我が師の恩。そのところで、周りのかなりのやつらがにやにや笑った。
俺も笑いそうになって頬がひきつりメガネを落としそうになった。和菓子の音。思えば、担任のじいさんが学園祭の模擬店の煎餅で入れ歯ずらしたのは、いとおしいこの年月、といえなくもない。
送辞とか答辞とかやるようなやつはともかく、卒業式なんてこんなもんだ。
そんなこんなで、いざさらば、涙は出なかった。
泣くべきことは他にある。たぶん。
「おーい、相田ぁ」
これで五度目か。
どうして人間ってのは、こう何かイベントってたんびに、写真に撮られたがるもんなんだろう。
おまけに写真に撮られたがる方は、撮る方のことを、単にボタン押す機械としか思っていやしねえ。
「んと、バックそれでいいんか」
「そうだなあ、あの校門の樹が入るくらいで頼む」
「それじゃ、もうちょっと下がって……、あーっと、ちょっと右、はい、そんくらい。んじゃ、ちーず」
便利屋だな、まったく。
六度目も七度目も、俺はフレームに入れとは誘われなかった。
カメラが趣味と広言してしまったツケだろうか。そういうことにしておこう。
プラタナスより桜を背景にしたがるやつらが多いってのも、理由があるんだろうか。
その校門の桜だって、まぐれで咲いた一本以外は見事に青々としている。別に三月に咲く理由なんてないし、咲かない理由もない。季節がずれたとか、なくなったとか、俺たちが生まれた頃の話を持ち出されても困るよな、桜も。
「相田くん」
八度目だった。
「なんだ、洞木か」
「もう、なんだはないでしょ。ねえ、私たちのも、シャッター頼める?」
私たち、といって洞木ヒカリはデジカメを差し出した。
洞木の横には、学ランのまったく似合ってない鈴原トウジが杖をついて立っていた。
この二人が、私たち、だ。俺の入る余地はない。
スポーツ刈りのトウジの隣に、お下げのガキっぽい髪型の洞木がたたずんでいるというのは、この最低な一年のあいだにすっかり見慣れた構図になった。
「トウジ、お前、杖いらねえだろ」
「ゆうてなかったかあ、先月換えてからリハビリ進んどらんしの、まだあかんのや」
「そうじゃなくって、杖代わりが隣にいる」
洞木は真っ赤になってうつむいた。毎度からかいがいがある。
そして、前なら殴りかかってきたはずのトウジが、今では口をぱくぱくさせつつも洞木に心持ち寄りかかる。
洞木が手を添える。トウジがこたえる。そういうわけで、臆面もなく手を組んだ二人がフレームにおさまる。
「はい、ちーず」
俺はシャッターを切る。
「ねえ、相田くん、これからどうする?」
「どうって」
洞木は軽い口調で話しかけてきた。ようするに、これから遊ばないかという、ただそれだけのことだから。
俺は、このくそったれな卒業式で少しくさっていたらしく、それが嫌みに聞こえた。
「ってもな、お前らとは高校違うし」
「そうじゃなくって、今日このあとの予定よ」
「ああ……」
二人は笑っていた。
たしかに、どんなイベントだろうと、笑って楽しめるならそれにこしたことはない。
嫌みだと聞いてしまった俺が悪い。
「予定ってのは、別に」
「ほらみてみい、コイツに予定こさえる根性あるわけないやろ」
「トウジ、それ、根性じゃなくて甲斐性っていわねえか」
「どっちも変わらんやろが、お前にないっちゅうんは」
「鈴原、止めなさいよ。それより相田くん、予定とか特にないんだったら、私たちと卒業パーティーっていうの、しない?」
「わたしたち、って」
「わたしと、鈴原と、相田くんと、綾波さん」
「そっか。そうなるよなあ」
よっぽど、友達くらい選んだ方がいいぞ、とか、いおうと思った。
いわなかった。楽しめるならそれにこしたことはない。
「酒、あり?」
トウジは、おう、とかいいながら頷いた。
洞木は、肩をすくめはしたけど、止めるかわりに笑ってウィンク。
さて、綾波ってば飲めるんだろうか。
「でもさ、綾波って来るのか」
「それでね、相田くんから綾波さん誘ってほしいんだけど……」
そういうことかよ。
辛気臭い、という一言でとりあえず綾波レイという同級生については説明できる。
あの日のことをサードインパクトと呼ぶようになった今でも、あいつの中ではそんな単語で要約できないほど込み入ったものがくすぶってるんだろう。
前からそうだったけど、サードインパクトが人の心を通り抜けていった一年前のあの日から、綾波の愛想のなさは、筋金入りといえるまでのものになった。この一年間、ともかく登校し続けたというだけで奇跡に近い。
そして、これは賭けてもいいけど、担任のじいさんもあいつの声なんて一度も聞かずに終わったはずだ。あいつ、俺と洞木の他には話なんてしなかったろう。それも決まった話題についてだけだ。トウジはそのことを自分から切り出す性格じゃないから、あいつとの会話は、サードインパクト以来なかったことになる。
そういう超弩級の陰性女を誘うとなれば、たしかに人に押し付けたくもなるだろう。
洞木が俺の肩越しに視線を少し上の方へずらした。校舎の三階か四階か、それとも屋上を見てるのか。
俺も振り返ると、それは屋上だった。
「ね、おねがい」
屋上に綾波が見えた。
「へいへい」
白い塗装もいいかげんくすんでる校舎へ向かう俺の後ろで、洞木はさっそくトウジと打ち合わせらしきことを話していた。食べに行くのか、何かとるのか。
どんな話題でもいいんだろう、あの二人は。
俺はもう入り込めない。
そして、綾波レイへは、絶対に、入っていけない。
あいつは、いつもひとりでいる。
ひとりでいなくても、ひとりでありつづけている。
だから屋上への階段を一番使ったのは綾波だ。屋上は綾波レイの指定席。あの日以来。あいつは屋上に出るためだけに学校に来ていた。絶対だ。間違いない。事実が証明してるじゃないか。
などと考えながら、錆の浮いたドアノブを捻った。
少なくとも、俺はもうここに来ることもないだろう。
こいつは、違うような気がする。
綾波がいた。
俺が屋上に出たときの蝶つがいが軋む音くらいでは、柵によりかかる綾波を振り返らせることはできなかった。
見慣れたってだけなのかもしれないけど、青空を背景にして風の中に立つその後ろ姿は絵になっていた。肩にかかるくらいにのびたシルバーの髪が、風を数えるようにそのたびに少しだけ膨らんで、その下から紙みたいに白いうなじを見せていた。
この背中を見ているあいだは、そよ風ひとつでも綾波のものになる。
「綾波」
物憂げに振り向く綾波のその目、いつもと同じ赤い色、いつもどおり眠ってるんじゃないかってくらいに細いまぶた、にしては瞳の光がいつものように鋭すぎる。
ガンつけてるのかと思ったのはずいぶんと前。
こいつには、そもそも他人と関わる意志がない。
「綾波、ひまなんだろ。洞木がパーティーやるってさ。来るだろ。来いよ」
綾波の髪が風になびくこと数度。
気のせい程度の会釈をしてこっちに来た。もういちど背を向けるっていうんじゃないから、とりあえず答えがイエスだとわかる。
「あと、俺とトウジ。パーティーっても、いつものメンツだけど」
相槌をしない綾波に、もう俺は慣れていた。
反応を引き出すなら、あの日にさかのぼるしかない。
卒業式以上にくそったれだった、あの日に。
だから俺は、横を通り過ぎる綾波に、なんべんも繰り返したことをもういちど。
「惣流、いたか」
「いるわ」
「碇もか」
「いるわ、今も」
なんべんも繰り返された答えが返ってきた。
けど、明日から中学生じゃないんだぜ、綾波。
十五歳の俺は、当たり前だけど十五年前に生まれた。
そういうわけで、十五年前のセカンドインパクトから世の中どこか間違ってんじゃねえかとほざくニュースを目にするたびに、俺たち十五歳以下は全存在を否定される。
去年はサードインパクトときた。
いいかげんにしてくれ、といいたい。
でも、だれにいえばいい。
結局は俺たちも、ポストサードインパクト世代とかいうやつらが愚痴の相手に育つのを待つんだろう。そして口にするのは変わらないセリフなんだ。世の中間違ってる、最近のガキは、それに比べて昔は、etc。
人間、愚痴の相手くらいは必要だ。
いつも前を向いていられるわけじゃない。
だけど俺たちの場合、振り返るたびにぶち当たるのはサードインパクトの死者の名ふたつ。碇シンジ、惣流アスカ。エヴァンゲリオンのパイロット。
思うに綾波の不幸は、あいつらと同じくエヴァンゲリオンに乗っていたことだ。幸不幸を意識してればの話だけど。
トウジも不幸といえるかもしれない。あいつの左足が義足なのは、エヴァンゲリオンに関わったからだ。
とはいえ、俺の目の前をかつかつ杖を鳴らして歩くその後ろ姿からは、不幸って気配がこれっぽちも漂っていない。
それは隣の洞木のせいか、それとも本人の性格のせいなのか。
綾波、その性格のせいで、誰かと隣り合って歩くということがない。
「綾波ってさ」
俺が綾波の隣を歩いていても、綾波の方はそう思っていない。
「酒、飲めたっけ」
眼差しだけが、ちらと動く。これでも上出来。
「飲んだことない? ビール舐めたくらいならあるんじゃない? それともひょっとして酒って知らない? アルコールだよ、アルコール。めちる……じゃなくって、なんだっけな、あー」
「エチルアルキル」
「お、しゃべった」
「ええっ」
と、これは洞木。
「きょうは気分いいんだ、綾波さん」
はしゃいでるのは洞木じゃないか。
「かんぱい」
と、声を重ねた。綾波以外。
まあ、かちゃんと缶を合わせるくらいはしてくれたので、よしとしよう。
トウジは一気に一缶あけた。洞木の喉は二回か三回はごくりと鳴った。俺もだいたいそのくらい。正直いえば、ビールって飲めるけど飲めるだけ、うまいとは思えない。
綾波は両手で缶を抱えて、湯呑みから渋茶をすするように、ちょっとだけ傾けた。
「飲めるやんけ」
「うーん、ひょっとして綾波さん、意外とお酒飲みだったりしてぇ」
どうだかな。
酒飲みだったとしても、綾波は綾波だ。
ひとりで飲むんだろう。
そして場所はたぶん屋上、つまみは空を流れる雲、くそったれなあの日を思い出しながらちびりちびり。
洞木はピザを五人分に分けていた。五人というのは、トウジの妹も入れた人数で、パーティー会場が鈴原家のリビングとなる以上、これはしょうがない。
さすがに小学生は麦茶。だけど洞木、はしゃぎすぎ。
「ユミちゃんも飲んでみる?」
「やめれ、いいんちょ。十歳にもならんうちに覚えさすんはマズすぎや」
「そお? ユミちゃん、ほしくない? こわいお兄ちゃんに遠慮しなくたっていいのよ」
ユミの答えは、いらへん、の一言だった。
「ふひゃはは、洞木きらわれてやんの」
「そこまでゆう、相田くん」
チリソース増量なピザだった。左隣にしゃがんでいる鈴原ユミが顔をしかめているのは、酒臭さの漂い始めた空気でないとすれば、その辛さのせいかもしれない。
さて右隣、崩した正座の綾波は……と、見たところで、俺は吹き出しかけた。
口の端に赤いソースをくっつけてると、もとが白い顔の綾波だけに、目立っていて、おかしかった。
「綾波、口、ついてる」
眼差しが、ちらと動く。そして指が動いた。唇を親指の腹で一拭き。その指を舐める。噛む。無言で。
唇に薄くついたチリソースってのは、なんだか口紅のように見えた。
「うまい?」
眼差しが、ちらと動く。
答えは否定でも肯定でもなかった。
「赤い」
その言葉、前に聞いたことがある。
空を見上げる綾波に、初めて二人の死者のことを尋ねたときだった。
そのときになって、綾波はやっと表情らしい表情を見せた。
綾波の、普段よりちょっとだけ開かれた目は、あの二人を映していた。
サードインパクトから立ち直った人間みなが少しでも忘れようとしているあの日のことをずっと忘れず、あの日を境に消えてしまった二人のことを想い続け偲び続け悼み続けていていた。
だから空を見上げるしかできない。
そして見ているのは空じゃない。
そんな綾波は、
「今もいるわ」
と、いった。
「碇君の望んだ世界に」
と、いった。
「赤い浜辺に」
と、いった、綾波は、とどかないものを前にした普通の人間だった。
あれは泣き顔というやつだ。
「結局、綾波も愚痴ってるだけだろ」
なんていってしまうのは酒のせい。そう、酒が悪い。俺は悪くない。たぶん。
トウジは洞木とゲームをやり続けている。洞木が器用なのかトウジが不器用なのか、対戦格闘ゲームはこれで洞木の六連勝。「ぬあー、なんでや、そこで投げくらわすか、フツー」「フツーよお、リングの端っこで投げ技出すのがこのキャラの必勝法なんだから」「でえっ、次や次、次こそワシの本気見せたるわ」「負けないよーだ」
トウジの妹はというと、食うもの食ったら部屋に引っ込んだらしい。正解だ。
俺は帰るタイミングを見失って、だらだらと居続けていた。
綾波がタイミングを気にしているようには思えない。
ゲーム中のふたりの背中に視線を投げてる綾波の横で、俺は天井をながめていた。
「止めろなんていわないけどさ、愚痴は愚痴、どこまで行ったって愚痴」
横目で見ると、綾波の手には、いいかげん人肌にあったまってるはずのビールの缶が、まだあった。
だからといって飲むわけじゃない。忘れてるだけなのか。ひょっとしたらタイミングを気にしているのか。缶を手放すタイミング、何だそりゃ。
「誰も聞いてくれない愚痴だからひとりで屋上にいる。違うか」
綾波は答えない。
洞木、七連勝。
俺は愚痴る。
「死んだら生き返らない。生き返らないやつには会えない。そうだろ」
酒のせいだ。きっと。
俺の愚痴が止まらないのも、俺の愚痴を綾波が聞いているのも。
「あいつら死んだんだ。そうだろ」
酒のせいに違いない。綾波がこっくりと頷いた。
そして、口を開いた。
「私が殺したのよ」
酔ってるな、このやろう。
「じゃ、お前、惣流のカタキだ」
「そうよ」
頭痛え。
八戦目が長引いていた。
トウジと、洞木と、そして綾波。
この三人と飲み食いしていたせいだろう。ふと見ると、部屋には碇シンジも惣流アスカもいた。
ああ、そうだった。こんなふうに六人がそろってホームパーティーなんてこともあったっけ。たしか碇の保護者だったって人の昇進祝いにかこつけて。そうでもしないと、惣流みたいなかわいい女の子と同じ席にはいられない。
だから、気まぐれだったんだろうけど、あのときは惣流がジュースを注いでくれただけで嬉しかった。
それが今は、惣流と横で肩が触れ合うぐらいにして一緒に食事をしているなんて、ひょっとして、こ、これは……。
「コラ、いいかげん、起きんかい」
夢かよ。
「あー、悪い悪い、寝ちゃってたか」
「お前が先ツブレとるから綾波のやつ帰ってもうたやないか」
「あいつに限ってそれはない」
そんなこと、気にするか。
「トウジ、お前だってぜんぜん綾波の相手しなかったろ、人のこといえるか」
「そうゆうてものお」
トウジは義足をかつんと指ではじく。いつ頃からか始まった、わかり易いくせ。これが出るとき、トウジはあのくそったれな日を、その前のことを、エヴァンゲリオンにまつわることを、思い出している。
「そもそも、綾波誘おうっていいだしたの、誰だ」
「わたしよ」
キッチンで片付けをしていたのか、目を覚ましてから見当たらなかった洞木の声が、後ろから聞こえた。
「綾波さん、やっぱりしゃべんなかったわね」
「酔わせりゃしゃべると思ったのか、洞木は」
「だって、たまに話すことっていったら、もういない人のことばかりなんて、そんなの悲しすぎるじゃない。だから最後に、せめて明るい雰囲気で」
そりゃ、お前とトウジの雰囲気だけは、これ以上やってられるかってくらいによかったけどよ。
「案外、悲しんでなかったりしてな」
「どういうこと」
「悲しくなるってわかってることに、いつまでたってもひたっているってのは、ようするにそれほど本人いやじゃないってことで、好きでやってるんだとしたらそれは悲しんでるってのとはちょっと違わねえか」
「なによそれ」
「本人に聞いてくれ」
「聞けるか、アホ」と、これは右の親指をさすっているトウジ。
ボタン連打しすぎだっての。さてはついに勝てなかったな。
「そうだよ、トウジ。俺だって聞けないんだ。碇はどこに行ったんだとか、惣流どうしちまったんだとか、お前いつまでもそんなでいいのかとか、聞きたいことはいっぱいあるんだ。だけど屋上あがって、あいつの背中見たとたん、なんもいえなくなっちゃうんだよな、なぜか。綾波ってさ、たぶんずっと、ずっとあのままなんだろうな」
「ずっとひとり」
洞木は、俺たち三人ともわかりきっていることを、ことさらもういちど言葉にした。
「ひとりでぜんぶ受け止めるのね、綾波さん」
さっきまでを楽しんだことが後ろめたいのか、洞木はうなだれてつぶやいていた。
それを愚痴といえるのかはわからない。
未練というやつかもしれない。
何度も洞木が綾波に話しかけ、世話を焼こうとして、そのつど失敗して、この頃はあきらめかけていたのを俺は知っている。
けど、もう。
「終りか、これで」
俺たちは卒業する。
サードインパクトから一年以上が経った。
忘れられないようなことでも、思い出さずにいることはできる。それを知った一年だった。たとえば惣流、たとえば碇。
「綾波さん、留学するそうよ」
「へえ、だからか」
「だから、なに?」
「洞木が、わざわざこんなことしたのは」
「余計なことだったかな……」
まだ俺を入れて三人残っている。
なのに部屋がさびしい。もうパーティーもどきは終わっている。帰るタイミングって難しい。
無理に話題を探した。
「その留学ってさ、綾波本人から聞いたのか」
「ううん。おとといくらいに職員室に用事があって行ったんだけど、先生ちょうどそのときいなくって、見るつもりなかったんだけど、進路調査表っていうのが机の上にあって、綾波さんだけ備考欄にいろいろ書いてあって」
「なんて」
「中国にある、なんとかっていうネルフの付属研究施設に行くんだって」
「へえ」
目に浮かぶ。
あいつ、そこに行って、屋上にあがるんだ。
どこにいたって空は青い。
そういえば、綾波の空は赤くない。
綾波が赤いものを避けていたかというのはちょっと思い出せないけど、夕焼け空って時刻になる前にさっさと下校していたのは、たしかだ。
メキシカンピザは、まずかったかもしれない。
「何しに行くんだろな、綾波」
「せやから留学やろ」
「だからさ、何しに留学するんだろな」
「何もしそうにないわな、あいつは」
それは違う。
綾波は綾波にしかできないことをやっている。それが、他のやつにとっては、何もしていないのと変わらないってだけだ。
トウジだって、それはわかっているんだろう。
洞木も、この一年で思い知ったはずだ。
綾波はどこに行っても綾波だ。
誰といようと誰ともいない。
いちどだけ、綾波の話を最後まで聞いたことがある。
それは、二人がどうして死んだのかということでなく、ただただ途方もない法螺話。
なんでも、あいつは、神様なんだそうだ。
だから碇が願った世界をそのまま作りだすことができて、それをそのままくれてやったのだという。しかしそこには綾波の入る場所がなかったのだという。それでそこから消えたのだという。
「あの二人は」
と、綾波はいっていた。
碇と惣流のことをだ。
「今もいるのよ。赤い浜辺に」
綾波は空を見上げながら、いっていた。
「私は私が作った世界を見届けないといけないの」
突拍子もない話を屋上で聞いてわかったのは、綾波はふられたんだなという、およそ神様らしくも綾波らしくもない事実だった。
二人を殺したのが綾波だっていう人間臭い解釈も、案外ありかもしれない。
四月が過ぎ、五月になった。
街路樹はでたらめに咲いている。このまま六月になってゆく。
綾波が留学したともしてないとも聞いてない。ただ、顔を見たのは、ソースを口の端にくっつけてたあの日が最後だ。
トウジとは、たまに会う。洞木が横にいるときもあれば、いないときもある。補助がいなくても困らない程度に義足に慣れたというのなら、それは喜んでいいことだろう。
俺たちは、少なくとも俺の周りでは、高校に入っても中学のときと比べてこれといった変化はない。
だって俺は生きている。
生きている、ただそれだけのことで、死んでいったあの二人には絶対にかなわない。空を見続ける限り、くそったれなこの現実は、俺が死ぬまで変わらない。
それを、綾波は教えてくれた。
それが、ありがたい神託なのか、神らしからぬ愚痴なのか、そんなことはわからないけど、それは大したことじゃない。
空を見つめるだけの神様。
そんな人間臭い不器用な神様がいるってだけでじゅうぶんだ。
「そう思うだろ」
と、あの二人が窓の外に見えたような気がしてつい口に出してしまい、教師によそ見のばれた俺は廊下に立たされるはめになった。
廊下の窓からも空は見えた。
どこまでも青い空が見えた。
泣きたいときは俺もこれで足りるようになってきた。
end