第一六章

 フィンセントの落胆と失望は当然ながら大きかった。だが、それにもとづく不快な予測は、なかば当たり、なかばはずれていた。
 デリウスが公国への亡命をはたしてから半月、大陸公暦八七四年、ウェイルボード暦二五四年という多難な年が、のこすところあと二〇日たらずとなったころ、まず一通の書簡がとどいた。その書簡では、まずヘンドリックの死を悼み、ついでフィンセントの国公位継承を賀していた。まだ公式な葬儀をおこなっていないとはいえ、公国内においてはヘンドリックの薨去を公表し、フィンセントの国公位相続を、儀典をおこなっていないとはいえ発表しているから、この書簡をだした人物がそれを知っていてもおかしくはない。
「宰相府の軽挙に反発をおぼえる者は多く、王都はなお危険な状態にあり。このような時期に公爵家は、また公はなにをしておられるのか――」
 その報は、フィンセントもよく知る人物、デュイスドルフ子爵家当主ギュンターからもたらされたものであった。彼はフィンセントとアーガイルにとっては早逝した母の弟にあたり、フィンセントら兄弟にとっては外叔父ということになる。フィンセントは王都を退転するにあたって、彼にも事情をしらせなかった。この叔父は愚鈍というわけではないが、歳ににあわず多分に軽率なところがあり、また王宮あるいは軍隊において何らかの地位をもっていたわけでもなかったので、万事信頼し後事をたくすことはできない――とフィンセントは観ていたのである。むろん、そのような余裕すらなかったということもある。彼はさらにいう。
「バルネフェルト伯の死後、宰相は王都の政権のみならず軍権をも手中におさめたかにみえるが、実状はさにあらず。過日の争乱において教会との間になんらかの妥協が成立したにはちがいないにせよ、それについてはひとことの説明も弁明もなく、群臣、諸将は不安をいだいている。さらには――」
 フォンデルが担ぐべきウィレム大公が、まったく群臣の前に姿をみせないという。これは今さらのことではなかった。フィンセント自身、グスタフ王が危篤におちいるのと前後して、ウィレムと会う機会をもてなくなった。だが、この期におよんで、とも思う。
 ウィレムがフォンデルの傀儡であるという認識はいまさらのものではないが、それにしても、次期国王となるべき人物が群臣の前にまったく姿をあらわさないというのはたしかに不自然ではある。テュール家は王都から姿を消した。教会は宰相府と妥協した。さらにフォンデルの政敵のひとりであったヨッサムは王都どころかこの世から永遠に消え去り、彼の背景であった近衛兵団は壊滅した。フォンデルがその権力を確固たるものにしたのならば、もはやウィレムが登極するにあたって、これといって障壁となるものは存在しないはずだった。
 それではどういうことか、とフィンセントは考えざるをえない。ウィレムが姿をあらわさないことによって、何者かが利益をえる、あるいは損失をまぬがれる、ということだ。その何者かというのがフォンデルかその周辺の人物であることは、まずまちがいないだろう。
 いくつかの可能性を列挙し、考え込んだが、フィンセントはこの件によって公国の首脳を召集する気にはならなかった。書簡の差出人たるギュンターがテュール家と姻戚関係にあるということは周知の事実であり、それに対して何の手もうたないフォンデルではない、という認識もある。つまり、これが単純に偽書であるということもあるだろうし、ギュンターがフォンデルの脅迫か誘惑、あるいはその両方によってこの書簡をしたためたという可能性も、充分に考えられるのだ。
 国法では、国王の命がない限り、地方領主が私兵をひきいて他領に出ることは禁じられている。叛乱あるいは私戦をふせぐための、当然の法であり、ウェイルボードにかぎったことではない。兵をひきいて王都におもむけば、それは内戦の火蓋を切るということであり、フィンセントは名実ともに叛逆者ということになる。といって兵をひきいずに乗り込めば、今度こそフォンデルによって殺害されるでろう。フィンセントは一時的に叛逆者の汚名を着せられることはすでに覚悟している。だが、みずから争乱をおこせば、諸将が味方につくことはおろか、中立すら期待できないということも、よくわかっていた。むろん殺されることを覚悟して王都に乗り込むなど論外である。
 また、もしこの書簡の内容が事実であったとしても、ギュンターの性格を考えると、誇大に書いたにちがいないし、秘密をまもってはいられないだろう、と思う。
 だが、フィンセントはすぐに決断をせまられることになった。幾人かの公国騎士からも同様の報告がとどいたからだ。コルネリスの部下であり、ジュロンに潜入して戦勝の報告と教会への工作をおこなった者たちだ。コルネリスの推薦であり、教会をそそのかすことにも成功した彼らであるから、能力には信頼がおけるはずだった。だがそれでも彼は用心して、正式な閣議はひらかず、フェルディナント、マールテン、アーガイル、ソルスキアを呼ぶにとどまった。人数をしぼったのは、宰相側の間諜も公国内に潜入しているにちがいなく、公式な会議をひらいて情報がもれるのをおそれたからである。さらには、ことが政治的、また軍事的な問題であるから、外務卿であるフェルディナントと、海陸の首脳、それに国公である自分で決すべきことであったのだ。
 フィンセントは集まった情報を整理した。
 この時期にあってなお、フォンデルは王都の兵権を完全に掌握したわけではなかったのだ。諸将と彼らに属する諸部隊が宰相府を支持したのは、あくまでも近衛兵団との市街戦にかぎってのことで、それにしても近衛兵団を逆賊とみなしたというよりは、ヨッサムの死による動揺と失望、それに聖堂騎士団の介入による衝撃が大きかったためである。
 高級士官あるいは将軍級の立場の者は、一様に「宰相はなにをするかわからん」という不安に支配され、近衛兵団に加担することはもちろん中立を維持することすら「逆賊」の汚名を着せられる口実になる、と感じとったのであった。それはまさに真実であり、中立をたもった幾人かの勇気ある、あるいは愚かな諸将は、ことごとく何らかの口実をもうけられて軍から追放されかけた。結果として一人の准将軍と三人の士官が現職を更迭されただけですんだのは、陸軍大臣ウィレブローフトがひかえめに反対を唱え、軍部を刺激することだけは避けねばならないフォンデルがそれをうけいれたことによるが、フィンセントにはそこまでの事情は伝わっていない。
 ヨッサムの死と近衛兵団の壊滅、さらには教会の変節によって、フォンデルに公然たる批判を投げかける者は、王都には存在しなくなった。だが、彼に対して反感と恐怖とをいだいている者は、フィンセントの想像どおり、いや、想像以上に多かったのだ。それは既得権をもつ貴族に多く、また重要な公職についていない者に、とくに多かった。彼らが公国に期待するのは当然というべきであっただろう。
「ただちに王都に攻めのぼるべきです」
 などと言いだす者は一座にはいなかった。
 だが、王都に対してなんらかの行動をおこすべきだ、という点では、意見を保留したソルスキアをのぞいて全員が一致した。
 ソルスキアの軍歴は、マールテンのそれほどではないにせよ、公国軍幹部の中では長い部類にはいる。年齢としてはまだ老境にはほど遠い彼だが、父親がマールテンの前任の兵部卿であったこともあり、少年のころより公国軍の幹部候補として期待され、それに過不足なく答えてきた彼である。もちろん、ウェイルボード王国軍の一翼として戦場に出たのも、一度や二度ではない。その経験の深さと多さが「王国軍には勝てない」という結論をみちびきだしたのである。王国陸軍は、王都にある兵力だけで四万ほど、さらに各地の拠点に散在する兵力を合すれば、どうすくなく見積もっても八万にはとどくであろう。それに対して公国陸兵隊は総動員しても二万にすぎず、あらたに徴兵をおこなったとしても三万人強が限度である。これだけでも勝敗を論ずるのは愚かというものであった。さらに宰相側は、いざとなれば東方および南方国境からの援兵を期待できるのに対し、公国は現在のところ、この二万が掛け値なしの全兵力であった。状況によっては、戦闘で勝利をおさめることはできるだろうが、それを維持することは至難どころか不可能である。海軍力では互角といっていいだろう、アーガイルの才腕を考えれば優位とさえいえるかもしれない。が、それのみを根拠として勝利を考えるほど、彼の武官としての理性と感性とは摩滅してはいなかった。
 それを、ソルスキアはひかえめに問うた。なんらかの行動とは具体的に何を指すのか。それは海陸における軍事行動をふくむのか、それとも政治的、政略的なゆさぶりにとどまるのか、前者ならば自分は反対である、後者であったとしても、むやみに王都を刺激するのは得策ではないように思える……。
 フィンセントは、形のいいあごに指先をあてながら、考えた。ソルスキアに反論しようとしたマールテンを制し、そして一言一言をえらぶように、
「すくなくとも今のところは、軍を動かすことに利はないだろう。その意味で卿はただしい。……また今後、同様の乱が王都でおこるかもしれないが、それを手をつかねて傍観することは、第二、第三のバルネフェルト伯を出し、ウェイルボードの国力を削ぎおとす結果となるだろう」
 ウェルフェン公国は、ことにフィンセントは、背反するふたつの命題をかかえている。公爵家の家門を維持するためにはフォンデルを掣肘し、かなうことならば失脚せしめねばならない。だがそのためには内戦を必要とするであろう。そこで勝つということは王国軍の力を削ぎ、ウェイルボードの同胞に多量の流血を強いるということである。またフィンセントは公爵家当主であると同時に王国の重臣でもあるから、その立場からいえば、他国の干渉を避けるためにも、内戦をふせぎ、国力を温存せねばならない。
 では具体的に、どのような手段をもって?
 フィンセントは、一案だが、とことわってから、重臣に説明した。王都に詰問使をだしてフォンデルの陣営に揺さぶりをかける、というのが公国の既定路線であり、外務卿となったフェルディナントがレア帝国への使節とならずハーンに残留した要因でもあったが、情勢がこうも激変すると、その案は破棄とまではいわずとも保留せねばならないだろう。とにかく情報がたりない。また、王都の人々も、テュール家が何を考え、何をなそうとしているのか、期待あるいは恐怖にもとづいた疑問をいだいているはずであった。わがほうが情報をえるためにも、王都の中立勢力に情報をあたえてやるためにも、先になすべきことがある……。
「すなわち、わが父の葬儀だ」
 重臣たちの表情に理解の色がうかんだ。
 先君ヘンドリックの葬儀は、すでにおこなっている。といってもそれはあくまで公爵家内々でおこなったものであり、王都にある貴族、顕官を招いたものではない。この場にいる人々は、そのことを失念していたわけではない。ただ、この日にいたるまであまりにもことが多く、問題は山積していた。ひとつには、敬愛すべき主君あるいは父親の死を政略的に利用することについて、この一座の人々は後ろめたさを感じずにはいられなかったのであろう。だが。
「この際、これは必要なことだと思うが、諸卿の考えはいかがか」
 たしかに、こちらから手をだせば敗北は必至である。王都からもたらされた情報が正しいとするならば、敵の戦意は低く、戦う目的は統一されておらず、総帥、つまりフォンデルに対する将兵の忠誠心も、一部をのぞいて薄いようだ。王国軍がまさっているのは兵力だけだとさえいえる。にわかに教会と結んだ宰相が、やはりにわかに公国に対して攻め入ってくれば、数の差すなわち力の差とはならなかったであろう、フィンセントが画策したように。だが、公国の側から兵をもよおせば、それはあきらかに叛乱である。下級兵士や、それとは逆に貴族たちはともかく、海陸の将帥たちが、未来への思惑はどうあれ、またフォンデル個人に対する好悪はどうあれ、属邦の叛逆を無条件で是とすることは考えられない。戦意は騰がり、団結は強まるにちがいなかった。
 そうであれば、戦わずしてフォンデルに致命傷をあたえるほかないではないか。それには貴族、顕官、可能ならば王族をも招待して、ことの真偽をあきらかにするしかない。父ヘンドリックの葬儀を口実にしてでも。
 このときフィンセントの思考は、暗殺されたヨッサムのそれとおどろくほど似通っていた。フィンセントがヨッサムに比して賢明であったのは、あくまでもみずからの主導によって状況をつくろうとしたことであっただろう。すくなくとも、このハーンにまではフォンデルの権勢はおよばない。それだけでも優位であるはずだった。また、有力な重臣がひとりとして招きに応じなかったとしても、それはそれでよい。だれが敵になるか、それがわかるだけでも収穫なのだから。
「殿下の御意なれば、われわれに否やはありませぬ」
 マールテンが、一座を代表して言った。フィンセントはうなずき、視線を転じた。
「フェルディナント卿、葬儀の執行をお願いしたい。日時は、そうだな、年明け、二月初頭がいいように思う。急ではあるが、遅いよりはいいだろう」
「かしこまりました。ところで、どなたをお招きになりますか」
「爵位をもつ者、准将軍または次官級以上の官位をもつ者、全員だ」
「念のためおうかがいいたしますが、宰相もで?」
「むろんだ、まあ来ることはないだろうがな」
「王族の方々はいかがされますか?」
「次期国王候補たる方々を呼びつけるわけにはいくまい。代理をよこしていただくようお伝えせよ。それ以外については卿に一任する」
 ただし、とフィンセントはつけくわえる。
「正教会の神官どもは呼ばなくていいぞ。むろん葬儀に神官は必要だが、それは先日とおなじく、レナート司教に依頼すればよい」
 レナート司教は、やはりデリス正教会の高僧であり、ハーンをふくむフリューウェ州一帯の教会を統括する人物である。王都ジュロンの大聖堂にあるフレスト大主教とは、とくに不仲というわけではないが、それ以上に先君ヘンドリックのよき友人であった。また、王都においてはともかく、ウェルフェン公国の領域内におけるフレストの影響力はけっして巨大なものではない。政治的な理由で断られることは考えにくいだろう。もしそれがあるというのなら、こちらも政治的な利害を説けばよい。すべてがおわった後、レナートに大主教の地位をあたえてもよいのだ。むろん、教会に対する優越を確保した上で……。
「は……」
 フェルディナントは、若い主君の意図を明敏に察した。教会は、けっして無視しえない数の支持者と、それに数倍する信徒、さらに莫大な富力を有しているが、官僚と軍部の間では、彼らが権力をにぎることへの不安が大きい。ことに聖堂騎士団が東苑を焼いたという。教会への反感が、それと結んだフォンデルに対する根強い不信感へとむすびついているのであろう。フォンデルを敵とするのは避けえないとしても、教会につくと思われるのはけっして得策とはいえないし、またフィンセント自身そんなつもりはない。
「今回は私の出番はありませんね」
 アーガイルが、口もとをほころばせながら言った。ああ、今回はな、とフィンセントがうなずく。フィンセントは、弟の微笑をみて安堵した。この天才的な軍略家である弟が、その少年めいた風貌とおなじく、政治的な発想にはとぼしく、ときには嫌悪さえしめすことを、兄はよく知っていた。
「アーガイルとソルスキアは、麾下の兵を練っておけ。ソルスキアは不本意だろうが、遅かれ早かれ、われらは戦わざるをえない。マールテンは、他の閣僚と連係をとって、徴兵の準備をすすめよ。むろん、南方の防備と諜報とをおこたるなよ」
「はっ」
 三色の声。
 それをうけ、フィンセントは解散を命じた。
 根っからの実務家であるコルネリスほどではないにせよ、フェルディナントは充分に機敏で、事務にも通じていた。なによりフィンセントにとってありがたかったのは、彼が二〇年ちかくにわたって築きあげてきた王都の人脈である。フィンセントの期待どおり、フェルディナントにとっては予定どおり、一〇日を待たずに、デュイスドルフ子爵家を筆頭に、もとよりテュール家寄りであると思われていた貴族諸家から、参加の旨をつたえる返事が、ハーンに舞い込んできた。
 この数はさらに増えつつあり、また、貴族には列せられていないが、弔問を希望する騎士が多くいるという。生前のヘンドリックの人望がことのほか大きかったということだが、フェルディナントは用心せざるをえない。その中に国公兄弟を狙った刺客がいないともかぎらないのだ。といって、すべてをことわっては角が立つ。結局、身元のたしかな者のみを追加として招待することになった。フィンセントにはヒドが、アーガイルにはグリースが、それぞれ一隊をひきいて警護にあたることになるだろう。まだ、デリウスを表舞台に出すわけにはいかない。彼は公国にとって切り札であると同時に弱みにもなりうるのだ。諜報によると、デリウスは王国の公敵の残党ということになっており、その首には賞金までかかっている。この葬儀にデリウスがでることがあるのならば、それは兄弟の警護などではなく、もっとも効果的かつ華麗な場面であろう。おそらくは、いや、疑いなく、若き国公もそう考えているのであろう――フェルディナントには妙な確信があった。
 
 
 
 
 

   つづく

 




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