カヲル君が消えて僕とアスカの関係は少しだけ変った。
それまで僕は二人の間でなんとなくバランスを取っていたけれど、今はアスカのことだけを考えるようになった。
だけどそれ以上踏み込むことは出来なかった。
まるで中学生のように手も繋げなかった。
だけど恥ずかしさのせいじゃなかった。
一度そうしようとしたときアスカは驚いたように僕の手を振り払った。
「そういうのはちょっと待って」
「どうして?」
「嫌じゃないのよ。でもまだだめなの、カヲルがいなくなったばっかりだし」
カヲル君の名前を聞いて僕の気持ちはぐらついた。
部屋は空室になり、病院に何度問い合わせても彼のことは誰も教えてくれなかった。
まるで最初からそこにいなかったかのようだった。
カヲル君はもうこの世にはいないんだ、なんとなくそう理解した。
そして、僕がカヲル君を殺した、という言葉が何度も頭の中をかけ巡った。
まさか一度薬を捨てたくらいで、そう心の中で言い訳したけれど駄目だった。
僕は叫びたいような衝動を必死に我慢するようになった。
心にポッカリ穴が開いたようだった。
多分アスカもそうだったと思う。
僕達はカヲル君の話をすることを避けるようになった。
三人で一緒に行った河川敷にも行かなくなったし、ビリヤードは勿論のこと、あの居酒屋へも行かなくなった。
だけど時間の流れは残酷だった。
僕は少しづつ、少しづつ、カヲル君のことを忘れていった。
桜 の 咲 く こ ろ に
− 後 編 −
僕達はよく水族館に行くようになった。
カヲル君の思い出が残る場所にはあまり行きたくなかったからだ。
段々と人工が膨れる僕達の街にできた、コロセウムを思わせるような白い水族館。
あまりはしゃぎたくない僕はゆらゆらと泳ぐ魚を静かに眺めることで心を安らげることが出来た。
雨がひどい日だった。
もう何度来たか判らない水族館だったけれど僕達はその日も足を向けた。
水槽の前に立つアスカは青白いバックライトに照らされていた。
熱帯魚の赤や黄色が彼女の瞳に反射していた。
近くから見るアスカの目元は優しげで、そして憂いを含んでいた。
「熱帯魚って好き?」
僕は聞いた。
「ううん、別に」
彼女は静かに答えた。
先に進もう、そう言って肩に軽く手をかける僕に対して、彼女は体を強張らせることで答えた。
彼女の柔らかくて小さい肩の感触がいつまでも右手に残った。
アスカを遠くに感じた僕は、気持ちが沈み込んでいった。
通路を進むとそこはイルカのショーだった。
小柄な調教師がマイクを手にして、スピーカーが割れるようなボリュームで喋っていた。
不必要に明るい声が投げやりな気持ちになりつつあった僕には丁度良かった。
観客席は満員で辛うじて空いている前方の右端の席に座った。
調教師がステッキを振り上げると、突然水槽からイルカが飛び出てジャンプした。
大きな水しぶきが観客席の前方まで飛び散り、スローモーションのように水滴が迫った。
「ひ、ひどいよ。ずぶ濡れじゃないか」
「ちょっとぉ、なによこれ!」
「もう...行こう、アスカ」
僕は叫んだ。
周囲の人達がクスクス笑って、その席濡れるんだよと教えてくれた。
僕達は恥ずかしくなって座ったばかりの席をあとにした。
そしてずぶ濡れになったお互いの姿を見て笑った。
アスカはお腹を抱えていた。
こんな風に笑うアスカを見るのは久しぶりだった。
だから僕は嬉しくなった。
「ねえ、アスカ」
「なに?」
久しぶりに笑うアスカを後ろから抱きすくめた。
アスカは驚いたように身を堅くした。
「ねえ、今アスカに言っても良い?」
「なにを?」
僕の問い掛けに、アスカは目を見開いて首を後ろに回して横目で僕を見た。
腕の中のアスカは小さくて柔らかくて、そして髪からは甘い香りが漂って鼻をくすぐった。
アスカが痛がらない程度に腕に力を入れた。
僕は多少やけ気味だった。
「今僕がどれだけ幸せか」
「...どうして?」
「だってアスカと一緒だから」
「今までだって一緒だったじゃない」
「でも今までとは違うよ。アスカにとってはそうじゃないんだ?」
アスカは小首をかしげると、潤んだ目で僕を見つめてそして呟いた。
「あたしってね、本当は強がってただけだって気がするのよ」
彼女はそう言って笑った。
「だってエヴァの操縦なんて、自分が本当にやりたかったことじゃなかったもの」
「じゃあ、...何がしたかったの?」
「己惚れだと思って聞いてくれていいけど、あたしは頭良いし見た目だっていいわよ。
人間としても女としても多分有能だし価値があるのよ。ねえ、人間にはちゃんと価値があると思わない?」
「そうかな?」
「人間はみんな平等なんて言う奴って本当に嘘つきで卑怯だと思うのよ。
誰でも能力には差があるし、世の中が求めるものを持ってない奴なんていてもしょうがないじゃない。
もしあたしに人間としての偏差値つけたら90は軽く越すわね」
「ホントだ、それって己惚れだよ」
僕は思わず笑った。
でもアスカは真剣な顔を崩さなかった。
「でも気がついたのよ、エヴァに乗れなくなったとき。あたしが欲しかったのはそういうものじゃなかったのよ。
だってそれは自分で望んだものじゃなかったから。
誰かに負けて心の中で自分に価値の無い人間だって烙印押さなくちゃいけなくなるのが恐かったのよ。
だからムキになってたのよ、きっと」
「それはきっと僕もそうだよ。エヴァに乗ればみんな誉めてくれたよね。あれって今思うと嫌だな」
「きっとね、誰もあたしのことなんて判らないと思ってた。でもシンジだけは...ちょっと判ってくれるかなって感じがする」
「あ、ありがとう」
「でも考え出すと判らなくなるの。あたしそういうこと考えるの苦手みたい。...あたしさ、一体何が欲しいんだろう」
「僕はアスカを見てるよ。それじゃダメ?」
「...ちょっと嬉しいかな」
アスカの微笑みは昔とくらべて柔らかだった。
そして突然僕の腕からすり抜けると、何事もなかったかのようにスタスタと歩き出した。
そして10歩ほど歩くと急に振り向いて、シンジ早く!、そう呼びかけてもう一度笑った。
その晩アスカはちょっと出掛けると言ったまま帰ってこなかった。
2時間待った挙句、耐えられなくなった僕は彼女を探しに出掛けることにした。
いつも行くコンビニにも、商店街にも、そして真っ暗になった河川敷にも彼女はいなかった。
僕は途方に暮れた挙句電車に乗った。
都心に向う電車は帰宅で満員の下り電車と対照的にガラガラだった。
僕はガランとした車両の中で祈るような気持ちでアスカのことを考えていた。
乗り継ぎの駅から降りて大学の正門にたどり着いた。
初めてカヲル君と会った場所だった。
冷えた空気を感じながら肩で息をして周囲を見回すと、アスカはそこにいた。
照明の下のアスカは、まるで初めてカヲル君と再会したとき僕が錯覚した妖精のように綺麗だった。
歩きだすと靴音が響いたのか、アスカは顔を上げてこちらを見た。
「シンジ...」
「どうしたんだよ、こんなとこに来たりして。心配しただろ」
「うん、...ゴメンネ」
彼女は素直にペコリと頭を下げた。
そして僕に向って言った。
「今あたしね、考えてたんだよ」
「何を?」
「カヲルのこと。あんたのことよくあたしに話してた。シンジ君に酷いことしたって」
「え、...どういうこと?」
「あんたカヲルと昔知り合いだったんでしょ。あたし良く知らないけど」
「うん、まあね」
僕は曖昧に返事をした。
「昔シンジの気持ちを裏切ったって。でもそれでシンジが自分を忘れられなくなれば嬉いって。自分は残酷だって笑ってた」
「...もう、ずっと昔のことだよ」
「ねえ、あんたとカヲルって何があったの?」
「まだカヲルのこと忘れられないんだ」
「え?」
僕はアスカの質問には答えずに問い返した。
アスカは驚いたようだった。
「考えてたことってそのことなの?」
「ううん、もっといろいろ。自分のこと、...他人のこと」
「どういうふうに?」
「うん...なんて言ったらいいか判らないよ。...でも」
「でも?」
「結局自分一人で考えなくちゃいけないことだよね」
僕は、一人で、なんて言ったら僕は寂しいよ、と言った。
そして小さな声で、カヲルのことは思い出さないで欲しいと付け加えた。
アスカは小さく頷いた。
そして僕はアスカを抱きしめた。
背中に手を回すと、アスカは僕の首筋に手を回した。
そしてカヲル君がいなくなってから初めて、つまり14歳のとき以来のキスをした。
僕らは一言も話をせずにアパートに帰った。
そして初めてのセックスをした。
アスカを抱き寄せると、もどかしそうに僕の首筋に抱き着いて唇に吸いついてそのまま横になった。
ショーツに手を伸ばすと腰を浮かして脱がすのを手伝ってくれた。
「ストッキング、破んないでね」
何度も何度も体中に唇をつけた。
手を伸ばすとアスカは濡れていた。
僕は挿入した。
アスカの湿りと暖かさを腰を動かしながらゆっくりと感じるうちに、僕は射精した。
「が、我慢できなかった。ごめん」
「...馬鹿...覚悟できてるんでしょうね」
アスカは悪戯っぽい表情で笑うと、今日は心配しなくていいよと言った。
そして枕元のティッシュに手を伸ばして自分で拭き取ったあと、僕の分も同じように優しく拭き取ってくれた。
そして二人で長い時間体を密着させたままでまどろんだ。
彼女は初めてじゃなかったけれど、そんなことは僕にはどうでもいい問題に思えた。
僕の目の前には長い間望んでやっと手に入れた暖かい居場所があった。
それは代えるもののない悦びだったし、同時に切ない幸せだった。
幸せという感情は涙がでそうな悲しみに似たものだとアスカの胸の中で初めて理解した。
僕はもうこれ以上世界には求める価値はない、何度もそう考えた。
やがて僕はアスカと結婚した。
大学の卒業のとき、アスカは当然就職すると想像していたのに彼女の考えは違った。
「あたしお嫁さんでいいよ。競争だとか自立なんてもう疲れた」
シンジはこんな弱い女嫌い?、そう彼女は呟いた。
僕は嬉しかった。
それはきっと手が届かないと思い込んでいたアスカが心を開いてくれたからだった。
まるで彼女の弱みを握ったような罪悪感が一瞬僕を襲ったけれど、でもすぐに彼女を守らなくちゃという気持ちに変った。
そして僕はその場で彼女にプロポーズした。
新居に越してからアスカは掃除と料理に全てをつぎ込んでいるようだった。
床や家具をピカピカに磨き上げて、いつの間にか身につけた料理で僕の帰りを待っていてくれた。
「ドイツの女ってね、掃除に命を懸けるものなのよ」
「そうなの?」
「そうよ、あんたそんなことも知らないの?」
そう言いながらも手を休めずに、彼女は可愛くお尻を揺すって掃除を続けた。
いつも無邪気に笑うようになった。
まるでまだ世の中をしらない少女のような笑顔だと思った。
14歳の頃の誰にも負けたくなくて心に壁を作った彼女はどこにもいなかった。
僕が手料理を食べるとき、彼女は頬杖をつきながら楽しそうに眺めた。
「美味しい?」
「うん、アスカがこんなに料理上手だったなんて知らなかった」
「あったり前でしょ、あたしに出来ないことなんてないわよ」
「そうだね」
「...いつも誰かが側にいる。それってすごく不思議なことよね」
彼女はそう言うと小首をかしげてクスリと笑った。
僕とアスカの生活はそうやって過ぎて行った。
まるで春の日だまりのように暖かい、永遠に続きそうな幸せだった。
守るものがあることはなんて素晴らしいんだろう、そう思った。
僕達はもう大丈夫なんだ、あの頃みたいな可哀相な子供じゃないんだ、アスカのことを考えるたびに僕はそう感じた。
アスカが倒れたのは結婚して1年近く経った春の日だった。
昨日まで笑っていたアスカは僕が家に帰ると台所に倒れて額から脂汗を流していた。
急いで吹きこぼれる鍋の火を止めて近くの病院に担ぎ込んだ。
だけどなかなか診察をしてもらえずイライラしていると、病院の院長がやってきた。
「碇さんですね。奥さんが担ぎ込まれた場合は移動するよう通達が来ているんですよ」
僕は驚いて説明を求めたけれど彼は要領を得ない答えを返すばかりだった。
深夜に移動したのはカヲル君がいたネルフの総合病院で、あのときと同じ部屋にアスカは移された。
それから僕は毎日アスカを見舞った。
僕は自分の幸せがもろい砂の城だったと知った。
長期間休むと一方的に会社に告げて面会時間の許す限りアスカの側にいた。
アスカは心配ないからと言ったけれどその目からは生気が消えていた。
カヲル君の時と同じだった。
アスカは徐々に痩せていった。
それでも彼女は笑っていた。
手を伸ばして僕の頬を撫でる手は骨と皮のようになっていたけれど、でも彼女の美しさは全然変わらないように思えた。
アスカはカヲル君と同じように体に何本ものコードを巻かれて、腕には点滴をつけていた。
染み一つない白壁は気持ちが落着かなかった。
窓からは痩せてゆくアスカと対照的に桜の花が咲き誇っているのが見えた。
何もかもカヲル君の時と同じだった。
いつものように見舞いに来ると、その日アスカは目を覚ましていた。
彼女はしばらく僕を見つめて、やがて口を開いた。
「ねえ、シンジ。今までありがとうね。あたし、そろそろダメみたい」
「どうしてそう思うんだよ。これから良くなるに決まってるだろ」
「これはさ、LCLの後遺症なんだよ。あたしとカヲルがドイツで使ってたLCLは人体に有害で体内に蓄積していくんだって」
「え...」
「あたし子供の頃からエヴァのパイロットやってたでしょ。多分今になって症状が出たのよ。カヲルが最後に教えてくれた」
「じゃ、じゃあカヲル君は」
「きっと死んだんだよ。あたしもそうなるよ、きっと」
「だって、そんな」
「いいのよ、もう」
アスカは目を細めて小さく笑った。
僕は急にカヲル君のことを思い出した。
そしてカヲル君に対する罪悪感がよみがえって冷や汗が出て叫びたいような衝動に駆られた。
まるでカヲル君が僕に意地悪をしてアスカを連れて行くようだと想像した。
僕はもう黙っていることに我慢が出来なくなった。
「...アスカがいなくなったら僕は生きてる意味なんてないよ」
「...」
「アスカには黙ってたけど、...アスカを手に入れようとして僕はカヲル君にひどいことをした」
「何?」
「聞いたら僕を許せなくなることよ」
「...じゃあ言わないで」
「いや...でも言うよ。アスカに秘密をつくるのは我慢できない。...僕がカヲル君を殺したんだよ」
目の前が真っ暗になった。
いっそこのまま地面が崩れてしまわないかなと思った。
だけどアスカの言葉は僕をもっと絶望させた。
「知ってたわよ、そんなこと」
「...ど、どうして」
「薬...あのとき捨てたんだよね。あたし知ってるよ」
「じゃあ、どうして...」
「あたしね、あんたとつきあう前はカヲルが好きだったのよ。...知ってた?」
「いや」
僕は驚きながら答えた。
アスカは窓の方に首を回して話を続けた。
「初めてカヲルと会った時ね、学校の正門のところ、覚えてるでしょ?」
「うん」
「雷に打たれたように思ったの。なんて綺麗なやつだろうって。ああ、あたしこいつのこと好きになっちゃうんだって」
「カヲル君は...そうだね、綺麗だったね」
「あたしね、この男に抱かれたらどんなに素晴らしいだろうって、そう思ったの。いつも彼のことで頭一杯になった。
あいつから愛されるところ想像して、心も体も溶けちゃう自分を一人で想像してた。
でもね、カヲルはあたしのことなんて全然興味なかったのよ。っていうより...」
「...言うより?」
「多分誰のことも好きじゃなかったんだと思う」
「...」
「いつかあいつと一緒に帰ったとき、あいつをアパートに引っ張りこんで抱いてって頼んだの。
我ながら間抜けだったけど、でもあいつはそうしてくれた。
多分カヲルはあたしに同情してくれたのよ。そしてあたしが同情されるのが死ぬほど嫌いだってことも知ってた。
あいつね、あたしを不幸にすることが嬉しかったのよ」
「カ、カヲル君はそんな人じゃないよ!」
僕は思わず大声を出した。
けれどアスカは淡々と続けた。
「知ってるわ。あいつはね、人を傷つけてる自分を醒めた目で眺めて自嘲してるのよ。
だからカヲルのこと憎かった。憎くなるほど抱かれたいと思った。馬鹿だよね」
「...」
「喧嘩した日はいつもカヲルの部屋に転がり込んでセックスしてた。やりまくってたよ。
朝までやりっぱなしなんてしょっちゅうだったもん」
「...」
「体だけ抱かれてるんだって思うとね、自虐的になって頭が真っ白になって馬鹿になっちゃうの。
でもね、...その瞬間はとても気持ちよかった」
「だからって、そんな」
「カヲルがよく言ってたの。『僕達は馬鹿なことしてるんじゃないのかい』って。
好きでもない人間の感傷につきあって...誰も愛せないんだって自分で自分を責めてたんだと思う」
「誰もって、...カヲル君はあんなに優しかったじゃないか」
「あんたにはね。...ひょっとして...」
「ひょっとして?」
「案外カヲルが好きだったのって、あんただったのかもね」
「僕?」
アスカは天井を見上げて大きく息をすった。
そして激しく咳き込んだ。
僕はカラカラに喉が渇くのを感じた。
「だったらどうして僕なんかと?...」
「あんたはあたしのこと何も判ってないし、不器用で人の愛し方も知らないけど、いつもあたしのことばかり見てたもの。
カヲルとは正反対だったよね」
「じゃあ、アスカは僕のこと...」
「違うよ、あたしあんたのこと好きだったよ。これは誓ってもいい」
「だって」
「でもシンジが期待してるのとは違う好きかもしれない。
ねえシンジさ、人間ってね、一度本気で人を好きになったら多分同じように人を好きになることなんて二度とできないのよ。
神様はね、...きっと誰かを好きになる気持ちは同じ量しか与えてくれないのよ。使っちゃったらもう終わりなのよ」
「じゃあ僕のことなんか...」
「あたし、あの頃もう限界だったのよ。体だけでも良いって思ったけどそんなに強くなかった。
毎日石みたいに何も感じない心が欲しいって思ってた。だからシンジか好きだって言ってくれたとき嬉しかった。
だからOKって言ったの。...まだあのときのこと覚えてくれてる?」
「あ、当たり前だろ」
「きっとね、あたしは愛されたかったんだよ。あたしだけを見てくれる人が欲しかったのよ」
アスカはニコリと笑った。
そして僕の頬を右手で撫でながら言った。
「あたしはね、酷い人間なんだよ。あたしの体の中にはドロドロした汚い感情が沢山つまってるの。
いつもシンジをあたしだけのものにしておきたいと思った。あんたがカヲルにしたこと、わざと知らない振りしてた」
「...」
「本当はね、あたしも同じことやってたんだ。
いっそのことカヲルが死んでくれればあたし何も感じなくて済むだろうって。
そしてあいつが死んでもまだあたしの中に悲しいと思う気持ちが残ってたら...
あたしも死んでやろうって。...無理心中だよね」
「...」
「でもあんたがあたしに好きだって言ってくれて気持ちが変った。あたしのためにカヲルに嫉妬してくれたんでしょ。
このまま秘密にしておけばあんた自分のせいだって悩み続けて、あたしのことしか考えられなくなると思った」
僕は身を乗り出してアスカに詰め寄ろうとした。
その瞬間ドアをノックする音が聞こえて看護婦さんが入ってきた。
彼女は笑顔でおはようございますと言うと、僕にはお構いなしにアスカの体調を調べ始めた。
僕はぼんやりと窓の外に咲き誇る桜の樹を眺めた。
看護婦さんは5分くらいで出ていった。
その後僕はさっきの話を問い直す気にはなれなかった。
というより言葉がなにも出てこなかった。
口を開いたのはアスカの方だった。
彼女はうつむいて前髪を垂らしたまま、横目で僕を見るとまた視線を逸らして言った。
「あんたあの時あたしを好きになったこと後悔しないって言ったよね」
「...言った」
「だからあたしはおまじないをかけるの。あんたが一生あたし以外の誰も愛せなくなるように、って」
「え?」
「ねえ、窓から桜が見えるでしょ。
あんたは桜を見るたびにあたしのことを思い出すの。
そしてあたしを好きだって言ったことを思い出すの。
そして他の人を愛せなくなるの。
きっとそう思うの」
「どうしてそうなるって判るんだよ」
「あたしのおまじない、効くよ」
アスカは優しく笑った。
それは今まで一度も見たこともないような柔らかい微笑みだった。
鳥肌がたつほど綺麗だと思った。
そして僕はアスカのこの笑顔を見るために生まれてきたんだ、そう思った。
胸に何かが込み上げてきた。
それは口では言えないくらい、とてもとても甘くて、そして切ない気持ちだった。
「あんたはあたし以外の誰も愛せなくなる。きっとよ」
もう一度アスカは言った。
「桜の樹の下には屍体が埋まってる、って聞いたことがある?」
「うん、...高校の頃何かで読んだ気がする」
「桜ってね、屍体から養分を吸い取るんだよ。だからあんなに綺麗なの。知ってた?」
「ううん」
「あんた昔、あたしのこと綺麗だって言ってくれたわよね。でもきっと本当のあたしは屍体の部分なんだよ」
「な、何言ってるんだよ、アスカ」
「ねえ、シンジ、あんた薬を捨てたよね。カヲルが最後に言ってたよ。『これでシンジ君は僕のことを忘れないよね』って」
「...カヲル君も...知ってたんだ」
「ねえ、あたしあんたのこと好きだったのかな、それとも...憎いのかな?」
「アスカ!」
「人間ってさ、どうして愛されないと悲しいんだろう?」
「...」
「あたし...愛されたかったな。すごく、すごく、愛されたかったな」
「...」
「ねえシンジ、...桜を見たら絶対あたしのことを思い出して」
顔を伏せたアスカの目からは涙がとめどなく流れベッドに落ちた。
うめくような泣き声はやがて鳴咽に変った。
そして小さな声で、シンジごめんね、シンジごめんね、と何度も何度も呟いた。
窓の外を見ると日差しに照らされた桜の花が風にふかれてちらちらと舞っていた。
考えてみれば僕の人生にはアスカとカヲル君以外に心を揺さ振られるものは何も無かった。
そしてアスカと今こうして一緒にいる僕は世界一幸せで、そしてこれからはその幸せを反芻して生きてゆくんだと思った。
アスカがカヲル君と同じようにベッドから忽然と消えたのはその翌日だった。
あれからもう3年も経つ。
春の日の日差しは柔らかくて風は生暖かかった。
僕はコンビニのアルバイトで生活している。
アスカが消えた次の朝、僕は逆上して病院の院長のところに殴り込んだ。
アスカを返せと叫びながら院長を殴り続けた。
いつの間にか取り押さえられたらしいけれど、そのあとの記憶は無かった。
ただ後から後から流れ出る涙が頬をボタボタ落ちて止まらなかったことしか覚えていない。
本当だったら会社を首にされても仕方がないようなことだった。
だけど不思議なことに、会社はおろか警察にも通報されなかった。
ひょっとしたらネルフに握り潰されたのかもしれない。
だけど僕は自分から会社を辞めた。
もう何もせずに、何も考えずに、そして何も感じずに生きたいと思った。
アスカが僕にかけたおまじないは本物だった。
散って、そして地に落ちる桜の花びら。
でも来年も、そしてその次の年も、ずっとずっと同じように桜は咲き、そして散り続けるだろう。
全ては流れてゆく。
僕と、桜だけは変らない。
今はくる日もくる日も心に焼きついたアスカの姿を思い出して毎日を過ごしている。
『桜の樹木の下には屍体が埋まっている』
咲き誇る桜の樹を見るたび何かが埋まってるんじゃないかと掘り起こしたい衝動に駆られる。
僕は...。
僕は一体どこにいるんだろう。
僕は一体どこにゆくんだろう。
風が吹いた。
舞い散る桜の花びらが嵐のように僕を取り巻いて何も見えなかった。
僕は目眩を覚えて、いつまでもいつまでも、永遠のような時間をただそこに立ち尽くしていた。
FIN