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竹田和夫インタヴュー:フェリックス・パパラルディとの思い出


伝説のギタリスト

あのクリエイションの……

竹田“Flash”和夫

***パパラルディ・ドット・コム主宰者 KcDog との対話***




聞き手:デイヴ・オルブライト(Pappalardi.com)/翻訳:赤塚若樹

このテクストはパパラルディ・ドット・コムで発表されたインタヴューの
翻訳であり、公開にあたっては同サイト主宰者から許可を得たほか、
竹田和夫氏自身にテクスト校閲をしていただいている。(2000.12.13)





kcDog:竹田さん、最近はいかがお過ごしか教えてください。どこでお暮らしで、どんな活動をなさっているのでしょうか?

竹田和夫:いまロスにいて、自分の(ジャズ&ブルースの)バンドでプレイしています。ほかに、こちらのブルースやR&Bやゴスペルのミュージシャンとセッションも。自分のバンドで3週間ほどアジア・ツアー[2000年10月]をしてもどってきたところです。アジアのブルースやジャズやR&Bのミュージシャンが多いのですが、ときにはプロデュースも手がけることもあります。


樋口“Thunder”晶之さんが、いまでもアクティヴにやっていることもわかりました。おふたりはいっしょに何かなさっているのですか?

アジア・ツアーで晶之と演奏できてラッキーでした。彼とはこれからもできるだけプレイしたいと思っています。


クリエイションは、フェリックス・パパラルディが参加するまえも日本ではとても人気がありました。どういうことから彼と演奏するようになったのでしょう?

1973年にクリエイションがマウンテンのツアーで前座を務めたのですが、そのときフェリックスとはとても親しくなり、フェリックスも私たちの音楽を気に入ってくれました。1975年にも「サマー・ロック・フェスティヴァル」のために来日しました。そのとき、<ワールド・ロック・フェスティヴァル・バンド>というバンドを特別に結成して、はじめていっしょにプレイしました。そのころクリエイションは、東芝EMIでセカンドアルバムをつくる間際でしたから、フェリックスに、プロデュースを引き受けてもらえないでしょうか、と頼んでみました。承諾してくれました。バンドでアメリカに渡って、フェリックスのナンタケットの家でリハーサルを重ねているあいだに、事態に変化があって……それが<フェリックス・パパラルディ&クリエイション>という新しいプロジェクトになったのです。2ヵ月間リハーサルをしてから、ベアーズヴィルのスタジオに行き、アルバムを制作しました。


竹田さんたちとフェリックスのあいだには「距離」がありましたが、どうやって克服したのでしょう?

当時、エージェントもレコード会社も、海を越えた活動をとてもよくサポートしてくれたのです。それにフェリックスは日本が大好きだったのです! 私たちがアメリカに行ったり、フェリックスが日本に来たり。うまくいっていました。


その「距離」によって、竹田さんがコンサートをするさいの力が制限されたり、影響されたりということがあったのでしょうか?

身体的にはありませんでした。でも精神的にはすこし。とくにアメリカでフェリックスのヒット曲をプレイするときには。オリジナルに沿うようなかたちでフレーズを弾こうとしたのです。たとえば『ナンタケット・スレイライド』や『イマジナリー・ウェスタン』などがそうでした。


フェリックスはスタジオでは、いわば「仕切る」ことで知られていました。いっしょにレコーディングされてどうでしたか?

あらゆることがリハーサル・ルームでやったのと同じでした。つまり、フェリックスが最初から最後まで、重要な忠告や指図のすべてをあたえてくれたのです。でも、ひときわ感銘を受けたのはスタジオでの技術。魔法のようでした!


クリエイションがフェリックスとアルバムをレコーディングしているあいだに、竹田さんやバンドのほかのメンバーはどれだけのことを学ばれましたか? 誰が曲を書いたのでしょうか、そして、どれをつかい、どれをボツにするかなどを決めたのは誰なのでしょう?

このレコーディングのために私が10曲から15曲ほど書いて準備し、フェリックスの家に着いてから、私たち(フェリックスとゲイルと私)でもう一度題材を選んで、ほぼ毎日話し合い、いっしょに曲を仕上げていきました。そのころ(1975年〜76年に)、音楽シーンが60年代っぽいハードロックからもっとリズム志向の音楽へと移行していきました。簡単にいえば、ファンクや新しいタイプのジャズが市場に出回ったわけです。それと、フェリックスはレゲエにとても興味をもっていました。ちなみに、私はいっしょにつくったアルバムも気に入っていますが、彼の『ドント・ウォーリー・マム?』も気に入っています……このレコードを聴けば、彼がレゲエから受けた影響、あるいはすくなくとも彼のリズム志向の側面を知ることができます。フェリックスはこのアルバムにアルバート・キングの「アズ・ザ・イヤーズ・ゴー・パッシング・バイ」をレコーディングしました。それは、私の旅行用のカセットのなかから選ばれた曲なのです。私たちは何度もいっしょにこの曲をプレイしました。それから覚えていますが、チャック・レイニーが彼のお気に入りのベーシストでした。ジャック・ブルース以外では。フェリックスにとってジャックはむしろ兄弟のような存在だったと思っています。


最終的にできあがったアルバムに満足なさいましたか?

もちろんですとも。


人としてのフェリックスについてどんな思い出がおありでしょう? 何かおもしろいエピソードは?

フェリックスは泳ぐのが好きではありませんでした……車でベアーズヴィルからニューヨークへいく間中ずっと、彼はバッハを、ただひたすらバッハだけを聴いていました……うまくいかないことがあると、いつも「伯父さんに電話をしよう」といっていました……彼はジェフ・ベックが好きではありませんでした……8ビートに3連符のフィルインが入るのが好きではありませんでした……シャッフルはロックには合わず、うまくいくのはブルースだけだと考えていました。

フェリックスにエレクトリック・レディランドに連れていってもらいましたが、それはちょうどチック・コリアが『リターン・トゥ・フォーエヴァー』をレコーディングしているときでした。彼らはイタリア人がいうところの「ファミリー」なのだそうです。あるとき私たちは、彼のナンタケットの友人――名前を忘れてしまいましたが……医者でありながら、すばらしいジャズ・ピアニストなのです――のところへ行きました。そこでフェリックスが複雑なビ・バップのベース・ラインをじつに見事に弾いたのです。みんなびっくりしました。ひとりだけそういう音楽が楽しめない男がいましたが、それがマウンテンのドラマー、コーキー・レイング氏です。彼はドラム・セットを叩き壊してしまいました……それでパーティはお開きです。


振り返ってみたとき、そうした経験全体は竹田さんのキャリアにどのような影響をおよぼしましたか?

私は13歳のときにギターを弾きはじめて、すぐにブルースにのめりこみ、それから、オリジナルを演奏しはじめました。いわゆるハードロック(ブルース志向の)です。でも、フェリックスとの経験全体からは、もっと大きなヴィジョンと音楽的な支えがもたらされましたし、彼からはアレンジの仕方、新しい音楽理論、それにバックステージできれいなレディたちとどうやって過ごすか(笑)を、文字どおり教えてもらいました。そして、これを聞いてどんなふうに思うかわかりませんが、私にとってはゲイルもとてもいいひとで、いつも私たちによくしてくれました。フェリックスとゲイルはやはりとても愛し合っていたのです。私はそういうふうにみています。

いまはちがうタイプの音楽(ジャズとブルース)をプレイしていますが、フェリックスだけがいつでも私の教師です。そして、たぶん彼こそが、私がいまも演奏をし、日々向上したいと思っている理由なのです。本当に、大切で忘れがたい友人です。彼は〈魂〉を、そして〈愛〉を音楽に注ぎ込みましたし、今日でさえ私のギタープレイのなかで生きつづけています。音楽の種類にこだわり、分類したがる人も多いと思いますが、誰に薔薇が百合より美しいといえるのでしょうか……




Dave Albright (kcDog), "The Legendary Guitarist from Creation... Flash Kaz Takeda chats with kcDog of pappalardi.com." [http://www.pappalardi.com/Flash.html]



Copyright (C) 2000 Dave Albright

Japanese Translation Copyright (C) 2000 Wakagi Akatsuka



<関連リンク>
Takeda-Kazuo.com (竹田和夫オフィシャルサイト)
Drum Curriculum (樋口晶之ウェブサイト)
Dreams we dream of CREATION (クリエイション・ファンサイト)
GODLEE'S HOMEPAGE (マウンテン・ファンサイト)
Les Paul (わかるひとにはわかる)

●「ワールド・ロック・フェスティヴァル」→ 飛龍の雑記帳-World Rock Festival
●「2000年竹田和夫アジア(香港)ツアー」→ Mr.SASADANGO's Concert Review


(最終更新:2002.09.17)


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