取りもどされた小説の距離感覚

  ――ミラン・クンデラ『緩やかさ』(西永良成訳.集英社,1995)の書評.



初出:『すばる』第17巻第12号(1995年12月).p. 287.

赤塚若樹


 クンデラはチェコとフランスのどちらの小説家なのか、という問いがかりに無意味なものだとしても、彼が小説家として「ことば」をもちいている以上、その作品がチェコ語とフランス語のどちらで書かれているのか、ということはけっして見過ごすわけにはいかない。だから『緩やかさ』については、クンデラがフランス語で書いた最初の小説であるということは忘れないようにしよう。この作品がいま、日本へのクンデラの紹介に尽力してきた翻訳者の手によって日本語でも読めるようになった。それをとおして私たちはクンデラの作品に「小説の精神」がよみがえるのをみる。

 前作『不滅』には、それ以前の作品とはことなるふたつの傾向があった。ひとつは、チェコの歴史的状況への言及をすくなくしようとする傾向だが、これ自体はなんら非難されるべきことではない。だが『不滅』では、その一方で、小説が本来もつべき、対象との批判的距離の微妙なバランスが失われてしまうことがあった。小説が存在するのは、相対的で多義的な人間的状況を認識するためにであって、なんらかの判断をくだすためにではない、とクンデラは主張するが、『不滅』には「認識」への意志よりも「判断」を前面にだそうとする傾向がみられることもあり、そのために、この小説は『冗談』や『存在の耐えられない軽さ』などの水準に到達することができなかった。

 このふたつの傾向のあいだに直接のつながりはないのかもしれない。けれども、興味深いことに、『緩やかさ』においては、それらがともに逆転現象を起こしている。たとえば、政治体制の移りかわりのなかで「悲しげな誇らしさ」を体現してしまうチェコの昆虫学者のとらえ方。そこには、対象に共感や反感を寄せることはあっても、つねにそれを相対化していく小説本来の距離感覚がある。前作とはちがって、この小説では、全体をとおしてその距離感覚が保たれていく。つまり『緩やかさ』にいたって、クンデラが小説の「ことば」にフランス語を選択すると、チェコ的事象がふたたび作品に自由に入り込むことができるようになり、それと同時に、彼の作品に特有の、対象にたいする「やさしさ」や「寛容さ」をともなう批判的距離がふたたびみいだされるようになったのである。

 これはたんなる偶然なのか? いや、そこにはなにか必然的な理由があるはずだ。そのひとつは、クンデラがフランス語で小説を書くことによって、チェコにたいする見方はもちろん、あらゆる対象にたいする距離の取り方それ自体をみなおし、相対化できるようになったということにある。これが、クンデラにとって亡命につづく、もうひとつの出発点となっていることはまちがいなく、『緩やかさ』には、その新しい行程がはっきりと映しだされている。




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