空気と戦う男




空気と戦う男

君達は目の前の空間に何かあると思うだろうか?。
とはいえ、何もないとしたら大変なこと。血液沸騰するくらいでは済みませんから。
じゃあ、何があるのだろう?。
それは、空が青いのと関係がある。パッと見では目の前の空間には何もないだろう。
何もないからこそ、人類は精神の安定が保てるのだ。提灯アンコウのように目の前に
機能の知れない物が始終目の前に垂れ下がっていたらストレス過多の現代人は
我慢ならなくなる。恐らく世界資産ランクに整形外科医の名が並ぶだろう。
もしくは、提灯自殺者過去最高の5000人を突破。等と誌上を賑わす事は明白。
凶悪犯罪を犯す少年が前髪を上げていればと、思ったりもしたものだ。
さて、アンコウと言えば魚、人が魚になれる手近な手段である水泳をしていると、
地球の物理法則を不思議に思いませんか?。水中では目の前に水があり、
我が国の首都に隣接する東京湾に行けば有り難いほどその存在を痛感する。
なのに、通常生活では目の前には何もない。手を目の前でパタパタさせても
感触と言えるものは何もないし、見える物もない。
ではここには何もないのだろうか?。
そんな事に疑問を持った一人の少年がいた。年は4歳になったばかりの少年が。
彼は息をすると膨らみ、吐くと萎む自らの腹部を母に誇示しながら尋ねた。
「お腹いっぱい。でも、すぐ無くなっちゃう。なんで?」
それが、空気というものを彼が初めて知った時の問だ。
それ以来、彼はその無形の物に興味を持った。
いつからだろう、それを捕まえたいと彼が思い始めたのは。
試行錯誤、子供の脳で空気を捕らえる案を次々と考え、実行しては挫折を繰り返した。
年と共に知識が付き、実験がエスカレートしていくに連れ、周りの目も
冷ややかなものに変わったが、彼は気にすることなく空気を追い求めた。
そんな彼の記憶の中でも特に思い出深いのは11歳のある日の出来事。
彼が妹の潤子とお風呂に入っていた時、妹が水中で何かを押さえるような仕草をしたのだ。
それだけなら特に気にすることではなかったのだが、恒例の肩まで浸かって100数え
の儀式が終わってもその体勢を解こうとしない。問いただしてもすぐ出るから先に出て
いいよと言って聞かなかった。いつもは湯船に浸かるのを嫌がるのにおかしい。
よくよく妹の顔を見ると顔が真っ赤だった。仕方ないな、潤子の奴のぼせたのかと思い、
彼は妹の二の腕を掴んで、浴槽から出してやろうと力を込めた。
多少の抵抗を受けたが、兄の力にか細い淳子の腕は勝てるはずもない。
彼女の手から天然ガスの小さな気泡が解放され、水面で弾けた。
だがその光景を見た彼の脳の中は、覆っていた暗雲を核実験場でインパクトがあった
瞬間のように、新しいアイディアを霞ませていた雲を飛散させていた。
妹が顔を真っ赤にしてべそをかいていたのも構わず湯船に飛び込み下腹に力を込める。
涙の浮かぶ潤子の瞳が兄の奇怪な行動を見つめる中、彼は必死にガスを出そうと気張った。
洗面器を使えば良かった、彼は改良策が存在する雲まで吹き飛ばしたのが悲劇の始まり。
潤子の目に飛び込んできたのは気泡ではなく、褐色の物体。言わずとも知れるであろう
【それ】が水面に浮かび上がってきた時、潤子は思考を巡らすまで寸刻の時を要した。
そして、その瞬間に立ち会った知的生命体の執る道は、衆目一致するところであろう。
「おかあさん!おかあさーん!!。おにーちゃんがぁ!!」
体も拭かず、アッという間に脱衣所の向こうに消えた妹を見て、事の重大さに気付く。
彼は急ぎ証拠を隠滅しようと、妹が作った波で舞う【それ】を手にした時、
母とその陰に隠れてこちらを窺う潤子が視界に飛び込む。
あの時の母と妹は、国境警備兵の前に立つ難民のように虚ろな瞳で佇み・・・。
沈黙に耐えかねた彼は、濡れた髪から水滴が滴っていた妹に一言こう言ったのだ、
潤子、体拭かないと風邪ひいちゃうよ、と。
手に握った醜い物とは裏腹な、
兄の慈愛に満ちた笑顔に載せた言葉に対する母の言葉は冷たかった。
「薬が必要なのは祐作、あんたよ」
酷い親だと思わないか?。崇高な探求心に準じた我が子を病人扱いするなんて。
その節を語り終わると今までしんとしていた会場から笑い声が起きる。
そして、壇上の男は手でそのざわめきを征すると、再びマイクに口を寄せた。
「それでも彼がその姿勢、初心を貫き通した事が大事なのです。そして、最初に自分の
 目の前を手探りした瞬間こそ、彼の人生の中で最も尊ぶべき一瞬。
 キチガイ寸前の息子を時には厳しくも見守ってくれた両親の元で産声をあげられた
 事が彼の人生の中で最も幸福な一瞬。そして彼の最も光輝な一瞬は、今。
 この感激を私に与えてくれた全ての人に、ありがとう」
白髪混じりの50代半ばの男が壇上で礼をすると、会場から拍手が沸きおこった。
そして、舞台袖から一人の女性が彼に近づき、盾を手渡す。
その盾にはNovel prizesと刻印されていた。
それは宇宙船におけるライフスペースの大気分野において、非常に高効率な
システムを確立した彼、澤崎 祐作の功績を讃えて贈られた物である。
彼は唯一のネックであった宇宙空間での酸素の補給を、酸素濃度が極めて低い大気と
星間物質から57%もの酸素を生成できるシステムを確立した。それにより人類の
月移民計画の大きな一歩に繋がったのだ。だが、彼が提唱するウォータウォール方式による
ライフスペースには僅かな質量損失が確認されている。
それは彼が空気をその手にはしていない事を意味していた。
空気と戦う男の飽くなき挑戦は今も続いている。

(終)

 




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