
草 枕 2007
Wandering in 2007
月輪
- 1月1日、除夜の鐘が鳴り終る頃に龍神社と千燈寺に詣でる。寺で阿弥陀如来坐像を拝見する。住職の豪宏さんに聞くと、平安期の作とのこと。優しい表情をなさっており、薄い衣の衣紋が流麗だ。外に出ると、やや西に傾いた月の周りに光の輪が掛かっていた。輪はこれも西に傾いたオリオンに掛かるほど大きい。予報どおり曇りか雨になるのだろう。月光が道や家々の瓦を明るく照している。自分の影を踏みながら帰る。新年は穏やかに始まった。
寒夜
- 1月17日、久しぶりに雨になった。歳時記の「寒夜」をめくる。「凍る夜のうなじに触れし洗ひ髪」(七菜子) 寒さの表現が巧みで美しい。そういえば、中島みゆきのアルバムに「寒水魚」があった。このタイトルの由来は知らないが、一曲目の「悪女」は好きな曲だ。「夜明けを待って 一番電車 凍えて帰れば わざと捨てゼリフ」 寒夜に相応しい歌ではないか。
風邪
- 1月30日、ようやく風邪が癒った。正月の3日に38度の熱を出してから一ヶ月近い。上旬に良くなりかけたときに海外出張が入ったことも、最近体力が落ちていることも回復が遅い原因なのだろう。忙しいときに風邪など引く暇も無かったかといえば、そうでもない。子供の時分から受験や大事なことの前には必ず熱を出した。このところあまり風邪を引かなかったのは、大事なことがなかっただけかも知れない。
身の回りのもの
- 2月10日、昨年末に修理に出していた万年筆が帰ってきた。修理代が嵩んで、以前の修理分も合わせると新品の値段に近くなった。配偶者からは新しいものを買った方がいいのにと言われたが、その気にはなれない。
腕時計もそうだ。高校入学のときに父から貰った「自動巻き」で、これも2度修理に出して、修理代は本体の値段を超えた。
もう一つ、カメラがある。以前このコラムにも書いた一眼レフで、オートフォーカスでもなく、もちろんデジタルではない。これはかつて冬山にも持って行き、かなり酷使したが、まだ一度も修理したことはない。
あらためて身の回りのものを探しても永年大事にしているのはこの3つ以外にはない。3つに共通しているものは、アナログ的だということと、機能的な美しさがあることだ。
デジタル製品で美しいと思えるようなものが少ないのは何故だろう。
大切な場所
- 日経の1月21日朝刊の文化欄に、作家の出口裕弘さんが「変身する東京」という題の文章を寄稿されていた。氏は六本木ヒルズや恵比寿ガーデンヒルズなどの新しい東京と上手く付き合いながら、浅草の神谷バーや向島の鳩の街通り、西武新宿線の中井駅近くの坂道などをこよなく大切にされている。
神谷バーの片隅で「どこの何者でもない」人間としてデンキブランを飲むのが、氏の楽しみごとの上位を占める場所であり時間である、とも書かれていた。
大切な時間を過ごせる場所は年齢と共に変わるとしても、いつもそういう場所の一つや二つは持っていたい。
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逗子マリーナ |
莫妄想
- 2月最後の休みに京都の天龍寺を訪ねた。風が冷たく、寒い。嵐山は昨年末に高雄の神護寺を訪れたときにバスで通り過ぎただけで、歩くのは10年ぶりだ。境内の梅の花も寒の戻りの冷たさに耐えている様子であり、大方丈の廊下の板張りや畳も冷え切って、歩いているうちに足の指先の感覚が無くなっていった。
大方丈にL字で接している広い書院が何ともいえない良い佇まいで、畳に座ると曹源池を中心とした庭園が、大方丈から見るそれとは違った面白さで広がっている。
書院の床の間に掛け軸があり、「莫妄想」と書かれていた。解説では、この言葉は中国の僧、汾州無業の言葉で、「伝燈録」巻八にあるとのこと。莫妄想(まくもうぞう)とは、妄想するなということで、妄想とは、「有無、生死、善悪、美醜などの二次元的分別心をいう」と。
禅の言葉というのは、鬼面人を威したり、また、利口者が呆けた真似をしているように感じる一面もあり、正直に言えばあまり好きではないが、この言葉はなんとなく腑に落ちた。善悪、美醜というような相対的なものの考え方をやめよ、考えても分からないこと・どうしようもないことをくよくよ考えるな、変えようもない過ぎた過去とまだ来ない未来の心配をして何になる、今を生きよ、ということだろうか。
祇園で福栄堂の団子を買って帰る。
果実酒
- 3月3日、2005年の夏に仕込んだヤマサクランボとヤマモモ酒の最後の瓶を開封する。ヤマモモ酒は琥珀色になり、シナモンにも似た独特の微香がする。甘酸っぱく、旨い。ヤマサクランボは赤ワインとほぼ同じ色になり、香りは林檎のようで、口に含むと渋味と苦味が広がる。共に良い色になり、大人の味になった。
司馬遼太郎賞
- 3月4日、昨年の第10回司馬良太郎賞の受賞作、「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」(中央公論新社)を読了。
膨大な資料をもとに、太平洋戦争終結の政治過程が克明に描かれている。これを読むと、スターリンは日ソ中立条約に反してでも領土が欲しかっただけであり、トルーマンはとにかく原爆を落としたかっただけであったことが分る。
現代とは、凡夫が他人の人生を左右できる時代だとすれば、我々は実につまらない時代に生きていることになる。
本書では、京都が原爆投下の候補地から外されたのは広島への投下のわずか2週間前であり、降伏に至るまでの日本政府の意思決定の絶望的な遅さが、米ソにとって実に都合の良い口実を与えたことも活写されている。
司馬さんが太平洋戦争とその原因を作った人間をどう評価したかは周知のことで、長谷川毅さんのこの労作は、この意味でも本賞に相応しい。
思春期
- 小学校の何年生だったか、伊藤左千夫の「野菊の墓」をラジオドラマで聴いた。少年・政夫と二歳年上の少女・民子との儚い恋を綴った小説だが、これを切なく聴いたことを思い出す。この頃が思春期の初期だったのだろう。
いつの放送かを知りたくて、NHKに尋ねたところ、「野菊の墓」はラジオでは過去4回放送されていた。昭和23年、33年、36年、43年だ。23年はまだ生まれていない。33年は思春期には少し早すぎ、43年では遅いとなれば、36年だったということになる。
36年の放送は、「9月4日(月)~8日(金)21:25~22:00、NHK第一、脚色:須藤出穂、音楽:宮城衛、出演:下元勉、森邦夫、磯村みどり、佐々木すみ江、斎藤美和、津田まり子」とのこと。夜9時過ぎの放送ということは、家族と一緒に聴いていたはずだ。
思春期の始まりが小学校5年の頃だということが、今になって分かった。分かってどうなるものでもないが、その頃の感受性がどれほど残っているかと、自問してみた。
キリマンジャロ
- 4月3日、山友達だった会社の2年先輩に会う。年賀状の交換はしているが、同じ会社にいながら10数年もご無沙汰していた。お互いの通勤経路がクロスする田園都市線の駅で待ち合わせて、手ごろな店を探して乾杯した。
入社した頃、同じ寮にいた彼に登山の手ほどきをしたのは私の方で、丹沢、八ヶ岳、谷川岳、南アルプスの山々を案内した。ウィリッシュのピッケルを薦め、冬山にも数度誘った。
「山はどうですか」と聞いてみた。無論、「もう登っていないよ」と言うだろうと思い、「あの頃は体力がありましたよね」と返すつもりが、「キリマンジャロに登ったんだよ」との返事に驚いてしまった。数年前とのことだが、高山病に苦しみながら、麓から3泊して登頂したとのこと。
山に引っ張り込んだ私といえば、その後本格的な登山はしていない。何だか自分が同志を置き去りにした無責任な転向者のような気もしたが、薦めてよかったとも思った。
やはり継続は力であり、私に欠ける多くのものの一つがそれだ。
邂逅の酒は旨く、近いうちの再会を約して帰宅。
春の雪
- 5月連休、八十八夜も近いというのに、一昨日も昨日も冷たい雨が降った。今朝は風が強く寒い。コートを着て出勤する。丹沢山系はおそらく雪だろう。明日は穀雨。
「今更に雪ふらめやもかきろひのもゆる春べとなりにしものを」
「峯(を)の上にふりおける雪し風のむたここに散るらし春にはあれども」
「梅の花ふりおほふ雪をつつみ持ち君に見せむと取れば消につつ」 (万葉集 巻十)
何もしない連休
- 5月4日、春の連休に帰省しなかったのは数年ぶりで、初日の奈良旅行以外は自宅周辺で過ごした。朝の掃除、午前中の散歩とスーパーでの買物、午後の読書と居眠りが日課という、実に贅沢な毎日だ。散歩道に菖蒲が咲いていた。
ファウスタ
- 5月13日、半袖で散歩する。風はやや強いが薄日がさして、また少し陽に焼けた。
昨年完結した塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読了した。最も印象に残った男は何といってもカエサルだ。彼を描くのに全15巻の内2巻を費やしている。言うまでもない、男の中の男である。もう一人挙げるなら、ユリアヌスだ。彼の苦悩は辻邦夫さんの「背教者ユリアヌス」で余すところなく描かれている。ローマをローマたらしめたカエサルと、ローマが「ローマ」でなくなっていくのを押しとどめようとしたユリアヌス。共に志半ばで倒れたことも心惹かれる理由かもしれない。
ユリアヌスの3代ほど前のコンスタンティヌス帝は、キリスト教を公認したことで「大帝」と呼ばれているが、彼は実子のクリスプスと、自分の后であったファウスタに死を与えている。ファウスタは、彼女の父と兄を殺したコンスタンティヌスに20歳ごろに嫁ぎ、当時は40歳前後だったらしい。クリスプスの義理の母にあたる。
「そのような皇妃に、十歳は若いクリスプスが同情し、心優しく対していたとしたらどうなったろう。中年の女の恋は、若い女の場合のように夢からではなく、絶望から生まれるものなのである。露見しようものなら、死しかまっていないことは知っていながら。」
「ローマ人の物語」で最も印象に残った女性はファウスタだというのは、この言葉があったからだ。塩野さんの名言の一つだろう。
15個
- 5月の雨の日、京都の竜安寺を訪ねる。立命館大学前から緩い坂を越えてほどなく寺に着く。雨足が激しくなり、居合わせた修学旅行の生徒のシャツやズボンもすっかり濡れている。初めて方丈の庭園を眺める。写真やテレビ、雑誌で幾度となく見た庭がそこにあった。旅行生が「ちゃんと15あるよ」と、石の数を数えていた。そうか、15個なのかと眼で数えてみたが、14しかない。入り口付近に戻ってみたら、大きな石の陰に1つ隠れていた。安心したが、美しさを感じる時間もなにもなかった。
水無月の反省
- 6月30日、昨年夏に悔い改めて以来、節酒に努め、品行方正に暮らしたことで、この春には17年前の体重に戻った。ところが、5、6月は身内の行事、友人・知人との懇親会や出張も多く、蕩尽したおかげで、ややリバウンド。本も万城目学さんの「鴨川ホルモー」「鹿男あをによし」を面白く読んでしまった。明日からは山崎正和さんの「装飾とデザイン」、高文謙さんの「周恩来秘録」を読みながら、本来の禁欲的な生活に戻りたい。
かたち
- ときどき下手な絵を描くのを趣味の一つにしている。下手なのは私の手が目で見たイメージどおりに動かないからだ、と思ってきたが、どうも違うようだ。「人は目で見たものを描くのではなく、手が描きえたものだけを見るのであり、描くために見るのではなく、見るために描くのである。」(山崎正和「装飾とデザイン」)とすれば、私が下手なのは手の技術が未熟だということ以上に、かたちをよく見ていなかったことになる。
そういえば、奈良や京都を歩いて寺をスケッチしたのは、見たものを残したいという気持よりも、よく見るために描いたという方が腑に落ちる。見たままを残すのならば写真の方が速くて正確なはずだが、写真は鮮明だが映した風景の記憶は曖昧な場合が多い。スケッチそのものは下手でも、その場所の記憶は今でも鮮明だ。見るためには手が必要なものらしい。
何日君再来
- 7月17日、久しぶりに北京へ出張。空港は気温30度で蒸し暑く、街は深いスモッグに覆われている。18日は未明の雷鳴で目覚めた。朝ホテルを出る頃に雨は止んだ。仕事を終えて食事のあとで市内の后(後)海の周囲を散歩する。湖畔にはたくさんの店や屋台が並び、お祭りのような賑やかさだ。客引きもかなりしつこく、どこかの店に入るまで追跡してくる。
バンド演奏を聴かせる飲食店が多く、贔屓のバンドやソロシンガーを待つ若い人々で賑わっている。その中の一つで、音楽学校の学生らしき女性二人の琴と琵琶の演奏を聴きながら、アルトビールを一杯。45元也。客の目当ては次のロックバンドらしく、誰も拍手しない。可哀想にと拍手をしたら、二人はにっこり笑って、何やら相談した後、次の曲が始まった。「何日君再来」ではないか。おじさんにサービスしてくれたのだろう。1930年代の歌だ。おじさんもまだ生まれていないのだけれど、まあいいか。
頼政
- 7月21日、千駄ヶ谷の国立能楽堂で興福寺の第5回勧進能を観る。勧進の目的は「天平の文化空間の再構築」で、焼失した中金堂の再建がその主眼だ。たしかに、今の興福寺は東金堂、五重塔、北円堂などの国宝が建ち並んでいるものの、中心になる建物がない。ついでに言えば南大門も西金堂もない。能を拝見することがささやかな寄進になるのなら幸いだ。
曲目は「頼政」で、以仁王を報じて挙兵し、宇治の平等院で戦死した源三位頼政を描いた修羅物。世阿弥の作品だ。刀を抜き放って舞う最後の場面は重厚で華麗だった。シテは観世流の浅見真州さんで、勧進能が10回になるまでは続けたいとのこと。
そういえば、能楽堂は故郷の町の神社、伊美別宮社の境内にもあった。ただしこれは能舞台ではなく、[能楽堂」という名の演芸場だった。いつのことだったかは忘れたが、ここで旅役者の芝居を見た覚えがある。
町史に写真が残っており、明治31年に建てられた時、発起人数名が境内の松を許可を得ず伐採した罪で拘留されたことが記されている。歌舞伎などの娯楽をいかに強く求めていたかがわかる。祖母が歌舞伎や浄瑠璃のくだりを節をつけて語っていたのは、この「能楽堂」で見聞きしたからだろうか。当時の民度は現在よりもかなり高かったのではないかと思う。
無所有への準備
- 7月29日、五木寛之さんの「21世紀仏教への旅」(朝鮮半島編)を読む。最近の五木さんの執筆活動には目を見張るものがある。私見だが、氏はデビュー以来、ある意味での虚無的な世界を描いていたと思うが、それが94年の「連如」(岩波新書)から変わったのではないか。
70年頃、青年の不安や鬱屈、または不条理な利己心を表現してくれたのは、大江健三郎と五木寛之だった。当時の若者は将来への希望などというものは持たない代わりに、明るい諦めを持っていたように思う。
私は20代後半から30代は氏の世界から遠ざかっていたが、「蓮如」から再び読み始めた。いつの間にか、五木さんは「祈り」を描いていた。最近は生と死の問題に正面から向き合っておられる。
「毎年、すこしずつ送られてくる年賀状が少なくなっていくように生きたい。・・やがて人生の幕を引くころには、二、三枚届くくらいがちょうどいいのではないか。」「人間の晩年というものは、さびしいのが当然であろうと思うのだ。そうあるべきだとも考えている。」(「21世紀仏教への旅 朝鮮半島編」)
思えば、氏は若い頃から団塊の世代の一歩前を歩く先達のような存在だった。若い頃は「デラシネの旗」を掲げて走り、今は静かに歩いているかのようだ。
夏休み
- 8月10日、朝の「のぞみ」で帰省。九州まで電車で帰るのは時間がかかるが、1000キロの距離感を感じたいのと、車中での自由な時間が楽しみなので、いつも列車だ。尤も、飛行機が嫌いだと言った方が正直かもしれない。休み明けには海外出張が待っている。
11日、家の門で迎え火を焚いて、母と東山の墓掃除へ出かける。思いのほか落ち葉が多い。墓地の一画に数年前から立ち枯れた松の高木があり、今にもぽっきりと折れそうだが、強風にもかかわらず倒れない。下敷きにならないように注意しながら墓石の間を熊手と竹箒を使って掃き清める。2時間近くかかってようやく落ち葉が片付いた。風が強いので、落葉の山は燃やせないが、薮蚊に悩まされることなく作業終了。夕方近所のS氏と「あかねの郷」へ。中学の同級生の父上の初盆とのことで、直会が開かれていた。
12日、まだ風が強い。岩戸寺の親戚の初盆に参列。神道は初秋祭というそうだ。玉串奉納と拍手で御霊を慰める。こういうときは音を立てない「忍び手」にするのだと思っていたが、そうでもないようで、迷う。来浦の料亭で直会。帰宅したら妹の家族が里帰りしており、賑やかになった。
13日、千燈寺の仁王さんに会いに行く。阿吽両像ともにやや前のめりになってきたのが気になったが、まだ倒れることはないだろう。
14日、昼前に妹家族が帰り、寂しくなる。二階の物置の大掃除をする。いつかいつかと思いながら、足を踏み入れるのをためらっていたが、思い切って突入。こもった熱気と黴臭さの中から、古い扇風機や電気釜、父の釣竿や散弾銃の玉、40年前の新聞や雑誌、などを運び出す。私の中学、高校のころの鞄や教科書、ノートも出てくる。最初は掃除だけのつもりだったが、全部運び出した。何もなくなった床を掃き終ったら夕方近くになった。バイクで街へ買物に出かけたが、途中で雷鳴がしたので、慌てて戻る。雷は怖い。夕食は仕方なく野菜炒めにした。
15日、家中の戸やサッシの建付けをみて、戸車に潤滑油を注す。軽く動くようになり、開閉時のいやな音がしなくなった。母に言うと、もともと音などしなかったそうだ。正義が報われることは少ない。
16日、家を後にする。今日は暑い。宇佐駅前の食堂「蓮華」でビール。小倉からの新幹線でもビール。持って帰った小林秀雄の「本居宣長」は上巻の半分までしか読めなかった。夏休みも終わった。
昌徳宮
- 8月24日、ソウルでの仕事を終えて、仁寺洞(インサドン)で昼食。フライトまでの時間で近くの昌徳宮(チャンドックン)を散策。ソウルも東京と同じ猛暑が続いているそうで、今日も暑い。広い宮殿の中を木や建物の蔭を選んで歩く。昌徳宮は1405年に朝鮮王朝の離宮として建てられたが、壬申の乱(文禄・慶長の役)で大部分が焼失し、1611年に再建された、とのこと。秀吉がなぜ無用の帥を起したのかは浅学にして知らないが、歴史の傷はここにも残っている。
李王朝が長く続いたことがこの国の近代化を遅らせたことは事実だろうが、近代化には想像もつかない社会や個人の犠牲が伴ったこともまた事実だ。
次に来たときは30分でもいいから仁寺洞の陶磁器の店を覘いてみたい。
あるべき場所
- 8月26日、六本木の国立新美術館で「日展100年」展を見る。この大公募展は文展、帝展、新文展、日展と、国と時代の要求に応じて名称を変えながら現在に至っている。もちろん、官展としての日展の歴史がそのままわが国の近代美術の歴史ではないにしても、その中核を担ってきたことは確かで、楽しんで観た。
本来、美術品は建築物から独立した存在ではなく、建物の不可分の一部だったが、いつの間にか美術館の壁や空間に置かれるようになった。「会場芸術」だ。無機質な空間には日本画よりも洋画のほうが似合う。最近日本画の元気が無くなってきたような気がしていたが、日本画を飾る和風建築がなくなってきたこともその一因ではないかと思う。
100年展の前半は日本画は堂々としており、洋画は若々しかったが、後半はそれが逆になっているような気がする。最近、油絵かと見紛う日本画が増えた。違いは絵の具だけというと言い過ぎか。
所有するということ
- 9月12日、帰宅して首相退陣のニュースを見たついでに、NHKの「ためしてガッテン」を見た。
「おいしい美術館味わい術」というテーマだ。美術館を疲れずに楽しむ方法の一つとして、「買うつもりで見るのが良い」という結論で、実験では絵に興味がない人も「買うつもり」で見たら興味が湧いてきた、という結果が得られた。
私もほぼ同じことをこのコラムに書いたことがある。3年前のことだ。(2004年11月「審美眼」)もちろんNHKのスタッフがこのHPを見ることはまずないだろうから、私の独創ではないだろう。ともあれ、同じ考え方をする人がいたことがうれしい。
「なるほど器物の美しさは、買うと買わぬと関係はあるまいが、美しい器物となれば、これを所有するとしないとでは大変な相違である。」(小林秀雄「モオツァルト・無常ということ」)
香港島
- 9月27日、出張先の香港の夕暮れの街を歩く。九龍のホテルから地下鉄で一駅の尖沙咀(チムサチョイ)で降りて海岸に出る。少し強い風に、かすかに泥臭い潮の香りが運ばれてくる。海峡を挟んで香港島のビル群が建ち並んでいる。狭いこの街ではどこを歩いても垂直の線が風景を支配していて、ただ海だけが水平の線を描いているように思えた。
海岸のホテルでチョコレートを買う。気温は30℃。
恋飛脚大和往来
- 10月7日、歌舞伎座十月公演を観る。演目は「赤い陣羽織」「恋飛脚大和往来」「羽衣」の三つで、「恋飛脚大和往来」の忠兵衛は藤十郎の当たり役。藤十郎襲名後、歌舞伎座では初の上演とか。遊女梅川の時蔵が艶やかに、恋敵八衛門の三津五郎が小気味良く演じていたが、藤十郎さんは風邪気味のようで、洟を啜り上げる音が気になった。それも初めは愁嘆場の演技かと思えたのは、さすがに人間国宝の芸だと、妙なところで感心した。
今は亡き先輩のK氏は大の歌舞伎ファンだった。「山城屋!」との掛け声を聴いて、彼のことを思い出した。彼の父上は狂言作家の竹芝蟹助、柝(き)と勘亭流の名手でもあった。
「羽衣」でK氏が贔屓にしていた玉三郎が登場すると、その美しさに観客が息を呑んだ気配がして、場内が静まり返った。ここで彼のように「大和屋!」と声を掛けるのは、至難の業だと思い知った。
ひき潮
- 10月21日、「カラマーゾフの兄弟」を読み始める。今読まないと生涯読むことはないだろうという気がしたからだ。ミステリーだと思えば最後まで読めそうだ。
年を重ねる程、あれもこれもと宿題が増えていくような気になるのはどういうことだろう。これまでにまともな努力をしなかったことの酬いならば、仕方がない。怠け者の未練ということか。
七里ガ浜を歩く。波は飽きもせずに寄せては引く。見ているこちらも飽きない。
大分市にて
- 11月2日、翌日の甥の結婚式で大分へ。駅前から金池交差点を曲がって上野丘へ向う。ここを歩くのは高校卒業以来初めてだ。グラウンドのすぐ傍にあった下宿はなくなり、かつての大家さんとは違う表札の新しい家が建っていた。弥栄神社に登り、墓地公園を歩く。ここから市街をスケッチしたことがあったが、その場所を見つけることはできなかった。
山を南へ下り、古国府から六坊へ。約束の時間までにまだ時間があったので、もう一度公園に登り、市立美術館へ。高山辰夫さんの絵を見る。美術館前の広場から残照の由布岳がきれいに見えた。
街まで歩く。少し冷えてきた。記憶に残っている過去の風景の方が現実で、今日眺めた風景がなにやら嘘のようで、軽い違和感と喪失感を覚えた。
夜7時からK氏と友人5人で会食。お互いの今の話が楽しく、話は尽きない。終電で別府のホテルに辿り着いた。
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大分上野丘高校 |
カラマーゾフの兄弟
- 11月11日、「カラマーゾフの兄弟」読了。感想はさておき、読んで良かった。
「4部+エピローグ」というこの小説の構成は交響曲を思わせ、訳者の亀山郁夫さんの表現では、第一部は「アレグロ・コンブリオ(早く生き生きと)」、第二部「アダージョ(ゆっくりと)」、第三部は「スケルツォ(諧謔的に)」、第四部「モデラート・マエストーソ(ほど良い速さでおごそかに)」そして短いエピローグは「コーダ(終結部)」とのこと。また、登場人物は光か影かに書き分けられ、それぞれの人物もまた光と影がある。その意味で絵画的でもあると思う。
この小説には続編となる「第二の小説」が予定されており、およその構想も残されていたようで、そのための布石とも思える部分がある。音楽的に言えば新たな旋律が立ち上がる部分があり、絵画的に言えば人物の視線や動作が「もう一つの絵」に向っているように見える部分がある。
「第二の小説」はドストエフスキーの死によって、かたちを現わすことはなかった。だからといって、この小説が未完成の作品だという意味ではない。「次を予感させる完結した物語」だと思う。もちろんミステリーとしても面白い。
十二月の薔薇
- 12月5日、いつの間にか朝家を出るのが日の出前になり、仕事を終えて退社する頃にはすでに陽が暮れるようになった。冬至前のこの季節の風景は嫌いではない。帰りに渋谷で下車して赤ワインを買う。
「冬ざれや歩みさへぎる何かあれ」(翔)
冬至
- 12月22日、予報よりも早く降り始めた冷たい小雨の中を散歩。落葉樹を見上げると葉はあらかた散ってしまい、空が広くなり、雨天も明るく感じる。
午後は大掃除。この1年の埃を払う。台所のレンジフードの内部の油膜を拭い、換気扇を磨き上げる。これで、家の中で嫌だなと思うところはなくなった。
夜、テレビで社会人ラグビーを応援しながら一杯。年賀状はまだ書き終えていない。
「油絵のただ青きのみ冬の雨」(青邨)
冬の嵐
- 12月30日、大分帰省2日目。夜来の風の音で眼が醒めた。6時というのにまだ暗い。気温7℃。
午前中餅を三升搗く。東山の墓掃除をしている時に急に風が起こり山がごおっと鳴って雪が降ってきた。杉林の中で鏡餅の飾りのウラジロを採る。午後親戚にご挨拶。風がまた強くなる。
12月31日、朝6時に起きる。外はまだ暗い。戸外の気温は4℃だが、室内もさほど変わりない。外よりも寒いのではないか。
昨日搗いた鏡餅二重ねを神仏にお供えした。台所と庭の井戸と弘法様、北西角の荒神様にも餅を供える。風が強く、半紙とウラジロが飛ばされそうだ。故郷の年末は冬の嵐の様相だ。
夜12時に龍神社と千燈寺に初詣。境内の焚火に雪が舞い散っている。

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