半僧坊より
From the Han-so-bo Hall

京都冷泉家の初代為相(ためすけ)は仏国禅師と和歌を通じた親交があったという。為相が17才の頃、母の阿仏尼は相続訴訟のために鎌倉を訪ね、その紀行文が、かの「十六夜日記」となった。公家貴族のいざこざも武家に頼らないと解決できない時代になったのだ。
「京都冷泉家の八百年」(NHK出版)によれば、訴訟は三十年後に為相が勝訴した。為相は京都と鎌倉を往復しながらも、鎌倉幕府を後ろ楯に、京都とはある程度の距離を保ちながら生きたようだ。冷泉家が今日まで続いた所以かも知れない。66歳で没した。墓は扇ケ谷の一角の「藤ケ谷」(ふじがやつ)にあるという説もある。「藤原為相のいた谷」ということか。   次へ