そっと添えられた少女の手は温かく、

 苦果を喰らう少年の痛みをゆっくりと和らげる。

 

 少女は、私を見て、と言う。

 少年は暗闇から、亡母を見つめる。

 

 すべてが偽りであっても、今はかまわない。

 正しいというだけでは、生きてはいけない。

 

 


 

 少女、少年  <第十話>

 


 

 

『こんばんは。お久しぶりです。ヒカリです。

 覚えてくれてますよね?(汗

 

 アスカは元気ですか?私は元気にやってます。

 相田君からアスカのアドレスを聞いたので、メール書いてます。

 

 最初相田君からアスカの話を聞いたときは驚きました。

 でも、元気そうで何よりです。

 

 私とトウジの事は知ってますよね?相田君が話したと言っていました。

 私は今は、三歳になる女の子の母親です。旦那はかなりの親ばかです。

 あ、それにもうすぐ二人目が出来るんです。

 私も旦那も子供好きなので、すごく楽しみ。目標は5人家族です!(^^)/

 

 アスカは日本には帰ってくる機会はないのでしょうか?

 もし日本に来ることがあるなら、私とトウジの店に遊びに来てください。

 "明日菜"と言う名前の喫茶店です。娘の名前から取りました。

 えへへ、私も親ばかです(^^;

 

 相田君も、シンジ君も、レイちゃんも皆元気にやってます。

 皆アスカに会いたいと思います。日本に来ることは出来ないのですか?

 それとも私たちが会いに行けば、相田くんみたいにアスカに会えるのかな?

 

 あぁ、書きたいこと沢山あるんだけど何書いて良いか分からない。

 短いけどひとまずメール出しますね。あぁ、返事楽しみ!

 

 アスカの近況も教えてください。

 じゃ、待ってます。

 

 鈴原ヒカリ&馬鹿トウジ

 

 P.S

  絶対、返事ちょうだいね!』

 

 

「そんな距離、か・・・、」

 

 小さな声が、部屋に響いた。

 

 


 

 

 慌ただしい朝の雑踏の中を、鈴原トウジはゆっくりと感触を確かめるように歩いてゆく。

 

 

 鈍く霞むビルの反射光が縦横無尽に世界を照らし、怏々と茂る街路樹と赤茶けたガード

レールの錆がやけに浮ついた印象を与えている。

 復興と騒がれた10年は、もう終わろうとしている。

 

 やけに多くなった建物と人、そして車。

 終わらない叫声と、ひずんでゆくアスファルト。

 自分たちが知らない旧世紀、その100年への帰依。

 

 この街の中心は、恐ろしいスピードで全てを取り戻そうとしている。

 世界の果て、あの目を背けたくなるような世界の終わりで、黒い手に撫でられた人々は、

今は振り向くことを忘れたかのように走り続けている。

 

 

 トウジは信号待ちのトラックが吐き出す黒煙の傍らを、何時と何も変わることもなく抜

けていく。

 割り込みを繰り返すタクシーを、クラクションの音が追う。

 低い高度を飛ぶジェット機の、くぐもった爆音が空を押さえつけている。

 

 

 日常は大きな変化を見せることはない。

 学生というモラトリアムを抜ければ、気がつけば社会が自分を取り込んでいる。結婚を

終えれば、自分の人生の大きな節目はもう遠く先にしかないだろう。

 社会が定期的に次のステップを用意してくれる、そういった事はもう無い。

 

 だが日常が繰り返されれば、それは深度を増していく。家族を得ればなおさらで、寧ろ

大きな変化を望まない様になる。

 保守的と罵る声は、大切な物の前では全て無意味だろう。得た物の大きさは、得た人間

にしか分からない。

 今より大切な物がない、と思えれば、それは十分すぎるほどに幸せなのだ。

 出来すぎた物語の登場を待つほど、自分は愚かではない。

 

 トウジはゆっくりと漂う思考の向こう側に自分達の店を見つけて、少し歩く速度を上げ

た。

 

 

 カラン、と鳴る扉を押して、トウジは『明日菜』の入り口を抜けた。

 カウンターでは朝の準備を続けるヒカリの後ろ姿が見える。

 

「保育園行ってきたで、来月の頭に参観日ある言うとったわ。」

 

 トウジは買い物袋から、いくつかの食材をカウンター越しに置いていく。

 ヒカリはそれを受け取りながら、手際よくいつもの場所にそれを並べていく。手慣れた

その動きも、今日よりも明日、明日よりも明後日と深度を増していくのだろう。

 

 ヒカリはカウンターの向こうで、グラスに適当に氷とガムシロップを放り込み、作り置

きのアイスコーヒーを流し込んで、数回マドラーで回した。そして、それをカウンターの

向こうで汗を拭っているトウジの前に置いた。

 

「今度も日曜日?だったら休みにして行けるわね。」

 

 ヒカリが大きな冷蔵庫に張ってあるカレンダーをのぞき込みながら、トウジの言葉に応

えた。

 トウジも、カウンター越しにカレンダーをのぞき見る。

 

「あぁ、日曜日やな。まぁ、参観日を平日にやられたら、客あつまらんわな。」

 

 トウジの"客"という言葉に苦笑しながら、ヒカリは再び朝の準備を再会する。

 

 トウジはヒカリの入れてくれたアイスコーヒーを呷りながら、カウンターに腰掛けた。

 そして小さくため息をついて、少し体を後ろ向きに反らして延ばした。背中と首筋が僅

かに痛むのが、逆に気持ちよかった。

 

「ん、『You'd Be So Nice to Come Home To』か?これ。」

 

 トウジは店の中に流れる何時もと違う音楽に気がついて、背中を向けているヒカリにそ

う訪ねた。

 

「え、あ、そうか、今はそうね。今日はちょっと気分を変えてジャズチャンネルなのよ。

でも、トウジがジャズの曲を知ってるとは以外。ジャズなんて全然駄目だと思ってた。」

 

 ヒカリが振り向かずに答える。

 

「おまえなぁ、ワシは若い頃はコレでも音楽でブイブイ言わせとったんやで。ジャズでも

有名な曲ぐらいやったらわかるわ。後はお前、えっと『A列車で行こう』やろ、『枯葉』

やろ、『テイクファイブ』やろ、色々しっとるで。まぁ、えっと、これぐらいで今日は勘

弁したるけどな。」

 

「有名なのばっかりじゃない、ほんとに。でも、私も詳しい訳じゃないけど。店始まるま

での時間、たまには良いかなぁ、と思っただけだしね。」

 

「ええ曲やな。ちょっと色々気になるけどな。」

 

 トウジは首をゆっくりと回しながら、ぽんぽんと自分の肩口あたりを叩いた。特別に肩

がこっているわけではないが、持て余した時間を消費するために建設的な行動を選択した

ら、自然とそういった動きになった。

 

「ところでや、昨日はおそうまで色々やっとったみたいやけど、メールかいたんか?」

 

 トウジは一通り体を動かした後、改めて、という感じでヒカリに問うた。

 

「うん、書いたわよ。ちょっと時間かかったけどね。」

 

 ヒカリは作業を続けながら、さらりと答えた。

 淡泊に受け流したヒカリのその様子に、トウジは少し苦い笑いを浮かべたが、少なくと

も前に進んでる事を好意的に受け止めることを選択した。

 

「返事来るとええけどな。あ、ワシのことええように書いてくれたか?このダンディズム

あふれる感じっちゅうのを、ビシっとやで。こう、や、こんな感じやで!」

 

 トウジは右手の親指と人差し指で"ピストル"の形を作り、それを顎の下に持ってきて、

精一杯鋭くなる様に努力した目元で、意味不明のウインクを飛ばして見せた。

 

「馬鹿は何時までも馬鹿です。って書いたわ。以上。」

 

 ヒカリは一瞥した後、あきれ顔でそう答えて、さっくしとトウジを置き去りにした。

 

「馬鹿っちゅうのは何や、馬鹿っちゅうのは。ワシのにじみ出るような渋さっちゅうのは

今世の中を接見しつつあるんやで。いや、まじで。ほんまや、今日あたり凄いことになっ

てるんや。」

 

 意味が不明で、鼻息が荒い。

 お客さんだったら退店をお願いするだろう。

 

「はいはい。ダンディズムでも、タンゴのリズムでどうでも良いわよ。それより、私が産

休取る間、店どうするか決めた?」

 

 ヒカリは遠くに行こうとするトウジを呆気ないほどに無視して、全く別の話題を提供す

ることにした。

 

「あぁ、ん、店のことか?うーん、やっぱドリンクだけで、店やるしか無いやろ。カレー

とかサンドイッチとかの軽食も止めるかどうかはちょっと考えるけどな。」

 

「またレイちゃんにヘルプお願いする?」

 

「いや、そりゃ止めといたほうがええやろ。手伝ってもろたとしても、土日だけやろ?あ

んまし客が多い日でもないし、休みに出てきてもらうんは悪いわ。前の時は、わしらも初

めてでバタバタしとって要領とか、ようわからんかったからな。それにあの頃とちごうて

レイのやつも旦那おるし、独り身で気ぃ楽っちゅう訳でもないやろ。シンジにも悪いわ。」

 

 トウジはそう答えると、グラスをカウンターの奥に返した。そして、新しいグラスに水

を注いで、カウンターの端に置いてあるレモンスライスのケースから、レモンのヘタを取

りだしそれに絞った。

 ゆっくりと黄色い果汁が何もない色に混ざって、何もない色に消えていった。

 

「そうね、その方がいいわよね。常連さんには予め話しておけば良いだろうし、軽食は無

理してやらなくても良いと思うわ。あ、トーストぐらいはOKかもしれないけど。」

 

「そやなぁ、でも、やっぱ食い物なかったら売り上げ落ちるからなぁ。ま、そこまで困っ

とりゃせんのやし、ええかの。まぁ、店の心配は二の次や。それより、な、次は男の子や

ろか?」

 

 トウジは少しカウンターの中に体を乗り出しながら、嬉しそうにそう口にした。

 ヒカリは最後の野菜を切り終えて、それをボールにいれてラップをかけた後、ため息を

吐きつつも、こちらも満更ではない表情でトウジの前にやってきた。そして、トウジが飲

んでいた水のグラスを取って、それを煽った。

 

「あのねぇ、調べる?って聞いたら『あほか、そないなこと出来るわけないやろ。看護婦

さんに性別教えて貰う瞬間の醍醐味をワシから奪うっちゅうんか!』って大声で叫んでい

たのは何処の誰?」

 

「何言うとんねん。それとコレは別や。この今のワクワクも大切やねんで。」

 

「はいはい、で、男の子を所望なさっておられるわけですか?」

 

 ヒカリはそんな自分の亭主を可愛いと感じつつも、あえて少しばかり呆れた様子でそう

口にした。

 

「一人目は女の子やったからな。次は男っちゅうのが順番やろ。まぁ、ほんとは性別なん

かどうでもええねんけどな。元気な子供やったら、それだけで万々歳や。ホントはそれ以

前に、お前の体が一番大切やけどな。」

 

 トウジは最後の部分で少し顔を赤らめながら、それでも詰まることなく言葉を紡ぎ終え

た。

 

「最後が取って付けたみたいだけど・・・、でも、いっか。今日は許しておいてあげる。」

 

 ヒカリは優しく微笑みながら、トウジに言葉を返した。

 店が開く少し前の時間の、使い道のない僅かな時間がたおやかに埋まったことも、ヒカ

リにとっては少し楽しかった。

 そして、トウジの作ったグラスを最後まで一気に煽った。

 

 トウジもそんなヒカリとの空気の心地よさに身を置いていたが、正真正銘後少しで店を

開く、という時間を前にして、突然小さな焦燥感に気持ちをつかれて、また口を開いた。

 それは頭の中に引っかかる、嫌な思考の、曖昧な形だった。

 

「なぁ、ヒカリ?惣流のやつのメール、子供のこと書いたんか?」

 

 ヒカリは、少しだけ眉をひそめて怪訝な表情で、トウジの目をのぞき込んだ。

 

「二人目の話?それとも『明日菜』のこと?」

 

「いいや、ちゃう。惣流の、子供の話や。」

 

 ヒカリは明らかに不快な表情を前面に押し出し、重く暗いため息を吐いた。

 

「あのね、書くわけ無いでしょ、そんなこと。ちょっと考えたら分かることでしょ、そん

なの、」

 

「ん、そうやな、そうや。いや、ちょっと嫌な事考えてもうて。あかんな、こんなん考え

るん嫌や、って自分で言うとうのに・・・。すまん、忘れてくれ。」

 

 ヒカリは後頭部あたりをぽりぽりかくトウジの姿を真っ直ぐに見つめて、自分の中の感

情の整理を行うことにした。そして暫くそうやってトウジを見つめていた後、間違いなく

二人が共有しているだろう不安を口にすることにした。

 たとえ不毛でも、一度二人の間だけで消費しておいても構わないかも知れない、と考え

たからだ。

 

「アスカの子供が、シンジ君の子供かも知れない。とか考えてるんでしょ?」

 

 ヒカリのその言葉を受けて、トウジも思いため息を吐いて、右手で軽く目元をさすった。

 その沈黙が答えだった。

 

「あのねぇ、幾らなんでも、それは無理があるでしょ?ふたりは当時は中学生よ?それか

らアスカは本国に帰って、おなかの中の赤ちゃんを育てた、って言うの?B級ドラマじゃ

ないのよ?現実はもっとサラリとしてるわ。」

 

「まったく可能性がゼロでも無いやろ。中学生でもSEX出来るやろが、」

 

 トウジは重く、そして渋く答えた。

 その答えは、自分の言葉の嫌悪感に自分自身が耐えながら、という感じだった。

 

「それはトウジの嫌いな仮定の話でしょ。それに私たちが興味本位で口にすることじゃな

いわよ。まぁ、トウジも分かってて、あえて嫌な選択も口にしてるんだと思うけどね。は

い、もう下らないこと考えてないで、さっさとモーニングの看板出してきて。そろそろ店

あけるわよ。」

 

 ヒカリは最後の部分に力を入れて、元気な部分を表に押し出して言葉を終わらせた。

 

「あぁ、そやな。すまんかった。」

 

 トウジはヒカリの言葉にそう短く答えて、席から立ち上がった。

 気持ちよかった朝を、少しばかり台無しにしたことをヒカリに詫びる様な気持ちで。

 

 

 モーニングの看板を持って店の外に出たトウジに、突き刺さるような太陽の光が降り注

ぐ。

 

 本当の夏が去っても、夏は終わらない。

 10年前の、あの時と同じように。


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挿話1へつづく


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