使徒という名の脅威は去った。

 子供達の犠牲の下に大人達の世界を守ったのだ。

 なんと救われない人間達だろう。

 そんな中に俺も含まれている。

 

 それは自嘲にも似た想いだ。

 こんな事をしてもどうしようもないのに。

 

 街中を歩いていてふと空を見上げてみる。

 まるで何事もないように透き通る空。

 現在も未来も、この空は変わらずオレ達を見下ろし続けているのだろうか。

 

 

 

 かつて、そうだったように。

 

 


                              青  の  時  代


 

 

 

 『...まだよく状況が掴めない。一体どうなってやがるんだ?
 ちょっとまて、少し落ち着こう。落ち着かせて、それから状況を整理して...』

 

 

 夜は既に白々と明け、眩しい光が網膜を刺激する。そのあまりの眩しさに右手を庇代わり頭の上に掲げた。
 朝の繁華街らしいゴミと酔っ払いとに埋もれた空間の、その一角にある鉄筋製のベンチに自分は座っていた。

 

 

 『...ああ、そういえば昨日は夜まで仲間と一緒に飲み屋を梯子していたんだ。
 それで...
 そうそう。
 四軒めか五軒めで仲間連中がダウンして...

 それでもオレは飲みに行く事を強要したら、呆れて見捨てられたんだ。
 そりゃそうだな。自分でも呆れちまうさ。
 オレなんかを慕ってくれる奴なんて誰もいねえよ。だからオレは家族にも見捨てられて一人取り残されたんだからな。

 でも、おかしい。
 そんなオレの隣になんで人が眠ってるんだ?...』

 

 

 背もたれの無い簡素な鉄製のベンチに座っている青年の横にまだ年若い女性の姿がある。静かで可愛い寝息が青年の耳を絶えず擽っていた。

 しかし...
 青年は彼女について何も知らない。全く面識の無い人物だった。故に彼の想像はある一定の方向へと必然的に向かう事になる。

 

 

 『...やばいな、オレ。
 酔い任せにやっちゃったかな。
 ここまで落ちぶれ果てちゃ...もうどうしようもないよな。
 そうだよ、オレなんて最低の人間なんだから...』

 

 

 まるで自己暗示でも掛けるように自分を追いつめてゆく。

 青葉シゲルは最低の人間。
 青葉シゲルは出来損ない。

 そう言い聞かせることで、或いは何かから逃げていたのだろうか。
 彼の中には絶望と安堵とか渾然となって体内を蹂躪していた。

 自分を徹底的に破壊したくなる瞬間がこの時期の彼にはあった。肉体的にも精神的にも「青葉シゲル」という存在価値の総てをこの世から消し去ろうと。
 大学でも道端でも映画館の中でも家でも彼の中には一つの考えがいつも宿木のようにまとわりついていた。

 『あの日』から
 『あの瞬間』から

 何時であろうが何処に居ようが誰と話をしようが、
 青葉シゲルはいつも一人だったのではないか?


 ヒトとヒトとが関わり合うことによって社会は形成されているという。
 ならば今たった一人の自分という存在はいったい何なのだろうか?

 ヒトであってヒトでない。

 一匹狼というにはおこがましい。

 世界のあらゆるモノから阻害された『青葉シゲル』。
 それは『拒絶』という甘美な響きを伴って青葉シゲルを奈落へと突き落とそうとしていた。

 

 朝焼けに照らされた仙台の街の中、長く映し出される二人の影。
 しばらくは動かなかったその影がゆっくりと両手を伸ばしながら形を変えた。
 ゆっくりと伸びをした若い女性はその弾みに声を漏らした。

「んんっっ……」

 それがあまりにも甘いものに思えてシゲルは彼女の存在を実際よりも意識しすぎてしまう。
 その気配に気付いたのか彼女はゆっくりとシゲルの方へと顔を向けた。

 

 

 『...何も言い出せなかった。
 今までいろんな女を見てきた。大抵は欲望に汚された醜い奴等ばかりだ。
 オレと同じように自分だけの為に他人を平気で傷つけることの出来る連中。
 この世の中に生きているヤツなんてろくでもないやつらばかりだと思ってた。

 けれど

 今目の前にいる女だけは違うと思った。穢れを知らない無垢な女。

 絶世の美女というわけでもないし、セクシーなわけでもない。
 歓楽街には自分の胸やヒップ、それに素足を露骨に誇示してバカな男を釣ろうとしている女達が数知れず湧いているが、この場所に彼女は似つかわしくなかった。
 しかし肩まで伸びたセミロングの髪に包まれたその表情は今までにオレが見たこともないモノだったのだ。
 飾り立てて言えば命の輝きが満ち溢れている。この時代にこんなに輝いて見えた人間をオレは知らない...』

 

 

 彼女の唇に自ずと視線が留まる。
 一体何を期待しているのか、シゲル自身にも判らなくなっていた。
 前に垂れた艶のある髪をかきあげながらこちらを見つめる眠たそうな瞳に自分の顔がぼんやりと映る。

「…あれ、何してたんだっけ?」

 その声にシゲルは拍子抜けした。
 想像の中ではもう少し艶のある言葉が紡がれるとばかり思っていたのに、あまりにもあっけらかんとしていた。
 ただただ呆然と彼女を見つめるばかり…

「あー、そうそう。君ね…」

 何かを思い出したのか、彼女はその容の良い表情をやんわりと和らげて笑う。

「集積所の横で丸まってたんだよ。こうやって体育座りしてさ…」

 そう良いながら彼女は自分の両膝を抱え込むようにしてベンチに座って見せる。
 しかし、シゲルにとってその話題はまた別の方向のベクトルに感情を急発進させた。

 

 そう。
 彼女は素足にスカートを穿いていたのだ。
 張りのあるすらりと伸びた両足が惜しげも無くシゲルの眼前に晒されている。
 思わず息を呑んだ。
 こんなことに動揺することなんて今まで一度も無かったのに、彼女に対してだけは今までのスタンスを保てない。

 まるで彼女に魅入られてしまったかのように…

 

 と、そこで憑き物を払うかのように強く頭を振る。

 

『そんなわけねーじゃねーか。このオレがどうして…』

 

 そんなシゲルを彼女は不思議そうに見つめていた。

 あっ、と目が合ってしまう。

 

 奇妙な沈黙。
 先に笑い出したのは彼女の方だった。

 

「あはははは、君って結構面白いね。急に首振るし、真っ赤になるし、子供っぽくって好きだよ」

「はぁ?オレのどこが子供なんだよ」

「そうやってむきになるところかな」

「あのなぁ…二十歳の男に子供っぽいなんていうのはどうかと思うけど」

「ええっ、私より一つ年上なの?信じられない」

「なんだって?それじゃあんたの方がガキじゃんか」

「…でも泣いてたけど、体育座りしながら」

「ま、ま、なんかの見間違いだろ」

「ううん。ホント」

「……」

「でも、可愛かったけどなぁ。君…じゃなかった、貴方のそんな姿…」

「ええいっ、もう忘れろッッ!オレは泣いてなんかないっっ」

「きゃーっ…えっちぃー」

 

 今までの自分が嘘のようだった。
 人と話すことがこんなに楽しいことだったなんて…
 一体何時から忘れていたんだろう、と。
 自分は無口だと思っていたし、同様に人と関わり合いたくなかった。
 もうたくさんだ。そんな事さえ思っていた。

 だから『はしゃいでいる』自分がシゲルは信じられなかったのだ。

「きゃーっ、きゃーっ」

 両手をばたつかせてはいるが、それはまるでシゲルにじゃれ付いている子猫のようにすら見えてしまう。
 人に纏わりつかれる事を嫌っていたはずなのに、この瞬間だけは違っていた。

「だからやめろってばっ」
「うふふっ」

 抱きつくでも離れるでもなく彼女は適当な距離を置きながらシゲルの身体を軽く叩き続けている。
 このままでは埒があかないと彼女の動きを止めようとする。
 シゲルは彼女の両手を掴んで、そして動けなくなった。

 気が付くとまた彼女が自分を見つめている。
 しかし、それはさっきまでの「好奇心」とかからのものとは明らかに違っていた。
 瞳の反射が、自分を心配してくれている。
 そんな彼女の姿に胸の鼓動が高鳴った。

 

「…なんだよ?」

「……寂しそうな顔してたから、ほっとけなかったの」

「寂しそう?」

「でも判るんだ。だってみんな自分の事だけで精一杯だもの。大人も子供も、友達も兄弟も、それに両親だって…でも、それって良い方だよね。いざとなったら頼れる人がいるんだもの。自分のことを見てくれるかもしれない人たちが……でも、それも望めない…」

「もしかして……君も?」

 

 何時の間にかシゲルは女の事を『あんた』から『君』と呼び変えていた。それは無意識の行動だったが、その底辺には一種の打算があったのかもしれない。
 だがそんなことはどうでも良かった。

 

「そう言うって事は貴方も居ないのね、誰も」

「……」

「ふふっ……やっぱりって言った方が良いのかな。貴方を見ていてそんな感じがしたから。まるで少し前の私みたいで。でもねっ、それだけじゃない気がしたんだ」

 

 自分が女の瞳に吸い込まれていく錯覚をシゲルは感じていた。
 思わず浮かんだ問いを投げかける。

 

「どうしてそんな風で居られるんだ?」

「そんな風って?」

 

 女は表情全体で不思議さを面に出す。

 

「オレと君は同じなんだろ!?なのにどうして全然違うんだ?」

「違わないよ。貴方と私は…違うとすれば……」

「違うとすれば?」

「……教えてあげないっ」

 

 そう言って女は舞い降りるように地面に立ちあがる。
 慌てるようにシゲルは右手を宙に泳がせた。

 

「おいっ、ちょっと待てよっ。おいってば」

 

 未練がましい男のようにシゲルは女を追いかけようとする。

 ここで彼女を見失ったら一生巡り会えないような気がしたからだ。
 しかし彼女は逃げなかった。

 駆け出すかと思っていたその姿はその場でクルリと振り向いた。両手を後ろに組んで中腰気味にシゲルを見つめる。
 その姿に金縛りにあったようにシゲルは硬直してしまった。

 

「もう少し、自分を優しくしてあげた方が良いよ。それと、もう少しだけ世界を広く見て。自分しかいないなんて思いあがりだよ」

「なっ……」

「じゃねっ」

 

 そう言って彼女はやはり子猫のように朝焼けの仙台の街並みに融け込んでいった。

 

 シゲルは手を伸ばしたまま固まっている。
 何が起こったか未だによく判っていない。

 

「……自分に……やさしく?」

 

 ポツリと呟いてゆっくりとその手を降ろすと、とぼとぼとゴミにまみれた朝の繁華街の中を歩いていった。

 もう二度と彼女には逢えないだろう。
 シゲルにとってそれが少し心残りであった。

 

 

 

 

 

 

 翌日。
 大学で友人に声をかけられた青葉はようやく真実を知った。
 見放されたのではなくて、突き放したのだという事を。

 

「しばらく酒が醒めるのを待つ事にして、離れて見てたんだけどな、見失っちまったんだよ。ホントに悪かったな、ちゃんと付いていてやればよかったのに」

 

 この時、初めて青葉は友人達に謝罪した。

『…自分しかいないなんて思いあがりだよ…』

 彼女の言葉は正鵠を射ていたのだ。
 きっと彼女の言葉を聞いていなければ今日だって友人の言葉に耳を貸さなかっただろう。

 

「まるで天使だな…」

「ん?なんか言ったか?」

「……いや、なんでもない。オレらしくもないしな」

 

 神だの天使だの信じた事などは一度も無い自分がこんな思いを抱くのに少なからず戸惑った。
 シゲルの中で『彼女』の存在が落ちつかない。
 一体『彼女』はなんなのか? 

 

「……やっぱりオレらしくねーな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ?この大学だったんだ?」

「………あ?」

 

 後ろを振り向いて呆然とした。
 まだ信じられずに前髪を掻き揚げる。
 しかしその姿は幻でも夢でもない。

 

「ホントに偶然ね。それとも……神様のお導き…カナ」

 

 彼女は変わらずシゲルに微笑を投げかける。

 

 そうしてシゲルは天使と再び出逢った。
 










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