一一月二八日 ウェルフェン公国南部 ビューリンゲン州オーフェル地方
傷だらけで、しかも甲冑さえおびずに公国に入った騎士を発見したのは、ひきつづき南方を警戒するようにとフィンセントから命令をうけていたヒドの部隊である。部下が連行してきた騎士をみて、ヒドはまずおどろき、
「あなたがどうしてこの地に? なにがあったのです!?」
兵士たちは顔を見あわせた。彼らの上官が、これほど鄭重になっているのである。この人物はそれほどの貴人なのだろうか。
公爵家の家臣は、よほどの重臣でも、特別な任務をおびた者でないかぎり、めったに王都の社交界には顔を出さない。他の貴族や騎士が国王に直結しているのに対し、彼らは陪臣であり、その点で遠慮があるのだ。ヒドは王都では筆頭武官でありながらもフィンセントの護衛官のような役をはたしていたので、彼に随伴して王宮をはじめあらゆるところに出入りしており、知己も多い。だが、ヒドがこの騎士の存在を知ったのは彼がフィンセントの護衛をつとめていたことからではない。国王臨席の演武会に出場していたヒドは、決勝戦のふたつ前で、まだ一九歳だったこの騎士に敗れていたのである。
騎士はうわごとのように、何ごとかを呟いた。ヒドがききとれたのは「ハーン」という単語と「伝えなければ」という言葉だけだった。だが、それがわかれば、この高名な騎士の目的は半ば推察できる。
「殿下に? それともアーガイル様に?」
「国公家に」
騎士の言葉に、ヒドはうなずいた。ただならぬことが起きたのであろう。
「ともかくお疲れのようす。ひとまずわが陣営にて休息をとられてはいかがか」
「せっかくですが」
と騎士は言い、馬にふたたび乗ろうとして……そこで気をうしなった。
「馬車を都合しろ。この御仁をハーンまで送りとどける」
「はっ、ただちに。……ところでこの方は?」
と部下に問われ、ヒドは、
「バルネフェルトの一門、デリウス卿だ。名前くらいは知っておろう」
「……!」
テュール家にはおよびもつかないが、バルネフェルト伯爵家はウェイルボード屈指の名門であり、歴代の当主は、わずかな例外をのぞいて陸軍の重職を担ってきた。いやそれよりも、デリウスといえば、若いが無双の豪傑として王都中に知られた人物ではないか。その彼が、なぜこのような場所に、傷だらけであらわれたのか……。混乱した部下は「はやくしろ」というヒドの声でわれにかえり、馬に飛びのった。
一方でヒドは、ともかくデリウスを幕舎の中でやすませることにした。
ヒドがデリウスをともなって公都ハーンに入ったのは、その翌日のことである。
むろん、フィンセントもアーガイルもおどろいた。デリウスが突然あらわれたということにまずおどろき、この豪傑が無惨なほど傷つき、気の毒なほど憔悴しきっていることに、またおどろきをおぼえずにはいられなかった。
「なにがあったのだ?」
アーガイルが率直にたずねた。フィンセントはその非礼をたしなめはしたが、彼としても訊きたいことはおなじである。デリウスは、しかしまったく別のことを言った。
「風呂をいただけませぬか」
もっともなことである。フィンセントはただちにデリウスをともなって居城へとむかった。
ヒドは、「一日くらい休んでいったらどうだ」というフィンセントに一礼をかえすと、すぐさま馬首をひるがえし、南の任地へともどっていった。
半日ほどが経過した。間もなくデリウスも出てくるであろう。フィンセントが召集した公国の大官たちが、広間にあつまっていた。
「知ってのとおり、王都にあったはずのデリウス卿が、わが国にまいられた。名門バルネフェルトの一族であり、近衛兵団で一隊を率いていたはずの彼が、あのような姿で来たということは、王都でなんらかの事変があったとみるのが自然だろう。なるべく迅速に善後策を練るため、諸卿に集まってもらった。ともにデリウス卿の話をきいてもらう」
とフィンセントは言い、文武の大官を見まわした。
「……アーガイルはどうした?」
城中、その場に集った文武官は、フィンセントの他にはマールテン、ソルスキア、フェルディナント、アントン、アンクレス、ピーテルソーンである。ベルーラとヨーストは、それぞれデルレヒトとビューリンゲン両州の行政を監督しており、フィジックはヒドとおなじように、ウェイルボード本国との境に向かって、訓練をかねた偵察をおこなっている。コルネリスはレア帝国への使者に出ている。彼らがここにいないのは当然としても、アーガイルはどうしたのであろうか。
「よほど重大なことにちがいない。わが軍の総帥が不在では失礼にあたろう」
といい、弟のゆくえを周囲にたずねた。するとマールテンが立ち上がり、
「どうせいつもの妓館でございましょう、首をひっつかんででもお連れしてまいります!」
「妓館か、ははあ、あいつらしいな」
と、フィンセントは苦笑せざるをえない。公邸での一件を思い出すまでもなく、たしかにこの弟は、その少年のような容姿からは想像もつかぬ、色遊びの達者であった。その面ではいたって淡泊なフィンセントなど、すくなくとも「数」の上では弟の足もとにもおよばない。
「それにしても、あいつはいつどこで女遊びをおぼえたのだ?」
興味深げに、若き国公はその老臣に尋ねた。
「さて、拙者の目をぬすんで、どこぞの不心得者がアーガイル様を連れまわしたようでござるな」
と、マールテンがじろりとにらんだ先には、アンクレスがいた。アンクレスは首をすくめ、
「い、いや、老将軍のお手をわずらわせるまでもないでしょう、私が行ってまいります」
「おう、そうしてくれるか、なにせ拙者はそのような場所にはとんと疎くてな、アーガイル様の師匠でもあるおぬしが行ってくれれば、それに越したことはない」
老将の痛烈な皮肉に、アンクレスは恐縮して広間を退出していった。
「ふん!」
どっかと腰をおろしなおして、マールテンは鼻を鳴らした。
「まあまあ、そう怒らなくても。アーガイル様はもちろん、アンクレス卿とてまだお若いのです。妓館であそばれるくらいは大目にみてやってもいいではありませんか」
と、ひかえめに老将をたしなめたのはフェルディナントである。卓越した弁舌をもつ外務卿にしては平凡な言いようであったが、マールテンもしぶしぶひきさがった。なんといってもフェルディナントは先君の従弟であり、そのヘンドリックにはすくなくとも公認されるべき兄弟がなかった以上、フィンセントとアーガイルのふたりをのぞけば、この城中でもっとも血の濃いテュール家の人間であった。もっとも、彼自身はつとめて臣下の分をおかさぬよう心がけ、つねにマールテンとコルネリスの両名を立てているが、余人にしてみれば、この人物に対してまったくの遠慮なしというわけにはいかないのだ。マールテンでさえ、「フェルディナント卿」と対等に口がきけるようになるまでは時間がかかった
それまでは「フェルディナントさま」だったのだ。
しばらくして、アンクレスがアーガイルをともなってあらわれたとき、マールテンは何か言いたいようであったが、両人に棘のふくんだ視線をむけるにとどまった。それにつづいてデリウスが入ってきたからである。
「おまたせしてしまったようで、恐縮です」
と、デリウスは一礼して言う。
あっ、と、アーガイルが声をあげた。フィンセントは言葉をうしなった。他の者はデリウスと面識がほとんどないので、なぜこのふたりがおどろいているのかわからずにいる。
仮眠をとり、風呂に入り、食事をたいらげたのだろう。周囲の者があきれるほど、デリウスの顔には血色がもどり、表情には精気が回復していた。だが、フィンセントらがおどろいたのはそのようなことではない。
デリウスの顔から、あのみごとな髭が消えていたのである。
「たいていは髭を剃ったら年相応にみえるものだが」
というアーガイルの失礼きわまる感想は、さいわいにも本人以外の者にはきこえなかったようだ。だが、たしかにこの男は、髭がなくなって多少は若くみえるようになったとはいえ、それでも二二歳にはとうてい見えなかった。せいぜいフィンセントやアンクレスと同年輩、二〇代後半であろう、と思えるていどである。
「これですか」
デリウスは苦笑し、
「気分を変えるというか。……まあ、なんにせよ私個人のことですので」
「いや、失礼した、本題に入ろう」
フィンセントが、非礼な反応を謝し、デリウスに自分の隣の席を与えた。
「デリウス卿、なぜ卿はあのような姿でこのハーンにまいられた? いったい、王都でなにがあったのだ?」
「……」
フィンセントの隣に腰掛けたデリウスは、表情を隠した。
「なにから話したらいいのか……あの一日で、すべてが変わりました」
といってデリウスは、前後の事情を語りはじめた。
……テュール家が王都を退転したこの時期、王都は奇妙な均衡をたもっていた。国政の権をにぎるのはむろん宰相府だが、教会の横槍でグスタフ王の葬儀を執りおこなうこともかなわず、当然、新王の即位式もまだである。また教会としてもさまざまな陰謀をめぐらせはしたが、宰相フォンデルに打撃をあたえることはできずにいた。フォンデルは、上将軍ルードと准将軍ベリアスの指揮下にある、およそ一万三〇〇〇を隷下におさめていたが、教会も、およそ六〇〇〇といわれる聖堂騎士団をにぎっており、下将軍レイツィハーの指揮するおよそ五〇〇〇に対して影響力をもつ。両者に対する批判勢力として、バルネフェルト伯ヨッサムを中心とする武官たちがおり、彼らの武力はまとまったものとしては近衛兵団一万。三者とも、他者の失脚を望んでいたが、三者のうち二者が敵対すれば、残る一方がその間隙をつく。すくなくとも当事者たちはそう信じ、なかなか行動にはふみきれずにいた。
そのような時期、フォンデルは、高位にある文武官と爵位をもつ貴族たちを私邸に招待し、ウェルフェン公国艦隊がレア帝国艦隊をやぶったことを祝賀する会を主催したのだ。むろん公爵家の人間はいない。たとえ呼ばれても出席するはずもないが。
国王の喪中ということもあり、祝賀会といってもささやかなものであったが、集った人々は絢爛といってよかった。副宰相リッカート、文官房長ラッツェル、外務大臣エラスムス、陸軍大臣ウィレブローフト、司法大臣ブールハーフェ、内務大臣ベルナルト、財務大臣ダウィッツといった閣僚たち。海軍からは、大都督ティンベルヘン伯クラウスを筆頭に副都督テッセン、都督府筆頭参謀ヒーフォ。そして陸軍からは宰相派にはやくから属していた上将軍ルードをはじめ、上将軍ソルヴェ、下将軍ティツィング、下将軍エンリケ、幕僚監にして下将軍たるスール。そして宮廷貴族としては、フロストローイ侯爵、アフト子爵、オフェルマール子爵……。そのそれぞれが、妻あるいは愛人をともなって会している。地位に比して質朴で、華やかさに欠けるといわれる宰相の私邸が、この夜にわかに華やいだ。
出席した人々がおどろいたのは、近衛総監バルネフェルト伯ヨッサムがその場にいたことである。
フォンデルとテュール家との確執に、大部分の人間がうすうすだが気づいている。だからフォンデルが公国の戦勝を祝賀する、と人々を集めたのも驚きに値することであったのだが、確執というよりはっきりと対立しているバルネフェルト伯までがこの場にいるというのはどういうことであろう。
祝宴に出席する、とヨッサムに告げられたデリウスは、それに強く反対した。
「宰相はおいつめられております」
なにをするかわからない、という。
「フィンセント卿を逃がしたのがわれわれだということを、すでに彼はつかんでいるでしょう」
「……なぜそう思う?」
「動機と能力の双方をもつ者は、近衛兵団をひきいる閣下しかいないからです」
「ふふ、たしかにな。奴はレア帝国に国土を切り売りしようとした……そのことをわしが知っているということも、おそらくつかんでいるだろうな。にもかかわらずわしに招待状を送ってきた。なにもないほうが不自然というものか」
「は」
「ならば、策をめぐらす間のないうちに、衆人環視の中でやつにとどめをさしてやる」
「危険です」
とデリウスは言った。策におぼれた観もあるが、フォンデルはレア帝国軍を動かすという離れ業を、一度は演じてみせたのである。謀略というものは才知ではない。経験と、何よりも気質の問題なのだ。ヨッサムはフォンデルに遠くおよばないだろう。
「閣下、どうかお考えください。いま、テュール家の軍勢は、海軍は再編成でほとんど動けない状況にありましょう。また陸兵はもともと寡兵。王都に攻めのぼるなど思いもよらないはず。いま宰相を失脚せしめたとしても」
収拾のつかぬ混乱がおきるのではないか。それはヨッサムにとっても望ましくない事態のはずだった。
「混乱もときには必要だろうよ。あくまで、ときには、だがな」
「……」
デリウスは、ヨッサムがその「混乱」とやらを利用して何をしようとしているのか、はかりかねた。尋ねようとしたが、思いとどまった。ヨッサムのほうも、わざわざその意図を説明することはなかった。ついになかったのである。
祝宴は淡々と進行する。重臣は口々に、この場にいないアーガイルを褒めそやした。
「かの御仁はまだ二二だという」
「たのもしいことで。将来の大都督ですかな」
「いや、テュール家は、あのノジェール大公殿下をのぞいて、大都督も大将軍も出しておらぬ」
「しかしあのルータスを破ったという。ノジェール殿下以来の名将ではないのか」
「あれがまだ二度目の実戦だというから、すえおそろしいものだ」
「実子とはいえ、アーガイル卿を登用なさったお父上も慧眼というしかない」
「まことに。文のフィンセント卿、武のアーガイル卿。お父上のヘンドリック卿もふくめ、公爵家に暗君なしとは、まったく、よくいったものですな」
「……卿ら、ご存じないのか。ヘンドリック卿はレア帝国の侵攻と前後して亡くなられたときくが」
事情通らしい貴族の一言が、アーガイルの武勲を褒めそやしていた者たちを絶句させた。「まことですか」と周囲が尋ねるが、他にもそれを知っていた者はいるらしい。複数の者がそれぞれことなる経路から得た情報であることがわかり、事実であるとみなが確信した。フィンセント自身が数日前に公表した事実であるから、すでに知っている者が王都にいてもおかしくないであろう。
「……不謹慎を承知で言うが、公にとっては、すくなくとも後継者の心配はしなくてすんだのがまだしも幸いであったかもしれん」
といったのは、陸軍大臣ウィレブローフトであった。周囲の者もそれにはうなずかざるをえない。グスタフ王は次期国王を定めることすらせずに死に、それによって王都は混迷を深めている。それに対して公国は、フィンセントによる指導体制がすでに確立したというし、アーガイルの非凡きわまる軍才も実証されたばかりである。たしかにヘンドリックはその点に関しては、みずからの死後を心配する必要はなかったはずだ。
「不愉快なものを見ぬまま死ねたこともな」
というのは、誰も口には出さないが、多くの者がいだいた感想であった。彼らはむろんヘンドリックの死が自殺であるということまでは知らないが、公の実直な人柄からいって、王都が三派にわかれて相争うのを見るのは耐えがたい気分であっただろう、とは想像がつくのである。同胞の血が流されぬうちに逝けたというのは、たしかにヘンドリックにとっては幸福だっただろう、とも。
一座はふたたびアーガイルの才器に話題をうつした。
「しかし、あれほど才にめぐまれていると、のちのちが心配では」
「心配とは?」
「アーガイル卿がいかに天才といえど、国公位はただひとつ。将来、フィンセント卿と、兄弟が相争うような……」
と言いかけたとき、場がふたたび静まり返った。話していた貴族は、自分の不吉な予想が興をさましてしまったのかとあわてたが、原因は別のところにあった。
「宰相閣下」
と、よく通る声をひびかせ、ヨッサムが宰相フォンデルにあゆみよったのである。
「なにかな、近衛総監どの」
フォンデルが冷ややかに応答する。
一座は、緊張感をもってこの両者を注視した。ヨッサムとフォンデルの対立というのは宮廷貴族や文武の大官たちにとって周知の事実である。おたがいに次期国王としてウィレム大公を推していたが、その主導権をはげしく争ったともいわれる。真偽はさだかでないが、ともかく、グスタフ王の死と前後して、ヨッサムは王位継承のあらそいにずいぶんと冷淡になり、ことあるごとにフォンデルを批判していたのだ。
「レア帝国の脅威をのぞいたこと、まことにめでたい。だが」
「……?」
「この晴れがましい席に、主賓たるべき人物がおられぬのは、なぜかな」
「あのような戦いがあったばかりで、しかも未確認ながら、国公殿下が亡くなられたと聞き及んでおる。どなたも、しばらくは北海を離れられぬであろう」
「なるほど、今回壮大な武勲をあげられたアーガイル卿は、まだなすべきことも多いと思える。その点は同感だ」
「……わかっていただけるか、わしも主賓不在であるのは心苦しいのだ」
その返答に、ヨッサムは冷笑をなげかける。
「ではフィンセント卿は? いやいやフィンセント卿がこられぬとしても、フェルディナント卿は? ヨースト卿やベルーラ卿でもよい、どなたかを代理として招待することはできなかったのかな?」
「さあな、彼らも多忙なのであろうよ、これだけ凶事が重なればな」
「凶事!」
ヨッサムは悪意をこめて笑った。
「たしかに凶事だ、公爵家の総勢が王都から離れざるをえないのだから」
「……!」
フォンデルの顔色がこわばり、一座がざわめいた。
(言わないことではない)
ラッツェルは思った。ヨッサムを招待すればこうなるのはわかりきっている。フォンデル自身もこれあるを覚悟していたはずではなかったか。
「いや、それだけではない、大都督閣下!」
職名を呼ばれた、すでに老境に入った偉丈夫、ティンベルヘン伯クラウスが、不機嫌そうな表情でヨッサムの方を向き、さらに不機嫌そうな顔をして歩み寄ってきた。ヨッサムはにやりと笑い、
「閣下は海軍を統括なさる身。当然、西海の防備に責任がおありのはずだが」
「……なにが言いたいのですかな」
「レア帝国艦隊の通過を察知できなかったことについては、クラウス卿、あなたに責任がおありだと申し上げている! わが国が海軍によって立っていることは、陸軍のわれわれでさえ認めており、諸国にも周知の事実。大陸最大にして最強をうたわれるウェイルボード海軍が、あれほどの軍を察知できず、しかも彼らの来襲があきらかになった後もまったく動こうとしなかったというのはどういうことか」
「……」
「答えられぬか? では私がかわりに答えてさしあげようか?」
ヨッサムの舌鋒はとどまることをしらない。
ラッツェルは舌打ちした。
彼は、フィンセントの脱獄にはヨッサムの手が動いていると、ほぼ確信していた。近衛兵団の精緻な情報網と組織力からすると、フィンセントが逮捕され投獄されたということを察知するのは、さほど困難なことではない。そして、あろうことかフォンデル自身がフィンセントに自身の策謀の内容を話してしまっている。ヨッサムはほぼ間違いなくすべてを知っている。このままもうすこし会話がすすめば、フォンデルは衆人環視の中でレア帝国との密約をも暴露され、ぶざまに失脚せざるをえない。
(やむをえん)
ラッツェルが歩みでて、言った。
「総監閣下は陪臣の名までよくご存じだ。しかも大都督閣下をそのように難詰されるほど公爵家に同情されているとは。なにか、彼らとのあいだに特別な関係でもあったのですかな」
端からは下品な邪推あるいは悪辣な誹謗としかきこえないが、この場合は真実にかぎりなく近い。すくなくともヨッサムは、テュール家との間に「特別な関係」を築こうとしているのだし、そのための努力を惜しんではいなかったのだから。
「だまれ!」
ヨッサムが一喝する。
「わしは宰相閣下、大都督閣下との会話を楽しんでおるのだ。文官房長ごときが、しかも卿のような若輩が、何のゆえあってわれわれの会話に口をはさむか!」
ラッツェルはろくに信じてもいない神に感謝した。ヨッサムの反応は、彼の期待にたがわぬものだったのだ。
「これはしたり。わたくしは非才ながら、文官房長という職は、閣下がいわれるほど軽いものではありませぬぞ。国王陛下を補弼したてまつる閣僚の一員でござれば」
「閣僚の一員? それがどうした。わしは大都督とならび武官の首座たる大将軍代行だ」
「さよう、代行ですな、上将軍どの」
思いきり挑発的な口調で、ラッツェルは言った。ここはヨッサムを逆上させ、一時的にでもフォンデルの存在を忘れさせるほかない。
果たして、ヨッサムは激発した。
「きさま、愚弄するか!」
と叫び、剣に手をかけたところへ、
「衛兵!」
という叫びが重なった。ルード将軍の声であっただろうか。ラッツェルはといえば、万一ヨッサムが剣をぬいたときのために、すばやく飛びさがって間合いをとっていた。だが彼はどうも機敏とはいいがたかったようで、背中が円卓にあたり、卓上の料理皿や酒瓶が床に落ち、高い音をたてて砕け、酒や料理が散乱した。それにかさなって婦人の悲鳴がおきる。邸内がにわかに騒然とした。
「……近衛総監はなにやら取り乱しておられる。邸宅まで送ってさしあげろ」
宰相の命令に、衛兵たちは敬礼して命令を遂行しようとした。
「はなさぬか! わしは落ちついておる。……宰相閣下!」
「………」
フォンデルは無言で、衛兵に両脇をかためられたヨッサムの方を見やった。
「ウィレム大公殿下の御前で、文武官の評議を提案する」
「ほう? 衆人環視の中、無道にも大官を殺害しようとした勇者のいいざまとも思えぬ。いいたいことがあれば剣によって訴えればどうだ。卿にはそれが似合いであろう」
というような反応を、ヨッサムはなかば予期し、覚悟してもいた。たしかにこのような席で、いかに挑発されたからとはいえ宰相府の大官にむかって剣を抜きかけたという弱みが、ヨッサムにはある。だが、フォンデルの返答はヨッサムにとっては意外なものだった。
「御前評議か? それもよかろう。だが今日のところはひきとられよ。わしに対してはともかく、大都督をはじめ、この場にお集まりいただいた諸卿に対しては謝罪されたほうがよろしかろうが」
群臣、諸侯は安堵の溜息をついた。この座に、教会勢力の台頭をよろこぶ者は少ない。フォンデルとヨッサムとの関係が破局にいたれば、結局はアントニーを王位に推す一派が漁夫の利を占めるのではないか、と憂慮したのである。むろん、ヨッサムはいったい何を言いかけたのだろうか、と興味をもつ者も多数存在した。
「興をさましてもうしわけない」
と、ヨッサムが周囲に一礼して、決して華美ではない広間をあとにすると、邸内ではまた雑談に花が咲いた。むろんこの場から早々に退出したヨッサムに対する陰口もふくめてである。
「宰相閣下!」
「おう、ラッツェルか。さきほどは助かった」
「いえ。それより、御前評議など、本気でおこなうおつもりですか」
「いや、そんなつもりはない」
「ですが近衛総監はそれではおさまりますまい」
「ラッツェル」
「は……」
「先ほどの件だがな、将軍が閣僚を殺した場合、どのような罪になる?」
「……」
これを奇貨としてヨッサムを罪に落とそうというのか。いや、フォンデルはそのためにこそこのような祝宴をひらいたのだろう。ラッツェルは、口の中に酸味を感じた。
「……貴族同士の争闘であれば決闘ということになります」
ラッツェルは平民出身ながら宰相府文官房長という顕職にあり、リードホルム男爵の爵位をもあたえられているから、当然、貴族として遇されている。
「しかし卿は丸腰だった。正式に決闘を申し込まれ、立会人のもと正々堂々とわたりあったわけではない」
「は……」
「未遂とはいえ、罪に問われてもおかしくはなかろう?」
「官爵をもつ者が、やはり官爵をもつ者を不当に害した場合、それが叛逆をもくろんでの場合であれば極刑。その他の理由、たとえば私怨によるものであり、何らの正当性もない場合、原則として官職を解くことになります。どちらにしても具体的な刑罰については高等法院の手続きを経て、国王陛下のご裁可を要しますが……」
と、あいまいな返答をしたのは、ラッツェルにとって嫌悪感のあらわれであった。フォンデルの立場にしてみれば、ヨッサムがこの時点で教会以上に、あるいはテュール家以上に危険な存在であることは疑いえない。だからといってわざわざこのような奸計を用いねばならないのだろうか、と思うのだ。
そのようなラッツェルの心理にはまるで関心をはらわず、
「ふむ。今日はパトルスどのは来ていたかな」
と、フォンデルは高等法院首席判事の名をあげた。
「……いえ、あのお方は神官でござれば」
神官は酒色からはなれた生活をおくらねばならない。デリス正教会は、僧侶に対してさまざまな生活上の規制をもうけているから、破門されたとはいえ信仰を捨てたわけではないパトルスがこういった場にいないのは、ごく自然なことであった。
「殊勝なことだ」
フォンデルは笑い、
「まあ、それはあとでもよかろう。ベリアスを呼べ!」
「閣下」
まだ懲りないのか、という台詞をかろうじてラッツェルは飲み込んだが、それがわかったのだろう、フォンデルはにやりと笑いながら、
「大丈夫だ、今度はうまくやる」
「………」
……馬車の中で、何度、フォンデルとラッツェルに対する罵声をはなったかわからないヨッサムは、自邸まであと数分の距離で、先回りしていたおよそ三〇名の王国陸軍正規兵に包囲された。まわりは闇だが、馬車にくくりつけてある松明によって、中のヨッサムにも、うっすらと彼らの影がみえる。指揮官とおぼしき男は騎乗したままだが、のこりはすべて地にたっている。
「バルネフェルト伯爵閣下でいらっしゃいますな」
「……なんだ、貴様らは」
「閣下を逮捕いたします。この場よりご同行ねがいます」
「なんだと?」
ヨッサムは眉をせばめた。フィンセントに使った策を、またフォンデルは使おうとしているのか。芸のないことだ、と思いつつも、同じく芸のない返答を彼はした。
「罪状は?」
むろん「宰相府文官房長ラッツェル卿を無道にも殺害しようとした」というのがその罪状であるが、ヨッサムが納得するはずもない。怒気を顔にふくんだヨッサムを制し、同乗していた近衛兵が馬車を降りた。
「このお方がどなたであられるか、存じておるのか!」
さすがに下級の兵士はそれでひるんだが、馬上の男は冷然と、
「むろん、存じあげておる、バルネフェルト伯と申し上げたであろうが。あらためてうかがいますが、ご同行ねがえますかな」
後半部分が丁重なのは、ヨッサムにむけた言葉だからである。
「行け!」
近衛兵が御者にむかって叫んだが、馬車の前方には完全武装の兵士数名が立ちはだかっている。とても馬をすすめられるものではない。近衛兵は舌打ちし、
「閣下、降りてはいけません。どのみちこいつら、話してわかる連中では――」
とまで言ったところで、兵士の一人が、近衛兵の頭を剣の腹で殴りつけた。若い近衛兵は、不意をつかれたのだろう、そのままくずれおちた。
「なにをするかっ」
怒声をはなち、ヨッサムが馬車から降りた。
「いけません、閣下……」
という近衛兵の声。
完全に意識をうしなってはいないらしく、うわごとのようにヨッサムを制止する。
「よい、だまっておれ」
松明の炎がゆらめき、騎乗している男の顔が浮かんだ。
「ベリアス将軍……!?」
そうつぶやいて、近衛兵は今度こそ気をうしなった。
「なんだと?」
近衛兵のつぶやきに、はげしく反応したのはヨッサムである。馬上を見上げると、そこにはたしかに見知った顔があった。ヨッサムの表情が、さらなる憤怒にいろどられる。
彼にとって、平民とは「まもるべき存在」であった。しかしその平民が、馬上から自分を見おろし、自分の死命を支配しようとしている……。体内にのこる、わずかな酒精がそうさせたのかもしれない、宰相に対する嫌悪とラッツェルに対する怒りが蓄積されていたのかもしれない、倒れている忠実な近衛兵に報いたかったのかもしれない……ヨッサムは剣を抜き、ベリアスをにらみつけた。彼は、先ほどと同じ過ちをおかした。
「……」
ベリアスが右手をあげた。
三〇人のうち一〇人ほどが抜剣して、彼らのはるかな上司にあたるはずの人物を二重にとりかこんだ。ヨッサムはふいに醒めたような、あるいは諦めたような表情になり、剣を棄てた。いや、棄てようとしたとき、兵士の剣が彼の鎖骨を砕いていた。
不幸にも、この日、彼の護衛は、気絶しているこの若い近衛兵一人だけであった。ふだんであればカドゥラかデリウス、そしてその部下たちが彼の護衛につく。ふたりとも王都で屈指の使い手である。だが、この日に限って、ヨッサムはそれを「不要」といってきかなかった。「おぬしらを連れていくと物々しくてかなわん、宰相どのが不安がるではないか」そう言ってヨッサムは笑ったものである。
「ぐお……!」
利き腕を破壊され、ヨッサムは自分の意思によらず剣を棄てることになった。左手で、くだかれた右の鎖骨をかばう。と、そこへふたたび剣がふりかかる。ヨッサムは左腕で剣を受けとめるかたちになり、路上に身体を投げだした。熱。ついで激痛。上体をおこすと、左肘の部分が骨まで切断され、腱と皮をのこして、頼りなくぶらさがっている。
ヨッサムは、かつてはすぐれた剣士であった。しかし、往年の剣技をもってしても、この囲みを突破するのは不可能であっただろう。ヨッサムの目から見ても、自分を囲んでいる者たちが、それぞれ卓越した剣技をもっていることがわかる。ベリアスが自分の部下の中から、剣技と、何よりも口の固さを基準に厳選した戦士たちであった。
左腕は断たれ、右肩は砕かれている。もはやヨッサムは剣をにぎることすら不可能であった。
だが、おどろくべきことに彼は立ち上がった。兵士たちの表情に、畏怖が浮かぶ。
「おぬしらは捕吏ではないな」
おそらく想像の限界に達するほどの激痛に耐えているのであろう。だが、そうとは思えぬほど平静な口調で、ヨッサムは言った。捕吏であればこのような手法はとらない。暗殺者であろう。大将軍代行によって「暗殺者」と断定された兵士たちは、剣をかまえたまま無言でいる。
「あの男をみくびっておったか……フィンセント卿を笑えぬわ」
とまで言ってから、ヨッサムはふたたび崩れ落ちた。
「せめて、苦しまぬようにしてさしあげろ」
ベリアスの命令に、やや躊躇してから「は」と短い返事をして、兵士のひとりが剣をふりかぶった。ヨッサムは、朦朧とした眼でそれを見あげた。
おそらくそれがヨッサムが最後に見た光景であっただろう。
つづく |