少年は、忘れようと思った。

 一人ではないから。

 そう生きられるから。

 

 少女は、忘れることが出来なかった。

 一人だったから。

 そして一人じゃなくなるから。

 

 


 

 少女、少年  <第四話>

 


 

 

 書斎においてあるパソコンの前で、日向マコトは混沌とする思考の渦の中に身を置いて

いた。

 

「10年になるんだな、もう、」

 

 そのつぶやきは小さくフローリングの足下を滑っていった。

 

 

 システム部名でマコトの元に送られてきたメールには『MAGIに変わる次世代コンピ

ュータの共同開発プロジェクトについて』というタイトルがふられていた。

 メールの内容は、本部、ドイツ支部指導の元に開発される次世代コンピュータの各支部

間の大まかな取り決めについてで、先日の会議で決定した内容の議事録のようなモノだっ

た。

 ただそのメールには、マコトが未だ知らされていなかった、各支部の担当者のリストが

含まれていた。

 

 そしてそこに、あの少女の名前が記されていた。

 

『ドイツ支部主担当補佐 惣流・アスカ・ラングレー』

 

 ネルフを離れた、と聞かされていた少女。いや、今は成人した立派な女性だろう。

 

 10年前、下らない大人の理由によって連れ戻された少女。

 

 その名前が此処にある。

 

 理解は出来る。

 ここに少女の名があるということは、少女は帰国後もネルフに在籍して、MAGIシス

テムの研究と、それに変わる次世代コンピュータの開発に従事してきたのだろう。

 

 あの出来事以降、各支部間の情報のやりとりは決してスムーズであるとは言い難い。い

や寧ろ、積極的に情報の交換が行われること殆どないだろう。協議上取り決められた事の

みが書類の上を流れていくだけだ。

 今でこそ少なからず支部間の交流が再会され、コンピュータシステムの共同開発等とい

う事も行われる様になったのだが、2年と少し前に「人造人間開発の凍結及び破棄に関す

る協定」が結ばれる以前は、情報の交換など全くと言ってよいほど無かった。

 だが、あれが取り決められて状況は変わったのだろう。だからこそ、此処に少女の名前

がある。

 

 10年も掛かったと言うべきなのか、たった10年で再会の機会が訪れたことを喜ぶべ

きなのか。

 

 少年は大人になったのだ。

 少女も大人になっただろう。

 

 かつて自らが愛した女性の、その家族。

 あの時もっと自分に力があれば、二人の望みを叶えることが出来ただろう。

 でもそれは後悔の中に沈む、言い訳という名の願いなのだ。

 

 マコトはデスクトップの上で動くアナログ時計の秒針を追いながら、自らが指揮する本

部要員のリストに考えを移した。

 メールには本部の要員一覧も記載されている。それはマコトと、青葉シゲルの二人で作

成したモノだ。

 そしてその末席に、『碇レイ』という名がある。

 

 多分、月曜日の会議で、彼女にもこの事が告げられるだろう。

 そして再会の日が来る。

 

 本当は杞憂するべき事では無いのかも知れない。

 旧知の人間との再会。

 彼らも又、大人になったのだ。

 自分が思うより、きっと彼らは強い存在になっただろう。

 

 でも、言葉に出来ない焦燥感が、じっと足下によどんでいるのだ。

 

 マコトだけは少年と少女の起こした小さな、いや大きな事件を知っている。

 内々に処理され、シゲル、マヤにさえも伝えられることの無かったあの出来事。

 あの二人の、あの時の願い。

 

 再会の日は、あの二人にも必ず訪れる。

 それが何を意味するのか、今は分からない。

 

 


 

 

「で、惣流のヤツには、なんてメールだすんや?」

 

 トウジが客の居ないカウンターに座りながら、洗い物を片付けているヒカリにそう声を

かけた。

 

 昼の忙しい時間帯が終わり、今から店を閉める夕刻までの間は、基本的に店は閑散とし

て暇になる。軽食だけでなく、ちゃんとした食事もメニューに加えている『明日菜』の場

合、本当は夕食の時間帯まで店を開いていたいのだが、子供がいる関係上、店を早く閉め

ることにしている。何とか食べていけるぐらいは稼いでいるので、当面はこの方がよいだ

ろうと二人で出した方針だった。

 

「何を書けばいいのか、正直あんまり思いつかなくて。昔は、アスカと連絡取れるように

なったら自分自身飛び上がって喜ぶだろうなぁ、とか思ってたけど、実際10年経ってみ

ると、ね。」

 

 ヒカリはため息を一つ吐いて、トウジの方に顔を向けた。

 

「なんや、親友やったんちゃうんかいな。10年そこそこあわんかったら、書くこともな

いんか?」

 

「書くことが無いわけじゃないのよ。『元気でしたか?』とか、『結婚しました。』とか

そういう事は書けるけど。なんか怖いのよね、自分自身でも戸惑ってるっていうのが正直

な感想。」

 

「まぁ、突然やったちゅうのもあるけどな。ヒカリが言うたみたいに、最初はこっちの近

況報告とかそれとなく書いて、って感じやろ。それでええやないか、深く考えるとかえっ

ていやらしいで。な、明日菜もそないおもうやろ、」

 

 トウジは店の中をトテトテと走り回っていた明日菜を膝の上に抱え上げながら、そうヒ

カリに返した。

 明日菜は父親に抱え上げられて、きゃっきゃと楽しそうに声を上げている。

 

「ねぇ、トウジはどうしてこちらに帰ってきたの?」

 

 ヒカリが手を休めて、冷蔵庫に背を預けながらトウジに尋ねた。

 

「あれの後か?」

 

「あれ以外に何があるのよ、昨日の事じゃないわよ。」

 

「あほ。そやな、ほんまはヒカリに会いに帰ってきた、と言いたいところやが、本当のと

ころは家族やな、妹とか色々な。後はやり残したことが沢山あるような気になってな、シ

ンジにも借りばっかつくっとったしな。今でも返せてへんけど。」

 

 トウジは頭をかきながら答えた。

 膝の上で明日菜はトウジの顎下の無精ひげを突っつきながらはしゃいでいる。

 

「私は、少しはトウジのことも思ったわよ、あ、赤くなってるな。でも、やっぱり一番大

きかったのは家族のことだと思う。良く分からないけど、もっと強く生きなくちゃって、

子供心に思ったんだと思う。」

 

「そうやな、で、なんでそんなこと聞くんや?」

 

 トウジは本題からずれた会話をそう言って軌道修正しながら、ヒカリに問うた。

 

「アスカね、碇君のこと思って帰ってきたんだって、10年前そう聞いたのを思いだした

の。あの時は、本当に二人には一緒に生きていって欲しいと何度も思った。でも、結局ね、

過ぎたことだけど。」

 

「やっぱ、そうなんやな。ワシは、10年前にシンジにその逆をきいたで。『アスカと一

緒に生きていきたいから、帰ってきたんだ。』ってな。シンジが臆面もナシにそんなこと

いうたから、ほんまに驚いたんを覚えてる。」

 

 二人は切なげで寂しげな視線をカウンターの上で交わらせる。

 何も出来なかった、そういう時代もあった。

 

「でもな、ヒカリ。ワシはもう一度10年前に戻れてる言われても、やり直すべきやとは

思えん。そりゃ、自分はシンジらと生きてきた人間やからそういう言葉になるんかも知れ

へんけど、今は収まるとこ収まったと思う。シンジはアスカと生きていけても、レイのヤ

ツはシンジと一緒やないと生きていけへんで。」

 

 トウジは辛そうな表情を浮かべながらそう言った。

 

「レイちゃん、ね、やっぱりアスカが居なくなってなければ、碇君はアスカを選んだのか

な。」

 

 ヒカリの言葉には、重く切ない影が含まれている。

 

「なぁ、ヒカリ。仮定の話はやめようや。結局今は今や。なんぼ考えても、シンジはレイ

をえらんだんやし、惣流には子供おるんやろ。みんなガキちゃうねん。直ぐには無理でも、

幾らかたったらちょうどええ距離を見つける。ちょっと最初は10年ちゅう重さに面くろ

うとるけど、それも最初だけや。」

 

「そうだね。きっとそうだと思う。相田、碇君に話したかな?」

 

「お前に相談した時点で、話す気やったんやろ。ああいうの隠すことでけへん性格や思う

からな、ケンスケのヤツも。今晩でもケンスケに話したかどうか聞いとくわ。」

 

「お願いするね。あ、そろそろ閉める?今日はもうお客さん来ないと思うし。」

 

「そやな、外の看板閉まってくるわ。」

 

 トウジは膝の上で遊んでいる明日菜を、今まで自分が座っていた椅子の上におろし、看

板をかたづけるために店の外へと出ていこうとする。

 

「ねぇ、一つ聞いていい?」

 

 ちょうど入り口まで歩いていったトウジの背にヒカリがそう声を投げかけた。

 トウジが怪訝そうな表情で振り返る。

 

「もう一度10年前からやり直せるとして、碇君がアスカ選んだら、碇君がレイちゃんを

選ばなかったら、それでもトウジは私を選んでくれた?」

 

 ヒカリの目がまっすぐにトウジの瞳に注がれる。それも10年間恐ろしくて言葉に出来

なかった、そういう言葉の一つかも知れない。

 

「ワシはやっぱ仮定の話は嫌いや。でもお前も、自分の選んだ旦那ぐらい信用したらんか

い。」

 

 トウジはそう言った後に照れ笑いを浮かべて、看板を片づけるために店の外に出ていっ

た。

 

「馬鹿なこと聞いちゃったね、」

 

 ヒカリは明日菜の顔をのぞき込みながら、そう呟いた。

 

 仮定の世界は、所詮仮定の世界なのだ。

 現実に存在しないから不安になる。不安になるから言葉にしてしまう。

 

 アスカは何を想い10年を過ごしただろうか?

 

 ヒカリは古い友人に送る手紙の内容を、また考え始めた。

 今晩は長い夜になりそうだった。


つづく


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