陽がまさに暮れようとした頃、ハーン郊外の海岸に五人の騎士が降り立った。
四人はウェルフェン公国の上級騎士であり、もう一人は、黒地に金細工をあしら
った、レア帝国軍の元帥服を着ていた。紛れもなくルータス卿である。
港には、フィンセントを筆頭に、ウェルフェン公国の大官たちが迎えに出てい
る。多くの武官はまだアーガイルと共に海上にあるため、その中にいる武官は陸
兵総督のソルスキアだけである。
「おひさしぶりです、ルータス卿」
フィンセントが言った。嘲るような様子は微塵もなく、敬意に満ちた所作と
口調であった。
ルータスは訝しげな表情をしていた。眼前の若者の顔が思い出せないようであ
った。
フィンセントは微笑し、
「覚えていらっしゃらないのも無理はありません。七年前は対等に口をきける身
分ではありませんでした」
「七年前……?」
とルータスはさらに混乱した。
フィンセントが説明する。
「七年前、貴国で行われた列国会議に、私は、亡きグスタフ陛下の従者として随
行いたしました」
そう言われても、ルータスにはわからない。たしかに七年前、七大国の王と宰
相がつどう催事に、帝国貴族であり帝国軍の将帥である彼も顔を出していた。さ
まざまな者と会ったし、その中には当然ウェイルボード人も含まれていたであろ
うが、グスタフ王の顔さえ覚えていないのに、それに従っていた若者の顔など、
覚えているはずもなかった。ルータスはそれを正直に言った。
「いえ、覚えていらっしゃらなくて当然です」
フィンセントは笑った。
「貴公の姿を初めて見たときは、絶対に戦いたくないと思いましたが」
たしかにあの当時から、ルータスといえば生ける軍神であり、近隣諸国にとっ
ては人間のかたちをした災厄そのものであった。他国の者は彼の姿を畏怖しつつ
ながめていたものだ。フィンセントもその中のひとりであった。
「しかし勝ったのはそちらだ」
ルータスは憮然としつつ言った。
「戦ったのはわが弟です。それに今回は海が舞台でした。陸戦ならば万に一つの
勝ちもなかったでしょう」
これは本心というよりも事実である。
勝ったということを誇るでもなく、また、負けたことを恥じるでもなく、両者
の間には淡々とした会話が交わされていた。
ここで妙な小細工を弄さなかったことは、レア帝国の全将兵にとって幸運であ
った。もしルータスの偽物が現れていたら、フィンセントはやや苦い失望を覚え
つつ、迷いながらも、あるいは迷わずに、敵軍の完全掃討……つまりは虐殺を命
じていただろう。
「ともかく、ここでの立ち話は落ち着きません。あちらへおいで願えますか」
とフィンセントは、前日までハインネルが滞在していた邸宅を指さした。
「うかがいましょう、ただし、わが艦隊はそこにおられるクロムヴェン卿の進言
通りに、すべての武装を放棄した。この上は、わが将兵の安全を保証していただ
きたい」
「約束します」
短く答えたフィンセントを、ルータスは信じる気になった。お人好し、などと
いう理由は当たらない。そうすることが、彼にとって唯一の選択肢だったのだ。
考えても無益な状況で悲観できるほど、ルータスはばかばかしい強さをもっては
いなかった。
ここまでの間、クロムヴェンらウェルフェン公国の武官たちも、そしてむろん
フィンセントも、ルータスの身体を拘束しようとはしなかった。そのこともルー
タスが彼にとっての敵手を信じることのできた、ひとつの要因であったかも知れ
ない。
交渉のための応接室にルータスを導き入れると、フィンセントは、書記官を残
して家臣たちに退室を命じた。
そして、一緒に出ようとしたヒドを呼び止めて言う。
「アーガイルのもとに伝令として行ってくれるか。旗艦以外の帝国艦隊に退去勧
告を出すように、と。絶対に追撃はするな、とも」
「よろしいのですか」
「約束したことだ、それに」
短く、フィンセントは答える。
「もう必要ないからな」
辛辣なことを、フィンセントは言った。ルータスが帝国軍にとってどれほど重
要な意味をもつ存在か、彼は理解していた。逆にいえば、ルータスの身柄さえお
さえれば、少なくとも今の状態では彼らをおそれる必要はまったくないのだ。
「はっ、失礼いたしました」
畏敬に満ちた視線を室内の両巨頭に向けながら、ヒドは退室した。
(おれは、歴史の場面をみているのかもしれぬ)
ということを、わずかながらヒドは思ったであろう。
フィンセントはアーガイルに椅子を勧めた。
「そこの窓からは海が一望できます」
約束が守られるか否か、自分の目で確かめろ、というのである。
「…………」
「もしも、貴国の艦隊がわが軍によって攻撃を受けるようなことがあれば」
とフィンセントは言い、自分の剣を差し出した。
「これで私を両断して下さい」
「……!」
書記官をつとめるコルネリスが、愕然としてフィンセントの方を見つめた。
その視線に気付いたのか、
「なるほど、しかし結構」
と言い、ルータスは渡された剣を返した。
「私は殿下を信じると決めた。約束を違えることが不名誉であるように、一旦信
じた者を疑うのも、おなじく不名誉なことでしょう」
フィンセントは笑いながら、
「では、万一の時は差し違えますか」
と言って、剣を鞘には収めず、机の上に置いた。
お互いに芝居がかっているが、まったく絵になっていた。そこらのごろつきが
格好を付けて言うのではない。一方は一国の主、もう一方は、今は敗軍の将とは
いえ、大陸最強の軍勢を統べる身である。このとき、彼らの中には、「勝者と敗
者」という意識は希薄だった。
といって、フィンセントは歴然たる勝者であり、何事かを要求できる立場にあ
る。自然、交渉の主導権は彼が握った。
「ところで、まずうかがいますが、貴国がわが領内に侵攻をはかった目的、とい
うよりその理由は奈辺におありだったのですか」
むろんフィンセントは百も承知である。しかし、フィンセント自身が主張する
のと、ルータスが証言するのとでは、その重みが明らかに違ってくる。もはや避
けえない衝突の際、それは大きな武器になるはずであった。敵を、すなわち宰相
フォンデルの一派を一夜にして瓦解せしめるほどに。
大きく息を吸い、ルータスは答えた。
「貴国の、いや、ウェイルボード王国の先王グスタフ陛下がいまだご存命中、宰
相のフォンデル卿が、わが国の外務総督府を通じて使者を寄越しました。国王が
崩御し次第ウェルフェン公国に攻め入り、叛徒を殲滅してくれ、と。その暁には
公国全土とその権益を、要するにウェイルボードの北部三州と北海における貿易
権、それに西海の航路を保証する、と」
と、ここまではフィンセントの予想通りであった。国王が崩御して一月も経た
ないうちに攻め入ってくるからには、フォンデルはかなり前から準備をしていた
のだろう。周到といわねばならない。悔やまれるのは自分の迂闊さである。その
ような工作が進行しているとは知らずに、その元凶に頼ろうとしていたのである。
「それをなぜ信じたのですか? 罠という可能性について、考えないわけではな
かったでしょうに」
フィンセントは、やや皮肉っぽく、当然の疑問を口にした。
それに答えていわく、
「まず、そのような罠を張って、ウェイルボードに得るところは何一つありませ
ん。少なくともわが国の廷臣一同はそう思っておりました。それに、かの御仁は
妻子を送ってまいられたので」
この言葉には、さすがにフィンセントといえども少なからず面食らった。目的
のためなら手段を選ばぬ、とは、あの宰相のような人物を言うのだろう。
ルータスは淡々と続ける。この期に及んでフォンデルをかばう理由など、彼に
はないはずであった。
「ウェイルボード王国とわが国とがいくら遠いとはいえ、国交がある以上、一国
の宰相とその家族の顔くらい、分かる者はいくらでもおります。まぎれもなく本
物でした」
「……分かりました。彼にも相当の覚悟があったのでしょう」
黙然と頷いたルータスに向かい、フィンセントは身を乗り出した。
「ところで、ルータス卿。仕えよ、とは申しませんが、この国に、ウェルフェン
公国に客将として留まってはいただけませぬか? わが愚弟、ひいては全将士に
教えをいただきたいのですが」
ルータスは、やや意外そうに若き国公を見つめた。そして、思案にも及ばぬ、
といった風に首を横に振る。
「私は、皇帝アルツール陛下に並々ならぬご恩をいただきました。私にとっては
半生をかけた主君であられる。それに……」
とまで言い、ルータスは溜息をついた。
「ご令弟に教えることなど、何もござらん」
その答えを、フィンセントは意外に思わなかった。この北辺の国の客将など、
ルータスという天才的な武将にとって、役不足もいいところであろう。ふと下を
向いて、すぐに視線を元に戻した。
「では、帰国したら皇帝陛下にお伝え下さい。ウェルフェン公国は、貴国との間
に友好を結ぶ用意がある、いや、むしろそれを強く望んでいると」
ルータスは、表情の選択に苦慮した。
「私を帰す、と?」
「はい」
フィンセントとの間に信頼関係らしきものが芽生えていたとはいえ、思いも寄
らぬ提案であった。少なくとも彼自身、自分の死はまぬがれぬものだと覚悟して
いたのである。ウェルフェン公国に留まるという話を蹴ったあとだけに、なおさ
らであった。自害に及ばなかったのは、麾下の将士を一命に代えて国に返す、と
いう一念からだった。フィンセントはさらに続けた。
「むろん、このまま帰国されたら、貴公はかなり苦しい立場に立たされるでしょ
う。こちらから土産が必要ですな」
「土産、ですか……?」
ルータスほどの男が、この若い国公との対面では、まるで愚者のようだった。
「さよう、まず、両国間の貿易の解放。これにより貴国は北方と西方の、わが国
は南方、そして東方の、それぞれの産物が今よりもはるかに安価にて取引できる
ようになりましょう。互いに貿易によって成り立っている国です。悪い条件では
ないと思いますが」
ルータスは沈黙した。彼は天才的な軍人ではあったが、政治と経済に関しては
フィンセントに遠くおよばない。うかつな返事はできなかった。そういう彼の心
理を知ってか知らずか、フィンセントはさらに続ける。
「次に、両国の不可侵。要するに、侵さず侵されず、です。これに抵抗を感じる
のなら、形式はどうでもよろしい。今後ウェイルボードとウェルフェン公国にい
っさい手を出さない、とだけ約束して下さい。もちろん、こちらから害を加える
ような真似はいっさいいたしません」
「……」
最後に、とフィンセントは付け加える。
「最後に、フォンデル卿との約定をすべて破棄し、宰相府ではなく、わが国公府
を、次期国王が定まるまで、ウェイルボードの正式な最高機関として認めていた
だきたい。一時的なものではありますが」
と、もっとも重要なことを彼は言った。そして相手の反応も見ずに、
「これらは、いくら貴公が一国の大元帥でも、口約束で済まされることではあり
ませぬ。従って、貴公が帰国される際、わが国からの使節を随伴させます。実は
親書も用意しておりますゆえ」
さらりと言ってのけた。ルータスは思わず苦笑する。
「わが軍が敗れる、いや、ご令弟が勝つことを疑わなかったようですな」
戦いが終わってからまだいくらも経っていない。それなのに親書が出来上がっ
ているとはどういうことか。おそらく、先の交渉が決裂したときから書いていた
のだろう。何という先見であろうか。
「いやいや」
フィンセントは、その買いかぶりを笑って訂正した。
「負けたら地に這いつくばるだけだと思っていましたから、勝った後のことだけ
考えていれば良かったのです。少なくとも私はね」
そう言ったフィンセントの顔は、二百万以上の領民を統べる国公としてのそれ
ではなく、出来のいい弟を誉められて照れている兄のものだった。
その表情をすぐに収めると、フィンセントは「これからのこと」に思いをはせ
た。王都ジュロンと絶縁する、とは言ったものの、正面から叛逆にふみきるとな
ると、やはり決心がにぶる。内乱が起きているような国と、誰がよしみを結びた
いと思うだろうか。ふとわれにかえって、彼は当面の交渉相手に言った。
「つきましては、わが国の使者を、船に同乗させていただけませぬか? なにし
ろ陸路では遠い上に、はなはだ物騒ゆえ」
「否、とは申せませんな」
彼らの会話の中に、ハインネルという文官の名は、最後まで登場しなかった。
その日は、勝利を祝う宴が催された。前国公ヘンドリックの死を公表したばか
りとはいえ、それは盛大といっていいものであった。
「盛大な勝利であったのだ。祝宴が盛大で何が悪かろう」
と、フィンセントは言ったものである。
というわけで、重臣のみならず中級騎士も参加が許され、ハーンにある公爵家
居城には人があふれた。
さすがに兵卒や下級騎士の参加を許しては収集がつかなくなるので、彼らには
数百樽の美酒がふるまわれ、ハーンの街は喧噪に包まれた。彼らは勝者である。
心地よい喧噪であっただろう。
海上から帰ってきたばかりのアーガイルは、宿に直行した後、すぐに下級兵士
と同じ服を着込み、街へと繰り出した。むろんマールテンらの目をくらませなが
らである。城に行けばもっと旨い酒も料理も口にできるというのに、何を好きこ
のんで庶民と同じものを口にし、同じように粗野な言葉を使うのか。そう尋ねた
ら、彼はこう答えるに違いない。
「気楽だし、楽しいしな。第一、酒は気取って呑むものじゃない。思い切り騒い
で、他人の喧嘩を見物しながら呑むもんだ」
むろん自分がそれに参加することも厭わないのだろう。彼は、元来が貴族的な
人物であったが、あるいはその血に劣等感を抱いて、非貴族的にふるまおうとし
ているようにも見えた。
アーガイルの肩に腕をまわしてくる酔漢があった。格好から見て、帰還したば
かりの水兵であろう。
「おう、飲んでるか、兄ちゃん。せっかく勝ったんだ。今のうちに旨いものを喰
って、飲んでおかなきゃな。どうせまたすぐに戦だ」
へえそうなんだ、とあいづちをうつアーガイルに対し、男は酒臭い息を吐きな
がら言う。
「なんだ知らなかったのか? なんでも公子さまが王都で酷い目にあったってい
うじゃないか。そのかたきをうつ戦だよ」
「おい、それは違うぞ」
「へえ?」
ぼそりと呟いたアーガイルを、男はおもしろそうな目で見つめた。
「兄……っと、フィンセントさまは、私情で戦を起こすような方ではない。確か
にジュロンの奴らは好かないだろうが、それは別の話だ」
「まあ、どっちでもいいさ。おまえも今日の戦いに参加したんならわかるだろ。
アーガイル様がいれば、万に一つも負けはないさ。なにしろ、あのルータス将軍
に勝ったんだぜ!」
「そんな大したことかなあ、今日のは運がよかったよ」
「……なんでおまえが謙遜するんだ?」
「………」
と、アーガイルが町中で愚にもつかないやりとりをしている最中も、城での祝
宴は続いていた。国公の自殺、レア帝国の来襲、世嗣の幽閉と脱獄、そして王室
からの離反。わずかな時間に、よくもこれだけの凶事が集中したものである。そ
れを考えれば祝宴どころではないのかも知れないが、何はともあれ公子フィンセ
ントは窮地を間一髪で脱し、王都の承認はむろん得られていないが、国公位に就
いた。その弟アーガイルは、レア帝国の強大きわまる艦隊と英雄ルータスを破り、
公国の軍兵に自信を与えた。王国軍に勝つことも、すでに夢物語ではないのだ。
前途に不安を感じない者は少なかったが、希望を持てない者はさらに少なかった。
その席上、直ちにレア帝国への使節団が編成された。全権特使にはコルネリス
が任命された。また、非公式ながら近日中に王都ジュロンに使節をおくることも
決められた。フェルディナントがその使者に任じられ、同時に公国外務卿たる地
位を付与された。これは単に便宜上のものではない。ウェイルボードの一部でし
かなかった公国には、これまで外交を司る機関が存在しなかった。ウェイルボー
ド旧勢力との絶縁を決した今、暫定的ながらそれが必要になったのである。そし
て、その長に相応しい人物は、フィンセント本人をのぞけばフェルディナントし
かいない。
ちなみに、公国の各省には、人材が新たに配された。新たに、というのは、王
国の属領であった頃は統治も比較的容易であったので、改めて優秀な人材を任命
する必要がなかったからである。人心を一新し、一時的なものにせよ王国からの
独立をみなに自覚させるためにも、これは必要な措置だったのである。
外務卿となったフェルディナントの他、主だったところでは、財務卿にアント
ンが、司法卿にベルーラが、内務卿にヨーストがそれぞれ任命され、さらに、世
襲職であった北海提督の座を、フィンセントはアーガイルに正式にゆずり、同時
に公国軍総参謀というあらたな地位をあたえた。執政のコルネリスと兵部卿マー
ルテンは、それぞれ現職を維持し、王都駐在筆頭武官であったヒドは、フィジッ
クとおなじ陸兵隊副総督となり、ソルスキアの指揮下に入った。またこのほか、
コルネリスの腹心であり有能な官吏であるアンクレスが工部卿、おなじくピーテ
ルソーンが商務卿に就き、すくなくとも人材の面では宰相府にもおとらぬ陣容を、
公国政府はもつことになった。
といっても、各人の役割が劇的に変わったわけではない。彼らは今まで通りの
職務を忠実にこなすだけでよいのだ。なにしろウェルフェン公国には、この上な
く英明な国公と、あのルータスを打ち破った公弟とがおり、その両者ともいまだ
二十代の若さなのだから。
祝いの一夜は終わった。実際に戦った騎士や兵士たちはともかく、フィンセン
トと重臣たちは、まったく眠らずに朝を迎えた。その日は、ルータスの身柄を帝
国艦隊へ返還する日だったからである。同時にフェルディナントらを旅路につか
せる日でもある。性急ではあるが、帝国側に無用の疑念を起こさせないためには、
早すぎるということはなかったのである。
使節団をルータスに託し、残留していた帝国艦隊の一部を湾外に送り出すとこ
ろまでは、滞りなく終わった。コルネリスのような重臣を敵地に預けることに不
安を感じた者も皆無ではなかったが、フィンセントからの命令であれば、彼らは
全幅の信頼をおいてそれに従うのだった。
フィンセントは、使者となるコルネリスに、こう言い含めた。
「フォンデルの妻子だが、当国が保護する旨、一応先方に通告してくれ」
「殿下、しかしそれは……」
コルネリスが反論する。
「宰相の妻子は、彼が私的に密約を交わした代償です。彼らに罪のないことは承
知しておりますし、気の毒だとは思いますが、それも彼の自ら求めた結果でしょ
う。それを保護とは……おそれながら、寛容にもほどがありますぞ」
「卿の言いたいところは分かる。だが、彼らもウェイルボード王国の同胞だ。最
優先というわけにはいかないが、できる限りのことはしてやりたい」
「……承知しました」
コルネリスは頭を垂れた。顔には、つい苦笑が浮かんでしまう。先君ヘンドリ
ックも、思えば寛容な人柄だった。理屈はともかく、助けられる人間を見殺しに
できるような人物ではなかったのだ。父君の薫陶が行き届いていたのか、単に性
格上の甘さなのか、あるいはさらに辛辣な策が用意されているのか、彼には判断
が付きかねた。その心情を知ってか知らずか、フィンセントはコルネリスに一枚
の紙片を渡し、さらに言う。
「帝国に向かう途中、王都に寄れ」
「は? しかし王都にはフェルディナント卿が」
「いや、フェルディナント卿を送るのはしばらく先だ。卿がやるべきことは」
コルネリスは驚いたように若い主君を見た。個人としては優しすぎるほどの若
者なのに、そうかと思うと、容赦のない策謀をしめす。弟アーガイルとはまた違
った意味で、この国公も、やはり複雑な多面性を持った人物であった。
何事かを相談しているこの二人を尻目に、
「アーガイル卿は?」
と、そばにいた騎士にルータスは尋ねた。自分に敗北を知らしめた唯一の将で
ある若者と、多少なりとも会話を交わしたかったのである。
「すでに旗艦の上です」
公国の騎士が答える。ルータスはやや残念に思いながらも、
「そうか」
と言って、天を仰いだ。
「願わくば、二度と戦いたくはないものだ、とくに海ではな」
ルータスが帝国総旗艦「ラ・ルース」の艦橋に再び昇ったとき、帝国将兵の喜
びは天をもつかんばかりであった。どちらが勝ったのか判らないほどに。同時に
コルネリスらは、強い敵愾心のこもった視線に晒され、きわめて居心地の悪い気
分を味わっていた。むろんルータスから厳命が下り、以後はそれなりに快適な船
旅になるのだが。
そのとき、ウェルフェン公国総旗艦「クリオール」の甲板上から、顔立ちの幼
い一人の青年がルータスを見つめていた。いうまでもなく、彼を打ち破った最初
の武将、アーガイルである。一瞬目があったが、ルータスはその青年の正体にま
ったく関心を持たなかった。アーガイルはまたしても悪癖が出て、このときは水
夫と同じ格好をしていたのだ。彼は湾内に残っている沈船の処理と、艦船の補修
作業を指揮していた。それが一段落したので、窮屈な軍服を脱いで、彼のいうと
ころの「楽な格好」に着替えていたのである。
そのアーガイルは、複雑な感情をいだきつつ、やはり複雑な表情で、ルータス
という稀代の名将の顔を見つめていた。彼は武人としての情緒というものに欠け
た人物であったから、すぐれた将と再戦したいなどとは、露ほども思っていなか
った。しかし、ルータスという個人には多少なりとも興味を持っていたので、そ
のことが少し心残りではあった。
「話す機会は、あったのだが」
という彼の言葉は嘘ではない。昨夜上陸したとき、ルータスに面会を求めれば、
あっさりと会えたはずである。しかし先述のように、彼は町中を飲み歩いていた
し、その後は疲れ切って安宿で眠ってしまった。この日にしたところで、互いに
多忙だったというのは確かだが、立ち話をするくらいのゆとりはあった。それを
逃してしまったのは、多分に運の悪さであったろう。
「つまるところ、ルータス卿と五分で話すには、俺じゃまだ役者不足ということ
かな。これが天の配剤というものか。うん、神もなかなか意地が悪い」
などと愚痴るくせに、ふたたび会いたい、などとは思っていない。互いに異国
の武官であり、将帥である以上、再会とは即ち再戦だからである。自分も、おそ
らくはルータスも、外交官という柄ではない。
それはルータスも感じていたことであった。互いに「会って話したかった」と
は思っても、「もう一度会いたい」などとは思わないのである。
彼ら二人の願いは、結局聞き届けられなかったようだ。遠くない将来、ふたた
びこの二人は出会うことになる。お互いに予想もしなかったかたちで。
翌日から、前国公ヘンドリックの葬儀が執り行われた。喪中であるから、フィ
ンセントの国公就任を祝う式典などは後日のこととなった。しかしハーンは、と
いうよりウェルフェン公国は、次第に落ち着きを取り戻していった。
だが、当然ながらその安息は長く続くものではなかった。
レア帝国との海戦からわずか半月後のことである。ある騎士が、ほとんど身一
つで、公都ハーンに駆け込んできた。
その騎士は驚くべき知らせを持ってきていた。すなわち、王都における二大重
臣の衝突と、その無惨な結果である。
ただでさえ王都に味方の少ないウェルフェン公国にとって、これは大きな痛手
となるかも知れなかった。
第一〇章へ続く