第5話「−」


ジオフロント、第2発令所内にキーを打ちこむ音が響く。
暗く、1m先は見えない闇の中に、カタカタという音のみが人間の聴覚をくすぐる。
いつもはマヤが使っている端末の下に潜む影。
机の下に眩しいほどではないが、光が漏れている。
その光に照らされてぼんやりと浮かび上がる白衣と配線コード。
液晶ディスプレーの光を眼鏡に反射させ、黙々とキーを打ち続ける。
眼鏡に赤い数字の羅列が反射し、レンズに描き出されていた。
「さすがね・・・まさかここまで進入してくるとは思わなかったわ・・・」
キーを押す指の音がさらに加速する。
「F309も突破・・・?。こんな所まで突破済みとはね。
 でも・・・これを知ったあなたはどうするのかしらね・・・加持君」


アスカはベッドに横になり天井の模様を眺めていた。
規則正しく同じ模様が続く天井。
幾何学的な模様のそれは、じっと眺めていると視覚に変化をもたらしてくれる。
一つの模様を眺めてみる。丸の中に幾重にも花が重なっているような模様。
視点を模様の中心にしたり、一番端にしたりして視点の切り替えによる模様の変化を
彼女は延々と眺めていた。
「コンコン」
不意に響くノックの音。無視。
「コンコン」
しつこくノックの音。無視。
しばらくして、廊下を歩く音。うっとおしいヤツ。
食器の音が近づいてくる。初めからそうすればいいのに、馬鹿。
「夕飯ここに置くよ・・・」
答える声は出さない。遠ざかる足音が途絶えてから、ベッドから降りてドアに向かう。
【がらっ】
扉が開くに従い、目の前に現れる顔。
いないと思って開いた扉だけに、彼女は少なからず動揺した。
彼女は息を飲む。
彼はじっと彼女の顔を見つめていた。
動きは見せない。
ただ眺めているだけ。
彼女からのアクションを待っていた。
動かない彼を横目にスッとうずくまり、膳を手にする彼女。
その後の行動は容易に察しが付く。
「アスカ・・・」
膳を持ちあげ、彼に背を向ける。
「待って」
彼は不意に彼女の腕を握る。かちゃりと食器が擦れる音がした。
しばしの沈黙。
シンジははっと自分の行動を認識すると、慌てて彼女の腕を放した。
「・・・ごめん」
シンジはうつむき、詫びる言葉を吐く。
アスカは背中越しに、彼に対しての言葉を初めて出す。
「・・・なんか用?」
シンジは彼女に話そうとしたが、唇が震えるだけで言葉は出てこない。
あまり突っ張らない方がいいと言ってあげたかったのだが二人の間に会話は無く、
沈黙の時だけが流れていった。
アスカの足が一歩、部屋に入る。
彼ははっとなって言おうとしたことを口に出そうとしたが、どうしても言い出せなかった。
余計な事をしているのではないかと彼女の顔を見て思う。
忠告した方がいいと決断したが彼女の顔を見て、不意に沸き起こった思考。
それが面倒から逃れようとする思考であるとは認識できずに
シンジは彼女への語りを諦め、視線を落とした。
視線が落ちた直後、彼の視界に移っているアスカの足が反転すると同時に
握りしめたお椀がシンジの視界にちらと写り、消えた。
それは彼女の手から放れ、シンジの肩に当たる。
瞬間、彼の肩にじわりと痛みが刺さる。
からからと転がるお椀と、床に広がる液体を見て、その痛みの理由が分かった。
同時に胸ぐらを掴みあげられる感覚、壁に叩きつけられた感覚が襲う。
「なんなのよ!あんたのそういう態度が一番ムカつくのよ!!」
鋭い視線か彼を射抜く。
「馬鹿にしてるわけ!?。ボクより劣る自称エリ−ト!
 実力もないくせにエリート面する馬鹿な女とでも言いたいわけ?!」
アスカは激しい剣幕でシンジに言葉を浴びせるが、彼は黙ったままだった。
それが彼女をさらに憤らせるとも知らずに。
「・・・なんか言いなさいよ・・・」
無言。
「何か言いたいことあるんでしょ!。言いなさいよ!!」
無言。
・・・
アスカはこのとき初めて殺意を感じた。
シンジは自分より劣る奴と会話をしたくもないと言ってる・・・そう感じた。
馬鹿女をからかって楽しんでやれって・・・そう感じた。
こいつの首をねじり切ってやりたい、そう感じた。
彼は胸ぐらを掴みあげられながら、
心臓の鼓動と調和して肩に痛みが走るのを感じていた。
アスカの顔を直視はできない。床に落ちたお椀をじっと見つめながら痛みに耐える。
彼女はコイツの態度にもう我慢ならなかった。
たまらなくイヤな思考が彼女を支配しようとする。
シンジの態度を負にしか感じられない自分を知るが、そんなことはどうでもいい。
コイツに触れてるだけで嫌悪感が自分の中に広がり、もう我慢できなかった。
アスカが胸ぐらを掴んでいた腕に力を込めたとき、
吸い物がかかって変色しているポロシャツが彼女の手の甲に張り付いた。
(熱っ)
シンジの変色したシャツと彼女の手に触れた感覚により、
彼女の思考がジェットコースターのように走り回る。
(あ・・・)
アスカはシンジを突き飛ばすと、部屋の中へ駆け入った。
シンジは自分を卑下した思考を走らせながら、苦笑いを浮かべる。
が、様子が少しおかしいことに気がついたのは、
壁を嘗めながら床にしゃがみ込む際に視界に入った扉。
彼女の部屋の扉が開け放たれていたのを知った際だった。
てっきり元の殻に帰っていったものと思っていただけに、
ドアが開いていたのは以外、おかしいと感じた。
そうっと、中の動向を探りながらシンジは彼女の部屋に近づいていく。
一歩二歩とつま先立ちでゆっくりと歩みを進め、中の様子をうかがい見る。
部屋の中は真っ暗。カーテンが閉まっているらしく、月の光も射し込んではいなかった。
入り口から僅かに射し込む光と、
ベッドに灯る小さなルームライトだけが彼女の部屋の内部を照らしていた。
シンジの視界にまだ彼女は見えてこない。本棚が視界に入り、ベッドが視界に入るまで
彼は部屋の入り口に接近したが、彼女の姿はない。
もう後の死角は部屋の中に首を突っ込まない限りは見られない。
シンジは怒鳴られるのを覚悟で影に続いて一歩部屋に足を踏み入れ、
見えなかった死角に視線を移した。
怒鳴り声はなかった。ただ蹲って何かをまじまじと見ている彼女だけが写る。
彼女の長い髪が顔を覆い隠していたので表情までは見て取れなかったが、
僅かに肩が震えていた。
「・・・ミサト・・・帰ってくるって?」
ぼそぼそ呟く声がシンジの耳に入る。だが言葉尻は強く、シンジは返答に窮した。
「・・・聞いてないの?」
同じ声。シンジは彼女と、その声に威圧されながらも口を開く。
「・・・うん、テストで忙しいらしいから」
その声と同時にアスカはひざを立て、そのまま彼の脇をすり抜けると
一目散に玄関を目指した。シンジも慌てて後を追ったが、
彼が見たのは玄関のドアが閉まりゆく光景だけだった。


昼間は砕岩の音が絶えないこのマンション群だが、
月が存在を強める時間になれば、
虫の声すら聞こえない静寂がここを包む。
物音もなく、光すら灯らないかつての虚像に、唯一の住人の帰りを
知らせるように光が灯った。
彼女は中学校の制服のまま部屋に入ってゆくと、がらんとした部屋の隅に置かれた
タンスの中から下着とタオルを取り出し始める。
無言で引き出しをあさっていたレイの目線がタンスの上を横切った。
ビーカー、医学書、壊れかけの眼鏡・・・。
彼女はタンスから目的の物を手にし、
脇に抱え込むと空いた右手の人差し指で壊れかけの眼鏡の縁をなぞった。
同時に彼女の口が無意識下で呟きを漏らしていた。
「ただいま・・・」


『シュッ』
いきなり開いた扉に、帰り支度をしていた加持が怪訝な表情で振り返る。
もう夜の11時。訪問者が来るような時間ではない。
彼の視界にうつむいた少女が入るまで、時間はかからなかった。
「ん?、なんだアスカ。
 こんな時間にほっつき歩いてどうしたんだ?」
加持の声にもアスカは反応しなかった。
うつむき、手をだらりと下げたままで入り口から室内へと足を2歩踏み入れた。
開いていたドアが音と共に閉まり、物音一つない空間に少し上がった呼吸音のみが流れる。
「?、どうした?何かあったのか?」
いつもと違うアスカの様子に、加持はバックに荷物を積めていた手を止め、
アスカの方に一歩足を踏み出した。
だらりとしていたアスカの両腕がゆっくりと自らの両襟を掴む。
怪訝な表情を浮かべる加持の目の前で、アスカは握った服を思い切り引き裂いた。
「な?!」
驚きの声を加持が上げる中、上半身が露わになった彼女はスカートのファスナーに
手を伸ばす。
「馬鹿!何してるんだ!」
アスカの手をファスナーから引き剥がしながらもう一方の手で彼女の肩を掴む。
加持の行動に一瞬だけ動きを止めたアスカの腕が彼を引き剥がそうと力を込める。
だが、大人の加持に勝てるはずもない。
振り払うことが出来ずにアスカの荒い息だけが部屋に響く。
「落ち着け!」
加持の声と同時にアスカは彼の足首に脚を絡め、
そのまま倒れ込むように加持の胸に体をぶつけた。
アスカの行動でバランスを崩した加持はそのまま床に倒れ込んだ。
彼女は横たわる彼に馬乗りになると、肩に置かれていた加持の手を自らの胸に押し当てた。
加持の手に柔らかな感触が広がり、彼の視界に唇を噛みしめたアスカの姿が映る。
彼はその手をどけようともせずに、彼女の目を見据え、優しく言葉を発した。
「・・・どうしたんだ。何かあったのか?」
アスカが感情に身を任せていることは加持にも解る。
一歩引いて、加持は落ち着いた口調で問いかけていた。
お互いの視線が衝突する中、アスカが呟く。
「私を抱いて・・・加持さん・・・今すぐ、今ここで・・・」
お互いの囁く声だけが、加持のオフィスに流れる。
「・・・なぜ、そうしたい?」
「・・・好きだから・・・世界で一番好きな人に抱かれたいから・・・」
「手・・・離してくれないか」

彼は私を受け入れない、・・・絶対に。

彼女の体の真下にある加持の男の部分が物語っている。
それが解っていながら、アスカは彼を凝視し続けた、彼に胸を包ませたままで。
「・・・抱いて」
「・・・後悔する。やめたほうがいい」
「いいのよ別に・・・加持さんが私なんか見てくれないの解ってるから・・・」
「・・・」
「遊びでいいの・・・性的玩具でいいの・・・それ以上は何も望まない。・・・だから」
「・・・聞いたんだな、葛城に」
「・・・」
「そんな事で取り乱すなんてらしくないな」
「・・・そんな・・・事?」
「真実を知って、楽になったんじゃないのか」
アスカの目が大きく見開かれ、加持の手首を握りしめる手に力が籠もる。
「馬鹿言わないで!男にオモチャにされたって真実で楽になれるわけないでしょ!!」
アスカの怒鳴り声とは対照的に加持はさらに落ち着いた口調で話す。
「俺が今アスカにしていることの方が、連中のしたことよりも酷い行為だ・・・」
「でもそれを望んでるのはワタシ・・・。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・忘れさせて」

「そういう事か・・・」
「・・・」
「・・・男を見損なうな」
加持はアスカの胸に置かれた手を少しだけ握りしめた。
「んッ・・・」
いきなりの行動に、アスカの喉が鳴る。
加持は自らの腕の中に誘うように、その掴んだ手を自分に寄せていく。
引き寄せられる感覚に抵抗することなくアスカは彼の腕の中に包まれていった。
「・・・今晩は一緒に寝よう。それで良いな」
加持の胸に顔を埋めただけで、彼女の目頭が熱くなった。
色々なことが次々に思い描かれる。
辛かったことや馬鹿にされたこと、14年間の業が彼女を責め立てた。
「すまなかったな・・・一人で辛かったろ・・・」
加持の声に堰を切らされたアスカの瞳から涙があふれる。
嗚咽を漏らしながら胸にすがりつくアスカの背中に、加持はそっと手を滑らせ力を込めた。

朝一番の実験のアナウンスは大抵朝の八時から始まる。
「第5グノシスセクションの工事責任者、至急第8ブロック司令所に集合して下さい」
加持のオフィスにも僅かに漏れ聞こえるその声に、アスカの瞼が震え、開き始める。
彼女は開くに従いはっきり見えてきた顔に安らぎに満ちた微笑みを返す。
「・・・起きたか」
「うん・・・」
加持は体の上で寝かせていたアスカの肩に手を置くと、ゆっくりと上体を上げさせた。
彼女は昨晩のまま、上半身には何も身につけていなかったので
予備のシャツを手にすると後ろから掛けた。
加持のシャツに嬉しそうに袖を通すアスカを見、加持は微笑む。
「喉乾いたろ。ジュースでも買ってくる」
加持の姿が部屋から消えた後、アスカは加持のシャツを見つめながらくすりと笑みを浮かべ、
アスカは加持が帰ってくるまで、動くことなくその行動だけを続けていた。
『シュッ』
加持が2本の缶ジュースを手に持ちながら扉から入ってきた。
彼はその家の一本を手渡しながら明るく話しかける。
「昨日はホント驚いたぞ。いきなり目の前で服を引きちぎるんだからな」
アスカは頬を染めて加持を見る。
「だって・・・」
そんな態度に、加持はタブを開きながらも心底ホッとする。
「・・・でも、落ち着いてくれたようで良かった」
受け取った缶をじっと見つめながらアスカは昨日のことを思い出す。
「・・・あの女が嘘ついてるって解ったの。あのシャツは私のじゃなかったから・・・」
あの時着ていたのはドイツで加持に買ってもらったお気に入りの服。
しかもYves Sint Laurentの限定モデル。そう数はない。
だからそれと同じ物が出てきたことで彼女は何もなかったことを、
気を失う前の服が引きちぎられた音は幻聴だと信じた。
信じたかったから、余計な詮索もせずにそのシャツはタンスの奥にしまい込んだ。
「あのシャツを突きつけたら、すんなり吐いてくれたわ・・・」
加持は多くを聞こうとはしなかった。
少しトーンの落ちた彼女の声を明るい声で遮る。
「そうだ、こっちに来てから一緒に遠出した事ってなかったな」
迷惑をかけた加持に昨日あったことを語ろうとしていただけに、
明るく意味不明なことを問いかけてくる加持に、呆けた顔を向けるアスカ。
「ん〜」
無精ひげをいじりながら、なにやら思案している加持だったが、
彼女が2回瞬いた後でいきなり彼女の両肩を鷲づかみする。
「富士山でも行くか。山はいいぞ、気分転換にはもってこいだ。
 比較的近いし、日本一の山だしな。
 ・・・よし、5日後の日曜に行こう。決まりだ」
たたみかけるような加持の口調に瞬きを繰り返すアスカだったが、
久しぶりに見る加持の強引な誘いに、くすりと笑みを浮かべる。
「・・・フフッ。強引な加持さんって久しぶり」
赤い飲料水の缶を見つめながら呟きをもらす彼女の笑顔に憂いの影はなかった。
「じゃ、8時にカフェ・ラスタの前で待ち合わせよう。いいな?」
赤い缶がとけ込む青い瞳を加持に向けると、彼女は一度だけ頷く。
「・・・でも・・・加持サン」
赤い模様が加持の顔に変わった瞳の主。
「何年後だったら私のこと抱いてくれるかな?」
彼女は立ち上がり、加持に一歩踏み出して訊ねる。
明るい顔を向けられた加持は昨日アスカの胸を包んでいた左手を
何度か握ったり開いたりを繰り返した後で答える。
「そうだな・・・・・・後6年だな」
その態度を見ていたアスカの腕が振り上げられ、げんこつを加持の頬に軽く当てた。
「もぉ・・・いじわる」
少しふくれっ面のアスカの顔を見た加持は微笑み、
アスカの握られた手は広げられ、彼の頬を包む。
「じゃぁ6年守るから・・・約束、忘れないでよ」
加持は一度の相槌で彼女に返答を返した。
アスカは彼の頷きを見たのだろうか。
彼女は言葉と共に加持に背を向けると、ドアに走り寄っていた。
ドアの目の前で走るのをやめたアスカの細くて長い脚はそのままに、
上体を反転させると加持の優しい笑顔が見えた。
彼女の瞳がほんの少し潤んでいる。
だがそれを加持が気取ることはなかった。
「・・・今度の日曜、楽しみにしてるから」
「あぁ、俺も久しぶりに羽根を伸ばせそうだよ」
「・・・じゃ、ね」
音と共にドアが閉じ、その閉じたドアに背中を預けるアスカ。
まだ未開封の赤い缶をじっと見つめる。
「6年後か・・・遊びに行ったときはお年玉用意しとかなきゃ・・・」
だが不思議と彼女の心は爽やさで満たされていた。
今までは加持とミサトのことを考えるだけで嫉妬と喪失感が彼女に迫ったが、
今の彼女にその重荷はなく、心地よい充実感が彼女を包んでいた。


その日の午後8時半、シンジは見慣れたドアの前に影を映した。
エアシリンダの音と共に目の前のドアが開き、彼はその光景を
当たり前のように興味を示すことなく開いたドアを跨ぎ、
靴を脱ぎ始める。シンクロテストが長引いたお陰でいつもより2時間遅い帰宅。
靴下のまま廊下を歩いていくと、リビングから光が漏れているのが見えた。
シンジはミサトが帰ってきてるのかなと思う。
その光の方に歩いてゆき、光の中をそっとのぞき込んだ。
中の住人と目が合う。
ばつの悪そうな表情を浮かべ、シンジはリビングの中に入っていった。
シンジの部屋へはこのリビングを通らないといけないのだからしかたないだろう。
彼にしても彼女に興味はある。それは彼の視線をたどれば想像がつくというもの。
栗毛の少女は彼の存在を無視しているように彼には映った。
その姿が彼女に言葉をかけることなくゆっくりと歩を進め、
彼女にちらちら視線を向けさせていた。
彼の視界に映るのはライトブルーのタンクトップを着て、
ミートソーススパゲティを黙々と食べている姿。
彼の存在を解らないはずはないのだから無視されているのだろうと彼は思う。
昨日どうしたのか聞きたくもあったが彼女の態度に断念し、
彼は足音を殺しながら自分の部屋に歩を進めてゆく。
歩を進め、彼女に最接近したときにちらりと彼女を見た。
そんな彼の目前にフォークが飛んできた。
彼が避ける間もなくフォークは彼の目の前を横切り、
冷蔵庫に金属音を響かせたあと、床に落ちる。
ペンペンが顔を出すのと彼女が口を開くのはほぼ同時だった。
「遅かったわね。あんたの分もあるから食べちゃいなさいよ」
彼女の思いもよらない台詞にシンジは何度か瞬きを繰り返しながら彼女をじっと見つめる。
そんな彼に、彼女の叱咤が飛んでくるのにさして時間はかからなかった。
「なに突っ立ってじろじろ見てんのよ。早く食べないと冷めるわよ。
 それと、台所に行って新しいフォーク持ってきて」
シンジは足下に転がっていたフォークを急きとして拾い上げると、足をキッチンに向けた。
キッチンに向かう際に、一回だけ彼女にチラと視線を向ける。
先ほどまでの腫れ物に触れるようなギザギザな視線ではない。
少し穏やかな瞳が彼女に向いていた。
彼はキッチンに着くとお湯に火をかける。
火がついたのを確認すると引き出しからフォークを取り出しリビングへ急いだ。
日本のマンションはそう広くない。
葛城邸も例外なく彼は10歩と歩かずに彼女の姿が見られた。
差し出されるフォークを笑顔とまではいかないが、今までとは違う棘のない顔で
受け取ってもらえたことで、シンジの口も自然と切り出すことが出来た。
「昨日はごめん・・・。でも馬鹿にしようとしたわけじゃないんだ。
 ・・・ただアスカが張りつめすぎてる感じがしたから・・・心配で・・・だから」
アスカはフォークをスパゲティに絡めながら、徐々にトーンの下がってきたシンジの
言葉を聞いていた。特に返答も返すことなく、スパゲティを口に運ぶ。
しばしの沈黙の後、彼女の声が響く。
「どうでもいいけど煮こぼれてるんじゃない?」
彼女はキッチンから聞こえてきた音を聞いて初めて口を開いた。
今まで話すので精一杯だったシンジは慌ててキッチンに駆け入ると、
ガスを弱めてスパゲティの麺をぱらぱらと入れる。
少しため息混じりに一息吐くと、茹で上がるまで待つ。
5分後にシンジが自分用のスパゲティを持ってリビングに向かおうとしたとき、
空の食器を持ってアスカが彼に歩み寄ってくる。
息を飲むシンジの目に彼女の唇の動きが入ってきた。
「昨日は・・・誤解してたみたいだからお互い忘れましょ」
彼女に返答も返せず足も動かせなかったシンジの横をアスカがすり抜け、
髪の香りが彼の鼻を刺激する。
「でも勝ったなんて思わない事ね。・・・必ず追い抜いてやるから・・・。
 シンクロ率も・・・パイロットとしての実績も・・・これからよ」
アスカは背を向けたまま、食器を洗い出す。
シンジもそのままリビングへと向かった。
彼はアスカとのギャップに困惑していた。
・・・皮肉なものだと思う。
エヴァに人生とプライドを賭けて乗るアスカと、状況に流されるまま乗っているシンジ。
天才と呼ばれる少年と、失格の烙印を押されかかっている少女。
シンジはエヴァに対してそれほど固執はない。
降りろといわれれば恐らくはすんなりとパイロットをやめるだろう。
だが彼女がその宣告を受けたとき、どうなるんだろうと頭をよぎる。
それ以前に彼はパイロットとしての自分の存在に疑問を感じていた。
そんな思案をしているとき、アスカがキッチンから出てきた。
「・・・勝ったなんて思ってないよ。あれは僕の力じゃないもの・・・」
シンジの声にアスカは歩みを止めた。真横にいた彼を見つめ、言葉を待つ。
「この前も、トウジの時も・・・」
トウジのことを思い出したのか、シンジの目が艶を帯びる。
「エヴァが勝手に動くんだ・・・。
 僕の意志じゃない・・・ましてや僕の実力でもないんだ」
「勝手に・・・動く?」
アスカの声にシンジの頭がほんの少しだけ彼女の方に傾く。
「アスカも見てただろ・・・黒くて丸い使徒の時を・・・
 いつもああなるんだ。・・・だからアスカは僕に負けたんじゃないんだ・・・」
アスカは黙ってうつむきながら涙声で話す彼の言葉に聞き入っていた。
「・・・パイロットとしてはアスカの方が数段優秀だよ。
 自分の思ったとおりにエヴァを動かせてるんだから・・・。
 僕はただ乗ってるだけ、エヴァの中でレバーを握っているだけなんだ・・・。
 あの時だって・・・あの時だって僕は必死で止めようとした・・・。
 
 トウジを握りつぶそうとしたエヴァを必死で止めようとしたんだ!
 でも止まらなかった!乗ってるだけで操られているだけなんだ!エヴァと・・・」
シンジは荒げる声を抑えるようにテーブルクロスを握りしめた。
「・・・エヴァと父さんに操られているだけなんだ・・・」
嗚咽が漏れだしたシンジを、アスカはずっと眺めていた。
彼女自身、彼が嘘をついているようには見えなかったし、
トウジの件でのシンジの気持ちも分かるつもりだ。
だが、慰めるつもりは毛頭ない。
「私は・・・たとえエヴァに操られても使徒を倒したいけどね・・・」
シンジをチラと見る。わずかに肩が震えていた。
「上手くいかないわね・・・」
彼の肩にすっと手を置くアスカ。。
目前の彼に出来るであろう最上の優しさがこの行動だった。

アスカとシンジの話し声が久々に響いていた
葛城邸のリビング・・・その3日後の昼に電話の電子音が鳴った。
今はもうこの部屋にはその電話を取る者もなく、
機械音の後で留守電のテープが回り出す。
からからと回るテープ音を背景に、男の声が僅かに漏れる。
「午後、0時2分です」
電子的な声を最後に、再びリビングは静寂な時を刻み始める。
主であるミサトが帰ってくるまでの僅かなやすらぎの刻・・・。


次回予告

電話から2日後の早朝、アスカは笑顔を浮かべサンドイッチ用のパンを切っていた。
上機嫌の彼女の口から加持とのデートだと聞かされたシンジ。
彼だけは知っていた、もう加持がいないことを。

次回「焦慮」


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