書評

Special Thanks To Mr.Hideo EDO

 

     (初出「古代文学研究第二次」第五号・古代文学研究会・1996.10)

著者の了解を得て、初出の漢字を一部変更。

 

上原作和著『光源氏物語の思想史的変貌−<琴>のゆくへ』江戸英雄

 

  物語史における『うつほ物語』と『源氏物語』、さらに宇治十帖から後期物語の音楽へ、という、物語文学史の展開と収斂のインター・コースに見られる音楽の、思想史的位相の解明を企図すると同時に、それら物語文学の言説と響き合う楽の音の関連性、とりわけ、<琴のこと>をメディアとする<物語文学の主題>を解き明かしたいという目論見を持っているからである。(一〇頁)

 

 一九九四年に出版された本書については、すでにいくつかの書評がある@。それらは、和漢の文献を見渡す出典調査の徹底、研究史への十分な目配りのうえでのテクスト論的アプローチによる論証、と本書の持つ魅力に対して評価する。「この論集の起点は、『うつほ物語』に秘伝の曲として記されている『胡笳』に関する漢籍を漁り始めたことに(一頁)」あるという説明や、先に引用した「目論見」から、<琴>による物語文学史の構築に挑む本書の<方法>がまず明確に理解されるだろう。 (「序 <琴>の物語/物語と<琴>の思想」)

 

  第一部 物語の楽の音

 

 例えば、親子四代にわたる琴(きん)の相承が語られる『うつほ物語』は、漢学者の持つような素養が下敷きとなり、その上に豊かな想像力が広がっている。このような物語を研究する場合、本書の<方法>は極めて有効だろう。そこで第一部の中から「『うつほ物語』比較文学論断章」の副題を持つ二編の論文を取り上げてみる。「琴曲『胡笳』と王昭君説話の複次的統合の方法について」という論文から見ていくが、特に重要な新見は「胡笳」に関するものである。

 第一に、『初学記』所引の『琴歴』の記述(「明君胡笳」)に関する、山田孝雄『源氏物語の音楽』以来の誤り(「明君、胡笳」)が訂正される。第二に、俊蔭巻以来の琴の秘曲「こかのこゑ」について、蔡●(=巛+邑)の「十八拍」、「明君胡笳」、あるいは胡笳曲の総称という三様の可能性が示され、『うつほ物語』の中の用例が検討される。ここでは特に内侍督巻の「胡笳」について、従来考えられてきた「十八拍」よりも、後に続く王昭君説話との関連などから、「明君胡笳」の方が蓋然性の高いことを示す。なお、「胡笳」のさすものは、曲名、奏法など、場面により一律ではないようだが、という三上満の批判もあるが、「序」(二〜三頁)の中で再検討している。そして第三には、内侍督巻の王昭君説話に関して中国の文献を見渡し、前半部を『西京雑記』『世説新語』等、散文からの取材、後半部は『文選』所収の「王明君詞並序」から派生した韻文、あるいは両者を摂取した琴曲からの取材であると調べ上げている(三五頁)。また、この論の成果は、第三節「光源氏の秘琴伝授」で更に発展される。すなわち、『源氏物語』若菜下巻の女楽で、女三宮の弾く「こかのしらべ」は、従来「五箇の調べ」と注釈されてきたのだが、「胡笳」であると批判され、王昭君伝承の「母子相姦」の<話型>と藤壺事件の類同性とが論じられることになる。

 引き続き、「金剛大士説話と朱雀帝・仲忠、問答体説話の方法について」という論文に目を向けたい。この論の出色は、内侍督巻の、「蓬莱の悪魔国に不死薬・優曇華取りにまかれ」の一節で有名な朱雀帝と仲忠の問答について、未詳と処理されてきた金剛大士説話を中心に充分な出典論的解釈を施したことである。更に、その修辞的な問答を、「物語史総括の論理」によって仲忠の父母である兼雅と俊蔭女との邂逅・別離・再会の物語を喩的に型取る<語り>ではないか(六一頁)と考えて、転換点と言われる内侍督巻の、新たな物語を構築していく機微を示したことも注目すべきであろう。「これは、その<語り>の構造が、『法華経』の構成方法として知られる<三周説法>を<話型>の型取りとして援用していた、言わば「複式構造」のテクストであることを指摘したことを契機とし、これを言説の方法論として物語史に定位させようとする試みであった(九二頁)」と振り返られるが、同様の試みは第四節「物語る光源氏」においてもなされる。そこでは特に『うつほ物語』楼上上巻の仲忠の琴論と『源氏物語』若菜下巻の光源氏の春秋優劣論の音楽論琴論との比較分析が行われている。

 以上、第一部から『うつほ物語』を中心とする論考について、本書の比較文学論的な特色を押さえながら取り上げてみた。「光源氏物語の思想史的変貌」というタイトルの本書であるが、私の思うその魅力の第一は本書が『うつほ物語』に関するまとまった論文集になっていることなので、既にいくつかの書評があるのをいいことに、わざと片寄った紹介をしてみる。ここで、第一部に関する私の覚書を記して、本書から考え、学んだことをひとまずまとめておきたい。

 先ず、「胡笳」に関する論考であるが、内侍督巻の王昭君説話については、中国文化圏の王昭君伝承だけでなく、日本の王昭君説話に対しても些か目を向けておく必要があろうA。例えば、『和漢朗詠集』「王昭君」には「胡角一声霜の後の夢、漢宮万里月の前の腸」という詩句がある。これは、蔡文姫等の「胡笳」の故事にある胡人の吹く「笛(笳)」と、王昭君が奏でる「琴(琵琶)」とが複合したものとして、「明君胡笳」から内侍督巻に至る王昭君説話の受容史の中に積極的に位置づけられるものではないかB。なお、後代の音楽説話集『文机談』の「王昭君曲事」には、王昭君に思いを寄せるあまり袖に蛍をつつむという逸話が見える。内侍督巻にも同じく、帝が俊蔭女を見ようと蛍を袖につつむ場面があり、内侍督巻と王昭君説話との関係については、今後注意しておくべき問題が残っている。 ところで、本書では「あしぶえ」をいう「胡笳」と「琴」の「胡笳」との関係が問題視されていない。本書で引かれることのなかった『芸文類聚』巻四四「笳」の項目を繙いてみると、「胡笳」は、「十八拍」にも引かれる「蔡●(=巛+邑)別伝」をはじめ、国境を越える出塞の声となって遊客の思いを動かしたり、懐土の涙が切なく流れ出たりする、かなしい調べが特徴である。第一部の第三節「光源氏の秘琴伝授」(八〇〜一頁)でも「胡笳歌」に類型的な貴種流離の要素が見られることは指摘されていた。遭難した遣唐使が遥かな西方から持ち帰った琴の調べである「こかのこゑ」は、西北方の異民族、胡人の吹く「胡笳」と響き合いながら、時に強く王昭君の説話をも想起させつつ、帰るべき異郷を喪った漂白者、俊蔭一族の郷愁の情を奏で、この物語の主旋律たりえているのではないかと私は考える。

 後者に関しては、朱雀帝と仲忠の問答が『法華経』の三周説法を型取ったものとなっているとの指摘、すなわち、総論=帝の弾琴要請、譬喩論=要請と拒否の譬喩譚、本論=俊蔭女への要請(六五頁)という見方の有効性が私にはあまり判然としない。というのは、三周のうちの法説・因縁説にあたる部分が本書の<読み>にはうまく取り入れられていないからである。同じことは第四節に関しても言えるが、<型取り>のそれにせよ、雨夜の品定に対する『花鳥余情』の読みに照らして(一〇六頁)もう少し考えてみる必要があろう。

 

  第二部 <琴>のゆくへ

 

 出典論的アプローチから物語の表現構造の分析に及ぶ比較文学論として論述されていた第一部を受けて、第二部では、「<琴>のゆくへ」と題される三つの論文を中心に、『うつほ物語』から『源氏物語』、宇治十帖そして後期物語に至るまで「楽統継承譚の方法」が究明される。特にテクスト論的視座を明確にした第二部では、書かれた文献を対象とする出典論的な位相を乗り越え、たとえば、論の射程を正倉院の「金銀平文琴」へと延ばすことに成功する。

 抑も、『うつほ物語』のあらましは俊蔭一族がその「楽統」をどのように受け伝えていくかにある。本書の<方法>の極めて有効なところは、王権あるいは仏法を象徴すると論じられてきた<琴>の主題に対する従来の見解を「<琴の御琴>そのものが物語の思想の<換喩>である(一二六頁)」と見做すことで乗り越え、テクスト論的立場から「物語の想像力」を見据えようとした点C、更にその思想史的位相を「金銀平文琴」で具体的に示した点にある。また楼上巻の、物語の大団円と言われる場面で、二つの秘琴の一つ「なん風」が練習用の琴である「ほそを風」になっている問題について、「『楼上』巻では、楽統継承譚の主題が<楽器>そのものから、秘琴伝授という<営為>に<差延化>される(一四四頁)」と読みとり、成立過程での矛盾と見るほかなかった従来の見解を克服している点も、「楽統継承譚」を論じた成果の一つとして評価できよう。

 同様の<方法>は、光源氏物語・宇治十帖を論じた二つの「<琴>のゆくへ」と題される論文でも見受けられる。「『源氏物語』における<琴>は物語の思想の<換喩>である(一五一頁)」と書き出される第二部所収の『源氏物語』関係の論文では、明石巻で光源氏が弾奏した「広陵散」に関する<話型>を起点(第三節)に、鈴虫巻における<琴>の「『王権を象徴する宝器』からの完全なる離脱(一六八頁)」までを読み込む(第二節)。但し、<方外之士>光源氏の叛逆の志を明らかにするあたりから<琴>と<王権>とを引き寄せ過ぎたために、宇治十帖を対象とした第五節では、「正編の<主題>と共に展開された<琴>と<王権>の物語は、宇治十帖では<王権>に対峙する物語として、正編の思想そのものはやはり相対化されつつある(二一一頁)」と指摘するものの、論調にはいささか停滞感がある。

 以上、第二部から、ふたたび『うつほ物語』に関する論文を中心に、本書のテクスト論的特色を示してみた。混在する思想が成立過程の複雑さと絡めて論じられたり、王権論として、あるいは仏教思想を読む立場で、さまざまに論じられてきた『うつほ物語』の主題<琴>について、物語の骨格とされる<家>の問題にも目配りをしつつ、総括的に論及した本書の成果は甚大である。敢えて欲張ったことを言えば、たとえば、<祝祭>の時空において<琴>の問題はどのように取り上げられるのかなど、更なる論考が期待されるだろう。

 ところで、かつて私も論文に書き、今もそう思うが、結局、琴は琴以外のなにものでもあり得ない。何かを書かずにいられないとしても、どのような音が聞こえるか、という果てしない想像力はとどまることを知らない。本書もまた、そのことに自覚的であり、琴曲に注目して振幅の大きな物語の想像力を思想史的位相において把握しようとした。とはいえ、<琴>と<物語>とがどう切り結ぶのかという最も切実な問題は最後に残るように思う。重要なのは、中上健次がその『宇津保物語』の中で「人の語る物語は琴ではなく琴を奏でる手の方にあり、琴も琴の音もそれはただここにあるだけだった」と書いていることである。本書から私がよく学んだことは『うつほ物語』から<琴>の主題を読もうとする者にとって過酷な、この反省である。『うつほ物語』から『源氏物語』へと、「<琴>のゆくへ」を追うにせよ、先ず押さえておくべきだったのは、<琴>を再生する<媒体>としての<物語>の有効性であったろうD。

 

      ◇      ◇      ◇

 

 『うつほ物語』の論考として読んだだけでも学ぶところは多い。ましてや、本書が『源氏物語』に対してすぐれた成果を挙げていることは言うまでもない。また、本書の最も注目すべき点は、物語研究の<方法>について非常によく考えている点である。新旧相容れずにいる現状に対して、それらをとりまぜて如何にして新しい物語学を構築すればよいのか、という問題意識が貫徹している。だから、研究方法について試行錯誤する人は特に、本書を読んで自分のスタンスについてよく考えなければならない。本書はその重要な契機となり、また指針をも示し得るだろう。

 なお、本書は「付説 <ものがたり>のゆくへ」で閉じられる。橋本治の『窯変源氏物語』を中心に近現代の『源氏物語』がテクスト論的視座で論じられる。しかし、そうではなくて、「<琴>のゆくへ」を副題に持つ本書ならば是非とも、中上健次の『宇津保物語』に言及して欲しかった。「<琴>のゆくへ」を追う旅は果てしなく続く。

 

(一九九四年十二月二十日 有精堂刊 二七八頁 定価八二四〇円)

 

@ 阿部好臣(『解釈と鑑賞』一九九五・十二)、関根賢司(『日本文学研究』一九九六・二)など。特に高橋亨(『日本文学』一九九五・九)は、第一部第三節に関して再度疑義を提出し、<隠喩><換喩><話形>といった術語の問題にも言及する。また本書の<方法>的な問題点をも指摘する。

A 岡崎真紀子「平安朝における王昭君説話の展開」(『成城国文学』一九九五・三)参照。

B 「十八拍」の引く『後漢書』「蔡●(=巛+邑)別伝」には、笳の音に感じ入った蔡文姫が、「胡笳に動るや、辺馬鳴けり」と詩を作ったとある。現行の注釈書はこれを注に挙げる。

C 注@前掲、高橋亨の書評参照。

D 三田村雅子「琴・絵・物語―紫式部にとってなぜ<物語>か―」(『源氏物語 感覚の論理』所収 一九九六・三 有精堂)参照。物語以前の琴への絶望を読み、示唆的である。

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