最悪だった。発令所で聞いた、叫び声がまだ耳の中に残っていた。
モニター越しに見たEVA初号機と参号機──いや、第壱拾参使徒との戦闘は酷いものだった。
圧倒的な力を持って初号機は使徒を引き裂いて喰らった。そう喰らったのだ。
真っ赤な血は、現場を紅一色に染めた。モニター越しに見ていた俺も、それを浴びたかのように体中がベタベタとして気持ち悪かった。
初号機が停止してすでに二時間が経過していた。
俺は発令所から離れてシャワー室に行った。お湯を浴びても、制服を予備のものに替えてもこの気持ち悪さは消えなかった。
”泳ぎたい”
不意にそう思った。水に浸かって体を動かせばこの気持ち悪さは消えるのだろうか。
施設のプールには誰もいなかった。室内灯はすでに落ちていたが、落下防止のために設置された水中灯はまだついていた。ガラスの向こうに見える庭園には水銀灯がついていてプールの中にもその恩恵をわずかばかりもたらしていた。
俺は更衣室で持ってきた水着に着替えるとプールに出た。軽く手足を振って飛び込み台に立つ。
オゾンによる浄化循環システムを使った水は臭いもなく、澄んで綺麗だった。
体を曲げて飛び込み姿勢をとる。頭の中で、ピストルがなった。軽い衝撃と共に俺の体は水の中に吸い込まれた。
全身を使って水の中を進む。足全体を使って水を後方へ押しやり、腕は水を刺すようにつき入れた。
高校の頃は水泳部にいた。そこそこ速くて、インターハイの県予選では二位に入賞した。だかそこまでだった。世の中には絶対に勝てない相手がいることをそこで知った。そのころの俺にはもう一つ夢中になる物があって、それだけをやるようになった。
”パン”
だせぇ。水を叩いちまった。体に覚え込ませておいた理想的なフォームは六年も経つと忘れてしまうのか。
五十メートルのコースを三回往復して俺はやめた。仰向けになると壁を蹴って水面を漂う。心臓がハイペースで動いて俺に荒い息を吐かせる。疲労に身を任せてしばらくそのまま浮いていた。
更衣室の明かりを落としてプールを出た。発令所へ向かう途中で、自販機のコーナーに立ち寄った。コインを落とし込んでスポーツドリンクを取り出す。一気に流し込んだ。それだけでは足りなくてもう一本買う。同じように流し込んだ。スチール製のベンチに腰を落として息を吐いた。のどの渇きは収まった。
不愉快な感覚は幾分落ち着いた。現金なものだ。俺はこれでいいのかもしれないが。
最近、一人でいる時はチルドレンのことをよく考える。
綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレー、碇シンジ、この三人の過去の経歴については殆ど知らない、知らされていない。マルドゥック機関によって選出された子供達。アスカちゃんとシンジ君は身体的には特にほかの同世代の子供達と変わらない。レイちゃんは俺の持っている機密レベルでは大まかなプロフィールすら閲覧できないらしい。マコトがそう言っていた。
そして今回新たに加わったフォースチルドレン鈴原トウジ。彼は初号機と第参使徒の戦闘で妹さんが重傷を負っていた。彼がEVAに乗ることを承諾した理由はその治療をネルフが責任を持って行うことだったと聞いている。
葛城三佐はともかくとして、碇指令、冬月副指令、赤木博士はあの子供達をどうするつもりなのだろう?EVAを動かすためだけの道具としてしか見なしていないのだろうか?だとしたら、レイちゃんはともかく、アスカちゃんはあまりにも哀れだ。あの娘はEVAのパイロットであることが彼女のステータスであるようだから。
E計画自体、俺やマコト、ひいては赤木博士の下で仕事をしているマヤですら全てを知らされていない。
人類の驚異である使徒を殲滅することが俺のいるこの組織、NERVの役割のはずだ。上のお偉いさん達はいったい何を考えている?
──止めよう。俺がうだうだ考えてもどうにもなることではない。知ったところであの子供達に何かしてやれるかどうかわからないのだ。
俺はアルミ缶を浮かんでは消える疑問と一緒にダストボックスに放り込んで発令所へ向かった。
戻って自分の席に着いたとき、マコトが他に聞こえないように嫌味を言ってきたがシカトした。
それから四時間後、ダミープラグを使って使徒を殲滅した初号機がケイジに固定された明け方に事件は起こった。
シンジ君がEVA初号機の中に閉じこもったまま、降りなかったのだ。
「初号機の起動回路、完全にカットされました!」
「射出信号は?」
「プラグ側から、ロックされています。受信しません!」
副指令とマヤは、発令所のコントロールでどうにかしようとしているが、うまくいかない。
それを見かねたマコトが、シンジ君に呼びかける。
「しかし、シンジ君。ああしなければ、君がやられていたぞ」
『そんなの、関係ないよ』
「だが、それも事実だ」
『そんなこと言って、これ以上ぼくを怒らせないでよ。初号機に残されてるあと百八十五秒。これだけあれば、本部の半分は壊せるよ』
シンジ君は低い声で返す。こちらの態度一つで、本気でやるだろう。
やっかいな話だ。なまじ強力な力を子供に与えたばかりに、これだけの騒ぎになっているのだ。だが、彼の言い分も判らないでもない。かといって、俺がどうこうできるわけでもなかった。
俺は碇指令に振った。
「今の彼なら、やりかねませんね」
マヤがヒステリックに叫ぶ。
「シンジ君話を聞いて!碇指令の判断がなければ、みんな死んでいたかもしれないのよ!」
『そんなの関係ないって言ってるでしょ!!父さんは、あいつはトウジを殺そうとしたんだ!この、ぼくの手で!!』
サードチルドレンの叫びはカンに障る。だが、俺達に何か言い返せることがあるのか?
『父さん、そこにいるんだろ!?何か言えよ!!答えてよ!!』
感情にまかせた要求に、指令はばかばかしいという顔で指示を出した。まるで自分のまわりをちょろちょろとうっとうしく飛び回る蠅をはらうように。
「LCLの圧縮濃度を限界まで上げろ。子供の駄々に付き合っている暇はない」
マヤはわずかに躊躇した。EVAの外部制御の権限を持っているのは、今、マヤしかいない。
「マヤ」
俺は小さくマヤに声をかけた。彼女は弾かれたようにコマンドを流した。それで事がかたづいた。
初号機のエントリープラグは沈黙した。
さらに1時間後、レーザーカッターでプラグのハッチを排除してサードチルドレンは外へ連れ出された。
組織の中にいる人間にとって、上からの命令には従わなければならない。ましてや、ここは超法規組織、半分は軍隊のようなものだ。”反抗”は”反逆”なのだ。俺は何となく流れていた時間の中でそれを知った。
シンジ君はまだ14歳だ。同じ頃の自分と照らし合わせれば、それを理解していたかというとそうではない。親には、話半分でろくに言うことを聞かなかったし、学校は、つまらなければ平気でエスケープした。当然の事ながら、NERVのように自分の行動を制限されるようなことに関わりを持っていたわけではない。俺達の世代は一人っ子が多く、俺もそうだった。何かに責任を感じることもなく、やりたいようにやれた。そんな年齢だったと思う。
しかし、今の俺の立場から言わせるなら黙って言うことを聞いていればいいのだと思っているのも事実だ。あの子達には、チルドレンには、ここにいる全員が自分の明日をのせている。彼らの好む好まざるに関わらず、俺達はエゴを背負わせている。そうしなければ俺達は”死ぬ”のだ。
だが、俺達は、いや、俺は、とんでもないことに関わらされていることに、後になって知った。