『源氏物語』の六条院            Text By 佐波佳名子

 

光源氏の六条院は『宇津保物語』の神南備種松邸の四季の陣を模したもの、と『河海抄』はいう。しかし、種松邸が豪奢な空想の館にすぎないとの印象を受けるのに対して、六条院はまことに現実的な立地と結構を示している。そうかといって、実在した邸宅にモデルがあったわけではなく、作者が中宮彰子と共に住んだ里内裏の一条院、道長の京極土御門殿、枇杷殿、あるいは東三条殿もその創作上の素材の一つにすぎない。六条院はおそらく先行物語の四季観の造型に触発された作者が、これらの邸宅や、実際の生活体験はないが熟知はしていた本宮内裏の殿舎・庭園景物のイメージを類まれなその想像力をもって再構築した世界ということができる。         

 

諸門  藤原宗忠の『中右記』に、公卿某々の邸宅について、「如法一町家、左右対・如法一町家之作也」とある。これは平安後期の記録であるが、中期の寝殿造の実例に徴しても概ねそうなっている。したがって正門は東西に設ける。もっとも里内裏の一条院では本宮に準じて南を正門としているし、摂関家の土御門殿の南門も重要な役割をもっていた。『源氏物語』の六条院想定平面図では、東南と東北の町は東の京極大路に面して、西南と西北の町は西の万里小路に面してそれぞれ正門を開き、北の六条坊門小路には東北と西北の町の北門、邸内ほぼ中央を南北に走る中の廊の北門を設け、さらに六条大路と京極大路には、保守管理、諸物搬出入のための南門と馬場末門を想定してみた。西北の町を除く各町の正門は四脚門とし、その他は棟門とした。

「六条院推定復原図」で奇異の感に打たれるのは、まず東北の町の東門がないこと、またその代りに六条坊門小路に面して北門(四脚門)を設けていることである。その理由は、御殿の東面は馬場であるから、「埒があっては、人馬車の通行に都合がわるかろう。」とする。埒は『年中行事絵巻』第八「騎射」の場面に見られるもので、木や竹などを結ってつくる仮設的な柵である。常設したとしても、普段は通路となる部分を取り除けておけば済むことであって何ら不都合はないはずである。道長の土御門殿(長和五年焼失前)の東面にも六条院と同じく南北二町にわたる馬場があったが、それは東門から東中門への通路を横断していた。 対・中門・廊 南の御殿の西の二つの対については、「若菜上」の巻の女三の宮降嫁の段に、

若菜まゐりし西の放出に、御帳立てて、そなたの一二の対渡殿かけて、女房の

 局々まで、こまかにしつらひ磨かせたもえり

とある。六条院を准太上天皇となった光源氏の皇居と見る『源氏物語』の六条院想定平面図では寝殿は内裏の紫宸殿ないし仁寿手殿、一の対は清涼殿、二の対は後涼殿に準ずるものと考え、一二の対を東西四十丈(約一二〇メートル)の敷地の東面に馬場を設けると、東西幅がその分だけ狭くなって、西の対は西北に置かざるを得なくなり、二つの対は前後に並ぶことになる。しかし『源氏物語』の六条院想定平面図のように、六条院中央を南北に走る富小路を東南の町に取り込めば、並列配置は十分可能なのである。さらにもう一つ物語本文の例であるが、源氏が夕顔を連れて皇室御料の某院にやってきて、西の対を御座所とする。そこには物怪が現れるところ。「夕顔」の巻に、

 西の妻戸に出でて、戸を押し開けたまへれば、渡殿の灯も消えにけり。

とある。西の対の西の妻戸の向こうに渡殿があるということは、その前方に二の対が存在したことになる。これも傍証とすれば、『源氏物語』の六条院想定平面図の対の配置は一応妥当なものだといえる。

中門はいわば玄関であるから、道路に面した正門あっての中門ということができる。『年中行事絵巻』の「闘鶏」と「大臣大餐」の画面には正門前で待機する従者と牛車の様子が描かれている。こういう場所や侍所・車宿ていった付属施設のない中門はそもそも中門としての用をなさない。『源氏物語』の六条院想定平面図はこの原則にしたがって、京極大路と万里小路に面してのみ各町の正門と中門を設けた。だが一つの例外として南の御殿の西の中門がある。「藤裏葉」の巻に、

 未下るほどに、南の寝殿に移りおはします。道のほどの反橋、渡殿には錦を敷 き、あらはなるべき所には軟障をひき、いつくしうしなさせたまへり。……山 の紅葉いづ方も劣らねど、西の御前は心ことなるを、中の廊の壁をくづし、中  門を開きて、霧の隔てなくて御覧ぜさせたまふ。

とある中門がそれである。この場合、見る者は南の町にあって、中宮の町の紅葉をはるか遠くに眺めるのであるから、当然のことながら、中の廊と中門はその中間に位置する。しかも視界は前方に広がるのである。中門を額縁に見立てるのであれば、その枠内の視覚に入る前方の障害物を取り除いたと理解すべきである。故に『源氏物語』の六条院想定平面図では「中門」を南の御殿の西中門とし、「中の廊」を六条院を東西に分ける中央の廊と想定した。

 

遣水 『紫式部日記』のはじめに「例の絶えせぬ水のおとなひ」とあるように、土御門殿の遣水は東渡殿の下の泉から南池 へと流れている。平安後期成立の『作庭記』にも、「経云、東より南にむかへて西へ流すを順流とす。西より東へ流すを逆流とす。然れば東より西に流す。常事なり」と記すから、「少女」の巻の「涼しげなる泉」は東の御殿の東渡殿のあたりとまず考えられる。ところが「篝火」の巻に「いと涼しげなる遣水のほとりに」とおる。場面は西のついであるから、西渡殿の下を流れているのであろう。これも「藤裏葉」の「中門」と同様に、源氏と玉鬘が寄り添う情景の効果を高めるために、篝火に遣水といいう景物を書き加えたのかもしれない。よって『源氏物語』の六条院想定平面図では、常事も尊重し、東西双方に遣水があるものとした。

 

寝殿・対 六条院の南・東・西の御殿の寝殿および対の平面規模は、土御門殿の実例に照らして、標準的な「五間四面」を基本とするものである。この表記は桁行五間、梁間二間の母屋の四周に一間の廂をめぐらすという意味で、建築史ではこれを「間面記法」とよんでいる。つまり「間」は柱間、「面」は廂を表し、梁間は二間と定まっているので、省略するのである。「紅梅」の巻の「七間の寝殿、広く大きに造りて」も、この母屋の桁行(東西)を七間としたと解すべきである。同様に、北の御殿の「大きなる対二つ」(若菜上)についても、柱間を特に一丈五尺(他は一丈)としている。寝殿造では、柱間の寸法を一丈あるいは九尺と決めていたからこそ、柱間の数をもって平面規模を表すことができた。

 『年中行事絵巻』の東三条殿を見ても分かるように、寝殿と対は床高に格差を設けていた。『源氏物語』の六条院想定平面図では、寝殿の母屋で四尺、故に南階は五級(段)、対は約三尺、階は三級とした。廊は、中門廊部分を板敷、その他は磚敷の土間である。

 

塗壁 寝殿造は『礼記』『儀礼』などに記する正寝に範を仰ぎ、これを国風化したものとする立場から、塗籠は寝殿に不可欠の部屋である。それは当初中国に倣って「室」とよんでいたように、文字どおり土壁で囲んだ密室で、戸口は一か所であったが、儀式や日常生活の都合から、しだいに開放的なものに改造された。清涼殿の塗籠(夜御殿)には四方に戸口が設けられていたし、土御門殿の寝殿の塗籠でも、南・西側は枢戸、北廂側は障子であったようだ。それでも塗籠と称していたのは、その聖所としての機能性が重視されていたからである。

南の御殿の寝殿においても、「若菜上」の巻、玉鬘の源氏四十賀の室礼に、「南の殿の西の放出に御殿座よそふ」とあるので、塗籠の西廂境は障子としておく。