愛しい人。
愛しい人。
愛しい人。
胸を締め付けられるような望郷の想い。
愛しい人。
少女は想う。
少女は願う。
この悲惨の中を生きていくために、もう一度少年の声が聞きたい。
少女、少年 <第二十一話>
トウジ。
なぁ、トウジ。
薄暗いレンズの向こう側で、死神が踊っているんだ。俺はずっとそんな世界ばかり見て
きた。銃声は鳴りやまず、悲鳴は途切れず、爆音がちっぽけな願いを吹き消していく。平
穏を装いつかぬ間の間だけ風は止むが、また一片の慈悲さえ残さずに鉄の味のする嵐がや
ってくる。そしてまた“人”が“人”を殺す。
自分自身の無力さと、懺悔と後悔と、そして世界の理を呪ったこともある。あそこでカ
メラを回しながら、どんどんと空虚な失望感が熔けだしていって、やがて全てが麻痺して
くる。そしてやがて、俺は地べたをはい回るだけのちっぽけな虫になるんだ。そんな感覚
が何度も、本当に何度もやってくるんだよ。ただひたすらに、そうやってただひたすらに
俺はあの世界を撮り続けてきたんだ。
どんなに俺達が詭弁を繰り返し、目の前の出来事を曖昧な言葉で覆い隠し続けても、
“人”は無限に“人”を生み、生み出した“人”を“人”は殺す。繰り返すんだ。何度も
何度も果てることなく繰り返すんだよ。決して分かり合うことはなく、信仰と信念に振り
回されるように人は凶刃を振るい続ける。それを“人”と呼ぶのかも知れない。その行為
自体が“人”であるのかもしれない。生と死を繰り返す事が、幾万、幾億の屍を積み重ね、
それでも明日を積み重ね続ける事こそが“人”であるのかもしれない。その残酷こそが
“人”そのものであるのかもしれない。俺はそう考えた事だってある。
だから“人”に失望した“人”が、“人”を海に溶かそうとした事も、幾らかの部分は
理解できているつもりでいる。無限の営みは、無限の愚かさの証明であるのかも知れない。
でも、そうであっても、誰かが誰かに押しつけた未来を与えることは、俺は違うと信じて
いる。道はあるかも知れない。でも、歩くのは自分自身でしかない。
俺は銃を突きつけられ、神に祈れといわれたこともある。トウジも知っているだろうが、
俺は無神論者だから、祈るべき神なんか居なかったけど、彼らが求める神に俺は祈ったよ。
助けてくれと、ただ生き延びることを俺は祈った。そして結果、俺は助かった。俺は生き
延びた。でも、俺は彼らの神が救ってくれたとは思わない。俺は生きようとしたから生き
延びたのだ。神が導いた道を歩いているわけではない。自分で歩こうと思ったから、俺は
歩いている。今でもそう俺は信じてる。
トウジ。
お前は運命なんて信じないと言った。
俺も信じない。
人は宿命を背負い生まれるかも知れない。何も選べず、ただ与えられた生のみを持って
人は生まれる。でも、それでも運命は無いと俺は思う。俺達はひかれた道を歩いているわ
けではない。トウジやシンジや惣流やレイがあれに乗り、そして戦ったことも、俺が傍観
者だったことも、全てが運命だったなんて俺は思わない。俺達は選んだんだ。あの道を。
あそこにいることを。そして今ここに居ることも。
何かを変えれるとは、今は思わない。でも俺はあそこにいって撮り続けることだけが、
俺の信じた俺の道だと思う。
だから俺はまた、あそこに行くんだ。
「あっ、」
小さな悲鳴の後で、パリンとガラスが砕ける音が響いた。
ヒカリの手を滑り落ちたグラスが厨房の床に落ちて、これでもかというぐらいに粉々に
砕け散っていた。
「おいおい、気ぃつけろや。」
トウジが少し困った様に、そう声をかけた。
看板を閉まった明日菜で、二人は店の後かたづけを行っていた。
「いや、ちょっとボーっとしちゃって。なんか、どっと疲れが出ちゃったみたい。」
ヒカリが床に散った破片をほうきで集めながら、苦笑混じりに答えた。
「まぁ、な。流石に今日はなぁ。前ぶれ無しに惣流が登場しよったからな。わしもあれに
は驚いたわ。」
トウジはカウンターに軽く体を預けながら、小さなため息を一つ吐いた。
時計に目をやると、9時を僅かに回ったところだった。そろそろ明日菜を迎えに行かな
ければならない。
「でも、なんか不思議な感じだったわ。現実感がないって言うのかな、本当変な感じ。も
っと喜ばないと駄目なことなんだと分かってるんだけど、ほら、ちょっとね。」
「そやな。なんか、こう、そないなもんやで。誰もがわかっとる事やわ。惣流もわかっと
る。そないに短い時間とちゃう。でも今日は惣流に助けられたな。」
「助けられた?」
ヒカリが少し怪訝そうに尋ねた。
「なんちゅうか、あれやな。まぁ深く考えるなや。それよか、週末のパーティー、惣流の
歓迎会。あれや、あれどないする?」
「うん、えっと碇君とレイちゃんは勿論だけど、やっぱりネルフの人は呼ばないと駄目よ
ね。後は、相田にも声をかけないと。でも10人ほど?うちでも十分よね。」
「そやな。料理はお前が作るとして、酒はビールとワインでも適当に買い込んだらえぇな。
店の方は明日でも張り紙用意するか。パーっとやったらなあかんな。出来る限り派手なヤ
ツがえぇな。ギンギラのミラーボールでも買ってくるか?」
トウジが耳の横でコの字に開いた手をくるくると回す仕草をしながら言った。
「相変わらず頭の悪い発想しかできないわねぇ。普通が一番よ。のんびり皆で話が出来れ
ば十分でしょ。後、碇君の所とネルフの人は良いとして、相田にはどうやって連絡するの?
また携帯の届かないところに居るんじゃないの?そもそも帰ってこれるのかな?」
「携帯かけてでんかったら、メールでも入れとこうや。急やしなぁ、流石に今度は無理か
もしれんけど、あいつが帰ってきたら帰ってきたときにもう一度やってもえぇやろ。惣流
の件は、正直あいつがきっかけを作ったような気がせんでもないからな。あのアホも、タ
イミングの悪いときに仕事しとるな。折角、皆が揃うチャンスやのにな。」
「まぁまだ来れないって決まった訳じゃないから。そうだ、料理ってサンドイッチとか唐
揚げとか、そんなので良いわよね?気合い入れて作っても、ガツガツ食べるのあんただけ
だもんね、きっと。」
「自分の旦那を喰わしてもらってへん所の子供みたいに言うなや。惣流が帰ってきた記念
のパーティーやで、気合い入れて作ったらんかいな。腕の見せ所やないかい。後、量もド
バっといっとけ。山盛りぐらいが丁度えぇんや。」
トウジは何故かウンウンと小さく自分自身の言葉にうなずきながら言った。
「手の込んだモノ作るのは構わないけど、そんなに皆食べる?それこそ、量を食べるのは
トウジぐらいでしょ?」
ヒカリが抗議の声を上げる。
「何いうとんねん。ケンスケ来たらあいつも喰うで。マヤさんとかレイのヤツも案外喰う
やんけ。下手したら自分の旦那よりあの二人の方が喰うで。そや、そやそやそや!お前も
喰うやんけ。昼喰っとったあのカレーの量はなんや。あれは流石に多すぎやろ。白飯が山
のよう盛られてたやんけ。富士山かと思うたわ。お前最近、食い過ぎとちゃうか?」
「えぇ、だってほら、そこは二人分私は食べないと駄目だからねぇ。」
ヒカリが小さく舌を出して答えた。
「お前なぁ、医者にも食い過ぎは逆に体に悪いと言われ取るやろが。ほんま頼むで。最近
ちょっと太ったんとちゃうか?腹は仕方がないとしても、顎の下とか少しやばいで。」
トウジが少しあきれたように言った。
その言葉に反応して、ヒカリがあわてて顎の下に手を当てた。
「あ、いや分かってるんだけど、分かってるんだーけど、どうしても食が進むのよねぇ。
女性は結婚して子供生むと体型変わってくるとか言うでしょ。あれね、最近よく分かるわ。
強い女になるために沢山の栄養を取るからよね。」
今度はヒカリが自分の発言にウンウンとうなずきながら答えた。
「あほか、己の節制が足りへんからやないかい。お前、明日菜の時はそんな事あらへんか
ったやろ。あ、そや。今日惣流のヤツみたやろ。あの体つきは、子供おる女のようにはみ
えへんかったで。性格のきつさは兎も角、ごっつぅえぇプロポーションやったやんけ。」
トウジが語尾を強めていった。
「ふんっ、いやらしぃ。」
ヒカリが一言吐き出してから、キッとトウジを睨み付けた。
その眉間によった微かな皺が、トウジを僅かばかり後退させた。
「あ、あほか。そんなんちゃうわ。わしはお前だけで十分やねん。あ、ワシが愛しとるん
はお前だけやで。いや、ほんまやで、ほんまなんや!」
「分かってるわよ。そこまで焦ってると逆に疑うわよ。それより、アスカの事、シンジ君
に直ぐに教えないで良いのかな?アスカの話の様子だと、シンジ君まだアスカが帰ってき
たこと知らないみたいだし。」
今までより少しだけ低い声のトーンで、ヒカリが言った。
「えぇやろ。それは惣流のヤツがやることや。そら色々思うこともあるけど、こっから先
の話にわしらが余り首を突っ込むのも変やしな。わしらは、わしらのまま変わらへん様に
居ることが一番やで。」
「色々、ってアスカの子供の事?」
「それはもうシンジとは関係無いやろ。三歳いうとったんやったっけ?シンジの子っちゅ
う下手なドラマみたいな話は無いっちゅうことや。そんなんやなくて、結局時間だけの話
や。そら気まずいことも多いと思うけど、その辺の空気か、そういうのこそ二人の問題や
ろ。まぁレイも入れたら3人の話かもしれんが。」
トウジがヒカリを諭すように言った。
「うん、でも、アスカが子供の話してるとき、なんかそれまでと雰囲気が違ったというか、
ちょっと怖かったのよね。思い詰めた感じ?言葉にし辛いけど。」
「それはシンジとは関係無いやろ。未婚の母なんやろ?そら色々あったんやろ。女一人で
子供育てるっつうのは大変やろ、やっぱ。例えば今日ワシが死んでおらんようになったら、
お前は明日から明日菜と腹の子供育てていかなあかんのやで。そんなんどう考えても厳し
すぎるやろ。」
「そんな縁起でもない話しないでよ。」
「例えっちゅうヤツや。お前ら残してワシが死ねるかいな。」
「じゃ、私たちが居なかったら、死んでも良いわけ?」
ヒカリが少し食って掛かるように言った。
「また極端なやっちゃなぁ。あのな、わしらはあんなご時世に生きてきたんや。死にたい
と思ったことは一度もないが、死ぬかもしれんちゅうことは何度も考えたことがあるで。
ヒカリもあるやろ。わしなんかそら、ほんま何度もや。どうやって生きて来たやろか、何
か残したやろうか?自分が死んでも、自分の事をみなは覚えておいてくれるやろうか?そ
んな事ばっかり考えとった。今思えばあほらしい話やけどな。」
そこまで話して、トウジが一つため息をついた。
「でもな、次に好きな人間が出来ると、今度はがらっと考えが変わったわ。自分が死んだ
ら、自分のことなんか忘れて欲しいと思うようになった。わしの事なんか、綺麗さっぱり
無くなって欲しい。自分の死に心痛めて苦しんで欲しくない。愛しとる人が苦しむのなら、
そんなもんワシなんぞ最初からおらへんかったらよかったんや、ってな。」
トウジはヒカリの事を見つめながらそう口にした。
ヒカリは何も答えずに、その眼差しに答えるように、トウジを見つめ返していた。
「でもそこで終わりや無いんや。ワシはヒカリと明日菜ともう一人大切なモノを手に入れ
たんやで。守るべきモノがあるんや。どないな事があってもワシはお前らを守らなあかん。
それがワシの生き甲斐やし、ワシの生き方や。だからわしは死んだりせぇへんで。まぁ、
ちょっと無敵モードはいっとる状態やな。多分、目ぇから光線とか出る。もうちょっと調
子よかったら、空とか飛べるかもしれん。」
トウジはそこまで話しきると、右目だけを軽く閉じて小さく舌を出した。
「馬鹿ね。」
ヒカリはそう答えた後、口元を軽くあげながら小さく微笑んだ。
「バカやからな。さぁ、ワシの無敵を支えとる明日菜迎えに行ってこなあかんな。」
トウジ両手を頭の上で繋いで、軽くのびをした。鈍く骨が鳴った。肩口にたまっていた
重い血が、ゆっくりと流れていく感覚がある。
窓の外に目をやると、闇に飲み込まれたショウウィンドウの向こう側で、いくつかのヘ
ッドライトが流れている。終わらない雨の気配が、水の砕ける音になって店の中にやって
来ていた。
「あ、そうや。ちいと聞きたい事があるんやけどな。」
トウジは腰に巻いてあったエプロンをはずして、カウンターの椅子にそれを掛けながら
言った。
「ドイツっちゅうのは寒いんかな?」
「え?いや、ちょっと分からないけど。なんでそんな事聞くの?」
ヒカリが怪訝そうな声で尋ねた。
「そうか、いやな。ほら惣流のヤツ、なんか長袖で長いスカートはいとったからな。この
暑苦しい街で、そないな格好しとるヤツなんかおらへんからな。ドイツは寒ぅて、そんな
服ばっかりしか着てへんのかな、って思っただけや。まぁ大したことちゃうわ。あんま気
にするなや。」
「あ、そうか。どうなんだろう?ひょっとしたら寒いのかもね。」
ヒカリがそっけない口調で答えた。
「ま、えぇわ。さて行ってくるわ。」
トウジはそう言い残して、店の扉を開けた。
店の外の空気は、トウジが思ってたよりも大分冷たかった。終わらないこの街の夏の熱
気も、降り注ぐ雨がその多くを奪い去っていったようだった。
トウジは黒い傘を広げて、ゆっくりと歩き始めた。