が和泉の2年間で得たものは、自分のダメさと自分には何が必要かだ。

しかし、まだ、駿河台での2年間が待っている。それなら、この漠然としているものを残りで具体化して、明治大学ではこんなことを学びましたと胸を張って主張できるようになりたい。もう学生なんていうお気楽な身分ではなくなってしまう。それまでの間に、どんな人にも負けない武器を持ちたい。

和泉校舎での2年間を振り返って

                        2年6組3番 有吉 健

 

 この2年間を振り返ると、甘えていた2年間だったことにようやく気がつきました。

 中央大学に入りそびれて不満だらけ、でも浪人する気力もない、といったどうしようもない心持でスタートした大学生活もぼんやりしていたら半分が過ぎていました。無駄だったのか?とかは考えません。人生に無駄という概念は多分ないはずですから。

 しかし、「検察官になりたい」という漠然とした希望も最近は揺らいできて、結局和泉校舎での2年間で得たのは「戸惑い」だったのかもしれません。

 サークルに入ってなく、アルバイトもしていない私は他にできることがないから、取り敢えず授業に全部出てきました。大学に入ってよかったと思える授業、教授は研究費を稼ぐために授業をしているという先入観どおりの残念な授業、難しすぎて目が回る授業、高校レベルの授業など様々な授業がありましたが、どれも全部出ました。高校までの与えられた勉強を黙々とこなすスタイルから、自分で選んで授業を受けるスタイルに変わったとはいえ、必修や選択必修などの制約があり、興味のないもののうちから選ぶ等、高校までより逆に閉塞感を感じました。

 周りにいる人からの影響が少なくなったというのも事実です。高校のクラスメイトは圧倒的にバラエティに富んでいたので、いつも私の予測を遥かに上回る彼らの言動を見聞きするために、わくわくしながら学校に行ったものでした。しかし、大学は目指すものが似通った人が集まるせいか、それとも私の付き合い方が悪いのか、多様性がないと感じてしまうのです。

 学問で得たものは何だったのか?恥ずかしながら日増しに空洞化してゆく自分の脳から、その答えを引っ張り出してくることは困難です。各論的分野の刑法にしか興味のなかった私は、法学基礎論、憲法、商法、物件法、債権法などを受け続け、すっかり法律が嫌いになってしまいました。しかし、1年生の時の阪井先生による論理トレーニングと、今年の上原先生の論文演習で人前での発表の機会を多く与えられたことは、人見知りする私には確実にプラスになりました。

 学校外で得たものは、とても大きいです。離れていても、会えばすぐに高校時代と同じ関係に戻れる友達です。大学での友達は一生の友達などと耳にしますが、それ以前の友達がそうでないというわけではなかったことが嬉しかったのを覚えています。

 目的が無くなりそうな今、将来について考えなければいけないので、今年は自分で考え、決めて、やるという一番苦手なことに手をつけなければなりません。ちゃんと授業に出席する、ということがあまり意味を成さない大学の授業ですが、自分で学費を出しているわけでもないので、取り敢えず今年も全部出て、ゼミも始まることですし、関心を持って生活していきたいものです。もし、興味のわくことがみつかったとして、それが和泉でやってきたことと少しでも繋がっていたら素敵だと思います。

和泉の2年間で得たもの

 

2年8組22番 高城 明子

   私が和泉の2年間で学んだこと、それは「積極性」の大切さである。私は高校まで、この「積極性」の意味を間違えてとらえていた。発言すること、自発的に何かの委員になって皆をまとめあげること等だけが「積極性」につながると思っていたのである。これらも「積極性」の一部に入るのであろうが、数人の入れ替わりがあったとしても、小・中・高12年間も同じ輪の中に居てのことであり、実際の「積極性」とは言えないと、この2年間で教えられた。

 

この「積極性」を最も考えさせられたのが、人との関わりにおいてである。中学校入学時には、生徒同士の親睦を深めさせるために、オリエンテーション合宿なるものが行われ、皆嫌でも関わらなければならなかった。それから6年、全く新しい友人をつくる機会もなく時は過ぎ、私はこの明治大学に入学した。4月に初めて和泉校舎に入ると、驚きの連続が待っていた。まず、見渡す限りの人、人、人。中・高あわせて多くても900人しか見たことがなかったので、初め校舎を見渡したときは、お祭りでもやっているのかと思った。また、皆も驚いたであろうサークル勧誘等、これらがあわさることによって、私は萎縮してしまい、考えも「消極的」になっていってしまった。しかし、私にこれではいけないと思わせてくれたのが、サークルの存在である。サークルとは、部活と違って各個人が自由に参加するものであり、強制されない。ゆえに、参加率にばらつきがでてきてしまうのは仕方がないことであろう。夏までには学年の中でも参加率の高低がはっきりしてきて、1年の中で高参加率をおさめていた友人と私は、次第に参加しない人の心配をするようになっていった。それを相談した際に、先輩に言われたことが今でも頭に残っている。「同学年同士で声を掛け合うのは良いこと。しかし、大学生になって、声をかけられなければ来ず、来たとしても話し掛けられるまで待つという受身の姿勢の上で打ち解けられないと言われるのであれば、こちらはどうすることもできない。大学生活はその人自身の積極性によって決まってくる。」と言われた。私はこの考えに納得し、また同時に、このときから「積極性」について考えることとなったのである。

 

私は和泉の2年間「積極性」というものを考えてきた。自分が慣れている場だけでなく、初めて踏み込むような様々な場においても出席し、かつ、その場に対して要求なり不満なり、自分の意見をはっきり言って行動をおこしていける。これこそが「積極」ではないかと考え、今現在、上手くいかないながらも、私はそうなれるように努めている。また、3年からはゼミという積極性を問われるものも始まり、特に励みたい。「和泉の2年間で得たもの」は、この「積極性」を考える姿勢はもちろんであるが、それを教えてくれた人との出会い、これを忘れてはならないと思う。

和泉の二年間で得たもの

22313番 小野寺 裕子

 

明治大学に入学してから、もうすぐ2年が経つ。本当に、月日が経つのは早いなぁと痛感する今日この頃である。和泉の二年間で何を得たかと聞かれても、残念ながら、自信をもってこれと言えるものはない。学業に関しては、私はお世辞にも真面目な学生とはいえなかった。出席していない講義が幾つかあるし、出席していてもほとんど聞いていなかったり…。

しかし、今までで一番自分らしく過ごせた二年間だった、ということだけは確実に言える。学校、規則その他色々なものに拘束されていた高校時代とは違い、大学では自分の時間が沢山あり、自由に行動できる。その点で、行動範囲が広がり、以前は興味があってもできなかったことが、思う存分できた。高校の頃は一人で電車に乗ったこともほとんど無かったが、今では一人でどこへでも行くようになった。色々なものを見たり、聞いたり、また様々な人に出会ったことによって、視野を広げることができた。

さらに、職種の異なる3つのアルバイトを経験したことが、自分にとって非常にプラスになったと思う。特に、ちょうど1年前から始めた会社事務のバイトでは、学ぶことが本当に多い。仕事内容は主に電話応対だが、マニュアル通りにやればいいというものではなく、ケースによって異なる判断・対応が必要なので、難しい。人と話すことが好きでも、それだけではコミュニケーション能力があるとはいえない、ということが身にしみて分かった。こちらが持っている情報を相手に正確に伝えること、また相手の要求をきちんと理解することが大切なのだが、それがなかなか思うようにいかない。だが最近は、努力すれば仕事の質はどんどん向上し続けるところが、手順を覚えるだけの仕事よりもずっと面白いと思うようになった。今後も更にトークスキルを磨いて、コミュニケーション能力を身につけていきたいと思っている。

他に、大学に入って変わったことといえば、将来の目標に向けて、実際に行動を起こし始めたことだろうか。私は高校の頃から公務員志望で、大学に入ってからもそれは変わらず、二年になってすぐにWスクールを始めた。だが、この一年間はただ予備校に通った、というだけで、完全に消化不良に終わってしまった。しようと思ったことの、半分も手をつけられなかったと思う。原因は計画性の無さと時間の使い方が下手だということ。昔から変わらない欠点だが、これは絶対に克服しなければならない。来年度は、自分が今、すべきことは何かを正確に把握し、着実に進んでいきたい。校舎も憧れの駿河台校舎に移るので、とても楽しみだ。大好きな下北沢に頻繁に行けなくなるのは残念だが、代わりに神田古本屋街巡りと神保町ランチクルーズを楽しみたいと思う。リバティで気分も新たに、今年以上に充実した大学生活を送りたい。

 

 


和泉の二年間を通して学んだ事


                    法学部2年23組24番滝沢有紀

私が、二年間で学んだ事は「楽あれば苦あり」と自分らしく生きることである。

入学した時は、あんなに頭の悪かった私が明治に受かった事を一家総出で喜んでいた。「大学どこに行くの?」「あっ、明治に・・・」「へえ、頭いいんだね。」「えへ。」の繰り返し。めちゃめちゃ嬉しかったはずなのに、入った私は大学がそれほどのものでなかったことにショックを受けた。あすなろ白書を夢見て入ったはずなのに、いつのまにかいつもの悪い癖であるサボリ癖が芽を出し始めた。

寝坊をするともう行きたくなくて、いつもぼんやり犬の散歩をして暇を潰し、当時付き合っていた浪人生の彼氏をむりやりつき合わせ川原でたこ焼きを食べる日が続いた。

あんまり楽しいものではなかった。サークルも1年間チアをやって、練習はきつく、筋肉はありえないほど付き、体重も8キロも増え、三段タワーの1番上から逆様に落ち(たんこぶで済んだ)、足の骨が折れそうになったところで辞めた。

結局1年生ではサボってばかりで、ろくな成蹟がとれず、親には怒られるどころか笑われる事となった。

やっぱり「楽あれば苦ありだ・・・」と1年の時取れなかった教科を再履修しながら痛感しつつ、またも同じような事をやっていた二年生。敗因は、恋は盲目といったところで、また三年生でも再履頑張ろうとか、今から思っている始末である。

 しかし大学は、マイペースで自分の世界を崩さないらしい私にとっては性には合っていた。自分の思うとおりに行動できたし、グループ行動が嫌いだった私にはぴったりだった。「変わっているね。」とよく言われたけど、そして前はそう言われるのがすごく嫌だったけど、今の友達は私に迷惑をかけられながらも優しくしてくれ、自分を少しずつ好きになりつつある。今さらアイデンティティの確立!?という感じではあるが、大学あと二年で今の欠点を直し、自分が自分らしく生きられる術を見つけられたら大学に行った価値はあると思う。

これからの二年間、友達とも仲良くやっていきたいし、私自身もっともっと頑張らなきゃと意気込んでいる。人より相当遅いスタートだけど、まあいつものことだから私は私らしく精一杯いきたい。大学生もあと残りわずか2年。あっという間な二年間を、もっとあっという間に思うほど有意義に充実した時間を過していきたい。

 

 

 

和泉校舎での二年間で得たもの

 

 

 

 

 

 

 

2年6組31番 

武蔵 光

 

 

 

 早いもので大学生活も折り返し地点を迎えることとなりました。本当にあっという間でした。高校生の頃、大学生といえばもう立派な大人といった感じでした。私も大学生になったら、勉強も熱心にこなして遊びも時間の余裕があるというメリットを生かして旅行に行くといった経験をしようと思っていました。ところが一人暮らしに慣れるに連れてやたらと仲間とだらだら一緒にいることが多くなりました。本来大学生がやるべき勉強もしないで、遊びに夢中でした。しかも憎らしいことに、皆は器用に単位を取得してしまったのでここまで不真面目で通ってきてしまったのでしょう。

私は小さい頃から今までずっと不真面目でした。思えば中学校の部活が終わってからみんな暇になり、そこからいろいろな友情が芽生え真面目な私はどんどん消えていきました。何も考えず入った高校は、札幌の公立高校の中で下から2,3番目にランクの低い高校でした。私の高校にはあまり怖い人がいなくてみんな愉快でのほほーんとした人ばかりでした。高校には三日に一度は必ず遅刻をして単位ぎりぎりまで欠席をして友達と遊んでいました。中学生、高校生のころは早く大人の仲間入りをしたくて、背伸びして夜遊びをするなどそういう部分にばかり関心が向いてしまい部活に専念するといった、その年齢相応の楽しみということをしませんでした。アルバイト先でも友達からもよく部活は何をしていたのかと聞かれるものですから、そのたびに部活をやっておけばよかったなと少しですが後悔しています。

だから大学では大学生でしか経験できないことをしようと心に決めていました。まぁ、友達とだらだらと過ごすというのがすばらしい大学生活とは思いませんが、私の友達は一緒にいてとてもおもしろいのでそれだけの価値は十分にあります。これだけ魅力ある人間が集まるのもめずらしいのではないかと思います。類は友を呼ぶということなのか、魅力ある変なやつばっかりです。それにこれからの人生でこれほど深く、純粋に人と楽しく付き合うことができる機会はなかなか訪れないと思います。私たちはこれから利害が一致する人間関係しか築けなくなるのではないかと思います。そうなると本音で向かい合うことはできないでしょう。そうなってくるとこの和泉で得た親友というのは貴重な価値あるもので、大学生活の半分を費やしてしまってもなんら惜しくはありません。

でも、そろそろ本格的に試験勉強しないとだめ人間になっちゃうかなと感じ始めました。最近になって気づいたのですが、実は私の友達はけっこう勉強しているようです。私もようやく法律の勉強の仕方が分かってきました。これからは本腰いれて、受験当時の力を出して勉強すれば、なんとか自分の希望する進路への道が開けるでしょう。御茶ノ水のリバティタワーはピリリと大人な雰囲気を出していて、気を引き締めるにはいい環境だと思っています。気持ちを新たに大学生活後半は勉強で充実した生活を送っていこうと思っています。

 

                                      以上  

 

 

                                  

和泉の2年間で得たもの

        22321番 島村 一徳

 

 この論文演習最後の課題を書くために、いろいろ思い出そうとしていて、まず真っ先に、1年の時、国語の(もちろん上原先生)小テストで、歴史の問題がでて、何もかけなくて「罰ゲーム」という規定により、五島美術館に行き、特別展示の紫式部の日記についてレポートを書いたことを思い出した。確か上原先生が「もう入場券前の授業で全部あげちゃった。」とかで、自費で見学してくるという憂き目にあったのである。授業が始まってまもない5月のことだった。しかも、入場料は1000円、学割があるというので、発行されたばかりの学生証をとりだしてみせるも、700円という入場料と引き換えに、来場記念グッズの宣伝しか載ってないパンフレットを渡されて、ツアーで見学に来ていたおばさんたちに混じって詳細にメモをとっている私の姿があったのである。。ったわけであるうとてぜかみんな良い点数なのは。行政法下川先生の

 そんなところから始まった和泉の2年間も、もうすぐ終わりをむかえるわけだけれども、それは後期試験が無事終わればの話である。ここへきてまでもうクルマの話はするまいと思っていたのだが、試験の勉強に完全に行き詰まった私は、「法定12ヶ月点検」と称する健康診断を、1月中に自分のクルマにもうけさせなければならないことを理由に、昨日の午後、マツダのディーラーに向かった。いつもの整備担当の人にキーを渡して、案内されたテーブルで雑誌を開こうとした途端、「あのぅ、すみません?。コーヒーでいいですか?。それからちょいとキャンペーンのくじ引きを。」と、口調も風貌も「刑事コロンボだ」と誰しも思うような男が立っていた。営業課長らしい。で、そのコロンボは、私のひいたくじと引きかえに、「熊のプーさんの携帯ホルダー」という、蜂蜜のつぼに携帯を入れて持っていてくれるなんともかわいらしいプーさんのぬいぐるみを手渡すと、困惑している私を置いてがに股で去って行き、新車の契約が成立しそうなテーブルに「くじ引きを…」と割って入ったあげく、見事にポケットティッシュを引き当てさせ、雰囲気を台無しにしている。営業課長なのに。やっぱコロンボだ。第一なんでそんな極端な空クジが入ってるんだよ。と思っていると、奥に展示されているデミオの横で、三歳くらいの女の子が、くじ引きの結果がマグカップだったことに不満で、父親を困らせているのが目に入ったので、「プーさんは好き?これあげる。落としちゃダメだよ。」と言って渡すと、満面の笑みでお礼をいい、何度も頭を下げる父親と一緒にぬいぐるみを持った手を振りながら店を出て行った。その瞬間、点検を待つ間に起こった一連の出来事により、どういうわけか試験で悩んでいたことがどこかへいってしまい、どうか、こんな平和な日常が、これからも続いて欲しいものだと思った。うまく言えないけど、こっちがありがとうと言いたい気持ちだった。オリンピックで結果を出せなければ拷問されるという天国と地獄が隣り合わせの北朝鮮と違って、日本は平和だ。天国も地獄も知らない平和な島国では、後期試験をパスできなければ死刑宣告、などと言うこともないんだ。それに、いくら試験が難しくても、「明日起きる主なニュースを書け」とかじゃないんだから、ならばもっと落ち着いて考えて、しかるべき努力はしなきゃなぁ。と、いう結論に達した。それにしても、この話、文章にする前の段階ではけっこういい話だったのに、実際書いてみると支離滅裂な虚言の数々へと姿を変えてしまった。「得たものもなにも、おまえ論文演習をしっかりとできてないじゃないか」と言われそうだが、「しかるべき努力」と、「自分をあまり卑下しないこと」、これが大切であると2年間の結論として思ったことである。くれる持っていて、その展示された作品についてある種の感慨を抱いて

和泉の2年間で得たもの

鮫島 千尋

 

和泉での大学生活が始まってから、もうすぐ2年が経過する。そんな中つい先日、高校主催の成人式に行ってきた。この課題とその成人式のせいか、急に卒業文集が読みたくなり、探してみたが、見当たらなかった。大切に保管していたはずが、いつの間にか消えていた。自分はだらしがない人間だと思うことは幾度となくあったが、改めて認識するはめになった。

大学というところは、どのような場所だろうか。高校時代の延長線上に位置するものだろうか。それとも今までとはまったく違うところだろうか。最初は何もかもが新鮮に感じられたが、ではその分何か新しいものを得ただろうか。

和泉での2年間を簡単に言えば、前半戦終了間際でイエローカード一枚。こんな2年間で、はたして自分はどのようなモノを得たか。それは、今までの自分を省みる時間と将来を考える時間。というより、のほほんと過ごしすぎたため、そういうことを考える時間が増えてしまった。思えば、今まで“なんとなく”過ごしてきた。強い意志を持って何かをやろうとした覚えはない。大学に入れば、今までとは周りの環境も変わるわけで、いろいろな体験をすることができた。また、様々な考え方の人々や、自発的になにかをやろうとしている人々にも出会えた。また、大学に入ってからしみじみ感じたことと言えば、責任の重さが、今までとはえらく違うということだ。何をするにも自分で責任を取らなければならない。この2年間は、“なんとなく”生きてきた自分に、軽いカルチャーショックを与えた。ここらへんで今までの自分を反省して、将来のためにも生まれ変わる必要があると思わなくもない。

結論を言うとこの2年間で、さまざまな新しいことを発見したが、それ以上に以前とあまり変わらない自分を発見してしまった。自分は成長したのかもしれないが、本質的なところは何も変わっていない。様々な出会いと体験は自分にいろいろなものをくれたが、今のこんな自分を変えようとは思わない。と言うよりむしろ、この和泉校舎での2年間の出来事があったからこそ、だらしないところも含めて今の自分のままであってもいいと思う。“なんとなく”で生きていく。現代社会で、このように生きていくのも良いのではないか。これからの後半戦も、レッドカードが出ない過ごし方でのほほんと戦っていく。こんな自分の道を突き進むことができれば、幸いだ。何度も言うようだか、2年間でさまざまな良いものを得られたと思う。とは言え、具体的に言ってみろと言われれば、ちゃんと答えられるかどうか疑問なのが悲しいが。まあ中には、今は分からなくても、将来この2年間で得たのだと理解できるものもあるだろう。この2年間で感謝したいのは、さまざまな体験によって自分自身を考えるきっかけをくれたことと、これからもこんな自分を貫いていこうと思わせてくれたことだ。