少年はゆっくりと瞼を閉じて、薬を口に含んだ。
少女は少年の胸で、同じ薬を口に含んだ。
最後のキスは苦く、口元から破滅への音が漏れる。
それでも、彼らは死ねなかった。
少女、少年 <第三話>
「うん、いいよ。え、明日菜じゃ駄目なの?ファミレス?いいよ、わかった昼飯は食べて
から行くけど。3時?OK、じゃまた明日。」
シンジはバス停から自宅マンションへと向かう途中でかかってきたケンスケとの電話を
そう結んで、携帯をズボンのポケットに放り込んだ。
右腕には、絡みついたレイが下唇を噛みながら、電話が終わるのを待っていた。
「女の人・・?」
レイは少し潤んだ瞳で、上目遣いにシンジにそう問うた。
そのいじらしい仕草と、胸の奥を擽るような柔らかな唇の動きが、たった一言の言葉だ
けでシンジの思考能力を奪っていく。シンジも自宅が直ぐそばでなければ、この場で実力
行使に出ただろう。
明日菜で色々言ってはいたが、まだ新婚である。
「えっ、え、ち、違うよケンスケだよ。明日何か話があるらしいんだ。それで待ち合わせ
場所と時間の確認。昼の3時だから、レイが検診してる間だよ。ちゃんと迎えに行ける
よ。」
シンジは目一杯の笑顔で自分の高ぶる感情を抑え、自分の愛しい妻にそう答えた。
レイは少し安心した表情を浮かべて、シンジを見つめていた視線を足下に戻した。
二人は駅前のモールでウィンドショッピングを楽しんだ後、スーパーで食材を買い込ん
で帰路に就いていた。
当初は外で食事をする予定だったのだが、突然レイが今日は家で食べたいと言い出した
ため、二人は買い物だけを済ませて、自宅へと帰ることにしたのだ。
自宅マンションに着くとシンジは風呂の用意を(と言っても”自動お湯張り”ボタンを
押すだけなのだが)、レイは食事の準備を始める。これが二人の業務分担だった。
シンジは風呂場から戻ってくると、「何か手伝えることはない?」といつものようにレ
イに訪ねた。
「ううん、今日はいいわ。でも、後で可愛がってね。(ぽっ)」
可愛い奥さんにそう言われて断れる夫が居るだろうか?いや居ない!(反語)
ちなみにレイの最後の一言は、マヤ直伝である。
そしてシンジには、『いつものレイの言葉とは違う』と考えるような余裕はない。既に
テンパッテいるからだ。
その後レイは手際よく料理を準備、テーブルにワインまで並べた。
洋食中心の献立で、メインディッシュは”ガーリックソースステーキ”だった。レイの
意気込みが伝わってくる。
シンジは何も考えず、いや後のことだけ考えて、食事を平らげていった。ワインも飲み
干した。無論、何も知らずに・・・。
だがここでシンジではなく、レイ自身もまた大きな間違いを犯していることに気が付い
ては居なかった。
マヤは「10回分」と言った。
確かにそう言った。が、それは「10日分」というニュアンスでの言葉である。が、レ
イはそれを「10日分」ではなく、「10H分」と解釈したのだ。
シンジの飲んだワインには、「今週のびっくりどっきりメカ(謎)」が一本まるまる注
がれていた。(例えそれが10H分だとしても、根本的に間違いがあるよう気がするのだ
が・・・、多分それは考えてはいけないことなのだろう。新婚である。)
『無味無臭効果覿面無害絶倫』のうたい文句は半端ではない。
食事が終わった後、シンジは一匹の野獣と化していた。
そしてレイは、いたいけな姫だった。(一部脚色在り)
その後二人は折角準備した風呂にも入らず、全力で夜を駆け抜けた。
翌朝、レイは大満足、シンジには食事を終えた後からの『記憶』が失われていた。
シンジがベットの上で意識を取り戻したときには、既に時計の針は昼の1時を回った後
だった。
レイは既にベットを抜け出し、ネルフの検診に向かったことだろう。
シンジはガンガンとなる頭と重い体を引きずるようにベットから這い出し、リビングを
抜けて洗面所の方に進みながら、『何故自分の体がこんなに重いのか?』、昨日の食事か
ら先の記憶を一生懸命思い出そうとしていた。が、思い出せなかった。
洗面所にたどり着いたシンジは、自分自身の汗くささに耐えきれず、結局そのままシャ
ワーを浴びることにした。
記憶はない。が、何となく分かるような気がする。
『この痩けた頬。目の下のクマ。赤くひりひりする某所。』
枚挙を厭わねば、まだまだある。
『外食を取りやめ自宅に帰って食事。非常に密度の高い夕食の献立。そしてレイが姉のよ
うに慕う某女性の存在。』
それらを総合的に考えると・・・、いや、考えるまでもない。
シンジはありったけのため息を吐き出して、シャワーで全身の汗を落としていった。
疲れ切った体には、少し熱めのシャワーが心地よい。体に染みついた気怠さを、水滴の
一粒一粒がそぎ取っていくような気持ちになれるからだ。
シャワーは、細身ながら鍛えられたシンジの全身にはじかれるように落ちてゆく。
特別に何かスポーツをしてきたわけではないのだが、定期的に通うネルフの地下にある
トレーニングセンターが、シンジのグットシェイプを支えている。
最初にトレーニングセンターに通い始めた理由は、『レイに相応しい男になろう』とい
う様な、今思えば照れくさい、それでいて当時は非常に重要な理由だった。その後、本来
まじめな性格が幸いしてか、今は180cm僅かに足りない身長に、均整の取れた体を誇
っている。
まぁ、これぐらいの体をしていなければ、レイの相手は勤まらないとも言えるのだ
が・・・。
シャワーを終え、風呂場から出てきたシンジは、全身を蒼いタオルで拭きながら、掛け
時計に目をやった。
午後2時前。今から準備すれば十分にケンスケとの待ち合わせ時間には間に合うだろう。
その後部屋に戻ったシンジは、ジーンズとTシャツに薄緑色のカッターを選んで、いつ
ものデイバックを背負って家を出ることにした。
玄関を空けたシンジに元に流れてきた空気が、何時もと変わらない町の様子を物語って
いた。
待ち合わせ場所にしたファミレスにシンジが着いたのは、約束の時間の10分前だった
が、ケンスケは既に店の中で待っていた。
テーブルの上に並べられた食事の気配を見ると、ケンスケは約束の時間よりかなり早く
来て、遅い昼食を取っていたようだった。
「暑いね、今日も。」
シンジはそう言いながらケンスケに向かい合うようにテーブルの向こうに座った。そし
てウエイトレスの運んできたおしぼりで、昨日と同じように顔を拭く。
「暑いね、昔は季節があったというけど、想像もつなかいな。」
ケンスケは食事の最後をかたづけると、こちらは口元をおしぼりで拭きながら、シンジ
にそう答えた。
二人が座る席から見える街頭には、青々と茂った街路樹と、陽炎の立ち上がるアスファ
ルトがある。それはシンジたちが生まれてからずっと変わることのない、この世界の風景
の一つだった。
二人は少しだけ感傷に染まった想いでその景色を見ていたが、暫しの時間の後、ケンス
ケが切り出した。
「なぁ、シンジ。嫌な話でも、聞いてくれるか?」
ケンスケの表情はいつもの様な優しげな面もちではなく、何処か厳しく、それでいて悲
しげだった。
シンジは、その様子、何処か思い詰めたケンスケの気配をひしひしと感じながら、少し
目を細めて見せた。
「どういういう意味?」
逆にシンジが問う。
「色々考えたんだけどね、結局良い方法が思いつかなかったからな。単刀直入に聞こうか
と思って。」
ケンスケは小さく、意識して呼吸を一つ入れる。
「惣流のこと、今はどう思ってる?」
シンジは一瞬、自分の血の気が引いていったのを感じた。
ケンスケは何を言いたいのだろうか?
何を自分に問うているのだろうか?
何故、ケンスケはそれに触れる?
「何が言いたい、ケンスケ。」
言葉尻が震えた。
「昨日みたいな、そうありたい、という様な考えじゃなくて、惣流をどうとらえているか、
俺はそれを聞きたい。昔じゃなく、今の気持ちが聞きたいんだ。」
「僕にはそれを拒否できる権利があるだろ?」
「ある。」
「それでも聞くの?」
「ああ、それでも聞かせて欲しい。」
「理由、を先に聞かせてはもらえないのかな?」
「悪いけど、それは出来ない。」
シンジは硬い表情を浮かべ、射るような眼差しでケンスケを捉えていた。
ケンスケもそれを、視線を逸らす気配さえ感じさせずに受け止める。
「どう、話せばいい?」
シンジは表情を変えないまま、押し殺した声でそう口にした。
「レイのこと、愛してるか?」
ケンスケは突然、振り替えたように問いを返した。
シンジはそれに対して、怪訝な思いに駆られながらも、思うままの答えを返す。
「勿論だよ。さっきの質問と併せて答えるなら、今はアスカよりレイの方を何倍も愛して
るよ。」
「自信、あるか? シンジ、」
「ある。僕はこの10年、レイと歩いてきた。それ以上でも、それ以下でもない。」
ケンスケはシンジのその答えを受けても、表情を崩さずにじっとシンジを見つめている。
「俺は10年前、シンジと惣流の間に何があったかは知らない。ただ、それでも分かるこ
ともある。シンジも嘘を付くのは下手だからな。その想いは、本当に忘れられるモノなの
か?」
ケンスケは絞り出すように問いを続ける。
「ケンスケ・・・、僕はケンスケが何を言おうとしているかは分かる。だけど、僕の今の
想いは本物だと思う。10年は人の想いを変えてゆくよ。僕は、少なくともそうだ。」
「シンジ、もしお前がそうでも、そうじゃない惣流が今お前の前に現れたら、お前はどう
する?お前は今の想いが本物だって、言えるか?」
「言えるよ、ケンスケ。言うさ、僕はレイを一人には出来ない。無論、その逆もそうだ。
僕はもう、レイを失いたくはない。」
ケンスケは即答したシンジのその答えを聞いて、両目を閉じて天を仰いだ。
小さな沈黙が流れる。
『 人はそんなに強くできてない、と、そう言ったら怒るか、シンジ・・・、 』
そしてケンスケ財布から、昨日ヒカリに見せた名刺を取りだした。
「ドイツで、惣流に会った。」
何となく予想できていたその答え。それでもシンジは両目を見開いて、驚きの感情を押
し殺すことは出来なかった。
英数字の羅列、それが作るアドレス。”asuka”から始まるそれは、間違いなく彼女の
モノだろう。
「ネルフで会った。元気そうだったよ、多分。」
「な、なんで・・・。」
シンジの言葉は殆どかすれて、正しく音にならなかった。
あの10年前、あの時に押し殺した思いが、歪み、解れ、融けだしてゆく。
「この前の仕事がドイツだった。だからネルフに行って、惣流に会おうと思った。馬鹿だ、
余計なことをしたと、罵ってもらってもいい。その権利もシンジにはある。」
自分の意志に反して、シンジの両膝がカタカタと震える。
遠く想像の世界と、リアルとして突きつけられるモノは全く違う。
「居ないって、もうネルフには居ないって・・・、なんで今更、そんな簡単に!」
語尾が自分が思っているよりも強く跳ね上がる。
目の焦点が定まらない。
「なぁ、シンジ。簡単じゃないし、偶然でも無い。シンジとレイも、自分たちに対する監
視、制約が弱まったって、2年ほど前に喜んでたじゃないか。惣流にとっても、それは同
じだったんだろう。ただ、両方は積極的には歩み寄らなかったし、俺はよく分からないが、
ネルフという組織内の様々な問題が、あえて意図的に旧チルドレンの情報のやりとりを避
けていたのかも知れない。多分、ドイツのネルフに行っても、3年前なら、にべもなく追
い返されていただろうな。それに、3年前なら俺は行こうとも思わなかっただろうし。」
シンジは、避けたい自分の心の奥底の感情、見せないように生きてきた自分自身の姿が
見え隠れして、吐くべき言葉を見つけられないで居た。
ケンスケは、そんなシンジに言葉を続けていく。
「理由は無いんだ、惣流に会いに行ったことには。偶々仕事がドイツで、そうしたら惣流
はどうしてるだろう、って思ってね。ネルフに行けば会えるんじゃないか、とそれだけさ。
駄目元でネルフに行って、そしたら惣流が出てきた。出来すぎてるとは思わなかったよ、
そういう事もあるだろう、と、ただそれだけだ。会った後のことなんか考えてなかったか
ら、少しだけ焦ったけど。こっちの皆の近況を教えて、惣流の話を少し聞いてお終い。最
後にメアドだけ聞いて別れた。」
「こちらのは、教えなかったのか?」
シンジは強ばった表情を崩せずに、そう問うた。
「もらったら返事を出す、って言ってた。貰いたくない人もいるだろう、と。」
「僕のこと、なのかな。」
その表情のまま、シンジは自嘲気味に笑おうとしているようだった。
「俺は正直、この事を伝えないでおこうかと、何度も思った。今まで10年やってこれた
から、このままの方がきっと良いって。今でもシンジが、レイよりアスカのことを想って
いたら、この話は伝えないでおこう、って。」
「僕の、さっき口にした気持ちは嘘じゃないよ、ケンスケ。今アスカとどうやって言葉を
交わせばよいのかは分からないけど、それでもあれは嘘じゃない。」
シンジは自分自身にも言い聞かせるように、そう言葉を吐いた。
「シンジならそう言うと思ってたさ。そうでもないと、こんな話自体しないさ。途中で止
めれる話じゃないだろ。まぁ、表向きの言い訳を自分自身にしてからじゃないと、出来な
い話もあるってことさ。」
ケンスケはそう言って、硬い表情を少し崩した。
「元気、だった?」
「あぁ、元気だったよ。あの性格はあんまり変わってないと思うね。でも、落ち着いたと
は思うな。10年だからな。」
「そうか、10年だからね。今は何してるって?」
「ネルフの研究者、未婚の母。」
ケンスケのその言葉を受けて、シンジの表情が再び強ばる。
胸に去来する不安感と焦燥感、こみ上げてくる嘔吐感がシンジの感情を締め付ける。
「未婚の、母?」
「ああ、子供が居ると言ってた。もう相手の男とはとうの昔に別れたってね。それ以上は
聞くなよ、俺も聞いてないから。」
「そう、なんだ。」
それ以上の言葉が用意できない。
「今は充実してる、とは言ってた。こっちはシンジとレイ、ヒカリとトウジが結婚したこ
とは伝えたよ。『ほんと、まったく意外性がないわね!』って返ってきたけどな。」
「皆、知ってるの?」
「ヒカリには、昨日話した。レイにはシンジから伝えてやってくれ。ヒカリはトウジには
伝えるだろうけど、それ以上は他言しないだろうからな。」
「分かったよ、ありがとう、ケンスケ。」
シンジは様々な思いを押さえつけて、取りあえずその言葉を口にした。
ケンスケはその言葉を受けて、軽く首を振って見せた。
「惣流へのメール、出しても出さなくてもどちらでもいいと俺は思う。シンジが良いと思
った方を選んでくれ。」
シンジはその言葉に、小さく頷いた。
その後、シンジに週明けからまた海外に出ることを伝えたところで、ケンスケは旅の準
備があるからと言って、席を立った。
「10年は長いけど、長すぎるわけじゃないと思うよ。」
別れ際に残していったケンスケの言葉が、今のシンジには余りにも重かった。