草 枕 2010
Wandering in 2010
年始
東横沿線散歩
慶應日吉 |
二月の雪
春一番
なごり雪
3月9日、昨年末から抱えていた仕事の目途が、ようやくついた。結果をプレゼンテーション資料にまとめる。資料には物語がなければならないし、物語は面白くなければいけない。たとえ悲劇であっても。
昼頃から降り始めた雨が、帰宅時には雪になっていた。今朝、出勤途上で見た白木蓮のほころびはじめた蕾にも、雪が薄く積っていた。この花が咲き始めると人事異動の季節を迎えるが、もはや心騒ぐこともない。
寄り道
横浜・本牧
三渓園 |
春のうららの
皇居 桜田濠 |
禁煙20周年
4月11日、タバコを止めて今日でちょうど20年になる。1990年の手帳には「禁煙」とだけ書いている。
禁煙には理由がある。健康のためではない。職場のメンバーへの配慮が足りなかったことがあり、自分への罰として始めたものだ。その2週間ほど前にアメリカに出張して、至る所で喫煙に不自由を感じたが、表向きにはそれを禁煙の理由にした。
初めてタバコを吸ったのは、19歳の秋で、高校の同級生が受験浪人しているときに、湯布院の彼の実家に数日泊りがけで行ったときだった。父上が開業している病院とは離れたところにある実家で、夜遅くまで話したり音楽を聴いたりして過ごした。昼間は近くの湖や高原に遊んだ。広い医院兼住宅の実家には現役の医者でもある彼の祖母が一人で住んでいて、毎日ご馳走になった。
勧められて初めての1本を吸ったときには軽い浮遊感があり、やがて激しい頭痛がした。福岡の下宿に戻ってすぐに、小包が届いた。中にはタバコが十数箱とビタミン剤が入っていた。
帰省
4月29日、今日から一週間帰省。新幹線の往復で読む本は、よく眠れるようにプルーストにした。社内での朝食はシュウマイ弁当、小倉駅の7番ホームで丸天うどんの昼食、450円也。
4月30日、故郷の朝は晴れて空気が少し冷たい。朝の散歩と掃除の後、バイクで買物。雲が出て風も強くなる。夕方庭先の牡丹をスケッチ。風で揺れる花は描きにくい。それでなくても花びらの数が多いのに。夕立が来て春雷。
5月1日、明日の地区の祭「妙見祭」の社の注連縄を作る。庭先に茣蓙を敷いて座り、近所の方に教えてもらいながらやってみる。藁を敲き、水で手を湿らせながら綯うが、普通の縄を綯ったこともないのに注連縄が簡単に作れる訳がない。
悪戦苦闘していたらギャラリーが集まってきた。電動車椅子でやって来たお婆さんが、「右綯いができてから左綯いをやりよ」と言う。明日使うからそんな時間はないと言うと、アハハと大口を開けて笑ってどこかへ行った。結局師匠が教えながら作ってくれたものを使うことにして、苦心の作はボツになった。これをどうしようかと言ったら、「腰にでも巻いて歩けば」という。悔しい。
2日、家のほぼ真西にある妙見山に地区の方々が集まり、小さな社の掃除と注連縄の張替え。千燈寺さんの読経の後、供物のお神酒と白米ご飯、イリコをいただいて祭は無事終了。妙見とは北極星=ポラリスのことで、豊作の神だ(と思う)。夕方、赤根温泉の座敷で直会、会費2000円也。お開きの後、自宅でご近所の3人と楽しく二次会、夜も更ける。
3日、ご近所のKさんと千燈岳に登る。若葉が美しいが、その代わり眺望は利かない。大きなスズメバチに遭遇したり、下山ルートを間違えたりしたが、無事帰還。Kさんにいただいたリンゴ酢が美味しかった。
4日、今日も暑いほどの陽気。午前中墓掃除。夕方散歩をしていたら外でバーベキューをしている2、3家族の方に手招きされて、お相伴に与かった。周囲一杯に植えられた菖蒲やツツジがきれいだ。すっかり夜になるまで居座ってご馳走になってしまった。
5日、友人のK氏に宇佐まで送っていただく。夏の小学校の同窓会の話など。
ラジオ深夜便
5月23日、夜明け前に点け放しのラジオから歌が聴こえてきた。NHKの「ラジオ深夜便」の歌番組だ。これまでも眠りに入る前に松平定知さんの藤沢周平作品の朗読を聴いたり、早く眼が醒めたときに五木寛之さんの「わが青春の歌がたり」を聴くことはあったが、さすがに午前3時台の歌の時間はほとんど聞いたことがなかった。
先月中旬頃、同じ時間にふと眼が醒めた時、ザ・タイガースの「花の首飾り」が流れ、「遠い世界に」、「今日も夢見る」と続いて、時代が1969年に戻ったような錯覚に襲われた。
先日、渋谷の書店の雑誌やテキストのコーナーで、私と同年か少し年上のご夫婦が何かを探していた。「ラジオ深夜便」のテキストではないかと理由もなく思った直後に、ご主人がそれを手に取った。この番組は多くの人が様々な気持で聞いていると思うが、団塊の世代が加わったことをそのときに実感した。休日の前夜はラジオを聴きながら眠る。
郵便
6月11日、帰宅したら2通の郵便が届いていた。
往復はがきは郷里のK氏からで、8月の小学校の同窓会の案内状だった。早速受け取ったことを電話で知らせる。他のメンバーからも電話があったそうだ。案内文がいいねと言うと、そうかな、と笑った声が返ってきた。
封書は奈良の興福寺さんからで、7月の国立能楽堂での勧進能のチケットが入っていた。曲は観阿弥の「自然居士」、シテは浅見真州さん。
この夏の楽しみが2つできた。
送別会
7月13日、今日も蒸し暑い。昼休みに外に出たら、空の色と陽射しにこれまでとは違うものを感じた。梅雨明けも近い。
午後6時から送別会があり、今日は経理部門の皆さんが私の定年退職をお祝いしてくれた。送別会はあと数回予定しているが、お世話になった方々とお話できる機会を大事にしたい。二次会、三次会も辞さないつもりだ。
自然居士
7月17日、千駄ヶ谷で年一度の興福寺勧進能を鑑賞した。8年目の曲目は観阿弥作「自然居士」。説法僧が身売りした少女を人買いから助ける物語で、シテの自然居士とワキの人商人(ひとあきびと)との緊張感溢れる対決と、シテの舞が見ものだ。少女役の小方、長山凛三くんは鬘を着けて正座し、ときおり大きな眼をぱちぱちさせてはいたが1時間の長丁場に良く耐えていた。4歳とはいえプロなのだ。囃子方のお父さんの長山桂三さんの方が緊張していたに違いない。
静寂の中で舞台から全員が去った後、揚幕のむこうから「ありがとうございました」というかわいい声が聞こえて、初めて拍手と、いとおしむ気持がこもった笑い声が沸き起こった。
外に出ると陽射しはいよいよ強く、帰宅して梅雨明けのニュースを聞いた。
古い船をいま動かせるのは
7月26日、午後、親会社の本社へ退職のご挨拶に行く。住み慣れていたはずの、35階以上のフロアにも知っている人はほとんどいなくなっていた。それでも10数名の方にご挨拶ができた。会った人の誰もが自信に溢れたいい顔をしていた。かつては自分もこういう顔をしていたのだろうか。
20歳の頃、吉田拓郎さんの「イメージの詩」を聴いた。「古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう。古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう。」
かつての新しい水夫も、今やまぎれもなく古い水夫になった。そして、船を降りるのも悪くはない。
退職の日
7月29日、いつもの通勤カバンは持たず、いつもより早く出勤する。仕事の引継ぎは済ませており、机とパソコンには何も残していない。従業員証と徽章を返納して、各部門にご挨拶。記念撮影と会食を終えると正午になった。ロビーでお送りいただいた皆様にお礼のご挨拶をする。ちょうど3分間。花束をいただいて車に乗る。風雨が少し強くなった。
帰郷
8月9日、帰省2日目。朝、東山の墓掃除をする。堆く積み上げた落葉を焼く。煙が杉木立の中を上っていき、蝉が迷惑そうに逃げていく。夕方から激しい雷雨。雨樋から溢れ落ちる程の雨になった。
10日午後、岩戸寺の叔父が来訪。久しぶりにゆっくりと話ができた。西国三十三ヶ所巡りを始めて半ばを過ぎたとのこと。かつて訪ねた三井寺や石山寺、興福寺の話などもする。
11日、台風4号はチェジュ島から韓国沿岸を東北東に進んでいる。午後雨。夕方近所の家でビールをご馳走になる。肴の鱸のアラが美味しい。
12日、朝、庭のいちぢくの伸びすぎた枝を伐る。実は4、50ほど。10時頃、千燈寺ご住職父子が盆の供養に来られた。長男の禅人君から今年の峰入行の話を聞く。9月初めには修行のため京都に戻るとのこと。旧千燈寺護摩堂跡まで散歩。途中親子連れの鹿に出遭う。こちらに気づくと大きく飛び跳ねながら尾根筋に駆け上った。午後隣家のご夫婦来訪、しばらく歓談。
13日、朝、西山の墓掃除。ここには50基ほどの墓がある。落葉や小枝を掻き集めると、ようやく荒廃の気配が消えた。線香を焚き、米と水を供える。
14日、運動不足なので、午前中赤根の小学校分校跡の公民館までの4キロを歩いて往復する。分校開校は133年前の明治10年だが、30年前に上伊美小学校に統合され、閉校した。上伊美小学校もまた統合され、今はない。
午後、赤根で上伊美小学校の同窓会に出席、13名の美男美女が集まり、話は尽きず、夜も更けてお開きとなる。幹事のKさん、ご苦労様でした。
「失われた時を求めて」
8月29日、ずっとプルーストを読んでいる。5月連休前に文庫本の第1巻を買って、夏には読み終わると思っていたが、まだ5巻目の半ばだ。この小説が13巻もあるということを知ったのは、迂闊にも読み始めてからだった。しかも5巻目になっても正直に言うと、あまり面白くない。
読むのを止めようかとも思ったが、これまでに費やした時間を無駄にするのが惜しいので、それもできない。貧乏性なのだ。「失われた時の代償を求めて」読んでいる。負けを取り戻そうと更にあり金を注ぎこむギャンブラーか、絶望的な追加投資に走る企業家心理にも似ている。年内には全巻読破したい。
登高
9月9日は重陽の節句にあたる。もちろん旧暦だから、今日ではなくもう少し先になる。中国の古人はこの日、邪気を払う茱萸(しゅゆ)の枝を髪に刺し、丘に登って菊酒を交して無病息災と豊作を祈ったようだ。茱萸とは秋に紅い実をつけるカワハジカミ(ミカン科)とのこと。丘に登ることを登高という。
杜甫の詩「登高」はこの日に長江を望む山上での絶唱である。「風急天高猿嘯哀(風急に天高くして猿嘯哀し)」から始まり、広大な自然とその中に一人佇む老残の身を詠じている。最終句は「潦倒新停濁酒杯(潦倒新たに停む濁酒の杯)」。
志をとげられないままに老い、かつ健康に不安をかかえながら孤独に耐えている杜甫の精神はまことに清冽だ。かくありたい、と思う。
片瀬江ノ島
9月25日、台風12号が太平洋南岸を通った。片瀬海岸には3メートルから5メートルの高さの波が押し寄せていた。風は陸から海に吹き、サーファーは波に乗って風に向う。烏帽子岩にも波が白く砕けている。
湘南港
10月27日、木枯しが吹いて寒い。10月の木枯しは10年ぶりとのことだ。10年前の日記を見たら「秋冷、風邪気味」と書いていたから、やはり寒かったのだろう。
スケッチブックを抱えて江ノ島へ。漁船を描きたいと思ったが、腰越漁港の入口には「関係者以外立入禁止」の看板があった。以前入ったことがあるので、邪魔にならなければ大丈夫だろうとも思ったが、諦めた。
江ノ島に渡って湘南港ヨットハーバーに行く。ここは公開されていた。
係留されたヨットが北風に揺れて、風に煽られたロープがマストを叩く金属音が、音楽のように響いていた。岸壁に立ったまま鉛筆でスケッチする。正面からの風が冷たく、帆柱とロープを描くだけで終った。
芹ケ谷公園
11月20日、町田の芹ケ谷公園の紅葉を描く。水彩は難しい。油彩と違って一度色を置くと取返しがつかない。まるで人生のようだ。描いていると正午過ぎに携帯が鳴った。中学の同級生からだった。北海道からか?と聞くと、赴任を終えて最近帰京したとのこと。近いうちの再会を約束。
描いた後で美術館に入ると水彩画展が開かれていた。近くを通った人には関係者もいただろう。場所を選べばよかった。
金沢
11月26日、金沢へ。小雨が少し降ったものの、ときおり陽が差して風も穏やかだ。往路、雪の白山が雲間に見えた。
主計町、東山、兼六元町、片町と時計回りに市内を歩いて、長町で日が暮れた。武家屋敷街の中にある九谷焼の窯元で絵皿を買い、夕食。
翌日は予報どおりの雨。歩いて近江町から香林坊を抜けて県立美術館へ。ここに仁清の雉香炉がある。雌雄一対で、「夫」は国宝で「妻」は重文だ。フェミニストではないけれど、対ならば共に国宝にすれば良いものを。美術館の2階からガラス越しに見た紅葉が、濃い緑の木立を背景にして眼が醒めるように美しかった。
美術館を出ると、ばらばらと音を立てて大粒の霰が降り、風も強くなった。
東山 志摩 |
日記果つ
12月16日、遅蒔きながら、来年の手帳を買った。システム手帳に差し替えるタイプの簡単なものだ。
手帳は会社生活を通じて、会社のロゴマークの入ったものを永年愛用していたが、退職4年前に思い立って、市販のものに替えていた。今度は考えた末に簡素なものにした。
「日記買う」は冬の季語だ。私は日記はつけないが、日記を買う人は来年をどうするかを考えて、それにふさわしいものを選ぶのではないだろうか。それは手帳についても同じだ。
耳慣れないが、「日記果つ」も冬の季語だ。今年がもうすぐ過去になる。過去は安心できる。
「日記果つ珠のようなる恋秘めて」(山崎百合子)これは安心できない過去を封じ込めようとする強い意思の句だ。
雪の吽形像
12月31日、昨日で実家の雑用も片付き、年末年始の準備も終えて、今日は暇だ。
カメラとスケッチブックを抱えて千燈寺に登る。護摩堂跡で雪の中の仁王像をスケッチする。像の前には先客の足跡が残っていた。上半身をぐっと左に傾けて、歌舞伎の大見得を切っているような姿の吽形像さんから描く。時折雪が舞って、山が強風でごおっと鳴る。30分程で指の感覚がなくなり、足も凍えてきたので、阿形像を描くのは諦めた。奥の院に参拝して下山。途中で鹿と遭遇、お互いに驚いた。