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第二章 −恋する者達−
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ブローグの出現が知らされても、それが村人達の日常生活に与えた影響は、
ほとんどないと言って良かった。
いかに恐ろしい存在とはいえ、家の中にいれば安全なのだし、大体、ブロー
グ怖さに閉じこもってしまっては、生活そのものが成り立たない。
したがって、ブローグに対する策としては、一人で外出しない、武器の点検
を怠らない、夜間森に入らないなどという程度で、それ以外はこれまでの単調
な日常からの変化はなかった。
ブローグ出現と言っても、それは毎年お決まりの行事みたいなものだったし、
被害が少なからずあるとはいえ、それは狩りの途中で事故に合うのと同じくら
い、いや、もっと少ない頻度であったからだ。
人一人いなくなったからといって、村全体が、直ちに死活問題に転じるとい
うものではないからである。
しかし、そうは言っても、村の男達の、ブローグを倒したいという気持ち
に変わりはない。
毎年、何人かがブローグの餌食になっているわけだが、人口五百人程度の小
さな村である。
ブローグによって、親戚縁者に一人も欠けた者がいないという家は、ほとん
ど皆無と言ってよかった。
子供達だけで外に出ていたトゥール達は、ちょうどブローグを見た崖の辺り
を通りかかり、ソリを止めた。
「あの辺だよな、ブローグがいたのは。」
マトクが、トゥールを振り返って尋ねた。
「うん。
大体、あの辺りだな。」
トゥールは、目を凝らして崖っぷちを見つめたが、もちろん、ブローグの姿
はそこにはない。
「そうだ!トゥール。
あの上に行ってみようぜ。
ブローグの足跡でも、残ってるかもしれねぇ。」
「そうだな。
あれから吹雪いてないし、天気も安定してるしな。」
トゥールは、マトクの他にもう二人いる連れに向かって、
「なあ、どうする?ソルカ。」
「ああ、いいとも。
俺だって、ブローグの足跡とやらを拝んでみたいからな。」
それまで黙っていた二人のうち、比較的線の細い感じの少年が答えた。
二人とも、トゥール達とは同じ位の年恰好だ。
「イーシュは?」
もう一人、少しきつめの顔だちの少年は、
「ああ。」
と、短く返事をしただけだ。
「じゃあ、行くぞ!」
マトクを先頭に、四人はそれぞれ、自分のソリに乗り込んだ。
この冬ようやく与えられたソリは、いわゆる子供用で、スピードもパワーも、
大人の乗るものとは格段の違いはあるものの、それでも実用的には、特に不満
を感じるという程ではなかった。
乗り手自身の軽量さが、エンジンの非力を補っていたからである。
もちろん、それ以外にも理由はあるのだが。
ソリはスムーズに発進し、ゆるやかに加速しつつ、坂を上ってゆく。
程なく彼らは、切り立った崖の上に到着した。
回り道だったが、思っていたより時間がかからなかった。
それでも、さっきの場所との標高差は、結構ある。
落ちれば、冗談では済まされない高さだった。
「どうだ?足跡は?」
そう言うトゥールは、マトクの返事も待たず、それに気付いた。
「なんだ?」
これはソルカ。
マトク、トゥール、ソルカ、イーシュは順にソリから降り、その順番のまま、
声を失っていた。
「なんだい、こりゃ?」
しばしの沈黙を破ったのは、マトクである。
その声に、それまで止めていた息を、ふぅと吐き出したトゥールとソルカは、
思わず互いの顔を見つめ合った。
四人の足元には、見事に半球状に雪がえぐられたようになっていた。
半径は、おおよそ半アレク(3メートルくらい)ほどで、深さも同じくらい
はありそうだ。
底の方には、この時期に絶対に見る事のない、灰色の地表面が露出している。
「ちょうどこの辺だよな、マトク。」
「ああ。
そうだろうな。」
トゥールの質問に、マトクが答える。
「いったい、なんなんだい?」
ソルカが尋ねる。
マトクは、しゃがんで中を覗き込んだ。
それまで、ほとんど口を開いていないイーシュが、
「こいつは、足跡じゃないな。」
「当然だろ。
こんなでかい生き物が、この世の中にいるわけないよ。
いくらブローグだからって...」
馬鹿にしたような口調のソルカを押しのけるように、トゥールが、
「何だ?イーシュ。」
「これはきっと、熱で溶けたんだ。」
「溶けた?」
ソルカの声を背中に聞きながらイーシュは、その穴のへりから、雪を一つか
みえぐり取った。
「見てみろ。」
イーシュの手の中をのぞき込む少年達の表情は、真剣そのものだ。
「奥はスカスカの雪のくせに、表面だけ氷になっている。
これは熱を受けて溶けた後、急に冷やされたんだと思う。」
「なるほど...
でもいったい、どういう事かな?」
トゥールの言いようは、誰かに答えを求めているというものではなく、自分
に対しての問い掛けだったようだ。
「さあな。
しかし、ブローグに関係あるって事は、確かだろ?」
マトクの口調は明確である。
常に冷静沈着なイーシュといい、気分の切り替えが早く、判断力のあるマト
クといい、かなわないな...と、いつもトゥールは思っている。
「そうかな?
いくらブローグがここにいたっていってもな、昨日の事だろう?
少なくとも、一日は経ってるんだから...」
対するソルカの言いようは、あくまで懐疑的だ。
「でもよ、全然関係ないっていうより、何か関係あるんじゃないかって考える
方が自然だろ?」
「まあ、そうだけど...うん。」
マトクの、妙に自信のこもった言い方に、ソルカは渋々うなずいた。
「とにかく、ブローグってのは、わけのわかんねえ事ばかりなんだからな。
なんでもいいから、手掛かりになるものが欲しいんだ。
どんなに細かい、つまらない手掛かりでも、心のどっかに収めておいて、そ
うして、いろんな方向から考えてみなくちゃな。
しかしまあ、今はこいつに関しては、ソルカの言うように、すぐに結論を出
す必要はねぇわな。」
「ああ。」
トゥールは答えた。
確かに、一つの考え方に固執すれば、真の答えは見えにくくなる。
それを判らない彼らではない。
しかし、それにしても情報が少なすぎた。
大体、ブローグが全部で何頭いるのかも、予測できていないのだ。
何もかもが判らないのでは、対処の方法も思い付きようがない。
ふとトゥールは、あの白い巨大な姿を思い出し、わずかに体を震わせた。
少年達が、一応はわなの様子を確かめるため、その実は遠出の散歩、ある
いはブローグ探索のつもりで走り回っている間、少女達は、いわゆるつくろ
い物の仕事にたずさわっていた。
広い面積があること。
そして、場所の利もあって、クゥリの家に集まる事の多い少女達は、この
日もそれぞれの手に、糸と針とをもって、せっせとそれらを動かし続けていた。
だが、もちろん動いているのは、それだけではなかった。
「...ねぇ、やっぱりトゥールって、フォーラの事、好きなわけ?」
針と糸を動かす手は止めずに、クゥリは尋ねた。
それを聞いて、わずかのあいだ手を止め、顔を上げたフォーラは、しかし、
すぐにリズミカルな指の動きを取り戻すと、
「...さぁ。
そういうのとは、違うと思うわ。」
フォーラの返事は、もちろんクゥリの疑問の答えにはなっていない。
クゥリは、そんなフォーラの表情から心の動きを読み取ろうとしたが、それ
はどうやら不可能だった。
フォーラの落ち着いた瞳の色からは、仕事に対して集中しているという事の
他は、何も情報を見いだせなかったから。
「それじゃあ、フォーラはトゥールの事、どう思ってるの?」
「私は、トゥールは好きよ。」
「好きって、恋人として?」
クゥリのその問いに、フォーラは針を休め、少し考えるように宙に目を据え
ながら、
「違うと思うわ、きっと。
でも、ただの友達とも思えないし...」
フォーラの奥深い表情に、クゥリはなおさら、言葉に現われない心の動きを
読み取ろうとする努力を忘れない。
「私は、人が人を想うっていう事は、一人一人に対して、それぞれ違った感情
があるのではなくて、相手によって、心の別な一面が現われているだけだと
思うの。」
「どういう事?」
「だから、例えばクゥリが、お父さんやお母さんとか、血のつながった人に対
して抱く気持ちと、マトクとかトゥールに対して感じるものと、もとのとこ
ろでは一つになっていると思うの。
友情とか愛情とかいっても、本当は根っこのところでは同じものなのだけれ
ど、それが表に現われる時には、違うように見えるだけなのだと思うわ。
でも、私がトゥールに対してどういう感情を持っているか、私にも、本当の
ところは分からない。
確かにトゥールはいい人だけど、だからといって、特別トゥールを好いてる
というわけではないのだもの。」
一つ一つ言葉を選びながら、ゆっくりと思いを語るフォーラを感嘆の目で眺
めつつ、クゥリは、
「何だか良く分からないけど、結局、トゥールとは何でもないって言いたいの
ね。」
「そうね...
トゥールには、他の人にはない、いいものがあるとは思うけど、それはマト
クにだって言える事でしょ?
誰にでも、ある特定の人にしか見えない、いい面って言うものが、きっとあ
るはずよ。」
「でも...」
クゥリは、しかしフォーラの言う事はあまりよく聞いていないようである。
フォーラは、珍しく真剣な表情のクゥリの瞳を真正面から見て、ドキリとし
た。
「でも、やっぱり私には、たった一人のための愛って、なにかもっと特別のも
のだと思う。
...そう、思いたいの。」
フォーラには、返答することはできなかった。
...と、
「なんか、難しい話をしているのね、二人とも。」
いつもながら、華やかな雰囲気と共に現われたのはスレィアである。
フォーラ達より一夏年上で、美人で優しく、いつも暖かな雰囲気をまとって
いる女性だ。
フォーラ達には、いいお姉さんというところだ。
「聞いてたの?スレィア。」
クゥリは、少し頬を紅くしている。
「ええ。
ちょうど、トゥールがどうこうっていう所からね。」
そう言いながら彼女は、フォーラとクゥリの間に腰を下ろした。
「スレィアは、どう思う?」
「トゥールの事?」
「そうじゃなくって...」
言いかけるクゥリに、スレィアは軽く首を振ってみせ、
「私には、そういう観念的なものの見方は分からないわ。
ただ...」
「...ただ?」
「一緒にいたいと思う人なら...
その人が、自分にいて欲しいと思ってくれていて、自分も、その人のそばに
いてあげたいと思うのなら、二人で暮らすのも悪くないと思うのよ。
シロムは、全然欠点の無い人じゃないけれど...いいえ、だからこそ私がそ
ばにいて、ちょうどつり合いが取れるんじゃないかと思うの。」
「スレィアは、愛ってどんなものだと思う?」
「愛とは、言葉では表せないもの...ね。
少なくとも、私はシロムのためならば、どんなことでもできるつもりでいる
わ。」
そう言って微笑むスレィアの瞳は優しく、暖かく、そして深い色あいをたた
えていた。
シロムとは、この間結婚したばかりで、幸福のただ中にいる彼女の微笑みは、
未だ恋を夢見るクゥリとフォーラには、ひどくまぶしいものに思えたのだった。
トゥール達が戻って来たのは、そろそろ陽が傾きかけてきた頃だった。
ブローグの怖さが、身にしみて判りつつある彼らである。
わなの点検も早目に済ませてソリを飛ばし、暖かい我が家へ帰ってきていた。
「しかしよぉ、ブローグってのは、どうやって倒しゃいいんだろな?」
ソリの外板を外しながら、マトクは言った。
「親父の話ってのが、良く判らないんだよな。」
トゥールは、機関部とフレームとのすきまに詰まった雪を削り取っていた。
性能的には、ほとんどかかわりのない所だが、それでも一応はきれいにして
やりたい。
おおげさなようだが、ソリは命の綱なのだから。
「そうだよな。
いくら若かったって言っても、あのおっさんが、そんな近くまで来ていたブ
ローグに気付かねえってのが、そもそもおかしいんだよな。」
マトクは、ソリのコンソール部分を外しにかかっていた。
速度計のランプが消えていた。
夕刻走って来たので、気付いたのだ。
「んーっと...」
コンソール裏をのぞき込み、マトクは慣れた手付きで、切れたランプを取り
外した。
ある一定の年齢になると与えられるソリは、それぞれの体格、筋力、趣味に
よって思うままに改造されるため、ぱっと見ただけで、誰のものかすぐ判別で
きる。
また、それは他人のマシンは乗りにくいという事でもある。
とは言え、マトクのものはほぼ、ノーマルに近い車体だった。
工房から出て、ほとんどそのままと言ってもよい。
とにかく、動けばよいというマトクの性格を、見事に反映している。
もっとも、パワーはあるだけあった方がいいという事で、コイザに頼んで、
通常の二割増まで上げてはいたが。
トゥール達からは一夏年下のコイザは、マシンをいじらせれば大人顔負けの
能力を発揮した。
普段は、ぼーっとしていて、何を考えているのかも判らない少年だが、一度
エンジン音を耳にするやいなや、その瞳が輝き、脳髄がフル回転し始めるのが
よく判る。
今も、ソルカのソリの下に潜り込んで、その持ち主と、何やら言い合ってい
る最中だ。
「だからさあ、駄目なんだよ。
慣らしはしなきゃ。」
「んな事言ってもさ、マトク達について行くには、ぶん回さなきゃなんないん
だよ。」
「それが駄目って言うの。
いくら地面との摩擦がないって言ったって、機械的動作する部分って言うの
は...」
言いかけたコイザの口を、ソルカはあわてて押さえた。
こんな所で、初歩の機械工学の講義を聞くつもりなど、彼にはなかったから。
「判ったよ。
お前の言う通りにするよ。
...で、直るのか?」
言いたい事を途中でさえぎられて、むっとした顔のコイザだが、
「まあね。
直すのはわけないよ。
でも、当分の間、五千回転以上回したら駄目だよ。
それに急発進、急加速は厳禁...」
「分ったよ。
恩に着るよ。」
と、ソルカが言った時には、すでにコイザは聞いてはいなかった。
フレームの中に頭を押し込むようにして、潜り込んでしまっている。
その熱心な表情を見て、ソルカは軽く肩をすくめた。
「...まったく。
マシンさえありゃ、御機嫌なんだからな、あいつは。」
「あんまりからかうんじゃねえぞ、ソルカ。
あいつのお陰で、パワー上げてもらってるんだからな。
ただでさえ、おっさん達のでかいマシンにゃ、馬力で負けてんだから。」
と、これはマトク。
「へいへい、分かりましたよ...って、あれ?」
ソルカは、積み上げられたフレームやらエンジンやらの山の陰からこちらを
見ている、少女の姿に気が付いた。
「なんだ、ノルカ。
なんの用だい?」
ノルカは、ソルカの双児の妹である。
なるほど、並んでみればよく似ている二人だが、人付き合いのいいソルカに
対して、ノルカは内向的で、口数も少ない。
ソルカに声をかけられたノルカは、あわてて奥に引っ込んでしまった。
そんなノルカの背中を、ソルカはちょっとの間見送っていたが、くるりと身
をひるがえして、マトクとトゥールのソリの間に座り込んだ。
「トゥール。」
「うん?なんだい?」
トゥールは、顔も上げずに答えた。
「お前、ノルカの事、どう思ってる?」
「ノルカ?
うーん...」
トゥールが、上の空で答えている事は明白だった。
調整の合間を見てソルカは、ソリのコンソールの上に身を乗り出した。
「トゥール!」
「なんだよ?」
集中しているところを邪魔されて、トゥールはなかば、怒鳴るように答えた。
「実はな、ノルカの奴、どうやらお前に気があるらしいんだ。」
「ふぅーん...
...えっ?なんだって?」
と、ようやくトゥールは、ソルカの言う事を理解したらしい。
顔を上げたトゥールに、マトクが、
「ノルカがおめえに惚れてんだと。」
からかうような口調のマトクに、ソルカはキッと鋭い視線を投げかけ、それ
に対してマトクは、しらっとして目線をそらした。
「ええっ?」
トゥールはというと、二の句が継げずに目を白黒している。
言葉では分かっても、それを事実として飲み込めていないのだ。
「...で、お前、ノルカの事、どう思う?」
「どうって、いや...
俺はそんな事、考えた事もないから...」
「トゥールはフォーラがいいんだとよ。」
マトクが、にやにやしながらトゥールの頭を後ろから肘で小突いた。
「まったく、こんな野郎のどこがいいんだか。
顔だって性格だって、俺の方が断然いいっていうのによ。」
「おい、俺はトゥールに聞いてんだぞ。
黙ってろよ、マトク。」
ソルカの剣幕に、マトクは口をとんがらしたまま、それでも喋るのをやめた。
「なあ、トゥール。
はっきり答えてくれよ。
お前が、ノルカのこと嫌いだって言うんだったら、それはそれでいいんだ。
好きとか嫌いとかっていうのは、他人がどうこう言って変えられるもんじゃ
ないからな。
ただ、お前の気持ちが分かってれば、俺が余計に気を回さなくても済むから、
だから...」
口ではそう言ってはいるものの、ソルカが、本当はひどく妹想いだというこ
とは、マトクもトゥールもよく知っている事実だった。
ソルカが、女の子にちょっかいかける事が多いのも、自分を仲立ちにして、
ノルカを他の女の子達と馴染ませようと努力した結果であるらしい。
もっとも、ソルカという少年は、もとから女の子と仲良くやるのが得意なの
だが。
「俺は...」
トゥールの脳裏に、ノルカの真ん丸い顔がぼんやりと浮かぶ。
青みのかった、たっぷりとした髪を、一本の三つ編みにして背中に垂らして
いることが多い。
大きな青い瞳と、その上に真横に濃く引かれた眉毛が、額に垂れ掛かった前
髪の間に、僅かに見え隠れしている。
はにかむような表情でトゥールを見つめるのが常のノルカだったが、そうい
えば彼女が、声をあげて笑っているのを見た事がないのに、トゥールは気が付
いた。
「嫌いじゃないさ、ノルカは。
いい子だと思うし、どっちかって言うと、す、好きだけど...
でもそれって、ソルカの言うのとは...」
トゥールは口ごもった。
こういう時、どう言った方がいいんだろう?
嘘はつきたくないし、かといって、ソルカの気に入るような答えはできそう
にないし...
ソルカは、そんなトゥールを、睨み付けるような目で見つめていたが、不意
にその表情を和らげ、
「嫌いじゃなきゃ、それでいいんだ。
悪かったな、トゥール。」
「い、いや...」
トゥールは、まったく困った事だと思った。
これじゃあ、今度ノルカに会った時に、どういう顔をしたらいいのか分から
ないじゃないか。
変に意識して、まともに顔も見られないんじゃないかと思う。
ソルカがソリ置き場から出ていってしまうと、マトクは、トゥールのそばに
滑り込んできて、
「おい、トゥール。
お前、どうする積もりなんだよ?」
わざとからかうような口調を装ってはいるが、その目は笑ってはいなかった。
「どうって...
俺にどうしろって言うんだよ?」
「はっきり言ったら良かったんじゃないのか?
俺にはその気はないってさ。」
「でも...」
トゥールとしては、自分が悪者にはなりたくないというところだ。
それを悪い事と言うならば、いったいどうすればいいと言うのだろ?
あえて悪役になろうと決意できるほど、トゥールは人間ができているわけで
はなかった。
「まあ、いいや。
お前自身で決める事だからな。
俺が口出しする事じゃねぇや。」
そう言い残して、マトクは自分のマシンに戻った。
エンジンを始動させる。
小型のため、やや甲高い機関音が、ゆるやかな振動をともなって、トゥール
の体に響いてくる。
(まあ、いいや。
お前自身で決める事だからな...)
マトクの言ったその言葉が、いつまでもトゥールの耳に残っていた。