BE TRUE

わたしα



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 第五章 −闘い−
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 どうしてフォーラを見つける事ができたのか、当の本人にも、うまく説明は
できなかった。
 呼ばれたのである。
 フォーラの声が、トゥールを呼んだ。
 それに、トゥールは応えた。
 それがトゥールにとっての、唯一無二の答えだった。
 フォーラにしてみれば、特にトゥールを呼んだわけではなく、あえて言えば
シロム、あるいは母親であろう。
 トゥールには悪いが、まったく当てにしてはいなかった。
 フォーラが最後に呼んだのは母親であり、最終的には、その母親さえも頼り
にしていない。
 だが、母を求める行為、すなわちフォーラにとっては唯一心のより所である
存在への無意識の訴えが、トゥールの、フォーラを助けたいという想いに共鳴
したとは言えるだろう。
 事実はそれと完全に等価でないにしても、ごく近いものではあったとは予想
できる。
 ...そう、トゥールは願いたいのだ。
 ともかくトゥールは、フォーラの声が聞こえてきたと思われる方向へとソリ
を駆り、小さな雪丘を飛び越えた。
 で、それを迂回したマトクとはぐれ、しかしトゥールは、その雪丘の陰にな
った小さな窪地で対峙する、フォーラとブローグとを見つけたのである。
「フォーラ!」
 トゥールは叫んだ。
「マトク、フォーラを見つけた!
 コイザもいる!
 ブローグ...」
 トゥールの叫びは、途中で跡切れた。
 ブローグの白い巨体が、目前に広がっていた。
 ブローグの巨大な鉤爪が、それまでトゥールの頭のあった空間を、音を立て
て通り過ぎていった。
 だが、白い巨大な毛並みを間近にしてトゥールは、不思議と恐怖を感じてい
なかった。
 いきなりブローグと戦闘状態に入ってしまったので、恐怖を感じる暇などな
かったとも言える。
 トゥールの乗ったソリは、少し行ったところで反転した。
 ブローグの反応速度が分からないので、可能な限り早く移動して撹乱しよう
という狙いである。
「フォーラ!コイザ!後ろに乗れ!」
 脇を過ぎようとするトゥールのソリに、フォーラとコイザは必死で取り付い
た。
 ただでさえ荷台を付けているのに、二人分の重さで、ソリの速度が落ちた。
 ブローグが、その隙を見逃す筈はない。
「うわあっ!」
 目の前に、白い毛皮が広がった。
 コイザの、小さな体が弾け跳ぶ。
「コイザ!」
 フォーラの叫びが、トゥールの耳を打った。
「トゥール!コイザが!」
「判ってる!」
 トゥールは、大きくソリを迂回させる。
 ブローグはソリの動きに合わせ、体の向きを変えてゆく。
「マトク、急いでくれ!
 親父!
 ...あっ!」
 ブローグの巨体が膨れ上がったように、トゥールは感じた。
 まともに一撃を食らい、トゥールは、フォーラとひとかたまりに、ソリから
振り落とされた。
 操縦者のいなくなったソリは、自然に速度を落とす。
「フォーラ!大丈夫か?」
 トゥールは、自分の下敷きになったフォーラの頬を叩いた。
 気を失っていたフォーラは、ハッと目を開け、トゥールを見返した。
「ト、トゥール?
 ケガを...」
 トゥールの右肩口が大きく裂け、そこから下が、真っ赤に染まっている。
 息が荒いのは、出血がひどいせいだろうか。
 フォーラは、素早く腰の飾り紐をほどくと、トゥールの肩に巻いた。
 ぎっちりと縛り付ける。
「うっ!」
 こらえるトゥールの瞳は、出血が多い割には、強い輝きを放っている。
 うまく急所は外れてくれてるらしい。
 概して人は、血液の流出には過敏に反応するものだ。
「コイザは見えるか?」
「判らない。」
 フォーラに支えられ、トゥールは立ち上がる。
 そういえば、ブローグの姿もない。
「どこに行ったの?」
「あ、あれ!」
 トゥールは、フォーラの肩をトンとつついた。
「えっ?」
 振り向いたフォーラに、トゥールは頭上を指し示す。
 その通りに目でたどったフォーラは、
「あっ!」
 と、息を呑んだ。
 高さは五十年木くらい(5メートルほど)だろうか。
 ちょっと見には、ブローグがコイザを引っ張り上げているように見えている。
 しかし、事実は逆だ。
 コイザが、ブローグのふところに潜り込んで、身体全体でブローグを吊り上
げているのだ。
 慌ててブローグは、そばにあった木につかまったものの、かといってその木
は、ブローグの身体を支えるだけの強度はない。
 コイザの靴の力と、微妙なバランスを取っているのだ。
 しばし、唖然としてして見ていたトゥールは、しかしそのままでは、コイザ
が呼吸困難になるかも知れない事に思い立った。
 あるいは、ブローグの体を支える、コイザの身体自体が危険だ。
「コイザ!
 片足だけ動かせないか?」
 トゥールは叫んだ。
 コイザは、素直にトゥールの言葉に従った。
 それで、バランスが崩れた。
 くるっと反転して上になったコイザの小さな体が、ブローグによって弾かれ
たように見えた。
「あっ!」
 ブローグの前足が、ぐんと伸びた。
 それは、確実にコイザの片足を捕えていた。
 ブローグの巨体を一本の足で支える恰好になって、コイザは、
「ぎゃっ!」
 と、叫んだ。
「コイザ!パワーを切れ!」
 コイザは、すぐに実行に移した。
 もっとも、気を失っても、同じ結果にはなったのだが...
 ブローグとコイザの体が、重なるようにして雪面に落ちていった。
「コイザ!」
 フォーラが駆け寄る。
 幸いコイザは、ブローグの上になって落ち、下敷きにはならずに済んだ。
「フォーラ!」
 遅れてトゥールも走る。
 コイザは身を起こし、ブローグの上から降りた。
 と、その白い巨体が震える。
「くっ!」
 コイザは浮行靴を働かせようと意識を集中した。
 しかし、
「駄目だ!壊れてる!」
 コイザの靴は、さっきのショックで壊れてしまったらしい。
 フォーラを背に、コイザは後ずさった。
 ブローグが立ち上がる。
 四つ足の時はともかく、二本の後ろ足で立ち上がるブローグの大きさは、言
語を絶した。
 フォーラの中で、何かが崩れた。
 もはや、なす術はないのか?
 目をつぶりかけたフォーラの耳を、トゥールの声が走り抜けた。
「伏せろ!フォーラ!」
 ソリの動力が、ひときわ吠えた。
 考える間もなく、フォーラはコイザの腕を引っ張って、雪の上に倒れ込んだ。
 瞬間、その脇を、トゥールのソリがかすめてゆく。
 十分助走をとっていたソリは、更にスロットルの一閃で、宙に舞った。
「行けっ!」
 トゥールはソリを蹴った。
 トゥールの体はソリから離れ、ソリはブローグに向かって飛んでゆく。
 ドン!という大音響と共にソリが爆裂し、四散した。
 ゴオッと熱風が吹き付け、トゥールは宙に吹き飛ばされる。
 少し遅れてフォーラ達の頭上に、パラパラと破片が落ちてきた。
 ソリの残骸だ。
 ひとしきりの火と風の狂乱の後、トゥールはようやく顔を上げた。
「やった...のか?」
 だが、トゥールの動作は途中で止っていた。
 黒々とした煙が風によって吹き払われると共に、そいつは姿を現わしていっ
た。
 ほとんど無傷のブローグが、煙の中から現われた。
 トゥールは立ち上がり、走りだしていた。
 視界全体を埋めつくす白の中に、わずかに赤い色があるように、トゥールに
は見えた。
 いつしか止んだ雪の中で、それは不思議な程鮮やかに、脳裏に焼き付いた。
「おーっ!」
 叫びながらトゥールは、その赤しか見ていなかった。
 自身の死を考えたのは、走りだしてからだったと思う。
 いや、そうだったろうか?
 死を思う勇気が無かったわけではない。
 極限の地に住む民として、生きる事に全霊を掛けた執着心が、トゥールの体
を突き動かしていた。
 ひょっとすると、マトクの親父さんも、こんな気持ちだったのかも知れない。
 雪を蹴散らして走るトゥールの意識は、遥かな場所を駆け抜けていった。
 フォーラ。
 その名はすでに懐かしい。
 トゥールの精神を巡るのは、源初の人間の心。
 魂。
 失われた、遥かな過去の記憶。
 フォーラ、俺はお前を...
 お前は?...
 不意に、目の前が真っ暗になった。
 混濁。
 ...そして、世界は再び構築される。

「トゥール!」
 初めに目に映ったのは、母の顔だった。
 しかし声は、母のものではなかった。
「目が、覚めたのね。」
 母の顔と並んで、フォーラの顔があった。
 フォーラの、心から嬉しそうな顔。
 大きな青い瞳に、わずかに滲んでいるのは、涙だろうか?
「トゥール、俺が分かるか?」
 その声はマトクだ。
「トゥール、良くやったな。」
 太い、逞しい声は父、レドのものだ。
 見上げると、いつもと変わらない父の髭面が、逆さに見えた。
「俺は?」
 言い掛け、記憶を探った。
(そうか、俺はブローグと...)
 ハッとしてトゥールは、フォーラの顔を見た。
 マトクの顔を見、母の顔を見る。
「助かったのよ、トゥール。」
 フォーラが口を開いた。
 その言葉は、トゥールにはまるで、異国の言葉のように聞こえていた。
「助かった?」
「ああ。
 俺が着いた時、お前にすがって、フォーラがワンワン泣いてやがるんだ。
 まったく、脅かすんじゃねえよ、トゥール。
 俺ぁ、お前がてっきりくたばっちまったかと思ったんだぜ。」
 そう言ってマトクは、トゥールの肩をちょんと子突いた。
 傷の事を考え、ちゃんと左の方の肩だ。
「気を、失ったのか...
 ブローグは?」
「消えたわ。」
「消えた?」
 トゥールは、そう言うフォーラに顔を向ける。
「ええ。
 まるで、雪の中に溶けてしまったみたいに。」
「消えたって、でも...」
 フォーラは首を振った。
「私には判らない。
 ただ...」
「ただ?」
「ほら、崖の上でブローグを見たって言ってたでしょう?」
「ああ。」
「ブローグが消えた場所に、大きな穴が開いていたのよ。
 マトクの話じゃ、初めてブロ−グを見た時と、同じような痕だって。」
「爆発でできたにしては変なんだよなあ。」
 と、マトク。
「そうなのよ。
 そんなに激しい爆発だったら、私達が生き残っているはずがないわけでしょ?」
「それなのに、そうやってピンピンしてるもんな。」
「私なんて、擦り傷一つないのよ。」
「うん...」
 トゥールは考え込んだ。
 しかし、ふと顔を上げると、
「...そうか。
 助かったんだ、俺達...」
 トゥールは、ぼそりと呟いた。
 ようやく、生き延びた事が実感として感じられてくる。
 嬉しいというより、なんかホッとした気分だ。
 と、勢い良くドアが開いた。
 青い閃光がきらめいた。
 その、目の覚めるような華やかな青を追って、
「ここだったのね、マトク!」
 クゥリの、張りのある声が後からついてきた。
「さあ、早く行きましょ!」
 マトクの腕を引っ張りかけ、寝台の上に半ば起き上がり掛けたトゥールと、
目が合った。
「トゥール!気が付いたの?」
 クゥリは、すかさず駆け寄った。
 元気なクゥリの様子で、何だかトゥールも心が弾んでくるようだ。
「ああ...
 あれ?その衣裳は...」
 クゥリが身にまとっているのは、例の青い糸で織られた物だ。
 トゥールの反応に、
「どう?似合う?」
「うん。」
 トゥールは、はっきりと頷いてみせた。
 裾丈を短く、活動的に仕上げたその衣裳は、元気なクゥリに良く似合った。
 浮かれ調子のクゥリは寝台から離れ、クルリと回ってポーズをとる。
「トゥール、フォーラに感謝しなさいよ。
 付きっ切りで、看病してくれてたんだからね。
 そのお陰で、フォーラの衣裳はできてないんだから!」
 クゥリはマトクに向き直り、
「さあマトク、行きましょ!
 ウォケナ・カルタン(降魔舞踊者)がいなくちゃ、祭りが始まらないわ!」
「分かったよ。」
 一度トゥールに目をやってニヤリと笑うと、マトクとクゥリは出て行ってし
まった。
「じゃあ、私達も行きましょうか?」
 トゥールの母がそう呼び掛けると、その後を父親は追っていった。
 たった二人、トゥールとフォーラは取り残された。
 二人は少しの間、トゥールの両親の出て行った扉を見つめていた。
 先に口を開いたのは、トゥールである。
「フォーラは、行かないの?」
 トゥールの問いに、フォーラは首を振った。
「いいえ。」
「ごめん...
 俺のせいで、衣裳が仕上がらなくて...」
「トゥールのせいなんかじゃないわ。
 私の方こそ...」
 フォーラは少しかがんで、トゥールに顔を近付けた。
「助けに来てくれて、ありがとう。」
 フォーラの瞳に、光るものが溢れだす。
 今までこらえていたのが、人がいなくなって、初めて溢れ出してきたのだ。
 フォーラの、少女らしいつやつやした頬を伝い、涙が滑り落ちた。
「フォーラ...」
 トゥールは困惑した。
 フォーラの涙を見るのは、初めてだった。
 そういえばフォーラは、今まで涙を見せた事はなかった。
 両親がブローグに襲われた時も、唇を噛んで涙をこらえたのである。
 心ない者の中傷さえあったくらい、フォーラは悲しみを、自身の心の内に閉
じ込めたのだった。
「良かった...」
 涙声で、フォーラは呟いた。
 そんなフォーラの姿に、トゥールは胸の奥から、何か熱いものが込み上げて
くるのを感じていた。
 内からの求めに応え、トゥールは右腕を伸ばして、フォーラの頬を濡らすも
のを、そっと拭った。
「フォーラ...」
 トゥールの声は、ゆったりとフォーラの心にしみいった。
 トゥールとしては、自分のために祭りの衣裳を諦めてしまったフォーラに対
し、何もできない事が悔しいのである。
 が、フォーラの命を救ったのはやはり、トゥールの力と考えていいのだろう。
 ブローグを倒す事はできなかったが、傷を負わせ、追い払う事はできたので
ある。
 何しろ今まで、ブローグとまともに対決して、生き延びた者は数人しかいな
いのであるから、それを子供だけで退けさえしたとは、自慢してもよい事だ。
 思い上がってもいいのかなという心が、トゥールを積極的にさせ、優しくも
させていた。
 しかしトゥールは、それを自慢話のネタにする事はないだろう。
 父と同じく、真に自分の力で倒したのでなければ、納得できないタチなので
ある。
 自分に正直である事が通用する土地であり、トゥールは、そういう一族の一
員なのだから。
「良かった...」
 フォーラは、トゥールの右胸に頭を預けた。
 一瞬躊躇し、トゥールはフォーラの髪に指を触れた。
 トゥールの指先で、フォーラの髪ははじけ、つややかにとけていった。
 トゥールは、ゆったりと深い息を吐いた。
 フォーラの髪に、頬を押し着ける。
 それはまるで、春の香りがするように、トゥールには思えたのだった。
 トゥールは、命を掛けてブローグに立ち向かって、良かったと思った。
 確かにフォーラを助けた事は重要だが、それ以上に、自分自身を誇れるもの
ができたという事が嬉しかった。
 勇気。
 それこそが、トゥールがもっとも欲していたものだったから。
 未だ幼いトゥールの心に、男が目覚め始めていた。
 それはこの冬、一人前のものに育ってゆく事だろう。
 春にはひょっとすると、フォーラを自分のものにできるかも知れない。
 だが、まだ冬は始まったばかりなのだった。
 フォーラとトゥールの耳に、クゥリとマトクの、軽やかなステップを踏む音
が聞こえたような気がした。
 それは、遥かなる年月の予感なのだろうか?
 いや、そんな事はどうでもよかった。
 こうして、フォーラと共にいられるならば。
 トゥールの胸の中に、確かな存在として、フォーラがあるのなら。


                  −終−

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製作期間:1989.03.01(Wed) - 1997.02.28(Fri)
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あとがきを読む


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