壊れてしまった手の中を見つめながら、少女は古く遠い日を思う。

 

 どんなに願っても、

 どんなに信じても、

 どんなに愛していても、

 

 少年には、

 もう会えない。

 

 何もかも無くなってしまったのだと、少女は泣いた。

 

 


 

 少女、少年  <第十九話>

 


 

 夕暮れ。

 

 シンジとレイが、帰り道を歩いていた。

 二人のマンションの最寄りのバス停から近所のスーパーに立ち寄り、夕食の食材を買っ

た帰り道だった。

 

 昼の雨も全て去り、埃を落とした澄んだ風が、少し冷ややかな空気を運んでいた。

 

 斜めから差す朱色の光が、二人の背中を押すように注いでいる。

 

 シンジの右手にはスーパーの買い物袋がぶら下がっている。その右肩にはいつものデイ

バッグ。そして左手は、優しくレイの右手を握っていた。

 レイの左手には、何時も持ち歩いている茶色い鞄。二人がつき合いだした頃、シンジが

買ってくれた古い鞄だった。右手はシンジの左手を握っている。

 

「行けると良いね、温泉。」

 

 シンジが言った。

 

 二人はトボトボと歩を進め、人通りの少ない細い道を歩いていた。

 

 古い街並みというモノはこの街には存在していないが、10年の復興の中で、足早に造

られた街の景色は、その時間の中で、街の表と裏を作り出している。今二人が歩いている

この辺りは、その街の裏の表情を有しているような、どこか朧気で、そして暗く、そして

寂しげな世界だった。

 

 欠け落ちたブロック塀。

 落書きのある電柱。

 何度も塗り直された空き地の門。

 放置されて錆び付いた自転車。

 

 そんな世界を深い朱が覆い、儚げな気配を漂わせている。

 

「マヤさんは、大丈夫だと思う、って話してた。」

 

 レイが少し嬉しそうに答えた。

 

 少しだけ乾いた砂が、シンジ足下を抜ける風に乗って、ジーンズの裾を巻くように飛ん

でいった。

 

「僕の方も、主任が多分大丈夫だと言ってた。」

 

 シンジも嬉しそうに、そう口にした。

 

 街灯がチラホラとつき始めた路地を曲がる。

 朱色の光は高い建造物に阻まれ、見上げた空に、その名残と、落ちてくる闇が混沌と入

り混じっていた。

 

 静かだった。

 

 コツコツと響く二人の足音だけが、世界に響いていた。

 

 繋いだ手が共有する暖かな鼓動が、とても優しかった。

 

「次の角を曲がったら、アスカさんが立っているかも知れないね。」

 

 唐突にレイが言った。

 何の前触れもなく、唐突にそうレイが口にした。

 

 何かに弾かれたように、シンジの顔がレイの方に向いた。

 

 二人の足が止まった。

 

 ゆっくりと、レイの顔もシンジの方に向いた。

 

「怖い顔してるよ。」

 

 レイが優しげな表情を絶やさずに、そう言った。

 そして繋いでいた手に、ぐっと力を込めた。

 

 シンジはレイの顔を見つめていた。

 暫しの間、じっと見つめていた。

 

「そうだね。」

 

 シンジは軽く微笑んで、そう答えを返した。

 そして繋いでいる二人の手を、軽く振った。

 

「行こう。お腹空いちゃったよ。」

 

 やさしく風が舞っている。

 ゆっくり闇が降りてくる。

 暖かな朱が去っていく。

 

 二人はまた、歩き始めた。

 

 


 

 

 一通りの料理を作り終えたダイニングキッチンで、マヤはノートパソコンを開いて、ド

イツから送られてきた「MAGIプロ」の原案と、基礎研究の資料に再び目を通していた。

 

 シゲルの帰りには、もう少しばかりの時間があるだろう。

 今日はシゲルの帰り際に、急な会議が入ったため、マヤは一人で先に帰宅していた。あ

まりあることではない。料理の準備も済み、シゲルの帰宅まで手持ち無沙汰であったため、

マヤはノートパソコンを持ち出して、あの資料に目を通していた。

 

 これは既に採用されないことが決まっている原案である。しかし多くの部分が実際の

「MAGIプロ」にフィードバックされるだろう、とマヤは考えている。研究結果として

は非常に素晴らしいモノだ。ただ、その素晴らしすぎる内容が、マヤに複雑な感情を抱か

せているのも事実だった。

 

 簡素で簡単な言葉で言えば、それは「敗北感」なのかも知れないが、もう少し深く考え

れば、全く別の答えが出てくるような気もする。

 とても微妙で曖昧な感情の起伏が繰り返されて、パソコンの前の自分自身が逃避を始め

ていることが、マヤ自身にもよく分かった。

 

 MAGIの5人格。

 

 思いもしなかったことだった。少しだけ思考を巡らせれば、そこに行き着くことも可能

だっただろう。だが自分はそれを思いつかなかった。何故だろうか?いや、考えついたこ

とはある。表面をザラリとなめたこともある。でも、それを実際の形にしようとは思わな

かった。決して思わなかった。

 言い訳はある。出来ないことはないかも知れないが、それに掛かる時間、予算、全てが

現実的ではないと思っていたからだ。よしんば莫大な費用と時間をかけてそれを成し遂げ

たとしても、その結果として得られる効果が、それと釣り合うのかどうかも疑問だった。

 いや、どうだろう?本当にそうだろうか。それは表面的な理由ではないだろうか。具体

的に形にしようと、深い部分から考えることを最初から否定してはいなかっただろうか?

本当に自分は“出来ない”と思っていたのだろうか?

 

 突然「赤木リツコの呪縛」という、悲惨な言葉が浮かんで、マヤは軽く頭を振った。

 

 何を自分は考えているのだろう。否定したい。否定するべきだ。もう少し若ければ、そ

の言葉を簡単に否定しただろう。気丈であることが、自尊心を保つ唯一のすべである様に

錯覚していた若い頃ならば、この言葉を選ぶことはない。論外だ。だが、だがしかし、今

の自分には、それを否定出来ない。

 自分は守ってきたのだ、と、それが否定できない。「赤木リツコ」が残したモノだから、

自分は形を失わないように保ってきたのだ。いや、正確には「赤木リツコ」ではなく「赤

木ナオコ」が残したモノだ。だが、自分にはその意識はない。あの頃の自分にとって「赤

木リツコ」こそがMAGIをMAGIとした者であって、その向こう側は必要としていな

かったのだ。

 

 尊敬していたのだ。そしてそれは、崇拝に近いモノだっただろう。自分の目指すべき一

つの象徴として、「赤木リツコ」と言う人物は存在していたのだ。だから、自分は守って

きた。その失われた象徴の代わりに、MAGIという偶像を。

 

 もう、終わってしまっているのに。10年も経ったのに。

 

 MAGI5人格を否定した自分の思考が、それをかき消したその方法が、今は手に取る

ように分かる。研究者として独り立ちした、自分は歩いてきたと思っていた。だが、実際

はそうではなかったのだ。

 

 少女が立っている。このディスプレイの向こう側に、少女が立っている。

 

 これを作った少女。MAGI5人格の案を、ほぼ一人で作り上げた少女。10年前にこ

こを離れた少女。引き剥がされた少女。惣流・アスカ・ラングレーと言う天才。あのパイ

ロットだった少女。

 

 彼女の作ったこの研究が、科学者であり研究者である自分自身の自尊心を深く締め付け

た。「赤木リツコ」の向こう側に隠れていた自分の姿を、鏡に映しだした。

 

 研究者としては悔しい、と自分は口にした。

 彼女が頑張っていることは喜ばしい、とも自分は口にした。

 

 どちらも本当のことだ。

 

 彼女との再開を楽しみにしている。勿論、不安がないわけではない。どういう顔で会え

ばよいのか、今は分からない。言い訳も探している。自分自身の立場を、遠巻きに擁護し

ようという感情も少なからずある。卑怯だとも分かっている。が、彼女に会いたいと思う。

それを間違いなく望んでいる。そして彼女と再会すれば、きっと自分は泣くだろう。嬉し

さと、彼女をあの時助けてやれなかった無力さに泣くだろう。言葉にすれば酷く客観的で、

ドライなモノになる。しかし、それが正直な思いだ。

 そして今、この研究者という視点から見ている今は、悔しい。MAGIという仕事に身

を置いている今は、彼女が作ったこの案が悔しい。ひたすらに悔しい。自分がたどり着け

なかったそれにたどり着き、そして形にした彼女に嫉妬している。そして、見えていなが

らそこへと歩いていかなかった、その自分自身の愚かさが、悔しい。

 

 マヤはそこまで思考を巡らせたところで、軽く頭を振った。そして、知らずのうちに肩

に入っていた力を、意識して抜いた。筋張った首の後ろの部分が、少しだけ楽になったよ

うな気がする。

 マヤは立ち上がり、冷蔵庫の中に冷やしてあった350mlの缶ビールを一本取り出した。

ノートパソコンの前に戻り、ステイオン・タブを引く。ぷしゅ、っと軽く炭酸が抜ける音

がして、しばしのタイムラグの後に白濁した泡が蓋の上まで上がってきた。その泡に上唇

をかぶせるようにして、ぐっとそれを喉に通す。微かにしびれるような充実感が喉を通り

抜け、次の瞬間には、空腹の胃に急激な仕事が必要なことが伝わる。

 

 マヤはビールの缶をノートパソコンの右脇に置き、一度大きく息を吐き出した後、再び

ディスプレイに目をやった。

 

 ほんの僅かだがリフレッシュされた思考が、自分自身の内面的な問題とは別の部分に、

目を向けさせる。

 

 この研究には、研究成果とは違う側面で、ほんの少しだけ疑問がある。いや、疑問では

ないのかもしれない。これは単純な好奇心だろう。ただ知りたいことがあるのだ。

 この巨大な研究、決して優しかったとは言えない研究。彼女が天才とはいえ、いや天才

という言葉は安易かも知れないが、どれ程才気にあふれていても、この研究には間違いな

く膨大な時間が掛かっただろう。高い目的意識、これを一人でなしえるには、高いモチベ

ーションが必要だったと感じる。

 何が彼女を突き動かしたのだろう、と、それが疑問に思う。

 彼女は何かを得るために、何かにたどり着くために、何かの為に、この研究を成し遂げ

たのだと思う。それは何なのだろうか。

 

 そしてもう一つ。「赤木ナオコ」はMAGIに、「母」「女」「研究者」の3つの人格

を埋め込んだと聞く。アスカは、彼女が作り出そうとしていた新しい二つの人格に、何を

込めようとしていたのだろうか。自分の内面にある人格だろうか。それとももっと客観的

な存在だろうか。いや、そもそも何も埋め込もうとはしていなかったのだろうか。

 

 彼女はもうすぐ帰ってくる。本当に直ぐだ。ひょっとしたらもうこの国にいるのかも知

れない。彼女は、どんな女性になっているだろう。研究者としての顔をしているだろうか。

それともあの頃のままの、少し気が強くて、そして何処かもの悲しい少女のままだろうか。

 

 疑問ばかりが浮かんでは、答えを得れないまま消えていく。

 

 マヤは開いていたファイルを閉じた。薄緑色のデスクトップの右下に、半透明のアナロ

グ時計が動いている。そろそろシゲルが帰ってくるだろう。

 

 マヤはコンロに置いてある鍋に火を入れるために、ゆっくりと立ち上がった。


つづく


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