彼はいつものように朝食を終えると、領地の巡検に出かけた。
彼の領地は、彼の尺度でみてもあまり広いとは言えない。
しかし、ネズミがたんまりいそうな古い家屋と、爪を研ぐのに丁度良い堅さの木、午睡を楽しむのに最高のロケーションを誇る塀などがあり、とりあえず満足していた。



CREATORS GUILD 3周年記念
猫が好き
書いた人 中川 淳



彼は野良猫ではない。
かと言って、飼い猫とも言えない。
彼の母親は華麗な毛皮をまとう三毛猫であり、当然のごとく飼い猫であった。
しかし、名も知れぬ父親との間に生まれた彼は、彼の母親の飼い主が主観的に実施した選定から洩れてしまったらしく、母親の住む屋敷から追い払われてしまった。
白地に、耳と両の手足と口の周り、それと尻尾だけが焦茶色という、彼の毛皮の配色が気に入らなかったのかもしれない。
そんな経緯により、彼は幼少の頃から自活生活を送っている。

運がいい、と言うべきであろうか。
彼の生誕の地からさほど遠くないところに、ある老婦人の住む家があった。
その老婦人は、連れあいを亡くした哀しみを紛らわせるためでもあろう、近所に住む猫たちに良く餌を与えていた。
とりあえず食事を確保した彼は、その老婦人の家の近く――なにしろその老婦人の家は周辺に住む猫たちの共有場所となっており、抜け駆けは許されなかった――に居を構えることにした。
具体的には、老婦人の家の2軒隣の家である。

その家は、人間の成人が二人しか住んでいないらしく、昼間は大概留守になる。
彼の領地にすむ同居人――彼の家に住む二人の人間を、彼は同居人と見なしていた――が出かけ、不用心になったここを守ることが、自分に課せられた使命であると彼は認識していた。

その日も老婦人が供する食事を終え、同居人が領地をあとにすると、いつものように巡検に出かけた。
途中近所に住む猫に出会ったが、猫族の常として他人に干渉しないという麗しい慣習を持つ彼らは、にゃーと挨拶だけして別れた。
ほどなく巡検は終わる。
あとは、老婦人が昼食の準備をするまで彼の自由時間である。
その日は風も弱かったため、塀の上で休息をとることにした。
冬の弱い日差しとは言え、風さえなければ十分に暖かい。
彼は満足した。





少し微睡んでしまったのかもしれない。
ふと気がつくと、彼の前には人間の女が立っていた。
塀のおかげで、彼女の目線は彼より若干低くなる。
彼女はその大きな目を見開いて、彼のことをじーっと見つめていた。

彼は少し困ってしまった。
大概の猫がそうであるように、彼もじーっと見つめられるのは好きではない。
なにしろ相手は彼の数倍、体重にいたっては彼の数十倍の大きさを有しているのである。
そのような大きな動物に、じーっと見つめられて気分が良かろうはずはない。
ましてや相手は、氏素性の知れぬ人間なのだ。
ひょっとすると、いきなり攻撃を仕掛けてくるかも知れない。
これはいわれのない偏見ではない。
人間――特に子供にはその様な習性を持つ者が少なくない。
しかも彼の今の体勢は、両足を身体の下に折り畳んで座る、いわゆる箱座り、という体勢である。
俊敏な動作のためには不利な体勢であった。
しかし、いざとなれば十分に素早く行動できる自信はあったので、ここで大局的見地から名誉ある転進を行うかどうかは思案のしどころだった。

「どうしたんだ、名雪?」

そんな声とともに、今度は人間の男が現れた。
どうやら、目の前にいる女は『名雪』というらしい。

「猫さんがいるよ・・・」
「は?」

名雪の声で、男も彼の存在を認識した。

「あの猫がどうかしたのか?」
「かわいい・・・」

名雪は、甘くかすれた、うっとりとした声をあげた。
その大きな瞳は、既に潤んでいた。

彼は嫌な予感がした。
彼もさすがに、人間の言葉を解することは出来ない。
ただ幾多の経験から、この様な人間が次にどのような行動をとるのかは、だいたい分かっていた。
人間の女に多いパターンだが、彼女たちは彼ら猫族を抱きしめるのが、ことのほか好きらしい。
彼も何度となく抱きしめられそうになったことがある。
迷惑なことだ、彼はそう思っていた。
彼も、特に人間が嫌いなわけではない。
自分勝手で横暴な種族だと認識しているが、彼の食事の準備をするなど殊勝なところもあるので、比較的好意を持ってみている。
ただ、抱きしめられるのはあまり好きではない。
抱かれる、という行為が嫌いなのではなく、匂いが移るから嫌いなのだ。
人間の中、特に大人の女の中には、やけに臭い者がいる。
化粧、というのだろうか、あるいは香水という言葉を彼女たちは使っていた気もするが、それらを使っている人間の女は、彼ら猫族にとっては堪らなく臭いのだ。
そんな人間に抱かれると、匂いが移ってしまい堪らない。

ただ、人間の中には妙に猫の抱き方が上手い者がいて、その様な人間に抱かれると癖になる。
彼の知りあいの飼い猫は、かつてそう言っていた。
彼はまだ、その様な人間に出会ったことがなく、そういうものか、としか思わなかったが。

「かわいいかぁ? ただの無愛想な野良じゃないか」

突然、耳をつんざくような下卑た声が聞こえてきた。
何を言っているのかは分からないが、何となく理不尽な非難を受けているような気がした。

「かわいいよっ!」

名雪の方からも、男に負けないような大きな声があがる。

「あの猫さんが可愛くないなんて、祐一、どこかおかしいよ。・・・かわいいなぁ・・・触らせてくれないかなぁ・・・なでなでして、抱きしめてあげたいなぁ・・・」

ようやく、男の方の名前が分かった。
『祐一』と言うらしい。
が、彼はそんなことで喜んではいられなかった。
名雪がふらふらと彼の元へ近づいて来ていたのである。
彼はどうすべきか悩んだ。
しかし、彼も猫族の常として悩むという感情を制御する事は苦手だったので、すぐに悩むことを放棄し、成り行きに任せることにした。
一つには、目の前の女がどう見ても危険性を有しているようには見えなかったこと。
もう一つは、――こちらの方が重要なのだが――成人の女特有の臭気をまき散らしていなかったことが、彼にそう判断させたのだろう。

「猫さん」

そんな言葉とともに、彼の元へ伸ばされてきた手は、彼の元に届く前に祐一によって止められた。
名雪はその手を振り払おうとしたが、祐一はしっかりと掴んで離さなかった。

「ダメだ」
「やだ! ねこー、ねこー」

彼の目の前では、小さな争乱が起きていた。
名雪を祐一が取り押さえていたのである。

「ダメだろ、お前。猫アレルギーじゃないか」

祐一にそう言われた名雪は、驚いたような顔で振り返った。

「覚えてたの? 覚えてるの、祐一。・・・昔のこと」
「今、急に思い出したんだ」

祐一は遠くの方を見るような目で答えた。
その目はたまたま彼の方を向いていたが、彼のことを見ていないのは明らかだった。

「今も治っていないんだろ、猫アレルギー。猫に触ったりしたら、学校に行ける顔じゃなくなるぞ」

口調こそそれまでと変わらなかったが、名雪を見る目はそれまでより少し優しいものに変わっていた。

「いいもん。祐一、離して!」
「離せば猫の所に行くんだろうが」
「だって、猫さんなんだもん」
「全然答えになってないっ」

祐一は、名雪の手を掴んで、彼の前から名雪を引っ張っていった。

「祐一、嫌い。・・・猫さん・・・猫さん。迷子になってるのかもしれないよ。お腹をすかせてるのかもしれないんだよ。わたし、鞄の中にお菓子持ってるから、猫さんにあげるんだもん」
「いいから、来い!」
「うー・・・」

二人の姿はだんだんと小さくなり、やがて完全に見えなくなった。
それでもしばらくの間、遠くからはかすかに、猫さん、猫さんと言う声が聞こえてきた。





ふと我に返ると、彼の領地はいつものような静けさを取り戻していた。
周りを見渡してみても、猫どころか人間一人すらいない。

本来なら、安らかな休息を妨げられて不快に思っても良いはずである。
なのに心の奥底まで探ってみても不快感はなかった。
それどころか意外な感情――一抹の寂しさ――があった。

彼は初めて訪れた感情に戸惑い、心を落ち着かせるため毛づくろいを始めた。
しばらく背中やお腹をなめ、毛づくろいをしていると、だんだんと落ち着いてくる。
これからどうするかしばらく迷ったあと、再び休息をとることにした。
先ほどよりもだいぶ気温も上がり、日差しも丁度良い頃合いである。
ゆったりとしっぽを振りながら、彼は再び微睡み始めた。

夢の世界に赴く前、先ほどの女――名雪の事を思い浮かべる。
大きな瞳が印象的だった。

次にあったときには抱かせてやろう。

彼はそう決断すると、目を閉じて眠り始めた。


おしまい




KanonはKEY、株式会社ビジュアルアーツの作品です。
Kanon〜雪の少女〜は、清水 マリコさんの作品です。




あとがき

この作品を、昨年の冬亡くなった我が家の猫に捧げる。
彼は十年余の歳月を我が家で送り、その間に数多くのネズミ、昆虫、鳥を捕獲した優秀な猫であった。
その最後も非凡であり、こたつの中で生涯を終えた、希有な存在である。
彼の冥福を心から祈るものである。

 




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