BOSS
第2話


「ただいま」
リビングで見知った顔を見つけてシンジは声を上げる。
しかし、彼は無言のリビングに入っていく事になった。
手に提げた買い物袋をゴソゴソと漁りながら針のむしろを気にせず進むシンジ。
「ウワサのとんかつだよ〜。今から作るから待っててね」
豚ロースのパックを掲げながら、寝そべってテレビを見ているアスカに視線を送った。
テレビは時間つぶしだったのかリモコンを手にすると電源を落して彼女は起きあがる。
「ぶたにく?」
この声だけで針の筵は取り払われると、彼は頷きで返す。
シンジが買い物袋をテーブルに載せ、中を漁っていると彼女が寄ってきた。
「へ〜。トンカツって肉料理なんだ」
そんな彼女を横目に、彼は今夜の食材だけを取り出すと台所に向かいながら言う。
「そ、トンカツのトンは豚のトンだよ。鳥だとチキンカツって言うんだ。
 あっ。それと、それ、しまっといてね」
言われて、テーブルに残された袋の中を窺っていたアスカが彼の方を見た。
彼は台所でキャベツを洗う水音の中、顎で冷蔵庫を指す。
「あっ、顎で私を使う気?!」
「ディナーがスゴく遅くなってもいいんだったら、そのままにしておいていいよ」
そう言って、ワザとキャベツを切っていた包丁の音を遅くするシンジ。
唇を尖らせて彼の背中を見つめていた彼女だったが、空腹には勝てず。
「これでトンカツって料理が不味かったら殴るわよ」
アスカは袋の中から桃のパックを鷲掴みにすると、冷蔵庫に放り込む。
「大丈夫、きっと気に入ると思うよ。少なくとも、僕は大好きだから」
そう言って、ハッとするシンジ。
「ねえ。アスカは肉、嫌いじゃないよね」
「どちらかと言えば、野菜より肉がいいかな」
「ふぅ、良かった。僕の中でトンカツは三大肉料理の一つなんだよ」
そんな会話の中で、アスカは彼の手元の食材をチラリと盗み見る。
広げられた材料を見て、少なくともゲテモノではなさそうだと解り胸をなで下ろす。
「ふ〜ん。じゃぁ期待しちゃぉかな」
律儀に頼まれたことをこなすアスカを横目で見ながら、シンジは口元を緩めた。


BOSS第2話 「配達前夜」


霧島マナ、彼女は愛機の中でシュフィル・アルベイルの護衛任務に就いていた。
彼女達の部隊は王女の泊まるホテルから約1キロ南に展開しており、
日が落ちてからは一人は監視、残る二人は休息というローテーションをしていた。
機体も、長距離支援型であるマナ機を使用していた。
現在の監視役がマナだったのだが、彼女の乗った機体に一人の少年が上ってくる。
彼女はその影に気づいていたので手元のレバーを引いてハッチを開けた。
少年は慣れた感じでハッチに取り付くと、半身をコクピットに入れる。
「お疲れさん。交代だぜ」
データが投影されているバイザー越しにゴロウの姿を確認すると、
ヘルメットに繋がっている配線を気にしながらヘルメットを脱いだ。
「特に異常はなかったよ」
そのヘルメットを彼に手渡すと、シートベルトを外して腰を浮かせ、ハッチに手をかける。
彼と彼女は体を入れ替え、彼がコクピットに収まり、彼女はハッチの外へ。
「ゆっくり休めよな。疲労は反射神経を鈍らすぞ」
「ゴローも、退屈だからって寝ちゃダメだぞ」
「お前じゃないってーの」
マナは笑顔を残してハッチから離れた。
レバーを戻してハッチを閉めたゴロウはメットを被りながら舌打ちする。
「ったく、キャンプと勘違いしてやがる」
一方のマナは軽い足取りで機体から降りていく途中で聞き慣れたハーモニカの音色を聞いた。
片側二車線を占領している三機のバース、その横には彼らと、第2機甲師団結城小隊の
テントと戦車が並ぶ。その光景をマナの愛機が右腕の変わりに持つ装備、三門の100ミリ
滑空砲の上から見渡して眺めてみる。さほど大きくない音色だったが、マナは街灯の光に
浮かぶ奏者の姿をすぐに見つけることができ、足が自然とその音に向かい歩み出した。


「毒、入ってないわよね」
目の前に並んだ夕食を見渡しながらアスカは言う。
「豆腐?。今日のみそ汁はアサリだけど・・・ダイエット中だった?」
「ド・ク!。変なモン入れて不戦勝にするつもりか、って言ってんのっ」
「そんな。僕も明日は楽しみなんだから」
困ったように微笑みかけるシンジ。
「失礼しちゃう。ヴィーナスがダイエットなんか必要と思って?」
得意げに自慢のボディを誇張するアスカだったが、彼はワザと見向きもせずこう言う。
「はいはい」
「フン、お子ちゃま」
「そんなことより、料理がアスカの口に合えば嬉しいな」
そう言って彼はご飯を口に入れた。続いて、トンカツも頬張る。
「うん、上出来だよ」
噛みながら至福の笑みを彼女に向けるシンジを見てからアスカは箸を持つ。
だが、その表情は険しく、色濃い疑惑を含んでいた。
「お姉様、毒味してあげましょうか?」
そう言いつつ、物欲しそうに彼女のトンカツを凝視するシンジ。
彼女は「いいわよっ」と言いながらおかずを彼の視線から取り上げ、一切れ口に運んだ。
「おいしい?」
アスカは何度か噛みながら味を確かめ、飲み込んでから答えた。
「ん〜。まあまあ、かな」
「よかった。じゃぁさ、今度はマスタードでも付けて食べてみなよ。
 僕は付けない方が好きだからソースだけなんだけど。
 でも好みがあるし、アスカの味覚ならこっちの方が合うんじゃないかな」
彼は、マスタードが乗った小皿を彼女の食器群に加える。
白米を口に運びながら、彼女は小皿が運ばれてくるのを眺めていた。
「へぇ、確かに組み合わせは面白そうね」
口に入っていた物を飲み込むと、アスカはトンカツを箸で摘んでその皿に近づけた。


彼は街灯の真下、電話ボックスの土台に腰掛けてガラス部に背を預けていた。
格好は迷彩殻のズボンにTシャツ、マナと同じ戦自で支給された格好。
マナはその彼に近寄っていったが、瞼を閉じてハーモニカを吹く彼は気付かない。
そんな彼の側まで来た彼女は手近で寄りかかれる物、ガードレールにお尻を預けた。
その後も彼の調べは軍隊が設営している町に暫く流れ、マナはその旋律を聴きながら
ビルの影から顔を出してきた月に視線を向ける。いつもと同じ、マナがぽつりと呟く。
側から聞こえた不意の声にハーモニカの音は途絶えた。が、慣れ親しんでいた
声だったからか特に動揺の素振りも見せずに瞼を開き、彼女を見る。
「あ・・・ゴメンね、ジロー」
交差した視線に、安堵の色を顔に出して彼は首を横に振った。
「いや。もう止めようかと思ってたから。もうそんな時間?」
「うん。今代わったところ」
彼は立ち上がると、ズボンの砂をはらう。そんな彼にマナは憂いの瞳を向けていた。
ジロウはキリスト教信者。神を殺すために作られたこの地と、人が神を模した傀儡で
天使の名を冠した使徒を抹殺しようとしているNERVにも嫌悪感を抱いていた。
この場所に派遣されるのを最も嫌ったのも、戦闘配備を嫌がるマナではなく彼だ。
禁忌を破ろうとする連中と同僚として同じ空気を吸う。彼には母である聖母を冒涜する
行為と思えた。滅ぼすためなら喜んで剣を取ったろうに、と情勢を恨みさえした。
「ねぇジロー。少しは寝た?」
マナの浮かない顔を見て、ジロウは優しく微笑む。
「床には入ったけど・・・風がうるさくて」
「カゼ?」
マナは皮膚の感覚を少し研ぎ澄ましてみた。だが「風」というほどの感触はない。
「ここが欲しいって耳元で囁いて来るんだ。だから彼らを鎮めてやりたくてね」
マナの憂いの視線を感じたジロウは続けた。
「ボクはここに来てからずっとジャック・ド・モレーの事を考えて、自分を知識で
 誤魔化し落ち着かせてた。それでも、否応なく飛び込んでくるこの町の様相を
 眺めていると気分が次第に悪くなってくる。天使の悲鳴はそんなボクが作り出した
 幻聴だと思う。これを吹いてるのも、ボクを」
言葉の途中、マナは先程ジロウが吹いていた旋律を真似て口笛を吹いてみる。
一小節を吹き終わった後で、キョトンとして聞いていたジロウに彼女は破顔する。
「いい歌だもん、思いは通じるよ。私もお手伝いしてあげるから、鎮めてみよ」
微笑みながら再びメロディを奏で始めたマナに、彼もハーモニカを唇に押しあてた。
その音色は鋼鉄に身を包んだゴロウの耳にも届いた。
この場の雰囲気から浮いたそれを訝しく感じた彼は、音源の探知させようと
コクピット右上のボタンを押す。瞬時に解析された結果が彼のバイザーに映り、
コクピットのモニタにも赤いカーソルで音源が指し示めされた。その光景に、ゴロウは
休めと言うために外部マイクのスイッチに手を伸ばす。だが、彼らの表情を見ると
このままの方が彼らにとっては良い休息になるだろうと判断して手を戻した。


「ごめんね」
ホクホク顔でご飯を頬張るアスカの耳に、不意に届いた言葉だった。
「はぁ?。なにが」
「その・・・」
シンジは視線を落とした。その先に先程のマスタードが映る。
口ごもる彼に、普段なら気にも止めない行動なのに今日はとても違和感を覚えた。
幸せと共にご飯を噛みしめている彼女だ、謝られるような理由は思いつかない。
「昼間の事。ちょっと言い過ぎたかなって思ってたから」
「昼間って、寿司のこと?」
「それもあるけど。通信切ったり、挑発したり、諸々あわせて悪かったなって」
ペコリと頭を下げるシンジを見ていたアスカの顔は温容さを湛えていた。
「構わないわよ、そんなこと。おかげで、面白いことになったし」
アスカは、オレンジジュースのグラスを手に取った。
「今まで本部の同僚が腑抜けで退屈だったから、尚更にね」
それをぐいっと飲み干して、キッと彼に鋭い視線を向ける。
「まぁ、罪の意識で手加減しても良いけど負け惜しみは受け付けないぞ。
 アタシは・・・マジだからね」
「やだなぁ、殺さない程度にしておいてよ」
憂色の濃い顔での言葉にアスカは相好を崩す。そんな彼女の笑い声につられて彼も
笑いがこみ上げ、歯止めの利かない状態の彼らの忍び笑いがリビングに暫く響く。
こみ上げる感情の中、アスカの中に僅かな充足感が芽生え始める。
卓の上に手料理が所狭しと並び、他の人と一緒に心のまま笑う。初めての経験だった。


第三新東京市の摩天楼の中でもその存在を主張しているビルの最上階に
彼女の部屋は用意された。一番の高層建築がホテルというのが、第三新東京市らしい。
カーテンを少し開けて下の様子を見ていたシュフィルは、ノックの音とブライトの声に
返事を返す。王女がリモコンのボタンを押すと、鍵が開く音と共に扉が開かれた。
王女は入ってきた影がブライトと確認するとソファーに腰掛け、彼も王女の向かいに
腰を下ろした。書類を広げるブライトから、王女は窓の外に視線を移した。
「事々しいですね」
「しかし、NERVも日本政府の信用がないのですな。何があるかわからんなどと」
ブライトの言葉に王女は視線を戻し、その目がほんの少し細くなった。
「それを正すのも私達の使命のはず。何故自らを以て信頼を得ようと考えない」
「しかし殿下、あの神尾とかいう司令官は年金を貰うことしか考えていません。
 政府に護衛解除を申し出ても、受理される頃には査察が終了しているでしょう。
 申し出るのも一つの手ですが、効果は無いに等しいでしょうな」
「今一度、要請して下さい。それに、味方とはいえ足下で軍隊が蠢くのを見るのは
 あまりいい気がしません」
「なるほど、それが殿下の本音ですか」
「ブライトは、そう思われましたかな?」
「いいえ。・・・わかりました、今一度あの司令官に嘆願してみることにしましょう」
「頼みます」
書類をまとめている彼を横目に王女は席を立つと、再び窓からの景色を眺める。
「あれがシーラ様に準ずる光。凡愚の長に操られた光は哀切に輝くものですね」
彼女は設営の光が眼下に溢れる中、敢えて連なる山々と月に眺める対象を変えた。
そんな王女の背中を見ながら、書類の整理を終えたブライトは立ち上がる。
「ほう、それが藤堂殿の評価ですかな?」
王女は遠くを見たままで答える。
「ブライト、先程から悪ふざけが過ぎますよ」
シュフィルは振り向く。
「彼らはあくまで日本の総理からの派遣、秘書官の出る幕ではないでしょう。
 権力の傘の中で保身を図る者に強硬派の者が割り込む。Na24と似ていますね」
王女は彼に向かい微笑を向ける。だが、ブライトの顔は曇った。
Na24にしてしまって良かったのか、Naと中性子のままの方が良かったのでは?。
日本の異民族を見るにつれ、後悔の念は胸の中で膨らんだがNa24は動き出した。
きっかけを起こしたのはシュフィルその人で、今となってはもう無駄な憂慮である。
それだけに、彼に向けられた王女の微笑はその瞳と相まってとても冷たく感じられた。
その頃、ピーターは王女の部屋の真下に設けられた彼の控室で携帯電話を使い本国の
高官、今回の査察に難色を示していた王国の国務長官と通話していた。
「ええ、問題なく。日本の部隊も協力してくれています。施設も視察団の報告通りで、
 警護に向き、万一部隊の突入を許しても我が部隊を突破しなければ殿下に
 近づけません。外壁も125ミリ滑腔砲や通常ロケット弾程度では問題ないかと。
 しかし、ポジトロン等の反物質兵器には無力と言っていいでしょう」
窓からの景色を見ていた彼の目は下で動く戦自車両のライトが映り、耳には男の声が響く。
「了解です、ラウドル閣下。今後もお任せ下さい」
携帯のスイッチを切ると、彼は時計を見た。22時25分。
王女の間へ行くために上着を直し、髪にクシを入れるといい時間になった。
髪に跳ねがないかを丹念に調べていた彼は、鏡を見ながら思う。
(貴様は急ぎ過ぎなんだよ。焦って己の家名を絶つつもりなのか。
 そこまでニリスに期待してはいないだろ)
サイドにクシを入れ、ネクタイの曲がりをチェックしてからのドア前へ行く。
扉を開け、廊下に出ると、眼前にショートで癖毛な青髪が栄える紺色スーツ姿の女性が
目に入る。彼女は真横の扉がいきなり開いた事に少し驚いたような仕草を見せたが、
ピーターには態とがましく映る。だが彼は軽く会釈するだけで王女の部屋に向かう。
「シュマッカーさん、お勤めご苦労様です」
5歩歩んだ時、真横から気配も無しで聞こえた声にピーターは心の中で少し狼狽した。
「は。李隊長。お疲れさまです」
ピーターの言葉に先程の青髪の女性、イ・メイファの顔がパッと明るくなる。
「あはっ、どうもですぅ。でも、その呼び方は止めてください。慣れないもので」
「はぁ」
彼は困惑した。呼称もそうだが、登りの階段まで付いてきたのが大きいが表情変化はない。
「そう、メイファで良いです。シュマッカーさんは年も上だし、同じ隊長なんですから」
「そうはいきません」
(う゛、固っ)
言葉もそうだが前を向いて鉄仮面の彼に、彼女はジトッとした視線で彼を見上げる。
そんなやりとりの内に彼らは階段を上りきり、王女の泊まるフロアに来ていた。
彼らの進む廊下の突き当たり、黒服のベルギーSSが控える扉の先に王女はいるのだ。
ピーターは足を止めると彼女の方に目を向ける。彼女はその前に顔を笑みに戻した。
「李隊長。ここから先は・・・」
「あ、そうですね。ちょっと暇だったものでつい、エへへごめんなさい」
ピーターは去りゆく彼女の後ろ姿を見ながら肩を落とす。不安げな視線を腕時計に
移すと29分。少し早歩きで突き当たりの扉まで歩を進めた。
扉の前に立ち、秒針がオメガのマークに重なるのと同時にノックをする。
ドア越しに王女の声を確認し、カードキーを使ってドアを開けた。
そして、彼の前に現れたもう一つの内鍵扉を開けると、ようやく王女の居室に
入ることが出来る。彼はそのまま廊下を直進し、ソファーなどが置かれている応接用の
部屋に入ると、ようやく王女とブライトの顔が見られた。
王女は窓際に、ブライトはソファーに腰掛けていた。
「ご苦労です、中尉殿」
「殿下、何か問題はございませんか?」
「ええ。そちらは?」
王女が窓際から応接セットの側まで歩み寄り、彼に席を勧める。
「滞り無く。NERVも、戦自も静かなものです」
続いて彼女が茶を煎れようとしたのでピーターは驚き、座りかけた腰を上げた。
だが彼女が制したので、彼は王女が3人分の茶を入れている間、
直立不動のままで待つ。その態度に、ブライトは目尻にしわを作る。
「まあ中尉殿、そう固くならず座られたら如何かな」
思案に余るピーターは、座ることは出来なかった。もう少し時間があればブライトの
勧めに従っただろうが、その前に彼女はソーサーに乗ったカップを彼の前に差し出し、
彼女がソファーに腰掛けたのを見て、ようやく彼も席に着けた。
「皆に疲労はありませんか?。ここのところ公務続きでしたから」
「はい。ここなら護衛も比較的楽ですからローテーションにも余裕が出てきました」
王女はカップから唇を離すと、ピーターとの会話を続けた。
「日本側のSSはどうです?」
「戦力にはなると思いますが・・・」
言葉を濁すピーターの態度に、王女は一度瞬きを見せる。
「なにか?」
「あ、いえ。部隊は屈強ですので我々も安心して職務に専念できています」
そんな彼に、シュフィルは優しく微笑む。その微笑みの意味をピーターは図りかねた。
「折角のティータイム、無粋な話はこれまでとしましょう。そういえば、
 シュマッカー殿とは落ち着いて話す機会がありませんでしたね」
何気ない言葉と、目の前で揺らぐ緑茶に彼は戸惑いを隠せずいた。
「異文化の味は実に興味深いものですよ」
そう言ってカップを傾ける目の前の彼女の姿。ピーターにはこの光景が現実という
実感がわかなかった。今まではテレビ、もしくは国家行事の遠景の中の米粒大の彼女を
眺めただけだった。人柄についても本人を前にすることもなく、
ニリス・エリスト一派からの人伝で聞こえる程度の知識しか持っていなかった。
それが彼にとっての王族というものの世界であり、彼が慣れ親しんだ現実の世界。
だが、今回の初めての護衛という公務に追われて気にもとめなかったが、
目の前に座る王女は紛れもないヒト。テレビでは到底感じることなど出来ない暖かく、
優しく包み込むような笑顔に演出された体温があった。だが、彼の知る王女に人の血は
流れていない。王女の体温を知ってしまうと困惑する様な環境で彼は育ったのだから。
「あなたの故郷のワッフルも実に興味深いものでした。
 同じ人種、素材でも環境が違えば変わるのだなと改めて感じたほどです」
身辺警護の長であった彼との接点を探ろうとした彼女の台詞は、彼には
酷なものでしかなかった。笑顔の王女に対し、ピーターの顔は更に固く強ばっていった。
だが、普段から表情変化がほとんどないため、王女達は彼の変化に気付かなかった。
彼らがそんな話をしていた下のフロアでは一人の男がメイファを呼び止めていた。
その声に彼女は振り返るとブラウンの瞳が彼を見つけ、ニコリと微笑み手を振る。
彼は小走りで彼女の側まで来ると、眉間にしわを寄せた顔でまくし立てた。
「どこ行ってたんすか!。23時からのミーティングをお忘れですか!」
飛んできそうな唾を両手でガードしながら、困り顔でメイファは言葉を濁す。
「まぁまぁ。だから今から行こうとしてたんじゃないの。時間だってピッタリ」
「ミーティングの内容を知った上での言葉ですよね?」
「うぅん」
キョトンとして首を横に振るメイファに、彼はたっぷりと溜息を吐き出す。
「だって、それなら橘さんにお任せしてるはずでしょ」
「せめて内容ぐらいは目を通しておいてもらわないとお互いに困りますよ!。
 いいです、とにかく時間がもったいないですからこっちへ」
橘は彼女の手首を掴むと駆け出した。彼女は彼に引っ張られて仕方無しに駆け出す。
彼は空挺団の中でも過酷な訓練を切り抜けたエリートだけが許される記章を得ている。
ゆえに今回の空挺団からSS選抜をする際、部隊の隊長格に抜擢された。
だが、役職上の隊長には上からの命令で後ろを付いてくる李・メイファという得体の
知れない女が日本政府からの指名を受けて送られてくるという。
プロフィールを見て、エリート顔した金持ちの小娘かよと彼は舌打ちしたものだ。
任務に就くと彼女は経験も人望もある彼に全てを任せて口も出さずフラフラと。
何も知らない素人が見当違いの持論を奮うのは力があるだけに厄介で勘弁だが、
何もしないというのも居心地が悪いもの。よって、最終決定と集まりがあるときは
顔を出してもらうことになっていた。士気にも関わるのでメイファ隊長でも内容の
確認くらいはするだろうと橘は思っていたのだが・・・。結果は違った。
今、彼女を捜していた時もお嬢様の役立たずを押しつけやがってと上司を恨んだ。
しかし、彼は走りながら先程までの評価に疑問符を投げかけていた。
全速力ではなかったが、それに近いペースのスピードに彼女は息も切らさずに
付いてきていた。当然最初はゆっくり走っていたのだが、彼女は余裕で付いてくる。
彼は脚力にも自身があるだけにそんな彼女を計ってみることにしたが、今の所は余裕。
文句はさんざん耳に入ってきたが、彼は無視を決め込んだ。しかし、こんな経験は
空挺団でもしていない。彼女はスーツ、しかもスカートの裾を抑えながら、である。
尤も、隊員の手を引いて走ることは今までの人生で一度も無かった事なのだが、
少なくとも何もできない権力者の箱入り娘という評価を覆すには十分だった。


バーのカウンターに加持とミサトが座っていた。話題は今日のこと。
「シンジ君がねぇ」
苦笑を浮かべる加持。
「で、明日のスケジュールはそれで行くのか?」
「指令の許可も下りちゃったし、仕方ないでしょ」
「あの指令がねぇ」
再び苦笑を浮かべながら、長躯な男のバーテンダーをチラリと見る加持。
「だが、それでそんな飲み方か。お子様だな」
「あぁん?」
座っている目が加持に向く。そんなミサトの瞳を見た加持はやれやれと溜息を漏らす。
「フン。責任の無い風来坊のアンタに分かってたまりますかって」
そう言いながら氷だけが入ったグラスを名残惜しそうに眺めるミサト。
「一人で飲む酒のマズさは、風来坊の方が知ってると思うがな」
「風来坊かはともかく、お客様が一人でいらしたことを見たことはございませんが」
「おいおい、これからハートウォーミングなイイ話をしようってのに勘弁してくれ」
少し唇を尖らせた彼女は、さっきから続く苦笑いの彼を横目に立ち上がる。
「明日、早いから」
ちょっと足下がふらついたが、次に踏み出したときは問題なかった。
加持は一応引き留めの言葉をかけたが彼女は当然従わず、入り口の鈴音を残して
彼女は消えた。加持は扉をしばらく眺めていたが、手の中にあったものを煽る。
「何処の国でも女は怖い。最近は身にしみて感じるな」
加持はそう呟くと、氷を鳴らしながら空になったグラスを置く。
「彼女、いいのか?」
「すぐ追いつくさ。だが、ここでお前の顔を見たのは初めてだぞ」
そう言った後、今までと違い鋭い視線がバーテンを突く。
「ウォルブ。お前、どこまで知ってる?」
加持の言葉にも、彼は動じることなくグラスを磨き続けながら答える。
「BOSSのことか?。120円で世界を革命する力を、とは笑わせる」
「変な日本語を使う」
「よく使われる故事だと聞いたが」
「まあいい」
加持は視線で続きを乞う。
「お前についてはもうスイカくらいしかない。ま、藤堂なら別だが。
 自分がいつまでも中枢を担っていける人間と思いこんでいる。哀れな男だ」
バーテンの言葉に加持は立ち上がり、千円札をカウンターに置く。
「お前のボス、ベルナとキーンは影すらみせんな。しかし、シュフィル・アルベイルが
 動いたのは驚いたよ。尻尾を出すなら第二王女のファラルだと睨んでいたんだが」
「存在がなければ影は立たない、5歳になる坊主の教訓だ」
誇らしげな顔の彼を見ると、加持は微笑を浮かびあがらせた。
「なるほど。真摯に聞いとくよ」
ウォルブに、加持は背を向け歩き出す。
「おい、リョウジ」
バーテンの声に、加持の足が止まり、首を少し捻って彼を見た。
「これじゃ足らん。彼女の分を貰ってないんだ」
「5歳の坊主の養育費もバカにできないらしいな」
加持は笑みを浮かべながらポケットを探り、手に確かな感触を得た。
「ま、良しとしよう。声をかける話題も出来るしな」
一枚だけあった5000円をカウンターに置くと、加持はきびすを返した。


寝苦しい夜だった。仮眠を取らねばとテントの中に入ったのだが、目は覚める一方。
時折響く見張りの足音も聞き慣れないものだけに眠気を削いだ。
羊を381匹数えたところで、再びブーツの音が耳に響く。
マナは寝袋のジッパーを下げながら上体を起こし、テント越しに写るライトの明かりを
恨めしそうに眺めた。彼女は寝袋から抜け出すと、戦自装備である迷彩柄の
ズボンを履き、テントの外へ。今晩も月が見える。
けど、今日は山陰に消えるまで月を眺められない。
第三新東京の摩天楼と彼女の愛機が月の姿を頻繁に隠すために。
それでも、ガードレールにお尻を預けて彼女は月を眺め続けた。
「なにしてんだ」
月を眺め初めて30分くらいしてから、彼女の背後から声がした。
その良く知った声に、振り返りもせずにマナは言う。
「月を見てるの」
彼女と同じ迷彩Tシャツ&ズボンを着ているゴロウは呆れたようだった。
「また?。マナは本当に月が好きなんだな」
「好きってワケじゃないよ。ただ、落ち着くだけ」
「そういうの、好きって事じゃないのか?」
「そうかも。でも、違う気もするけど」
ゴロウは月を眺め続けているマナに溜息を漏らすしかなかった。
「なぁ、仮眠時間なんだから休んでおいた方がいいぜ。明日に差し支えるぞ」
「もういいよ、どうせあと3時間でジローと交代だもん」
「その3時間がでかいんだろ」
実際、彼も当直任務を負えて仮眠に入るところだ。一人に与えられた時間は
6時間しかないのを考えると、3時間はゴロウの言うとおり大きい。
だが、月が愛機に隠れていても空を仰ぎ見ているマナにゴロウは話を切りだした。
「なぁ、明日の決心付かないのか?」
マナは黙ったままだった。見上げる彼女が機体を見てるのか空を見てるのか。
「俺達は軍隊の一員なんだ。軍って所は死と隣り合わせなのは分かるよな。
 だからこそ、個人の勝手は絶対許されないんだぞ」
沈黙で上空を眺めるマナにゴロウは言っておきたいことを告げる事が出来た。
「マナ。秋山二佐の期待を裏切るなよ」
床に入ろうと彼はマナに背を向けた。その彼にマナの忍び声が向けられる。
「ゴロー、ゴローは平気なの?」
「お前、横川総理と米国のミカエル・カースがリンツ会議で何を話したか知ってるか?」
「えっ、・・・ううん」
背中越しに見えるマナの憂い顔が横に振られていた。マナはウィル・キルティスなら
知っているが、ミカエル・カースなんて名前は聞いたことがない。
「それが俺達の立場なんだよ。俺達が自我を出したら、戦自は動けないだろ」
ゴロウはマナの横にあるバースを仰ぎ見、マナもそれに続いた。
「マナ。今の俺達は兵士、こいつはただの兵器さ。俺らは人を殺せても、
 人を導く立場じゃない。俺は歴史が自分に与えた使命を果たすだけだ」

つづく


付録・「BOSS」第2話制作データ

戻る