暖かく艶やかなる想いの証は、少女の腕の中で眠る。
少女は泣くことも止めず、微笑むことも止めず、
有りのままに、それを抱きしめる。
それは甘く、淡い少年の匂いがした。
少女、少年 <第七話>
かつて『コンフォート17』と称されたマンションは、既に此処にはない。
今は荒涼とした広場に、十字架の群が立つだけの場所である。
多くの人が死んだ。
飾る言葉を捨てれば、それは無への回帰。
たとえそれが正しくなくとも、こちら側の人間にとってそれ以外の答えなど無い。
『最後にやって来たのは、半年と少し前だろうか?』
日が落ちて、深い青へと変わってゆく空のグラデーションの下、日向マコトは『葛城ミ
サト』と書かれた十字架の前で、じっと刻に身を委ねていた。
半円の淡い月の光だけが、闇の中に十字架の影を作っている。
日が落ち、闇が降りて尚、熱を帯びた大地、空気。
それは、最後の日も、それより前も変わることはなかったのだろう。
時折、僅かばかりの風が足下の砂を払うように去っていく。
そんな風を遮る物は、此処には殆どない。
遠い昔、自分は『葛城ミサト』という女性を愛した。
死と引き替えにしても良いと、それ程までに愛した。
人は、愚かなほど人を好きになることがある、と思う。
時が過ぎ、遠い記憶が削り取られても、心の一番深い部分にそれは残る。
それは弱さでも強さでもなく、ただ想いの形なのだ。
でも、今は別の女性を愛することも出来る。
それも、人なのだ。
十字架に掘られた名前を見つめながら、マコトは小さなため息を吐いた。
マコトは着の身着のまま部屋を出て、古いセダンでこの場所にやってきた。
『あの少女が帰ってくる。』
時間が僅かだけ10年前へと歪んだから、この場所が自分を呼んだのかも知れない。
マコトはそんな自分の考えに苦笑して、遠くに霞む街の明かりに目を移した。
僅かに揺らぐそれらは、10年の証のようでもあり、過去への廻航の様にも映る。
あの日から少女は、どうやって10年を過ごしたのだろうか?
少年と別れ帰った故郷に、彼女の両親は健在だったのだろうか?
彼女を支える家族は、そこにあっただろうか?
「家族ごっこでも、家族ですよ、葛城さん・・・。」
マコトは最後にもう一度十字架の名前を見つめた後、この場所を後にした。
風呂から出てきたシンジは、ダイニングで腰掛けながら明日の弁当の準備をしているレ
イの背中をじっと見つめていた。
レイは忙しなくキッチンを中心として動き回り、手際よく片付けと準備を繰り返してい
く。シンジはその一つ一つの行動に、昔自分が行っていたときとは又違う、もっと別の優
しさを感じていた。ただ、それが何であるのかを正しく言葉にすることは難しかった。
「何、見てるの?」
そんなシンジの視線に気が付いたのか、レイが作業の手を休めてシンジの方に向き直っ
た。その透き通るような肌と微笑みは、何時もシンジをドキッとさせるほどに美しい。
レイは昔は余り笑わなかった。でも、今は違う。優しげで、艶やかで、嫋やかな笑みは
彼女の魅力の大きな一つだろう。
ゆっくりとレイは自分を得ながら、シンジと共に10年を歩んだ。それが彼女にとって
どれ程大きな意味を持っていることか、今のレイを見ればひしひしと伝わってくる。
「少し、話があるんだ。大切な話。」
シンジは、何時もと変わることの無い表情で、そう口にした。
もっと言葉にならないで、切り出すタイミングさえも見つけることが出来ないのでは?
という自分自身の危惧を余所に、その言葉はあっさりと、飾ることなく出てきた。それに、
シンジ自身も少しだけ驚いた。
レイはそのシンジの言葉に小さく頷いて、区切りの良い所まで作業を進めた後、両手を
水で洗い、エプロンでそれを拭きながら、シンジの対面に座った。その表情には、僅かに
だけ不安の影が浮かんでいる。
「昨日話してたよね、今日、ケンスケに会ったんだ。」
「相田くん?」
レイの言葉にシンジは頷いて答えてみせる。
「で、これを、もらったんだ。」
そう言ってシンジは、ゆっくりとテーブルの上に置いてあった財布から、あの名刺をレ
イの前に取りだした。
レイは目を凝らすように、ゆっくりとその名刺をのぞき込んだ。そこには"asuka"から
始まる、メールアドレスが書かれていた。
「・・・アスカ、惣流・アスカ・ラングレー、・・・セカンド、パイロット。」
ぽつり、ぽつりとレイがそう言葉にした。
彷徨い震えるような瞳が、先ほどまでよりよりはっきりとした不安を物語っていた。
レイが、何かを求めるように視線を上げた。
「ドイツのネルフ支部、そこに居るって。ケンスケが、会ってきた。」
シンジのその言葉を受けても、レイは変わることなく不安な表情をシンジに投げかけて
いる。
そんなレイ越しに見える、ダイニングの暖かなベージュの壁紙が、シンジには何故かく
すんで見える気がした。
「ネルフの研究員。後は、詳しく聞いてないんだ。ただ、このアドレスだけ・・・。アス
カに、メール出そうと思うんだ。」
シンジはそんなレイに優しげに語りかけるように、それでいていつもの口調と変わるこ
となく、そう言葉を投げかけた。
レイは下唇を小さく噛みながら、膝の上に掛かる白と水色のチェックのエプロンを、ぐ
っと握りしめていた。そのエプロンは、同じ柄の鍋掴みとスリッパと合わせて、シンジが
去年のクリスマスにレイにプレゼントしたモノだった。
「家族だったから・・・、一緒に戦ったから、大切な人だったから、メール、書こうと思
ってる。出さなくちゃ、って思うんだ。理由、言葉にちゃんとできないけど・・・、うう
ん、ちがうな。理由なんか無いんだ。メール、ださなくちゃ・・・。」
シンジは今まで押さえていた自分自身を卑下するような感情が、少しずつ言葉の端々に
浮かび始めた事を感じていた。何処か、レイの顔色をうかがうように言葉を選んでいる、
そんな自分が確かにいる。
レイは何も答えずに、じっとシンジの瞳だけを追いかけていた。
掛け時計の秒針が進む音だけが、ダイニングに響いている。
煩雑な世界の雑踏の、ほんの僅かなの破片さえも、この場所には届いていない。
レイとシンジの瞳だけが、互いの想いを追い求めているようだった。
「・・・10年、経ったけど・・・、僕も、レイも、あの頃とは色々と変わったけど、も
う一度アスカに会えるなら、僕たちは会うべきなんだと思う。」
やっと口を開いたシンジは『僕たち』という、自分の台詞の卑怯さに少し驚いて、意識
して長い時間の瞬きをした。
逃げている、というのが自分自身でますます膨らんでくるのが分かる。それなのに自分
は、なぜこんな平然とした顔で言葉を並べているのだろうか?
「会いたい・・・ね、惣流さんに。」
レイが何かを噛みしめるようにそう口にした。
その一言に、シンジは目を見開いてレイの唇を追う。
「会って話がしたいの。そして、あの頃のこと、謝りたい。」
シンジは、一転して自分の肩がわなわなと震え始めたことに気が付いた。
レイの言葉の意味を正しく受け止めることが出来ないでいる。が、ただ一つ、自分の卑
屈さと比べて、自らの目の前に座る女性の純粋さ、優しさがシンジを強く打ち付けていた。
「レイが、アスカに謝る事なんて何もないよ。僕は、沢山謝らなくちゃいけないけど。僕
は・・・、僕はアスカに逃げていた子供だったから・・・。」
シンジにとってその言葉が本当であるのか、自分でも既に分からなかった。
ただその言葉を口にした瞬間、唐突に頬を涙が伝った。
それは突然やって来た、心の端だった。
「10年前、シンジと惣流さんの間に何があったのか、私は知らない・・・。」
レイは小さく言葉を零した。
「でも、今のシンジは、シンジだから。」
暖かな、言葉だった。
しかしその言葉を受けて尚、シンジの高ぶる感情は止まることなく頬を伝ってこぼれて
いく。レイに本当の不安を伝えれば、どれ程楽になるのか?どれ程救われるか分からない。
でも、それを出来ない自分が愚かで、浅はかで、悲しかった。だから、涙がこぼれている
のだ。
レイを失いたくない、と想う心は欺瞞なのか、虚構なのか、それとも逃避なのか・・・。
考えることさえも酷く愚かに思えて、涙が止まらないのだ。
「何故、泣いてるの・・・。」
レイが問うた。
遙か遠く、あの時に問うた言葉とは違う、同じ言葉。
「・・・僕が、嫌な男だから・・・、」
シンジはやっとそれだけ言葉にした。それは、嘘じゃなかったから。
レイはシンジのその言葉を受けて、もう一度ぐっとエプロンをつかむ自分の両手に力を
入れた。そうやって自分の中の、本当を探そうとしていた。
想いが、ダイニングに揺らいでいた。
レイはしばしそうしていた後、意を決したように椅子から立ち上がり、シンジの座る席
の後ろまでやって来て、そっとシンジの背中越しに手を回した。そして肩口に自らの顔を
乗せて、シンジの頬に自らの頬を会わせた。
「本当は私も、嫌な女だから・・・。」
レイはそう口にして、強くシンジを抱きしめた。
次の瞬間、レイの瞳からも涙がこぼれ落ちた。
その涙はシンジのそれと混じって、二人の肩口を流れていった。
大切に思うから、言葉に出来ることがある。
大切に思うから、言葉に出来ないこともある。
だから二人は、本当の言葉を口に出来ない。
だから今は、二人で泣くだけ。