第19話「祭りのアト」
「チェック終わったか?!」
日向の額に汗がにじむ。
彼の姿は、とてもこのレースでチャンピオンを取った直後の
チーム監督とは思えないほど、切迫した雰囲気に包まれていた。
「無線関係は全く問題なし。
・・・これはドライバーが応答して来ないとしか思えません」
すでにレースは終わり、全てのマシンはここ藤岡のマシン格納所に集められていた。
ただ1台、レイのマシンを除いて。
そのマシンはイリュージョンストレートに来る。
今までと同じく、ブースター加速に移るマシンをモニターで見つめる日向。
「どうして応答しないんだ・・・何故帰ってこないんだ、レイちゃん」
バンクを抜ける白いマシンを見た日向はピットウオールから身を乗り出して
彼女のマシンを自らの目で見た。
「駄目です!また入りません!」
モニターでピットロードを素通りしたレイのマシンを見たメカニックが叫ぶ。
「サインボードを出せ!」
日向の合図と共にサインボードを出すメカニック。
そこには「STOP」と書かれていた。
そしていつも通りのコア音を響かせて日向達の前を通過する。
サインボードのメッセージをレイが見てくれたかは彼らが知る由もなかった。
すでにチェッカーを受けてから3周走り終わり、レイは4周目の周回に入った。
その頃、コントロールタワーの別室で表彰式を待っていたシンジ。
窓の外に見えるサーキットを何度も通過していったレイのマシンを見て、彼も
不思議に思っていた。もうレースは終わり彼女が1位でチェッカーを受けた。
「何で綾波はまだ走ってるんだ?。もうレースは終わってるのに・・・」
シンジが待機していた部屋のドアが開き、治療を終えたカヲルが入ってきた。
幸いさしたる問題もなく、一人で歩けるようになっていた彼を見たシンジ。
「カヲル君お疲れさま。凄く速かったよ・・・旧型なのに凄いや」
カヲルは彼が差し出してきた握手に応じる。
「いや、マシンは関係ないよ。どのみち君や綾波レイには勝てなかった。
やはり君は僕が見込んだだけはあった。強かったよ・・・シンジ君は」
健闘をたたえ合う二人。シンジはこれがスポーツの良いところだと思う。
「でもお互い、やり残したことが出来たね。
来年は綾波に勝って、お互いにチャンピオンを目指そう」
シンジの言葉に、カヲルは窓の外の景色に目を移しただけで、無言だった。
レイのマシンは速度を落とさず、インフィールドセクションを抜ける。
「またブースターをかけました!」
メカニックが日向に向かい報告する。
「・・・仕方ないな。今度ピットロードに入らなかった時はマシンを緊急停止させる」
日向は手元にあるノートパソコンを開き、最後の指令を出す準備にかかる。
「監督、全ての準備、終了しました」
(後はレイちゃんの動向次第か。頼む、次で入ってくれ)
しかし、日向の思いむなしく
「ピットロード通過!ホームストレートに来ます!」
日向は瞬間、「くそっ」と思う。声には出さない。
日向の指がパパパッと動く。彼しか知らないパスワードをノートパソコンに打ち込み、
Enterを押した。
「ABS作動!」
メカニックが日向の合図を受け、マシンのABSを作動させ、強制停止のボタンを押す。
先程のパスワードでドライバーの操縦系は完全に切れている。
ドライバーが走りたくてもピットからの指令しか受け付けない。
マシンのブレーキが作動し、一気にスピードが落ちるレイのマシン。
レイのマシンは日向達のピットの前で停止寸前になる。
ミッションが七速に入ったままのマシンのコアは停止寸前まで追い込まれ、
タイヤの回転がゼロに近くなった頃、痙攣するようにマシンを揺らしながら、
白いEG−Mは全ての機能を停止させた。
日向はマシンが止まったのを確認した後、コースに飛び出していった。
「ようやく止まったみたいだね。これでやっと表彰式が出来るかな」
シンジは部屋の窓に張り付き、日向がマシンに走り寄る姿を見ていた。
「シンジ君」
「何?」
「一緒に・・・
トイレでも行かないかい?晴れ舞台の前に済ましておいた方がいいよ」
そう言いながら半ば強引にシンジを窓から引き剥がし、トイレに連れていった。
(君は見ない方がいいよ。シンジ君・・・)
日向はマシンに張り付き、マシンの右脇にあるキャノピー開閉レバーを引き出した。
全てのシステムが停止している今、手動でキャノピーを開けるしかない。
レバーを引き出すと、中のLCLがマシンの中に吸い取られる。
日向はそのレバーを勢いよく回し始めた。徐々にキャノピーが開いてゆく。
この頃、他のクルーもマシンの側に来ていた。
「監督、代わりますよ」
ガタイのしっかりしたメカニックマンが日向の代わりにレバーを回すと、
キャノピーの開く速度が上がる。
キャノピーが半分程開いた所で、レイの空色の髪の毛が日向の視界に飛び込んできた。
「レイちゃん?レイちゃん!!」
日向は彼女に問いかけるが、彼女の頭はピクリともしなかった。
彼はたまらずキャノピーが開いた隙間から体を潜り込ませる。
日向の手がレイの肩を掴んだ。ガックリとうなだれる彼女の体は冷たかった。
「レイちゃん?!」
日向は何度かレイを揺すった。だが、彼女は呼びかけには答えない。
そして、キャノピーが開くにしたがい、彼女の顔を光が照らしてゆく。
そこには、光を無くした瞳を半分だけ露出させたレイの顔があった。
「・・・レイちゃん。おい!レイちゃん!!」
レイの目の前で手を振って見せた。猫だましもやってみたが、全く反応がない。
「おい!どうしたんだよ!レイちゃん!!」
日向は大声で呼びかけ、揺すった。
力の抜けた頭が、ヘッドレストに何度もぶつかったが、
それでも、顔には生気が蘇ることはなかった。
日向はレイの胸に耳を当てた。彼の耳には心臓の鼓動が聞こえた。
「まだ・・・生きてる」
レイの顔を見る日向の顔に、彼女の息もかかった。
「誰か救急車とドクターを呼べ!早くしろ!!」
日向は周りにいたメカニックに対してそう言った後でメカニックを周りに集める。
彼は周りをメカニックで固めさせた後、彼女をマシンから引きずり出した。
彼女の姿を他人に見せないための処置だった。
とりあえず日向は自分が着ていたブルゾンをサーキットに敷き。
その上にレイを寝かせた。
きつく彼女を包むプラグレーシングスーツを緩め、ドクターが来るのを待った。
ここに至っても彼女の目は半開きのまま瞬きもせず、口を真一文字に閉ざしている。
「どうしたっていうんだ・・・なんでこんな・・・」
何故このような事になったのか分からず困惑する彼の耳には、
まだ救急車のサイレンは聞こえてこなかった。
ホームストレート上、数分の応急処置を受けた後、救急車に乗せられるレイ。
一緒に日向も救急車に乗り込んでゆく光景を見ていたゲンドウとリツコ。
リツコは無表情でその光景を眺めるゲンドウに向かい、口を開く。
「勝負に勝ちはしました・・・しかし失った物も大きかったですわね」
『シャッ』
ブラインドを閉めたゲンドウは、ドアの所に待機していた男に向かい命令する。
「トロフィー授与式を始める。準備にかかれ」
「は?しかし肝心のウイナーがいないのでは・・・もう少し待たれたらいかかですか」
「待ってもウイナーは来ない。さっさと準備を始めろ」
ゲンドウの苛立った声を聞き、彼はそそくさとその場を去っていった。
誰もいなくなった会長室で、ゲンドウは自らのイスに腰を下ろした。
その彼に、リツコが歩み寄り、鋭い目線でゲンドウを突く。
「良かったのですか?・・・これで」
ジッとゲンドウの目を見て問いかけるリツコ。
「このレースは勝たなければならなかった。その事は君も知っていたはずだ。
負ければ君も、私も終わりだ。・・・仕方なかったことだ」
リツコ達の耳に、遠ざかるサイレンの音が聞こえてくる。
その音がする方を眺めながら、リツコはポツリと呟いた。
「EVIAとZEELEの勝負・・・後味の悪すぎる勝利でしたね」
表彰台の下の旗が揺れる。
主役である3人の内の二人。シンジとカヲルが出てきた。
待ちこがれた観衆は拍手を送り、彼らを讃える。
シンジは二位の台に、カヲルは三位の壇上に立つ。
頂点である一番高い位置には、誰も乗ることはなかった。
シンジの目は下の観衆の中を泳ぎ、アスカの姿を探す。
「探しとる、探しとるで」
レイの母国の国家、君が代が流れる中でキョロキョロと落ち着かないシンジを見て、
トウジが笑いを殺しながらアスカに囁く。
そして、国歌斉唱が終わったとき、トウジはシンジに向かって手を振ってみた。
彼はピットウォールに座って手を振っていたのだが、
前の方の観衆が大きな旗をたなびかせているのが目立ちすぎていたお陰で、
シンジには見えてないようだった。
「・・・しゃぁないな」
トウジはピットウォールの上に立ちながら、
「ここやここ!!」
大声でシンジに向かい両手で手を振った。
大声を上げるトウジにアスカは思う。
(恥ずかしいわね・・・全く。どういう神経してるのかしら)
その時、トウジとシンジの目が合った。
同時にトウジは下を指さしながら意地悪そうに微笑む。
シンジが指差された方を見たとき、見たかった彼女が見えた。
「気づいたようやで」
トウジがアスカに呟いた瞬間。シンジはアスカを見ながら手を空高く突き上げた。
それを見た観衆は沸き返るが、
アスカは一瞬の笑みをかき消すと、プイと横を向いた。
その頃日向は医師と二人で揺れる車内にいた。
彼は冷え切って力も抜けたレイの手を握り、
先ほどから瞼を閉じているレイに思いを巡らす。
(何があったんだ・・・何でこんな・・・
レイちゃんは何でこんな姿になってしまったんだ・・・)
そう思いかけながら、日向はレイの手を自らの両手でぎゅっと握りしめると、
そのひんやりとした手の温もりを自らの額に押し当てた。
こうなる前に何もできなかった自分を責めながら、
その感覚を体に刻みつけようとしていた時、
思いがけず彼女の手が彼の手を弱々しく握り返してきた。
「レイちゃん?!」
そんなレイの態度に、日向は俯いていた顔を眼鏡がずれるほど急激に彼女の顔に移した。
日向の声に彼女は少し瞼を開くと、周りを眺めるように瞳を動かす。
「大丈夫かい?。僕のことが分かるかな?!」
日向の声が車内に響くが、
彼女は周りの光景を眺め終わると同時に瞳に涙が溢れ出す。
それはやがて顔に涙の道を作り、白い枕の上を濡らした。
日向は、その止まる様子を見せない涙に声すら上げることは出来なかった。
トロフィー授与式が始まり、3位のカヲルがまずゲンドウから
ガラスのトロフィーを受け取った。高々と掲げるカヲルの目には、
表彰台の下で拍手をしているユキの姿が写っていた。
そして、ゲンドウはシンジにもトロフィーを渡す。
シンジに対してもゲンドウは無言だった。
だが今のシンジには、ゲンドウよりもこのトロフィーを見せたい人がいる。
「なんや、今まであんな生き生きしたあいつを見たことあらへんかったなぁ」
先ほどからトウジはずっとアスカにシンジの行動をしつこいくらいに語りかけていた。
アスカはまだ体に力が入らない。
トウジに体を支えてもらってピットウオールに腰掛けることが辛うじて出来る始末。
手ぐらいは振ってあげたい気持ちもあったが、それさえ出来なかった。
アスカはトウジの言葉にも黙ったままで、唇を軽く噛むだけだった。
そして表彰台に立った人間に与えられた名誉。シャンペンファイトが始まる。
満面の笑みを浮かべて、カヲルとシャンペンを掛け合うシンジの姿を見るアスカの心は
複雑に揺れ動いた。
「おっ、いよいよシャンペンを手にしたで。どっちから口を開けるんかな」
よし!プロレス中継のように実況したる、と息巻いていた彼に、
アスカの声が耳に入った。
「もういいや・・・行こ」
そう言って、トウジに目でピット方向を指した。
「もういいって・・・せやけど」
トウジの言葉の途中で、アスカは口を開く。
「・・・こんな私、見せたくない。手も振れないんじゃ、ここにー」
その時、アスカの頬に一粒の液体が落ちる。
振り返るように表彰台に目を移すと、
アスカを見つけて、彼女に向けてシャンペンを向けるシンジの姿が映る。
あんな笑顔・・・できるんだ
シンジは視線が混じり合った彼女に向けて、更に勢いよくシャンペンを天空に注いだ。
アスカの顔に2粒、3粒と落ちるシャンペンの粒。
彼女は目を閉じ、時折落ちる冷たい滴を幸せそうに感じ入っていた。
彼女が俗世に戻ると、シンジが噴射するシャンペンで光が屈折し、
表彰台の前に小さいながらも虹を作る。
シンジの姿に重なる目の前に架かった虹を掴もうと、アスカは手を伸ばそうとした。
奇跡なんかじゃない。
グランプリ後の金曜発売の速報紙の2ページ目に写るシャンパンファイトと、
その下で手を掲げるアスカの絵が残されているのは。
でも、
ほんの少し神様が微笑んでくれたのかもしれない・・・だったらありがとう。
アスカはこの写真を見る度に、今も見ているかも知れない目にそう語りかける。
それが、未だベッドから離れられない彼女の数少ない笑顔を生む行動のうちの、
ひとつ。