ゆっくりと首を擡げた少女の肢体に体を沈めながら、少年は哭いた。
頬を伝う思いの粒が少女の頬で弾けて、それは儚げな虹色を作った。
引き剥がされてゆく今とその狭間の気配が、二人をただ苦しめ
少年は女を、少女は男を知った。
少女、少年 <第二話>
「もうちょっと待ってね。診断結果が出たら今日はもう終わりだから。」
マヤはレイにそう声をかけながら、コンソールを叩いていた。
レイはマヤの隣の事務椅子に腰掛け、心配そうな顔でマヤの動きを追っている。
組織改編されたネルフにおいても、オペレーターとして勤務しているマヤは、レイの定
期検診に携わる役目も担当している。
定期検診と言っても実際にドクターがレイの体を診断するわけではなく、観測医療機器
群が集めたデータをMAGIが収集分析、何らかの問題が生じた場合に、ネルフ直営の医
療センターが対処を行うというシステムが取られていた。
これはレイそのものがトップシークレットであり、またMAGI以外がレイという存在
に対して正確な判断を下せないという事実に起因している。が、実際の所、所員の健康管
理については皆この方法が採られており、人員削除と高効率化の結果とも言え、決して特
別なことではないとも言える。
「あ、またそんな顔して。ほんと、全然心配いらないわよ。」
マヤは優しげな笑みを浮かべ、こわばった顔のレイを解そうとしている。
そして数秒後にはコンソールに様々な分析結果が表示され、マヤはそれに目を通しなが
ら、ウンウンと自己完結しながら頷いていた。
「大丈夫なのでしょうか?青葉博士。」
マヤはレイのその問いに指で丸印を作って見せた。
レイはそれを見て安堵の表情を浮かべる。
「全然OKね。先月と特に変わった様子は無いわ。まぁ、LCLの副作用も実際の所レイ
ちゃんの場合で起こる可能性は1%以下とMAGIも診断してるから、殆ど心配すること
は無いのでしょうけど、念には念を入れてやってることだから。」
マヤはウィンドウを一通り閉じて、レイの方に体を向けた。
青葉マヤ。数少ないオリジナルMAGIオペレーターの一人である。
組織改編時、多くの旧ネルフ職員は様々な形で民間企業へと天下っていったが、
MAGIシステムオペレーターの多くは高額の報酬が保証され、その多くは新体制となっ
たネルフにも席を置き続けている。青葉マヤ、青葉シゲル、日向マコトの三名もその例に
漏れず新ネルフに在籍しており、様々な形でのMAGI運用のサポートを行っている。
「今日はお終いね。あしたは、昼からで良いから。今日はシンジ君と待ち合わせしてるん
でしょ。明日はゆっくりしてから来ていいわよ。」
マヤは少し楽しそうに、そして嬉しそうにそう口にして、ごそごそと机から透明の液体
が入った小瓶を取り出した。
瓶のラベルには小さく「今週のびっくりどっきりメカ」と意味不明のタイトルがふって
ある。
「うふふ、これは先輩直伝の特別調整薬の原液なの。一応実験結果では、無味無臭効果覿
面無害絶倫よ。レイちゃんの悩みを解消できると思うわ。」
そう言ってマヤは小瓶をレイに握らせた。その瞳には、故リツコの魂が見え隠れしてい
るような気がするが、それは気のせいだろうか?
「私が飲むのですか?」
レイは少し頬を赤らめながら小声でそう問うた。
「いいえ、シンジ君の食事とか飲み物とかに内緒で混ぜるといいと思うわ。一応この小瓶
で10回分はいけるから、少しずつ使いなさいね。東洋医学の粋を実感できるはずよ。」
マヤは本当に嬉しそうに言葉を並べて、レイの目の前で握り拳を握って見せた。シゲル
も大変だろう。女性は結婚すると変わるモノだ。
「ありがとうございます。明日結果を報告できると思います。」
レイはそう言って小瓶を肩からかけるポーチの中に入れた。早速今晩試すことだろう。
かなり嬉しそうである。
その後、レイはマヤから”奥さん”の先輩としての幾つかの御教授を受けた後、シンジ
との待ち合わせ時間から移動時間を逆算して、マヤと別れネルフを後にした。
ネルフの建物から外に出ると、辺りにはすっかりと夕刻の闇が降りてきていた。
レイは鼻歌交じりで白のワンピースを踊らせながら、駅方面へと向かう側のバス停へと
向かって歩いていった。
第三新東京新駅のバスターミナルには、シンジが待っているはずである。
「何の話をするつもり?」
明日の仕込みをしながらヒカリは、膝の上で小さな寝息を立てて眠る明日菜の髪の毛を
撫でているケンスケに、そう声をかけた。
ケンスケはちょっとだけ苦虫をかみ砕いたような表情を見せた後、目線を上げてヒカリ
の表情を伺いながら口を開いた。
「やっぱり気になる?」
口調こそいつものモノだったが、何処か沈んだ印象を与える響きが含まれていた。
「そりゃ、ね。相田も聞いて欲しくて、私の前で碇君にああ言ったんでしょ。」
ヒカリは仕込みの手を休めることなく、そう答えた。
「買い被りすぎだなぁ。ちょっと迂闊だったと後悔してる所なのに。」
「嘘はうまくつきなさい。多分、3人の中であんたが一番馬鹿よ。」
「耳が痛いよ。十分にそれは承知してるつもりだけど、トウジとは五分ぐらいだと思うけ
どなぁ。」
ケンスケは少しお茶らけた感じでそう口にして、ぬるくなった水を口に運んだ。
「この前の仕事、ドイツだったんだよ。そこで古い知り合いに会ってきた。」
一転、ケンスケの言葉が重くなった。
「アスカ、の事?」
ヒカリの手が止まり、視線の先がケンスケの唇に移る。
「本当は会うつもりはなかったんだけど、ドイツに着いた途端、どうしても、ね。何だろ
うなぁ、自分でも分からなかったんだけど知りたかったんだと思うよ。俺たちはどうやっ
て此処まで歩いてきたか、って。俺が見てきた10年と、見えなかった10年を確かめた
かったのかな?理由を考えるともっともらしいけど、本当はやっと勇気が出来たって事か
も知れない。何が起こってても、まっすぐ見る事が出来そうな歳になったからな。」
「どうやって、連絡取ったの?」
もうヒカリは完全に、仕込みの為の動きを放棄している。
「殆ど何も考えないで、ドイツのネルフ支部に直接会いに行ったよ。そこで、旧セカンド
チルドレンが今どこで何をしてるのか確かめた。俺らの耳にはネルフを離れた、って聞か
されてたからね。『トップシークレットだ』、って押し問答になって『碇シンジが会いに
来たんだ、教えろ!』って言ったら、扉の向こうから惣流が出てきたよ。『もっとましな
嘘を吐きなさい』ってね。」
ケンスケは苦笑を浮かべた後、一息入れてまた水を口元に運ぶ。
「正直今もネルフの人間なのではないかと在る程度は予想してたけど、本当に出会えると
も、本人がいきなり登場するとも思ってなかった。そして、10分間だけ立ち話。何で此
処で話を聞いてるのがシンジじゃなく俺なんだろう、と、その間何度も思ったけどね。」
そう言ってケンスケは、右の口元を器用に上げて、困った表情を作って見せた。
「何話したの?アスカ、元気だった?」
「元気だったと思う。多分、そう見えたと思う。何話したかな、ほんと大半は取り留めも
ないことだよ。こっちはヒカリとトウジが結婚した、シンジとレイが結婚したとか、大き
な事だけ伝えた。」
「アスカは、ネルフで今は何してるの?何でネルフを離れたって嘘を私たちは聞かされて
たの?」
「今はドイツ支部でMAGIに変わる次世代コンピュータの研究開発に携わっていると言
ってた。それなりに充実してるって言ってた。あ、びっくりするほど美人だったぜ。レイ
と対局に位置する美人だと思う。想像通りでちょっと嬉しかった。後、後ろ側の質問は幾
らでも想像できるけど本当のところは分からない。本人にも聞いてない。」
「そっ、か。でも、元気でやってるんだね。それだけで、少し嬉しい。」
ヒカリの目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「後、惣流は子供が居るって言ってた。これが一番驚いたんだけどね。結婚してるのか聞
いたんだけど、それはしてないって。未婚の母だって言ってた。相手とはとっくの昔に別
れた、ってね。さすが、そっから先は聞けなかった。その辺でタイムオーバー。最後に惣
流がメアドだけメモしてくれたよ。」
そう言ってケンスケは財布から名詞を一枚引き出して、カウンターの上に裏側にして置
いた。そこには、メールアドレスが書き込まれていた。
「直ぐには言えない、のね。」
「ああ、言えないよ。シンジの思いを確かめないと、シンジには何も伝えることが出来な
い。惣流には悪いけど、俺はレイとのつき合いの方が長いからな。何なら全部忘れてもか
まわない。」
「そうね、その方が良いと思う。10年かけて造ったから・・・。アスカには悪いけど、
私も今の方が大事だと思う。」
ケンスケは小さく頷いた。
「本当は後悔してるんだよな、会いに行ったこと。会うまではそんなこと無かったんだけ
ど、帰り際にね。何しに来たんだろうとか、そういうことばかり思った。俺だけ、10年
前を吹っ切れないのかも知れないな、第三者だったから余計に。」
「いつも人のことばかり考えて、人の事ばかり支えてる。本当に損な性格ね。」
「馬鹿だからね。」
「十分に分かってるじゃない。」
ヒカリはそう言ってたおやかな笑みを浮かべた。ケンスケはそれを見て少し照れながら、
わざとらしくため息を付いて見せた。
「私に話してくれたのは予行演習?」
ヒカリは、優しくそう問いかけた。
「そうだ、な。自信ないんだよ、結構。どうやって切りだそうか、と、そんなことばかり
考えてる。ま、それはこっちで何とかやるよ。首つっこんじゃってるからね。それより、
もし良かったら惣流にメールだしてやってよ。シンジとレイとヒカリには権利があると思
うから。」
「相田は?」
「俺はいいわ。十分10年前には会ってきた。明日シンジと話して、それでこれは終わり
にするよ。週明けからまた海外だし、忙しくなったら全部忘れちゃうからね、ほんと馬鹿
だから。ま、ヒカリにはなせて良かったよ。ちょっと勇気出てきた。」
ケンスケは、優しげに笑って、明日菜の頬をぷにぷにと押してた。
「可愛いね、明日菜ちゃん。」
「うん、私とトウジの想いの固まりだからね。」
「そっか、じゃ今日は行くよ。明日は決戦だからね。」
ケンスケはそう言うと明日菜を抱いたまま席を立ち、明日菜をヒカリの胸に預けた。
窓の外に見える景色は、完全に闇にとけ込んでいる。
「頑張って。相田、本当はいい男なのにね、何で彼女出来ないのかな?」
ヒカリは明日菜を受け取りながら、そう言って笑みを浮かべて見せた。
ケンスケはハンドバックを小脇に抱えて、無言でそれに笑みを返して見せて、店を後に
した。思っていたよりも少しだけ、外は肌寒かった。
ケンスケは店の前に止めてある原付バイクから取り出したジェット型のヘルメットをか
ぶり、そのバイクのエンジンをかけた。パパパっと小さめのエンジン音がして小さな振動
が伝わってくる。
ケンスケはゆっくりとバイクを出しマンションへの帰路についた。そして耳元に入って
くる風切り音の中で、ゆっくりと去来する思いに身を任せていった。
自分は何をしているのだろう、とそればかりに思いがいく。
ゆっくりと築き上げてきた自分たちの世界に、小さな石を投げ込もうとしている。自分
がしていることに、今更ながら意味があるとは思えない。
自分たちは微妙に張ったバランスの上で生きてきたのだ。特に、シンジとレイの今は失
われてはいけない。失われないで欲しい。本当に苦しんだ世界から、二人はやっと今を見
つけたのだから。
『なのに、何故?』
小さく言葉が口をついてこぼれる。
言葉に出来ない焦燥感と圧迫感。自分たちの間に横たわるそれが、自分の背を押してい
るのかも知れない。胸に支えるような何かの破片が、10年もの間も変わることがなかっ
たから。
もう一度皆で会ってみたい。あのうやむやな10年の一端を見てみたい。自分たちの
10年を確かめてみたい。何が変わり、何が変わらなかったのか。
自分の下らない思いが、全てを壊すかも知れない。
でも、本当は言い訳なのだ。自分を卑下すれば理由になるかも知れないと思ったが、そ
れもまた十分ではない。
自分は、薄々気が付いているのかも知れない。
ふとした思いから、惣流に会いに行った。単純な探求心の様なモノだったのだろう。
どんな結果を見ても、全部押し殺そうと思った。他の仲間たちの今を壊したくはなかっ
たから。10年間やってこれたから、今度も造作がないと思った。全部自分の中に押しと
どめるから、そう思って会いに行った。
そうしたら、どうすることも出来なくなった。
彼女は10年の間、最も苦しんだ人間かも知れない。
レイとシンジが結婚した、と伝えたときの惣流の表情が、忘れられない。