多分、それは10年と少し前。

 二人にとって、終わらない夢のような時間。

 

 そして、その想い出。

 

 


 

 少女、少年  <挿話(1)>

 


 

 

「ん、どうしたのよ、寝ないの?」

 

 ベットで体を起こし、顔を両手で覆っている少年に、少女がそう声を掛けた。

 

 既に夜は深く、少女の声以外には、闇の中で微かにシーツがこすれる音だけが、この世

界の音だった。

 『コンフォート21』という名のマンションには、二人以外の住人は居ない。

 

「何でもないよ、ちょっと考え事をしてただけ。」

 

 少年は覆っていた手で両目を一度強く押さえてから、闇の中で少女の方に体の向きを変

えた。

 細い体の線が、空気を少し混ぜながら闇の中を動いた。

 

「ふうん、怖いのかと思ったわ。」

 

 少女は一つ悪態を付いて、ベッドに横になった姿勢のまま小さく微笑んで見せた。ただ、

深い闇の中でそれが少年に届いたかどうかは、微妙なところだった。

 

「怖いよ、一人だったらね。」

 

 少年も軽く微笑んだ。だが、これも闇の中に消えたかも知れない。

 

「一人は、嫌よね。」

 

「そうだね、一人は嫌だ。」

 

 少年は右手でゆっくりと体を支えながら、ベットの中に倒れ込んだ。

 少女はそんな少年の腕に体をピッタリと寄せる。暖かな少年の体温が、少女から闇の深

さを取り去っていく。

 

 心音が聞こえる。命の鼓動はゆっくりと二人を打ち、そして今を共有する記しになる。

 

「自分一人で生きられるなんて、強がっても嘘。」

 

 少女は、少年の耳元で呟くように、言葉を紡ぐ。

 

「それが強さだと思ったら、ずっと繰り返すだけになるわ。ここまで来て、やっと分かっ

た事だけど・・・、」

 

 想い出は断片的に色づいた苦い映像になって、二人の今に降りてくる。

 

 窓の外を舞う風が、人の泣き声のような叫びを上げている。

 変わらない重い夏の夜に、これ以上ないほどの満月が浮かんでいる。

 

「もう、ミサトさんは帰ってこないのかな、」

 

 少年は虚空のように深い天井の闇を見つめながら、小さくつぶやいた。

 少女は、少年の腕により強く自らを押しつける。流れる生命の水さえも共有したい、そ

れはそんな想いの現れだった。

 

「・・・、好きだった、ミサトのこと?」

 

 少女が儚げに問う。

 

「そう、だね。でも、どうだろう・・・、分からないよ。今思えば、少しずつ、少しずつ

埋めていける何かがあったような気もする。だからもう一度会いたい。ミサトさんだけじ

ゃなく、父さんにも、母さんにも、加持さんにも・・・。もっと、もっと色々、色々話し

たかった。もっと、もっと・・・。」

 

 切なさも、悲しさも、去来する感情全てが、やるせないセピア色の情念になって弾けて

いく。そしてそれは、僅かにだけ赤みがかった今に当たって、破片のようにちりぢりに飛

散して消えてしまう。

 噛みしめる下唇の痛みさえも、心の深い部分に突き刺さるそれをごまかすことが出来な

い。

 

「ねぇ、アスカは、どうなの?」

 

 少年が問い返す。

 

「そうね、結局、何も言えなかった。自分の方がずっと逃げてたって、気がついてたの

に・・・。」

 

 少年の問いではなく、少女は自らの問いに答えるように言葉を零す。

 

 弱さを受け入れることを否定することは、本当は簡単だろう。それは少女が今まで生き

てきた方法なのだから。

 でも、それは決して強さではないのだ。

 

 だから少女は言葉を繋げていく。

 

「でね、やっと言葉に出来る時が来たのに・・・、なにか、何かを教えてくれた人はみん

な、・・・、みんな居なくなっちゃった。嫌になるね、もう。」

 

 少女は震える想いを必死でこらえながら、噛みしめるようにゆっくりと言葉を出し切っ

た。

 少年は体の向きを変え、少女の瞳をのぞき見る。

 ゆっくりと自らの購いを求め揺れ動くその瞳は、闇の中に強く、そして脆い少年の分身

を浮かび出す。

 少年のまっすぐな瞳はその中に、自らを模索して歩む少女の今を映し出している。

 

 通じ合い、分かち合う沈黙の闇の中、少女の瞳を濡らす少女の分身が、瞳の端からこぼ

れ、流れ落ちた。

 少女の顔を横切る様に右目からこぼれ落ちた滴は、左目のそれと混じりあって流れ落ち、

少年の右腕を濡らしていく。

 

「大切な人は沢山居なくなったけど、でも、皆じゃないよ、」

 

 少年は両の腕を少女の体に回した。そして、ぐっと強く抱きしめた。

 それは強く、そして優しかった。

 

「僕もアスカも此処にいる。今は、それだけで十分だよ。」

 

 少年の細い腕は、透き通るように純粋な願いを代弁するかのように、少女を暖かく包み

込む。

 

「やっと、見つけたんだ。色々な物を無くして、やっと見つけたから。今でも、これから

も、僕は生きていこうと思えるんだ。」

 

 今この時が、フラスコの中を舞う雲でも構わない、と少年は思う。

 砕け散ったアイデンティティをかき集める様な生き方は要らない、と少女は思う。

 

「僕には、アスカが必要なんだ。」

 

 少年はその一言を、全ての思いを込めて口にした。

 

 大切な物は有るのだから。

 自分を愛してくれる人間が居る。

 

 強さも、弱さも全て飲み込んで、それを共有できる人間が居る。

 

「・・・、何処にも、行かないよね、シンジ・・・、ママみたいに、消えちゃ嫌・・・、」

 

 少女のその願いに、少年は無言で頷く。

 それは裏返せば、紛れもなく少年の願いでもあるのだ。

 だから、喜びも、悲しみも、誓詞になって二人を縛る。

 

 今は、それが二人の望みなのだ。

 

 

 やがて、まどろんでゆく二人を、鈍く光る闇の端々が包み、淡くよどみ始める。

 二人はそれに気がつくこともなく、ゆっくりとそれにとけ込んでゆく。

 

 運命は、絶望という言葉になって分かれていく。

 その時は紛れもなくやってくる。

 

 今はまだ、二人はそれを知らない。


つづく


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