伝えた想いのこちら側で、少女はじっと少年を待っていた。

 

 忘れられない本当の想いの向こう側で、

 少年はその少女を見つめていた。

 

 この想いが偽りかも知れない、と少年は言った。

 その想いが偽りでも構わない、と少女は答えた。

 

 


 

 少女、少年  <第十二話>

 


 

 

「でも、はっきりと言葉にするべきだと思いませんか?」

 

 目の前でコーヒーを啜りながら、次の仕事の”パートナー”が、力強く言い切った。

 

 茶色のウェーブが肩まで伸び、大きくクリクリした目が先ほどから忙しく動いて、店の

あちらこちらを飛び回っている。少し太い繭も十分に印象的だった。愛らしい、と表現す

るのが正しい女性なのだろう。今年大学を出たばかりという話だから、ケンスケよりは2

つ3つ若いことになる。

 

 ケンスケは次の仕事のパートナーを観察しながら、小さなため息を一つ吐いた。

 

 本当なら今週の頭から、ケンスケは日本を離れて次の仕事先に到着しているはずだった。

しかし、週の中頃にさしかかった水曜日になっても、未だに日本にいる。しかも今は、今

日初めて顔を見た女性と、喫茶店で世間話をしている最中だ。

 

 それもこれも全ては、”若い女性リポーターを現地に派遣する”という、制作会社の上

の意向、すなわち気の迷い(ケンスケの見解では)が原因だった。今回撮る戦争ドキュメ

ンタリーに若い女性の必要性など全く感じ無いのだが、上はそんな要素で数字が変わると

信じている。そしてその結果、「次の仕事の打ち合わせ」という名目で、目の前に今回の

リポーター役の女の子が座っている。

 

「どんなに想って居ても、口に出来ない事はあるよ。取り敢えず『好きだ』と言ってみて、

もし答えが『ダメ』だったらそれで終わる、そんな単純なモノじゃないよ。君の友達が好

きになった人が、えっと、その友達の友達の彼氏なんだろ? 君が言うみたいに自分の想

いを単純に口にするのも正解かもしれないけど、その想いを口にしないのも正解だよ。」

 

 ケンスケは諭すように、柔らかく答えた。

 

 正直こんな話題はうんざりなのだが、今後の円滑な仕事のためには、最初からコミュニ

ケーションをしっかり取っておくべきだと、過去の経験がそう答えを出していた。

 

「でも、ウジウジと思い悩んで、結局機会を逃すのなんか馬鹿みたいじゃないですか。だ

って、好きなんですよ。その想いが本当だったら、まず先に自分の事を考えて、行動に移

すべきだと思いませんか?」

 

 彼女は少し怒った風に語気を強めながら、早口で反論した。

 多分、この子は直情径行にあるのだろう。若しくは、立ち止まること自体を悪とする思

想の持ち主なのかもしれない。

 

 ケンスケは喉の渇きを少し癒す為に、すっかり氷の溶けたグラスの水を、一口だけ口に

入れた。

 

「色々な人が嫌な思いをするかも知れないんだよ。そして自分自身が”それ”に含まれる

可能性も大いにある。」

 

 ケンスケは柔らかい物腰は崩さずに、そう彼女に答えを返した。

 

「私なら自分のしたことに後悔はしません。極端な言い方かも知れないけど、どう転んで

も構わないんです。目の前に答えを得る方法があるのに、それをやらないことが嫌なんで

す。」

 

「君なら、だろ?」

 

「相田さんなら言わないんですか?」

 

「言わないな、それだけは間違いない。」

 

 ケンスケは彼女のその問い返しに、少しも思案した様子を見せず、今までより僅かだけ

強い口調で答えを返した。

 

 彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、次の瞬間には落胆した表情を見せて、小

さなため息を吐いた。

 

「相田さんって、物腰が柔らかくて一見何処か頼りなさそうだけど、本当はもっと行動力

のある人だと思ってましたけど、」

 

 彼女は今までのテンションと一転して、少し重い口調でそう零した。

 

「はは、過大評価は止めた方が良いよ。本当の事を知ったらもっと落胆する。そもそも友

達の友達に好きだと言えたら『行動力のある人』って事になるのが、俺には理解できない

けどね。」

 

 苦笑を浮かべて、ケンスケはそう答えた。

 

「少しだけ突飛かも知れないですけど、私的にはそんな感じなんです。そもそも、内へ内

へと入っていくのって嫌いなんです。だってモヤモヤした気持ちを自分の中に押し殺すっ

て事は、自分自身はその時点で傷ついてるって事じゃないですか。ずっと自分自身を傷付

けてこれからも過ごして行くのなら、ここで答えが欲しいんです。今傷口が開いても、い

つかそれは塞がります。でも行動しなかったら、傷口はいつまで経っても塞がらないでし

ょ?」

 

「そうだね、傷口は塞がらないな。でも、その傷の痛みには何時か慣れるさ。自分だけし

か傷つかない、そんな生き方もある。」

 

「そんなのって、私には理解できませんけど。」

 

「理解する必要は無いさ。君は君だし、俺は俺だ。そして、君の友達は君の友達だよ。誰

かが意見をして言葉を並べても、答えを出すのは自分自身なんだ。ただ、そういう考え方

もある、って事だけ分かればいい。と、そういうのが俺の考え方だよ。」

 

「そう、ですか・・・」

 

 きっぱりとしたケンスケの口調に、少し俯きがちになりながら彼女が答えた。

 

「何でそんなにがっかりしてるのか、よく分からないけど?」

 

「いえ、別に。ただ相田さんなら、私の考え方に賛同してくれるかな、と何となく思って

たので。」

 

「何故そう思うのか分からないけど。少なくとも俺は、誰かを傷付ける可能性のある選択

肢を、優先的に選んだりはしないつもりだよ。」

 

「それって博愛主義ですか?」

 

 彼女は少しだけ嫌みを含んだ口調で、そう言葉を挟んだ。

 

「棘があるね、それ。」

 

 ケンスケは彼女の言葉に苦笑混じりでそう答えて、ぬるくなったコーヒーを口に運んだ。

中途半端な苦さが口一杯に広がって、それがコーヒーを飲んでいる実感をより強く与えた。

 

「でも、博愛主義とかいったモノとは違うな、俺のは。自分の周りの人間を巻き込む事は、

結局最期には自分自身を更に深く傷付けてしまう事だと考えているからね。大切なモノは

簡単になくなるんだ。だから、自分の周りの人間を傷付けたくないんだよ。自分が言葉を

押さえれば良いと分かっているのなら、あくまでも『出来ることなら』だけど、極力言葉

にしないでおこうと思うよ。嫌な気分にはなりたくないんだ。」

 

「でもそれって私から見たら、ただ卑怯なだけに映ります。逃げてるだけじゃないです

か?」

 

「そうだね、卑怯だと思うよ。でも、それでも逃げ出すことが出来ない時はあるんだ。目

の前に見て見ない振りをすれば済む問題があって、『逃げればよい』って頭の中で分かっ

ていても、逃げることが出来ない時がある。好奇心や探求心みたいな蛮勇が首を擡げて、

気が付けば誰かを傷つけてるのさ。『したいこと』と『出来ること』は全く違うからね。」

 

 ケンスケはそこまで話すと、小さくため息を吐いて、彼女を真っ直ぐ捉えるように目線

を上げた。

 ただ、そこまでケンスケの言葉を聞いた彼女は、何か思案するように俯いて、今度は今

までのようにケンスケに言葉を返さなかった。

 

 結局彼女が言葉を返さなかった事で、気まずい沈黙がやってきたが、ケンスケは特別に

ファーストコンタクトの失敗を悔やんでは居なかった。結局、破綻するときは破綻する。

今回はそれが少し早くやってきただけの事だ。

 

 ケンスケは残り少なくなったコーヒーを一気にあおって、スモークの張られた窓の外に

目をやった。そこから見える町並みは、今日も何時もと同じように変わりが無い。うんざ

りするように、夏の陽射しが世界を焦がしている。

 

「あの、相田さん、彼女居ますか?」

 

 突然切り出した彼女の突拍子の無い言葉に驚いて、ケンスケは間の抜けた表情で彼女の

顔を凝視した。

 そこには少しだけ頬を赤らめて、伏し目がちにこちらを窺っている彼女が居た。

 

「え、いや、居ないけど、あの、なんでそんな事聞くの?」

 

「よかった! じゃ、私が彼女になってもOKですよね?」

 

 彼女の顔にパッと花が咲いた。

 ケンスケは何が目の前で起こっているのか、その事象を認識するタイミングを完全に逃

しつつあった。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ。俺たち仕事の打ち合わせで今日初めて会って、2時間程しか

経ってないじゃない。え、あの、何言ってるか分かってる?」

 

 並べる言葉がしどろもどろになっている。

 

「私興味が出てきたんです、相田さんに。何処か憂いを帯びた表情、自分自身を確立して

いる考え方、私の周りには居なかったタイプの人間なんです。凄く私にプラスになりそう

な気がします。だからもっと相田さんの事が知りたいんです。」

 

 目をきらきらと輝かせながら、彼女が一気にまくし立てた。

 

「いや、だったら友達とか、そういうところからね、あまりに突然でね、ね、」

 

「駄目です。私たちが友達の間柄の時に、もし相田さんが彼女を作ってしまったらどうす

るんですか。相田さんが私の考えているように素晴らしい人だったら、そんなの到底私に

は納得いきません。」

 

 何が納得いかないのか、ケンスケにはもちろん分かるはずもない。

 

「いや、だからさ、なんで、その俺なの? 俺は君が思ってるような人間じゃないよ。君

が言ったように俺は内向的で卑怯な人間だよ。君がどういう風に勘違いしたか分からない

けど、いくら何でも、その、いきなり彼女っていうのはおかしいと思うよ。だからね、」

 

 自分で一体何を言い訳しているのか、ケンスケには分からなくなってきた。いや寧ろ、

今何故自分がこの場に居るのかという事さえ、曖昧になってきた。

 

「・・・、あの、私って、そんなに、魅力、無い、ですか・・・、」

 

 今までの強い口調が一転、彼女が卑屈の程か細い声で、そう呟いた。

 

「いや、そんな事は無いよ、十分魅力的だよ。いや、そうじゃなくて。いや、そうだけど、

その、あれ? えっと、可愛いと思う。お、俺は、思うよ、うん、」

 

「やったぁ! じゃ、彼女になってもOKですよね。あー、どきどきした。やっぱり断ら

れたらどうしようかと思うじゃないですか。でも、本当によかったぁ! あ、今から時間

あります? 私駅前に素敵な喫茶店見つけたんです。そこのマスターが女性で、凄く話が

合うんです。店移しましょう。マスターにも素敵な彼氏見つけたって、報告しに行かなく

ちゃ、えっと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、」

 

 『やってしまった。』と、男にはそう思う時がある。ケンスケの今がまさにそれだった。

 

 彼女は惚けてしまったケンスケの向こう側で、依然として危険な言葉を並べている。ケ

ンスケは駅前の喫茶店という言葉が気になったが、もうどうでも良くなっていた。

 

 仕事の打ち合わせはどこへ行ったのだろう。今週末には、中東に飛ばなくてはならない。

しかし今のケンスケには、冷静に今後の予定を組み立てる力は、もう残っては居なかった。

 

 


 

 

 カウンターの片隅で軟体動物のように不定形に溶け、生気のない表情でケンスケが死ん

でいた。

 ヒカリは笑うだけ笑った満足感を顔一杯に浮かべ、その余韻を全身に十分に漂わせなが

ら、店の片づけを進めていた。

 

 時計の針は、夜の9時を回ろうとしている。

 

 既に看板をしまい終えた『明日菜』には、明暗の違いをくっきりと浮かび上がらせて居

る二人のシルエットが、柔らかい温もりを伝える木壁の上を踊っていた。

 

「いやぁ、それにしてもまさか相田さんが、彼女ご同伴でご来店なされるとは、思いもよ

りませんでしたわ。」

 

 ヒカリが変にまじめぶった口調で、動かなくなって久しいケンスケの背中に、そう言葉

を掛けた。先ほどから散々弄ばれているケンスケは、一瞬だけヒカリの言葉に”びくん”

と反応したが、その突っ伏した状況を変える気配はなかった。

 

「可愛い女性ですね。今度の仕事のパートナーでしたっけ? あ、ごめんなさい。これか

らはプライベートでもパートナーでしたわね。」

 

 更に”びくん”とケンスケが反応する。が、それでも決して顔を上げない。

 ヒカリは口調こそ妙にまじめだが、表情は笑いをかみ殺す事に必死になっている。

 

「あ、そうだわ。ちゃんとうちの亭主にも報告を致しておきますわね。」

 

 そのヒカリの言葉に呼応するかのように、バンっと突然テーブルが叩かれた。そしてケ

ンスケが、勢いよく遂に顔を上げた。

 

「言うなあぁ、」

 

 起きあがった勢いこそ凄かったが、出てきた声は絞り出すような、それでいて切なげな

声だった。

 

「それは出来ないご相談ですわ、相田さん。」

 

 ヒカリは笑いをこらえきれないという表情で、容赦無く言い切った。もう、面白くて面

白くて仕方がない、という様子である。

 

「頼む、頼むから言わないでくれぇ、」

 

「だめですわ。こんな重要なこと、愛するダーリンに報告しないなんて出来ませんことよ、

おほほほほ!」

 

 あぁ、女性は変わっていくモノだ。

 

「言うなぁ、頼む、頼むよ! 飯でも何でも奢る。だからさ、頼むからトウジには言わな

いでくれっ、後生だから、後生だから! あいつが知ったらまたお節介焼いて、無理矢理

でもくっつけようとするから、な、頼む! ヒカリも分かるだろ? この通り!」

 

 ケンスケは今にも泣きそうな声でそこまで絞り出すと、再びカウンターの上に突っ伏し

てしまった。ただ両手は頭の上で合わせられ、ヒカリを拝むような形になっている。

 

「えぇ、何でそんなに相田はやられてるのよぉ。結構可愛い子じゃない。元気も一杯だし、

性格も楽しくて良い女の子よ。何を相田が嫌がってるのか、あんまり分からないけどな

ぁ。」

 

 ヒカリは洗い上がったグラスを一つ一つ丹念に磨きながら、死に体になっているケンス

ケの頭越しに、今までとは違い少し諭すように声をかけた。

 

 窓の外に見える世界から、街頭の光がゆるやかに差し込んで、そんなケンスケの背中で

淡く弾けていた。

 

「なぁ、今日始めて会ったばかりなんだよ。相手の事も全然分からないのに、いきなり付

き合ってくれ、って言われてさ。いや違うな、もう向こうは彼女になった気満々なんだよ。

頼むよぉ、ヒカリ。何とかしてくれぇ、」

 

 ケンスケは突っ伏した姿勢は変えず、顔だけをヒカリの方に上げ、少しだけ紅潮した頬

とウルウルとした瞳でそう懇願した。

 

「うーん、だけど相田も独り身でしょ。あんな可愛い子から告白される事なんか、今後一

切無いかもよ。後々になって『あのときは勿体ない事をした』って、後悔するかもよ?」

 

「・・・、別にかまわないよ。」

 

 ケンスケはほんの少しだけ思案する様子を見せた後、呟くようにそう答えた。

 ヒカリはその答えを聞いて、グラスを拭いていた手を止めて、小さくため息を吐いた。

 

「あのねぇ、相田。あんた女の子とつき合いたくないわけ?」

 

「いや、別にそういうわけじゃないさ。ただ、相手のこともよく知らないのに、『つき合

う』とか『つき合わない』とかの事を言われるのがイヤなだけさ。ヒカリだって逆の立場

だったら嫌だろ。もしまだ独身で、今日始めて会ったお客さんに『一目惚れです。付き合

ってください。』って言われて、いきなり付き合えるか?」

 

 今度はケンスケが一つため息を吐いた後、逆に問いを返した。

 

「うーん、相手が格好良かったら考えるかもね?」

 

 ヒカリがにんまりと笑みを浮かべながら、答えた。

 

「トウジが聞いたら怒るぞ、それ。」

 

 ケンスケが下から射るような視線で言った。

 

「あら、勿論今なら丁寧にお断りするわよ。でも独身だったら、でしょ? いい男に告白

されたら、誰だって考えるわよ。王子様が突然やって来て、『姫のためなら私はこの命を

投げ出しましょう』とか言われた、間違いなくどんな女もその場でくるくる回っちゃうわ

ね。もし自分が結婚していても、相手が王子様クラスだったら考えるかもよ。あ、これは

トウジには内緒よ? そうね、取り引きにしましょう。」

 

 ヒカリは楽しそうにそう口にした後、小さく舌を出して肩をすくめて見せた。

 

「おっけー、その条件は呑もう。だから、もう勘弁してくれ。」

 

「了解しました相田殿。今日はこの辺で勘弁してあげましょう。」

 

 ヒカリの言葉に笑みを返して、ケンスケはゆっくりと体を起こした。顔には突っ伏して

いた後が、赤く浮き上がっていた。

 

 ヒカリは冷蔵庫からトマトジュースの缶を取り出して、ケンスケの目の前に差し出した。

ケンスケは額の横で閉じたVサイン作り、それを軽く振ってから、缶を手に取り額に押し

当てた。ひんやりとした感触が、火照った体に気持ちよかった。

 

「でもさ、ここからは古い友人としての忠告だけど、無茶ばかりしてないで、少しは腰を

落ち着ける場所を作った方がいいと思うよ。」

 

 ヒカリが諭すような口調で言って、小さく首を傾けた。

 

「別に無茶をしてる覚えは無いけどなぁ。どれもこれも全部仕事だよ。」

 

「今度も中東でしょ? もう十分に見たい物は見たんじゃないの?」

 

 ヒカリが少し堅い顔でケンスケに問うた。

 

「別に何かを見たくて行ってるわけじゃないさ。仕事だよ、仕事。ドキュメンタリーを作

るのがうちの会社の仕事だからね。ドンパチやってる場所があれば、カメラを持って何処

にでも行くさ。」

 

 ケンスケは少し渇いたのどを潤すために、トマトジュースの缶を開けて、それを口にし

た。少しだけ酸味の在る味わいが、小さな刺激になって体に広がっていく。

 

「相田がやらなくちゃいけない仕事なわけ?」

 

「別に俺がやるやらないというより、うちの会社の人間は皆やるよ。俺だけが特別な事を

してるわけじゃないよ。うちはそういう会社だからね。それで飯喰ってるんだから。」

 

「ふーん、じゃぁ今日のあの子も行くの?」

 

 ヒカリが少し口をへの時に曲げて聞いた。

 

「いや、一応予定では隣町までだよ。だた正直なところ、そこまでだって連れて行きたく

ないな。隣町とはいえ安全の保証は全く出来ないし、そもそもあんなのはあまり生で見る

モノじゃない。リポーター代わりらしいけど、まぁ、上がどうしてもって言うからね。」

 

 ケンスケはそう口にして、ため息を吐いた。

 

 ヒカリはケンスケの言葉に少しだけ渋い表情を見せて、胸の前で手を組みながらカウン

ターの正面にある棚に背中を預けた。

 そして改めて、口を開いた。

 

「あのさ、答えたくなければ良いんだけど、一つ聞いていい?」

 

 ヒカリの真剣な眼差しが、ケンスケの瞳に注がれる。

 

「何? 突然あらたまって?」

 

 ケンスケが左頬を少しつり上げながら、怪訝そうに答えた。

 

「相田は何でそんなに、無理してるの?」

 

 ヒカリのその言葉を受けて、ほんの一瞬ケンスケの表情が明らかに曇った。何時も崩さ

ない穏和な表情ではなく、能面の様な張り付いた無表情がそれに取って代わった。が、そ

れも一瞬、またいつもの優しげな表情に戻った。

 

「え、無理? いや、俺自身はあんまり無理をしてるつもりはないよ。まぁ、人手が少な

いから仕事は多いけど、それでもちゃんと自分のキャパシティーの範囲だよ。ヒカリが心

配してくれるのは本当にありがたいけど、俺もまだまだ若いからね。」

 

 ケンスケは少し意識的に明るめの声で、軽い笑みを浮かべながらヒカリの問いに答えた。

 

「そっか、分かったわ。質問の仕方が悪かったみたい。じゃ、言い方を変える。単刀直入

に聞くけど、相田って何と戦ってるの?」

 

 ヒカリは首を僅かに傾けた姿勢で、じっとケンスケの目を見つめながら強い口調で言っ

た。

 

「え、え? あの、ごめん。えっと、ちょっとヒカリの言ってる事が分からないな。」

 

 その質問にケンスケは一瞬困惑した表情を浮かべたが、それでも苦笑を浮かべながらそ

う言葉を返した。

 

 ヒカリは返ってきたそのケンスケの言葉を無視するように、じっと表情を変えないでケ

ンスケを見つめたまま動かない。

 

「おいおいヒカリ、ほんと何言ってるのか分からないんだよ。なぁ、俺が何に対して戦っ

てるのさ? 仕事だから取材や撮影の為に、たまたま戦場に足を運ぶだけさ。」

 

「ねぇ、相田。それって本当に仕事だから? 本当にそれだけ?」

 

 少し狼狽した様子のあるケンスケの言葉に、今度はヒカリが言葉を返した。

 

「勿論だよ。別に銃を撃ったり、政治的な活動をしたりしてるわけでも無いよ。俺なんか

ジャーナリストというより、仕事として淡々と絵を撮ってるだけだからね。別に社会に対

して戦争の非を説くために活動している人間でも無いし、自分の行動一つで社会を変えら

れると思う程子供でも無いつもりだよ。無論、そんな気はこれっぽちも無いしね。」

 

「私はね、別にそんなことを言ってる訳じゃないわ。何故、あえてこんな危険な事を続け

ているのか、って部分が知りたいの。最初は興味本位だったということは知ってるけど、

今はそうじゃないでしょ? 最近は自ら率先して危険なところに行ってるような気がする

わ。それは何故?」

 

 ヒカリが強い口調で言った。

 

「別に率先してるわけじゃないよ。単純に仕事に慣れてきたから、仕事が増えてきただけ

さ。戦場カメラマンなんて今は激減してるからね。幾らでも仕事はある。確かに『仕事』

って言葉に流されて、戦場に足を運ぶ回数は増えてるよ。でも、別に無理をしてるわけで

も、何かと戦ってるわけでもないさ。そうだな、言い換えれば、俺の意志の弱さそうさせ

てるって事かな。」

 

 ケンスケが少し苦笑いを浮かべて、最後は冗談混じりに言った。

 ヒカリはそんなケンスケの様子を受けても、依然として硬い表情を崩そうとはしない。

 

「あのね、相田は嘘付くのが下手すぎるのよ。あんたがずっと何かを背負ってるって事は

十分に分かるもの。だから、無茶してる。相田は、あの頃の皆と戦ってるわ。」

 

 ヒカリのその言葉を受けて、ケンスケの口元が引き締まった。眉間に小さな皺が寄り、

目元にずっとあった笑みが、すっと冷めていくのが見て取れた。

 

「私たちは皆があの頃を共有した、そして大小はあったけど、少なからず誰もが傷ついた

わ。何も出来なかったのは私も一緒よ。そりゃ相田はトウジやシンジ君と親友だから、も

っと別の感情があるのかもしれないけど、今相田が無理することなんか何もないわ。」

 

 ヒカリが何処か懇願するような口調で言った。

 

「あのなぁ、ヒカリ。そりゃシンジやトウジが戦ってたころ、俺はドンパチに憧れるだけ

の無知な子供だったよ。だからあの頃は『羨ましい』だの『自分も乗りたい』だの好き勝

手なことばかり口にして、実際にあれに乗ってる人間の気持ちを考えてやれなかった。今

でもそれは悪かったと思っている。でも、俺が危険なところに行けば、それが無かったこ

とになるのか? 俺が戦場に足を運べば、今になってそれの何かが誤魔化せるのか? 全然

論理的じゃないぞ、それ。」

 

「自分でも分かってるじゃない、論理的じゃないって。」

 

 射るようなケンスケ目が、ヒカリに注がれる。

 ヒカリは依然棚に背を預け、腕を胸の前で組みながら、その視線を受け止めている。

 

 僅かばかりの沈黙が二人の間に訪れた。

 

「ねぇ、もっと自分の事を考えなさいよ。何時も何時も人の為ばっかり。相田は優しすぎ

る。もっと自分の為に正直な方が良いわ。過去に対して罪の意識を感じる事を止めないと、

どんどん苦しくなる。」

 

「ヒカリ、お前は何でもお見通しみたいに言うけど、それは間違ってるよ。俺は弱い人間

だから、登った場所から降りられなくなっただけさ。だから戦場に行く。そして弱いから

人に優しい。誰も傷つかなければ良いと思ってる。無論、別に誰かの為に生きてるわけで

もない。過去の罪滅ぼしをしようとは思ってもいない。買い被りすぎてるよ、ヒカリは。」

 

 ケンスケが強く言い放った。

 

「嘘よ。アスカの件にしてもそうよ。何時も人の事で苦しんで、何時も嫌な役回りを引き

受ける。思ったことも口にしないで、一歩引いた場所で皆を支えてる。皆に与えてる優し

さを、ほんの少しでもいいから自分のために使いなさい。彼女の件もそうよ。あの子は別

にしても、自分を支えてくれる人を捜しなさいよ。全部自分一人で生きていくことなんか

無理よ。今の相田を見てると、突然皆の前から消えて無くなって、もう戻ってこなくなる

んじゃないかと思うときがあるわ。」

 

 ヒカリの声も、ケンスケに負けないくらい強い。

 

「俺は卑怯だから、人を嫌な気分にしたくないんだよ。そして弱いから思ったことを口に

できない。ただそれだけさ。」

 

「相田が思ってるより、他人は強いモノよ。」

 

 ケンスケの表情が硬く締まった。

 そしてまた沈黙がやって来た。

 

 アナログ時計の秒針の進む音が、やけに大きく聞こえる。

 意識の片隅に置かなければけっして聞こえないこの音が、今の二人の耳には大きすぎる

ぐらいに響いていた。

 

「そうだね、そうかもしれないな。」

 

 抑揚啼く、それでいて今までで最も強く、そして通る声でケンスケが言った。

 

 その後しばらくの間、ケンスケとヒカリは互いをじっと見つめていたが、ケンスケが意

を決したようにゆっくりと椅子から立ち上がった。フローリングを椅子の足が僅かに削る

音が、静かな店の中に広がった。

 

 ヒカリはケンスケのその様子をじっと見つめていた。

 

 椅子の横に体を出したケンスケは、今度はその椅子をゆっくりとカウンターの下に仕舞

いながら、長く意識したため息を一つ付いた。そして、意を決したように、ゆっくりと視

線を上げて、ヒカリの目をじっと見つめた。

 

「なぁ、ヒカリ。俺が思うより、人は強いんだな? もし俺がヒカリのことを・・・、い

や、」

 

 そのケンスケの言葉を受けて、ヒカリの目が今までよりほんの僅かだけ見開かれ、そし

てその表情が止まった。

 

 籠もったクラクションが鳴って、店の前を通り過ぎていく車のノイズが、僅かにだけ窓

ガラスを揺らした。光量の少ない店の中に、重くドンヨリとした夜の気配が少しずつ足下

に溜まっていく。

 

 ケンスケはそんなヒカリの表情を見て、寂しげな笑みで小さくかぶりを振った。

 

「ごめん、悪かったよ。長居したからもう行くよ。ちょっと今度の仕事は長くなると思う

から、次に店に来るのは結構先の事になるかもしれないな。悪いけど、トウジやシンジに

も宜しく伝えてくれ。それと、彼女の件も考えておくよ。」

 

 言葉を返さないでじっとケンスケを見つめているヒカリにそう話しかけて、ケンスケは

ハンドバックを小脇に抱えて店の入り口の方に歩き出した。

 

 ヒカリの視線が、ゆっくりとケンスケを追っている。

 

 ゆっくりと店の扉にたどり着いたケンスケは、そこでふと足を止めた。

 

「なぁ、ヒカリ。『優しい』は誉め言葉ではないよ。」

 

 ふり返って最後にそう一言口にしてから、ケンスケは『明日菜』を後にした。


つづく


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