左腕
2−1,2000
行里
その日、私は彼女から左腕を借りた。
「3日後までだからね、大事に扱ってよ」
彼女が、細長い紙袋を手渡してくれた。
袋の中身は、紙ナプキンに緩やかに包まれて、しっとりとした存在感をもって収まっている。
オープンカフェのテーブルに、違和感なく溶け込んでいる紙袋。
傍目には、フランスパンにでも見えるのではないだろうか。
「ああ分かってる。東京に帰ってきたら、すぐに返すよ」
分子生物学の発達は、人間の身体イメージを揺るがしている。
免疫系の解明。それに伴い、人体の即物性は増す。
もし、身体のパーツを自由に取り外し、その日の気分で容易に交換することが可能だったとしたら?
身体はもはや、自意識を保証してはくれない。
されど、精神も、脳細胞の物理的な働きであることを、露呈してしまった。
ところが、この状況は、唯物論には往きつかない。
なぜなら、世界をこのように見つめているのは、心の働きであるからだ。
世界イメージを必要とし、捏造しようとさえする自意識。
・・・いわば、唯心論と唯物論の馴れ合い。
私の勤める研究所では、現在、とあるアパレルメーカーと提携して、商品開発を行っている。
といっても、研究内容は、新しい化学繊維の開発などではない。
実は、人間の腕を容易に着脱する技術の、一般向けの商品化である。
現在、最終テスト段階に入っている。
我々の時代では、美容整形で、腕や足を着けかえるのは当たり前になった。
つい50年前の、21世紀初頭までは、15分で出来る手術といったら、せいぜいが、目蓋を二重にする程度でしかなかった。
それを考えると、技術の進歩は、隔世の感がある。
腕を、コンタクトレンズのように家で取り外し、その日の気分やファッションに合わせて、自由に色や形を選ぶ。
今回の計画のコンセプトは、そんなところだ。
そして、開発スタッフの一人である私は、試作品のパッケージのモニターを、恋人に頼んだというわけだ。
来週にも、各年齢層からモニターを選んでの、本格的な市場調査が始まる。
その前の、ほんのお遊びのようなものだ。
取り外した本来の腕を、彼女から借りたのは、………
別に、仕事の為という訳ではない。
彼女の人格から切り離された「身体」に、軽い興味を持ったからだ。
彼女から左腕を借りていた3日間、紙袋は、常に私の傍らにあった。
その間に、私が考えたことは、まあ、埒も無いことだ。
要は、「皮膚の深み」に到達することの、難しさである。
どういうことか。
つまり、性的な幻想の根拠は、何処にあるのかという、命題である。
皮膚の表面に存在することは、確かである。
しかし、その裏側を知りたいと願って、腕を切裂いたとしても、筋肉と脂肪の狭間には、何も無い。
例えばの話で、実際に切裂きはしなかったけれど。
詰まるところ、性的な幻想も社会的なもので、単体では存在しえないのかもしれない。
分子生物学まで応用して、こんな月並みな結論に達したのだとすれば、ずいぶんと間の抜けた話だ。
………結局、科学技術も人生知のようなものも、どうしても手に入らない真理の周りを、ぐるぐると廻っているだけなのかもしれない。………
3日後、約束通り、彼女に左腕を返した。
思えば、今回の商品開発の為に、ここのところ研究所への泊りこみが続いていた。
その日、少し高級なイタリア料理店へ出かけ、二人で、商品成功の前祝の、祝杯をあげた。
食後、ワインの酔いを覚ますために、アパートの少し手前でタクシーを止めて、歩いた。
道中、私は借りた左腕について考えたことを、彼女に話した。
「へえ、それじゃあ、その皮膚の深みとやらに、到達するための、儀式を試みましょうか?」
彼女は、面白がるような口調で、人の興味を引くような言い方をする。
「うん、それはなんだい?」
私が思わず聞き返すと、回答は明確だった。
「もちろん、」
と、そこで、言葉を区切ることはせずに、当然の帰結のように言葉がつがれる。
「セックスよ」