民俗芸能撮影私論   第二稿 990906 980917 980224
民俗芸能撮影に関する私論       渡辺国茂
○民俗芸能・祭礼を撮影するにあたり、注意すべきことをまとめてみた。


民俗芸能とは
 民俗芸能とは比較的新しい言葉で 「芸術としての意識を伴わず、民俗として伝承された芸能」を意味している。昭和27年(1952)民俗芸能の会が発足して使われ始めた。(三隅治雄氏)

写真を撮る前に、田中雅夫先生の『通過儀礼』論を読む。

 日本リアリズム写真集団の元副理事長で、写真評論家の故田中雅夫氏は竹内敏信写真集『花祭』(1983年誠文堂新光社刊)の中で、「竹内敏信・私論」で注目すべきことを記している、すこし長いが引用する。「竹内にとっての通過儀礼 − 話が妙なところから入っていくが、民俗学用語に「通過儀礼」という言葉がある、個人の生活史における儀礼の意味で、個人の運命に関する一系列の儀礼である。人の一生のなかで、一つの段階から次の段階へ移っていく重要な時期に行われるので、通過儀礼と呼ばれる。…略…」(そして実弟の写真家濱谷浩の話しになり、写真家の修行の段階でやっておくべきこととして、次のようなことを言っている)「筋金の入った写真家を志すのであれば、漫然とシャッタ−を切っていてもだめだ。カメラの持ち方、構え方、シャッタ−ボタンの押しかたといった物理的なことは、少し教わればすぐに習得できるものだが、もっと別なことで、やっておく必要のあるものがあると思われる。私はそれを、若い時分に濱谷浩と写真修行をしている段階で理解した。」と言い、婦人雑誌のグラビアの仕事をもらい、浅草のレビュ−を撮影する時のことを書いている「…あるレビュ−劇場へ写真を撮らしてくださいと申し入れた。いまみたいに、若いカメラマンが浅草あたりをウロチョロしていた時代ではなかったから、楽屋の出入口にがんばっているおじさんからはケンツクを食わされ、やっと支配人らしき人物に会うと胡散くさそうにあしらわれる。そういう難関をいくつも突破して、やっと夜中の、十二時頃から始まる次の興業の稽古を撮影をすることに成功したのである。そういう場合、ステ−ジ・マネ−ジャ−にどう接したらいいか、踊り子さんたちにはどうしたら喜ばれるか、木戸のおっさんは、掃除のおばさんは、というのをしだいに身体でおぼえていったのである。私はあれは、濱谷浩が写真家になるために通過した一つの儀礼、つまり通過儀礼だと思っている。
 そのあと戦時中から戦後にかけて七年間ほど越後の桑取谷という山村の小正月の行事を丹念に撮影し、それはのちに「雪国」という写真集になったが、これも私は彼の写真生活のなかの通過儀礼だったと思うのである。
 写真によって表現しようという主題によっても異なるが、日本の民俗生活、民俗芸能、あるいは年中行事といった種類のものに照準を合わせた仕事をしようという、写真家、写真家志望者にとって、私はたとえば、青森県下北郡大畑町恐山の七月地蔵尊巫子、山形県櫛引町の二月春日神社黒川能、愛知県北設楽郡一帯の十一月〜一月の花祭、長野県下伊那郡阿南町の一月伊豆神社雪祭といったものに見参することが、一種の通過儀礼だと考えている。(略)私はこの花祭こそ竹内の通過儀礼だったと解釈しているのである。 …以下略… 」
 つまり民俗芸能(祭)の写真を撮影する写真家になるためには、通過しなればならない民俗芸能(祭)があり、そのものを撮影してゆくことにより、写真家に成長する、と言っています。そのためには民俗学の勉強と、場合によっては共同研究者や、民俗学の専門の人と組んで(おそわりながら)撮影することも必要です。また人に接するときの常識的な付き合い方法を勉強する必要があります。当然夜中の屋外の寒い雪の中で、カメラを扱う方法も熟知しておく必要があります。 田中雅夫さんがこれらの祭を取り上げたのは、どの祭も徹夜で行われる祭であり、その祭の場所にゆくにも努力が必要で(交通機関が不便で電車やバス・タクシ−を乗り継ぎ、場合により数時間あるく必要もある)、体力・気力・知力を要求される祭だからです。
(注 『花祭』のこの文章を通して田中先生は私が黒川能を撮影していることをご存知だったので、私へのエ−ルも含まれていると勝手に解釈しています。ぜひ『花祭』写真集を見て読んでほしいと思います。)
 (注・民俗学は1国の民族学をさします。・広辞苑か辞典参照)

私の黒川能撮影記

 73年(昭和48年)JRP東京例会が新宿厚生年金会館会議室でひらかれました。講師は田中雅夫先生と竹内敏信先生で議題は『民俗芸能・年中行事の写真記録 −その方法と実際− 花祭りカラ−スライド上映』でした。この講座を聞き1ヶ月後の74年1月2日東京駅から新幹線に乗り豊橋経由で花祭りの里、東栄町に行き2日間徹夜で花祭りを見学しました。この祭は人生観を変える祭でした。中世から続く神事芸能が、数百年という時間を感じさせずに今行われているのです。徹夜で人々が踊り狂う様は、まさに私の知らない世界でした。それから2年間天竜川流域の祭を見て歩きました。それは自分に合う祭探しの旅でもありました。
 桑沢デザイン研究所の夜学で写真を学び、日本の祭を撮影するようになりましたが、どこか場所をきめて一つの祭にかよえば、日本の祭の本質的なものが(古代人のこころ)が見えてくるのではないかと思いました。 
 66年(昭和41年)1月発売の雑誌『太陽』2月号に「雪国の秘事能」という特集記事が掲載されました。この本は大事に取ってありましたので時々見ていましたので「黒川能」を見に行きたいと思うようになり、先輩カメラマンに聞いて私の黒川通いがはじまりました。
 75年(昭和50年)2月の王祇祭を初めて見学しました。2月1日早朝から神事がはじまり夕方まで色々な行事があり、午後6時からの能をみるために午後3時過ぎから祭をする家の外で場所とりのための行列をして待ちます。能は午後6時すぎから明け方5時頃まで続き、民家(当屋とよぶ)での能が終わると、今度は春日神社へもどり夕方4時過ぎまで能と神事の続く、2日間にわたり徹夜で行われる祭で、それまでに見た「花祭」「遠山祭」をしのぐ祭でした。
 この黒川能をみたあと日本各地の祭撮影を、黒川能だけに集中して通いだしました。3月23日の祈年祭、5月3日の例大祭、7月15日の羽黒山花祭での黒川能奉納8月15日の荘内神社大祭11月23日新嘗祭と通いだしました。
 能終了後、上座の楽屋へおそるおそる写真を持参して批評していただきました。まず酒を飲まされてそれから、写真が悪いと“ごしゃかれ”(怒られ)ました。そして神社の社務所でおこなわれる直来に参加しろと言ってくれました。
 76年の王祇祭は抽選ではずれましたが、上座の長老・剣持松兵衛さんに許可をいただきもぐりこみました。このとき黒川へ行けたおかげで24年間遅刻はありましたが、王祇祭は皆勤です。
 『黒川能』は薗部澄さんが2年間黒川へ通い、カラ−で撮影してほとんど完成した形で発表しましたから、最初はどういう風に撮影するか迷いました。しかし10年たてば、別の写真展が出来るのではないかと思い撮影にかよいました。そのうち撮影番組も増えてきて、とりあえず黒川能50番撮影をめざしました。
 能は興味があって東京の水道橋能楽堂へは時々見に行っておりましたが、撮影するとなると、能に対する知識不足が気になりはじめました。そして五流(観世・宝生・金春・金剛・喜多の五流派をさして言う・注1)廃絶曲といわれてもピントこづ、黒川能で演じるといっても何がなんでも撮影するという気持ちがありませんでした。ところが、山形新聞などに50年ぶり上演とか70年ぶり上演という記事をよむにつれてこれは、大変なことだと気づきました。
 私の場合は最初、上座に出入りしていたものですから、あの人は上座の人だと言われて、下座を撮影するのは色々大変でした。現在では貴重な演目が上演されるときは、夜中にこうりついた道を歩き上座から下座へ・下座から上座へ移動出来るようになりました。(当然場所を変わると中に入れませんから、楽屋から中に入れていただいています)困ることは、「上座」で途中まで撮影していて「下座」へ移ろうとするときに、楽屋から渡辺さん差し入れですと「ごちそう」のとどくときです。
良く考えてみると次の番組にその方のお子さんが出演されるからで、そんなときはその人の気持ちを大事にしてそのまま撮影を続けたときもありました。
 土門拳師の言葉に神様がシャッタ−を押してくれた写真の話がありますが、私の写真にもそんな気持ちで撮れた写真がいくつかあります。「所仏則翁」「隅田川」の白黒写真や、カラ−では78年に撮影した「所仏則翁」(剣持源三郎師)「所仏則三番叟」(清和政右衛門師)の写真です。春日神社舞台で撮影した「敦盛」の写真がありますが、シテの清和政治師の立たれた位置が良く、面に光があり、公達武者の感じのよく撮れた好きな写真もあります。
 黒川能王祇祭は2月1日朝3時ころから40数時間続く祭ですから、ペ−ス配分と場所取りが重要です。(どこの祭でも場所取りは重要・これで写真の半分くらいは決まってしまう)黒川能の場合、当屋へ入るのに約2時間外でまちますが、私の場合5〜6年外でならびましたが、現在は親戚待遇で先に入れて頂いています。そして中に入ったら最低4時間くらい足ものばせない状態になります。せまい民家に百人以上のひとが、びっしり能を見るために入ります。最初は元気がありますから、撮影できますが、夜中になると朝の5時頃おきた関係で眠くなります、睡魔との競争になります。能の場合前シテの部分で少し休養して、後の場面でがんばるという繰り返しですが、眠ったときに起こしてくれませんから撮影しそこなう時もあります。お酒をときどき頂いてエネルギ−元にしてがんばるしかありません。2日の夕方4時頃神社の神事はすべておわり、見学者達は帰途につきますが、じつはこれからが内部の祭なのです。祭の終わった家、来年の祭を受けた家、それぞれの家で祭があります。祭の終わった家では、がらんとした家に当屋頭人と王祇持ち・提灯持ち・棚上りの若い衆・所帯持ち・親戚の衆、そして座の役者集が7〜8名で御祝儀の謡を謡います。このときの謡はしみじみとして胸の熱くなる謡です。(高砂や養老等の小謡を謡う)祭のあとの静けさのただよう感じの時でもあります。
 祭を引き継ぐ家では春日神社からいただいてきた、王祇様に付けてあった布を首に巻いた若者が床の間の前にすわり、来年の当屋頭人はじめ親戚の人達数十名のいるなかで、ここでも座の役者衆が、御祝儀の謡を謡います。謡が終わると王祇様の布が若者の首から外され三宝にのせられ床の間に飾られます。そして祝宴がはじまります。精進落としで、ナマモノが膳に出されます。
 3日は当屋の後片づけで大変です、太夫さんの家では若い弟子達が使った能装束や面を整理して宝蔵にしまいます。そして夕方能太夫家では、能役者へねぎらいの宴がひらかれます。ここまで撮影すれば、私の仕事が終わります。
 話がすこし元にもどりますが、85年(昭和60年)11月国立能楽堂で黒川能が2日間3公演おこなわれました。当時は国鉄(現JR)が強い時代で公演日がストライキにぶつかり観客はバスや私鉄、タクシ−で会場にあつまり、熱心に黒川能を見学していました。私はこのときカメラマンとして初めて国立能楽堂のカメラマン席から撮影しました。小さな三脚を持ち込んで撮影しましたが、カメラブレがあり、すぐ大型三脚を買いました。そして宿所の日本青年館で酒を飲みすぎて、つぶれてしまいました。翌日蛸井伊右衛門さんから「これで、渡辺さんも黒川の人になれましたね」
といっていただけました。この日は朝1番電車で家に帰り昼前、再度国立能楽堂へ行きました。
 91年(平成3年)7月山形県と米国コロラド州が姉妹州県の文化交流で、山形交響楽団・黒川能・谷地舞楽一行が渡米することになりました。私は上座座長剣持松治師や当時の黒川能保存会事務局の佐藤氏にお願いして、自費でカメラマンとして参加しました。記録撮影とビデオ撮影を担当しましたが、持参したカメラが2台故障したのには参りました。なんとか撮影でき、ビデオは帰国後3時間テ−プに編集して、喜ばれました。
 このころから「能」を理解するには「謡」が解からないとだめだと思うようになり、宝生流の謡を勉強しはじめました。能の写真は「謡」が解かると撮りやすくなると思います。つまりその能独特の型があり、その型を撮影すればだいたい何という能かわかります。古典芸能を撮影する方は、その地になっているものを勉強する必要があるでしょう(浄瑠璃・義太夫・説経節等)
 96年5月新宿のオリンパスギャラリ−で『黒川能王祇祭』の個展を開きました。黒川からも沢山の方に見に来ていただき、大変感謝しています。蛸井伊右衛門さんからは「渡辺さんがどんな写真展を開いているか心配でみにきましたが、この写真展を見て、なんで東京の人が、黒川能を見に来るのかわかりました。」と言っていただけました。この写真展は1週間で千名以上の方にみていただけました。能の関係者では、増田正造先生・堂本正樹先生・堀上謙氏、国立能楽堂の油谷氏、写真関係では、藤本四八氏・JPS副会長で祭写真について私が影響を受けた、芳賀日出男氏、国立劇場の森田抬史郎氏、田中光常氏、歌人の馬場あき子氏、参議院議員戸田邦司氏そのほか沢山の人に見て頂きました。堂本先生には後日「能楽タイムス」に「隅田川」の写真について「日本の母の悲しみが表現されている」と書いていただきました。
 この写真展はプロ写真家が黒川能を撮り出したので、企画しました。ほんとうは時間をかけて密度を高めた写真展に出来ればよかったのですが、現行の演目すべてを見てもらうように会場構成をしました。これはこれで自分の写真の長所短所が解かりよかったと思います。
 この写真展だはぜひ見て頂きたかった先生方がいます。目島計一先生、アドバイスを頂いた、田中雅夫先生、伊藤知巳先生、そして黒川能の写真を本格的に最初に紹介された薗部澄先生と黒川能を広く紹介された詩人の真壁仁先生です。
 黒川能の魅力は、黒川(櫛引町)に住む人達の人の魅力だとおもいます。役者、囃子方、神社役員、大人衆、裏方の皆さん、そして女子衆です。黒川に住み人々は年齢によりそれぞれの役割があり、子供も隠居衆も色々なところで協力しあって生活しています。そして黒川の祭をこれからも続けていけるようにいろいろな改革をこころみています。こんな場面をこれからわ撮影してゆきたいと思います。
 能役者衆の魅力は芸に打ち込む心意気でしょう。能が終わり直来(酒をいただきながらのご苦労さん会兼反省会)では、上座下座の能の話、同じ座の人達の間では「謡」について、「おまえの謡は違っている、こう謡うんだ」とか型が違っているとか、芸談に花がさきます。そして上座が仕舞いを舞えば、すぐ下座も仕舞いを舞います。黒川能の本当の魅力はこういう所にあるのではないでしょうか。
 黒川能は現在までに能96番、狂言32番、翁式三番弓舞で11番撮影しました。江戸時代から記録にある演目数は約160番(能)です。すこしでも多くの番組を記録してゆきたいと思っています。わたしは黒川能で写真家にしていただきました。黒川へ24年間百数十回通い続けて黒川外黒川民になれました。これからも黒川へ写真が返せるよう写真を撮り続けたいと思っています。ほんとうはただ能をたのしむお酒大好きオジサンになれたらいいと思っているのですが。最後にこの仕事は家族の協力なしには出来なかったと思います。家族に感謝そして『継続はちからなり』。
 
注1・室町時代観世・宝生の2座を上掛り(都風)、金春・金剛の2座を下掛り(田舎風)と呼び4座と称していたが、江戸時代初期に将軍家のひきたてにより金剛七太夫が一派樹立を確かめられた。
これを四座一流と言っていたが、現在は五流と呼んでいる。なを梅若流は江戸時代観世座のツレ専門の家だったが明治の混乱期に活躍し観世流をもりたてた。一時観世流からの独立を試みたが、各家元の反対により独立出来なかった。現在は観世流内にあり、梅若派で活動している。黒川能から五流廃絶曲(河水・大般若)をとり、復活させて梅若の薪能で上演している。
 

秋川歌舞伎「あきる野座」座付き写真屋へ

 東京にただ一つある農村歌舞伎「二宮歌舞伎」は1980年代に1度復活をはたしましたが、3年で挫折しました。義太夫の太夫が亡くなったため、歌舞伎が出来なくなってしまったのです。私は当時多摩の民俗芸能を撮影した関係で、最後の公演の写真を撮影しておりました。
 平成2年頃から、二宮歌舞伎復活の話が起こりました。活動の中心になって活動されたのは、たましん美術館の館長で多摩信用金庫発行の季刊誌「多摩のあゆみ」の編集長でもある、原嘉文氏でした。
 ことのおこりは98年(平成元年)『多摩のあゆみ』57号に「多摩の伝統芸能」として「二宮歌舞伎」「説経節」が特集され、翌年二宮歌舞伎「栗沢一座(市川増三郎師)」の衣装・かつらが秋川市(現あきる野市)教育委員会の文化財調査の対象となりました。この調査を秋川市文化財保護審議会委員でもある原嘉文氏と二宮考古館館長の成迫政則氏が担当され、そのほかに原氏の関係で地元の「秋川歴史研究会」の方々と八王子の「説経節の会」の方数名が協力しました。照査の結果歌舞伎道具一式が使えることがわかり、農村歌舞伎復活の気運が盛り上がりました。そして二宮歌舞伎保存会(会長・河野専一氏)が結成され、市の援助と外部の補助金を獲得して、91年秋二宮歌舞伎復活公演を市川増三郎一座と東京都の有形文化財である、菅生組立舞台で実現することが出来ました。
 私は多摩の民俗芸能を撮影を再開してから、時々各地の祭で原嘉文氏にお会いして、いろいろ話をしているうちに昔の二宮歌舞伎を撮影しているということから、協力を求められ練習から撮影をはじめました。
 ある公演の時です、役者のお化粧を撮影しているとき、M氏に急に部屋から出て行けといわれました。本人は部屋に残り撮影を続けておりましたが、こちらは外にでました。そのとき保存会庶務担当の方が、渡辺さん中に入って写真撮ってください、といわれ再度中で着付けと化粧の写真を撮影しておりました。M氏が再度近づいてきて文句をいいましたが、無事撮影を続けられました。日ごろの実績で座の方々から支持していただいていおり、撮影を続けることができました。写真家は撮らせていただいた人達へ写真を返す作業が大切で、いざというときに強力な味方になってくれます。つまりどういうスタンスで写真を撮るかということも非常に大事だと思います。
 92年秋川歌舞伎保存会では、行政側(教育委員会)の協力により学校5日制導入と合わせて秋川子供歌舞伎を創設しました。市川増三郎(栗沢一男)師匠から演技指導をうけた子供たちはめきめき腕をあげ、翌年「TAMAらいふ21」昭和記念公演TAMAアリ−ナで旗揚げ公演をみごと成功させました。このとき装束費用は約2千万円かかりましたが、行政側や民間の援助団体から補助をうけてまかないました。
 秋川歌舞伎という名称は「二宮歌舞伎」では地域が限定されすぎるということもあり、秋川市の歌舞伎ということで秋川歌舞伎と名称を変えました。そして秋川市が五日市町と合併してあきる野市となりましたので、さらに秋川歌舞伎「あきる野座」と座の名前をつけました。行政側が補助金を出しやすい名称に変えて、地域全体を巻き込んで民俗芸能を保存してゆく体制を作っています。
 秋川歌舞伎復活に多大な援助をしていただいた原嘉文氏は96年病気で逝去されましたが、1周忌の偲ぶ会では子供歌舞伎が上演され、原さんの業績に感謝しました。
 秋川歌舞伎は数年がかりで、自前で舞台と大道具類・小道具類・背景幕等を作りました。これで菅生の組立舞台の人達の手をわずらわさず自前で舞台を作れるようになりました。歌舞伎演目は「絵本太功記十段目・尼崎閑居の場」とおなじく「絵本太功記二段目・本能寺の場」で特に地歌舞伎では二段目は秋川にしかなく、東京の歌舞伎座でもこの百年位の間上演されていません。昨年は「義経千本桜・鳥居前の場」を大人歌舞伎で上演し今年は、若手の役者に移して練習中です。
 秋川歌舞伎は市川増三郎一座と菅生地区の東京都文化財の組立舞台師さんたちが演じる歌舞伎と「あきる野座」の3つの座があります。そのなかで「あきる野座」は創設10年目を節目にして東京都の文化財指定を考えており、地歌舞伎全国サミット開催も考えています。
 昨年(97年)はカラ−コピ−による手作りカレンダ−を、約60部位作り好評でしたが、今年(98年)はあきる野座発行でポストカ−ド12枚組を作成中です。
 今年から私は秋川歌舞伎「あきる野座」理事に任命され、座付きカメラマンとして舞台写真を撮影しています。今後は写真をまとめて、発表するのが私の課題です。
 

民俗芸能撮影上の注意

 祭を撮影してゆく中でいくつか、注意することがあります。祭(神事)に関係することと、写真家側の機材のことです。
@祭(神事)にはいくつもの決められた約束事があります。祭のル−ルを勉強しておく必要がある。祭には結界があり、一般の人の立ち入れない場所があります。写真家だから何でも撮影してよいと勘違いして入っていって、つまみ出された人もいます。(たとえば屋台や山車の引綱はまたがないとか、注連縄のはられた内側には入らない。高いところから御神体を撮影しない等)
A場所取りが重要、祭によっては数時間前から撮影ポイントを確保しておく必要がある。(事前にロケハン・水分をひかえてトイレにいかなくてすむようにする。場所取りに脚立を立てておけば短時なら場所を離れてもとられることは少ない、ただし割り込まれることはある)
B祭は複数の場所で神事が執り行われる場合があり、どこの神事(芸能)を撮るか考えておく必要がある。(たとえば黒川能は上座下座の離れた2個所で同時進行形で能が演じられる)
C祭の行われる場所では交通の不便なところも沢山あります、帰りの足の確保を考えておく必要があります。(たとえば、小鹿野鉄砲祭(12月)や檜原村小沢式三番(9月)等は終わりまで祭をみていると帰りのバスは無い)
Dストロボをたけない祭もある。(御神体を御輿に遷す時や演劇的要素のある祭(黒川能)等)
E祭の流れは(時間的経過)事前に勉強しておくこと。一番重要な神事(行事)のときにフィルムが無くなったり、フィルムの取り替え作業をして、チャンスを逃さないようにする。(能や神楽、三匹獅子舞などで前半部にフィルムを使いすぎて、後半部の面白い場面でフィルム切れをおこす人をよく見掛けます)
Fカメラは2台持ってゆく、あと1台あればコンパクトカメラを持ってゆく。2台同時にフィルム切れにならないよう、使用する。
Gタングステンフィルムを用意する。(ストロボの焚けない祭のため)
Hフィルムは余分にもってゆく。交通費を考えればフィルムのが安い、そして地方ではフィルムは高くて手に入らない場合が多い。(ネガフィルムはどこにでもあるが、高い)フィルムは増感現像出来るから、光量不足のときは増感する。(フィルム先端は巻き込まないで、1つ折っておくとノ−マルで2つ折っておくとプラス1増感というような自分のル−ルを作っておく)
I電池類も余分に持ってゆく。
J雨具(折畳み傘、ポケットポンチョ類)は鞄の中に入れておく。防寒具にもなる。
K懐中電灯は数台用意する。(1台はル−ペ付きとか、ランプ部の曲がる物や、ボ−ルペン付きランプ等)
L冬は使い捨てカイロは必需品
Mカメラ類は手放さない。(持ってゆかれる場合もある)
N筆記類、行事の進行状況をメモしておく。神事の名称も書いておく。テ−プも有効、最近は小型ビデオも有力。
(別項でチェックリスト的な項目あり)
 

民俗芸能(祭り)の基本文献

1共通文献 柳田国男全集 折口信夫全集 早川孝太郎全集(花祭)
 [追加030302]本田安次著作集・宮本常一著作集・「民俗芸能入門」西角井正大・「日本民俗芸能概論」三隅治雄著 
        「神と舞う俳優(wazaogi)たち − 伝承芸能の民俗」須藤功著・「民俗学の方法」井之口章次著 
2秩父地方 清水武甲氏の写真集(『秩父民俗』木耳社・『秩父路50年』新潮社・とんぼの本・こ の 
 中に秩父の年中行事表有り) 南良和氏の写真集(『秩父』『日本農民』)
3多摩地方 各社ガイドブック・『多摩のあゆみ』多摩信用金庫発行季刊雑誌
4日本全国 『民俗文化財要覧』文化庁(芸艸社)
5写真集  芳賀日出男氏の写真集 萩原秀三郎氏の写真集 濱谷浩の写真集(雪国・裏日本) 薗 
 部澄氏の写真集(黒川能・そのた) 原さんの『東京の祭』 渡辺良正氏の写真集(遠山祭その た) 
 植田正治『童暦』(祭の写真ではないが)
6祭関係の写真集
 

祭り情報の入手法

1市町村発行の自治体パンフレットにその地方の年中行事と地図はだいたい記載されている。この資料は市町村に返信切手を同封して請求するか、東京駅八重洲大丸の8階9階にある各県の出張案内所か、隣のビルの国際観光会館ビルの2、3階をまわれば入手できる。 デパ−ト等で開かれる県の物産展でも入手可能。
2入手した観光パンフレットから教育委員会の社会教育課か、観光協会に電話すれば日時やくわしい場所を教えてもらえます。
3インタ−ネットを使い(たとえばヤフ−の検索エンジンとか)市町村情報を入手することもできます、まだ全国の市町村がインタ−ネットで情報発信していませんが、個人で発信している方が多くなりました。かなりの祭が情報入手可能です。
4地方発行の新聞 日比谷図書館で講読可能。 東京に支社がある。
5東京近県情報は各鉄道会社発行のパンフレット。中央線沿線の行事は新宿駅1階の観光案内所。
6朝日・読売・毎日・サンケイ・東京 各新聞の夕刊の行事お知らせ欄
7祭関係の団体 日本民俗学会・明治神宮内儀礼文化学会・まつり通信(名古屋)
8テレビの報道 UHF局の祭番組 NHKの日曜日『ふるさとの伝承』ふるさとの伝承は再放映もあり半年に一度位再々放映もしています。私は気になる
祭は全部ビデオに取って有ります。
 

交通手段と宿泊
*祭によっては宿泊所や食堂は無いところが多い。その町の観光案内所(役場)に聞けば教えてくれます。
*駅から離れた場所で行われていることが多いので、帰りの交通手段を考えておく。
*祭によっては徹夜で行われる場合もある。(食事をどうするか)
*民宿を利用することも考える。(祭情報が入手しやすい)
 

撮影機材(チェックリスト作成の参考に)

1 フィルム (どこでもストロボは、たけると思うな)
*カラ−   デ−ライトフィルム か タングステンフィルム か ネガ か
*デ−ライト プロビア100・アステア100
*タングステン コダック320Tを場合により増感度現像する。
*ネガ フジの400か800を使用しラッシュでポジを作っておく。(1300円位)
*モノクロ  プレスト400でほとんど撮影可
  カラ−モノクロフィルムの増感・減感現像を考えておく。プロラボの利用。
  地方ではネガフィルムしか手に入らないと考えて、フィルムは余分に持って行く。
 
2 カメラ  2台は必要 予備を入れて3台(1台はコンパクトカメラが便利)
 AFカメラで可だが、マニュアルで使用できること。スロ−シンクロ出来るカメラ。
 コマ間デ−タパック付きカメラ1台あると祭の進行がわかり便利。予備電池必要
 明るいズ−ムレンズ(f2.8 必要)と単品20・35・50ミリと1.4倍テレモアとマクロレンズ便利。
 
3 ストロボ 大型電池パック使用出来る物と小形ストロボ。
 ストロボを拡散(レフ板)させるか、殺して使う。スロ−シンクロや、軽く光らせる技術必要。
 
4 機材
 懐中電灯2個位大小・カイロ数個・磁石・ア−ミ−ナイフ・予備の電池沢山・三脚・脚立・一脚・ビニ−ル袋(雨の時カメラくるむ)・ライト付ル−ペ(夜の祭に便利) バッテリ−チェッカ−
5 服装
 ポケットの沢山ある服・帽子・手袋・タオル2本位・雨具
6カバン
 ザック式が便利。カバン。小さくなる手提げ袋・肩掛け小バック・貴重品は身体からはなさない工夫。
7 小物類   手帳・ノ−ト・マジック・ボ−ルペン(紐付便利)・接着テ−プテ−プレコ−ダ−・必要に応じて御祝儀袋(つつむと食事させてくれる祭あり)
 

祭りの種目分類(体験的分類と見どころ)

1 人形芝居
 人形芝居か各地に伝承されており、文楽型式の3人遣いから、2人遣い、一人遣い、そして下呂温泉にある一人で多数の人形をあやつるカラクリ系の人形まで沢山あります。また風流系の弥五郎どん人形(九州)から、道祖神系の人形、山車のからくり人形、等調べれば、きりがないほど沢山有ります。
2 地芝居
 地芝居とは地方に伝承された歌舞伎をさします。日本全国に百以上あると言われ。江戸時代の古い歌舞伎を伝承している所も有ります。東京のあきる野市には百年の歴史をもつ秋川歌舞伎があり、絵本太功記二段目本能寺の場を上演出来ることで有名です。 また小鹿野町は歌舞伎で町おこしをしており、5団体も上演可能です。地歌舞伎上演団体が連絡会をつくり、毎年「全国歌舞伎サミット」を持ち回りで開催しており、秋川歌舞伎保存会にも開催要請がきています。
3 獅子舞
 獅子舞の歴史は古く、いろいろな種類の獅子舞があります。関東地方から信州にかけては三匹獅子舞が多く伝承されており、地域により微妙な差があります。
4 伝統花火
 日本古来の花火も沢山あります。近くで有名なのは、茨城県伊奈村の綱火です。浜名湖の側の新居市には勇壮な手筒花火があります。
5 火祭系
 火祭りは各地にあり「那智の火祭」「鞍馬の火祭」が有名ですが、盆の送り火に関係した火祭りや、新年を迎えるための火祭り、小正月の火祭り等沢山あります。
6 稲の祭
 日本の祭は弥生からの稲の祭と縄文から続くと思われる、イモの祭や狩猟に関係した祭が有ります。「お田植神事」「収穫儀礼(赤米の祭)」等
 

祭りに残る猿楽能・延年能・田楽能・幸若舞

 ○長滝の延年  1月6日   岐阜県白鳥町白山長滝神社 当弁楽を伝承
    (注・黒川能大地踏の中で「当弁楽はつくすとも能申楽はつくすまじ」と言う)
 ○延年の舞   1月20日  岩手県毛越寺 能は「留鳥」のみ残った。中尊寺古実式三番
 ○幸若舞    1月20日  福岡県瀬高町大江・天満社 室町時代信長も愛好した。
 ○水海の田楽能 2月15日  福井県池田町水海 田楽と能舞を伝承
 ○大須戸能   4月3日   新潟県朝日村 黒川蛸井甚助師が指導して復活させた。
 ○五十川の能  5月3日   山形県、歌舞伎もあり。
 ○松山能    8月20日  山形県松山町。観世流の能を現在は地元の人が上演。
 ○能郷の能   4月13日  岐阜県根尾村 越前猿楽 主に能の後部分を上演
 ○題目立て   10月12日 奈良県都祁村(ツゲムラ) 謡曲を神社境内で上演
 ○住吉神社の翁 10月4日5日 兵庫県 上鴨川  丹波猿楽の翁
 ○各地の三番叟 東京檜原村・小沢・笹野/埼玉県蓮田町潤戸/伊豆や群馬の人形三番叟
 ●天竜川流域の祭り(ほとんど夕方から始まり、明け方まで続く祭り・徹夜で見物する)
 ○花祭り    11月23日〜1月4日頃まで 地域により日程が違う、2日掛かりの
               徹夜で行なう神事  (申楽の元の姿をのこす)
 ○遠山祭    12月10日〜1月2日頃まで 霜月祭り 徹夜の祭り(海道下り等に
               猿楽の遺風を残す)
 ○ 雪祭り   1月14日 新野町 折口信夫命名の祭
 ○ 冬祭り   1月 4日 富山村
 ○ 参候祭り 11月  日  愛知県設楽町 田楽の遺風 問答にさんぞうろうと言う
 ○ 西浦田楽 旧1月18日西浦町 田楽を伝え、演技にモドキという演出法を持つ・等
 ○奈良豆比古神社翁舞 11月8日奈良県奈良坂町翁三人舞で春日若宮のおん祭りと共通
 ○佐渡の能   徳川時代初期佐渡金山発掘から。世阿弥配流からではないらしい。
 ○壬生大念仏狂言 京都壬生寺 能以前の姿を残す。ガンデンデン
 ○嵯峨大念仏狂言 京都清涼寺 壬生より素朴
 ○わくら大念仏狂言 京都府 4年に1度 近年復活
 ○鷺流狂言   明治になり廃絶した狂言の流派、山口市に民俗芸能として伝承。
 ○松山能 0820 民俗芸能としてよりも、武家の式楽を残している。(観世流)
 ○五十川の能  5月3日     歌舞伎もおこなう。
 ○大山の能狂言 神奈川県秦野市 江戸時代から能・狂言あり、現在は狂言のみ地元の人
 

そのほか民俗芸能撮影のための資料

○天竜川流域の祭
  1 花祭    2 遠山祭    3 冬祭    4 雪祭
  以上の祭は上記参照
 ○御柱    諏訪大社上社・下社 6年に1度。 末社で小さな御柱あり。
 ○人形芝居  早稲田人形・黒田人形
 ○地歌舞伎  大鹿村歌舞伎
○黒川能(上記参照)
○早池根神楽・岳神楽・東北各地の番楽
○秩父の祭
 ○人形芝居
 ○地歌舞伎(秩父歌舞伎・小鹿野歌舞伎・両神歌舞伎)
 ○獅子舞
 ○子供組の祭
 ○神楽
 ○山車
 ○風流系の祭
 ○その他 / 御田植祭
○奥武蔵の祭
 ○獅子舞
 ○神楽
 ○山車
 ○その他
○多摩の祭
 ○車人形芝居
 ○秋川歌舞伎
 ○獅子舞
 ○風流系の祭 / 鳳凰の舞・鹿島踊り
 ○神代神楽
 ○山車
 ○神輿系の祭・大国魂神社くらやみ祭
 ○その他
○関東その他の祭
 ○人形芝居
 ○地歌舞伎
 ○獅子舞
 ○風流系の祭
 ○神楽・鷲宮土師系神楽
 ○山車
 ○神輿系の祭・三社祭・深川祭・佃祭
 ○その他
◎私の好きな祭
 ○東北   祭堂・秋田県鹿角市/早池根神楽・大迫町。 ねぶた・ねぷた青森各地
 ○中部   天竜川流域の祭
 ○奥多摩・秩父の闇の祭
 

撮影実践論的まとめ 小論

 ○後処理 『発表』することを考えよう。(写真展・雑誌等)
 ○撮影写真を必ず届けることが、内部(楽屋)に入れるかどうかの分かれ目。
 ○民俗学のわかる人との話し合い必要、わからない人に批評されてもムダ。
 ○民俗学の講義が出来るくらい勉強しよう。
 ○祭写真を撮影している人達を見ていると、ル−ルを守らない人達が沢山います、有名なプロカ 
  メラマンでも黒川能の演能場面でストロボ禁止にも関わらず、撮影出来ないためストロボを使
  います。タングステンフィルムを持ってこなかったためです。調査不足のためです。これはド
  キュメンタリ−系のカメラマンに多く、民俗芸能・祭を撮影しているプロカメラマンにはみら 
  れません。
 ○昔のしきたりを守っている祭には、沢山のきまりごとがあり、撮影禁止の場面がありますので
  注意が必要です。(追い出されること有り)
 ○事前に祭を研究することが、大事です。こんな写真を撮りたいと幾つかイメ−ジしてゆくこと
  も必要です。撮影にあたってはイメ−ジにこだわらず臨機応変に動き・撮影すること。
 ○最初の祭は感動も大きいので、なるべく沢山撮影することをおすすめします。
 ○祭は最低3回みてほしい。つまり3年かよへ!
 ○撮影時フィルム切れや(フィルムを使い切ってしまう場合や寒くてフィルムが切断するときも
  ある)、電池切れ、カメラ故障でパニック状態になることがあります。そんな時の対処方法も考
  えておきましょう。
 ○フィルムは沢山もってゆこう。現地ではほとんど入手不可能(電池も単1・2・3以外は入手 
  不可と思うべし)
 ○少量のお酒・ドリンク類と菓子飴類・弁当おにぎり(食堂の無い地方もある)を準備する。
 ○防寒雨対策。
 
◎疑問点の学習
 ○全国各地の祭をみていると、類似点と相違点が気になりだします。自分なりの祭の系統図や分布図を考えて系統的に撮影するのも勉強になります。
 

デ−タ−ベ−スを作ろう

 撮影後その民俗芸能の名称・日時・演目等のデ−タ−ベ−スを作っておくこと。特にモノクロフィルムの場合しっかりした台帳を作っておけば、カラ−フィルムを1コマずつにカットした場合でもあとで検索可能です。(コンピュ−タ−のデ−タ−ベ−スを利用して作る)
 ○撮影で失敗した場合、原因を追求しておき次回は成功させる。
 

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