『源氏物語』 〜登場人物の体型と容姿〜        Text By瀬戸和美

 

◆『源氏物語』の身体描写の最大の特徴は、性格や生まれや育ちと関係していることである。近代文学なら当たり前の、この手法を積極的に取り入れたのは、『源氏物語』が最初なのである。

 

T 男性は長身の方がいいようだ(これは現代も同じだと思います)

  【長身な男君】

@光源氏

長身で細身である。そして、恋に面痩せした姿が、またいっそう優美でステキと描かれる。かなわぬ恋、危険な恋に生きる主人公は、こうであるべきだ、という設定である。

女が経済を担う(婿入り婚)母系社会の名残を引きずっているうえに、恋が重大テーマであった平安時代の女性にとって、好ましい男性の基準は、「経済力」や「たくましさ」という相手のではなく、「その人をずっと見ていたいか、恋をしてみたいか」といった自分の感覚優先で、よく言えば純粋、別の言い方をすれば、即物的なものだったようだ。

 

A頭中将

光源氏のライバル&親友である、左大臣家の息子・頭中将もまた「丈だちそぞろかにものしたまふ」つまり「長身」。しかし、若い頃、横幅に不釣り合いなほどに背の高かった光源氏が、中年になり、「やっと横幅が身長に釣り合ってきた」と描かれるのと違って、彼は「貫禄たっぷり肉が付き、大臣と呼ぶにふさわしい」とか、「ものものしく太って」と表現される。ここが、年をとっても「夕霧のような大きな子がいて、重い位に就いているとは思えない」とか「まだいと若き光君」と描かれる光源氏と一線を画すところである。光源氏が時の権力者・弘徽殿大后に須磨へ流された時も、世間の非難を恐れず、須磨に見舞った頭中将は、終始「ををしい」=「男らしい」性格とされ、むしろ後世の武士道的な価値観をもっていたようである。恋愛のために痩せるような、やわな男ではなかった。だから彼は、長い『源氏物語』の中でも、決して恋の主人公なかったようである。

 

B夕霧

彼もまた「丈だちものものしくそぞろか」つまり「身長がとても高い」という設定である。彼は父光源氏より、伯父の頭中将(彼の母・葵の上は、頭中将の妹)の血を受け継いだのか、「男男しい」性格とされ、中年になると伯父同様「貫禄たっぷり」な大臣になる。頭中将的な、高飛車で押しの強い、典型的政治家タイプに凝り固まっていくのである。その恋がやはり、『源氏物語』では主流になり得ないことは、落葉宮との関係のダサさによく表現されている。父と違い「マジメ」として名高い彼は、結婚相手も初恋の人・雲居雁である。しかし、どうしたことか中年なって、親友・柏木の未亡人・雲居雁に恋をしてしまう。しかし、そのやり方がとても光源氏の子とは思えないものであった。相手の迷惑も構わず押しかけ、無理矢理泊まっていくような強引さだった。その後も生活の援助といった実用的気配りは忘れないが、「今あなたは誰のおかげで生活なされているのでしょう?」と、相手の足下を見た、恩着せがましい一言を忘れない。挙げ句の果てには、彼女の召使達を無理矢理モノにした後、律儀に妻・雲居雁と落葉宮のもとに、月の半分ずつ通うという、ロマンの無い結末になる。彼にとって、初めての浮気は、恋と言うには程遠い、生活臭い落ちになるしかないのであった。

 

 C冷泉帝

彼もまた、小さい頃から、「年のわりには大柄」と描かれる。そしてのち、実父・光源氏と母・藤壺の画策で、光源氏の養女・秋好中宮と結婚する。この中宮は、光源氏を愛し恨みながら死んでいった六条御息所の忘れ形見で、小柄な人である。つまり、光源氏に最も愛された藤壺と愛されなかった六条御息所は期せずして、新郎新婦の母親同志の関係になる。皮肉な取り合わせだと思った。

 

U 紫式部の考える女性の理想身長

  【長身の人は気品があり、細身の人は優美である】      

 

 @明石の君

 ほのかな気配が、六条御息所に似ているとされる(御息所も長身だったのだろうか?)。御息所というのは父は大臣で、死んだ東宮のお妃という。最高の身分の女性である。しかも趣味・教養の深さは当代一として、世の尊敬を受けていた。その御息所に、受領階級の明石の君が、「似ている」と言うのだから、いかに彼女の教養と品が、身分のわりに傑出していたかが分かる。その性格描写は多いものの、身体描写は皆無と言っていい六条御息所と違って、明石の君の外見の描写は多い。その描写のほとんど全てが「優美」(なまめかし)や「上品」(あて)という表現に集約される。その優美な明石の君が長身であった。“身分に似合わぬ品があり、玉の輿の結婚をする女性”・・・貴公子に弄ばれ、あるいは日陰の女で終わるのではなく、ちゃんと結婚をして、子供を生み、結婚によって“階級移動”する。そういう女性を描く時、紫式部は、その女性の体格を「長身」に設定することが多い。

 

 A藤典侍

 玉の輿に乗った女性は、明石の君の他には夕霧の妻となった藤典侍の例がある。彼女は、正妻の雲居雁よりは「いますこしのびやか」(長身)だった。この場合、身分の劣る藤典侍の生んだ子供ほうが、雲居雁の生んだ子供より、そろってデキが良いというから皮肉なものである。

 もともと身分の低い女性が、上流社会の仲間入りをしたとき、社交界で馬鹿にされないためには、並の気品ではいけない。着物を身に着けたとき、近寄り難いほどさまにならなくては。そのためには、すらりと優美でなくては、と考えたのだろう。(この考えは、昔も今も変わらないと思う。)

 

 B中君

 長身の人の例として他に、宇治十帖の中君が挙げられる。中君は帝の三男坊・匂宮の愛妻に収まったうえ、たまのような男の子を生んで、妻としての地位は磐石となるのである。母系氏族制の崩壊も、終盤にさしかかっていた平安中期に財産管理能力のない貴族の箱入り娘にとって、頼りとなるのは親か夫だけである。しかも新婚家庭の経済は妻の実家が負担する。“婿入り婚”はいまだ機能しているから、親も財産もない女性に婿のなり手はなく、落ちぶれてしまう時代だった。皇族とはいえ、天涯孤独の貧しい中君が、匂宮の御子を生み、彼の正式な妻の一人として愛されるというのは、破格な幸運で、世間は彼女の結婚を「玉の輿」と見たのも無理はないのであった。玉の輿を果たした中君の体格は、「いとそびやか」つまり「とてもすらり」としていて、可愛らしくふくよかだったようだ。それが、父や姉の死という、度重なる不幸に加え、匂宮と六の君との結婚による心労や、また自分も出産したことにより「すこし細や」ぐのだが、もともと美貌の人なので、その姿がかえって優美で美しいと描かれる。痩せてひ弱な姉・大君が、妹に勝る優雅さと気高さを備えながら死んでしまうのに対し、姉より“長身”の中君が、人も羨む玉の輿に乗ったのだった。

 

  【理想の女は中背(=145pぐらい)】                

 

 @紫の上

低い身分でありながら、誰にも馬鹿にされずに、光源氏との娘・明石中宮の名誉を守った明石の君。顔は悪いが、理想的な穏やかな性格で、見事良妻賢母を果たした花散里。光源氏にうとまれたものの、当代一の教養人として世の尊敬を受けた六条御息所。光源氏たった一度の逢瀬をきっかけに、彼にとって忘れられない女となった空蝉など、『源氏物語』の女達は、誰もが、一種「理想の女性」の風格を備えている。しかし、妻として、子供は生んでないが母として、教養人として、女として、光源氏の理想を満たした女というと、紫の上をおいて他にはいない。彼女の体格は「おほきさなどほどに様体あらまほしく」というわけで、大きくなく小さくなく、中背だったようだ。

 

 A六の君

『源氏物語』で「ちょうどいい身長の人」とはっきり描かれるのは、紫の上の他にもう一人いる。それは宇治十帖んの六の君である。六の君は、夕霧が、かの藤典侍に生ませた姫君で、母の身分が低いために子供のいない落葉宮の手元で、お嬢様教育を受ける。そうして彼女は押しも押されぬ大貴族の令嬢として、匂宮の正妻になるのである。六の君の容貌は、宇治十帖でも随一なほど、最上級に描かれる。「丈はちょうどいいくらい。姿は実に美しく、髪の流れ具合、頭の形などが特に素晴らしいと思われる。肌の色は驚くほど艶やかで、重々しく気高い顔の、目もとはこちらが気がひけるほど洗練され、どこもかしこも整っていて、美貌の人と言って不足はない。二十歳を一つ二つ越えていらっしゃる。幼い年でもないので、未熟で足りない典もなく、鮮やかに今が盛りの花に見える。この上なく大切に、万全の構えで育てられたので、欠点などないのである。」と。

宇治十帖以前は、権勢家の令嬢にありがちな、思いやりのなさや傲慢なところが少しもない。最高級の教育を受けた成果がそのまま身についたような理想の女性なのである。理想の女性の体格は「ささやかに、あえかになどはあらで」つまり「小柄でか弱いところがなく」、背丈は「よきほど」つまり「中背」であると描かれる。

 

 V 『源氏物語』に登場する女性はブスが多い

●『源氏物語』には、器量の悪い女性が多く登場する。しかも『源氏物語』のブスの凄いのは、『源氏』以前の物語では“主人公の妻”の座を獲得している点なのだ。

 

 @末摘花

『源氏物語』でブスと言えば、この人を置いて他にいない。光源氏が白日の下、初めて彼女を見たときの姿は、「まず、座高が高く、背中が長く見えるのが、第一にみっともない点だ。次に、“なんと見苦しいのだろう”(=あなかたは)と見えるのは、鼻だった。普賢菩薩の乗る象みたいなのである。異様に高く伸びていて、先端が少し垂れて色づいているのが、ことのほかイヤな感じである。肌は雪も顔負けに白く青みがかって、おでこはとても長いうえ、扇で隠した顔の下にもまだ顔の続いているのを見ると、びっくりするほど長い顔なのだろう。しかも痩せていることと言ったら肩の骨が、着物の上から痛々しく透けて見えるほど。」その姿を見た源氏は、「どうしてこうも一つ残らず見てしまったのだろう。」と悔まれるものの、物珍しさにジロジロ見ないではいられないというくらいのひどい顔なのである。その上末摘花は、召使が逃げ出し、泥棒さえも避けて通るほどの貧乏で、歌も素早く作れないほど鈍くさいのだった。醜く・貧しく・鈍くさいという空前のブスなのである。

 ※紫式部のブスに対する表現は、容赦なく、あまりにもひどいと思う。それにブスに限って、美人を描くよりも具体的に書いていると感じた。

 

 A空蝉

光源氏に「忘れられない女性」として思われ続けるという役をあてがわれるこの人も、末摘花に負けない器量である。彼女が夫の赴任中、身を寄せていた継子の家な、光源氏が方違えに訪れた折、空蝉を人妻と知りながら好奇心から、彼女を犯してしまう。そこでは暗くて顔を見ることができないが、女はなかなか奥ゆかしい、それでいて意志の強い人と分かる。その後も、手紙を送ったり、再度屋敷を訪ねたりするが、空蝉はいっこうに応じる気配はない、すると源氏は意地になって、また屋敷を訪ねるという状態が続くが、結局彼女は源氏に忘れられない程度の消息を送りつつも、決してなびくことなく終わってしまう。彼女がここまで源氏を拒んだのは、彼を嫌いだったからではなく、「私が彼にのめり込んだところで、飽きられれば、人妻しかも受領程度の妻であるのをいいことに何事もなかったように捨てられるのが関の山。傷つくのは私なのだ」という自己防衛本能とあまりにもまばゆい光源氏のためであった。空蝉は、身分だけでなく、容姿にもコンプレックスを感じていたのである。光源氏が三度目に彼女を訪れ、灯火のもとで覗き見た、彼女の姿は、「頭の格好が細く小さく、見映えのしない姿で、手つきは痩せ細っていて」「目は少し腫れた感じで、鼻もくっきりしたところがなく、老けていて、肌にも艶がない。どちらかというと、悪い部類の顔だ」と言う。そんなブスの一人の空蝉だが、彼女は“感じのいいブス”で、理性・センス・たしなみで、美人の軒端荻に勝る評価を得ている。しかし、彼女がかなり器量が悪いと源氏に思われていたことは、彼が彼女と末摘花をしばしば比較することからもわかる。末摘花の醜さ・貧しさ頭の悪さを初めて見たとき、彼はこう言う。「あの空蝉もひどい器量だったが、身だしなみに隠されて、捨てたものではなかったのだ。末摘花は、身分では空蝉に劣らないが、なるほど、女の善し悪しは身分にはよらぬものだな」と。末摘花と比較の対象になっている点に、空蝉のブス加減が表れている。

 

  B花散里

第三のブス・花散里は、光源氏の父の后・麗景殿女御の妹君という高貴な身分ながら、頼る当てのない身の上、そんな彼女を源氏が妻として屋敷に迎えたのは、そんな境遇への同情も一つにあった。この花散里は、「こんな人でも、父は見捨てないのか」と養子となった夕霧が、驚くほどのブスだった。にもかかわらず、源氏が相応の待遇を惜しまなかったのは、優れた女性の多い『源氏物語』の中でも、とりわけ彼女の性格が、光源氏にとって好ましかったのである。源氏の援助で暮らす弱みもあってか、彼女は、源氏が滅多に訪れなくても、恨んだり他の男に走ったりしない。おっとりと穏やかで、それでいて実に聡明で、「私はこの程度の宿世の女だから」と、与えられた運命を淡々と受け入れるような女だった。葵の上の生んだ夕霧や、夕顔の忘れ形見の玉鬘を“養子”として託されるという、実に男にとって「都合のいい女」だったわけである。

彼女の体格は、花散里が、紫の上の次に尊重されたという地位のせいか、末摘花や空蝉ほど厳しく描かれてはいない。

 

  感想と結論

私は今まで、登場人物の容姿は、『あさきゆめみし』に描かれているものが印象に強く、それを想像していたけれど、調べてみると意外に違っている点があるのだと思った。『あさきゆめみし』にでてくる女性は、末摘花と花散里が目立って区別できる以外、その他の女君は、見分けにくく、美人に描かれている。

『あさきゆめみし』では、空蝉は美しく描かれていたような気がしたけれど、実は、末摘花にも劣らないほどのブスであったというのには驚いた。

また、ぽっちゃりというイメージのあった花散里が実は小柄で痩せすぎのブスだったことも意外だった。

この時代は、食べ物もあまりなかったことだし、太っている人のほうが貴重がられたのではないかという私の考えは全く正反対でした。男も女も太っているよりは、ほっそりとした人のほうがモテたようだ。

でも、紫の上や中君が心労で痩せ細ってしまった姿がかえって優美で美しいと描かれているけれど、末摘花などは、細すぎてイヤだと書いてある。よって、体型よりはまずは顔なんだという結論に至った。