西永良成『ミラン・クンデラの思想』(平凡社,1998年)の書評



初出:『図書新聞』第2405号(1998年9月12日).p. 4.

赤塚若樹


 ミラン・クンデラの「紹介」に尽力してきた西永良成が、今度は『ミラン・クンデラの思想』を刊行することによって、読者の作品「理解」にたいしてもこのうえなく大きな貢献をしたようだ。

 文学作品をあつかう批評や研究のタイトルに「思想」という言葉が出てくると、日本語の場合、すこしばかり重々しい響きをともなってしまうが、実際に内容をみてみると、クンデラの作品のあいだを自由に行き来する著者のフットワークの軽さが目立っているし、「特権的なクンデラ読者」ならではのさりげない情報提示もたいへん注目に値する。試みられているのは、「笑い」、「抒情」、「歴史」、「キッチュ」といったテーマとともに浮かび上がるクンデラの「思想」をとらえることだが、著者が思想家(?)としてのクンデラに安易に同調することなく、それぞれのテーマの本質をテンポよく、そしてわかりやすく解説しているのをみれば、この試みが充分に成功していることがわかる。採用されている方法は、ひとつひとつのテーマについて、ほぼ年代順にクンデラの作品を取り上げながら議論を進めていくというもので、ほかの哲学者や文学者、あるいは研究者の著作を参照することはあっても、基本的にはこの小説家の文章そのものに語らせるというスタンスが取られている。

 ところがその一方で、とても興味深いことに、西永はときおりクンデラの伝記的事実に注目して、そこに「思想」の源泉とでもいうべきものをみいだそうとすることがある。著者自身が充分に把握しているように、クンデラは一歩まちがえばこういった視点の取り方に拒絶反応をしめすことがあるけれども、「亡命」という事実が作品受容に不可避的につきまとい、また、そのような状況があったからこそ、作品創造に劇的ともいえる変化がもたらされている以上、そのようなアプローチは妥当どころか、不可欠なものであるとさえいってよい。そのとき、もっとも大きくクローズアップされてくることのひとつに、クンデラが生きたチェコの歴史ないしは社会状況があるが、それをめぐるスリリングな議論は特筆すべきものだ。ただし、そこに眼を向けるなら、さらにいくつかの問題が視野に入ってくるのではないか。たとえば、一九六〇年にチェコで刊行された『小説の技法』にみられるおどろくほどあけすけなマルクス主義者ぶりは、のちのクンデラの小説観や歴史観とどのようなつながりがあるのだろうか。実際にはそれほど正確な翻訳ではないフランス語版に「チェコ語と同じ価値の真正さ」をあたえたり、チェコ語ではなくフランス語で書くことによって、(リンハルトヴァーの主旨を自分流に解釈して)「唯一の言語の囚人」から解放されると考えたりするさいのクンデラの独特な判断はおくとしても、ヨーロッパ文化なるものにアイデンティティをもとめ、まるでチェコ文学という枠組みを否定するかのようにして、ヨーロッパ小説というコンテクストにみずからの作品が帰属すると主張するさいのクンデラの素朴な身ぶりには(主張そのものは悪くないとしても)、本来なら拒絶すべきロマン主義的な、あるいは理想主義的な傾向があらわれているのではないだろうか(だからこそ、クンデラがそういった見解を声高に表明するようになってから、作品が著しく衰弱していっているのではないだろうか)。

 しかしながら、「ありうべき様々なクンデラ小説の読解の一つの試み」のために選ばれた本書のパースペクティヴからすると、このように問いかけること自体が不当なのかもしれない。というのも、そういった問題を追究する立場を取れば、著者がちょうど『笑いと忘却の書』以後のクンデラの小説の語り手を思い起こさせるように「私」としてみずからの考えを強く打ち出している点で、おそらく本書のハイライトと呼びうる個所――すなわち「キッチュ」や「イマゴロジー」のテーマを出発点に、クンデラの現代社会批判ともいうべきものを考察している本書のきわめて示唆的な部分――が意味をなさなくなってしまうのだから。クンデラについては世界中でかなりの量の文章が書かれており、たとえば今年だけでもこれ以前にすでに二冊の研究書が刊行されているが、本書のようなかたちで、クンデラ作品の重要なテーマを要領よくまとめているものはほかにはあまり見当たらない。その意味において、『ミラン・クンデラの思想』は、批評ないしは研究書としておもしろく読むことができるばかりか、とくに日本語の環境のなかでは、とても良質の入門書としても機能し、クンデラの理解に大いに役立っていくにちがいない。




「On Milan Kundera」のページへ 「書評」のページへ

最初のページへ