Sounds Of Singles

Kazusi Moriizumi Presents


新世紀エヴァンゲリオン アナザーアフターストーリー

<CANDY HOUSE>

最終話・後編「まっぷたつの僕ら」


(World's end -Primitive Version-


 啜り泣きだけが、部屋の中に響いていた。
 それはとても小さくて、静かな声にしか過ぎなかった。
 けれど明確な情動を伴ったそれは、まぎれもなく慟哭と呼ばれるものだった。
 畳敷きの部屋の中、敷きっぱなしの布団の上で。窓を抜けて差し込んでくる月の光にだけ、その身を抱かれて、膝を抱えこんだ少年はひたすらに泣き濡れるしかなかった。
 これほどまでに自分が傷ついているということを自覚したのは、シンジとしても初めての経験だったのだ。
 拒絶にも慣れたつもりでいた。
 孤独にも慣れたつもりだった。
 全ての柵から自分を隔絶させて、たった一人だけで生きて行くつもりだったはずなのに。
 それなのにアスカはここに押し掛けてきて、シンジの敢えて凍らせた心を打ち壊し、彼女自身の身体で女を教え、挙げ句の果てに彼の心を裏切ってみせたのだ。
 これほどまでに、手酷い仕打ちを受ける謂われがシンジにあったというのだろうか?
 ぐす、と緩んできた鼻をすすりながらシンジは顔をあげる。
 その拍子に、再び涙が頬を伝い落ちていく。
 熱い水滴は裸の膝を濡らし、シーツへと落ちる。
 それを目で追ったシンジは、真白いシーツの上に零れた涙が作った大きな染みに今頃になって気づいた。
 一体、どれくらいの涙を自分は流したというのだろう。
 シンジは自分自身がこれほどの涙を流せることに驚き、そして、自分がどうしてこれほど泣かなくてはならないのか判らなくなっていた。
「僕が……悪いんじゃない……」
 そう言って、シンジは立てた膝頭に顔を埋めた。
 本心ではそうは思っていないにも関わらず、シンジはそう口にせざるを得なかった。
 何故ならシンジは、自分が理解することのできないアスカに初めて直面し、混乱しきっていたからなのだ。
 この家に来てから初めてアスカがシンジに見せた、積極的な拒絶。
 かつての同居時代であれば、何度となくそんな状況はあった。
 シンジを嫌っていたアスカ。
 アスカを疎んじていたシンジ。
 だが、現在の二人の間においては、そのような事態が起こってはならないはずだった。
 幾度となく身体を重ね、心を重ね合った間柄であれば。
 何度となくアスカはシンジを求め、シンジはそれに応えてきた。
 確かに肉の営みにはシンジ自身の覚える雄の欲望も、それに伴う疚しい気持ちも介在していた。
 だが、全てはアスカの願いを満たすための行為だったのだ。
 彼女に尽くすための献身の行為だったはずなのだ。
 だからこそシンジは、いまこそ初めて能動的に自分自身の願いを満たすためにアスカを求めようとしたのだ。
 巷間よく言われる、無償の愛こそが美しいということは、シンジにもよく判っている。
 だが、そんな都合のいい愛など、実際に存在するものではない。
 決してシンジは聖者ではないのだから。
 殊に二人の関係が、日常生活という代わり映えのしない日々の繰り返しの中であれば尚更のことだ。
 アスカの方からあれほど淫らに体を開いてシンジを誘い、己の欲望を満たし続けていながら、シンジがその欲望を求めた途端に、掌を返したように拒絶するなど許されることではない。
 もし、それがアスカにだけは許されるというならば、シンジの存在意義は彼女にとってのダッチワイフに成り下がってしまう。
 そんな事実はシンジ自身、認められるはずもないし、また認めたくはなかった。
 いままでシンジがアスカに尽くしてきたのは、自分がアスカにとって必要な人間だと思っていたからこそ耐え続けられた行為なのだから。
 無論、自分にとってもアスカが必要だと思っていたからだった。身体だけではなく、惣流・アスカ・ラングレーの存在そのものが。
 その事実を否定されてしまった。
 差し伸べ続けた手の方向が、僅かに変わったというだけの理由で。
 さしものシンジも、自分の心に憎しみが萌芽することを感じないではいられなかった。
 その鋭い剣のような芽の先が胸を貫き通して幻痛を生じさせる。
 まやかしと判っていてもなお痛む激痛に、体を丸めて耐えるしかない。
 しかし、何故シンジが耐えなければならないのだろう?
 憎んでいる。
 それが全てなのだ。
 最期にシンジが、アスカに残したあの一瞥。
 あの一瞬、シンジは間違いなく心の底からアスカを憎んでいた。
 かつての父親と同等、いや、それ以上の憎悪をアスカに対して確かに抱いていたのだ。
 その事実さえもが、更にシンジの心を容赦なく責め立てた。
 しかも、それはその一瞬だけではなかったのだ。
 シンジは知ってしまった。
 アスカに対して憎しみを抱いてしまったがゆえに、自分がアスカを憎み続けていることを。
 そして、その憎しみがいま芽吹いたものではなく、自分の心の中に既に育っていた感情であったと言うことに。
 消しようのない、否定しようのない思いをアスカに対して自分が抱いていたことを知ってしまったからこそ、シンジは苦しみ悶えていた。
 嗚咽の切れ間に、シンジは苦しい胸のうちを吐露するかのように言葉を吐きだす。
「僕はッ……アスカを許せなかった……許せなかったなんてッ!」
 喀血する肺病の患者のように、シンジは途切れ途切れに言葉を吐き出した。
 その言葉は、紛れもなく怨嗟に血塗られたものだったろう。
 だから言葉とともに流れ落ちていくシンジの涙は、アスカに裏切られたことに対するものではなく、自分が許してやれなかったことへの悔恨の涙に変わっていた。
 だが、シンジの向けるべき思いは間違っている。
 許せない。
 そう思ったからこそ、シンジはあの冷酷な視線をアスカに投げてしまった。
 混迷する精神に惑わされているシンジ自身は気付いていなかったが、アスカの肉体的な過去などはシンジはとうに許していたのだ。
 アスカが処女だろうが非処女であろうが、そんな些細なことなどシンジにとってはどうでも良かったのだ。
 無論、感情の上では多少の嫉妬心は起こるかも知れない。
 だが、もっとも大切なことは、いま、アスカがここにいてくれることだけだったのだから。
 だから、シンジは自分をも許して、アスカを抱きたいという欲望を口にしたのだ。
 自分が許しているということを、端的に理解して欲しくて。
 それなのにアスカは、シンジの願いを踏躙った。
 シンジの与えてくれようとした許しは、アスカの願いからすれば拒絶されるべきシチュエーションではあった。
 だが、それはアスカ個人の抱いた真実でしかない。
 シンジが抱いた真実は、アスカにとっての真実などあずかり知らぬのだ。
 シンジの知り得ない真実はシンジの現実ではない。
 それすらも許そうとするから、シンジは懊悩するしかなくなってしまう。
 人は、神ではないのだから。
 たとえシンジが、一度は現人神となった身であったとしても。
 それに神とて、嫉妬の心から逃れた試しはないのだから。
「僕が……傲慢だったんだろうか?」
 混乱した意識の狭間で、ぽつりとシンジは零す。
 答えが返ることがないのを知りながら。
 だから、言おう。
 それこそまさに、傲慢だと。
 自分の選んだ行動を他人に理由付けをしてもらうほどには、最早シンジは子供でもない。堂々巡りになることが判っている思考の迷宮から抜け出さずに、そんなことを考え続けることこそが傲慢だというのだ。
 苛酷な言い方かも知れないが。
 だが、それでもシンジは何らかの結論を出せるはずなのだ。
 アスカと暮らした年月を、シンジはただ無為に享受してきたわけではないのだから。
 そして、カヲルに言われた言葉をシンジは決して脳裏から消し去ったわけではなかったのだから。


 鳥達の囀りが、聞こえ始める。
 いつしか空に藍色の色彩が混じり始め、黎明が間近に迫っていた。
 景色を切り取る、ほの暗いコントラストを織りなす窓辺に、脚を投げ出して座る人影があった。
 その孤独を体現したかのような姿は、もちろんシンジだった。
 もはやシンジの瞳から涙は流されてはいなかった。
 涙も枯れ果てたとでも言うのだろうか。
 ただ、微動だにしない視線をシンジはまだ暗く翳った芦ノ湖に向け、水面に吹きだまっている朝靄が刻々と姿を変えるのをただ見つめている。
 ひたすら、無心に。
 だからといってシンジが思考を放棄していたわけではなかった。
 たった一人でシンジはずっと考え続けていた。
 本当は何が悪かったのかを。
 求めるべき答は、実はシンジには判っていたのだ。
 そう、昨晩、加持に諭されたとおりに。
 シンジはその事実から目を背け、自分の心を偽り続けてここまで来てしまった。
 そのことに気づいて、シンジは自分の抱いていた偽りの心にほとんどの決着を自分自身でつけた。
 たった一つだけ抱いた、恐怖を除いて……
 その恐怖だけは決して消すことは叶わない。
 一人だけでは決して消去することのできない、恐怖。
 それは人と人が、殊に恋愛途上においては絶対に消し去ることのままならぬ感情なのだから仕方がない。
 シンジの抱く恐怖とは、言うまでもなくアスカの喪失ということだ。
 だが、それを秤にかけてでも言わねばならないことがある。
 もし、アスカを失うことになったとしてもこの思いを告げなければ遠くない将来、間違いなく互いの心は完全に破壊されてしまうだろうから。
 その辛く、苦い思いを、シンジは一人噛みしめていた。
 そして、待ち続けていた。
 彼女がここにやってくることを。
 アスカがこの部屋を訪れるだろうことをシンジは確信していた。
 何故、それがシンジに確信できるのか。そして自分から行動を起こすのではなく、ただ待ち続けるのはどうしてなのだろうか。
 シンジにもアスカが見せた拒絶の意味がようやく理解できたからだった。
 しかし、眼前に突きつけられたアスカの真実を受け入れるかどうかは、シンジの胸の裡に隠されたまま、まだ答は顕わにされてはいない。
 そのとき、自然の立てる音以外が一切排除されていた静かな部屋に、それ以外のものが発する音が不意に混じる。
 決して、それは大きな音ではなかった。むしろ控えめな音と言ったほうが良かったろう。
 その音とは、襖が開かれるときに立てる、微かに軋る音。
 シンジの耳にもそれは届いていたが、襖の方に視線を向けるようなことはない。
 入ってきたのが誰かなどと問う必要はないからだ。
 跫音もなく、アスカは部屋に滑るようにして入り込み、後ろ手に襖を閉じた。
 柱に桟の当たる音がぴしりと大きく鳴り、静寂の中に響いた。
 自分の立てた音にアスカは驚いてしまい、窓辺に座ったシンジを思わず見つめる。
 アスカは自分を見つめられたくないと思っていた。
 けれど、シンジにこちらを向いても欲しかった。
 自分の顔を見つめてもらい、何か声を掛けてもらえるならば、胸をねじ伏せようとする重苦しいプレッシャーを取り除いてもらえるだろうから。
 だがアスカの目にするシンジの横顔は、まるで象牙で彫られた彫像のように堅く変わることがないまま、身じろぎ一つするでもなかった。
 その佇まいに気圧されるようなものをアスカは覚える。
 かつて、シンジがアスカに見せたことのある、無言の拒絶とは違うはずだった。
 それでも、いまのシンジが何を考えているのかアスカには判らない。
 昨日までの自分であれば、目の前の少年が何を考えているのかすぐにも判ったというのに。
 ──違う、判っていたんじゃない……
 アスカは昨日までの自分の思いをきっぱりと否定した。
 判っていたつもりのことだけだと、アスカも気づいたからだった。
 自分は本当にシンジの気持ちを判っていたのではなかった。
 自分がして欲しいことをシンジがしてくれるはずだと知っていただけにしか過ぎないのだと。
 だから、シンジが自分を見てくれないくらいのことで竦んでしまうのなら、この部屋に立ち入ろうとしたりはしない。
 この場所からさっさと逃げ出して、別の人生でも送る方が遙かに気楽と言うものだろう。
 だからこそアスカは小さな深呼吸を一つつくと猫の気安さを気取って、シンジの傍らに、さも当然の様に腰を下ろしてシンジの辿る視線の先を追いかけた。
 深く蒼い早暁が形作る、様々な木々の陰影がそこにはあった。
 その景観をアスカは意外な思いで見つめていた。
 かすかなシルエットを浮かべる景色は、いつも目にするそれとは全く違って見えた。
 普段、目にしている情景と違うのは色合いだけだというのにも関わらず。
 靄の中に埋もれた木々と、見透かすことすらかなわぬ芦ノ湖の湖面。
 眼前に展開される光景は、あまりにも自分たちの胸中と似通っていたから。
 それがアスカから言葉を奪い去っていた。
 どれくらいの間、二人は黙ったままだったろう。
 窓の向こう側の景色を彩る光が闇の半分ほどを駆逐したころになって、ようやくシンジが口を開いた。
「僕たちさ……」
 シンジの言葉にアスカが顔を振り向けて、凍てついてしまったかように表情を変えることないシンジの横顔を見つめた。
「もう、駄目なのかな?」
 怒りも絶望も、どんな感情一つも、シンジは言葉の中に込めたつもりはない。
 ただ、自分の目の前に突きつけられた事実を確認しただけの言葉に過ぎなかった。
 しかしシンジの口にした言葉は、アスカにとっては眼前に立ちはだかる事実以上の意味を内包していた。
 アスカは胸に狂おしいほどの哀切が溢れるのを感じ、思いもかけない苦しさに胸に手をやらずにはいられなかった。
 アスカの知っているシンジならば、こんな訊き方はしなかったはず。
 そもそも、こんな台詞を言わせるためにアスカはシンジを追い込んだのではないのだ。
 けれど、シンジにこんな訊き方をさせてしまったのは、紛れもなくアスカ自身が放った言葉のせいだったのだから。
 その事実がアスカの胸を刺し、貫いていた。
 しかし、ここで全てを、二人で築いてきた関係を終わらせてしまうわけにはいかない。
 たとえその関係が間違った手法で築かれてしまった楼閣であったとしても、もう一度やり直すためのパートナーは、やはり目の前の少年しかいないのだから。
 そして、この痛みを耐え抜き、その痛みさえも打ち壊した先にしか、全てをやり直すための手立ては存在しないのだ。
 ここで諦めてしまったら、あとは死んだように生きることしか自分たちには残されていない。
 アスカの葛藤をよそにシンジの独白は続けられる。
「僕は、アスカを許したいと思っていたんだ、ずっとね……」
 シンジの発した言葉に、恐ろしいほどに縛め続けられていたアスカの胸が僅かではあるが緩んだ。
 苦痛に耐えることで焦点を結ぶことのできなかったアスカの蒼い瞳が、少年の横顔を再び結像させようと努力を始める。
 そこには気弱な微笑を浮かべている見慣れたシンジの表情があり、漆黒の瞳はアスカの思っている以上に真摯な色を浮かべて自分の顔をしっかりと見つめていた。
「昨日はいろんなことがあったんだ……」
 そう前置きすると、シンジはアスカに向かってにこりと笑って見せる。
 だが、その笑みがアスカには酷く儚く見えた。
 アスカにはシンジの微笑が、まるで死を迎える人間の末期の表情のように見えてしまったからだ。
 ただならぬ不安に、アスカはシンジのTシャツの袖の裾をぎゅっとつまんだ。
 それがアスカの精一杯だった。
 まだ、いままでのように気安く肩を抱いたり首にかじりつくことは許されないような気がしていたから。
 シンジとて引っ張られる服地の感触には気づいたろう。
 しかし、それに言及することなくシンジは言葉だけを重ねた。
「加持さんには謝ることを教わった。フユミちゃんやトウジには許すことを教わった。綾波には人の隠された思いを汲み取ることを教わったんだ。だから僕にもアスカを許して……そして許してもらうことができると思っていたんだ」
 そこまで言うとシンジはふと瞳を閉じ、アスカが向ける縋るような重たい視線から逃れるようにして顔を背けて立ち上がる。
「…………」
 無言のまま、アスカはシンジを見守る。それしか、できなかった。
 長いこと動かさなかったせいで軋む身体をシンジは伸ばしつつ、窓辺の隣に置かれている勉強机に備えられた椅子へと座り直す。
 敢えてアスカから距離を置いたとしか思えないシンジの行動を、彼女は複雑な面持ちで見つめていた。
 なぜ、自分から離れるようとするのか?
 この行動一つとってみても、いままでのシンジらしいとは言えなかった。
 この家に来てからのアスカの知るシンジであれば、彼女の求めるままに、ここに足を踏み入れた彼女の意図を汲み取り、傍から離れたりする様な真似をすることはないはずだった。
 だから懸念という名の叢雲が、一つ、また一つとアスカの胸によぎり始める。
 顔を仰のかせながら、シンジは疲れ切ったように体重を椅子の背もたれに預ける。
 ギシリと椅子の背もたれが鳴った。
 神経に触るような、轢るその音は、静寂の支配が続く部屋の中にはやたらと大きく響いた。
 シンジは顔を右の掌で覆うようにして嘆息の重い空気の塊を吐きだす。
 まるで人生に疲れ果てた老人のような仕草に、アスカは見てはいけないものを見てしまったような気になり、気の毒とさえ言える姿を曝すシンジから目を背けた。
「でもさ……そんなのは僕たちの間では幻想に過ぎないんだよね、アスカ?」
 覆った手の中に向けて吐き出した台詞は、酷くこもって聞こえた。
 そのままの姿でシンジの吐きだす言葉に、アスカは背筋に冷たいものが流れるのを感じないではいられず、再びシンジに視線を戻した。
 何が変わったというのだろう。
 アスカの見つめる先にいるシンジは、何一つ変わっていないように見える。
 疲れた仕草を隠しもせずにいるシンジ。
 確かにあからさまにこんな姿をアスカに見せつけたのは初めてのことだった。
 しかし、決してそれだけが理由ではなく、アスカの目に前にいるシンジはなにがしかの変化を伴っていた。
 邪悪、とは言えるものではなかったが、どこかしら禍々しいものを感じさせる何かが、シンジの吐きだした言葉に込められているのをアスカは感じ取っていた。
 椅子の背もたれを再び鳴らしながら椅子から身を起こしたシンジは、膝の上に肘を乗せて前かがみになると、アスカの顔を射抜くように見つめた。
 その視線に魅了の魔力がかかっているわけでもないだろう。
 しかし、濡れたような黒曜石の輝く瞳に魅入られてしまったアスカは、射抜かれた視線を逸らすこともできずに身を強張らせることしかできなかった。
 身じろぎ一つすることさえままならないアスカに向けて、シンジは思いもかけぬ凄みのある笑みを浮かべてみせた。
 シンジの顔に浮かべられた表情に、アスカははっと息を呑みこんだ。
 かつてアスカが一度も見た覚えのない顔を作るシンジに対して、初めての感情を覚えていた。
 アスカの心に芽生えた感情はまさしく、怖れであった。
 シンジの浮かべた表情こそは、まさに男だけが作りえる顔だったからだ。
 いままでのシンジが見せていた、少年の顔ではなかった。
 先刻のシンジの告白。
 あの時ですら、シンジは己の欲望を吐露したにも関わらず、それでも少年のままだったのだ。
 しかし、いまシンジの顔に浮かんでいるのは何一つ口にしないにも関わらず、貪欲に、そして雄弁に何かを欲することを示す獰猛な雄の表情なのだ。
 シンジが紛れもなく男の一人であるということに、アスカは先刻気付いたはずだった。
 しかし目の前にそれを突きつけられることは、判ったと言うこととは全く別のことだと言うことをアスカは思い知らされる。
 ──それでも……シンジが望むのなら……
 そう、思う。
 けれど、どう思おうとも身に走った怖気の感情は容易く消し去れるものではない。
 アスカの顔に浮かんだ狼狽を見抜いたシンジが含み笑いを漏らす。
 その、咽喉の奥で発された音は明らかに嬲るような響きを伴っていた。
 信じがたい音に我知らず、アスカは呼吸を止めた。
 だが、シンジの立てたそれはアスカに向けてのものだったのだろうか?
 恐怖に縛られてしまったアスカの思いがそこまで及ぶはずもなく、ただ身の竦む思いと戦うだけで精いっぱいだった。
 シンジは再び言葉を連ね始める。
 まるで、猫が瀕死の鼠をいたぶるように。
 アスカの浮かべる表情を楽しむかのように。
「ずいぶん前に言ったよね……アスカに憎まれているのは判っているって……」
 言葉に直接、鼓膜を殴られたような気がした。
 その言葉を確かにアスカは覚えていた。初めての夜、確かにシンジはアスカにそう告げたのだ。
 あのときにシンジはアスカに言った。
 憎まれていても構わない、と。
 それを何故、いま、蒸し返すのか?
 すなわち、シンジの言葉は予兆。
 アスカは先を続けさせてはならない。
 そのはずだった。
 だが、アスカの咽喉はからからに灼き付いて、何一つ言葉を出せなかった。
 ──言わないで……お願いよ、シンジ……
 動かすことのできない口の中で、アスカは必死にシンジに懇願する。
 けれど、声にならぬ言葉はシンジに届くはずもない。
 だからシンジは平然と言葉を続けてしまう。
 終局へと向かって。
「……僕がアスカに憎まれているように、僕もアスカを憎んでいたんだよ」
 アスカの中の刻が……止まった。
 いままで刻まれてきた幸せな時間を数える時計の針が、アスカの中で動くのをやめてしまった。
 それとともにビデオを止めたかのように、アスカの目の前のシンジの姿が中途半端にぼやけたように硬直した。
「きっと……出会った頃からね」
 最後のシンジの台詞。
 それによってアスカの胸は貫かれ、止められた時計は粉々に爆散する。
 煌めく破片の幻像をアスカの脳裏に灼きつけて。
 何も感じなかった。感じることができなかった。
 泣きたいのに泣くことができない。そんなもどかしい思いだけが胸の奥で疼く。
 その疼きだけが、ぽっかりと心の一部が抜け落ちたような感覚を伝えていた。
 目の前に存在しているはずのシンジの姿が、ただひたすらに遠くなっていくような錯覚をアスカは感じていた。
 シンジのこの告白こそ、アスカがずっと望んでいたことだったというのに。
 自分を偽ることなく、相手に対して抱く思いを本当に曝け出すこと。
 実のところ、アスカはずっとシンジに憎まれようとし続けていたのだ。
 あの淫蕩の狂気に彩られた夜のときだとて、そうだったのだ。
 自分をシンジに憎ませることによって、ぶつけられる憎しみを自分は受け止め、優しく癒してみせるとアスカは高を括っていたのだ。
 そうなのだ。シンジがアスカに対して取り続けているスタンスと同じスタンスをアスカ自身がとってみせることによって、アスカは自己満足を得ようとし続けていただけだったのだ。
 所詮は合わせ鏡の中の出口のない堂々めぐりに過ぎなかったのだ。
 それが判った。
 突きつけられた憎しみの感情というものは、アスカの想像するよりも遥かに苛烈で容赦のないものだったのだから。
 ――そ……そんな……つもりじゃ……
 無感覚の状態からは脱したアスカの心だったが、今度は嵐のように惑乱が蹂躙する。
 感情と言う名の暴風に吹き曝され、露わにされていく自分自身のエゴ。
 それを覆うベールが全てひっぺがされたとき、遂にアスカは自分の心が悲鳴を上げるのを聞いた。
 憎しみという感情を直接ぶつけられたことなど、アスカには皆無だったのだから、無理もないのではあるが。
 余人に真似のできない努力によって、自らの価値を高め、遥かな高みを目指していた少女に対し、憎悪という感情を露わにする人間は存在しなかった。
 ただし、アスカの預かり知らぬところで無責任に囁かれる、妬みや嫉みといった矮小で嫌らしい感情ならばそこかしこで見せつけられることとなった。
 小さな噂となり伝染病のように流布される、妄言。
 根も葉もないそれと対抗するためには、更なる実力と断固たる態度を見せればよいことをアスカは経験則で知っていた。
 だからそれらの口さがない噂は瞬く間に沈静化された。
 実力の一言だけを以て。
 故にこそ、面と向かって「憎い」と言われた経験がアスカにはない。
 アスカはそれに対抗するために、憎しみという名の剣を取り、その鋭利な刃を振るい続けてきたというのに。
 目の前の少年に向かって、何度その感情の剣先を突き刺したと言うのだろう。
 その度にシンジの心はどれほど傷ついていたことか。
 その痛みの片鱗すら見せることなく耐え忍び、自分を常に包もうとしてくれたシンジの本当の優しさを、アスカは初めて身を以て体験することとなった。
 自分がどれほど他人の与えてくれる優しさに胡座をかき続けていたかと言うことを、この期に及んで思い知らされた。
 しかし、全てがもはや手遅れなのだろうか?
 言葉を失ったアスカに向けて、容赦のないシンジの告白は続く。
「そうだよ……あの日アスカが僕を本気で憎んでいるって知ったってのにね」
 シンジの顔に苦渋が満ちた。
 今度もまた、そこには少年の顔は存在しない。
 その顔に浮かんでいるものは、恋愛という激しい感情のうねりに倦み、絆の重さに疲れた一人の年老いた男のような表情でしかなかった。
 しかし、痛切なシンジの顔を、混乱に打ちひしがれたアスカが見ることはなかった。
 だが、シンジはアスカを見ていた。
 自分の足許に蹲ったまま顔を上げることすらできずにいる、気丈で、溌剌としていたはずの少女の見るに忍びない姿を。
 だから、シンジは声を掛ける。
「……アスカが戻ってきてくれたとき、僕は本当に嬉しかったんだ」
 しかし、浮かべている表情とは裏腹に、シンジの吐いた言葉には希望を持たせる響きがあった。
 シンジの口にした言葉に一条の光明を見いだし、悲嘆に暮れるアスカは俯けていた顔を上げ、シンジの顔を見つめた。
「!」
 だが、そこにあったのはアスカの期待していた顔ではなかった。
 自嘲的な嫌らしい微笑を口許に貼り付けた顔だった。
 まるで出来の悪いオートマタがこしらえる笑い顔のような表情を、シンジは作って待っていたのだ。
「だって、僕は何もしなくて良かったんだよ。それにアスカから戻ってきてくれたんだから僕は気楽だったよ。アスカのご機嫌さえとっていれば良かったんだから。アスカの機嫌を損ねないように相手をしているだけで良いんだから簡単なことさ。ちょっとだけ僕が我慢してアスカに抱かれてあげれば、それだけで済んだんだからね」
 それは気安く、軽く、おどけたような口調だった。だが、その裡に込められた意味はまさに怒号であり、断罪であり、破局であった。
 自分が気を失わないのが不思議なほどの喪失感を、アスカは感じていた。
 痛みなぞ、もはやない。
 ただ、全てが塵埃となって吹き散らされるような乾いた感覚にアスカは襲われていた。
 その渇きはいつか落ちたことのある奈落をアスカに思いださせていた。
 奈落の底でアスカが胸に秘め続けていたのは、常にシンジのことだけだった。
 だが、あのときは憎しみによって思いは増幅され、消え去ることはなかったが、今度ばかりは感情そのものが消し去られてしまったかのように、一つ一つシンジと共にした記憶がアスカの中で、小さく弾けてしまう。
 ――あの……優しさが……
 シンジの笑顔が浮かぶ。
 そして、それは黒く塗り潰される。
 ――あの……愛おしさが……
 シンジに貫いてもらったときの悦びが体に甦る。
 そして、それはおぞましい汚穢へと変わる。
 ――嘘……なの……
 そうだ。
 全ては「嘘」でしかなかったのだ。
「ひっ!」
 不意に襲いかかった激痛に、アスカは胸を押さえながら小さな悲鳴を上げた。
 精神汚染の痛み。
 アスカの胸を、いや、全身を襲ったのは、それと同質の痛みだった。
 しかし、ヒトに与えられるそれは、使徒のものなどより遥かに強力で、また性質の悪いものだった。
 ままごとに過ぎなかったとはいえ、長い月日を愛してきたと思っていた相手から、全てが嘘だったと伝えられてしまったのだ。
 これから先、何を信じて生きてゆけというのだろうか。
「あ……あ、ああ……」
 意味のない言葉が零れる。
 心はもはや機能などしていない。
 ただ、全身を切り刻む痛みを耐えきれずにアスカは震え、怯えるしかなかった。
 逃げ出す心が、安住の地を見つけようと迷走する。
 ──これがシンジの耐えてきた痛みだったの?
 嫌々をする子供のようにアスカは首を振りながら、必死にアスカはシンジの心を探ろうと、自分を責め立てる痛みをシンジのものになぞらえようとしていた。
 しかし、それでもアスカの怯懦な心は楽な方向へと逃げてしまう。
 そう簡単に対峙できるような感情ではないのだ。憎悪というものは。
 だからアスカの心はもっとも楽な道、責任転嫁という方法を択んでしまう。
 ――違う! アタシはこんなことを聞きたかったんじゃないッ!
 アスカが聞きたかったのは、シンジの謝罪だった。
 それを受け止めて、優しく宥めてやりたかった。
 先刻シンジが求めたこの体をその瞬間にこそ捧げて、全てを水に流してやりたかった。
 それだけでアスカ自身は満足できたろうし、シンジも一人で過ごした時間を糧として、二人の関係を精算し、やりなおせると思っていたのだ。
 だが、それもまた傲慢以外の何物でもない。
 アスカのその思いはシンジがいま言ったばかりではないか。
 しかし、アスカは自分たちの思考の相似に気づくことはなかった。
 シンジの吐き出す毒のこもった言葉に痛めつけられたアスカの心は、何かに気づくことなどできる余裕を失っていたのだ。
 シンジの放った言葉は、どんな凌辱よりも烈しく無惨にアスカの心を蹂躙した。
 まさに、言葉による強姦そのものだった。
 それから逃れる術はただ一つ。
 耳を塞ぎ、心を閉ざして、この部屋から逃げ出すこと。
 かつてシンジがしていた行動をアスカはなぞろうとしていた。
「嫌あぁぁぁっ!」
 一言叫んだアスカは、発条仕掛けの人形のように立ち上がり、脱兎の如く駆け出そうとする。
 だが、その細く白い二の腕をシンジの手ががっしりと捕まえて離さない。
「嫌ぁっ、離して、離してえっ!」
 駄々っ子のように腕をばたつかせて、アスカは必死にシンジの手を振りほどこうとする。
 シンジは椅子から立ち上がると、腕に力を込めてアスカの動きを封じつつ、ゆっくりとアスカの身体を引き寄せ始める。
「まだ……話は終わっていないんだよ、アスカ」
 ――もういいわよっ!
 そう、アスカは叫びたかった。
 こんなにやるせない思いまでさせられるとは思ってもいなかった。
 これほどのやりきれなさを味あわせられるのなら、一生をたった一人で過ごしても構わないとまで思う。
 だが、アスカに知る由もない。
 その思いもまた、シンジが辿ってきた道なのだということに。
 混迷の極みに陥ったアスカの思考は、そのことにも気づくことはなかった。
 シンジの顔も見たくない、声も聞きたくない、肌に触られているなんて以ての外だった。
 それでもなお、シンジに掴まれた腕を振り解くことはできなかった。
 それが自分の諦めなのか、未練のように残る期待なのかは判らない。
 圧倒的な力の差に、意に反して抱き寄せられてしまう非力な女の身体を恨みながら、アスカはただ泣いていた。
 目を瞑って、蒼の瞳だけは犯されることのないようにして。
「逃げちゃだめだよ、アスカ……」
 シンジは腕の中に力を失ったアスカの身体を抱いて、耳許に顔を寄せるようにして囁いた。
 囁きかけられたアスカにはシンジの声が酷く歪んで聞こえ、虫が這いずり回るような悪寒さえ感じていた。
 だが、シンジは本当に真剣にその言葉を発したのだった。
 アスカの肩に手を掛け、シンジは真っ直ぐにアスカの顔を覗き込んだ。
 感覚だけでアスカはシンジが自分のことを見つめていることが判る。
 それほどまでに判りあえているはずなのに、いまはそれがあまりにも煩わしく、穢れたものに思えてしまう。
 だから、アスカの貌は背けられる。
 無論、瞳は開かれぬまま。
 それでも構わずにシンジは告げた。
 本当に、本心からアスカに告げたかった一言を。
「……アスカだけなんだ。僕に他人を憎むことを教えてくれたのは……」
 ――え?
 先刻までと内容が大して変わった言葉ではなかった。
 けれど、シンジの言葉にはアスカの心を沈静化させるだけの言霊が宿っていた。
 そして、言葉ではなく言霊は続く。
「それに僕は、僕がアスカのことを憎んでいたとしても、それでもアスカと一緒にいたいんだ。アスカと一緒じゃなきゃ嫌なんだ。一人じゃいられないんだ、もう……」
 シンジの言葉にアスカは思わず目を見開いていた。
 それは真っ直ぐにシンジの黒い瞳とぶつかり、黒の視線が自分の蒼の瞳の中に押し入ってくるのを感じる。
 けれど、嫌な感じは全くなかった。
 先刻、あれほどまでに自分をずたずたに切り裂いたはずの黒の視線が、いまはアスカの良く知る、いや、それよりも遙かに力強く優しい光を湛えて輝いていたから。
「あ……あ……」
 声にならなかった。
 無限の失墜感に取って代わる果てのない浮遊感がアスカの胸に溢れて滾る。
 コキュートスからヴァルハラへの一直線の飛翔。
 それほどの歓喜が胸から溢れかえった。
「好きなんだ……」
 ぽつりと言うと、すぐにシンジは首を振り、いましがたの自分の発言を否定する。
「違う……愛してるんだ、アスカ……本当に……」
 そう言うと、シンジはアスカの柔らかな身体をしっかりと抱きしめる。
 息苦しいほどに強く抱かれた身体に走るもの、それはまさに歓喜だった。
 その言葉をシンジが口にしてくれたのは、本当に初めてだったからだ。
 アスカも歓びのあまり震えを抑えつけることのできない手をシンジの背に回し、その力強さを感じさせてくれる身体をしっかりと抱きしめた。
「アスカ……震えてる?」
 固く抱きあったまま、肩越しにアスカの金の髪に顔を埋めたままシンジが訊ねた。
「う……うん、アタシ、震えてる……」
「ゴメン……嫌な思い、いっぱいさせたね」
「いいの……もう、いいの……いまは……うれ……し……」
 そこまでだった。
 さしものアスカも感情の制御ができなくなることを知っていた。
 それでも、必死になってシンジの言葉に答えたが、それが限界だった。
 堰を切ったようにアスカは声をあげて泣き始め、シンジはアスカの髪を優しく梳りながらずっと腕の中の少女を抱きしめ続けていた。


 アスカがようやく泣きやむことができたのは、すっかり夜も明けてからだった。
 互いに感情の歯止めが効かなくなっていることを二人は知っていた。
 当然といえば当然なのだ。
 ようやく二人して、手に手を携えて奈落の底から本当に這い上がることができたのだから、無理もない。
 だから泣いたままのアスカをシンジは抱いた。
 だから泣いたままでアスカはシンジに抱かれた。
 互いの体を強く抱き合い、いつにない激しさで二人は互いを貪り合い、互いに抱いた愛情を確かめあった。
 いつしか陽は中天にあり、部屋の中はいつも通りの夏の日差しに満たされていた。
 蝉の声がやかましく窓の外から聞こえ、白いレースのカーテンが微風にそよぐ。
「アスカ……起きてる?」
 玉のような汗を浮かべたシンジが閉じていた目を開いて、天井を見つめたまま訊ねた。
 シンジの問いに答えはすぐさま返された。
「アンタの顔、ずっと見てたわ」
 シンジの傍らに俯せになっていたアスカが半身を起こし、汗に濡れて束になってしまった髪を掻き上げつつ、小首を傾げながら答えた。
 そんな仕草一つ取ってみても、アスカの表情は以前とはどこか違って見える。
「そう」
 横目でアスカの顔を見たシンジははにかむように微笑み、ようやく首を巡らせてアスカの瞳を見つめた。
 碧玉のようなそれを見つめながら、シンジは最後の最後に残しておいた言葉を告げる時が来たことを悟っていた。
 いまならそれを言っても許されるから。
 そして、それをアスカに伝えなければ自分たちは、再び堂々めぐりの日々しか繰り返せないのだから。
 だからシンジは再び天井に目をやると、独白のように言葉を連ね始めた。
「僕は……アスカのことを憎んでいると思われたくなかったんだ。憎んでいることを知られたらアスカがここからいなくなると思っていたから……だからアスカの言うことはなんでも聞いたし、なんでも耐えたんだ」
 シンジの言葉に、ふっと小さな溜息をついたアスカも先刻と同じように、身を伏せて腕を組み、その上に形の良い顎を置いた。
「そうよね……だからアタシはそんなアンタに平気な顔をして甘え続けてきた。アンタがなんでも言うことをきいてくれるから、自分の欲望を平気で曝けだしてきたのよ……自分の浅ましさに気づくこともできなかった……」
 そう言うとアスカは頭を横に向けて、シンジを見つめた。
「先刻、シンジに憎んでいるって言われたときに、アタシは逃げることしか考えられなかったわ……」
 アスカの言葉がシンジの胸に引っ掛かった。
「どうしてアンタはあれだけのことをアタシにされて逃げなかったの?」
 やはり、そのことだったか。とシンジは思う。
 かつて二人の間で過ごすこととなってしまった、淫獄の日々。
 先刻まで二人で重ね合っていた身体とは全く違う意味合いの、肉体の繋がりだけを求めた時間。
 無意味にしか思えない、爛れた時を過ごしたことがあったのだ。
「それは……アスカのことが好きだったからだよ。それにあのときも本当にアスカのことが心配だったから……それしかないよ。それでも、僕は内心ではアスカを憎んでいたんだ。だから逆にアスカのことをああやって犯せたんだと思う。アスカが許してくれているんだから、何も考える必要がなかったから……本当は考えなくちゃいけなかったのに、考えることも放棄してアスカのご機嫌取りだけをしていたんだ……」
「ごめんねシンジ……あのときは……」
「いいんだ、もう済んだことだし」
「でも……アタシはそれをシンジに教えたかったのかも知れないわ。いまだから言えることかも知れないけど……」
 シンジが驚いたように顔を巡らす。
 アスカの瞳を見つめて、シンジは先を促すように瞳で訊ねた。
「アスカ……もしかしてあのときから?」
 少しだけアスカは考え込むような顔をしたが、ややあって頷いた。
「そう、多分ね。でも、あのときはいまみたいなことを考えていたんじゃないわ。ただあのときはアンタを失いたくなかっただけよ」
 そう言って、アスカは可愛らしく舌を出した。
「あたしだってあんたのこととやかく言えないわよね。身体さえ与えていればあんたはずっと側にいてくれるなんて思っていたんだから……」
 シンジは微かな苦笑を漏らした。
 確かにアスカの魅力的な肉体を失ってしまうのが惜しいという気持ちがなかったとは、決して言い切れなかったからだ。
 だが、その瞬間に、まるで啓示のようにシンジの心に理解できた事象があった。
「……そういうことなのかも知れないや」
 少しばかり唐突なシンジの言葉に、アスカは碧玉の瞳に胡乱げな色を添えた視線をシンジに向ける。
 それに気づいて、シンジはアスカに言葉を返した。
 この事件が起こるきっかけとなった、とても重要な言葉を思い出しながら。
「カヲル君の言った言葉の意味だよ」
 ――それは、僕が言うべきことじゃない。君が自分自身で知らなければならないことだよ……
 カヲルはシンジにそう告げて、姿を消したのだ。
 もしも、この先も二人で暮らして行くつもりならば相手の隠した闇までも見据えていかねばならない。
 殊にこの二人ならば、それは尚更だった。
 つまりは、そういうことなのだ。
 不意にシンジは苦笑を浮かべた。先刻みたいな小さなものではなく、あからさまな奴を。
「何よ?」
 それに気づいたアスカは、いつものような少しばかりの物騒な光を宿した視線をシンジの顔に投げる。
「ん……カヲル君も実は僕に対して嫉妬していたのかも知れないなって思ってさ」
「まさかぁ、あいつに限ってそんなこと」
 しかしアスカの上げた声は、空回りして墜とされた。
 アスカに向けられたシンジの視線は真剣、というには少々剣呑な光を宿していたから。
 そのままの真剣な表情で、シンジは続ける。
「アスカ……正直に白状するけど、僕はアスカが最初に僕を選んでくれなかったことを本気で怨んでいるんだ……アスカを責めるつもりなんかないけれど……アスカの処女を奪ったのは誰かは知らない、でも、それが誰なのかを知ったら、僕は……」
 そう言うシンジの顔色は本当に蒼ざめて見える。
 シンジに嫉妬心がないわけではないのだ。
 そして、ようやくアスカは気づく。
 シンジに深く根ざした恐怖を形成する根元の一つに。
 初めての夜に叩きつけた思い。
 そのときに自分が発した不用意な一言がシンジを掣肘し続けてしまっていたことに。
 やるせない思いがアスカの胸に溢れ、アスカはシンジの頭を自分の胸に力一杯抱きしめた。
「あ、アスカ?」
 二つの柔肉の塊に鼻と口とを塞がれてシンジはくぐもった声を上げた。
「ゴメン……ごめんね、シンジ」
 自分たちはこれからもこんな思い違いや誤解を重ねて生きていくことになるのだろう。
 それでも、一つ一つ誤りは正していかなければならないのだ。
「あれはね……シンジ、今更だけど、嘘なの……アタシの嘘なの」
 シンジの体が震える。
 もぞりとアスカの胸の中でシンジが顔を動かした。
「それじゃあ……アスカを抱いたことがあるのは……?」
「アンタだけよ……人間という枠で括るなら」
 その事実が、シンジの胸を衝いた。
 アスカの行動は、二つの意味で彼女の身を守る結果となったからだ。
 シンジの怨みはこれで向ける矛先を失う。
 そして、アスカもシンジに対しての面目を保つことができるから。
「ずるいね、アスカ」
 それが判るからこそ、シンジは一言の許にアスカを切って捨てた。
「そうね……」
 それでもシンジが自分を責める理由が判っているから、素直にアスカは頷いた。
 アスカにも自分自身ではっきりと判っていたのだ。
 自分がどうしてカヲルの側に身を置いたのかを。
「でも……言い訳するわけじゃないけど、あのときは本当にあんたのことを忘れたかったのよ」
 震える声で、アスカは続ける。
 言いたくはなかった。自分が女としての矜持を完全に失っていたことを認めることなど。
 それでも、シンジと同じように自分の裡に溜め込んでいたこの思いを口にしてしまわなければならなかった。
「他の男に抱かれる自信なんてあたしにはなかった。あたしが使徒に犯されたことはネルフの職員なら誰でも知っていたし、街の男なんか怖くて声も掛けられなかったわ……誰も彼もがアタシを嗤っているような気がしてたのよ……アンタと別れてから、ずっと、ね……」
「アスカ……」
「使徒に心を犯されたアタシを抱いてくれる男がいるなんて、どうしたって思えるはずないじゃない! 自分自身いつ狂うかわかんないような女なのよ、アタシはっ!」
 哀しすぎるアスカの言葉に、シンジは顔を強く埋めることで応える。
 その確かな感触を嬉しく思いながら、アスカはシンジの頭を掻き抱いた。
 これが……この感触があれば自分は狂わずに人間として生きていくことができる。
 その確信を得ながら。
「確かに……カヲルには悪いことをしたと思うわ。あたしは使徒に犯された。だからあいつに抱かれるのも同じだって無理矢理思いこもうとしていたのよ」
「それでも……カヲル君は判っていたんじゃないかな」
 敢えて、シンジは言った。
 黙ったまま、アスカの言葉を全て肯定しても構わなかった。
 だが、ここで思考停止してしまうには、カヲルの行為は自分たちに容易には得難い様々な心をくれたのだから。
 それがアスカにも判る。
 だから、アスカは促されるままに言葉を続ける。
「そうよ……あんたの言うとおりよ。いまにして思えばカヲルはあたしのペットみたいだったわ。あたしの言うとおり、望むとおり、忠実にあたしの欲望に応えてくれた」
 だからアスカは天使に与えられた、偽りの安寧から長いこと抜け出すことができなかった。
「それでも……あの日、あんたに出会っちゃったからね」
 アスカが送っていた偽りの日々を撃ち砕いたのは、やはりシンジなのだった。
 ここにアスカが転がり込む少し前、二人は第三新東京市の中で出会っていたのだ。
「あのとき、どうしてアンタはあたしのことを追いかけたりしたのよ?」
 それはほんの少し意地悪な、アスカの問い。
 判ってはいるけれど、口にはし難い、少し気恥ずかしい答。
 だからシンジは顔を真っ赤にする。
 その微妙な温度変化すら、アスカは胸に感じて、おかしさがこみ上げる。
「判らないよ、今更……でもね、あのときはっきりしたんだ。アスカが僕にとって忘れることのできない人だって言うのは……」
 それが判っているのだろう、シンジはしばらく間を持たせてから、アスカに同じ質問を返した。
「アスカこそ、どうして逃げたりしたのさ?」
「あたしも同じよ。あんたのことが大好きで大好きで、忘れようがないって思い知らされたから、ひとまず逃げたのよ」
 アスカの方が一枚上手だった。
 男ならば言いがたい台詞も女にとっては大したことのない台詞なのだ。
 完全に読みを外されてしまったシンジはアスカの抱擁から抜け出すと、身を起こして真剣な眼差しでアスカを見つめる。
 それくらいしかできなかったというのが、実状なのだが。
「なによ?」
「……ん、なんかとても嬉しくて」
 アスカにもシンジの気持ちは判る。
 嬉しい。
 確かにこの二日間のできごと、いや、出会ってから今日までの長い道程を経て、いまという時間を享受できる。
 それが魂を震わせる。
 どんなことにも代え難い充実感を二人は感じていた。
 もちろん、まだ互いの全てを知り得た訳ではない。
 そして、これから先も完全に判りあえたりすることはない。
 けれど、心の伝え方くらいは判ったような気がする。
 その積み重ねられていく事実だけが、魂を充足させるのだ。
「めんどくさい人生になっちゃったわよね」
 あ〜あといった体でアスカは溜息をつくと、シンジの傍らにずりずりとにじり寄って、ぴたりと身体を密着させた。
「嫌?」
 そんなアスカをシンジは優しく抱き寄せ、未だ汗でぬめる肌に手を這わせる。
「嫌ってわけじゃないけどね……でも、子供の頃なら嘘を嘘と知らずにいられたじゃない。少なくともパイロットをやってた頃までは」
「そうだけど……面倒だとしても、嘘をつけなくなっても、僕はアスカがここにいてくれることが嬉しいよ」
「まぁ、嘘をつけないっていても、人は嘘を吐いちゃうもんだけどねぇ」
 アスカの言葉にシンジは声を上げて笑った。
「あ……アンタ、アタシのこと馬鹿にしてるわね」
「馬鹿でいいんだってば、もう……」
 そう言うとシンジは晴れやかで穏やかな笑みを浮かべ、アスカに訊ねる。
「アスカ、もう一度してもいい?」
「バァカ」
 そう言いながらもアスカは身を起こして、シンジの首にかじりつき、自分の唇を与えた。
 濡れた唇と唇が触れ合う。
 それはとても長いキスになった。
 なぜなら、それが以前のように甘くないことに二人は驚いていたのだ。
 落ち着いたいま、互いの存在がかつてのように自分自身の媚薬になり得ないことを二人は知った。
 もう、飴玉のように甘ったるい幻想は失われてしまったのだ。
 恋の時間は終わってしまったようだ。
 互いの唇に感じる味は、もはや現実の味でしかない。
 しかし、それでも構わないのだ。
 いずれにせよ、いつかは幻想は醒める。
 そして「二人」ということは共同幻想など決して認めないのだ。
 「生活」においては二人の「現実」こそが火花を散らす場なのだから。
 その認識は二人が子供からの脱却を図った証拠だった。
 シンジは、そしてアスカもこの互いの唇に初めて感じた味を決して忘れることはないはずだ。
 この先、二人の心はいくらでも容易に窮地に陥ることがあるだろう。
 だが、今日のこの味を思い出すことができれば大丈夫なはずだ。
 この二人は理解をしていなくとも、人の持つ光と闇をつぶさに見つめてきたのだから。
 唇を離しながら、アスカがぽつりと言う。
 不意に自分が本当に本心からこの言葉を言ったことがないことに気づいたから。
「愛してるわ……シンジ」
 おだやかな表情のまま、シンジは頷いて答えた。 
「ありがとう……アスカ」
 返してもらえた答が「愛している」ではなかったことに微かな落胆をアスカは感じていたが、シンジの言葉の方が今の自分たちには酷く似付かわしく思え、顔をほころばせた。
 それでも、我儘なアスカの自我は満足したりしない。
 というより、最愛の人にとても我儘を言いたかった。
「ねぇ、シンジ……」
「ん、なに?」
 訊ねるシンジに向けて、アスカは蕩けるような極上の微笑みを心から浮かべると、生まれて初めて、本心からの我儘を口にした。
「お願いだから、もう一回、言ってくれない?」
 


thee end of CANDY HOUSE


杜泉一矢 law-man@fa2.so-net.ne.jp


あとがき

 あーあ、終わらせちゃった……
 ってのが、正直ないまの気持ちです。
 創作活動もずいぶん長いことしてきましたが、これだけの長文をちゃんと完結させたのは実はこれが初めてなんですよ(笑)。
 さて、泣いても笑っても長いことDARUさんにご迷惑をおかけしてきたこのシリーズも、本編はこれで終了です。
 私の思い描いた「エヴァのその後」はこれでお終いになります。
 外伝のネタは幾つかまだありますが、あくまでこの話に準拠した構成となります。
 エヴァ本編からできるだけ逸脱しないように書きましたが、いかがでしたでしょうか?
 まあ、また懲りずに顔を出したら「杜泉の奴、またやってるよ」って笑ってください。
 皆さんはこの話、どう思われました?
 忌憚のない意見を聞きたいと思ってます。
 掲示板だと紛争の種(笑)になるかも知れないんで、できればメールでお願いします。
 さてさて、更に話題は変わって今度は同人誌のお話(宣伝かいっ!)。
 今回くりぎるでは宣伝しませんでしたけど、同人誌はコミケ毎に発刊を続けております。某アジトメンバーと一緒に。
 まだまだ、発刊は続きますので興味のある方はコミケに来られたときには、エヴァ系のスペースを覗いてみてください。
 或いは、私にメールを頂ければご案内をお送りします。
 まだ、ほんのちょっとだけですけど夏に出した本は余ってますので。
 さて、ここに次の話を投稿できるのは、またずいぶん先になってしまうと思います。
 某アジト用の奴と青葉ネタがあって、それより優先しなくちゃならない冬コミの原稿がある……と(爆)。
私の処理能力を超えてるなぁ……(虚笑)。
 ホントは創作少年用のオリジナルも書かなくちゃいけないのに……
 新しいお仕事もマジで探さなきゃいけないのになぁ。
 ま、泣き言は抜きにして……
 皆さん、いままでご愛読ありがとうございました。
 叱咤激励のメールをくださった方々、本当にありがとうございます。
 皆さんのメールが本当に励みと意欲になりました。
 これからも暇があったら送ってやってください。
 返事は必ず書いてますので(笑)。

 さ、次の作品が待ってます。
 それでは、また、いづれ。

 本気で職探し中(笑)の杜泉一矢でした。

そうそう、上のtheeはわざとですよ。判る人だけ笑ってください(笑)。
これを連載開始したときは、ここまでメジャーになるとは思わなかったんだけどなぁ。

 


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