第一章「国王崩御」


 若い――実年齢も若いのだが、外見はそれ以上に、もはや少年と呼べるほどに
幼く見える――、商人風の服装をした男が、この国の王都ジュロンの、王宮に程
近い繁華街をうろついていた。
「人出が少ないな」
 若者は不満であった。せっかく三年ぶりに王都に出てきたのに、と思った。
「前に来たときはもっとこう、活気があったんだけどなあ」
 だぶついた袖を持て余しながら、若者は呟いた。
 遠くにある王宮を仰ぎ見る。
「……弔旗?」
 なるほど、黒と赤の二色旗が、王宮の塔に掲げられている。この国では、貴人
が亡くなったときにしか、この旗は用いない。
 やや遠目に、王宮の門が見える。
 まだ陽が高いというのに、完全に閉まっている。
 むろん、めったにないことである。
「誰が」
 死んだのだろう、と考える。
「まさか」
 数少ない通行人の中から、騎士らしい男を呼び止めた。
 騎士は最初戸惑い、ついで憤然とした。若者はどうやら商人とみえる。商人が
騎士を路上で呼び止めるとはなにごとだろうか。
「小僧、どういう教育をされたかしらんが、それが人にものを訊く態度か。しか
も誰が死んだか、だと? 不敬な奴め」
 その言葉に、若者は苦笑した。
 と、それがまた騎士の癇にさわった。だが、さすがに大人げないと思ったのか、
「他の者に訊け。礼儀もしらん小僧に答える言葉はもちあわせておらぬ」
 そう言って立ち去ろうとした騎士に向かって、若者は、さらに言葉を投げる。
「小僧小僧と繰り返すな、これでも今年で二二だぞ。あんたこそ大して老けては
いないだろうが」
 騎士は、激昂するかと思いきや、意外にもにやりと笑った。
「おまえが二二? おれと同年か。とてもそうは見えないがな」
 たしかに、この若者は、一六、七と言っても通用するだろう。だが、騎士も、
それとは逆の意味で年相応とはいいがたい。
 若者も笑った。
「訂正する、あんたは老けすぎだ」
 騎士は、いわれなれているのであろう、べつに怒りもせず、
「これのせいかな」
 と、口の周りを覆う見事な美髭を撫でた。
 大の男二人が、路上でくすくすと笑っているのは、端から見たらさぞ異様な光
景であっただろう。
 若者は、最初の質問を思い出した。
「で、誰が死んだのだ」
 口調が最初とまったく同じである。
 騎士が、今度は苦笑する番だった。
「長ったらしい名前の御仁だよ」
「だからその名を訊いている」
 自分の方が不敬ではないか、とは口に出さなかった。
 騎士が王宮を指さした。が、その目線はあいかわらず若者にすえられている。
「グスタフ・カーレル・ハイティンク=ウェイルボード。わが国王陛下だ」
 若者は驚くよりも、やはり、と思った。王宮に弔旗が翻るほどの貴人となれば、
王族かよほどの大貴族しかないだろう。国王は以前より重態であったと聞いてい
る。別に驚くほどのことではないだろう。自分のうかつさに舌打ちしたい気持ち
はあったが。
「それでおまえの名は? ただの商人ではなかろう」
 と、騎士が尋ねたところへ、一台の馬車が通りがかり、少し先で止まった。
 一人の人物が降り立った。若いが、物腰は颯爽たるもので、いかにも貴族とい
った風情である。
「アーガイル!」
 その人物が、若者を呼び、歩み寄ってきた。どうやら、この若者の名はアーガ
イルというらしい。
 同時に、若者――アーガイルの横に立っている騎士にも気付いた。
「おお、デリウス卿」
「おひさしぶりです、公子」
 騎士は、慇懃に会釈した。しかし態度は堂々としたものである。
「卿が弟と一緒にいてくれたのか」
 と、その貴公子は言った。
 デリウスは、「はあ、まあ」と言葉を濁し、改めてアーガイル、つまり自分の
横にいる、商人風の服をまとった若者を見た。
「公爵家の……アーガイル卿か!」
 と、意外さを禁じえないような口調で呟いた。ただの商人でないことは分かっ
たが、それにしても……。
 そして目の前の二人を見比べる。
 一方は、これは幾度か面識がある。ウェイルボード王国においては比肩する者
のない最大の権門、テュール公爵家の嫡男、ウェルフェン公国の公子、フィンセ
ント卿である。
 もう一方は――言うまでもないだろう。だが、実は、この商人のような身なり
の若者が、テュール家当主ヘンドリックの次子アーガイルだったのだ。
 といって、デリウスはそれほどかわいげのある男ではないから、態度を急変さ
せて媚びるような真似はしない。ただ、少々ばつの悪そうな顔をした。
「それにしても、なぜ……」
 と、はからずもアーガイルとデリウスは同じ言葉を口にした。あまりにも見事
に語が重なったので、フィンセントは一瞬、次の言葉も同じかと、奇妙な期待を
した。
 はずれた。
「そんな格好をしているのだ?」
「陛下が亡くなったとは……」
 デリウスはアーガイルに向かって、そしてアーガイルはフィンセントに顔を向
けている。
 フィンセントは苦笑した。
 そして説明する。
「デリウス卿、弟はな、なぜかしらんが貴族の装束というものがたまらなく嫌い
なのだ。というより平民の格好が好きなのかな。領地にいても、たいていは漁師
や狩人と同じような服を着ている」
 おおげさに溜息をつきながら言う。芝居がかってはいるが、真実味がある。
「別に嫌いなわけじゃありません、窮屈なだけです」
 アーガイルが口を挟む。
「それが嫌いということだろうが。違うか、ええ、違うのか、私が言ったことは
嘘か」
「……」
「おまえは実の兄を嘘つき呼ばわりするのだな、親の顔が見てみたいものだ」
「両親とも兄上とおなじです!」
 デリウスは、少なからず面食らった。テュール家のこの兄弟と言えば、およそ
年に似合わぬ才幹と実力の持ち主で、兄は政治に、弟は軍事にと、すでに父親に
かわって公爵家を切り盛りしていると、この王都にまで聞こえた辣腕家のはずで
ある。それでなくとも、およそ公爵家の御曹司といえば、このような街角でこの
ように稚い兄弟喧嘩を始めるような軽い存在ではないはずだ。
 焦らされたように、弟のアーガイルが口を開いた。
「そんなことよりも、陛下は」
「そのことか」
 と、フィンセントは、弟の台詞が終わらないうちに答える。
「多年の飲酒が堪えたのだろう、昨日の朝、息を引き取られた。おいたわしいこ
とだ」
「もう、ですか……」
 アーガイルも一応は納得した。彼と入れ替わりに領土に戻った父から、国王が
病臥しているとは聞いていたのだ。
 国王グスタフは、他国にまで聞こえた酒豪である。一〇代のはじめから、すで
に宮廷で一番の酒量があったというから、それが祟ったとしてもおかしくはない。
六四歳という年齢を考えれば、むしろ長寿の部類にはいるのだが。
「とにかく公邸に戻れ。その話は後だ」
 フィンセントは、さらに事情を聞こうとした弟を制して言った。あきらかに、
デリウスの存在を意識している。
「では、拙者はこれで」
 察したデリウスは、それだけ言うと、軽く会釈をした。
 それに対してフィンセントも会釈を返したが、こちらの方がより慇懃であった。
身分を考えればあべこべだったが、両人ともそんなことに頓着しなかった。
 デリウスが去ったのち、アーガイルは兄の馬車に同乗した。
  王都ジュロンは、ほぼ半円形の城塞都市である。その東、南、それに北までは
城壁に囲まれ、西は海に面している。東には騎士や下級貴族の邸宅が軒を連ね、
北にはテュール公爵家のそれをはじめとする大諸侯や高官の広壮な邸がある。南
はほとんどが平民の居住地で、西には商港と軍港があるが、商業地区が大半で、
軍港周辺のごく一角に、海軍の諸施設が集中している。中心はいうまでもなく王
宮であり、今アーガイルが歩いていたのは、そこからほど近い繁華街であった。
 馬車は北へ向かった。
 公邸の前に降り立ったとき、アーガイルはこの世でもっとも苦手な顔と直面し
た。甲冑こそつけていないが、腰にはレイピアを帯び、肩には短めのマントをな
びかせ、さらには長身、筋肉質と、およそ武官以外の職が想像できない格好で、
その人物は門前に立っていた。下っ端の衛兵などでないことは、彼の年齢とその
服装、態度など、とにかく一目でわかる。
「じ、爺か、ただいま……」
 「爺」が、駆け寄ってきた。
「ただいま、ではございません。このマールテンをもたばかって、いったいどこ
へ行っておられましたか。それに何ですかその格好は。王都ではまともな格好を
しろと、お父上にあれほど釘を刺されたでしょうが。もし万一のことあらば、こ
の爺は自害せねばならないところでしたぞ」
 当分は殺されても死なないような顔をした老人が、一気にまくし立てた。
 自業自得とはいえ、突然の迫害にあったアーガイルは、救いを求めるようにう
しろを振り向いた。
 誰もいない。
 いや、よく見ると、門前に止めてあるその馬車の中から、兄が、見物人のよう
にお気楽な微笑をたたえている。「いい薬だ」とでも思っているのであろう。
  アーガイルは公爵家の令息であり、その家門だけではなく彼個人の才幹も、若
いながらウェイルボード国内では高く評価されている。それが、この宿老の前で
は、まるでつまみ食いがばれた子どものような表情をみせている。
「さ、中へ入られい。今日という今日は、生半可なことでは逃がしませぬぞ」
「ま、待て、爺。こんな話を知っているか」
 と、アーガイルも必死である。この老人のお説教が始まると、泣こうがわめこ
うが、半日は拘束されるのである。アーガイルは、幼児の頃からそれを骨身にし
みて知っている。知っていても懲りたことはないのだが。
 当然、老人は、
「ええ、ええ、聞きとうございますとも。後でゆっくりと聞かせていただきまし
ょう」
 にべもない。
 アーガイルは、懸命に抗いながら叫んだ。
「国王陛下ご崩御と聞いてもか!」
 老人は、腕の力を緩め、先ほどとは別の真剣さでアーガイルを見つめた。この
老人はアーガイルの教育係であり、彼に随伴して王都にのぼってきたばかりであ
る。国王の容態が思わしくないという情報はあったが、アーガイルとは違い、城
門から直接この公邸に向かったので、国王崩御という事態を知らなくても不思議
はない。そもそも公表されていない事態なのだ。
「……真実でござりましょうな」
「こんな嘘をつくほど俺は無分別な男ではないぞ。少しでも俺を信じるなら、い
や、自分の教育を信じるならこの手を離せ」
 と、アーガイルは言ったが、こうも軽々しく君主の死を持ち出すのを「分別が
ある」とはいわないだろう。思わず、馬車の中のフィンセントは失笑した。
 老人は手を離しはしなかった。少し考え直した後、再びその腕に力を込める。
 あざができるほどに痛い。アーガイルはあわてた。
「聞こえなかったのか、爺。手を離せといったのだ」
「このマールテンは、公爵家の禄を頂戴している身でござる。王室の直臣ではご
ざらん。ゆえに、はなはだ不敬な言いぐさながら、陛下がお亡くなりあそばそう
と、拙者のあずかり知らぬこと」
 と、マールテンは、若者の希望を粉々に打ち砕くようなことを言う。
 むろんこの老臣は、本音でこのようなことを言ったわけではない。ただし、テ
ュール家の家臣たちは、多くがこの種の感情をもっていることも事実である。伝
統であろう。

 役者が違うな、と、フィンセントは馬車で思った。
「若こそ、よりによって陛下のご崩御をそのように持ち出すなど、不届き千万で
ございますぞ」
「………」
 やはり年の功か。アーガイルは、もう抵抗は無意味と悟り、ぐいぐいと引っ張
られるのに、抗おうとはしない。屠殺場に引かれていく牛馬の気持ちが、彼には
理解できたかも知れなかった。

(とてものこと)
 マールテンはいささか困惑をおぼえる。
(船上にいるときと同じお方とは思えない)
 
 

 五年前、テュール公爵領(ウェルフェン公国)における最大の港ハーンの沖に、
正体不明の、五〇隻を超える大艦隊が現れたことがあった。旗印を見ると海賊ら
しい。
 そのころからフィンセントは王都に常駐しており、折悪しく父ヘンドリックも
「重要な儀式」とやらで王都に出向いていた。知らせを受けたアーガイルは、王
都へ伝令を飛ばす一方、マールテンら武官を叱咤激励して艦隊を編成し、出撃し
た。幸い、というのも妙なものだが、ハーンは公爵家の居城が近い、いわゆる首
府であり、当然だが軍港もあった。だが、急なことであり、出撃できたのは二四
隻と、公爵家全軍の三分の一にも満たない。海賊の艦隊に比べ、およそ半分の寡
兵であった。
 将兵の士気は低かった。わずか一七歳の少年が、彼らの指揮官なのである。当
然であった。
 マールテンですら不安であった。というより、アーガイルが指揮をとる、と聞
いたとき、真っ先に反対したのがこの老人であった。
『海戦は遊びごとではないのですぞ』
 と満座の中で詰め寄った老臣を、少年は鋭くにらみ返して一喝した。
『父と兄が不在の今、ここでは私が公爵名代のはずだ。不満なら早々に立ち去れ。
もはや帰参には及ばぬ』
  そして一様に不安そうな武官たちを見渡して、『おまえたちもだ』と言わんば
かりに胸を反らした。
  そして、ふっと表情を和らげ、再びマールテンを見返す。
『大丈夫だ、爺。私の指揮に従えば勝つ。すくなくとも負けはしない。おぬしの
教え子を信じろ』
 と、先ほどとは一変したような優しい声で、言った。
 群臣の表情も、つられて和らいでいく。
 この、弱冠一七歳の少年は、空恐ろしいほどの将器をもっていた。少なくとも
周囲の者たちはそういう印象を受けずにはおれなかった。
 積極消極の差こそあれ、ともかく全員がアーガイルに従った。
 彼は、将器のみならず将才をもふんだんに併せ持っていた。その非凡な戦いぶ
りは、もはや伝説となっている彼のはるかな祖先である、テュール家の開祖ノジ
ェール大公のそれを想起させたものである。
『海賊にしては数が多すぎる。どこかの海軍が混ざっているな』
 と、マールテンはじめほとんどの幕僚が気づき、少年にそれを具申した。彼は
微笑して命令を下した。
『縦列をとって迂回し、敵右翼の海賊艦隊に攻撃を集中しろ。左翼には接触する
な』
 皆驚いた。このような場合、敵を殲滅するつもりならば中央突破、あくまで港
湾の防衛に徹するならば横列陣をとるのが、この当時の艦隊戦では常道というも
のであった。アーガイルの作戦は、そのどちらにも反している。
 第一、なぜあれが海賊だと分かったのだろうか。
 若い幕僚が、そのことを尋ねると、アーガイルは不思議そうな顔をして言った。
『わからないのか、全然違うだろう』
 そういわれても、幕僚にはどこが違うのか分からない。
 アーガイルはその問いを発した幕僚に望遠鏡をわたし、
『右翼も左翼も、陣形は横列、これは変わらない。だが、よく見てみろ、船のか
たちが違う。右翼はガレー船がほとんど。左翼は立派なガレオン船が……七隻も
ある。海賊が大型帆船なんかで襲ってくるか?』
 あっと声を上げ、幕僚は若者を見なおした。確かに、海賊が港を襲うときはガ
レー船か小型の帆船と相場が決まっている。風の影響を受けにくく、そのうえ小
回りが利くからだ。言われれば即座にわかることだが、ひとめで看破したのはこ
の少年だけだった。
 平和が続き、海戦の機会がなかったからか、幕僚たちはその程度の識別もでき
ない。いや、それが当然なのだ。この少年は天才かもしれない、と、幕僚たちは
思った。
 思ったのだが、これは過大評価だということを、マールテンは知っている。ア
ーガイルはやたらと船好きで、子どもの頃から、港に行っては交易商人やその息
子たちの話を聞いていたものだ。これも、そのころ仕入れた知識だろう。もちろ
んアーガイルは公国軍事学校を卒業しているが、そこでの成績は、決して悪くは
なかったが首席には遠かった。飛び級で卒業できたのは、公爵家の一員だからで、
のちのち王都の軍学院に編入するのを容易にするためだったにすぎない。耳学問
は、ときに机上の学問を実践面において凌ぐことがある。もっとも、これほど極
端な例も珍しいだろうが。
 幕僚たちの中で、おそらくマールテンだけが、アーガイルに言われるまでもな
く海賊と海軍とを正確に識別していた。実戦経験は数えるほどしかないが、さす
がに宿老であり、一歩先んじた質問をした。
『なぜ、海賊の方を攻撃なされるのですか。中央を突破して、両者を分断すると
いう方法もありますぞ。あるいはいっそ』
 左翼の艦隊の方を、と言いかける老臣を制して、少年は答えた。
『まず、敵の右翼に回り込めば風上をとれる、ということがひとつ。さらに、こ
ちらは少数だ。左翼の艦隊と火力戦をおこなえば不利になるだろう。次に、海賊
との混成部隊で来たということは、あの海軍の意図は、短期決戦を強いて、わが
艦隊を殲滅し、ウェイルボードの海軍力をそぎ落とすところにあるのだろう。逆
に、海賊どもとしては、その某国海軍を利用してわれわれを引き受けてもらい、
その隙にハーンの港を思うまま劫略したいのだろうな。数的劣位をくつがえせば、
いや、少なくともそう敵に思わせれば充分だ。海軍の方は、下手に上陸して国籍
を知られたら一大事だ、さっさと引き上げるさ』
 なるほど、と、マールテンは頷いた。この戦いの目的は、あくまでもハーンを
海賊から守ることにある。もはや質問も意見も無用、とばかりに、深々と少年に
頭を下げた。
 帆柱に信号旗がひるがえり、アーガイルの率いる艦隊は、半円を描くように、
敵の右翼に近づいていく。敵艦隊も迎撃の姿勢をとった。
『白兵戦で一挙に勝敗を決する。人数が必要だ。砲手も抜刀して待機せよ!』
 この時代、火砲の精度はあてにはならない。陸からの砲撃ならまだしも、艦船
同士の戦いにおいては、よほど敵が密集していない限り、まったくの運まかせ、
当てずっぽうといっていい。海賊どもが乗っているような小型軽量の船が相手な
ら、なおさらのことである。アーガイルの指揮は、突飛なようでいて理にかなっ
ていた。
 砲弾にかわって火矢が飛ぶ。敵は、風下だから当然火災をおそれ、通常の矢を
使わざるをえない。敏捷性を何よりも重視する海賊船では、船体に負担のかかる
砲は装備していない。また、彼らの武器である弓矢や石弓も、しょせんは海賊の
粗末な技量である。届かなかったり、あるいは飛びすぎたりと、なかなか船上の
人間に当たるものではない。それに対してアーガイルに率いられた兵士は、人に
当てる必要はなく、船に当てればいいのである。もともとの技量の差に加え、的
の大きさまで違うとなれば、すでに勝敗は決したも同然であった。
 一隻に火がつく。すると、海賊たちは火に巻かれるのを恐れ、当初の整然たる
陣形が嘘のように、個々が勝手な方向へ散開した。
  アーガイルは、早くも突撃を指示した。とたんに各所で激烈な白兵戦が始まる。
 この時点で、早くもアーガイル艦隊の優位は動かしがたいものになっている。
しかし、それはあくまで海賊艦隊に対してのことであり、ここから左翼の敵艦隊
が迫ってくれば、あるいは殲滅されたかもしれない。
 だが、敵は風下ということもあり、また、身を犠牲にして海賊どもを助ける義
理はないと判断したのか、一向に動く様子を見せない。
 アーガイルはじめ、全員が安堵した。
 哀れなのは海賊たちである。開戦からほとんど時間のたたないうちに、敵には
圧倒され、味方には見殺しにされ、殺される者、逃げ出す者、捕らえられる者、
もはや艦隊としての形をなしていない。
 左翼の某国艦隊は、アーガイルの艦隊が海賊どもを掃討している隙に、さっさ
と逃げ出してしまった。それに気づき、追おうとした船もあったが、アーガイル
は追撃を禁じ、敵が完全に退却するのを見届けてから、ハーンの港に帰投した。
 出撃から帰投まで、きわめて短時間のうちに、ことは終わった。
  また、捕縛された何百人もの海賊たちのうち、数人の幹部の証言により、この
一件が、セルブル大公国の宰相スウィフト侯爵の教唆によるものだと判明した。
当然のことながら艦隊はセルブル国のものであり、テュール家は四〇〇万リーブ
ルにもおよぶ賠償金をせしめたが、いったん全額を王家に献上した後、そのおよ
そ三分の一にあたる一四〇万リーブルが「下賜」された。
 このとき調査に当たり、事件の真相を突き止めて、証拠をそろえ、スウィフト
家、つまりセルブル大公国から法外なほどの賠償金をかちとったことをはじめ、
見事なほどの事後処理をした人物が、アーガイルの兄、フィンセントであった。
 本来ならこれはれっきとした敵対行為であるから、報復を、という意見も、当
然あった。だが、セルブル大公はグスタフ王の姉の子、つまり甥にあたり、両国
は一応のところ、長年友好関係にあったので、国と国との諍いには発展しなかっ
た。ただし、セルブル大公の命により、スウィフト侯爵家は改易、侯爵自身は宰
相職を罷免の上、自殺を強要された。とくに侯爵の追放と処刑は、フィンセント
が「これだけはゆずれない」とした条件である。
 ウェイルボード側としては、実戦の指揮をとった公爵家次子アーガイルが形式
的な訓告と実質的な称揚を受けた。彼自身はさんざん不平を漏らしたものだが。
 ともかく、あくまでもテュール家とスウィフト家の私闘というかたちで、この
一件は幕を閉じたのだ。
 だからこそ、当時二〇を過ぎたばかりのフィンセントが外交に当たったのだが、
この一件により、テュール家の兄弟の名はウェイルボードの宮廷に響きわたった。
政務のフィンセント、軍事のアーガイルといった具合に、である。
 ただ、後日談がある。
 父ヘンドリックも、アーガイルの才幹を認めた。アーガイルは王都ジュロンの
王立軍学院に編入し、二年間の高等課程を終えたのち、父によって筆頭参謀(事
実上の司令官)に正式に任じられ、公爵家の艦隊をまかされた。
 テュール家は「格別の家柄」とされ、陸海軍を所有することが許されている。
そこで、毎年春先に王家の制式艦隊と合同で演習をおこなうのだが、どんなに優
勢であっても最後に勝ちをゆずるのが慣習であった。指揮をとったアーガイルも、
そのことは知らされていたはずなのだが、しかし彼は勝った。悪いことに圧勝で
あった。
 王家の艦隊を率いる海軍都督ティンベルヘン伯は、苦々しい表情で、自分より
四〇歳ほども年少の提督を褒め称えた。国王も戸惑い気味ながら、その鮮やかな
指揮ぶりを賞した。アーガイルは、誰からも咎められることはなかったが、さす
がにまずいと感じたのか、次の年からは、引き分けが一回、惜敗が二回と、巧妙
に手を抜くようになった。

 このように名将の資質に恵まれすぎているアーガイルだが、陸の上、しかも平
和な世ではまったくただの若者である。五年前、英雄だとか武神の生まれ変わり
などと讃えられた者と同一人物とは、到底思えない。
 マールテンは、首を傾げながら力を緩めた。アーガイルが神妙についてくるの
を確認したからである。
「ちょっと待ってくれ」
 と、後ろから呼び止める声が聞こえた。
 フィンセントであった。
 マールテンは、かしこまった。この老臣は、主筋に当たる兄弟のうち、フィン
セントの方をより高く評価していた。才幹においては、分野は違うがどちらも一
流と思っている。むしろ非凡さという点では、アーガイルの方がまさっているだ
ろう。しかし、公爵家の世嗣としては比べものにならない。いや、彼個人の評価
などとは別の問題であろう。何よりもフィンセントは長子であり、テュール家を
継ぐ身なのだ。自分が公爵家の家臣である以上、より主君に近い者に礼をはらう
というのが、彼なりの倫理観であった。さらには、フィンセントの教育係は彼で
はない。あまり頭ごなしにものを言うこともできないのだ。
「陛下が崩御なされたというのは事実だ。それについて、この愚弟に言っておか
なければならないことがいくつかある。今日は勘弁してやってくれないか」
 フィンセントは弟をちらりと見た。
 表情が複雑である。「助かった」という気持ちと「もっと早く出てくればいい
のに」という気持ちとが混在しているのだろう。
「どうだ、不都合か」
 と、弟の視線を無視して、フィンセントは老臣に尋ねた。
「不都合などと。公子さまの仰せならば、この老に否はありません。ただ――
「ああ、分かっているとも。今日の件に関しては、私のほうからきつく叱ってお
こう」
 マールテンは一礼し、入口となる扉までの石畳を、兄弟を先導するようなかた
ちで歩きだした。
 三人は公邸に入った。
 マールテンは一階奥の自室に、兄弟は二階にある執務室へと向かった。
「かけてくれ」
 とフィンセントが言うより早く、アーガイルは重々しい応接椅子に腰掛けてい
る。
 フィンセントもその正面に座り、
「あいかわらず、マールテンは苦手のようだな」
 兄が言うと、弟は苦笑した。
「ええ、やはり私などよりも遙かにうわてです。あの老人は」
「それは、おまえや私よりも四〇年ほど生きているのだからな、その差はなかな
か埋められるものではないさ。……まあ、それはそうと」
 と、フィンセントは笑みをおさめた。
「ところで、父上はご壮健か」
「はあ?」
 アーガイルは戸惑った。彼らの共通の父は、つい最近まで王都にいたのだ。ち
ょうどアーガイルと入れ替わりに領地に帰ったことになる。元気かどうかなど、
尋ねるほどのことではないだろう。半月ほど前まで王都で一緒に暮らしていたの
だから。
「ははは」
 と、アーガイルが笑ったのも無理はない。
「それは兄上の方が、よくご存じでしょう」
 しかし、フィンセントは真剣な顔をしている。
「それなんだ。実はな。陛下はちょうど一月ほど前から臥せておられたのだが」
 アーガイルの眼が、いや、表情全体が興味を示した。
「すでに死を予感しておられたらしい。突然父上をお召しになられてな。お二人
で何事かを話し合われていたようだ」
「遺言……ですか?」
「たぶんそうだろう。その後父上はどうも心ここにあらずといった風で、病気と
いう名目で領地に帰ってしまわれたのだ。お前がにわかに上京した理由もそれだ」
 なるほど、とアーガイルは頷いた。病気という名目があっても、国王が病臥し
ている折りに帰国しては、いらぬ猜疑を呼び起こすだろう。いわば身代わりとい
うかたちで、自分が呼ばれたのか。しかし、それなら、フィンセント一人で充分
ではないのか。この兄は、一八をすぎてから今まで、ひとりで公爵家名代をつと
めてきたのだから……。アーガイルは兄にそのことを尋ねた。
「それはな」
 と、フィンセントが応ずる。
「私がここに一人でいるのと、お前と二人でいるのとでは、全く意味が違ってく
る。たとえば、当家に叛意あり、としよう。いや、これは喩えだ。そんなに驚い
た顔をしなくてもいい。父上が二心を抱いたとして、その際王都に攻めのぼるに
は何が必要だ」
「……」
「気づいているだろう」
 アーガイルがかすかに頷くのを見て、
「お前の軍才は、五年前の海戦と、ここ数年の演習で、宮廷にも知れ渡っている。
いや、この際お前が自分をどう思っているかは問題ではない。そのお前が領地に
いて、陛下が病臥されている折に父上が突然帰国したら、いかに平和に慣れた人
々でも、多少は疑うさ」
「じゃあ、父上はそれをおそれて……」
 そうだ、と、フィンセントが言う。
「ばかばかしいか? まったくばかばかしい。だけどな、テュール家には、疑わ
れるだけの実力があるんだ。それより、父上から何も聞いていないか?」
 弟が首を横に振るのを見て、フィンセントは溜息をついた。もともと大した期
待は持っていなかった。
「もしかしたら、関係あるかもしれん」
 と、フィンセントは独り言のようにつぶやいた。アーガイル、と、彼はあらた
めて弟の名を呼んだ。はい、と弟は応える。
「お亡くなりになられたグスタフ陛下、先代のアンリ三世陛下、先々代のハンス
二世陛下、このお三方が兄弟だということは、むろん知っているな?」
「もちろんですとも」
 と言ったが、うろ覚えでしかなかった。アーガイルという青年は、これだけ権
力に近いところにいながら、政治というものにまったく興味を持っていない。そ
れが、これだけの軍才を持ちながら兄に、あるいは兄の側近たちに警戒されない
理由のひとつでもある。
「それじゃあ、ハンス陛下にもアンリ陛下にも男子があったに関わらず、兄弟の
順で王位が継がれた理由。これも知っているな」
  意識してか否か、意地の悪いことを、兄は言った。
「……」
「知らないのか?」
「はあ……」
「……まあ、いい。ハンス陛下らご兄弟の御尊父、つまりわが国の第九代国王、
ウィレム四世陛下は、御年六〇を過ぎてから男子をもうけられた。それがグスタ
フ陛下だ」
 と、フィンセントは語り始めた。
 

 ウィレム王は幼い末っ子とそれを生んだ側室とを溺愛した。この子に王位を継
がせたいと考えるほどに。しかし国王には、とうに成人した、凡庸だが少なくと
も暗愚ではない息子が二人いた。ハンスとアンリである。国王は側近にだけ心中
を明かしたが、それが宮廷の噂になるのに、さして時間を要さなかった。
 その側室、というより外戚が力を付けるのをおそれる者が何人もいた。また、
外戚に取り入って自己の権勢を拡大しようとする者もあった。結局、そういった
派閥争いにうんざりしたウィレム四世は、もっとも安直な折衷案をしめした。
 すなわち、兄弟が順に王位を継いでいく、というものである。側室は不満がっ
たが、外戚に必要以上の権をあたえる意志は、好色なウィレム王にもなかったの
で、それ以上の要望を聞く気にはならなかった。
 国王の提案はそのまま遺言となり、まずハンスが順当に王位についた。件の側
室を宮廷から追放するべきだと言う者もいたが、彼はそうしなかった。彼はその
側室に太公后の称号と莫大な終身年金を与え、宮殿で生活することを許した。と
いうのも、彼女が、いずれは国王となる末弟グスタフ王子の生母だった、という、
きわめて単純かつ善良な理由からであった。
 ハンスは即位後わずか三年で没する。
 死因は不明だが、その太公后の陰謀であったともいわれている。というよりそ
の噂はまさに真実であっただろう。
 ついで次男アンリが即位した。
 アンリは、兄よりはるかに猜疑深かった。あるいははるかに賢明だった。兄の
怪死により、彼はおおかたの事情を悟っていたのであろう、即位から半月ほどが
経過すると、彼はにわかに近衛兵を動員して、太公后とその一派とを宮廷から一
掃した。彼女には自殺を強い、一族で官職に就いている者すべてを処刑し、そう
でない者すべてを王都から追放したのである。ただひとり、彼女の唯一の子であ
る、王弟グスタフ大公を除いて。
 彼には、しかし、結局は父王の遺言を無視できるほどの気概も野心もなく、律
儀にも死の床につくや末弟グスタフを呼び、王位を譲る旨を群臣の前で宣言した
のである。つまりは、彼の狡猾さとはあくまでも自己防衛のためにのみ働いたも
のであったのだろう。いや、むしろ、父王の寵姫であり、弟の生母でもある女性
を殺したことで、罪の意識をつねに感じていたのかもしれない。
 ともかく、第一一代国王アンリ三世は、七一才で没し、三六才の末弟グスタフ
がついに即位したのである。彼らの父ウィレム四世の死から三〇年が、すでに経
過していた。

「……と、いうわけだ」
 フィンセントは、多少疲労した。
「ばかな話だ」
 と、アーガイルが開口一番、そう言った。どうやら本気で腹を立てているよう
だ。このていどの、秘話とさえいえぬ王朝史を、成人した貴族の子弟が知らぬと
いうのは、実はかなり非常識なことだが、もちろん彼にそのような意識はない。
「どこの王朝にもあることなんでしょうが、国王の遺言なんて、いっそ無視しち
まった方がよっぽど国のためですよ。東西古今を問わず、賢い王様なんてのは希
なものだし、賢ければそんな阿呆な遺言などしないでしょう」
「ほう、どうしてそう思う」
 フィンセントは、結論としては弟と同感だったが、どういった論拠から、弟が
その感想を抱いたのか、多少興味深く思った。
「その前に、ウィレム四世陛下は、末っ子が死んだ後について何か言及されまし
たか。その遺言の中で」
 兄が頭を横に振るのを視認するまでもなく、アーガイルは続けた。
「世の中で、愚かな王の遺言ほど無責任ではた迷惑なものはありませんよ。せめ
て王朝の創始者なら、その血統を、より健全なかたちで永続させるという大方針
を持っています。ですが、この場合は全く私情からうまれたものです。しかも、
グスタフ王の死後については何も言っていない。ふたたびハンス陛下の血統に戻
すのか、それとも単純にグスタフ陛下の御子、ええと」
「ウィレム大公」
「そう、そのウィレム殿下が即位してウィレム五世となられるのか、そこがはっ
きりしないと、結局は乱のもとですよ」
  フィンセントはふむ、と頷いた。多少意外ではあったが、弟の考えは、自身の
それとまったく同じものだったのである。
「その通り。まったくその通りだ。で、肝心の父上だが」
  と、やや脱線した話を元に戻す。
「おそらく、後継者について何事か頼まれたのだろうな。ウィレム殿下に加担せ
よとでも言われたか、意外にハンス陛下の御血筋を尊重するように、か、あるい
はいっさい口も手も出すな、か……」
「それがなぜ急の帰国に結びつくのです」
「説得力に欠けるか」
「……」
「まあ、何にしても、葬儀が始まれば父上も出てこられるだろう。そのときにで
も伺ってみるさ」
 と、言い、兄は弟から目を逸らした。そして再び独り言のように、
「それにしても、父上も苦労が絶えないことだ。家訓に従うなら、誰にも味方で
きないからな。たとえ王命といえども」
 と、フィンセントが言ったのには当然理由があり、それはウェイルボード王国
の起源と密接な関係を持つ。
 
 

 

第二章へ続く

 




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