その日は小春日和だった。六分儀老人はベッドに身を起こして座りながら、ブラインドを通して窓の外を穏やかな表情で眺めて居た。
もう既に朝食は終わり、回診まで特に何もする事が無い。
いや老人は、入院してからは公園への散歩を禁止されて、毎日、何もしていなかった。
ただじっとこうして窓の外を眺めて居る事が多かったのである。
「六分儀さん、おはうようございます。今朝はどうですか?。」
伏木は、どうも彼を見るとき、必要以上に身構える気がした。何かすべて見透かされて居るような気がする。
「先生、特に問題はありません。」
それは、嘘だった。相変わらず微熱が続いており、実際には起き上がって居るのもつらい筈なのだ。
彼は徐々に衰弱していっている。ただ穏やかな表情がそうした深刻さを偽っている。
看護婦が検温をするので伏木はする事がない。
普通ならここで他の患者に向っても良いのだが、今日は、どうしても尋ねてみたい気になったのだった。
「六分儀さん、公園に行けずに寂しいんじゃありませんか?」
六分儀氏は少し怪訝そうな表情をしたが、いつもの穏やかな調子で答えた。
「もういいんです。あの日、行く理由が無くなりましたから。」
「あの日?。どういう事です?。」
六分儀氏は少し困った顔をした。
「こんな老人の話を聞いても、つまらないですよ。」
少しまずかったかと思いながらも、老人の言葉の中にこれまで聞いた事の無い、
他人への拒否を感じ、伏木は逆に思わぬ事を口に出していた。
「でも人間ですから。人に関心を持つのは悪い事じゃないでしょう?。」
六分儀老人は一瞬、虚を衝かれたようだった。
しばらく目を伏せていたが、やがて、まっすぐ伏木医師の目を見ると言った。
「先生。
私はサードインパクトまで、季節の無い世界で生きていました。
終わらない夏。
今にして思えば、悪夢のような世界だったかもしれませんね。」
そして六分儀老人は、窓の外の日向を眺めやった。あの「終わらない夏」は、もう無いのだ。
「悲惨な時代でしたが、私は季節が新鮮だった。季節が変わっていく。新しい事がやってくる。
そう、私は彼女を失って、でもそうした季節が巡る事で慰められていました。
季節が巡っていくのだから、何時か彼女も戻ってくる事があるかもしれない。」
老人はじっと手元を見詰めた。
「私は、あそこで待っていたのですよ。
勿論、来るはずは無いとは分かっていましたけど、どこかで来てくれるのではという思いはあった。」
それから、老人は、もう一度窓の外に目をやった。
「四季が戻ってきても、やはり私は、夏が好きです。
夏が来ると、彼女と過ごしたサードインパクト前の日々がまた戻ってくるような気する。
昔、住んでいたマンションに、ふらっと戻る事ができて、そこにあの日がそのまま残っている。
そんな夢。
そしていつも夏が来るのを楽しみに待っているんです。」
ふと、伏木は、老人にはもう夏が来ない、と思い、慌ててその考えを打ち消した。
老人は伏木の方を伺うようにして言葉を繋いだ。
「もう73年経ちますからね。しつこさも度を越しているでしょうね。」
老人は、そう自嘲気味に言うと、窓の外へ遠い視線を投げた。
「あの公園は、かって中学校の帰り道だったんです。
私達が通っていた.........
サードインパクト直後は、公園なんてものじゃなかったですけれど。
その時は、ジオフロントは崩壊して、大きな穴が空いていました。
最初、私は来る筈は無いと思いながらも、その穴の傍で、ちょうどあの公園近くで待っていました。他に彼女に近づく術も分からなかったくらい情けない子供だったんです。
.........
そのすぐ後、私は、ある事情で、この街を離れざるを得なくなりました。
私は、気が気ではなかった。私が居ない間に彼女があそこへ戻ってくるのでは無いかと。
私が街を去る事を彼女に伝えていなかったので.....。
やがて、10年たって、再び私はこの街に戻れるようになった時、彼女が生きている事を知りました。彼女も私がここに戻った事を知った筈でした。
街はまだ、ぽっかり空いた空洞の縁にへばりつくように建物が立っているだけでしたが、あの公園だけは幸いにして修復されていました。
それからは、私は、あの公園で待っていたのです。
以前よりは私は幸せでした。彼女は生きていました。そして私が待っていることを、彼女も知っていると確信していましたから。
だから私は、この街を離れなかった。私はこの街で待つ事に決めたんです。
.........
...それが根拠の無い希望だとは分かっていても...。
」
窓の外では、葉の落ちた木々が風に揺れていた。夏は未だ遠い。
「私はこの街が以前の姿を取り戻していくのをずっと、あそこから見てきました。」
それから老人は、目を輝かせながら伏木の顔を見た。
「それは、素晴しかった....
街が少しづつ以前の姿を表わすとき....
あの頃を、少しづつ私に還して貰えたかのような、そんな錯覚すら覚えました。
彼女が居ない時間を、街が私を慰めてくれた。」
伏木は、その懐かしむような表情を痛ましく思った。
とても惨い70年だった筈だ。
既に伏木は、老人の左耳や左腕の障害、それに頭痛が何を意味するのかを知っていた。
それは若い頃に、残酷にも人の手で彼に付けられた刻印。
彼は、つまらない職に甘んずる他は無かった筈である。
そして、報いの無い希望を抱き続けた長い年月。
六分儀老人はまた語り始めた。
「でもそれもあの日、終わりました。お互いに随分長生きしたものだと思います。
結局、私たちは会えませんでした。
でも....ずっとこの同じ世界に生きていた事が嬉しかった....。
彼女が死んだので........
........私は...、もうする事がなくなってしまった。」
六分儀老人はうつむきながらこういうと、じっと自分の手を見つめ続けた。
伏木は、声をかけようとした。死にたいなどと思わないように、と。
しかし、自分の言葉は、彼の悲しみに届く事はあるまい、そう思わざるを得なかった。
伏木は、ただ立ち尽くしていた。