少年が望んだ夢を、少女は探す。
遠くなった思い出の向こう側で、何か無くしたものが呼んでいる。
私のこと好きになってください、と少女は言った。
少年は泣きはらした目で、顔を上げた。
少女、少年 <第十一話>
朝が来ると、否応なしに一日の始まりがプレッシャーになって押しかかってくる。
単純明快に爽快な朝というのは、歳とともに得難くなるような気がする。
暦の上に9月が見え隠れしても、夏という季節の終わりはやってくるけはいを見せない。
季節を失ったこの国には、一年という時間が消費されていく指標のようなものが全くと
言って良いほど無い。
昨日が8月の終わりなら、今日は9月の初めの日で、明日は9月の初めの次の日になる。
それ以上の大切なものは決して姿を見せることはない。
白色が滲んで空の色と混じる程の朝の太陽の光を、反射鏡のようなネルフのビルがはじ
き返えしている。
駐車場からマヤと一緒に歩いてきたシゲルは、本館の裏口からオペレータールームに向
かうために、人気のない西門に消えていった。
マヤはその後、本館を抜け、研究室のある二号館へ向かうために、とぼとぼと煉瓦地の
道を進んでいる。
煉瓦地にはユーカリの街路樹が青々と茂るが、特別その存在が人の心に安らぎを与えて
いる感じはしない。
誰も目を留めないし、その必要もない。
でも、何か特別に街路樹が存在していなければならない必要性だけはあるのだろう。そ
うでなければ、街路樹が存在する理由がない。
新しく始まる次世代MAGIプロジェクトに、惣流・アスカ・ラングレーという女性が
参加する。ドイツ支部の切り札だろう。この女性の登場の意味を考えれば、ドイツ支部が
如何にこのプロジェクトに力を入れているかが分かる。
威信がかかっている、とまで言葉にする事が的確であるかどうかは分からないが、それ
でも大げさすぎるということはないだろう。
「どうするんだろうねぇ、私たちは・・・。」
自分の中で消化しきれない感情が、小さな独り言になって零れた。
そういうときは何時もハッとなって周りに注意を向けるが、その一言が誰かに聞かれた
けはいがなければ、再び何事か考えるために意識が逃げ始める。
責任転換や自己逃避のような感情の起伏。
自分自身がわかっていても見せたくない側面は、押さえつけるほど出ていく場所を探す。
そして言葉になって零れる。
押さえきれない独り言というモノは、得てしてそう言った負の感情の表れだと、マヤ自
身は認識している。
二号棟入り口でカードキーを通し、何もない一階ホールを抜けてエレベータに乗り込む。
そして地下二階に存在する研究室へと降りていく。
何故か研究室というモノは地下に作られるモノである。
研究室にはいると、薄暗い部屋の中に多数のコンピュータが並ぶ。
FANノイズが、やけに低い音になって足下にたたずんでいる。
マヤは自分の端末を一度リブートして、その間にインスタントのコーヒーを入れに行く。
コーヒーを入れて戻ると、次はメールをチェックする。
進行状況を表す水色のバーがなめらかに進み、大量のメールを受信する。仕事からプラ
イベート、最近は電話を活用することがめっきりと減った。
人は結局、対面のコミュニケーションを避けたがる。その結果、メールは何かと理由を
付けて"コミュニケーション"の中心へとすり替わっていった。無機質なコンピュータが提
供するマンマシンインターフェースは、人と人との間にある煩わしさをわざと覆い隠すよ
うに設計され提供される。それが良いことなのか悪いことなのか明確な答えを持つことは
難しいが、少なからずその傾向は顕著になっていく。
マヤはゆっくりと移りゆくディスプレイの動きを見つめながら、ぼんやりとそんなこと
を考えていた。
やがてメーラーは小さな警告音と共に受信メールの一覧を時間別にシーケンシャルにソ
ートして表示する。
そのメールの表題と差出人をチェックしていくマヤの目に、一つのメールが目に留まっ
た。
『次世代MAGIプロジェクトに関する事前打ち合わせに関する質問事項』
差出人は、ドイツ支部代表となっている。
マヤは、メールを開いてその内容を確認する。
添付ファイルが在るわけではなく、取り立てて長いメールでもない。ただ、今までドイ
ツ支部と本部との間で協議されてきた、新MAGI開発の幾つかの簡単な疑問点が並べら
れているだけである。
正直、近々の会議で取り上げられて、あっさりと解決するような問題ばかりで、とりた
てて重要な事は一つもない。
マヤは小首を傾げながら、今一目的が不明瞭なメールを一応読み進んでいく。そして、
最後の最後、何故か『私信』と書かれていた本当に短い一文で、やっとこのメールの意図
を知った。
眩暈がするほどに、液晶のディスプレイが歪んで見える。
『マヤ、相変わらず元気でやってる?』
惣流・アスカ・ラングレー。
署名の後ろには、メールアドレスも書いてある。
マヤはマウスの右横に置いたマグカップを取り上げて、コーヒーを口に運ぶ。が、思い
の外その動きがぎこちなくて、マグカップを強く下唇に押しつけてしまった。
鈍い痛みが唇を襲って、思わず強くカップを引きはずすと、真っ黒な水滴が机の上に飛
散した。
緩慢な動きでその黒点を見つめると、ゆっくりと思考が少女の元へと歩き始める。
少女が帰ってくる。
昨日シゲルと少女のことを話しながら現実味の無かった事実が、ちゃんとした形で目の
前に現れた。
嬉しい、のだろうか? いや、そうでなければならない。
プシュっとエアの抜ける音がして、研究室の入り口のドアが開いた。数人の研究員と一
緒に、碇レイが入ってくる。
いつもより生気無く感じるの気のせいだろうか?
マヤは急いでメーラーを閉じると、一つ二つ頬を叩いて気合いを入れ直した。
机に零れたコーヒーの滴を拭き取りながら、次は今日の会議に思考が飛ぶ。
少しだけ、現実と夢との境界線が崩れ始めた。
「驚かない、んだね。」
廊下の端に作られた休憩ルーム(といっても衝立で囲まれただけの小さな空間だが)で、
マコトはシンジを前にして、小さなため息混じりの言葉を零していた。
やけくそな太陽の光が、加工された窓ガラスを通り、やけに人工的な光になって降り注
いでいる。その無機質な印象は、どの様に体裁を整っても拭うことは出来ない。こうやっ
て大切なモノは失われていくのだろう。
「えぇ、アスカがネルフにいることは・・・。」
シンジは砂糖を抜いた紙コップのコーヒーを口に運んだ。
「偶然、じゃ無いんだろうね。多分、止まっていた水が一気に流れ出した感じかな?」
「正直、一気に色々ありすぎて戸惑ってはいます。けど、そういうわけにはいきませんか
ら。」
何処か感情のこもっていないような、疲弊した印象を与える声。
マコトはぼんやりと衝立の淡いベージュを見つめながら、シンジの口にした言葉を聞い
ていた。
「多分、今月の末、早ければ中頃にはここで『MAGIプロ』のキックオフミーティング
があるからね。まぁ、顔見せみたいなモノだなぁ。そこに彼女は来ると思うよ。」
「早いんですね、」
「そうかな?」
シンジの答えに対して、マコトが素っ気ない言葉で答える。
「いえ、分かりませんけど・・・。」
シンジは消え入りそうな声で、そう答えた。
手元にある紙コップのをのぞき込むと、茶色く変色した底の円が見える。その向こうに
僅かに透ける白い陰が、妙に浮ついた印象をシンジに与えていた。
アスカに近づけば近づくほど、そういった人物と話をすればするほど、現実と幻想の境
が曖昧になる感覚に陥るような気になる。それが自分自身の嫌悪感をさらに煽って、それ
を押しつぶすために、どんどんと自分が小さくなっていく様だった。
「レイちゃんは、アスカ君のことは?」
「知ってます。僕が話しました。昨日のことですけど・・・。」
「そうか・・・。本当はもっと早く伝えることが出来れば良かったと思うんだけど・・・。
僕らが知ったのも本当に最近の事なんだ。」
「理解できます。そういうところです、ここは。」
シンジは無機質で平坦な声で、そう答えた。
視線がぼんやりと、衝立のシミを泳いでいる。
「そうだね、実質的な部分では僕なんかは一介の技術屋だからね。旧ネルフの人間だから
と言って、今は特別な存在じゃないな。」
「あの時は違いましたか?」
シンジはマコトの言葉を聞いて、直ぐにそう言葉を返した。
その問いは触れるべきでは何かへのアプローチであり、昨日までのシンジなら口にする
ことの無かった問いかも知れなかった。
マコトはその言葉を聞いてゆっくりと顔を動かし、隣に座るシンジの横顔をのぞき込ん
だ。その顔は驚くほど白く、そして驚くほどに無表情だった。
「・・・あぁ、違ったね。あの頃は、それだけの権限が僕には在ったね。」
「副指令が、とは言わないのですね。」
「元より違うからね。そういう事には出来ないさ。」
マコトは素早くそう答えた。
ずっと繰り返してきた、そういった風に用意された答えだった。
「・・・、すいません、特別聞きたい事じゃなかったです。」
シンジは曖昧で、そして何かを避けるように、その話を自ら切った。
シンジが踏み込みかけた境界線のこちら側で、マコトは意を決したように手招きした。
シンジはそれを見て、その歩みを止めた。
明らかに、うち解けて相手の内側に入っていくことの出来る距離での会話を避けている
のだろう。が、それでも、これさえも10年という時間を費やして探し出した距離なのだ。
普通の会話が出来るようになっただけでも、十分な進歩なのだろう。
それが今の二人の正直な関係だった。
「正直なところ、僕自身驚いてるんだよ。アスカ君がネルフから離れていたと思っていた
のは、僕も一緒だったしね。ただ、可能性が無いわけではないと思っていたけど。あれか
ら10年で再会の期が巡ってきたことを、今は素直に喜ぶべきなのではないか、とも思
う。」
「それは助言、ですか?」
「反省の弁だね。言い訳かもしれないけど。」
マコトは少しだけ濁った声でそう答えた。
「日向さんが反省することは無いと思います。別に誰かがあの事を反省する必要も、意味
も、意義もありません。今はアスカが帰ってくる。それだけで十分です。」
抑揚のない声がフロアに満ちるように零れて、欺瞞や疑念を覚えさせるような印象を与
える。
僅かにエコーするその声は、実際の音が失われても、それ自身が失われる様子を見せな
いでいる。
「嫌なことなら答えなくても良いけど、一つ聞いても良いかな?」
マコトは重たげな表情で、シンジにそう問うた。
シンジは無言で、シゲルの顔をのぞき込む。
「アスカ君に会いたい、と本気で思ってるかい?」
それは10年ぶりに踏み込んだ、そんな距離だった。
シンジが避けているその距離に、マコトは意を決して踏み込んだ。
マコトはじっとシンジの目線を追った。
シンジは一瞬険しい表情を作ったが、その後直ぐに視線をシゲルからはずしてゆっくり
と立ち上がった。その表情は、また元の無表情に戻っていた。
そして飲み干したコーヒーの紙コップを軽くつぶして、ゴミ箱に投げ込んだ。
「すいません、仕事があるので。」
小さな一礼を入れて、シンジは休憩ルームを後にした。