第一一章
 

「ウェルフェン公国軍、戦勝」
 その報せが王都ジュロンに届いたのは、一一月七日。
 公国艦隊がルータスの帝国艦隊を破ったハーン湾内海戦から、四日後のことであった。この迅速さは、もちろんフィンセントの工作である。
「……ほんとうか?」
 フォンデルはそう尋ねるのが精一杯であった。
「まことでございます」
 宰相府親衛隊長、ベリアス准将軍が言った。フォンデルの信任厚く、彼の謀略を知る数少ない人物のひとりである。平民出身の才気煥発な男であるということはすでに述べたとおりだ。
「公国に潜伏させていた間諜から、同様の報告が来ております。それに、海軍の報告によると、国籍不明の艦隊が相次いでジュロンのはるか沖を南下した模様。まず、間違いありますまい」
「信じられぬ……」
 冷然たる、といっていいほどの報告に、フォンデルは呻いた。
「ですが、事実は事実です」
 と、今度はラッツェルである。だから言ったではないか、とは口にしなかった。
「公国がレア帝国の軍勢を破りしこと、もはや疑いようもございませぬ。この上は、いかに害をくい止めるか、そこに考えを致さねば」
 熾烈な内戦がはじまるであろう。そのさい、いかにして公国側の「大義」を覆すか、そこを考えるべきだ、とラッツェルは言う。このたびの公国の勝利を、一連の政争に影響させぬようにする、そこに神経をくばるべきだ、と。
「もっともだ」
 フォンデルは陰謀家であったが、けっしてそれだけの男ではない。ベリアスの報告を受け止めるだけの理性も、ラッツェルの進言を諒とするだけの度量も、充分にもっていた。
 さらにラッツェルが続ける。
「おそらく、レア帝国は今後一切手出しをしますまい。いや、最悪の場合、公国に肩入れするやも知れませぬ」
 まさかそこまでは、とベリアスは思ったが、口には出さない。
 口に出したのはフォンデルである。
「まさかそこまではすまい。かの帝国にとって、わが国と敵対することにどのような利点があるのだ?」
「閣下」
 ラッツェルがさらに口を開いた。この男に欠点があるとすれば、その鋭さを隠す術を知らぬ、ということに尽きる。このような男を身分にも年齢にもかかわらず栄達させたというだけで、フォンデルも凡人とはいえないだろう。
「諸外国にとって、わが王国の覇権が何人の手に帰そうと、それ自体に意味はありませぬ。問題はそれによって害が多いか利が多いか。フィンセント卿がレア帝国に対して充分な利を食らわせれば、けっして考えられぬことではありませぬ。まして、レア帝国といえども単なる戦争好きどもではありますまい。戦いなくして利をおさめられるのならば、躊躇なく閣下を裏切るでしょう。そして、それはレア帝国の論理としては決して裏切りにはならないのです」
 嫌な顔をしたフォンデルを見つめながら、ラッツェルはさらに続けた。
「充分にありうることです。彼らの交渉次第ですが、レア帝国の君臣一同は、次代のウェイルボード支配者をフィンセント卿……テュール家と見ましょう」
「ばかな!」
「………」
「テュール家が王権を欲するのならば、歴史上、いくらでも機会はあった」
「彼らを除こうとして行動をおこしたのは、歴史上、宰相閣下おひとりです」
 しかもあまりにも拙劣かつ卑劣な手段で。ラッツェルはそこまで口にしなかったが、フィンセントを投獄した時点で、フォンデル本来の用心深さがうすれたことを残念に思っていた。いかに優位に立ったとはいえ、自身の謀略を敵手に教えてやるなど、ラッツェルには考えられなかった。どうせ卑劣な手段で投獄したのだ、高等法院の手続きなど無視してフィンセントを暗殺してしまえばよかったではないか……。やや表現を変えて続ける。
「しかもフィンセント卿は健在。前後の事情は公国に知れ渡っているでしょう。それが王都に伝わるのも時間の問題。もともと彼らが王位をうかがうとしても、その力からして身の程知らずとはいえません」
 もはや武力しかない、とラッツェルは思っている。
 フォンデルは沈思した。そして口をひらく。
「確かにな。わが国において、あれほどの武力をもった勢力は他に存在しない。あるとすれば王都にあるわが陸海軍だが……」
 その陸海軍においてすら、フォンデルがすべてを掌握しているわけではないということは、フォンデル自身でさえも苦々しく認めねばならない事実であった。王都における最大の武力集団である近衛兵団は、以前からなにかとフォンデルに批判的なバルネフェルト伯ヨッサムが握っている。南、東、両国境の二軍団も、いざとなれば日和見を決め込むであろうし、国内で戦端がひらかれるとなったらなおさら彼らを動かすわけにはいかない。現時点においては、フォンデルの意によって動くのは、王都駐在の軍団のうちのひとつ、すなわち上将軍ルードの率いる野戦軍団と、フォンデルの親衛隊ともいうべき、ベリアス麾下の遊撃隊だけである。合して、兵力はおよそ一万三〇〇〇。これは公国陸兵隊の総兵力におよばぬ数字である。戦略によっては公国の兵力を分散させ、優位に戦を運ぶことも可能であろうが、現在の情勢を考えると、それを動かして王都を空けるわけにもゆかぬ。もし動かせるものなら、レア帝国の艦隊と連動して公国に攻め入ったであろう。
 海軍に関しては、フォンデルはさほど心配していない。伝統的なことなのだが、正規海軍、すなわち西海艦隊は、テュール家の北海艦隊に対する対抗意識がはなはだしい。アーガイルという若者がにわかに脚光をあびるようになってから、その傾向はさらに顕著になっている。テュール家の叛乱という事態になれば、フォンデルに対する感情がどうあれ、みずからの誇りに賭けて力を尽くすであろう。しかしただひとつ、指揮官の質という点においてのみ、王国艦隊は公国のそれには及ばない。大都督ティンベルヘン伯クラウスは老練で士卒の信頼もあつい提督だが、その地位についたのは能力よりも家柄によるところが大きかった。アーガイルの天才には抗しようもないのではないか。
「いずれにせよ軍を動かすしかありませぬな、今ではないでしょうが」
 ラッツェルがそう言った。
「戦うとすれば、公国側に先手を取らせることです。フィンセント卿は、公式には何の罪を犯したわけでもなく、これを討伐するとなっても、三軍は閣下の指揮には従いますまい。ただ、公国が境を侵してきたとあらば……」
 境を侵す、という表現ほど、ラッツェルという人物の政治感覚をあらわすものもないだろう。彼はテュール家およびウェルフェン公国をウェイルボード王国の柱石と考えたことは一度もなく、王国の一員とも考えなかった。属邦というより隣国であり、潜在的には敵だとさえ思っている。この点、宰相フォンデルや大主教フレストと、発想は違えど驚くほどに一致している。そしてもはや、彼らは現実の脅威となりつつあるのだ。
「そうだな、向こうがしかけてくれば話は別だ」
 フォンデルは、岩石を思わせる顔を歪めた。笑ったつもりらしい。
「よし、公国の勝利を公表せよ。そして祝賀をおこなうのだ。未だグスタフ陛下の喪中であるから、国を挙げてというわけにはゆかぬがな」
 さすがのラッツェル、ベリアスの両名が、驚いたような顔をした。
 フォンデルは唇の端をつり上げ、二人の傑出した部下に説明した。
「隠しても、いずれは露見することだ。第一、その報をもたらした者はすでにあちこちにふれまわっておるのであろう?」
「は……」
 事実であった。
 秘密裏に王都にはいった公国騎士――コルネリスの推薦を受けた者――数名が、王宮内の親公国派の高官を通じて、陸海軍をはじめとするさまざまな場所にさまざまな方法でそれを伝えていた。
 公国側としては、政治的な宣伝もあるのだろう、この戦勝を王都に伝えるのは当然のことであり、フィンセント個人の内心はともかく、公国が実際に反旗を翻したわけでもないから、いわば義務そのものである。ただし公国が宰相府に対して敵対感情を抱いているのは、これはもう間違いない。ラッツェルのいうようにいずれ境を侵してくることも充分に考えられる。
 それならば、とフォンデルがつづける。
「それならば、わが方から公国に敵対することをあらわすのは損だ。フィンセントの青二才がなにをいおうと、黙殺しておればよい。やつらが戦の準備をしている間に、われわれは王都をかためる」
「なるほど、それは結構。ただ、戦勝祝賀など、そのような必要はありますまい」
 ラッツェルが言う。
「拙者もそう思います」
 ベリアスが和した。
「なぜだ? わしとの関係がどうあれ公国はわが属邦。属邦が敵国をやぶったことを、宰相たるわしが祝ってなにが不都合なのだ」
「閣下がおこなわれた、あるいはおこなおうとしたこと、その中でもっとも重大なことをフィンセント卿に話してしまわれたのをお忘れですか」
「む……」
「それが他の者に漏れていないとはかぎりませぬ。フィンセント卿らには時間的な余裕がなかったので、知っている者の数は少ないでしょうが、たとえば近衛総監などはすでに知っているとみるべきでしょう」
「それだけではありません。帝国軍が西海を通過したとき、海軍は何をしていたのだ、という批判もありましょう。批判は批判を、疑念はさらなる疑念をよびます。閣下が祝宴をひらくとなれば、文武の大官、さらには諸侯が一堂に会することになるでしょう。彼らのすべてがウィレム殿下と閣下に忠誠を誓っているわけでもない以上、わざわざそのような危険をおかすことはありません」
「わかった、わかった、卿らの言うとおりだ、祝賀についてはやめにしよう」
 と、両人の諫言により、フォンデルはさすがに思いとどまった。
 だが数日後、フォンデルにおどろくべき客人があった。宰相府ではなく、深夜、フォンデルの私邸を訪れたその客人は、フォンデルさえ絶句したことに、をデリス正教会の使者であった。私邸であるから幕僚はひとりもいない。私兵である騎士をひとり護衛につけただけで、フォンデルはその使者との面談に応じた。
 その夜、ルーデッツ伯爵家の家僕は、その邸の主人が
「信用できるか……いや、使い道はいくらでもあるか……」
 などと呟いて邸内を歩き回っているのを目撃している。
 そして、フォンデルはみごとに前言をひるがえしたのである。
「先日話した戦勝祝賀の件だがな、やはり執り行うことにした、わしの私邸でだ」
「……か、閣下!?」
 ラッツェルはさすがにあわてて、
「どういうことです? なぜ急にそのようなことを」
「理由をききたいか」
「……ぜひ」
 単純ならざる思いをいだきつつ、ラッツェルは首肯した。
 フォンデルのいう「理由」を聞いて、ラッツェルは驚愕し、しばらく声もでなかった。レア帝国から軍兵をひきこむという話を聞いたときでも、これほど驚いただろうか。
 それでも、思考が回復してくると、もはやこれ以上この宰相を諫止することは不可能であろう、と悟り、あきらめたように言った。
「それでは、何ももうしません。閣下のご随意に」
「そうか、そうか、ただラッツェル、当日、卿はつねにわしの側にあれよ」
「は、承知しております」
 一礼してフォンデルの執務室を出るとき、ラッツェルは、
(この人は、みずからの陰謀にふりまわされているのであろうか)
 と、軽侮と憐憫にちかい感情を抱いた。
 ラッツェルという男は、誰がどうみてもフォンデルの引き立てによって栄達した男である。このふたりが初めて出会ったのはちょうど一〇年前、ラッツェルは二年近くを過ごした海軍省を離れたばかりであり、フォンデルもまた副宰相の地位に就いて日が浅かった。いや、正確にはその前に会っている。フォンデルが王立学院の総長を務めていたとき、ラッツェルはその学生であった。が、お互い言葉をかわすこともなかったであろうから、やはり初めて出会ったのは一〇年前だといえるだろう。
 それ以来、ラッツェルは一貫してフォンデルのもとで栄達してきたし、またそれに見合うだけの能力と結果をフォンデルに提供し続けてきた。もちろんラッツェルが貴族でもまれなほどの栄達を遂げたことについて反発はある。「あれは王臣でも官吏でもない、ルーデッツ伯の家令だ」などという陰口はまだましなほうで、「やつは富商のせがれだというではないか。おおかた家財を宰相にささげて栄達したのであろうよ」などというものもあった。ラッツェルがそれなりに裕福な商人の子だというのは確かだったが、彼は庶子であり、家を継げるような立場にはなかった。家財を宰相個人にささげることなどできるはずもない。もしそのようなことのできる立場に彼があったら、もともと官途をこころざしたりはしなかったであろう。
 その彼は、当初は、海軍省から自分を引き抜いてまで地位をあたえてくれた評価に感謝し、自分の立案した政策を採用するや、きわめて迅速に政治化する手腕に感心していたものだが、フォンデルが副宰相から宰相にのぼり、しだいにその思惑がわかってくると、不満はいだかないまでも、不安を感じるようになった。
 その不安は、最近になってとみに大きくなっている。
(あせりすぎている)
 と思うのだ。ハンス王の嫡曾孫であるアントニーを推す声が、教会を中心に、意外なほど大きくなりつつあることが、その最たる要因であろう。グスタフ王の死去からすでに二ヶ月ちかくが経っているというのに、いまだ仮葬儀さえおこなわれていない。むろんフォンデルは、ウィレム大公を喪主として葬儀をおこなうつもりでいたのだが、教会がなんのかのと理由をつけて、それを拒絶しつづけている。もし群臣・諸侯がこぞってウィレム大公を支持しているのであれば、教会も断りようはないのだ。貴族からの寄進がなくなっては、教会は明日にでもつぶれるからである。だが教会があれほど強気にでるからには、デリス正教会の信徒たる貴族のうち、意外なほど多くの者がアントニーを支持しているとみるべきであった。
 ラッツェルは、ながらくウィレムと会っていない。かつて、王立学院のころは、友人にちかい仲であった。彼がフォンデルのもとで栄達しはじめたころ、この人の好い王子は、自分のことのようによろこんでくれたものだ。
「おれは、この人のために死ぬのかもしれない……」
 ラッツェルは、およそ文官らしくないことを考えたものである。実際に彼の能力を買い、この地位までのぼらせたのはフォンデルなのだが、そのフォンデルにしても、ラッツェルがウィレムと学友だったという事実がなければ、わざわざ海軍省から彼を引き抜くような真似をしたかどうか。ともかくラッツェルは、王族に対する偏見やら反感、そういったものを、ウィレムという王子と出会うことで放棄した。王立学院でウィレムは一個の聡明な若者であり、平民出身のラッツェルを、他の貴族出身の若者らと同等に、友人として遇してくれたものだ。
 だが、グスタフ王が死ぬすこし前から、ウィレムは人前に姿をあらわさぬようになった。臣下の中でウィレム大公が会うのはフォンデルだけともいわれるが、それは噂の域をでない。それどころかウィレムは、グスタフ王が死去してからはフォンデルとの交渉すら断ち、喪に服すると称して宮廷の奥に引っ込んでしまっている。彼が会うのは宮中の侍従と女官、それに妻子と側妾だけであった。
(ウィレム殿下がなにごとかをおっしゃってくだされば、この宰相も、次々と妙な策謀を考えださずにすむのだろうに)
 とラッツェルは思う。フォンデルは最近になってさまざまな策謀を練っているが、それは政略というよりも奸智というべきものであって、国と自分自身とをそこなう危険のほうが大きい。教会の台頭と、ウィレムがなかば隠遁してしまっていることへの焦りが、彼にそうさせているのであろうが、それにしてもレア帝国の一件などは、ラッツェルのような策士としての資質にとぼしい人間からみても、あまりにも不手際がめだった。国内の問題に他国――しかもよりによってレア帝国!――を介入させること自体どうかしているのに、にわかに投獄したフィンセントにわざわざその事実をおしえてやり、あげくのはてに逃がしてしまうとは……。
 公国軍が帝国軍をやぶったというのは、フォンデルにとっては痛恨事であろうが、ウェイルボード王国にとってはまだしも幸いなことであった……と、ラッツェルほどテュール家に冷淡な男でさえ思う。ベリアスもそれは同じらしく、公国の勝報をきいたとき、彼は露骨に安堵した表情をうかべたものであった。

 フォンデルの私邸において、公国の戦勝を祝う宴がもよおされたのは、その月の一五日であった。
 
 
 
 
 

   つづく

 




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