第一〇章
 

 時はやや遡る。
「いまの宰相派で、人物といえば誰だと思うか」
 壮年の武人が、傍らに立っている若い幕僚に言った。
「文では官房長ラッツェル卿、武では准将軍ベリアス卿ですな」
 幕僚は即答した。ふたりとも、もとは平民であり、まだ三〇代前半という若さである。開明的な風潮が強いこの国でも、平民出身の者がこの若さで「閣下」と呼ばれる身分になっているというのは、やはり珍しいことなのだ。
 壮年の男はうなずき、
「おまえのいうことは正しい」
 王国宰相フォンデルは、なにかと欠点が多く、私欲も旺盛で悪評のたえない政治家であるが、誹謗しようのない長所を、少なくともひとつはもっていた。門地に拘らない、ということがそれである。人材。この点においてのみ、彼は家柄だの家訓だのにしばられたフィンセントら兄弟よりも視野が広かっただろう。
「しかも彼らは両人とも、フォンデルのもとでこそ栄達したということを知っている。他の貴族諸侯がフォンデルに背いても、彼らをはじめとする平民出身の文武官たちは、けっしてそうはしないだろうな。しかも困ったことに、門地によって栄達したわけではないだけに、彼らはそろって有能だ」
「私兵を持たない者の知恵というわけですな」
 男は、意外そうに幕僚を見た。そして面白げな口調で、
「おまえがそんな賢しげな口をきくとは、思ってもみなかった」
「からかうのはよして下さい、閣下。ですが、宰相としてみれば、とくに平民出身の文武官を取り込もうとするのは、むしろ当然のこと。目的が目的ですからな」
「王権の絶対化、か……」
 男は苦笑した。
「誤った理想だとは思わないがな。だが、この国にはあわないだろう。今までもこの国で王位をめぐる争いがなかったわけではない。だがそれが大規模な動乱になったことは一度としてなかった。王や宰相が暴政を布いたこともない。彼らを牽制し、必要とあらば糺す存在があったからだ。だからわれらはフィンセント卿を救わねばならなかった。分かっているな? デリウス」
「は……」
 デリウスは、直接の上官であり、一族の宗主でもある人物に目礼した。上将軍・近衛総監にしてバルネフェルト伯爵家当主ヨッサムである。

 上将軍、という階位について説明が要るだろう。
 それは、王国陸軍においてただひとりの大将軍に次ぐものであり、それぞれ約一万人前後の独立軍団をひきいる資格をもつ。そのうち、南方国境と東方国境にひとりずつ、のこりは王都に常駐するのがつねであった。上将軍の定数は七人とされているが、平時における王国陸軍の総数は一〇万人足らずであるため、現在は五人しか、その階級をもつ将軍はいない。
 ヨッサムは名門バルネフェルト伯爵家の当主でもあり、また、近衛総監という重職を担っているため、五人の中でも首席とされている。さらに、故グスタフ王の在世中に、大将軍フィランス侯オットーが病床についたため、ほぼ二年間にわたって、大将軍代行として、いわば陸軍の最高司令官となっている。大将軍は階級であると同時に職名であり「戦時であれ平時であれただ一人」と定められている。また、大将軍職は世襲ではないが、一度任命されると重大な失策や背信行為がない限りは終身制である。フィランス侯は重病とはいえまだ死んだわけでも、死が約束されるほどの病状でもないから、ヨッサムの肩書きには「代行」という文字がついているのだ。もしグスタフ王の在世中に侯が死んでいれば、彼は当然のように大将軍の地位についたであろう。
 説明を重ねるが、上将軍の下にもむろん将軍としての階級は存在する。下将軍、次いで准将軍である。先述した宰相派の将ベリアスは准将軍であり、いまこの場にいるデリウスは、さらにその一つ下の、上等参軍という階級をもっている。参軍は士官で、これは五等級にわかれている。上等参軍、一等参軍にはじまり、四等参軍まである。近衛兵団は大きくわけて一〇隊に分かれており、各隊の隊長では、一番隊々長で、ヨッサムの親衛隊長ともいうべきカドゥラが准将軍であるほかは、みなデリウスと階級を同じくしている。また、近衛兵団に籍を置く者としては、副総監でヨッサムの参謀長でもあるイリーヤ下将軍がおり、宮廷から目付として派遣されてきているダルベルトが、本来は文官ながらも准将軍の地位をあたえられている……。

「デリウス、何度も言っていると思うが、私はこの国を愛しているのだ」
 唐突に、ヨッサムは言った。
「これほど誇り高い国がほかにあるか。民のために悪虐な領主をたおしてつくられたような国が。王と民とがともに侵略者と戦ったような国が――」
 ウェイルボードという国が民のためにつくられ、王も軍隊もその国のためにある以上、極端なことをいうなら、国王などは、別にカーレル大王の血をひいておらずともかまわない。むろん嫡流の者が王者にふさわしい器量のもちぬしであれば、混乱の起きる理由もなく、それが最良なのだが。
「わかっております」
 デリウスは答えた。
 そう、分かっていなかったら、命を賭してフィンセント卿を助けることなどなかっただろう。彼はそう言った。
 ヨッサムはにやりと笑った。彼が見込んだ通り、一族の末流に連なるこの若い豪傑は、剛勇だけではなく明晰さをもあわせもっている。
 ウィレム大公が玉座につくことには、べつに異存はない。彼がグスタフ王の嫡子である以上、当然のことだ、とも思う。だが、彼の背後にはあのフォンデルが控えている。それがある以上、積極的に荷担する気にはなれなかった。
 近衛兵団は王宮と王族とを鎮護するほかに、将士の非行をいましめ、王都の治安をまもるという任務も帯びている。その情報網は、こと王都だけに限れば、内務省よりも精緻である。ヨッサムは、フォンデルの動向をかなり早い時期から察知していた。レア帝国と密約をむすんでいた、ということは、さすがにフィンセントを救出したときまで知らなかったが。ともかく、それでも掣肘することができなかったのだから、フォンデルの行動と決断も迅速で、しかも巧妙だったといえよう。
 そのような、自己の権力維持への欲求と政治的な理想とを混同するような輩に、国権を渡すわけにはいかない。教会に後押しされているアントニーなどは論外である。ウェイルボードは王宮内に寺院の権力を入れることはなかった。歴代国王や宰相の中にはほとんど熱狂的なほど敬虔な信徒もいたが、彼らにしても寺院の後援でその位についたわけではなかったし、神官の言いなりに政務をとることはなかった。それは正しい姿勢であったとヨッサムは思っている。
 この国でもっとも王位にふさわしい能力の持ち主はといえば、おそらく廷臣と官吏の過半が、本音ではフィンセントかその父ヘンドリックとこたえるであろう。まったく、ウェルフェン公国に暗君なしとはよくいったものである。王家の方は、これまでさいわいにも悪虐な暴君は出ていないが、暗君あるいは凡君と称しうる国王は何度となく出ていた。名君と断言しうるだけの実績を残した人物は、初代カーレルを別格とすれば二代国王のヨハンだけであっただろうし、カーレルと並ぶほど英雄的な気質と能力とを有していたのは、王になる前にウェイルボード王国史上ただ一人の元帥・国軍大総督となった、五代国王フェルゼンくらいのものであっただろう。もっとも、名君だの英君だのは五代にひとり出れば出すぎとさえいえるのだが。
 ヨッサムにとってさらに都合のいいことに、テュール家は王室に次ぐ名門であり、巨大な武力を有している。それが旗幟を鮮明にするだけで、この不毛な暗闘にけりがつくことは疑いなかった。そして、最大の功労者として、フィンセントは王宮内で位人臣を極めるであろう。彼の能力と国公家の勢威をもってすれば、王位への階梯はあと一段である。多少の混乱はあるにせよ、その強大な存在に背く者がはたしているかどうか。
 と、ヨッサムの思考はかなり飛躍したのである。さらには、一時期でもフィンセントが拘禁されたことにより、公国が中央から離反し半独立状態になるということも計算していた。宰相からも教会からも警戒され忌避されたテュール家が、ついに独自の道を歩まざるをえないだろう、とも。
 ヨッサムは愛国者ではあるが、純良なだけの男ではないから、王国とテュール家のためのみを思って行動を起こしたわけではない。フィンセントがいだいた印象は正しかった。ヨッサムは、未来におけるバルネフェルト家の地位を、現在のテュール家のそれに擬していたのだ。
「まあ、あと半年は戦になるまいよ」
 そう、ヨッサムは予言した。
「その間に両者のお手並み拝見といこうではないか」
「は……」
 デリウスは、やや不安に思いつつも、一族の宗主に従った。理屈からいけばヨッサムの言うとおりなのである。現段階では、フォンデルにテュール家討伐の軍を起こすほどの力はない。逆に公国側としても、レア帝国との戦いで疲弊するであろうし、そうでなくても諸侯や辺境の軍団に対する工作を仕掛けるための時間を要するだろう。
 しかし、この不安はなんだろうか。デリウスは、この宗主が正しいと信じつつも、変に重いものを心中に感じていた。

「逃がした、だと?」
 誰が見てもそうだとわかる、不機嫌な表情と口調で、フォンデルは報告者を見やった
「は、公邸には誰一人として残っておりません」
「しかし昨夜、公国の重臣の、あの……」
「ヨースト卿です、閣下」
 宰相の右後方にひかえる文官が囁いた。
「そう、そのヨーストとやらが訪ねてきたではないか。あれはなんだったのか?」
 報告者は答えず、代わって背後にいる文官が応じた。
「今から思えば擬態だったのでしょう。良かれ悪しかれ、フィンセント卿は知恵者です。おそらくは王都の警戒網を分散させようとしたのでしょうな」
「狡猾な!」
 フォンデルは、自分のことを棚に上げてうめいた。
「おい、もういいぞ」
 とは、宰相の背後にいた文官が、報告に訪れた騎士に向かって言った言葉である。彼が退出していったのを視認してから、
「で、閣下。いかがなさいますか」
「なに?」
「フィンセント卿に追っ手を差し向けないので?」
「心配はいらん。彼の地は遠からず、レア帝国軍が占拠するだろう。わしが殺すか、レアの蛮人どもが殺すか、その違いだけだ」
「しかし、万が一ということもあります。それに、バルネフェルト伯あたりが何やらたくらんでおられるご様子。念のため、国軍に召集をかけた方がよろしいのでは?」
「卿は意外に慎重だな。だが、今はいい」
「は……」
 文官は、つぎの一言を飲み込んで引き下がった。
 この文官の名をラッツェルという。平民出身でありながら、若くして宰相府の重鎮となっている、王国屈指の能吏であった。
 文官としての能力といってもいろいろあるが、そのあらゆる面でフィンセントを凌駕するウェイルボードでただ一人の人間であったかも知れない。ラッツェルが官僚であり、フィンセントが政治家であるというのは、気質や能力の差ではなく、背景の差であるに違いなかった。フィンセントは国公家の嫡子として政治家でなければならなかったし、平民のラッツェルが王都で栄達するには、実務家となるしかなかった。
(ルータスは敗れるだろう。敗れぬにしても勝ちきるのは不可能だ)
 ラッツェルは文官である。その彼があざやかにこの戦いの結果を予見したというのは、かつて海軍省に籍をおいていたことと無関係ではないだろう。占領を前提とした艦隊行動がいかに制約の多いものか、彼は知っている。彼だけでなく、ウェイルボードで軍事に携わったことのある者ならば誰でも知っているだろう。フォンデルの策略に真っ向から反対したというのは、騎士道精神の発露ではもちろんなく、ウェイルボードの国益に反するということであり、なによりも、
「レア帝国の艦隊が、ウェルフェン公国のそれに勝てるはずがない」
 ということである。レア帝国がこのような無謀かつ無意味な外征を是としたのは、兵の強さに対する、そしてルータスの軍才に対する過信があったというしかない。そもそも、いかに数え切れぬほどの武勲を有するルータスとはいえ、海戦の経験がどれほどあるというのか――。ラッツェルの意見ひとつで宰相の意思がくつがえることはなかった。なによりも、ラッツェルがそれを知らされたとき、すでに宰相の妻子は遠くレア帝国の帝都ミラネにあり、宰相としても後戻りはできなかったのだ。
 ラッツェルは考える。
 レア帝国軍は精強だが、今回の場合は弱点が多すぎる。
 第一に、戦力が過少である。陸戦に持ち込むことをおそらく望んでいるのだろうが、それ以前の艦隊戦で戦力が消耗しないほどの完勝をおさめるのは不可能にちかい。公国側はといえば、本拠地を背にして戦う分、艦隊と陸戦部隊を明確に分割配置することができる。陸戦にもちこんだとしても、兵力は帝国軍にとって互角以下になっているであろう。
 第二に、両軍の士気である。帝国軍は、不敗の名将に率いられているとはいえ、補給も不確かなら動機も曖昧な遠征であることには変わりない。対して公国軍にとっては、敗れれば祖国がほろび、故郷が蹂躙されるのだ。将兵は命を賭して戦おうとするだろう。
 第三に、季節が悪すぎる。すでに晩秋であり、北海の寒風は、南国に育った帝国兵士にはつらかろう。長期戦になるとなお悪い。レア帝国の兵士のなかには雪をみたことがないという者も多いに違いないのだから。
 第四に、これがもっとも重要なことだが、政治と軍事の乖離である。ルータスが名実ともに全軍の総帥で、皇帝の全権代理たる権能を与えられているのであれば、あえて艦隊決戦などおこなう必要はない。無警告のまま、どこか、警戒のうすいところに上陸し、補給路を確保しながらハーンにむけ漸進してゆけばよい。無血上陸を許したが最後、公国軍は自慢の海軍力を発揮する場も与えられず、敗退するであろう。だが、実際はというと、ルータスは徹頭徹尾「政治」の掣肘を受けていた。全権特使ハインネルにとってルータスの軍団は「交渉の道具」にすぎず、また、軍人として政治的な思考を自ら封印しているルータスは、愚直なほどそれに忠実であった。結果、公国軍の負担は軽減される……。
 ラッツェルはルータスの性格についてはほとんど知らない。だが、政治に口をはさむような人間ではない、むしろそれを自身に禁じているのではないか、と思っていた。そうでなければあれほどの戦績をのこした英雄が、猜疑ぶかいといわれる皇帝アルツールのもとで、今まで地位をたもっていられたはずはないだろう。ルータスは、皇帝アルツールにもその側近にも、「野心家ではない」と思われていたに違いなく、そう思われるには政治にいっさい口を出してはならないだろう。
 フォンデルがレア帝国に示した利が巨大であった故に、皮肉なことながら、宮廷貴族や外務官僚のいらぬ容喙を呼び、相対的に軍の発言権は小さくなるだろう。そして最終的には、ルータスはそのすぐれた軍才を、彼の軍団はその強大な戦闘力を、ともに発揮しえぬまま敗れるのではないか。ラッツェルはそう予測していた。
 ……彼の予測が既定の事実となるのに、さほどの時間は要さなかった。
 
 
 

   つづく

 




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