BE TRUE
わたしα
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序章 −兆候−
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そいつは、白い、真新しい雪を蹴散らしながら、跳ぶように少年の目前を駆
け抜けていった。
(まるで、雪玉みたいだ...)
と、そいつが鼻先をかすめていくのを、ぼんやりと眺めていた少年は、ハッ
と我に返ると、しかし、慌てて起き上がりはしないで、わずかな目の動きだけ
で、そいつの行方を追った。
雪原に、こんもりと盛り上がった、ちょっとした雪溜まりの上で一休みして
いるそいつは、遠目に見ただけでは、握り拳ぐらいの大きさの、ただの雪の塊
にしか見えなかった。
しかし、それがただの雪玉と違うところは、あたたかい体温と、やわらかな
毛皮を持っている事だ。
それは、村の少女達に、歓喜の悲鳴を上げさせるのに、十分な威力を秘めて
いる筈だった。
あいつを捕まえて帰れば、フォーラだって、少しは自分を見直してくれる筈
だ。
そう思った瞬間、少年の心はすでにそこにはなく、フォーラの整った顔立ち
が脳裏に浮かんでいた。
青みのかった黒い髪に、雪のように白い肌がよく映える。
少年とは、同い年の少女だ。
村一番の器量よしという評判が高いが、少年がフォーラに心を惹かれる理由
は、他にもあった。
しかし本人は、その事に気が付いていないようだ。
少年が、自身の思念の中に沈み込んでしまっている間に、そいつは足元の雪
をごっそりほじくり返し、頭からすっぽり、雪の中に潜り込んでしまっている。
もっとも、他の事に気を取られていてさえも、少年がそいつから目を離す事
はなかったのだが。
(いったい、何やってんだ?
あいつは...)
ワフール(雪玉の意)の主食が何だか、そういえば少年は、今まで聞いた事
がない。
(まさか、雪だけ食って生きてるわけじゃ、ないだろうしな。)
ワフールの観察を続けたまま少年は、フードを深くかぶり直してゴーグルを
はめ、上着の襟を引き上げて、すっかり顔を覆った。
浮行靴の目盛を確かめ、踵の内側のツマミを心持ちひねって、微調整を加え
る。
少年の属する一族が使う自走ソリと同じ原理で動作して、雪原でも足が沈み
込まないようになっている。
ワフールがまだ、雪の中にいるのを確かめると、少年は、音をたてないよう
に、ゆっくりと手足を滑らせていった。
実のところ、ワフールの生態については、あまりよくは知られてはいない。
したがってその分、少年の動きは、普段よりいくらか慎重になっている。
と、ゆるやかな少年の動きが止まり、別種の緊張が少年の全身を押し包んだ。
(サジャル(雪猫)だ!)
ワフールをはさんで少年と反対側、針葉樹の根本近くの雪溜まりの向こうか
ら、サジャルの剣呑な面構えが覗いていた。
少年と同じくらい...いや、それ以上に気配を殺しているサジャルに、ワフ
ールは全く気が付いていないようだ。
少年とサジャル、それぞれの鋭い視線に挟まれながら、のんびりとワフール
が雪の上に顔を出した。
ちょうど、ワフールの真正面に、サジャルがいる恰好になった。
途端、サジャルの白い巨体が宙に舞う。
しかし、ワフールは動けない。
考える間もなく、少年は動いていた。
位置的に、少年の方が僅かに近かったのが幸いした。
ワフールを両手で押さえ込んだ少年のフードを、サジャルの前足が叩き落と
した。
急ぎ、振り返った少年の目に、シッポをはためかせて逃げてゆく、サジャル
の白い背中が映った。
ホッと、少年は肩をなで下ろす。
「良かったなあ、お前。」
少年は、手の中でもぞもぞと体を動かすワフールに声をかけた。
手袋の厚い毛皮を通して、その小さな温かみが伝わってくるように、少年に
は思えた。
顔を近付けると、ワフールの方も、こちらをじっと見詰め返している。
少年の心が通じたのか、その黒い大きな瞳に、脅えの色はないようだ。
そう、少年には思えた。
「よしっと。」
少年は起き上がり、改めてフードを被り直した。
「ちょっと窮屈かもしれないけど、我慢してくれよな。」
そう呟きながら、ワフールを腰に下げた皮袋の中に押し込んだ。
少年の言葉が分かるのか、ワフールに逃げようとする様子はない。
「おーい!」
と、サジャルが走り去っていった方向から声がして、見ると、ザンバラに髪
を乱した少年が駆けて来るところだ。
年は、少年と同じ位というところか。
「なにかあったのか?トゥール。
今、サジャルが死にそうな勢いで駆けてったぜ。」
「ちょっとな。」
少年は、何事もなかったように答えた。
トゥ−ルというのが、少年の名前らしい。
「ふうん。
しかし...」
ザンバラ頭の少年は、ボリボリと頭の後ろを掻きながら、
「今日はいったい、どうなってやがんだ?
ろっくなモンが、掛かってねぇ。」
「そうか、マトクもか?」
「も...って、お前の方もか?」
「うん。
全然って、わけじゃないけどな。」
と言ってトゥ−ルは、ちらりと自分の腰のあたりに目をやったが、マトクと
言う名の少年は、彼の目の動きには気が付いていないようで、肩に背負った獲
物を、雪の上にぽんと軽く放り投げると、どっかりその場に腰を下ろした。
「ジフリ(ライチョウの一種)が一匹と、ヤーズワン(野ウサギの一種)が三
匹だとよ。
まぁたクゥリ達に笑われちまうぜ。」
あーあ...と、ため息を付きつつ、
「なあ、トゥー...」
相棒の名を口にしかけた、マトクの動きが止まった。
「な、なんだ?」
その時、にわかに空気が冷たく、重く湿ってゆくように感じたのは、果たし
て少年達の錯覚だったのだろうか?
それとも...
マトクの瞳は、はるか遠くを見つめていた。
だが、それだけではない。
ただならぬ緊張の気配が、マトクの横顔に表われていた。
トゥールは、ハッと表情を変えて立ち上がった。
「あっ!」
トゥールは、続くべき声を失った。
数十アレク(1アレクは大体10メートルくらい)先に、落ちれば確実にあ
の世行きの絶壁がそびえ立っている。
そのてっぺんの崖っぷちからこちらを見下ろす、複数の目があった。
その、白い巨大な姿は、決して彼らに危害を加えられないと思えるこの距離
にあってもなお、二人の少年の精神を捉える力を弱めていない。
マトクの顔からは、常に失われる事のない筈の陽気さが消え、その視線は、
鋭い針となって彼方へと放たれた。
もっとも、それはトゥ−ルとて同じ事だ。
村人の中で、全くそいつと縁がないと言い切れる者はいない筈である。
そいつによって命を奪われた村人が、いったい、今まで何人になるだろうか?
...と、その巨大な白い毛並みが、崖の向こうにすっと沈んでいった。
同時に、それまで少年達を圧していたものがプツンと途切れる。
ふうっと、深い息をトゥ−ルは吐いた。
マトクも息をつく。
二人とも、その顔は真っ青だった。
「マトク、早く親父達に知らせないと。」
「ああ。」
二人は走り出した。
一休みなんか、してはいられない。
まるでそいつに追いかけられ、そして、そいつがすぐ後ろに迫ってきている
ようで、いつしか二人は、雪原を全力で疾走していた。
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