もうキスをしても、私の頬は痛まない。
私のどこに「彼」の唇が降りても、私の肌は少しも傷つかない。
何度もそのことを知っている。
それはつまり、「彼」とは何度もキスをして、同じ毛布に潜り込む夜を過したということ。
なのに。
私を傷つけない、「彼」のいつもきれいに剃られた顎が、触れる度に痛い思いをした「あいつ」の無精髭を、今でも思い出させるのは何故だろう。
「あいつ」を愛した思い出があるから、今の私がいる?
その通りかもしれない。でも随分と陳腐な言葉ね。私の役には、もはや立たない。
今、目の前の自分の男を、本当に愛していないのでは?
分からないわよ、そんなこと。だったらあなたは知ってるの? 愛って一体、何だと云うの?
私に分かるのは、たったひとつのことだけだ。
私は今、とても、「彼」に会いたい・・・・・・。
ラブ・イズ・ノット・ブラインド
−「南へ」 外伝 −
Written by みなる
週末を、彼の部屋か私の部屋で過すことが二人の習慣になって、三ヶ月目の夜。
いつものように私を抱き寄せた彼に、私はこう頼んだ。
「ねえ日向君。今日は、いつもみたいに優しくしないで」
「どうしたんです?」
「別に何もないわ。ただ、忘れたいのよ」
「・・・・・・困ったな。
あまり手荒なことはしたくないし、かと言って、いろいろ変った方法なんて知りませんから・・・・・・」
この人、普段と全く同じにふざけてる。
私、失礼なこと言ったのよ? 気を悪くされたって、仕方ないと思ったのに。
「分かってるんでしょ、そういう意味じゃないことくらい」
彼は返事も頷きもしない。その瞳だけで、分かっている、と私に告げた。
「じゃ、こういうのはどうです?してるあいだ中、ぼくもミサトさんも、ずっと目を閉じない」
「・・・・・・なに、それ?」
「そうすれば、あなたの目には、嫌でもぼくしか映らなくなる」
「分かったわ・・・・・・そうしましょう」
言い終えた私の唇を、彼のそれが塞ぐ。
いつもなら、もうこのあたりで、私は目を閉じているはずだ。
だけど、今、目の前には、多分彼の鼻の横のアップ。近すぎて訳が分からない。
それでも見ている。それが、今夜のルール。まるでゲームの始まりのようだ。
彼の唇が移動を始める。道筋は、いつもと変わらない。
違うのは、私がその間、彼の頭をずっと見ているということだけだ。
私は、まだ少し湿ったその髪を指の間に通して、弄んでいた。
彼は私の胸の手前まで降りて、ふいに顔を上げた。
はらりとひとすじ、額にかかる前髪。レンズを通さずに私を見る瞳。
昼間には絶対に見ることのできない顔で、彼は照れくさそうに言った。
「自分で言い出しておいてなんですけど、ずっと見られてるっていうのは、なんか緊張しますね」
「そうなの? でもいつも日向君は見てるんでしょ、私のこと」
「それはそうなんだけど・・・・・・ミサトさんは、平気なの?」
「んー、良く分からないな。でも新鮮ね、こういうの。ナイス・アイディアだと思うわ」
「じゃあこれでも、平気でいられる?」
再び、彼の顔が見えなくなった。仕返しのつもり?
再開された愛撫に思わず声を漏らす私の耳元で、彼が意地悪くささやいた。
「ほら、今、一瞬ルール違反しましたよ」
「・・・・・・よくもやってくれたわね」
悔しいから、私は仔細に見てやることにした。
揺れる彼の頭。額。髪。
首筋。肩の黒子。じわりと汗ばみ始めた皮膚。
私を抱く為に曲げた肘の角度。
ごつごつとした指先。それが私を愛するときに、どんなふうに動くのか・・・・・・。
目を開けたままで声を上げるのには、はじめは抵抗があった。
でも一度堰が切れると、そんなことはどうでもよくなる。
押し寄せる快楽に堪えながら彼を観察している、そのこと自体が、新たな快感を呼ぶのだ。
そんな私を確かめるように、彼は時々、私に口付けた。
何度目かの口付けの後で、彼は言った。
「・・・・・・しぶとい、ですね」
「まあね・・・・・・」
「・・・・・・そろそろ、いい?」
その瞬間に、彼はもう一度、私にルール違反をさせようと企んでいるようだ。
そうはいくものか。
逆に私が見上げてあげる。
あなたの顔が、快楽に歪むところを。あなたの瞳が、ルール違反を犯す瞬間を・・・・・・。
しかし、先に降伏を願い出たのは、私のほうだった。
「・・・・・・ねえ、もう、目、閉じてもいい?」
「だめですよ、まだ」
「意地悪・・・・・・」
「優しくするな、と言われてますから」
こーゆーところ、ほんっと、小憎らしいと思うけど・・・・・・もう、それさえ、どうだっていい・・・・・・。
「ねえ、もう、だめっ。降参。 目、閉じさせて・・・・・・お願いだか・・・ら・・・・・・」
「でないと、イケない?」
「そおよぉっ! だから・・・いいでしょう・・・・・・? あなたは、どうなの?
もうこうしてから随分経つのに・・・・・・どうしてそんなに、冷静なのよ・・・・・・」
「・・・・・・見ていたいから。ぼくしか見えなくなってる、あなたを、ずっと」
ああ、また。
この人は、こうして時々、私に言葉を失くさせる。
ややこしい女に捕まってしまった、なんてかわいそうなあなた・・・・・・。
あれほど閉じることを願った目を見開き、私は呆然と、彼を見つめた。
彼は困ったような微笑みを浮かべて、私のことを見つめ返した。
「・・・・・・なんてね。いいですよ、もう、目を閉じても。ただ、今だけでいいから、ぼくのことだけ考えて・・・・・・」
「こんなときに、ほかのことなんか考えられないわ・・・・・・あなたのことさえ、考えられないかもしれない」
「・・・・・・それは構いませんよ。だってそうさせているのは、ぼくだ」
こう言うと、それまでの冷静さをかなぐり捨てるかのように、彼は動きを早めた。
荒い吐息。苦痛に耐えているようにも見える、快楽に歪んだ表情。
そして・・・・・・あろうことか、彼はその瞳を閉じた。 ルール違反だ。
どうして? 先に負けを認めたのは、私だというのに・・・・・・。
せつなくなって、目を閉じる。そして私も、我を忘れた。
この夜、私に分かることが、もうひとつだけ増えた。
私はずっと、「彼」を見ていたい。
愉しい思い付きを口にする「彼」を。時に生意気な軽口を叩く「彼」を。
私の肌を痛くしないキスをする「彼」を。ゲームの負けを厭わずに、私より先に目を閉じた「彼」を。
私の知ってる、「彼」の姿を、何度も。
そして、私がまだ見ぬ「彼」の姿を、これから、幾つでも・・・・・・。
おかしなものだ。ずっと見ていたい、だなんて。
あのとき、私も、目を閉じたくせに。
ラブ・イズ・ブラインド。恋は盲目、だなんて云うのに。
The end.
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