第2話
「夢・・・幻・・・」


馴れない手つきで包丁を握りしめ、食材と格闘する少女アスカ。
お世辞にもリズミカルとは言えない音がキッチンに響き、時折鼻歌も混じる。
2枚の皿をテーブルの上に載せると、彼女は誇らしげにテーブルの上を見渡した。
「完璧ね。我ながら上手くできたわ」
彼女がエプロンを外そうとしたとき、マンション内にチャイムの音が鳴り響いた。
アスカは顔に満面の笑みを湛えて小走りに玄関に走り寄り、
彼女がドアの前に立つと目の前の視界が開ける。
アスカが少し視線を上に上げると、そこには待っていた人の顔が見えた。
「いらっしゃい加持さん!。ちょうど出来た所なの。グットタイミング!」
言葉と同時に彼の腕を掴んで室内に引っ張って行く。
「おいおい、そんなに慌てなくても逃げやしないよ」
アスカは頬を紅潮させながら加持に向かい振り返る。
「だってだって、せっかく作ったんだから暖かいうちに食べて欲しいもん」
彼女は綺麗に並べられた食器の前の椅子を引き、加持に『どうぞ』と手を差し出した。
「お姫様にそのような雑務を。申し訳ありません」
加持もアスカに一礼すると、アスカの招きに応じて椅子に腰掛けた。
彼がテーブルの上に置かれた西洋風の料理を驚きの面もちで眺めているのを
横目で見ながら、キッチンへとアスカは急いだ。
(ふふっ、まずは合格って所かな)
嬉しそうに笑いを押し殺しながら、彼女は鍋にかかっていたスープを皿に盛りつける。
スープを持ってリビングにいる加持の所に行き、彼の目の前にコトリと置いた。
「これで最後。じゃ、食べよ」
彼女は加持の向かいに座ると、彼の行動をジッと見つめた。
次々と彼の口へと運ばれる料理。
アスカの前にも自分の料理があったが、彼女の関心は加持に向いていた。
一通り食べ終わり、フォークを置いた加持をジッと見つめるアスカ。
「・・・アスカ、腕を上げたな。俺達がドイツにいたときよりも格段に美味くなってる」
アスカに向かい微笑んだ後で、加持は再びフォークを手にした。
「どうした?せっかくの料理だ。早めに食べた方がいいぞ」
「うん」
明るく笑顔を振りまいた後、アスカも食事に手を付けた。
1口、スープを口に流し込む。
「おいし〜。・・・自分で言うのもなんだけどねっ」
加持に向かい舌を出して微笑む。彼もアスカの仕草に口元を緩めた。
この食事の間、彼らから笑顔は耐えなかった。
アスカは3週間ぶりに食事を他人とする事や話に興じられるのも嬉しかったが、
何よりその相手が加持である事が嬉しさを倍増させていた。

楽しい食事が終わると、アスカは片づけに入った。
加持も手伝おうとしたが、アスカが制した。
彼はやることもなく、椅子に腰掛けながら部屋の中を眺めていた。
「・・・アスカ、今日も一人なのか?」
食器を取りに戻ってきたアスカに、加持が訊ねた。
「うん、ミサトは忙しいみたいだし。シンジは音信不通、何やってんだか」
加持は視線を横に流し、目を細める。彼は全てを知っている。
シンジは当然帰ってないだろうし、ミサトも彼にかかりきりであろう。
だが明るく振る舞う彼女を見て、少し安心した。
目の前に置かれた紅茶を一口、口に含みながら、右往左往しているアスカに目をやる。
加持にしてもアスカとこうして食事を取るのは久しぶりだった。
(こういう家庭的な雰囲気も悪くないな・・・)


ケージに固定された初号機。無数のコードとジャックが接続されたエントリープラグに
手を添えるミサト。彼女の目に「EVA−01」の文字のEの文字が映り、
エントリープラグの金属的な冷たさをその手のひらで感じていた。
(大丈夫よね・・・シンジ君・・・)


「さて・・・と。もうこんな時間か。長居をしすぎたな」
加持が腕時計に目をやり、スッと立ち上がった。
向かいでビスケットをほおばっていたアスカは、加持の言葉に敏感に反応した。
「えぇっ?!まだこんな時間じゃない!」
しかし時計はすでに22時を回っていた。
「明日も学校なんだろ?。早く寝ないと美容に悪いぞ」
加持は玄関の方に歩みを進めた。アスカは彼を目で追っていたがたまらず立ち上がる。
「あっ、ちょっと加持さん?!」
アスカは彼に走り寄り、彼の腕を掴むと力を込めて彼を止めた。
「ねぇ加持さん、もう遅いから泊まっていったら。そうだ、今お風呂入れるから」
それだけ言うと、小走りにお風呂場に向かった。
「お、おいアスカ」
加持はアスカを追って浴室に入っていった。
彼の目にアスカの背中が見えたとき、思わず息をのんだ。
蛇口から流れ落ちる水と、ゆらゆらと揺れる湯船のお湯を
ジッと眺めていたアスカの背中が、加持の目にはとても寂しそうに見えた。
後ろに来た加持の気配を察したのか、アスカは視線を彼に向ける。
「もうちょっとで沸くから。でもやっぱりダメ・・・かな?」
明るく話す彼女だったが無理をしているのではないか、と加持は感じた。
「仕方ないな。でも泊まるのは考えさせてくれ。ばれたら葛城に怒られちゃうよ」
アスカの肩が、微妙に震えた。
だが今まで通りアスカは努めて明るく振る舞い、加持の腕にからみつく。
「関係ないじゃんミサトなんか。・・・でも無理にとは言わないから」
加持は彼女に向かい、一回だけコクリと頷く。
「じゃぁ着替えとタオル持ってくるね。加持さんはリビングに行ってて」
「アスカ。着替えはいいよ。これ着るから」
加持は今着ているシャツを掴んでアスカにそう言った。
「え、そう?。
 あ・・・それに加持さんが着られるような服なんてあるわけないか」
アスカは軽く笑った後で、
「じゃぁタオルだけ持ってくるから」
とっとっとっ
アスカの足音が自分の部屋、シンジの部屋と移動する。
「もぉ、なんでタオルがないのよ」
シンジのタンスを引っかき回してタオルを探すアスカだが、
ここ3週間、ろくに洗濯もしてないのでタオルのスペアは底をついていた。
それを知っているからこそ、今まで見てなかったシンジのタンスを見ていたのだが
結局見つからなかった。
アスカの足音はミサトの部屋に移動して、先ほどと同じように、
衣装ケースを物色する音が響いた。
「あっ、ラッキー」
少し奥まったところにあるタンスの中で、彼女はタオルを見つける。
1本、2本と取り出したが、2本しかタオルは入ってなかった。
アスカとしては最低でも4本は欲しいところだったので、他にないか探し始める。
一番隅に置いてあった洋服ダンスに最後の望みをかけて、引き出しを開けた。
「??。なんだろう」
アスカの目に映ったのはなんの変哲もないシャツだったのだが、
ミサトが着るには明らかに大きかった。怪訝に思いながらそのシャツを
手に取り、眺めてみた。
「!!」
シャツの裏地を見たとき彼女の全身が硬直した。

『トゥルル・・・トゥルル・・・』
リビングに携帯のベルが鳴り響く。
ミサトの部屋にいたアスカにもそのベルの音が聞こえ、
急いでシャツを元の場所にしまうと、加持の待つリビングへと向かった。
「はい。あぁ葛城か」
小走りに駆けてきたアスカの足が止まる。同時に耳に神経を集めた。
『どう?アスカの様子は。問題なかった?』
「あぁ。大丈夫だ。元気でやってるよ」
アスカの耳には加持の声しか聞こえなかったが、大方話している内容は分かる。
『そう、なら良かったけど・・・』
「心配しすぎだよ、葛城は。アスカだって幼稚園児じゃない。自分で生活できるさ」
『そういう問題じゃなくて!・・・まぁいいわ。ちょっと本部まで来られる?。
 その話もしたいし、ちょっと相談もあるの』
「ん、今からか?でもアスカと風呂に入る約束してるしな」
『な!なんですって!まだ私の家にいるわけ?!あんたまさか!!』
電話越しにもミサトの顔が目に浮かぶようだった。
思い描くだけで笑いがこみ上げてくる。
「はは、まさか。確かにここは葛城の家だが、俺がアスカに手を出すわけないだろ」
アスカは壁越しに聞こえる加持の声に耳を傾けながら
手に持っていたタオルをきゅっと握りしめた。
「わかったよ。じゃあこれからそっちに行くから」
『そう?。じゃぁ第2発令所で待ってるから』
「了解しました。葛城三佐」
『馬鹿、なにかしこまってるのよ』
「じゃ、後でな」
加持は携帯のスイッチを切ると、立ち上がりながら胸の内ポケットに携帯を入れた。
その時に、アスカはリビングに小走りに入ってきた。
「お待たせ。なかなかタオル見つからなくて。
 でも探してる間にお風呂も沸いたからちょうど良いタイミングだったね」
口を動かしながら彼女は持ってきたタオルを加持に差し出した。
・・・受け取ってもらえないことを承知で。
明るい笑顔を加持に向けるアスカに対し、加持の表情は曇る。
「・・・すまない、アスカ。急な仕事が入ってこれから本部に行かなくちゃならないんだ」
加持の言葉を待たずにアスカは問いつめる。
「お風呂にも入れないの?」
「・・・悪いな」
加持はその言葉を残し、アスカの脇をすり抜け玄関へ向かう。
アスカの耳に、離れ行く加持の足音が響く。
一瞬の間の後、彼女は振り返って彼の背中を追った。
靴を履いている加持の後ろで彼の背中をじっと眺めるアスカ。
「加持さん・・・」
アスカの声に、加持は振り向く。
「今日はありがと。・・・加持さんが来てくれて嬉しかった」
アスカが微笑んでくれたのを見た加持は、口元を緩めた。
「本当にごめんな。じゃ、おやすみアスカ」
玄関のドアが閉まると、物音一つしない空間が彼女の周りに広がる。
アスカはその中で灰色の扉をじっと眺め、
その瞳は光を吸収してるかのように沈んでいた。
暫しの沈黙の時の後でアスカは風呂に入ろうと、衣服を取りにリビングに戻った。
静寂に包まれた部屋の中に、ぺたぺたと彼女の足音だけが響く。
その音がリビングに入ると音は消え、再び物音一つこの空間には無くなった。
アスカは先ほどまで加持が座っていた椅子とコーヒーカップに目を落とすと、
それには一切手を付けずに着替えと2本のタオルを持って浴室に向かった。


「だいぶ進んでるようだな、サルベージ計画」
初号機のケージが見下ろせる通路で彼女を見つけた加持は、
眼下に見える初号機を見ながら彼女に向かいゆっくりと歩み寄った。
「早かったじゃない。もう少しかかると思ったけど」
少し意外そうな彼女の目の前まで来ると、加持は初めて彼女と目を合わせる。
「お姫様のお呼び出しの時には魔法がかかるのさ」
彼特有の軽口を半ば呆れ顔で聞いたミサト。
「で、どうだったの?。アスカは大丈夫そう?」
「あぁ、久しぶりの客で『はしゃいでた』感じだったな」
「それだけ?。他に何か気がつかなかったの?」
加持は瞬きの間にミサトの顔からエントリープラグに視線を移す。
「・・・それと、アスカは料理が上手くなったって事くらいだな」
加持のセリフに肩を落とし、左手で頭を抱えるミサト。
「はぁ・・・なんのためにアスカを見に行ってもらったと思ってるのよ。
 最近アスカがおかしいから、色々と聞き出して欲しかったから頼んだんじゃない」
「俺が見る限り普通だったぞ。気にしすぎだよ、葛城は」
「ま、ここじゃ何だから私の部屋で話しましょ」
ミサトはそう言いながら加持に背を向けると、そのまま部屋に向かって歩き出す。


アスカは濡れた髪をタオルで吹き上げながら、リビングにジュースを取りに向かう。
その途中、廊下の光に照れされる一室が彼女の目に映った。
目から受け取った画像は、彼女の重い足の営みを無意識のうちに止めていた。


第三話に続く

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