新薬師寺 本堂
Main Hall of Shin Yakushi-ji Temple

飾りのない屋根の、直線に近い勾配が美しい。堂内の十二神将像は見飽きることがない。ところで、これは周知のことかもしれないが、十二神将を歌った会津八一さんの歌に、
「たびびとに ひらくみだうの しとみより 迷企羅がたちに あさひ さしたり」(鹿鳴集・南京新唱)という歌がある。
「迷企羅がたちに」の「たち」が「太刀」であれば、「太刀」を持っているのは迷企羅ではなく、「伐折羅大将」だが、どうなのだろうか。「バサラ」では歌にならないので「メキラ」といっただけかも知れないが、真実をご存知の方はそっとお教えください。(注)

(注)
後日、新薬師寺の中田定観師から直接お答えをいただいた。
師からは「古寺巡礼 奈良 新薬師寺」(中田聖観 他著、淡交社刊)のコピーをお送りいただき、会津先生はこの神将像が後に「伐折羅」と呼ばれるようになったことをご存知で、そのいきさつを「南京新唱(自註補遺)」に書かれていたことを知った。私は「自註補遺」を読んでいなかった。以下やや長いが、引用する。

「ただしこの寺の十二神将は、その製作、日本に現存する神像中最も古く、したがひて、その形式は後世に固定せるいづれの儀軌にも附合せざるが故に、凡そかかる場合には一一の名称は、その寺にて従来称へ来たりしところに従ふを穏当とす。しかるに作者がこの歌を詠じたる時には、本尊の右側に立ちて、太刀を抜き持ち、口を開きて大眼せるさまにて、怒髪の逆立したるこの一体には、寺にては、久しくその脚下に「迷企羅大将」の名標を添え置きたりしかば、作者はその意を尊重して、かくは詠じたるなり。然るにその後、現住職福岡師の勉強にて、この群像は最も『恵什抄』の儀軌に近きことを発見し、今は同抄に従ひて一一の名称を改め、堂内の配列をも変へ居るなり。
 特に初心の読者のために述べんに、ここに「儀軌」といへるは、礼拝祈祷の対象として仏像の製作をなし、これを厳飾し、または仏具の配列など為さんとするに当り、それぞれ特殊の形式に従はしむるやうに規定せるものをいふ。されどもその儀軌にも種類ありて、必ずしも互に一致せざるのみにあらず、、いづれにするも、平安朝初期に密教が我国に渡来せる後に、やうやく盛に行はれ来りしことなれば、それ以前の古像を、之を以て律することは、この歌の作者の躊躇せんとするところなり。」

私の無邪気な疑問への答えは既に私が生まれる前からあったのだ。ただ、迂闊なことを恥ずかしげもなく書いたおかげで中田定観師のご教授をいただいた。望外の喜びだ。    次へ