私は先輩にぎゅっ、としがみ付いて彼女の胸の中に顔をうずめたまま、もう何分も泣きじゃくっていた。
よかった。先輩が、ここにいる。
私はたった一人になってしまったのではなかった・・・・・・。
これが幻でないことをもう一度この目で確かめたくなり、私はようやく顔を上げた。
目を見開くと、泣き腫らした瞼が少し痛んだがそれには構わず、私は先輩の顔をまじまじと見つめた。
「・・・・・・どうしたの、マヤ? そんなに泣いたりして」
「先輩・・・・・・よかった。先輩までいなくなってしまったら私、どうしようかと思ってました・・・・・・」
心からそう思う私に、先輩は微笑みながら、こう言った。
「・・・・・・私がいなくなるだなんて、おかしな心配をするのね。
でももう、少しは落ち着いたかしら? さっきまでのあなた、ひどく取り乱していたわ」
それはそうだ。
先輩が出勤して来なくなってから今までの間に、あまりにも多くの信じられない出来事があったのだ。
報告をしなくては。でも、どこから、どう話し始めたらいいのか・・・・・・。
思案する私の目を覗き込む先輩の瞳は、やっぱり微笑んでいる。しかも可笑しそうに。どうして?
「何も話さなくていいのよ、マヤ。まだ気が付かないかしら?
ここではね、私はあなたでもあるし、あなたは、私でもあるのよ」
「あの、先輩、おっしゃっていることの意味が良く判らないんですけど・・・・・・?」
「それならとにかく、周りをよく見てみるといいわ」
そう促されて周囲を見渡すと・・・・・・ここは、ネルフ本部内の赤木博士の自室だった。
一体、いつの間に? 私は確か、第二発令所にいたはずなのでは?
「ねえ、ずっと床の上でお喋りというのもなんだから、椅子に掛けて話さない?
今コーヒー入れるから、マヤはそこのスツールをこっちに持ってきて、座って」
「はい・・・・・・」
返事をして、言う通りに先輩の机の脇に折畳式のスツールを運び腰を下ろしてはみたものの、私にはまだ、この状況が把握できずにいた。
そんな私をよそに、先輩は普段と全く変らぬ落ち着いた動作で二つのマグカップにコーヒーを注ぎ、一つを私の目の前に置いた。
机の前面の大きな窓からは、昼間の外光がさんさんと射し込んでいる。
カップからふわふわと立ち上る湯気は香ばしくて、私を寛いだ気分へといざなう。
使徒が現れるようになる前にはよく、この部屋でこんなふうにして、先輩と色々な話をした。
まるでそのときのようなゆったりとした空気が今、ここには流れている。
こんなふうに考えたくはないのだけれど・・・・・・さっきまでの出来事が全て嘘だと思いたくなるようなこの光景は、もしかしたら、やっぱり、夢・・・・・・?
「夢なんかじゃないわ。これは現実よ、あなたと私にとっての」
「・・・・・・えっ!?」
「さっき起こった現象がサード・インパクトだってこと、気が付いているんでしょう?」
それはそうだけど・・・・・・それよりも今、先輩は私の思考を読んだ?
驚いている私を見て、先輩は軽い溜め息を吐いた。
「・・・・・・無理ないか。マヤには何も教えていなかったものね」
「何も、って何を・・・・・・?」
「色々隠していたせいで随分悩ませてしまったようだけど、全てが終わるまでは、その方があなたの為には良かったからなの。分かって頂戴」
「・・・・・・全てが、終わる?」
「そう、今は全ての終わり・・・・・・いいえ、始まりなのかもしれないわ。
サード・インパクトを起こして、人類を次なる段階へと進化させる『人類補完計画』を遂行すること。
それが、ネルフの真の目的だったのだから」
「じゃあやっぱり、エヴァを使って使徒を全て殲滅してサード・インパクトを未然に防ぐ、というのは・・・・・・」
「前半はまあ真実。でも後半は、表向きの嘘ね」
「そんな・・・・・・」
サード・インパクトを起こす、ですって?
既に知らされていたネルフの存在理由がどうも建前らしいことには薄々気が付いていたけれども、まさかこれ程までに表と裏が正反対だったなんて、思いもよらないことだった。
それに、時々耳にすることはあったものの内容は全く知らない、補完計画というのは一体・・・・・・?
「ねえ、マヤ。私もきっと、人類補完計画の全てを知らされた人間じゃないわ。
でも、今人類に何が起こっているのか、説明することは出来る。聞きたいかしら?」
私は黙って、頷いた。
「なら、目を閉じてみて。そうしたらさっき、あなたが判らないと言ったことの意味が、判るようになるから・・・・・・」
言われるままに目を閉じてみた。
すると私の全身が、まるで眠ってしまいそうな、いや、それ以上の心地良さに包まれるのを感じた。
やがて先輩が、『人類補完計画』の内容を、声を使わずに私の心に直接語り始めた。
そのことへの驚きよりも。
知らされた内容に対しての衝撃よりも。
私は、まるで先輩に抱きしめられているかのような温もりと絶対的な安心感とに、すっかり心を奪われてしまっていた。
(こんなことを教えてしまって、却って辛い思いをさせてしまったかしら?
マヤは潔癖症だから)
いいえ先輩。
正直驚いていますし、補完計画にも全く懐疑的でないとは言えませんが・・・・・・でも知りたいと望んだのは、私ですから。
(そう・・・・・・それとね。あなたのようないい子が私の部下で、とてもよくやってくれていたこと、私は本当に感謝しているのよ。ありがとう、マヤ。これだけはどうしてもちゃんと言っておきたかったの。私から、直接)
お礼だなんて・・・・・・。
私の方こそ、先輩のような方の側で仕事が出来て、たくさんのことを教えて貰って、どんなに感謝しているか・・・・・・。
それよりも、ああ、先輩・・・・・・今なら、私にも判ります。
あなたはどこまでも私で、私はどこまでも、あなただということが・・・・・・。
ふと目を開くと、私の傍らにはもう、先輩の姿は無かった。
それにここはもう、先輩の部屋ですらなかった。
私は何時の間にか、透き通るオレンジ色の水の中を、裸でゆらゆらと漂っていた。
この水は・・・恐らくLCLだ。匂いに覚えがあるし、息が少しも苦しくならない。
時折、私の口から漏れる小さな気泡がいくつか、揺れながら上ってゆくのが見える。
ほかには何も見えない。水面も、水底も。
ここはとても静かで明るい・・・・・・でも、深い深い、海の中のようだ。
そして、私のほかには、誰もいない。
けれども私は、不安を微塵も抱かずに、あるやなきかの緩やかな水の流れに身を任せていた。
私にはもう、分かっていた。
私はたった一人になってしまったわけではない。
先輩は、この海の中の、そこらかしこに存在している。
先輩だけでなく、私の会いたい人達は皆、この海の中にいる・・・・・・というより、この海そのものなのだ。
先輩も、青葉さんも、日向さんも葛城さんも、シンジ君もアスカもレイも、戦自の凶弾に倒れた同僚達も、学生時代の友人も、誰も彼もみんな、みんな、みんな・・・・・・。
そして私も、だんだん、この海に溶けてゆくのだろう。
私は再び、目を閉じた。
恐怖は全く感じなかった。
むしろ私の胸の奥からは、今までに味わったことのない開放感が溢れ出していた。
それと入れ替えに、この世にこれ以上のものは無いというくらいの安心感が、私の中へどっと流れ込んで来た。
私は溶けてゆく。
溶けてみんなと、一つになる。
始めは、身体が。やがて心も、この海に。
全ての人々の魂が混ざり合い、一つになろうとしているこの海は、まるで『生命のスープ』そのものだ。
そして私が行き着く処は、完全な単体としての生物、進化した新しい人類が誕生する場所、『カオスの縁』に違いない。
まだ僅かに残る私の意識、私の理性が、私にこんなことを考えさせる。
人類補完計画。
群体として行き詰まった第18番目の使徒、人類を、完全な単体としての生物へと人工的に進化させる計画。
でもそれは、人類にとって本当に必要だったり、素晴らしいことだったりするのだろうか?
そもそも、“完全な単体生物”って、何なの?
ここ何ヶ月もの間、あれほど欲した答えを得たばかりだというのに、私はまた、新たな疑問に囚われはじめている。
しかし考えたところで、どうなるというのだろう。
もう、遅いのに。
だって全ては終わり、そして、始まってしまった。
これが本当に正しいことなのかどうかなんて判らない。判る訳なんか、ない。
判るのは、私には抗う術など無いということ。そして、一度進んだ時計の針は二度と元には戻らない、ということだけだ。
私は薄れゆく意識の中、諦めという感情の上に、甘美な快楽が塗り重ねられてゆくのを感じていた。
もうすぐ私の全てがとろける・・・・・・。
・・・・・・何かの気配を感じる・・・・・・これは、人の、視線・・・・・・?
誰のものかは分からないが、どこからか、私をじっと見つめる人の視線を感じると同時に。
幾尋にも渡り広く、深く、そしてあまねく、この海に広がっていた「私の意識」というものが、再びここに、収斂しはじめる。
ゆっくりと、少しずつ、私が、私として、再構成されてゆく。
私、伊吹マヤ、として・・・・・・。
ようやく辺りを見回せるようになると、私は、自分に向けられた視線を感じる方向を見遣った。
すると私からさして離れていないところに、一糸まとわぬ姿のレイがいた。
彼女はじっと、私を見下ろしている。
その表情からは、彼女がなぜそんなにも私を見つめるのかは、判らなかった。
だから私の方から問い掛けようとしたそのとき、彼女が口を開いた。
「元のあなたを取り戻したいとあなたが願えば、そうなるわ」
(レイ・・・・・・どうして)
あなたにはそれが解るの? と私が伝え終わらぬうちに、彼女は抑揚の無い話し方で、淡々と先を続けた。
「それが、碇君の望みだから」
(・・・・・・シンジ君の?)
「そう。自らの心で自分自身をイメージできれば、誰もがヒトの形に戻れるわ」
そう私に告げるレイの姿が、段々薄くなり始めた。
(レイ、待って!!)
私は叫んだ。
と同時に、彼女に向けてとっさに右腕を伸ばしたのだが・・・・・・その腕が、見えなかった。
どういうこと!?
そう思う間に、レイは私の前から消えてしまっていた。
レイがいなくなった途端、私は強い孤独感に苛まれた。
孤独? さっきまでは、ここにいることが、私にあれほどの安心感をもたらしたというのに?
ここは先程までと変らぬ、LCLの海の中だった。でも今は、水の色がまるで違う。
まるで月のような優しい光が水底にまで射し込んでいて、透明な水は、淡い、明るい、ブルーに染められていた。
そう。周りは、見える。
これだけ周囲の状況を認識できるということは、私の意識は、はっきりしていると言ってよいだろう。
ただ、目の前にかざせば見えるはずの両手が、うつむけば視界に入るはずの胸や爪先が・・・・・・つまり自分の身体が、全く見えない。
私はレイの言葉を思い出し、大きな鏡に自分の全身を写したときのことを、何度も思い浮かべてみた。
しかし何も変わりはしなかった。
私は段々、焦り始めていた。
私は、私の姿を取り戻したいと願っているのだ。
そんな私の心めがけて、悪夢のような記憶が、濁流のように流れ込んで来た。
これは・・・・・・第二発令所。
私はコンソールの下に必死で身を隠している。私の許に、ライフルを肩に提げた青葉さんが身を低くしながら滑り込んできて、私に拳銃を渡す・・・・・・。
「ロック外して」
「私・・・・・・私、鉄砲なんて撃てません」
「訓練で何度もやってるだろ!!」
「でもそのときは人なんかいなかったんですよ!!」
そのとき。
状況をわきまえずに大声を出してしまった私の頭上すれすれを、敵の銃弾がかすめた。
「馬鹿っ!!撃たなきゃ死ぬぞ」
呆然とする私を青葉さんは叱り飛ばして、元の配置に戻っていった。
そのときの彼の表情は、必死そのものだった。
その気迫と、この状況とにすっかり気圧されてしまった私は、やはりコンソール下で震えていることしか出来ずにいた。
相手は使徒じゃないのに。同じ人間なのに、どうして殺し合わねばならないのかと考えていた私の胸に、日向さんの言った言葉が思い出される。
「向こうはそう思っちゃくれないさ」
その通りのことが、そのとき、起こっていた。
発令所の下層から侵入した戦自兵士の銃声とともに、同僚達の悲鳴が聞こえた。
私のすぐ横で青葉さんと日向さんが下に向けて撃つ銃の音が、耳をつん裂いた。
殺されるのは、怖い。だけど人を殺すなんて、私にはできない・・・・・・。
だからもう、何も見たくない。何も聞きたくない。もう何も、考えたくない!
私は自分のシートからクッションを引っ掴んできて両手で抱え、その中に顔をうずめた。
それなのに。
そうしていさえすれば、そのときの私には見ずに済んだ光景が、今はまざまざと意識の中に流れ込んで来る。
戦闘スタッフであろうが非戦闘スタッフであろうが、出会ったネルフ職員を皆殺しにしてゆく戦自の兵士達。
ナイフでひと突きにされた警備職員の背中から、床の上にぽたぽたと滴り落ちる、鮮やかな血の赤。
銃を乱射され、何発もの銃弾を浴びて倒れてゆく、たくさんの同僚達。
地獄の業火の如く燃え盛る炎の中から聞こえてくる、生きながらにして焼かれてゆく同僚達の、断末魔の叫び声。
死んでからもなお、ベークライトに呑み込まれてゆく、おびただしい数の死体、死体、死体・・・・・・。
今日起こった人間同士の殺戮の様子は、醒めることのない悪夢のように何度も何度も繰り返し、私の心に映し出され続けた。
余りにもむごたらしい光景を見続けて、耐え切れずに叫び出したくなったが、今の私には口が無かった。
目を背けようにも、今の私には目が無かった。耳を塞ごうにも、今の私には塞ぐべき耳も、それに必要な手も無かった。
・・・いや。 ・・・・・・もういや! ・・・・・・もうやめて!! 私、こんなの、もう見れない・・・・・・。
「でもこれが、あなたの還ろうとしている世界よ」
私の前にレイの姿が浮かんで、消えた。
(そうね・・・・・・確かにレイの言う通りだわ・・・・・・)
「見るのが辛いと思うなら、どうすればよいか、マヤになら解るはずよ」
今度は先輩が現れ、私にこう言い残して、消えていった。
(・・・・・・ええ、解っています先輩)
先輩の言う通り、この悪夢から逃れる方法の見当は付いている。
私の姿を取り戻したいと願った途端に始まった悪夢なら、その願いを放棄しさえすれば、きっと醒める。
それでも。
いつ果てるとも知れぬ悪夢に、いくら心を責め苛まれようとも。
私は、私を取り戻したいと願うのを、やめようとは思わなかった。
心の補完が始まったとき。
この海に溶けてしまえば、どんなにか楽になれるだろうと思った。
みんなと一つになるのだから、何も寂しいことなど無いと思っていた。
寂しさだけではなく、不安や恐怖や罪悪感、それにコンプレックスといった、私の中のありとあらゆる負の要素から、逃れられると思っていた。
私の心が外へと流れ出し、人々の心が私の中へと入り込んで一つになってゆく、その過程は本当に心地良かった。
・・・・・・でも。
補完が最終段階に近づくにつれ、段々意識が薄れてゆく中で、私はふと、虚無を感じたのだ。
もうすぐ、地球上の何億もの人々の魂が、一体となる。
完全な単体生物、新しい人類へと生まれ変わるために。
それがどういう生き物なのかは、想像することさえ出来ない。
でも、その生物の心は、私の物ではなくなるのではないだろうか? 誰の心でもなくなるのではないだろうか?
それに。
完全な単体となった生物の心は、当然、たった一つなのだろう。
それって、この世に一人きりであることと同義なのではないだろうか?
それとも新しい人類というのは、一人きりであるということに寂しさを感じることすら無いくらい、完全な生物なのだろうか?
不幸を感じぬ代わりに幸福を味わうことも無い。何も感じずにただ、生き存える。
それって、とても哀しいことなのではないだろうか・・・・・・。
私はそんな生物を生み出す計画に力を貸す為に、ネルフにいたんじゃない!
厳しい訓練に耐えたり。先輩に付いていく為に、必死で勉強したり。
体力的にも精神的にもハードな勤務をこなしたり。死と隣り合わせの恐怖に耐えたり。
時にパイロットの子供達やダミープラグ製造に対する罪悪感から、深く落ち込んだり。
エヴァやネルフに対する疑問から、自分の仕事を信じることが出来なくなって、悩んだり。
それでも。
色々な思いを抱えながらも今までやってきたのは、私の大切な人達と、その未来を、守りたかったからなのだ。
「それが、あなたの望みなのね」
私の前に再びレイが現れて、そう言った。私は答えた。
(そう。私は私に戻りたい。そしてみんなに、会いたい)
「あなたがあなたに還るということは、ATフィールドが再び人と人との間を隔てるということ。そして時には傷付け合い、殺し合う。それでもいいの?」
(レイの言うことは、残念だけど事実だわ。でも人と人との関わりって、決してそれだけじゃないと思うから・・・・・・)
「答えを見つけたようね、マヤ?」
いつの間にかレイの姿は消えていた。
彼女がいた場所には、白衣に身を包んだ先輩が現れて、私にそう問い掛けた。
(心の補完に関する認識はあくまでも私の主観ですし、新しい人類というものがどんな生物なのかも想像することしか出来ませんから、これが本当に正しい答えなのかどうかは、やっぱり判らないままです。
でもこれが、全てを自分で見知った上で私が出した、私の答えなんです)
「・・・・・・そう。マヤ、それでいいのよ」
先輩は私に向かって微笑んだ。その微笑みはとても優しかったが、どこか寂しげでもあり、私は軽い胸騒ぎを覚えた。
「・・・・・・先輩?」
(どうしたの、マヤ? あなたはもう行きなさい)
行くって、何処へ? と訝しがる私を、先輩は、上を見るように促した。
そこはとても明るい・・・・・・今までは決して見えなかった、この海の水面だった。
水がゆらりと波打つと、揺れた髪の毛先が頬を撫でる、ざわざわとした感触があった。
驚いて頭に手を遣ると、指先に、髪の手触りを感じた。
その手を移動させて頬を撫でてみると、視界に、近すぎて輪郭がぼやけて見える掌が映った。
下を向くと、ネルフの制服を着た全身が見えた。
私だ。これは、私の身体だ・・・・・・!
水面はもう、間近だった。
気が付くと、先輩は私よりも遥かに深いところにいた。
「先輩! 先輩も早く!!」
(ありがとう、マヤ。でもね、私は、そこへは行けないわ・・・・・・)
「どうしてですか!?」
問い掛けたが、先輩はそれには応えてくれなかった。彼女が、どんどん、私から遠ざかってゆく。
「先輩!! ・・・・・・先輩!!」
(マヤ・・・・・・早く行きなさい・・・・・・)
水面は、私のすぐ真上にまで迫っていた。
私は、もう殆ど見えないくらいに小さくなってしまった先輩の姿に向かって叫んだ。
「先輩もきっと、後から来て下さいね! 私、信じて待ってますから! “ I NEED YOU ”!!」
それから間もなく、私は水面へと辿り着いた。
私は自分を取り戻すことが出来たのだ。それはとても嬉しいと思う。でも・・・・・・。
先輩がモニターに映して私に見せてくれたメッセージは、私の先輩への心でもある。
だから、それをそのまま私は先輩に贈り返したのだが・・・・・・私の叫びは、ちゃんと先輩の心に届いてくれただろうか?
波の音以外には何も聞こえない水面に漂いながら、私は、空に浮かぶ大きな月にひと筋かかった不思議な赤い線を、ぼんやりと見上げていた。
私は今、ネルフ本部に戻り、第二発令所の扉の前に立っている。
ここに着くまでの間に、既に忙しそうに立ち働くスタッフに、何人も出会った。
と同時に、まるで持ち主の魂の抜け殻のように床に散らばった制服も、いくつか目にした。
私は少し、緊張している。
この扉の向こうに、彼はいるだろうか? そしてほかのみんなも、いるのだろうか?
意を決して中に入ると、そこにはちゃんと、彼がいた。
彼は自分の席でなにやら慌ただしそうに外部と連絡を取り合っていたが、通信を終えるとすぐにこちらを振り向いた。
驚いたような表情が、少し経つと、ほっとしたような感じに変わった。そして私に、こう言った。
「マヤちゃん・・・・・・お帰り。随分遅かったんじゃない?」
「青葉さん・・・・・・ただいまっ!」
私は彼の許に駆け寄り、その首に腕を回して、抱き着いた。
「・・・・・・おい、仕事中だぞ」
「解ってます。今だけ」
私をたしなめた口調とは裏腹に、青葉さんも私の背中に腕を回して、私を強く抱き寄せた。
しかし彼の席の電話が鳴り始めたので、私達はすぐに身体を離さなければならなかった。
電話を終えると、彼は言った。
「今、葛城さんと日向がエヴァ弐号機とシンジ君とアスカを回収して、こっちに向かっているそうだ」
「・・・・・・みんな無事なんですか?」
「ああ。彼らが戻ってきたらマヤちゃん、また忙しくなるぞ」
「そうですね・・・・・・それにその前に、MAGIが損傷を受けていないかどうかも、調べてみないといけないし」
私は青葉さんの許を離れて、彼の席と背中合わせの、自分の席へと歩いていった。
そしてコンソール下の床に落ちたままになっている、あのとき抱え込んでいたクッションを拾い上げ、軽く埃を叩いてシートの上に載せた。
私の席。
そういえば、私がエヴァやネルフについて思い悩み始めたのは、この席を使い始めた頃だった。
その頃と全く同じに、今もこのシートはきついし、キーボードのタッチも相変わらず固いままだ。
でも。
こんな気分でここに座るのは、今日が初めてのような気がする。
今、私の心は。
快晴とまでは言えないけれど、とても穏かに、晴れていた。
The End.