『阿仏尼本 はゝき木』 勉誠出版 2008年10月 刊行


「幻の伝本」の出現/千年紀の稀に見る僥倖     

上原作和  勉誠出版『阿仏尼本 はゝき木』パンフレット草稿

 阿仏尼本は、河内学派の古註釈に定家本と共に参照された有力伝本である。伏見宮家、紀州徳川家を経て、昭和初期、民間に流出し、幻の伝本となっていた。この間、山岸徳平・池田亀鑑らが調査に鎬を削ったが、全五四帖の解明は未了であった。東洋大学本は、分割された正真正銘の一巻であり、抹消しての重ね書き等の様態は垂涎の研究資料である。

本書の出現は、源氏千年紀の慶節にあって、稀に見る僥倖の到来であると言えよう。


前言

(2008年10月/2009年09月10日/2010年11月07日/2012年9月28日補訂)

 以下の文章は、考証と研究の進展の結果、初出稿に数点の誤りが発見されました。@山岸徳平・三谷栄一の一説をそのまま引用して、「戦国の世を経て後、豊臣秀吉の所有として大坂城にあったこと、さらに落城とともに徳川家康の手になって後、紀州家に分与されるに到った」としていた点。A「その後、時代は移り代わって、大正十四年の紀州家売立の際に、英国籍インド人貿易商モーデ氏の所有となった」と記していたうち、この売立が大正十四年ではなく、昭和二年であったことなどです。そこで、これらの記述を本文では補訂削除しました。(2008年10月/2012年9月)

 阿仏尼本の伝来は、その後の調査によって、以下のように類推されます。まず、鎌倉期、阿仏尼、飛鳥井雅有の時代に伏見天皇、もしくはその仙洞・持明院殿、あるいは後年、ゆかりの伏見宮家に献上された。ついで、江戸時代に入って明暦三年(1657)、紀州徳川家二代当主・光貞(1627〜1705)の許に伏見宮安宮照子が輿入れの際に持ち込んだ嫁入り本となっていた事実が判明しました。これが阿仏尼本を紀伊徳川家本と呼びならわすゆえんです。さらに、関東大震災の直後、東京飯倉にあった紀州家南葵文庫の蔵書は東京帝国大学に移管されましたが、貴重書や重要美術品は頼倫侯愛蔵品として手許に残されました。とりわけ、重要伝本であることが判明した阿仏尼本帚木巻他数冊は武田祐吉によって調査のため借り出されていたため分冊状態となり、蒔絵箪笥等の本体売却後、南葵文庫の司書・高木文の所蔵となりました(高木の蔵書印/賜架書屋)。それら数冊を除く阿仏尼本は、昭和2年(1927)4月4日、「紀州徳川家蔵品展観」の売立に際して、「梨子地源氏歌書蒔絵箪笥 源氏物語(伝阿仏補筆数冊)在中」として、3519円で落札したモーデ(Naoroji.Hormusji.mody(1873〜1944))氏の所有となっていたことが明らかとなりました(山岸、石田氏はモーデ、松田氏はモディと表記。正確には後者)。この事実は、松田氏が池田亀鑑に同行して行われた大阪・平瀬本の調査の直後、その足で神戸に赴いたものの閲覧は叶わなかったとする回想録から、池田亀鑑一行の訪問が昭和5年(1930)のことであり、池田自身の回想とも重なり合うことによって、これが証されます。

 したがって、阿仏尼本と蒔絵箪笥本体は、モーデ氏に、帚木巻他数冊は高木文の賜架書屋へと分蔵されていたことになります。モーデ氏は、戦時軟禁中のオリエンタルホテルにおいて、昭和19年(1944)2月10日、骨董商らに看取られながら脳溢血で死去しました(享年72歳)。遺されたモーデコレクションは敵性資産を管理していた住友銀行から神戸の森本倉庫に置かれていましたが、残念ながら昭和20年(1945)3月、6月二度の神戸空襲により灰燼に帰したようです。いっぽう、賜架書屋の蔵書も散佚し、帚木巻のみが21年間の空白期間を数えて、昭和41年(1966)年5月の古書売立会に出現し、東洋大学の所有となったわけです。高木文の戦後の消息は不明です。(2012年09月)

 詳しくは、以下の参考文献Uをご覧ください。

○高木文「賜架書屋随筆」『書物展望』第5巻第8号(通号第50号)、書物展望社、1935年(昭和10年)8月

○池田亀鑑「學術資料の佚亡とその對策」『花を折る』中央公論社、1959年、初出「文学」1951年9月

○松田武夫「訪書の旅」『訪書の旅・集書の旅』日本古典文学会、1988年

○上原作和「伝阿仏尼等筆本『源氏物語』と本文學藝史―紀州徳川家旧蔵本は駿河御譲本にあらざるの論 」「解釈と鑑賞/特集・『源氏物語』危機の彼方に」至文堂.2008年05月

○上原作和「<戦国時代>の『源氏物語』本文史研究」『テーマで読む源氏物語論 A本文史学の展開/言葉をめぐる精査』、勉誠出版、2008年

○久保木秀夫「『源氏物語』紀州徳川家旧蔵本の行方」「中古文学」第85号、中古文学会、2010年6月

○上原作和「伝阿仏尼等筆本『源氏物語』傳來史 」『光源氏物語傳來史』武蔵野書院.2011年11月

○「阿仏尼本源氏物語」 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

○「1944(昭和19)年2月10日「時計」の収集家H.N.モディ氏,オリエンタルホテルで死去」出典:『神戸市史 第三巻 年表索引』神戸市文書館

○「森本倉庫株式会社・沿革」「モディ・関連記事」 「高木文・関連記事


幻の伝本をもとめて  伝阿仏尼等筆『源氏物語』とその周辺   

(初出「物語研究会会報」28号 物語研究会、1997 年08月)           

    書物との邂逅

 

 私は、数ある『源氏物語』伝本群において、いわゆる阿仏尼本『源氏物語』ほど、数奇な運命をたどった伝本を他に知らない。この伝本を私が知るようになったのは、池田亀鑑の『花を折る』の中で、次のように紹介されていたからである。

 

 戦争前、源氏物語の古写本を探して全国を歩いていたころ、今日でも忘れられないことがある。それは、ある道具屋の世話で一外人の手に渡った源氏物語に関してである。その古写本は、鎌倉時代の中ごろ、当時の学者や文人達が分担して書いたもので、非常にめづらしい系統のものであった。買い主の外人は、実は蒔絵の箱の方が気に入って買ったのださうだが、ぼくとしてはもちろん本の方が問題だった。何とかしてその本文をしらべて置きたいと、あらゆる誠意と手段をつくして、道具屋のいふとおり何べんとなく懇請の手紙を出したのだが、当人は決してみづから手紙はよこさなかった。

 

 結局、池田亀鑑は、その外人の住む神戸のオリエンタルホテルまで出向いたものの、かなり理不尽で屈辱的な扱いを受けた上、伝本の閲覧は許されなかった記憶を綴っている。この阿仏尼本に池田亀鑑が拘った理由は、終生のライバル山岸徳平が、佐々木信綱の命によって武田祐吉が活字本に校合したかたちでの本文を入手済みであったことも、大きく影響しているのではなかろうか。藤原定家の家の証本・青表紙原本の本文再建こそが、『源氏物語』の紫式部自筆原本に最も近接しうる本文批判の方法論であるという現在も広く信じられている池田説が、徐々に醸成されつつあったこの時代にあって、定家嫡男・為家の側室であった阿仏尼の所持にかかるというこの伝本の調査は、『校異源氏』の資料収集に奔走中の池田亀鑑にとって、必須の課題であったに違いないからである。

 池田・山岸の青表紙本再建へのそれぞれの道程をここに記す余裕はないが、今日、山岸徳平の採用した、三条西家旧蔵の青表紙証本は、実際には純粋な定家本というにはほど遠く、時には河内本・別本本文も混在する混態本文であることが実証されており、したがって、三条西家証本をさらに諸本によって校訂した、岩波書店刊行になる旧版「日本古典文学大系」本文に依拠して学術論文が書かれることは今日ほとんどなくなったのである。いっぽう、定家本再建を究極の目的とした池田文献学もまた、阿部秋生の検証によって、定家本そのものが、実は一本ではなく、数種の定家本が存在することが知られるようになると、この方法論そのものもまた、平安朝にまで遡及しうる唯一絶対の方法論足り得ないという事実が明らかになったのである。

 したがって、定家本の本文再建においては、たとえ数種に分かれる定家本の一本を復原しえたところで、その本文が平安朝伝来の伝本であるか否かを保証する手段がないのである。そこで、再建本文の信頼度を保証しうる、より確かな伝来を有する証本が必要となったわけである。それゆえ、必然的に由緒ある伝来を伝える阿仏尼本の存在がクローズアップされて来よう。そもそも、阿仏尼本の伝来は、『紫明抄』に河内本を校訂した源親行によって、阿仏尼所持本を批評する記事が見え、その古態性は夙に知られていた。しかも、『原中最秘抄』(これは俊成卿の娘の記事として)や『紫明抄』の伝えるところを信ずるならば、藤原行成所持および俊成卿所持の本文は、ともに桐壺巻の『白氏文集』の一節「太液の芙蓉、未央の柳」の「未央の柳」にミセケチがあると記録される。これは『紫明抄』夕顔巻の「ふくいとくろくして」の条で「(阿仏御前の)もたせ給へる御本は故三位殿(俊成卿)の御本にては候はず、そのゆへは『太液の芙蓉、未央の柳』とかきて『未央の柳』一句をみせけちにどどめて候に、これ(阿仏尼所持本)は二句ながらならべてかかれて候」と記されている。阿仏尼所持本の本文は「太液の芙蓉、未央の柳」が並列し、ミセケチがない点に於いて、行成本、俊成本に対立するものの、ミセケチによって「未央の柳」そのものを削除した河内本とは異なり、『原中最秘鈔』の伝える「京極中納言入道が家の本(定家本)」に一致し、青表紙本の現存最善本である明融臨模本より時代的には優れることとなるのである。しかも俊成本のミセケチは、『紫明抄』では俊成本人、前掲『原中最秘鈔』では俊成卿女の見解として、「侍従大納言行成卿本」のミセケチも構文的な解釈レベルの処置であり、ミセケチを忠実に書写する必要性はないと述べている。つまり、ミセケチがないことで、阿仏尼本の本文が「定家本」に連なる正当性を証していることになり、かつ、ミセケチを有する「行成本」「俊成本」もまた、本文系譜上、宗本(系譜最上位の祖型本文)に糾合し得る可能性を有しているのである。

※※ ※※ 補注;2008年に紹介された飯島本『源氏物語』「桐壺」巻は、まさしく「未央の柳」にミセケチのある本文で、いわゆる別本であり、「帚木」巻のミセケチ、補入は阿仏尼本に最も近接する本文である。

                  ***

 さて、その阿仏尼本の伝来であるが、以上の源氏古注と、飛鳥井雅有の『嵯峨の通ひ路』に記録がある他は、中世の動乱期の消息は一切不明である。一説に、豊臣秀吉の所蔵にかかり、徳川家康の駿河御譲本となって紀州徳川家、大正末年の売立を経て英国籍のインド人貿易商モーデの所有となったとする説が流布していたがこれは完全なる謬説である(上記「前言」参照)。

 いっぽう、モーデ氏所有となった昭和2年(1928)以降の蒔絵箪笥ならびに伝本本体の伝来は、先の池田亀鑑・松田武夫両名それぞれの回想の記述に重なり、これは動かぬ事実である。ただし、微細な誤伝があり、山岸氏は、戦後モーデ氏が他界し、阿仏尼本も住友銀行に預けられたと記していた点である。実際のモーデ氏の逝去は戦中の昭和19年(1944)2月10日であったわけで、このことは修正点である。しかしながら、当局の適正資産の住友銀行寄託は事実であり、山岸氏の情報収集力の確かさが実証された。さらに山岸氏が阿仏尼本に固執し、昭和25年(1950)頃、神戸市学事課に阿仏尼本の消息を尋ねるも不明との返答があったというエピソードもまた、戦後の混乱期のことであって、空襲による焼失を裏書きするようである(上記「前言」参照)。その後も、武田祐吉・三谷栄一・室伏信助・さらに最近でも伊藤鉄也氏らの調査と、それに纏わるそれぞれ先学のこの伝本に賭けた熱いドラマがあったことは私も仄聞しているが、今は記さない。

 ところが、ある時、源氏学びの頃、その一本と考えられる帚木巻だけは、石田穣二『源氏物語論集』の記述から東洋大学に所蔵されていることを知った私は、おそるおそる当時の所属大学図書館長名の閲覧願いを提出したところ、思いがけず、まさに幻のこの伝本と対面する機会を与えられたのであった。この道に迷い込んだ私にとって、この幻の伝本を繙くことは、まさに最上の至福の一瞬であったと言っても過言ではなかった。

 

    阿仏尼本覚え書き

 

 東洋大学所蔵の阿仏尼本は、蒔絵の箱に納められており、さらにその表書きには、

  阿仏筆源氏物語/伏見宮安宮照子殿下明暦三年十一月廿六日/紀伊中納言光貞卿御降嫁之節御持込

 

と記されており、山岸徳平の推定した伝来とは異なるものであった(上記「前言」参照)。そこで、これは、駿河御譲本の阿仏尼本ではないとする説も出されたが、山岸の残した阿仏尼本の帚木巻逸文12例(山岸『大系』、島津『講話』校合本文)から、これが同一の本と確認された(上記「前言」参考文献U上原論文参照)。この本文特性について石田氏は、「純度の高い青表紙本」と評しているが、さらに私は、この阿仏尼本こそ、青表紙本と一括される伝本群において、東海大学蔵の伝明融等筆『源氏物語』の依拠した本文(すなわち宗本)である可能性が大であること、さらには、古代学協会蔵大島雅太郎旧蔵本の本文の欠を補いうる、現存帚木巻諸本の最善本であることを、わずか数例の報告ではあったが、中古文学会春季大会(白百合女子大学・1994年5月28日)で報告、指摘しえたのであった。とりわけ、本文系譜が阿仏尼本が他の諸伝本に先行し、絶対に逆転不可能な一例は動かしがたい事実である。さらには、帚木巻のみに関して言えば、青表紙本系統の本文が、阿仏尼本に見える書き入れ本文をもすべて取り込んだ上での最終的な再建本文をもって、一本に遡及しうる可能性を秘めていることを確認しえたものと思われる。つまり、結論として、この再建本文の試みによって、この伝阿仏尼筆本帚木巻本文は古伝本系別本第一類(定家本以前伝来)の一本であり、青表紙本の宗本の可能性が濃厚であることを報告したわけであった。

                   ***

  文永6年(1269)9月17日、飛鳥井雅有は『嵯峨のかよひ路』の中で、中世源氏学を継承する御子左家の、しかも当主藤原為家から『源氏物語』の講釈をうけ、その時、妻の阿仏尼が音読するようすをつぎのように記している。

  十七日、昼ほどに渡る。源氏始めむとて、講師にとて女あるじをよばる。簾の内にて読まる。まことにおもしろし。よのつねの人のよむには似ず、ならひあべかめり。若紫まで読まる。夜にかかりて、酒飲む。 (本文は飛鳥井雅威筆天理図書館蔵本による)

 このような調子で、十一月二七日には、「手習ののこり、夢の浮橋果てぬ」とあって、わずか二月あまりで源氏を読了しているのである。これは講釈と言うより、本文の校合に近い方法ではなかったかと思われる。それゆえ、複数の筆跡の校合が見られるわけである。為家の文芸サロンにあった『源氏物語』の証本とはいかなるものであったのか、それは断定は避けなければならないが、極めて純度の高い伝本であったことは疑えない。なにしろ、かの『大島本源氏物語』が、雅有の嫡流、飛鳥井雅康本の右筆による二種類の転写、寄合書きであると佐々木孝浩によって認定され、しかも複製本を制作するがごとき、精密な書写態度であることを考え併せると、大島本はただ大内氏の用意した一伝本(雅康本)を書写したというより、むしろ、阿仏尼本と大島本の近似値が高いことのほうが重要なのであって、大島本は、阿仏尼本の、というよりむしろ、藤原為家・阿仏尼の伝授した御子左家の源氏学を継承した、その飛鳥井家の秘伝を伝える本文なのではなかろうか、と私は思わずにいられないのである。とするなら、私の過往への、あの文永年間の『嵯峨の通ひ路』の時代への強い憧憬の思いは、いやがおうにも、かきたてられてしまうのである。         

参考文献 T

  ○池田亀鑑『花を折る』中央公論社、1959年

  ○石田穣二『源氏物語論集』桜楓社、1971年

  ○石田穣二「東洋大学図書館ニュース」第二号、1966年10月

  ○山岸徳平「源氏物語の諸本研究」『物語随筆文学研究』有精堂、1972年

  ○松田武夫「夢の浮橋」『国語と国文学』34巻2号(池田亀鑑博士追悼号)東京大学国語国文学会/至文堂、1957年

  ○伊藤鉄也『源氏物語受容論序説』桜楓社・1990年

  ○伊藤鉄也『源氏物語本文の研究』おうふう・2002年

  ○上原作和「青表紙本『源氏物語』伝本の本文批判とその方法論的課題−帚木巻における現行校訂本文の処置若干を例として」

「中古文学」55号、中古文学会、1995年5月

  ○上原作和「青表紙本『源氏物語』原論−青表紙系伝本の本文批判とその方法論的課題」

(王朝物語研究会『論叢源氏物語4 本文と表現』、新典社、2002年→『光源氏物語學藝史 右書左琴の思想』翰林書房、2006年所収)

  ○浜橋顕一「伝阿仏尼筆帚木の本文について」(王朝物語研究会編『論叢源氏物語 1 本文の様相』新典社、1999年)

  ○大内英範「高木本(伝阿仏尼筆帚木巻)の書写方法」

(久下裕利・久保木秀夫『平安文学の新研究―物語絵と古筆切を考える』新典社、2006年所収、→『源氏物語 鎌倉期本文の研究』おうふう、2010年)

  ○佐々木孝浩「「大島本源氏物語」に関する書誌学的考察」

(藤本孝一,佐々木孝浩,加藤洋介,片桐洋一,加藤昌嘉,中古文学会関西部会(編)『大島本源氏物語の再検討』(和泉書院、2009年所収、初出「斯道文庫論集」 41号、慶應義塾大学斯道文庫、2007年)

  ○阿部秋生『源氏物語の本文』岩波書店、1986年

  ○角田文衛・室伏信助監修『大島本源氏物語』角川書店、1996年

  ○玉上琢弥編・山本利達校訂『紫明抄・河海抄』角川書店、1968年

  ○池田和臣編『飯島本源氏物語』第一巻、笠間書院、2008年