背を丸め、壁に向かい、声をあげずに泣く。
暗闇は愛おしく少年の頬を撫で、
優しげにその腕に抱く。
そして、涙の音がする。
振り向けばそこに、少女が居た。
少女、少年 <第九話>
「どれくらいぶりかね、」
冬月は、ベッドから僅かにだけ体を起こし、体を億劫にひねりながら、自分を訪ねてき
た女性にそう話しかけた。
堅く潰れた病院の布団は重く、冬月の動きを僅かにだけ制限していた。
「多分、最後に挨拶に伺ってからは10年ぐらいだと思います。」
女性は張りのある声でそう答えて、僅かに微笑んで見せた。
長く伸びたブロンドが後ろ髪に結わえてある。整った眉の形、落ち着いた目元、蒼色の
瞳、すらりと通った鼻先、そして化粧っけのない顔に薄く引いたルージュ。
少女であった時代から損なわれることのない端麗な容姿が、何も無い病室に少しだけ浮
くように存在している。
惣流・アスカ・ラングレー。かつて『セカンドチルドレン』と呼ばれた少女の、その
10年後。
「そうか、長いものだな。」
冬月はそう言って目線をアスカから外し、メッキがはがれ変色した扉のドアノブにそれ
を移した。
ゆっくりと流れ出していく思い出が、少しだけ時間を欲しているようだった。
「本当はもっと早く挨拶に伺えれば良かったのですが、副指令が此方に来られていること
を知ったのがつい先日だったモノで・・・。申し訳在りませんでした。」
アスカはそう言って軽く頭を下げた。
「そんな堅苦しく考えんでくれ。それに副指令という呼び名も、遠い昔の私を呼称する言
葉だ。今は病に伏す一人の老人に過ぎんよ。それに、本当なら私の方から君に連絡を取る
べきだったろう。頭を下げねばならんのは、私の方だ。」
冬月は苦しげ表情を浮かべてそう言った。その表情は後悔と懺悔と長い葛藤の末に生み
出された苦渋に満ちていた。
アスカはじっと、そんな冬月の表情を見つめている。
病室の窓からは、僅かばかりの風の音と、今日も変わらぬ暑い太陽の光が射し込んでく
る。じりじりと焼けるようなその光は、ベッドの傍らに吊された点滴の薄い黄銅の色に弾
けて、病室のあちらこちらに縞模様を浮かび上がらせていた。
「突然訪ねてきたので、本当はもう少し驚かれるかと思ったんですけどね。案外淡々と受
け止められているようなので、こちらの方が少し戸惑います。」
アスカは病室を暫し支配していた沈黙破り、先ほどまでより幾分明るい調子で口を開い
た。
「この歳になったら、もう大抵のことでは驚かんよ。尤も、それが良いこととは言えない
がね。偶然が重なれば、こんな場所での再会もあるだろう。いや、寧ろ必然かもしれんが
ね。」
「・・・そういうモノ、なんでしょうか。まぁ、此処は日本ではないのですから、私が尋
ねてくること自体、それ程驚くことではないのかも知れませんね。」
「まぁ『予感』も無いわけではなくてね。第六感が知らせてくれた、ということにしてお
こうか。それに、その方が幾分か格好が良いとおもわんかね?」
そう言って冬月は悪戯っぽく微笑んだ。先ほどまでの悲しげな表情は、既に自分の中に
しまい込んだようだ。それも年の功なのかも知れない。
そんな冬月の表情を受けて、アスカも優しげに微笑んだ後、「思いません。」とぴしゃ
りと言い切った。
そしてそのアスカの言葉の後、二人はどちらとなく声を出して笑った。
二人の笑い声は、普段は会話さえ殆ど交わされない病室の壁に跳ね返り、幾重にも暖か
な思いをまき散らしていった。それが二人にはとても心地よかった。
「でも私の方は、副指令がこちらに来ていると知って、正直驚きました。本部のそんな重
要な人物が、ましてやドイツに来られることがあるなんて。それも療養と聞けば尚更です。
よく本部と副指令本人がご決断なさったな、と。」
「旧ネルフ改変時に、私は副指令の職は退任しているからね、まぁ老人が療養に此方に来
ているだけだな。」
冬月は事も無げに答える。
「表向きはそうだとしても、そう額面通りに受け止めることはできません。それと、」
アスカはそこまで口にして部屋中を見渡した。
そして小さなため息を吐いた後、少しだけ語気を強めて言葉を続けた。
「副指令はドイツ支部からすればVIPの様なモノでしょう。それがこんな何もない部屋
に・・・。支部の方には掛け合われたのでしょうか?」
アスカのその言葉を受けて、"改めて"という感じで冬月も部屋を見渡す。
「ん、そんなに何もないかね、ここは。まぁ、最初は何だかよくわからん広い部屋だった
のだがね、私が此方に移してもらったのだ。どうも広い部屋に一人というのは辛くてな、
相部屋にしてくれとも言ったのだが、流石に許してはもらえなかった。まぁ、相部屋にし
てもらっても、将棋を指す相手がおらんのには変わりはないがね。」
冬月は胸の前で、将棋の駒を指す素振りをして見せた。
「そう、ですか、副指令が納得なされているのなら・・・。でも、本当に良く本部が了承
しましたね。特別に護衛が居るわけでも無いようですし。言葉が悪いですが、何があって
もおかしくない、のでは?」
アスカが少し表情を曇らせて、声のトーンを落としながら改めて問うた。
「まぁ、そんなご時世でもないだろう。それに君なら分かるとは思うが、『だからこそ私
が此処に居る』というのもある。老人でも、利用価値が在れば使い道もある。色々なしが
らみもあってな、無下にもできん。それに・・・、」
そこまで話すと、冬月は先ほどまでの笑みを消して、小さなため息を一つ吐き、残り少
なくなった点滴の管が繋がる左腕に目をやった。
そして暫しの沈黙の後、言葉を続けた。
「此方の方が少しは長く生きられる、という話なのでな。」
張りと脂気の無いその腕は、朽ちていく人生の一つの象徴の様にも思える。
「お体、そんなに悪いのですか?」
アスカは少し驚いて、険しい表情で冬月に問うた。
「・・・そう、だな。周りの気休めもあわせ考えても、それ程長くもあるまい。十分に生
きたとは言い難いが、あたふたとやり残したことを探すほど足りなかったわけでもない。
しかし簡単に逃げ出せるほど悪人でもなくてな。本国で死ぬことが出来ないのが心残りで
あるとも言えるが、こうやってベッドに横たわっておれば、それが余り重要な事とは思え
なくなってくる。」
冬月は苦笑いを浮かべながら、そう言葉にした。
死生観への結論、その言葉にはそんな一面が含まれているようだった。
「もう、日本には?」
アスカが胸に去来する焦燥感を押し殺して、更に問うた。
「・・・そうだな、最後まで此方だろう。私の場合『帰りたい』は帰る理由にはならん
よ。」
冬月は噛みしめるように答えた。
生からの決別。
そして、見え隠れする望郷の念。
その言葉は、雄弁すぎるほど冬月の今の思いを代弁しているようだった。
「日本に、行くのかね?」
今度は冬月が逆に問うた。
「一応、そのつもりでいます。時期は未定ですが、早ければ今月の終わりにでも向こうに。
実際の所は、MAGIの件がどれだけスムーズに進むのか?という問題がありますので、
もう少し経たないと具体的なスケジュールを決めることはできないのですが・・・。」
「そうか、そういえば日本では青葉君や日向君が頑張っているよ。」
「そうですか、また一緒に仕事ができますね。まぁ向こうは私と仕事するのは迷惑かも知
れませんが・・・。当時の私は生意気なだけの子供でしたから。」
アスカはそう答えて苦笑を浮かべた。
「日本の皆とは連絡は取ったのかね?」
「いえ、それはまだです・・・。正直言って、まだ色々と不安もありますから。もう少し
自分自身で整理してから。10年ぶりですからね、緊張もします。」
「そうか、そうだな。10年・・・、長かったかね?」
冬月はこわばった表情で、そう口にした。
油っぽい白髪がベッドの上で鈍く光っている。
眼孔の鋭さと、こけた頬、深い皺が、より印象深くアスカの目に飛び込んでくる。
アスカはその冬月の問いを受けて、思案する様に目線を落とした。そしてしばしの沈黙
の後、優しげな表情で顔を上げて、口を開いた。
「わかりません。でも、長かったような気がします。自分が変わっていくだけの、十分な
時間があったので。」
アスカはあえて軽めの語調で答えた。
「・・・そう、か。・・・アスカ君、本当に、本当にすまなかった。」
冬月は苦渋に満ちた表情でそう口にした。そしてベッドの上で、これ以上はないくらい
に体を折って、頭を下げた。
降り注ぐ太陽の光は依然衰えを見せず、それは入り口の脇の壁に、ベッドの上の冬月の
影を浮かび上がらせている。
それが揺らぐ様が、より一層儚げだった。
アスカはその冬月の様子を見て、小さく頭を振った。
「副指令が頭を下げることはありません。私自身『仕方がなかった』と思えるだけ大人に
なったつもりでいます。結局誰かがやらなくてはならなかった、自分には役目があったの
だと思います。少なくともあれに乗ることは自分で望んだことです。その最後にだけ、我
が儘を言う権利はなかったと思います。」
長い想いも、言葉になると呆気なくなる。
アスカは淡々と言葉を並べた後、ふぅ、と小さくため息をついた。
頭を上げた冬月が、じっとその様子を見つめている。
「だから、10年前のことを誰かに謝罪をしてもらうつもりはありませんし、誰かに文句
を言うつもりもありません。正直、自分自身に対する後悔は山のようにあります。今でも、
それは続いています。でも、それとこれとは別問題です。自分の問題は、自分の問題です
ので。まぁ、でも当時は沢山泣きましたけどね、」
アスカは最後の部分だけ、語尾を上げて、小さく微笑みながら片目をつぶって見せた。
それは強さなのか、虚栄なのか、アスカ自身にもわからなかった。
冬月はただじっと、アスカを見つめていた。
また少し、沈黙が訪れた。
「で、今日はそろそろ帰ります。ちょっと事務所の方に顔を出さないといけないので。」
暫くしてアスカが、左手の腕時計を軽くぽんぽんと叩きながら口を開いた。
「そうか、長い間つき合わせてすまなかったね。」
「いえ、全然そんなことはないです。色々話せて良かったです。また、日本に発つ前に一
度寄せてもらいます。」
アスカはそう言いながら、優しく微笑んで見せた。
冬月もそれに答えて、小さく会釈を返す。
最後に軽く頭を下げてアスカは部屋を後にするために席を立った。
「副指令、」
扉のノブに手をかけ、部屋から出ていこうとしたところで、アスカは足を止めて振り返
った。
「私の日本語、おかしくありませんでしたか?」
そして少し不安げな視線を冬月に預けながら問うた。
冬月はその言葉にニッコリと微笑み、大きく首を振った。
「何も変わってはおらんよ。昔より丁寧になったぐらいだ。」
アスカはその冬月の言葉を受けて、少しほっとしたような表情を浮かべた。
そして最後にもう深く一度頭を下げてから、病室を後にした。