Sounds Of Singles

Kazusi Moriizumi Presents


新世紀エヴァンゲリオン アナザーアフターストーリー

<CANDY HOUSE EX>

「殺シテモ 殺シタリナイ ホドノ」


(…I Can't Help Lovin'You Deep From My Heart…)


 新ネルフの食堂。

 傾いだ夕陽が窓から差し込み、シゲルの横顔を紅く照らしていた。

 この間の乱闘事件以来、出入り禁止を喰らっていたシゲルだったが、ようやくそれも解けて無事に平和な一時を過ごせるようになった。

 そしていま、シゲルはこの世の幸せを噛みしめている。

 テーブルの上には、でっかい湯飲みに注がれた玄米茶。

 そして鴬色した、四切れの四角い物体。

 それは、和菓子の老舗「舟和」の芋羊羹。

 上品な甘さと独特な舌触りが絶品な和菓子の極みの一つだ。

 一口、茶を含んで口の中を清め、おもむろに羊羹の前に添えられた、若緑も鮮やかな竹細工の楊枝で一切れを切り崩して、突き刺す。

 嬉しそうに目を細めて、口に放り込もうとしたその瞬間。

 つんっ!

 不意に右肘の服地を引っ張られた。

 今にも口に入ろうとしていた芋羊羹は、喰われようとする恨みを込めてか顔に直撃し、ぽろりとテーブルの上に転がった。

 肩がふるっと震え、その口からは深く静かな溜息が漏れた。

 しかし、その溜息が顕している意味は明白だ。

 こういうことをシゲルに対してできる人間は、ネルフ広しと言えども、ただの一人……

「お〜ま〜え〜なぁ〜」

 なんとも丑三つ時に似合いそうな口調で、後ろも見ずに罵り声をあげようとしたが……

「ご……ごめんなさい、青葉君」

 しかし、後ろから聞こえたのは、伊吹マヤの声だった。

「え……マヤ?」

 慌てて、シゲルは振り向いた。

 そこには両手を腰の前であわせて、もじもじしているマヤの姿があった。

 おもわずシゲルは、早とちりした自分を恨んでいた。

 また、いつもの日向マコトの悪戯だと思ってしまったのだ。

 だが、今マコトの姿はここにはないはずだった。

 何故ならマコトは何をとち狂ったか、今頃になって水疱瘡にかかってうんうん唸っていたからだ。

 それを思い出して、照れくさそうにシゲルは頭を掻きながら笑い、弁解した。

「悪ィ、マヤ。またマコトの悪戯かと思っちゃってさ」

 言いながら羊羹を拾うと、息を吹きかけ、ぽいと口の中に放り込む。

 それを見て、マヤは少したしなめるような瞳でシゲルを見つめたが、口には何も出さなかった。

 シゲルにもそれは判っていたが、別に直そうという気はなかった。

「で、何か用事があるんじゃないの?」

「あ、そうそう!」

 そういって、用件を切り出そうとするマヤをシゲルは手を挙げて一旦制し、口の端に微笑を浮かべた。

「お茶とフォーク貰ってこいよ、一切れあげるぜ」


「そっか……旧いスクーターねぇ……」

 こくんと頷いて、マヤは似合いの小さな湯飲みからお茶を啜った。

「……で、くれたのは男?」

 なんで、こんなことを訊いてしまったのだろう?

 言葉にしてからシゲルは気づき、ちょっとした気恥ずかしさを憶え、それまでマヤの顔に据えていた視線を羊羹に投げかけていた。

「ううん、わたしの従妹なんだけど、今度アメリカに行っちゃうの。それで向こうまで持っていけないからわたしにくれるって」

 幸いにして、その仕草にマヤは気づかなかったようだ。

 それはそれで何となくさみしいものだったが。

「ふうん……で、メーカーはどこの?」

「まだ、見てないの。昨日届いたんだけど、忙しかったから運送屋さんに任せてマンションの駐輪場に置きっぱなしなの。シオリ……あ、従妹の名前なんだけど、どこのメーカーかも教えてくれなかったし」

「メーカー不明ね。だけど、スクーターなら平気だろ? ストマジに乗ってるんだし」

「うん……だけど、シオリが変なことを言ってたのよね」

「変なこと?」

「わかんないことがあったら、その人に訊けばいいじゃない……って」

「その人って……俺のこと?」

 シゲルは今はもうなにも刺していない楊枝で、思わず自分の顔を指していた。

「うん……」

 と、頷いてからマヤは慌てた。

「ご……ごめんね青葉君。免許取ってから嬉しくて、ついシオリに青葉君のこと話しちゃって、色々引き合いに出しちゃってたの。私たち家族がいないからしょっちゅう電話してて……」

 弁解がましく、しどろもどろなマヤの台詞を聞きながら、シゲルは半分上の空で答えた。

「構わないさ、別に」

 そう答えながらもシゲルは、自分がマヤのことを何にも知らないことに愕然としていた。

 ――家族が、いない?

 マヤに対して、そんなことを考えたことは一度もなかった。

 いつも明るく、誰にでも優しく、礼儀正しいこの子に家族がないなんて。

 セカンド・インパクト。

 人類史始まって以来の大災害。

 人口の半数が死に絶えた、災禍。

 マヤが例外である謂れはないのだ。

 けれども、一度もマヤはそんなそぶりを見せたことはなかった。

「青葉君……?」

 マヤは黙り込んでしまったシゲルを訝しげに見つめ、声を掛けた。

「あ、ああ、わりぃ」

 答えながら、自分も同じか。とシゲルは思う。

 自分にも家族はない。

 けれど、それを他人に言ったことは、たった一度しかない。

 それを知っているのは、ここではマコトだけなのだ。

 直属上司である冬月や、人事データに触れることの出来る人間なら知ってはいるだろうが。

「やっぱり、迷惑だった?」

「いや……そんなことは……」

 誰かの話題に自分のことがのぼる。

 そしてそれが好意的なことであるのなら、なおさら嬉しい。

 が、それを素直に出せるほどシゲルは自分が大人であるとは思っていなかった。

 その自覚だけはあるのだが、どうやってそれを表現していいのか判らなかったのだ。

「それより、マヤ。いつ見に行けばいいかな?」

 だから、シゲルは目の前に転がっている話題に逃げる。

 それがあれば、他人の思いをあれこれ斟酌しなくてもすむ。

「今日……は駄目かしら?」

 そう尋ねたマヤの瞳には、シゲルがかつて見たことのない表情が浮かんでいた。

 女の表情が、見え隠れしていた。

「俺、七時までシフト入ってるから……それからだと八時くらいになっちまうぜ?」

 その、マヤにはそぐわない色を見ながらも答えざるを得ない。

「わたしは、構わないわ。それじゃ、うちの駐輪場で八時頃に……いいかしら?」

「それなら、あとで行くよ……じゃあ、俺、時間だから」

 シゲルは席を立ち、ドアへと歩く。

 ドアのところで、ふとシゲルは振り向いた。

 ずっと自分の背を追っていたらしい、マヤの瞳と視線がぶつかる。

 小さく手を振ってマヤが微笑む。

 指を二本立てて、シゲルはそれに答える。

 そうしながらもシゲルは、そのマヤの仕草に、なにかしら作意めいたものを感じずにはいられなかった。


 スタンッ! ダッダッダッダッダッ……

 セル一発で、シゲルの傍らにある少々風変わりなバイクのエンジンは目覚めた。

 単気筒特有の歯切れのいいエンジン音が辺りに響く。

 ざっ、と髪を掻き上げてフルフェイスのメットを被り、シゲルはそれなりにシート高のあるバイクに跨った。

 デジタルメーターに内蔵された時計をちら、と確認するとギアを蹴り込んでアクセルをあおって、無造作にマシンを傾けてクラッチをスパッと繋ぐ。

 グリップの悪いコンクリの路面の上で後輪は容易く空転し、傾けられた車体はするすると滑りながら半回転して出口を向く。

 一瞬だけアクセルを戻し、空転を続けようとするタイヤのグリップを回復させる。

 下半身で車体を抑え込み、ストロークの長いリアサスでショックを吸収させるとシゲルはフロントタイヤを軽く浮かせて表へと飛び出していく。

 結局、あの後シゲルは通勤用のバイクを手に入れていた。

 ネルフを辞めることになった同僚から、安く譲って貰ったのだ。

 そのバイクはシンジのデュークに酷似したフォルムを持っていた。

 オフ車にロードバイクのタイヤを履かせたスーパーバイカーズ。

 スズキDR250R改、通称ストリート・マジック。

 さして車種にこだわるシゲルではなかったから、どんなバイクでも構わなかったのだが、このバイクにはいい意味で期待を裏切られていた。

 250ccという小排気量だったが、ツインカムのマグネシウムヘッドを持つ良く回るエンジン、オフ車ならではの高重心と軽いハンドリングがこの箱根のタイトな峠道にベストマッチを見せていた。

 このところのシゲルの休日は、これで椿ラインを攻めることから始まることが多くなるほど、このバイクに入れ込んでいた。

 ネルフと第三新東京市を繋ぐ私道に飛び出すと、一蹴りアクセルに鞭をいれてマヤの待つマンションへとシゲルは急ぐ。


 マヤの住むマンションは新東京市の市街区に建つ女性専用のマンションだった。

 ここはシンジの住む駒ヶ岳近辺に建てられた高級マンション群とは違い、治安も良く物件価格も安いのでネルフの女性職員が多く利用しており、ほぼ全室が埋まっていた。

 しかし、待ち合わせ場所の駐輪場はがら空きだった。

 ネルフの女性職員のほとんどは自家用車での通勤が多く、スクーターなんぞでネルフ本部まで通勤しているのは、ここではマヤくらいのものだった。

「やっぱり、ベスパだったかぁ……」

 少しだけ遅刻してきたシゲルはマヤそっちのけで、早速そこに置かれたアイボリー色の古色蒼然としたスクーターに取り付くと品定めを始めていた。

 すっかりシゲルは感心したように、ベスパのあちこちをいじくり倒す。

 そのベスパは二十世紀末にビンテージシリーズと呼ばれた手動変速の最終型で、125ccのエンジンを持つET3だった。

「ね、青葉君」

「ん……ちょっと待って」

 シゲルはすっかりベスパの虜になってしまったかのようだった。

 取り合ってくれないシゲルに少し腹を立て、マヤはぷいとそっぽを向いた。

 シゲルにしてみれば、せっかく頼りにしてもらったのに格好悪いところを見せられないという思いから、以前に本で読んだうろ覚えの知識と実車とのギャップを埋めるのに躍起になっていただけの話だったのだが。

「あ……なーるほどね……げ、空気入れつけてら……良く手入れされてるよなぁ……」

 しばらくはそっぽを向いていたマヤだったが、楽しそうな独り言を呟くシゲルがどうしても気になってしまい視線を彼の背に注がざるを得なくなってしまった。

「ふーん……よしっ!」

 その途端、シゲルがやおら立ち上がって振りむいた。

 シゲルの声にびっくりしたマヤは、真っ直ぐに焦茶色した瞳を見つめてしまい、そこから目を離せなくなってしまう。

 シゲルもマヤの瞳をのぞき込んでいた、が、シゲルはニカッと笑うとベスパのハンドルに手を掛けて言った。

「ちょっと、出かけようぜ」

 言うなり、シゲルはベスパのメインキーをONにして車体右側に突き出ているキックペダルを思い切りよく踏み込んだ。

 少し角張ったボディに隠されたチャンバーから昨今のバイクに比べれば迫力のある排気音が響きわたる。

 125cc、2スト単気筒のエンジンは快調な音を立てて回りはじめる。

「さ、行こうぜ」

 ノーヘルのまま、シートに跨ってシゲルはマヤをタンデムシートに誘った。

「青葉君、ヘルメットは?」

「いらないって、そんなもん。スクーターにフルフェイスなんて似合わないよ」

「そうなの?」

「そう」

 断言するシゲルにあっさりと説得されてしまい、マヤはシゲルの後ろに跨った。

「マヤ、俺の左手を良く見とけよ」

「え……うん」

 どういう意味かは判らなかったが、マヤはシゲルの左手を注視する。

 その左手がレバーを握り、心持ち上に捻られる。

「?」

 と、マヤが思ったときには握られたレバーがゆっくりと離された。

「きゃっ!」

 すると、ベスパはその外見とは裏腹な、意外に活発な挙動を見せて走り始めた。

 シゲルの左手だけに神経を集中させていたマヤは、いきなりの加速に驚いて慌ててシゲルの背にしがみついた。

「お……驚いた?」

 どういうわけか、シゲルが少しどもりながらマヤに訊ねた。

「うん……ちょっとだけ」

 その背に頬を預けたまま、マヤは小さく答えた。

 背中に響くマヤの声を耳ではなく、震えとしてシゲルは聞き取っていた。

 けれど、それに返すべき言葉も見つけられないまま、二人は黙り込んだまま満天の星空の下を駆け抜けていった。


 シゲルがベスパを止めたのは、ぽつぽつと寂しく蛍光灯が点在するだけの人気のない芦ノ湖そばの閑散とした駐車場だった。

「ここらで……いいかな?」

 さすがのマヤも、これには自分の頭がついていかなかった。

 暗く、人気のない駐車場、隣は芦ノ湖……

 あまり、健全とは言えない考えが頭の中をぐるぐると駆けめぐる。

「ん……どした?」

 スタンドを立てながら、シゲルは不安そうな顔をしているマヤに目を向けた。

「あ……」

 傷ついたような顔を作って見せて、シゲルは天を仰いだ。

「ひっでーなぁ、俺ってそんなに信用無いかぁ?」

「え、あ……あの、青葉君のこと……ね」

 図星を突かれて、マヤは大いにうろたえた。

「あーあー、そーかい。判ったよ」

 いささかわざとらしく。そして大仰な手振りを加えてシゲルはマヤに背を向ける。

 その肩が小刻みに震えているが、動転したままのマヤがそれに気づくはずもなく……

「ご……ごめんなさい、青葉君」

 マヤは思いっきり頭を下げて、シゲルに謝る。

 しかし、返ってきたのは爆笑だった。

 思わずマヤは顔をあげた。

「わ……悪ぃ悪ぃ、じょーだんだよ、冗談」

 げらげら笑いながら、シゲルはマヤの肩を叩いた。

「ひ……ひっどーい!」

 抗議の声を上げたマヤだったけれど、それほど嫌な気持ちはなかった。

 いつもからかわれてばっかりだったが、シゲルが人に対して本当に嫌がられるようなことをした記憶はなかった。

 ――だから、かしら?

「さ、乗ってみな」

 と、まだ笑いの残滓をその目許や口許に残したまま、シゲルはマヤを促す。

「う……うん」

 おっかなびっくり、マヤはベスパに跨ってみる。

 鉄製の重く大柄な車体、独特な振動を伝えてくるエンジン、床からにょっきりと生えたブレーキペダル。いくら中型免許を持っているとはいえ、初めて乗るイタリア製のスクーターにマヤが緊張しないわけもない。

 そんな姿を見ていると、シゲルは自分のバイクを潰されたときのことを思い出さずにはいられない。

 今回は相手がベスパだから、前回の暴走のような事態になるとは思えなかったが。

「え……え、と、どうすればいいの?」

 取りあえずシートに腰を降ろしたものの、何をどうしたらいいのかさっぱり判らないマヤはシゲルに助けを求める。

 上目遣いに自分に縋る視線をもろに見つめてしまったシゲルは、なんともいいがたい気分に襲われた。

 それは奇妙な優越感。

 下手をすれば相手を見下す感情。

 それが何なのか、シゲルには判っていた。

 ――らしく、ねぇな。

 鼻を鳴らして、自嘲気味の笑いを飛ばすとシゲルはその下らない思いを振り払った。

「よし、じゃあ始めっか?」

 そう言って、シゲルはレクチャーを開始した。

 国産のスクーターの違いから始まって、ブレーキの使い方(ベスパはリアブレーキを使わないと止まらない)シフトの仕方(四段変速のギヤも付いている)この二点を中心にシゲルの特訓は続いた。

 その甲斐あってか、今回は派手に転倒することもなく、マヤは一時間ほどでほとんどの操作をマスターすることが出来た。


「見て見てーっ!」

 と言いながら、駐車場の中を自由自在に駆け回るマヤ。

 空き缶を並べて、スラロームしたり、八の字を描いてみたり。

 まるで、初めて自転車に乗ることの出来た子供のようだ。

「はいはい」

 それを見つめるシゲルは、ほとんど「お父さん」の気分に浸っていた。

 Tシャツの上に羽織った革ベストのポケットを探り、両切りのゴロワーズを抜き出してブックマッチで火をつけ、一口だけ深く吸い込む。

 湖面に向かって流れ去る煙を目で追いながら、シゲルは自分が何をしているのか判らなくなっていた。

 ――ホント、何やってんだか?

 サードインパクト前は自分が生きていくことに確かな意義を持っていたはずだった。

 セカンドインパクトの災禍を生き延びて、予測されたサードインパクトを未然に防ぐために働いていた……つもりだった。

 それは明確な意義であり、自分自身の生きる証だった。

 けれど、実際には小規模だったとはいえサードインパクトは発生してしまい、しかも自分の属していた組織がそれを防ぐどころか推進する立場にあったことを知ったとき、シゲルのアイデンティティは崩壊していた。

 しかも、それを知りながら自分は何故かまだここにいて、仕事をしている。

 あの頃のような、明確な目的もないままに。

 生きるためだけに、生きている。

 自分自身のためだけに。

 それは人が生きるための基本かも知れない。

 しかし、どうしようもない無常観が心に溢れるのを止める術を持てなかった。

 普段、仕事に自己を埋没させているときには何も気にかけることもなかったが、こうやって滅多に持つことのない他人との時間を過ごす瞬間に、それは必ずあらわれるのだった。

 それだけに、他人のためにこうして時間を割いているということに、途轍もない違和感をシゲルは感じていた。

 その違和感の、今の原因であるマヤにシゲルは視線を投げた。

 乗りこなせ始めたベスパに夢中になって、嬉しそうに走り回っているマヤは幸せそうだ。

 多分、シゲルが時間を割いてくれたことをマヤは嬉しく思っているだろう。

 感謝すらしてくれているかも知れない。

 そう思える事実が、自分の真空の心を満たそうとしてくれるのも判っている。

 だが、それが永続するのか?

 永続させられるのか?

 それがシゲルの唯一の、そして最大の悩みだった。

 今までのネルフに関わってからの生活の中で唯一、時間を共にすることがあったのはマコトだけだった。

 共に死線を越えた、仲間。

 あの時はマヤも確かにいたが、彼女を守るために二人は死を選ぼうとすらしたのだ。

 しかし、それ以来は時間を共有するというよりは……

 ――やっぱり、互いのストレス解消だよなぁ。

 口許に浮かぶ、苦い笑いを噛み殺し損ねてシゲルは空を仰いだ。

 満天の星が目に飛び込んでくる。

「バカだねー」

「誰が、バカなのよ?」

「へっ?」

 自嘲のためだった言葉に、マヤの言葉が帰ってきてしまいシゲルは慌てて頭を起こした。

 するとそこには、頬を膨らませたマヤの姿があった。

「あ……あのな、今のは」

「動かなくなっちゃった」

「……へ?」

 弁解を続けようとしたシゲルだったが、マヤの言葉に今までの不幸な思考が吹っ飛んだ。

 こんなところで壊れただの、ガス欠などと言われたら……

 あの距離を押して帰るだけの体力があるかと問われたら「無い」としか答えられないシゲルだった。

 スタンドを立てられたベスパに取り付き、シゲルはキックペダルを踏み降ろす。

 確かにエンジンはかからない。

「ちょーしこいて、走り回るからだぞ」

「ご……御免なさい」

 シゲルはシート下のボディに付いているコックを確認した。

 縦になっているコックを確認するとシゲルはほっと安堵のため息をついた。

「助かったぁ……」

 それを横に倒し、二、三度車体を揺すってからシゲルはもう一度キックペダルを踏み降ろした。

 腹を空かせていたエンジンが、おやつを与えられて息を吹き返す。

「さ、帰るぞ」

 とシゲルはマヤを急かし、自分はタンデムシートに座った。

「え、え、わたしが運転してくの?」

「当たり前だろ、これはマヤのスクーターなんだからな」

 本来なら、免許取り立てのマヤが二人乗りをすることは道交法違反だが、彼女に自信をつけさせるためにシゲルは敢えて強くでていた。

「でも……大丈夫かしら」

「早くしないと、ガス無くなっちゃうぞ。ベスパのリザーブはそんなになかったはずだから」

「うん……」

 まだ不安げな様子だったが、ガスが無くなるという現実にマヤは仕方なくシートに腰を降ろした。

「それじゃ……行くわね」

 いささか自信なさげにマヤは言い、二人を乗せたベスパは多少よたつきながらも、無事に帰路についた。


「なんとか、間に合ったなぁ」

 そう言いながら、シゲルはベスパと一緒に送られてきた木箱を引っかき回していた。

 必ずくっついていなければならないものを探していたのだ。

「お……あった、あった」

 それを指に引っかけて、マヤに見せる。

「計量カップ?」

「そ。こいつがないとベスパのエンジンは焼きついちまうからな。明日、ガス入れに行ったら一緒にオイルも入れて下さいって言ってここの目盛りまで2ストオイルを入れてもらって、それもガスと一緒に入れるんだぞ。こいつは混合給油だからな」

「う……うん」

 混合給油の意味は判らなかったが、ガスと一緒に入れればいいということは判ったので、マヤはとりあえず頷いていた。

「まぁ、マヤならきっとオイルくらいはサーヴィスしてもらえるさ」

「やだ……おだてたって、なにもでないわよ……」

 別におだてたつもりもなかったが、照れるマヤを見てシゲルも何となくもどかしい想いを感じてしまい、それから逃げ出す算段を始めていた。

「さて、と……それじゃ、俺帰るわ」

 と、DRに跨りかけたシゲルをマヤが呼び止めた。

「ま……待って、青葉君……あ、あの、お腹すいてない?」

 震えてる声、必死に作ろうとしているいつもの表情……

 シゲルは自分の心臓が破裂するんじゃないかと思った。

 マヤがこんなことを言い出すなんて、思いもしなかった。

「簡単なものでよければ……わたし、作るから」

 ――俺は……嬉しいのか?

 嬉しくないはずもない。

 間違いなく、いま自分が感じている気持ちは嬉しさのはずだった。

 しかし、長年慣れ親しんだ二人の距離をこの一瞬に凝縮させてしまっていいものなのだろうか?

 それが、判らなかった。

 もしかしたら、自分が深読みしすぎているだけかもしれない。

 マヤの言葉にそれ以上の意味はないのかもしれない。

 けれど、マヤの瞳は雄弁にそれ以上の意味をシゲルに伝えてしまっていた。

「ん……もう遅いし、帰るよ」

 出来るだけ無難な言葉を選び、シゲルは辞去しようとする。

 マヤを傷つけたくはなかったから。

 だけど、それは自分自身の逃避だった。

 判っている。

 判っていても、逃げるしかなかった。

 未来の見えないこの世界で、他人を自分の人生に巻き込むことは出来そうもなかったから。

「じゃ、また明日な」

 そう言いながら、シゲルはセルを回した。

 しかし、もうマヤの顔を見ることは出来なかった。

 彼女の想いを自分が踏みにじってしまったことだけは事実だったから。

「……やだ」

 小さな声が、聞こえた。

「帰らないで……」

 押し殺したような、涙声。

 被ろうとしていたヘルメットをミラーに引っかけて、シゲルは深い吐息をついた。

「マヤ……」

「!」

 シゲルはマヤを抱きしめていた。

 抱きすくめられたマヤは、そのままシゲルの胸に顔を寄せた。

 けれど、シゲルが継いだ言葉はマヤの期待を裏切った。

「寂しいんだろ、マヤ……」

「青葉君……」

「だけど、そんなに簡単に人に縋っちゃ駄目だ」

「でも……でも、寂しいの! みんな……いなくなっちゃう……先輩も、シオリも……みんな、みんないなくなっちゃうの! わたしから離れてくのよ!!  青葉君は寂しくないの? 日向君だっていつかはいなくなっちゃうのよ……一人で居るの辛くないの? 一人で部屋に帰ったとき寂しくないの! 夜が怖くないのっ!」

 自分の腕の中で、いつもの笑顔の裏に溜め込んでいた寂しさをぶちまけるマヤ。

 それを愛しく思いこそすれ、疎ましくなどは思えなかった。

 それを思った夜は、シゲルも幾度となく経験していたから。

 だからこそ、自分に信用を置くことができなかった。

「……俺だって同じだよ、マヤ。……眠ることすら怖い夜だってあるさ。誰かが傍にいてくれたらって何度も思ったさ。だけど、それは刹那の慰めじゃないか。ペットに逃避したり、酒に逃げたりするのと同じことだと同じじゃないのか? 俺は……」

 言いながらシゲルはマヤの肩に手をかけて、その身体を引き剥がした。

「わりぃ……今の俺じゃ、こんなことしか言えないんだ」

 シゲルを見つめ続けていたマヤの瞳がついに揺れた。

「ご……御免なさいっ!!」

 それだけ言うと、マヤは揺れた瞳を隠すようにして駆け出した。

 シゲルはその場に立ち尽くしたままだった。

 追えるはずもない。

 追うべき理由もなかった。

 ただ、心の中だけに苦い物を抱くことしか、シゲルには出来なかった。

 自分の言ったことが間違いだったとは思いたくはない。

 けれど、この苦さは一体何なんだ。

 自分の心に嘘をついてまで、他人の心を慰めることが優しさなのか。

 それとも、それをすることが出来るのが「大人」なのだろうか?

 ――判らねえよ、俺には。

 シゲルはエンジンに火を入れ、DRに跨る。

 ヘルメットを被った瞬間、シゲルは視線を感じてマンションを振り仰いだ。

 明かりの灯った部屋のカーテンが揺らいでいた。

 その部屋が誰の部屋なのかは、判っている。

 どうしようもなく昏く深い溜息をつくとシゲルは頭を振って走り出す。

 明日も続くであろう、殺しても殺したりないほどの後悔を呪いながら。


杜泉一矢 law-man@fa2.so-net.or.jp

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