第七話 「もう、独りじゃない」(Bパート)
written on 1996/11/17
とくん
とくん
とくん
アスカの心臓は破裂しそうだった。
苦しい想いで胸が張り裂けそうになったことは、これまでにもあったけれ
ど、こんなに幸せな気持ちで胸が高鳴るのは生まれて初めてだった。
『ホントの好きって、こーゆーコトなんだ……』
心の中でつぶやくアスカは、今、シンジの両腕に包まれている。
すでに包丁を持つ手は動いていない。
二人が身動き一つしなくなってから、とても長い時間が経ったように思わ
れた。
心臓の音だけが耳鳴りのように二人の頭の中で響きわたる。
どくん
どくん
どくん
シンジはどうすればいいのかわからなかった。
自分と同じように、いやそれ以上につらい過去を背負い込んでいるアスカ。
そんなアスカを抱きしめるのが、果たして僕なんかでいいのだろうか。
シンジは時々そんな風に悩んでいた。
もっと強くて優しくて、彼女の支えになれる人がふさわしいのではと。
他者を遮断することで自分の居場所を守っていた僕。
自分を他人と較べることで存在意義を確かめていた彼女。
求めているものは同じ。陰と陽の関係にあった二人。
昔ほど顕著でなくなったとはいえ、今もまだその傾向は確かにある。
僕も。そして、彼女も。
アスカが僕に対してイライラする気持ちはよくわかるし、僕がアスカに
対して劣等感を感じているのも事実だ。
頭が良く。
美人で。
運動神経も抜群。
そして他人には見せない努力。
自分の意見を持ち。
前向きで。
自分の進むべき道を恐れずに切り開き。
誰に対してもひるまず。
どんなコトにも退かない。
シンジの心の中で作られたアスカは、まぶしく強い存在だった。
シンジは自分に自信がなかった。
自分が傷つかないように、他人に失望されたくないために、最初から自ら
を貶める。
期待をさせなければ失望されることもない。
自分の価値を低く思いこんでいれば、どうせこんなもんさと自己弁護がで
きる。
処世術――――と一言ですませるにはつらい過去。
そんな自分をシンジ自身もよくわかっていた。
そしてアスカが最も嫌う部分であることも。
「アスカ……」
『……僕なんかでいいの?』と口に出してしまいそうな欲求をシンジはぐっ
とこらえる。
そんな言い方をするとアスカが怒ることはわかっていたし、何よりも慰め
て欲しがっている自分が情けなかったからだ。
「僕は……」
苦しげなシンジの口調。
「………弱いよ……弱い人間なんだ。情けないくらいに……」
唇を噛みしめてシンジは天井を見上げた。
「アスカの負担になるよ……きっと……」
アスカは何も言わず、シンジの手が重ねられている自分の手を裏返した。
そっとお互いの手のひらを合わせる。
「バカ……そんなのずっと昔っからわかってるわよ。
あたしも支えになりたいの。支えられるだけじゃイヤなの。
あたしだって嫌なところ、たくさんあるわ。
嫌われたくないからシンジに隠してるもの。
弱いところだって……シンジもよく知ってるでしょ」
アスカがシンジの手に指を絡める。
「だから……これから、もっとお互いのこと、わかろうよ。
同じ空気を吸って、同じ時間を過ごして。
それから結論出したって遅くないじゃない」
アスカが優しい声で言い終えた瞬間、シンジがくっと指を絡めてきた。
そのまま、ぎゅっと痛いほどアスカの手を握りしめる。
そして、嗚咽する声。
アスカは戸惑う。
だが振り返ることは出来なかった。
「どうしたの?」
無言。
不安。
期待。
恐怖。
焦燥。
「私といるの、いや?」
アスカの心が悲鳴を上げそうになる。
「違うよ! そうじゃなくて……そんなんじゃないんだ……」
シンジの答えは、早く、強かった。
「嬉しいんだ。アスカが僕を必要としてくれるのが……」
シンジの腕に力がこもり、アスカの手を取ったまま、その細い身体をぎゅ
っと抱きしめた。
そしてそのまま、アスカの髪の中にそっと顔を埋めるとシンジはつぶやい
た。
「大好きだよ、アスカ」
言えなかった言葉。
聞きたかった言葉。
二人はその言葉を噛みしめるように、じっとお互いの体温を感じていた。
アスカは心地よい束縛感に身をゆだね、シンジの鼻孔を甘い香りがくすぐ
る。
「ふふ……」
しばらくしてシンジのくぐもった笑い声がアスカの耳に聞こえてきた。
「な、何がおかしいのよ?」
「ううん。なんでもない。ただ……」
「ただ?」
「僕たちの関係がこんな風になるなんて、思いもしなかったから。
夢……じゃないよね?」
シンジはまた笑った。
「バカ……」
アスカが軽く首をひねって頭を少し後ろにずらした。
シンジの頬に自分の頬が触れるように。
二人の距離がゼロになるように。
心と心が重なるように。
お互いの頬が熱をおびているのがはっきりとわかる。
「たとえそうだとしても、それはきっと永遠に醒めない夢よ」
シンジは思わぬアスカの行動に言葉を発せない。
ただじっとアスカの頬の感触を味わうのみである。
アスカが瞳を閉じた。
ゆっくりとシンジの身体へ体重を預ける。
もう、言葉はいらなかった。
絡めた指を名残惜しげに離したシンジの右手が、おずおずとアスカの形の
良い顎にそえられる。
吸い込まれるような魅力を放つ桜色の唇。
そしてシンジの顔がアスカに覆い被さろうとしたその時。
トゥルルルルルル
突然電話のベルが鳴った。
びくんと、アスカの身体が跳ねて、シンジは思わず身を離した。
トゥルルルルルル
再びベルの音が鳴り響いた。
シンジがぎこちなく口を開く。
「で、電話……鳴ってる……」
アスカはシンジの顔を見ることが出来ず、真っ赤な顔のまま無言で電話の
あるリビングへ飛んでいった。
一呼吸して受話器を取ると、聞こえてきたのは聞き飽きたと言ってもよい
あの声。
「は〜い、アスカ! どう? 上手くいってる?」
一瞬の沈黙。
そして無言の圧力。
ふるふる、と握りしめたアスカの左拳がふるえ始めた。
「…………あ・ん・た・ね・え」
まるで呪詛の言葉を吐くようにアスカは重低音を絞り出すと、思いっきり
受話器を叩き付けた。
ガチャン! ツーツーツー・・・
その後、電話口の向こうでヒカリが大量の冷や汗を流していたのは言うま
でもないだろう。
『ったく……もォ! タイミングが良すぎるわよ!!』
アスカは心の中で憤慨しながら立ち上がった。
そしてどんな顔をしてキッチンに戻ろうかと思案しているウチに、今度は
時計の鐘が鳴り始めた。
レトロな音色で六回。
シンジがキッチンからまだ少し赤い顔をのぞかせた。
「あ、あの……早く料理作らなきゃ……」
「……そ、そうね。お腹すいてきちゃったし」
アスカも赤い顔でこたえる。
先程の雰囲気を惜しむ気持ちはあったが、すぱっと気持ちを切り替える。
『ま……時間はたくさんあることがわかったしね!』
アスカは軽い足取りでキッチンに向かうと、幸せそうな笑顔を浮かべてシ
ンジの隣に並んだ。
<Cパートへ続く>
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