いつもの、習慣。
病室が明るくなった気がするのは、幾分天気が良いせいか。
アスカの顔も、いつもより眩しく見える。
僕の中で、アスカは、ひたすらに羨望の象徴だった。
成績優秀、運動神経抜群、眉目秀麗。
もっとも身近にありながら、もっとも遠い存在。
出会ったときから、僕は彼女に惹かれ続けていたのは、今の実感。
キツイ性格も、アスカをアスカたらしめる要素だった。
だから、どうしても。
僕はこの口で、アスカに、言いたいんだ。
好きです。大好きです、と。
だから、どうしても。
アスカを見つめ続けてあげなければ、いけない。
それが彼女にしてあげられる、唯一の愛情表現。
アスカに対するこの気持ちは、「愛」というものではないかもしれない。
雨に濡れる小猫を、どうしても連れて帰ってしまいたくなる、衝動。
哀れみだとしたら、アスカは悲しむだろうか。
でも、僕が哀しいのは、いつまでも目覚めないアスカじゃなくて。
いまでも心の中で葛藤し続けている、アスカの心じゃなくて。
その原因の一つを作ってしまったかもしれない、自分。
アスカの精神崩壊を知っている。
あの頃のアスカは、自分でプライドを築き上げて、それに支えられて生きていた。
それも、たった一つの矛盾で、「壊れ」てしまった・・・。
エヴァンゲリオン弐号機パイロット。自分の価値を自分で見失ってしまった彼女を、支
えるものが、根底から消え失せてしまったんだ。
彼女のプライドを傷付けたのは、決して使徒だけではない。
僕が付けた傷は無数。
僕が近づこうとすれば、傷は深まるばかりだった。
彼女に近づこうとするものは、みんな敵だった。
なぜ、アスカが綾波を嫌っていたのか、今では解る。
人の心を知らない綾波は、アスカを特別視しようとしない。
「その他大勢」となってしまう怖さが、綾波を避けていた理由。
アスカは、今思えば、僕のように人付き合いに馴れていなかったのかもしれない。
それは僕のような、生きる術としての理屈ではなく・・・。
綾波の方こそ、そんな気はなかっただろうけど、アスカにとってはやはり「敵」。
エヴァンゲリオンパイロットとしてのライバル。
僕に、綾波に助けられたアスカは決まって「チクショウ」とつぶやいた。
今、穏やかに眠るヒト。
自分を責める者は、ここにはいない。
僕はいつでも味方だよ、アスカ。
―――でも、アスカ。目覚める必要はないかもしれないけど。
やっぱり、僕はアスカの笑顔が好きだよ。
「もう行くよ、アスカ。また来るからね」
仕事の為とはいえ、アスカと離れるのは、やはり辛い。
でも、今の僕には、待っていてくれる人がいる。
僕を支える、数少ない幸せの一つ。
ごめんね。また来るよ。
子供たちを寝付かせて、家に帰ろうとしていた時、僕の携帯がなった。
「はい、碇です」
『あ、センセかい』
しばらくの、沈黙。予想外の、声の主は・・・
「トウジ!トウジじゃないか!」
僕は驚きが隠せなかった。
トウジと最後に会ったのは、3年前。
彼の仕事の内容は、ボランティア活動だった。
病院で妹の看病をしていて、介護の重要さを身にしみて感じ、自ら選んだ道だった。
トウジらしいといえば、トウジらしい。
ケンスケはトウジの頭がおかしくなったんじゃないかって騒いでたけど。たしかにケン
スケはトウジに殴られてばかりいたような気がする・・・。
その仕事の都合で、彼は東京を離れていた。
もちろん、洞木さんも、同じ仕事を選んだ。
理由として、
「だって、私みたいな人が料理をつくってあげなきゃ、だれがこいつの胃袋を満たすの
よ」
なんて言ってたけど、案外嬉しそうな顔をしてたな。
でも、二人とも、僕の見えないところで、いっぱい泣いているんだろう。
彼らも、僕も、天涯孤独の身となってしまったのだ。
『センセ、センセ、どうしたん?』
「あ・・・ゴメン」
考え込んでて、名前を呼ばれていたのに気づかなかったようだ。
『いや、ちょっと顔かしてもらえんかの〜。ワシ、来週あたり東京戻るさかい』
「え、どうしたの、急に・・・」
慎重に言葉を選んでしまう。気にするなと言われても、はいそうですね、なんて従順な
ことが出来るはずない。
もちろん、トウジは気づいてるだろう。
『ワシと会うのは、嫌か。そうか』
「違う、そうじゃないんだ!・・・ごめん、僕は・・・」
『すぐ謝るな!男のくせに!それに、ワシはもう平気や。そないな目で見られると、こ
っちが腹たつわ』
ケンスケにも言われたな。お前は優しすぎる、って。確かにそうかもしれない。他人を
傷付けないで済むのなら、僕はいくらでも優しくなる。それが僕の生きる手段だったん
だ。
トウジを殺そうとした事実は否めない。
僕はトウジを助けたかったんだ。父さんの言いなりになんかになりたくなかったんだ。
エヴァの力を借りて、父さんを止めていれば、サードインパクトも防げたのかもしれないのに、僕の心の弱さのせいだったんだ。
トウジを助けていれば、僕も少しは変われたかもしれないのに。
―――ねえトウジ、僕は君を殺そうとしたんだよ。
それを言ったら、きっともう戻れない。あの頃の様には・・・。
今、トウジに甘えてしまったら、きっと同じ過ちを繰り返すだけ。
これは、一つの宣言だ。
今一度だけ、自分を信じてみるよ、トウジ。
「・・・うん。解った。もう気にしないよ」
「そのかわり、トウジ。ありがとう」
『・・・なんや、謝ったと思ったら、感謝の言葉かい。まったくセンセはわからんわ』
その言葉には、優しさが含まれていた。
僕の使う、あの優しさじゃなくて。
心が暖まるような、不思議な感じ。
トウジの気遣いが、ただありがたかった。
『でな、さっきの話しやけども。センセに会いたいって人がおるんや。ワシが会った限
りじゃあ、変な奴じゃなかったから、安心せえ。年は30そこそこってとこの、普通のお
っちゃんや』
「ふ〜ん、誰だろう。そのくらいの歳の人に、知り合いなんていないけど」
いいながら僕は、加持さんを思い出す。
NERVに、スパイとして訪れた人。
ミサトさんの、最愛の人。
僕にとっての、相談相手。
アスカにとっての、憧れの人。
加持さんは、死んだんだ。
殺されたんだ。父さんみたいに。
今は、いい。今は、忘れよう。
「わかった。会ってみるよ。トウジも来週、東京にくるんだろう。一緒にこっちに来る
の?」
『ん、まぁ、会ったら話すワ。多分午後になると思うさかい、ゆっくりしときや』
「何言ってんのさ。毎日僕は仕事だよ」
『くぅ〜、ほんまにセンセになりおって。その日ぐらい休めや。2年ぶりの親友との再
開だっちゅうのに』
「うん。じゃあ午後は切り上げるよ。マンション覚えてるよね?」
話しながら、心がほどけてゆくのを感じる。
改めて、トウジという男の優しさを感じた。
洞木さんが惚れるのも、無理ないな。