聖徳太子廟 叡福寺
Ancient tomb of the Prince Shotoku ; Eifuku-ji Temple,Osaka

「(推古帝の)二十九年(621年)の春二月の己丑の朔癸巳の夜半に厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよみみのみこのみこと)が斑鳩宮で薨じた。」(日本書紀)とあるが、天寿国繍帳銘、法隆寺金堂釈迦三尊像銘、太子伝私記法起寺塔露盤銘などにより推古30年2月22日との説が有力らしい。太子49歳。「この月に上宮太子(かみつみやのひつぎのみこ)を磯長陵に葬った。」(同)太子の母の穴穂部間人皇女、妃の膳部大郎女とともに祀られている。陵墓は高さ7.2メートル、直径54.3メートルで内部は横穴式石室とのこと。磯長(しなが)の周辺には河内磯長中尾陵(敏達帝)、河内磯長原陵(用命帝)、磯長山田陵(推古帝)の三兄弟と、大坂磯長陵(孝徳帝)がある。太子の一族は政治の中心の明日香を避けるように、かつて蘇我氏と連合して滅ぼした物部氏の根拠地の難波を望むこの地に眠っている。叡福寺は太子の墓を守った10軒の家から興ったとのことで、仏教を思想として受け止めた最初の日本人である太子の菩提寺にふさわしいと思った。受付でお願いして金堂の横にある資料館を開けてもらい、太子ゆかりの寺宝を見せていただいた。     次へ