扉を開けると、果てなき無明へ続いているのかと錯覚した。背後からの陽光が、わずかに石段を照らす中、ゆっくりと中へ踏み込んだ。
石段を降り、踊り場にたどり着く。振り向くと、陽光がやけにまぶしい。
手を振り合図を送ると、重苦しく扉が閉まりだす。やがて、些細な量だけを残して光は消えた。
そうして訪れたのは闇であったが、真闇ではなかった。おぼろげにではあるものの目は確かに足元の石床を捉えていた。しばらく待ち、目が慣れてから石段の続きをゆっくり降りた。
靴が石を叩く音が響く。どんなに静かに歩もうと残響がなくなることはない。
どうせ彼のところまで届きはせぬと、逆に大きく音を鳴らした。
最後の段を降りると、冷たく湿った空気が肌を刺した。
私はその場所を見渡した。存在だけは知りながら、足を踏み入れたことがなかった場所だ。
それは、巨大な牢獄だった。
この牢獄は、教都ヴァーガウの旧市街の地下にくまなく広がっているという。遥か昔、教王国の黎明期に建てられたものだそうだ。そのころは常に数千の異教徒を虜囚し、その数十倍の躯を産んだと伝えられる、伝説の大牢獄だ。
見渡す限り並んだ牢の中には人の姿のかけらもない。だが、柱や格子や壁には一点の綻びも見当たらない。床に積もった埃がなければ、既に打ち捨てられた場所だとは思えぬだろう。廃虚と言う名とは縁遠く、まるきりかつての姿を保っている。
地上の旧市街は、邪教の異法ですっかり焼き払われたというに、この牢獄は千年近い時を経ても僅かな傷みも見せていない。かつて、教王国が誇っていた繁栄と、それを支えた数々の術を起想させる。
正面と左右に伸びた通路は、いずれも点に収束するほどに見える。立ち並ぶ牢がなければ、地平線すら見えるのではないだろうか。馬鹿げたほど広大な、無人の牢獄。いっそ、神々しくすら思える。
目が慣れると、そこがまったくの無明でもないことに、あらためて気付かされる。
時折天井に開いた採光用の穴から、光の筋が降りていた。無明の大地に天から下ろされた一筋の糸のようでもある。
その無明の大地の一番奥が、目指すべきところだ。
魔が居るでも、鬼がいるでもない。地下迷宮を探訪しようというわけでもない。
ただ一人の人間がいるだけだ。伝説の聖人や隠者というわけでもない。
いいや。まだ、なっていないだけなのかもしれない。
――そこにいる者の名を、レードン・グレアニーという。当代最強との誉れも高き、神命闘士だ。一騎当千、彼の前にすべての異端と邪教は屈すると謳われる。民の信望も篤く、天寿を全うすれば聖人の列に加わることは疑いない、はずだった。
だが彼は、今や人の列からも名を落とそうとしている。
半月前のことだった。
彼は自らの剣で刺し貫いた蟲妖術師、イクァ・リゾドットの躯を前に言った。
「神を、見た」
と。
蟲妖術師は教王国東方にて邪な教義を流布し、教皇領東方を脅かすほどの威を持ちつつあった邪教国の主だ。教王国と教会は幾度も彼を征討しようと試みた。蟲妖術師はそのことごとくを生き長らえた。彼の勢は益々高まり、遂には軍を編成して教王国へと攻め入らんとする動きすら見えていた。
もう後がないと教会が放った一矢は、神命闘士レードン・グレアニー他九人の精鋭だった。
彼らに蟲妖術師征伐の任が与えられたのが二月前のこと。
半月の入念な準備の後、丁度十度目となる征討軍の動きに合わせて十人の精鋭は蟲妖術師の領地へと忍び入った。決死隊である。一人、また一人と斃されていく中、レードンはついに蟲妖術師の居城へ踏み込み、見事にその魂を煉獄へと送りこんだ。
当代最強の名に恥じぬ働きだった。
何事もなければ、彼の名はいっそうに高くなったはずだったろう。あるいは生きて蟲妖術師の元へたどり着いたのがレードン一人であったならよかったのかもしれない。
だが決死隊に参加した十人のうち、神命に殉じたのは八人だけだった。
生き残ったもう一人は確かに聞いたのだ。「神を見た」というレードンの言葉を。
それはいかなる形であれ、聞き逃されるわけにはいかない言葉だった。
教理に曰く、神が地に下ることはない。神は天にあり、人がその姿に触れられるのは、ただ死を経たその後のみ。
神を見たという言葉は、教理に反するもの、すなわち異端であった。レードンの刃に守られなて残党の群を抜けた彼は、征討軍と合流するなりレードンを異端と告発した。
果たしてレードンはそれを認め、異端審問を受けることとなった。剣はその手からもぎ取られ、教都に帰還した彼の手には手枷が据えられていた。
レードンは獄の奥深くに封じられ、同僚のみが華やかな帰還の祝典を与えられた。
それから、三日。
レードンの処遇はまだ決されていない。彼は未だ獄中にて審問を待つ身である。
三日の間、何も行われなかったわけではない。
とある神命闘士が、審判と断罪の権を与えられ、審問を為すべくこの途を通ったのだ。けれど審判は下されなかった。それが三度続いた。
四人目に選ばれたのが、私だった。
これまでの三人が任を果たせなかった理由は聞いていない。彼らはただ、私には決められないと語っただけらしい。それすら伝え聞きでしかない。だが私は、本当のところの理由を、薄々と想像できていた。
それは、長い途だった。
永遠とも思えるほどであったが、やがて果てが見えた。
牢獄のもう一方の果て、空洞でない壁面の前に、私は彼の姿を見つけた。
闇の最中であるから、詳細な姿がわかるでもない。だが、枷をかけられた手は後ろに、頭は静かに垂れ、冷たい石畳に座しているのまでは、わかった。
わかることは、もう一つあった。
私のことに気づいたのだろう。彼の体躯から、圧倒的な殺意がこぼれだした。一歩毎に、獣の間合いに踏み込むときの震えが体を包む。
――おそらく彼らは誰一人とて、最強の神命闘士と冠される男がいかに強いかを知らなかったのだ。きっとたどり着けもしなかったのだろう。たとえ相手が手枷をかけられ、牢の中にいるとしても、この殺意の主に相対することは容易でない。
だが私は知っていた。知っていてなお、向き合えるとの自信もあった。
ようやく顔が見えるかというところまで来ると、彼はその頭を上げた。
鋭く冷たく張り詰めた眼光が中心に据えられていた。
それは最強の証しだった。まなざしが人を射貫いて殺せるとすれば、このようなものに違いない。それほど強く、死を思わせるまなざしだった。
その眼光に、私も臆した。
だが眼光を受けたのは私だ。
私はこれまでの三人とは違った。
私は臆する心を抑えるすべを、存分に知っていた。
そのすべを知っているのは、数ある神命闘士の中でもごくわずかだった。おそらくは私と、もう一人だけだと思う。いいや、技術として知っているのは私だけかもしれない。
だからこそ私が、私であるにも関わらず、ここへ至る任に選ばれたのだ。
私は怖れを抑えて歩みを進めた。
そのうち私に鉄格子が立ちはだかった。彼はそのすぐ向こうにいた。
「久しいな」
彼は、衣の一片もまとっておらず、裸身を冷気に晒していた。だというのに、彼の言葉はしっかりとしたものだった。審問を受け、おそらく死は免れ得ぬのに、そうとは思えぬほど平静とした口ぶりだった。
「まともに話をするのは、二年ぶりか」
私が沈黙を返すと、彼は口の端を吊り上げた。
「それとも異端とは話せないか」
「神命闘士レードン・グレアニー」
彼の態度には構わず、私は言った。
「汝、征討の任中に、『神を見た』との言を行った。認むところか?」
彼は顔をしかめた。
「認むところか?」
私は居を正して、真正面から彼を睨めた。私は彼と同じく――射貫くようなまなざしを向けた。彼の瞳のうちには怖れの一片すらも産まれなかった。
羨望が私の裡より湧き上がったが、それが私の口に昇ることはない。そうであるように己を鍛えてきた。
しばしあって、鋭く張り詰めた眼光がふっと薄れた。
「認めよう」
気がつくと、彼の瞳は護り包むような輝きだった。それは過たず私に向けられていた。かつてのように惹かれる己を感じながら、よく鍛えられた言葉を私は振るった。
「聖身は既に地になく、地に再び下ることもなく、ただ天にあるのみ。認むところか?」
「……わかるものか。確かめたことなどない」
「だが汝は、神を見たと言った。汝が神を見たというなら――」
「お前には見えぬか?」
まなざしを外した彼の、それは何気ない問いかけだった。
同じ問いかけをされたことがあった。あのころ私は神命闘士でなく、私たちのつながりも今とは違った。だが、彼のまなざしは、あのときと同じ色を向けていた。
その問いは、かつてのそれと同じく、動揺となって私を打った。
爪が手のひらに食い込んだ。目を伏せ、拳を震わせた。
払ったはずの羨望が、胸中にあふれ出す。
かつてより不遜に答えたのは、それを逃がすためだ。
「見えぬ」
「そうか」
声の奥に失意があるように思った。
――この男が、そのような情を示すものか――
私の裡の声が叫んだが、あるいは私自身の失意だったのかもしれない。
『審問が終われば、南へ向かう船団に乗ってもらう』
帰到審問の任を伝えられたときの、闘士長の言葉を反芻した。
船団で、である。いつもの征討のような、数人の精鋭によるものではない。
『お前に、宝剣を預けるやもしれん』
神命闘士を百人規模と、正規兵も引き連れるだろう。その指揮を私が執る。
『わかるな?』
当代最強の神命闘士を異端として葬るのだ。次の最強が必要になる。民の信望を集め、教会の力を示すための英雄が必要になる。そのためにはまず――英雄に、英雄としての死を与えねばならない。英雄は異端に犯されたと自ら死を望まねばならない。死を望んだ英雄を、次なる英雄は救済する。その救済が、次なる英雄の最初の栄光となる。偉大なる英雄を英雄のまま終らせた偉大な一振りとして。
望外の処遇だと思う。私はとうに諦めていたのだ。
私がうなずくと、闘士長は念を押すように言った。
『お前の信仰と賢明を、証明してみせろ』
醜く忌まわしい類のやり方であるが、それを憎む気持ちはなかった。
異教や、邪法や、異端から、教王国の安寧を守るために、教会は絶対でなければならない。
だが、この男は、その強さで教会そのものを揺るがし得る。
教会が絶対であるために、英雄もまた教会に忠実でなければならないが――彼は違う。彼はただ、圧倒的な強さで英雄の座にある。
彼は危険なのだ。
後ろ手に枷をかけられ、水すら与えられぬ日が三日も続いたというのに、この男の瞳には生気があった。飄々とした面持ちを保っていた。そしておそらく、一皮剥けばその内には闘気が満ち満ちている。
剣の技だけでない。このようなひたすらな生の強さが、彼を英雄たらしめている。それが、どれだけ危険なものであるのか。この男は知っているのだろうか。
「……十分だろう」
唐突に彼は言った。
「俺は神を見たことを認めた。教理は神が地に下ることはないと言う。私と教理が違うなら、私は異端だ。私が異端であるのなら、お前は私を断罪できる」
力強い、確信めいた言葉だった。無力に、一方的に殺められるものの言葉ではなかった。
「こんな地の底だ。死に様など、好きにできる」
そして彼は、頭を伏せた。
「そうするためにお前は来ている。今更、躊躇うわけでもあるまい」
私は応えるための言葉を持たなかった。レードンは黙して決果を待っていた。
静けさが訪れ、私は己の躊躇と失意を知った。
どれほど続いたろうか。
沈黙を破ったのは、彼方から届く、夕刻を告げる鐘だった。
「明日、また話を聞く」
その音は安堵だった。それがなくば、私はレードンに背を向けることすらなかったろう。
彼は言った。
「今夜凍え死なないことを、祈っておいてくれ」
祈ろうとは思わなかった。神の加護など頼らずとも、彼は生き残るであろうから。
永い途を戻りながら、私は今にも漏れ出そうとしていた言葉のことを思った。
行きは窓から差し込む光のおかげでうっすらと見えていた道程は、夕刻を過ぎて闇を濃くする地上を映し、徐々に真闇へと変貌しつつあった。
地上への石段へたどり着いたころには、かすかな月の明かりが漏れ入るばかりで、ほとんど手探りのようなものだった。
段を昇り扉を開くと、薄暗いはずの月光に目が眩んだ。
普段より遅い夕食を無味なものに感じたのは、質素なだけが理由ではないと思う。
夕食の後、鍛錬場に向かった。
人気のない鍛錬場の入り口脇で、私は手馴れた動作を繰り返した。虚空に一人ぶんの気勢が響く。
朝のそれと違い、夕の鍛錬は神命闘士の日課でない。この時間、向学心のあるものは大学に行っているであろうし、礼拝をしているものもいるだろう。だが、鍛錬場で強さを求めるのは私一人だけだった。
大牢獄ほどではないにせよ、存分に広い鍛錬場の対極をみやった。
二月前まで、ここで強さを求めるものはもう一人いた。
彼の定位置は鍛錬場の一番奥、私と対極の場所だった。
鍛錬場は一人だけには不似合いなほど広い。無論、二人にも広すぎた。夕のこの時間、広すぎるここは二人で分け合われていた。
二年前までは分け合われてもいなかった。肩を並べていた。
肩を並べていたというのは正しくないか。私はあまりにも強い彼を、追いかけるだけの立場に過ぎなかった。
私には、別の師がいた。
その師は、当時最高の神命闘士と謳われた人だった。私は師から、剣の技と信仰と神命闘士のありようの多くを学んだ。私が神命闘士にまで至れたのは師のおかげだった。けれど何もかも、師には遥か及ばぬと思っていた。まだまだ多くを学ぼうと思っていた。いずれは師のような、強く誰からも敬愛される神命闘士になろうと思っていた。
「私など、まったく及びもせぬ」
そのように謙遜していた師であったが、確かに私の目標だった。
その師を失ったのは、五年前だった。
私が神命闘士に叙せられた直後のことだ。私の神命闘士としての最初の闘いだった。
私は、訓練と実戦の差に戸惑い、魔導師の殺意に気おされていた。自らのこともままならぬまま、私にできたのは師と魔導師の闘いを見ることだけだった。
得物も持たぬ魔導師の手は、師の刃を止め、逸らし、弾き返していた。振るった手からは炎が、光が、雷が、迸った。
加勢、せねば。
師の体を焼かれ、裂かれていくのを見ながら、やっとの思いで剣を構えた。
構えた腕はすぐに震えた。
持ち上げただけの剣で、なにかができるはずもなかった。闘いは激しく、焦る私の目で追い切れるものですらなかった。
なにもできぬ。
無力の想いが、更に腕を震わせた。怯え動けぬ私の前で、師の体は傷ついていった。
師の振る舞いは、師として私たちに教えを与えるときなどより、よほど完璧に動いていた。けれどその切っ先が、魔導師の胴を凪ぐこともない。ごくまれに、かすかに腕に触れるだけだ。そのたびに、魔導師は嗜虐めいた笑みを浮かべた。
そしてその瞬間は訪れた。
私の目がようやく闘いを捉え、なにが起っているのかを掴みはじめたころだった。
楯を突き出して魔導師の腕を払った師が、猛りの声と共に剣を振り上げた。
それは、およそ最後の、渾身の一撃というべきものだった。だがそれは、なににも増して完璧だった。師の右腕は力に膨れ、振り下ろされれば魔導師の肩か腕か脇腹かを、強打し斬り裂くはずだった。そして、振り下ろされぬはずもない。魔導師が、振り下ろされる刃から逃れえるはずもない。
けれど。魔導師は死を待つでもなく、かといって刃から逃れようとしたわけでもなかった。腕を払われた魔導師は、その勢いのまま、独楽のようにくるりと回った。
師に背中を向けたその右手。光が膨れた。膨れ上がった。
独楽は止まらない。
背を向けたままの魔導師の腕が伸びる。
独楽が回る。
指先に膨れた光が集まった。
そしてどうなるか、私はもう悟っていた。だというのに、私の腕は動かなかった。
指先がしなやかに伸び、光がそこから、さらに伸びた。
独楽が回った。
待つわけでも、逃げるわけでもない。
独楽が回るのに任せ、魔導師はただ向かったのだ。
魔導師の手から指先が、指先からは輝きが伸びていた。伸びた輝きの先には師の喉があり、そこからまた輝きが伸びていた。
まるで剣のように、それは師を貫いていた。
振り上げられていた師の剣が、師の体ごと崩れ落ちた。
凍りついていた私の喉が、狂乱で雄叫びを上げた。師の断末魔の代わりのように。
役にも立たぬ私など、すっかり忘れていたのだろう。魔導師が身じろぐのには間があった。いささかの間だったが、十分だった。狂乱のまま、振り落とされた私の剣は、左の肩口から喉笛を掻き切った。奇妙に軽い手応えの後、噴き出した血の勢いが、魔導師を地に打ち据えたように、私には見えた。
無力が、心を満たしていた。
間に合ったはずだ。せめてもう少し早く、私が剣を振るっていれば。
だが、そんな仮定に意味はなかった。私は、戦場で剣を振るうには未熟過ぎた。腕の震えを抑えることも、できぬほどに。
師の仇を討つことはできたのだと気付いても、無力が拭えるはずもない。
最期の別れも教えもなく、師の躯はただ転がっていた。
躯は、美しくも気高くもなく、私が屠った魔導師の躯となんら変わるところがなかった。ただ、死んでいるだけだ。敬虔な信徒も異術に染まった背教者も、死体は同じ死体だった。
並び倒れる二つの躯を見て 唐突に、師の何が及んでいなかったのかを知った気がした。
私には絶対に思えていた師の強さは、魔導師には全く足りなかった。
師は明らかに敗けていた。
魔導師が死んだのは、私を忘れていたからだ。
師の言葉を、痛烈に思い知った。まるきり、足りなかったのだ。
異教や背教の、異術に邪術。神の意志に違い、在りうべきでないそれらは、けれど厳然と存在する。それらと戦うのに、いくばくかの強さなどさしたる役にも立ちはしない。まして信仰などなんの役にも立たぬ。
なぜ信仰篤きものしか神命闘士になれぬのか。その神命闘士が、どうして異端や背教に走るのか。
その理由が、ここにあった。
神命闘士であろうと思うなら、強さを求めてはならぬ。そんな、教えがあった。そのときは、信仰が力になるのであり、力だけを求めるのは蛮族や邪教徒と同じことだと、理由を聞かされた。
そんなのは、嘘だった。
強さを求めるなら、簡単だ。異術や邪術をまとえばよい。人の脆弱な身で、いくら剣を振るったところで、異術や邪術に敵うはずもない。
師を、愚かだと思った。おそらくそこまで知りながら、なお一介の神命闘士として、剣のみで強くあろうとした師のことを。
己の愚かさも知った。異端や異教が、いかなるものであるかも知らずに、ただ憧れだけで神命闘士を目指していた。
そして、強くなりたいと思った。
強さがあれば、師を失うことはなかった。強さがあれば、己の前に道を拓けると思った。師の強さにも届かぬ私が、願うべきことではないかもしれない。それでも、強くなりたかった。
できるならば、異術や邪術に触れぬまま。できぬのなら、異術や邪術に触れてでも。
思い付いた方法は、たった一つだった。
師が力及ばぬと言っていた、一人の男がいた。
強さだけなら最強の神命闘士であると噂される男だった。同時に、常に異端の疑いを持たれ、疎まれる存在だった。にもかかわらず彼が神命闘士であり続けるのは、異術や邪術に触れることなきまま、圧倒的に強くある、その故だと聞かされていた。
男の名を、レードン・グレアニ―と言った。
強くなりたい、そのためにあなたに教えを請いたい。そう彼に告げたとき、彼は当惑の色を顔に浮かべた。
「まともな神命闘士になりたいのなら、やめておけ」
俺は噂されるように、異端やも知れぬ男だ。確かに強くはあるだろうが、神命闘士の強さとは違うとも言った。
構わなかった。私は勝手に付き従った。
他に、強くなる方法を知らなかった。ずっと師に付き従ってきたからだ。己の道を拓くことも考えたが、私にとっての己の道とは、師のやり方をなぞることだった。
師を思うのが、辛かっただけかもしれない。
だが私は、レードンの傍にあることで彼の強さを学ぼうとした。
事実、私はそれこそ真綿が水を吸いこむように強くなった。彼が死を怖れぬのだと知れば、死を怖れぬようになろうとした。死を怖れぬようにはなれないかったが、怖れを抑える術は見つけた。あるいは、彼のように恵まれた体躯と膂力を身につける代わり、軽さを鍛えて迅さにつなげた。
やがて彼も渋々と、私がいるのを認めるようになった。
気がつくと、私は二番目と呼ばれるようになっていた。
師の亡き今、「一番目」はレードンに他ならなかった。
そのうちに、私はまた師を――最初の師を――敬愛するようになっていた。自らが強くなったせいだと思う。師が何を想い、強くあろうとしたのか、わかるようになっていた。
あの問いを受けたのは、そんな頃のことだった。師を失ってから、三年が経っていた。
その日の夕、二人きりの鍛錬場で唐突に彼は言ったのだ。
「神を、見た」と。
それは、異端の言葉だった。
ずっと怖れていたことだった。強さを求めるあまり、彼が歪みに惹かれるのではないかと。
見逃すわけにはいかなかった。
私は、鍛錬のために抜いていた切先を向け、胆の底から殺気を絞り出した。
私の変貌に気付いた彼は、まだ呆然としたまま、問うた。
「お前には、見えぬのか」
熱に浮かされたような、地に足のついていない言葉だった。彼が、そのように感情を露にすることは稀だったので、驚きを禁じえなかった。
私が殺気を収めると、彼は言った。
ときに、己の一振りが己の一振りでなくなる―─越えたと感じる、一振りがあるのだと。
「俺が見たのは、そういう、ものだ。歪みに捕らわれたわけでは、ない」
私にその経験はなかった。
知らぬと首を横に振ると、彼の顔に失望があふれた。
―─薄々と感じていたことはあった。私自身が強くなって感じ始めていた、もう一つのことだった。
彼は、あまりに強かった。
彼にはあり、私にはない天賦のもの。加えて、生きてきた時間の差の分の、鍛錬の差。それらが私と彼の差だと思っていた。天賦のものは鍛錬で埋められると思っていた。事実、私は彼を上回るほどに、鍛錬を積んでいた。
それでも、彼の強さは尋常でなかった。
本当に人のままでそこまで行きつけるのか、疑うほどのものだった。
その一言が、答えだった。
彼の目に映るものと、私の目に映るものは、決定的に違うのだ。
もし私が、同じように思うものを見たとしても――それは彼の日頃の一振りにすら、及ばぬのかもしれない。
それ以上、彼には近づけないと思った。見ていたと思っていた背中が、本当に彼の背中なのかも定かでなかった。彼の言葉に倣うなら――彼はまるで、神のようだった。
三日、彼に会わなかった。
師は――最初の師は――知っていたのだろうか。レードンが、そのようなものを見ていることを。だとすれば、師は偉大だ。それとも、師にも見えていたのだろうか? レードン・グレアニ―が見ているようなものが。
知る術などなかった。私にできることは、強さへの羨望が募るあまり、歪みに心奪われぬようにすることだけだった。
「そのようなものがあるとは思う。だが、それを神と呼ぶような人とは、居れない」
四日後、私はそう告げて、彼と訣別した。後ろ半分は、嘘だった。
だが、強さなど要らぬと思えていたのは、数日だけだった。
気がつくと、鍛錬の感触を欲しがる手に気付いた。数日すれば、居室で剣を振るようになった。一月もせぬうちに、鍛錬場に私は戻った。二人で分け合う鍛錬場で、私だけが彼の姿を時折追った。一心に剣を振るう彼に、どうすれば私は並べるだろうかと思った。いいや、並べなくともよい。背中が見れるだけでいいのだ。
彼がいったい何処にいるのか。ただそれを見極められれば。
そのためだけに、私の鍛錬は続いていた。
だが今、その彼の姿は、鍛錬場になかった。
たった一人の鍛錬場で、私はまた剣を振った。けれどそれもまた、違うものだった。
目は、耳は、鮮明に覚えている。彼の一振りの数々を。
ほど遠いものだった。
悔しさを紛らわそうと剣を振るうと、それもまた、ほど遠かった。
腕が痺れて動かなくなるまで、私は剣を振るいつづけた。
神を見ることは、一度も無かった。
翌朝、私が地下へ降りたのは、まだ薄明のうちだった。
また、あの永い途をたどって彼の元へたどり着いたのは、陽がすっかり昇った後だと思う。
彼は頭を上げて「早いな」と笑った。
それから私の持ち物に気付いて、訝るように顔をしかめた。
私は鍵束を取り出すと、牢の鍵を開けた。大きく扉を開け放ち、彼のたたずむ中へと入った。扉を開け放したまま、手にした大きな真白の布を、床に置いた。それから静かに剣を抜いた。彼は、しばらく神妙な顔をしていたが、やがて待ち侘びたとばかりに笑い、項垂れた。
私は彼の背後に回ると、無言のまま剣を振り下ろした。鈍いが小気味良い感触の後、振りぬいた剣が石畳を打ち据えた。
枷の残る二本の腕がだらりと垂れ、二度軽やかな音がした。
私は真白の布を持ち上げ、彼の肩から被せた。
ゆっくりと彼の瞼が持ちあがった。彼は呆としたまま両手を前に回し、二つに分かたれた枷を見つめた。
「裁くのでは、ないのか」
「まだ、審問をしておらぬ」
「……神は地には、在らぬのだろう?」
「貴様の見たものが神だと、証明したものはない」
剣を仕舞い、膝を下ろした。片膝立ちであるのに、見上げることになった。
「私の役目は処刑ではない。審問だ」
剣帯を外して脇に置いた。彼に柄が向くようにした。
「これは、裁くときにしか必要ない」
「そうか」
彼の顔は、笑っているようでもあった。
私は、ひとつ大きく息を吐いて、それから彼の目を見つめた。
「話すがよい。神命闘士、レードン・グレアニ―。貴様が何を、その目で見たのか」
厳かにうなずいた彼は、しばし思案を巡らせたあと、否定するかのように首を振った。
「目に何かが、見えたわけではない」
「目以外で、何かを見たと」
「……『見る』のとは少し違う。『感じる』ものなのかもしれぬ」
彼の目が、中空を見つめていた。
四日も飲まず食わずで、意識が朦朧としているだけなのかもしれない。
だが、彼はそこになにかを見出しているように思えた。
それは彼の回想の中にしか存在しないものかもしれない。そして、私には見えない。
「貴様は、なにを感じたのだ?」
彼のまぶたがゆっくりと落ちた。
目を閉じてなお、彼はそれを見ているようであった。
彼は小さく、けれど肺腑の底から溜息を吐いた。
まぶたがゆっくりと持ち上がった。今しがた目覚めたかのように戸惑った瞳が、現われた。
「奴に――リゾドットに向かって振った剣は間に合わない、はずだった。振る前から、奴の口喉の蟲が俺の喉を喰い破る方が先だとわかっていた。それでも俺は剣を振った」
彼はゆっくりと目を漂わせた。私の顔を見て、あるいは傍の石床を見て。天井より差し込む薄明かりを見上げたと思えば、己の手に目を落として。
そんなふうに思案してから、ようやく口が開いた。
「――剣を、振るうのだ。ただ振るうよりも、敵に向けてがいい。あるいはそこに敵がいると思ってがいい。想い描いてから、振るのだ。どれほどの力で、どれほどの迅さで、どのような軌跡をたどらせるかを。想い描いて、それから振るのだ。
振るったその後で、想い描いていた通りだったかようやくわかる。大抵は、思っているよりずっとよくない。ときどき、想っていた通りになる。ぴたりと、心で思っていたままに、剣が動く」
彼の言葉が止んだ。また、視線がさ迷いだした。
やがて、あちこちをさまよっていた視線が、軽く握られた右の手の上に定まった。
「だが、それ以上のときが、ある」
手が拳になっていた。そこからなめるように視線が泳いだ。
その仕草は知っていた。
彼は空手の中に剣を見ているのだ。
「俺の肩で、俺の肘で、俺の手首で、俺の腰で、俺の身体で繰り出した一振りなのに、俺のものでなくなる」
拳は、はちきれるかと思うほど握られていた。
剣は、あまりに鋭利に輝いていた。拳ごと、触れれば斬れる気配があった。
その拳を、彼の空いた左手が包み込んだ。
するりと力が抜け、剣も消えた。まるで、呪縛が解けたように。
「――それが、『神を見た』と?」
無言で、彼は肯いた。
「なぜ、それを『神』と呼んだ?」
「わからぬ」
「理由はなかったと、いうことか」
「違う」
「では、なんだ」
「それは、わからぬのだ」
「だが、貴様はそれを『神』と呼んだ」
「そうだ」
「ならば問う。お前にとって、神とはなんだ」
「それも、わからぬ。」
「本当に、わからぬと?」
「ああ。わからぬ。俺は――神がどのようなものか知らぬ。教えて欲しいと、思うほどだ」
奇妙な言葉だった。
その言葉に、私は激昂した。
「貴様は、神がわからぬのに神に仕えていたのか!」
「そうだ。王を知らずとも、王には仕えられる」
「王と神は違う!」
「ならば、どう違うのだ? 教典や教理や説話のような、神がどのように在ったかではない。神がどのようなものであるか。それが俺にはわからぬのだ」
馬鹿げた話だった。
神に仕え、神の御力を体現すべき神命闘士が、神を知らぬとは。
「できれば教えてくれ。神とはいったい、どのようなものであるのか」
だが、そう問うた彼の目は、これまでにないほど冴えていた。
「教えてくれ」
唐突で、突飛な問いだった。
「神とは――」
けれど、そう言いかけるのがやっとだった。
私は知らなかった。教典や教理や説話を通じて、神がどのように在ったものかは知っていた。けれど、それを言い表すとなると――驚くほど、私は神を知らない。
結局、首を横に振るほかなかった。
沈黙を、たしなむように確かめてから、彼は語った。
「俺は、神を畏れたことがない。死に恐怖したこともない。だから、それがどのようなものか知りたいと思っていた。
だが他人は、畏れなかったことも、恐怖しなかったことも、ないと言う。それどころか、怖れを抑えるためにこそ、神を畏れ敬うのではないかと、そんなことすら聞いた。
俺からすれば、教理のうちの半ほどは、良く生きれば死は怖れに値せぬと言うことに思えた。残りの半ほどは如何にすれば良く生きるかだ。
そのようなものならば、怖れを知らぬ俺は、教理に従う道理もないと思った。
そんなことだから、俺に意味があったのは強さだけだった。怖れも神も見ることがないまま、俺は強さだけを求めた。冷静を刃の鋭さ、熱狂が剣の迅さにして、ひたすらに俺自身を鍛え上げた。
そしてあるとき、あのような一振りをしたのだ。
それがなんだか、わからなかった。だが、あるものが俺に言ってくれた。その先に、神が見えるかも知れぬと。その言葉を信じて、より神に近い剣を振ろうとして、神命闘士にもなった。
――今思えば、強さだけを求める俺を、慮っての言葉だったのやもしれぬ。だが、俺に神が見えるとすればそれだけだった。だから俺は更に鍛えた。あの一振りが、思いのままになるように」
その言葉を、誰が言ったのか。おそらく私にはわかっていたと思う。だが、私がそれを確かめることはなかった。
彼の話は続いた。
「届きはした。だが、何度届いても、次の神が見えた。幾度届いても、先があった。
何度も思った。神などそもそも在らぬのだ、俺の心の裡で幻を見ているだけなのだ、あるいはとうに追い過ごしているのだなどと。とにかく、私がほんとうに神だと思えるものを見たことは、一度もなかった。
――それは、他の者が見れば神なのかもしれぬ。だが、私には神に思えぬ。
そもそも俺は、神を見ることなどできねのかもしれぬ。
もしかすると、俺は、盲いているのかもしれぬ」
いつしか、私の拳が固まっていた。
彼が盲いているというのなら、誰が盲いていないというのだろう。幼児の放つような、容易な問いにも、答えられぬのに。
あるいは彼こそが、盲しいていないのかもしれない。
「最後に、問う」
そんな資格はないと知りながら、私は言った。
「汝は、神を――信ずるか?」
「……わからぬ。信じたくとも、俺は、神を知らない」
彼は微笑して、瞼を下ろした。その顔は、裁きを待つ死装束のようだった。
私はゆっくりと立ちあがり、静かに剣を手に取った。抜き放ってから、彼の眼前に差し出した。
それで、彼の静穏が崩れるはずもない。
静穏のままの彼に、私は告げた。
「立て。今一度、剣を取れ」
ゆっくりと開いた彼の瞳に映ったのは、私が捧げ持つ剣の柄だった。
王が騎士を、教皇が神命闘士にそうするように――私は剣の刃を持ち、彼に柄を向けていた。
「私は神を、信じていない」
高らかに、彼は宣した。
それは、正しく背教と裁くに値する言葉であった。
けれど私は看過した。
「構わぬ。汝は、神に盲いているのだ」
いいや、見据えていながら、飲み下した。
「口を利けぬものを、聖句を唱えぬと殺めるのは、馬鹿げている。神に盲いているものが、神を信じられぬからと、殺められぬ。まして彼が神を切望し、剣を極めたその果てで『神』を示そうと思っているなら」
「俺には、示せぬ。俺の『神』は――俺の裡に見出すものだ」
「……ならばせめて、届いてみせよ。汝がそれを他に示せぬなら、私が見届け、示してみせよう」
私はただ、道標が欲しいだけなのかもしれない。ただ、そのあまりにも永い道程を、師たちのようにただ一人で昇るのは、辛すぎると、思う。
「さあ」
促して――それが誰のための誓いであるのかと、思った。
彼はしばらく、柄を見ていた。
やがて彼は、天を仰ぎ見た。
「俺が届いたとして――お前にそれが、わかるのか」
「わからぬ。わからぬが――見たいと、思う」
見るためには、遮られぬ場所へ立たねばならぬだろう。
それがどういうことであるのか、私たちは知っていたと思う。
まなざしが、私を見ていた。私も彼を見ていた。
私よりずっと立派な体躯で、ずっと磨がれたまなざしであったが、私は私を見ているようだと思った。
彼の膝が持ち上がった。水も摂らずに既に四日、生きているのが不思議な身体が、立ちあがろうとしていた。
立ちあがるはずはない。だが、その身体は持ち上がった。脚は地を踏みしめ、そのまなざしは私の頭上に戻った。
「神には、誓わぬ。俺はまだ、神を信じていない」
彼は差し出された柄を払うと、言った。
「俺は、俺にかけて誓う。俺に見える『神』を追うことを」
静寂が決意の言葉を融かしきってから、私は応えた。
「聞き容れよう。そして願わくば、見届けよう。汝が神に届くなら」
主題は「どうしても手に入らないもの」――それから、CREATORS GUILDの記念小説ということで。ならばと、以前に掲載させて頂いた「死霊術師の宴」から材料を。3周年記念に間に合わなかったぶんの熟成を加えて。
そうしてできあがったのは、以前と似ても似つかぬ哲学小説でした。悪く言えば書き捨て気味で、半ば忘れられていた物語は、一気に浮上してきました。また、続きを書くかもしれません。そのときは、どうぞよしなに。