少年は最後の別れには、姿を見せなかった。
少女も最後の別れでは、少年を捜さなかった。
世界が終わり、世界を救った二人は、
小さな望みさえも叶えてはもらえなかった。
最後の出会いから10年。
二人の10代は既に終わっていた。
少女、少年 <第一話>
第三新東京市。8月。本当の夏。
シンジは町の中心に出来た新しい大型ブックストアに足を運んでいた。
レイが半年に一度の定期検診のために、週末の二日間をネルフの医療センターに詰めて
いたので、久々にシンジは自分一人でゆっくりと買い物に出ていた。
「どれくらいぶりかな、一人は。」
シンジはそんなことを考えながら、ゆっくりと人並みに飲まれるようにブックストアの
入り口を進んでいた。
それは、いつもの日常の延長だった。
シンジとレイが式を挙げたのが去年の9月、もうすぐ一年になろうとしている。
高校、大学と卒業後、一緒に歩んできた二人は、新ネルフに就職後しばらくして結婚し
た。
二人に両親は既になく、親族と呼べるモノは全く参加しない式だったが、旧知の友人と
組織改編前の旧ネルフ関係者が集まって、小さいながらも素晴らしい式を執り行ってくれ
た。
はにかみながらレイが、皆にありがとうと言って廻ったのが印象的だった。
その後二人はネルフの近くのマンションへと移り、新婚生活を満喫している。
旧葛城家とは違い、新居での家事の大半はレイが行っている。シンジは分担しようと言
っていたのだが、レイが自分がやるといって聞かなかった。だからもっぱらシンジが料理
の腕を振るう日は、何かの用事でレイの帰宅が遅くなる日や、何かの記念日ぐらいのモノ
だった。
また現在の二人は、組織改編されたネルフ(新ネルフ)に研究員という肩書きで勤めて
いる。実際には研究員といっても、書類整理と雑務の日々で、旧チルドレンを監視下に置
いておきたいという現ネルフの意向の為に、二人が勤めているだけである。
でも、二人にはそれはそれで良かった。細々と生きてゆくこと、何も起こらない事への
感謝。今という時間が両手からこぼれ落ちないことだけが、二人の願いであり、生き方だ
った。
それがあの過酷な時代を過ごした少年と少女の今だった。
シンジは、人混みでごった返す本屋の入り口で各フロアの説明に目を通し、エスカレー
ターで推理小説の並べてある2階へと上がった。
大学に通い始めた頃から、レイの影響で色々な本を読みあさるようになったのだが、い
つの間にか推理小説、それも本格と呼ばれるたぐいのモノに填ってしまい、今ではレイに
小言を言われるほど部屋の本棚を占領している。
今日、本屋に足を運んだのも、旧世紀の推理小説黎明期の海外作品を探しに来たからだ
った。
「ヴァン・ダインは趣味じゃないんだけど・・・、」
シンジはぶつぶつと独り言を並べながら、それでも自分の予想よりも良い品揃えに満足
していて、次々と気に入ったモノを左手に束ねていった。
「でも、あんまり買うと、レイまた怒るだろうなぁ。でも、自分も怪しげなエッセイ集と
かため込んでるのになぁ。」
シンジは在る程度物色を済ませた後少しだけ思慮して、5冊ほど抱えていた文庫本から、
魅力的だと思われる二冊を除いて、棚の元の位置に戻していった。
シンジとレイの生活の中では、もっぱらシンジは立場が弱い。財布の紐を握っているの
はレイだし、物事の決定権もレイが握ってる。そして夫婦生活の回数(こればっかりは多
すぎるとシンジは時折抗議を上げるのだが)、週12回という最低限のノルマもレイが決
めてる。
まぁ、シンジもともすれば流されがちな自分の性格を十分に把握しているし、夫婦仲が
円満に進むのは、妻の力が強い方がよい、とも思っている。つまり、こんな些細な悩みも
惚気のようなモノである。
シンジはレジで精算を済ませた後、背中のデイバックに文庫本を放り込みながら腕時計
に目を通した。そして、レイの午後の定期検診が終了するまで時間があることを確認した
後、駅前の行きつけの喫茶店に足を運ぶことにした。
第三新東京新駅を降りて直ぐに、「明日菜」という喫茶店がある。マスターの愛娘の名
前から取ったモノで、娘は今年3歳になる。
店内はカウンタ数席と、二人がけのテーブルが二つあるだけの小さな店で、全体的に木
のぬくもりを感じさせるアンティークな作りになっている。店の装飾自体は、質素なのか、
それとも何もないだけなのかを考えさせる中間ぐらいの微妙な状態なのだが、マスターの
『不必要なモノは片づけましょう』というポリシーは存分に反映されているだろう。
シンジはカランとなる入り口の扉を押し開いて、狭い店内を見回しながら店の中へと歩
を進めた。
店の様子は案の定客と呼べるモノは存在しておらず、カウンターでとろけている友人と、
カウンターの向こう側で愛娘の写真に今日もデレデレのウエーター兼雑用係の二人だけだ
った。
「よぉ、シンジやないけ。なんや、久々ちゃうか。」
雑用係はこれ以上ないという大声で、入ってきたシンジに声をかけた。
「お、しんじー、こいつ何とかしてくれよ。写真を見ては「明日菜ぁぁぁぁ」だぜ。頭ん
なかとろけちゃってるよ。」
カウンターでとろけていた友人はゆっくりと体を起こしながら、優しげな笑みでそう抗
議した。
トウジは高校を卒業後、新ネルフの研究所で生体パーツの研究に携わっていたのだが、
自分の足が再生されるのをきっかけとして、あっさりと退社。
そして周りの幸薄い男性陣の「意外性が無い」とか「つまらん」等という声を押しのけ
ヒカリと結婚。旧ネルフからの功労金(旧ネルフが元チルドレンに対して支払った慰謝料
の表向きの名目。組織改編が行われる際に支払われた)を元に、ヒカリと二人で喫茶「明
日菜」を開店。現在3歳になる愛娘「明日菜」の馬鹿親である。
ケンスケは美大を卒業後、ドキュメンタリー制作会社に入社。趣味と実益をかねて世界
中を飛び回っている。が、最近は「やっぱ、趣味は趣味、仕事は仕事だな。」とか、分か
るようで分からないことばかり口走って、たまに日本に帰ってきたときは「明日菜」でひ
がな一日ぼーっと暮らす生活を送っている。
デイバックを背中から下ろし、ケンスケの横に腰掛けたシンジは、トウジにアイスコー
ヒーを頼んでおしぼりで顔を拭いた。
「顔なんぞふいとったら、レイに親父臭い言われるで。ほい、アイスや。」
トウジは、如何にも楽しそうにそう口にして、シンジの前に布製のコースターをひいて、
アイスコーヒーを置いた。
「まぁ、ね。レイには内緒と言うことで。ん、ところで、マスターは買い出し?」
シンジはピッチャーから少しだけミルクを注いで、ストローでそれを混ぜながら答えた。
「あ、ヒカリは病院や。実わな、二人目が出来るんや!!くぅーー、子供はええでぇ、ど
ないや、シンジんとこもはよ作らんのか?」
トウジは身を乗り出さんばかりの勢いで大声を張り上げた。シンジはトウジの掲げる写
真の方に一度目線をやった後、ふぅ、とため息を付いた。
「本当は欲しいんだけど、なかなかねぇ。こればっかりはさぁ。そのうちできると思うよ。
ところでケンスケは身を固めないのか?それ以前に浮いた一つも噂も聞かないけど。」
「えへへ、今のところなーし。でも、お前らが身を固めるの早すぎるんだよ。男なんかは、
30になってから結婚すればよいのさ。第一、俺は日本にいる時間が短すぎるからなぁ。
特定の相手っていうのは正直今はむずかしいよ。それに世界中、その手のお仕事してる人
は多いからね。こまらないのさ。」
ケンスケはそう言って両手を軽く広げて肩をすくめて見せた。
「ふーん、そないなもんかな。わしはやっぱ人は愛や思うな。体繋がって、心つながらな
意味無いわな。なぁ、シンジ?」
「そりゃそうだけど・・・。ところで、やっぱ外人さんって違うの?」
シンジは少しばかり声のトーンを抑えて、ケンスケの方に体の向きを変えた。トウジも、
そのシンジの行動と台詞に反応して、カウンター越しに体を乗り出してケンスケをのぞき
込んでいる。
「まぁねぇ、だから×××、でね、○○○なんだよ。そりゃ△△△さ。」
ケンスケはそう言って、指で股間を指さした。
「くーーー、やっぱそうなんか、違うか、やっぱ?」
「僕なんか黒だって見たことないぞ。」
「あほ、お前の嫁さんは髪の毛水色やんけ。やっぱ、水色なんか?」
身振り手振りで話す彼らは、既に親父オーラは全開である。この怪しげな様子なら、新
しい客が入ってきても逃げ出すだろう。
そして三人がさらにそのオーラの深度増そうかとしていたとき、突然カランと扉が開く
音がして、かつて三バカトリオとして名をはせた彼らのオーラをしのぐ、負のオーラが一
瞬にして店中を席巻した。
「とーーーーじ。あんた何してるの?」
ちょうどそれは、カウンターの向こうでトウジが怪しげな腰フリダンス(本人の名誉の
ために、そういうことにしておきます)を踊っていたところだった。
買い物袋を下げたヒカリが入り口の直ぐそばで仁王立ちしていた。足下には、明日菜が
母親の足にヒシっとしがみついてたっている。日が落ちかけ、僅かに西日がとびらの端々
からこぼれ落ち、その様相に一層の迫力を与えている。
「あ、いや、なんや、その、はやりや!こういう、踊りがはやっとうねん!」
言い訳にももっとマシなのがあるだろう。既に、シンジとケンスケは入り口とちょうど
反対側にある壁に体を向けて、カタカタと震えている。
「ばか。それも重度の馬鹿。」
抑揚無く平坦なヒカリのその響きは、トウジの胸と、シンジ、ケンスケの背に突き刺さ
った。言い返す術も無しである。
そして場は凍てつき、トウジは悲しげな視線を、シンジとケンスケの背中に送る以外に
なかった。無論二人にはそれを無視する以外の術もなかった。
すると今度は明日菜がトテトテとカウンターを回り込んで、トウジの足下まで歩いてい
った。
「おおぉ、明日菜、お前は分かってくれるか、な、お前は分かってくれるな。」
それは希望であり、願いだった。
「ばーぁ、ばーかぁ、ばかぁ。きゃ、あっっきゃ。」
明日菜は、そう言ってトウジを指さして笑った。
次の瞬間、トウジは「うぁぁぁぁぁ」と奇声を上げながらカウンターを飛び越えて、店
から勢いよく走り去ってしまった。
さよならトウジ。君のことは忘れないよ。
結局その後は、トウジの代わりにカウンターにヒカリが入り、明日菜はケンスケの膝の
上で楽しそうにキャッキャと遊んでいる。トウジは帰ってきていない。
「どうせスケベな話でもしてたんでしょ。」
ヒカリはそう言いながら、買い物を冷蔵庫に詰めていっている。
「面目ない。ちょっと、そんな感じになったら盛り上がっちゃって。」
シンジは照れ笑いを浮かべながら、そう弁解した。
「ま、いいわよ。男ばっかりがよればそういう話にもなるわよ。女でも変わらないけど
ね。」
「へー、ヒカリも変わったなぁ。昔なら『不潔よ!』って一蹴するところなのに、今は理
解がある。」
ケンスケがすかさずに突っ込む。
「あんたらみたいな、馬鹿につきあってたらなれるわよ。それにこれでも、もうすぐ二児
の母親なんですから。」
そう言ってヒカリはちょっと照れた笑いを浮かべて、自分のおなかに手を当てた。
「聞いたよ、二人目出来たんだってね。頑張ってるなぁ。うちも頑張ってるけどなかな
か・・・。子供は欲しいんだけど。」
「えーー、本当?レイちゃんに聞いたわよ。『シンジが余り頑張ってくれない』って。
『私はこんなに一つになりたいのに(ぽっ)』とか惚気てくれちゃって。ちゃんと相手し
てあげてる?」
ヒカリは冷蔵庫に一通りモノを詰め込んだ後、カウンターの向こうで自分の分のアイス
コーヒーを作りながらそう口にした。
「してるさ!もう、存分に・・・。聞いてよ、週のノルマ12回だよ、12回!ねぇ、僕
やせたと思わない?昨日なんか僕が『疲れたから今日は動けないよ』っていったら、レイ
が『今日は私が動くから』って言うんだよ!」
その言葉を聞いた瞬間、ヒカリとケンスケは一瞬目線を会わせた後、吹き出していた。
ヒカリなど、冷蔵庫の扉を叩きながら笑っている。
「はぁ、はぁああ、しゅ、週12回はさすがにね、ちょっとだけど、好きな人とは何時も
一緒になっていたいものよ。碇君も愛されてるって分かって良いじゃないの。心も体もつ
なぎ止めておきたい女心よ。」
「あはは、はぁ、あのレイがねぇ。ずいぶん積極的だなぁ。でも、12回は少しだけ多い
かな。でも、新婚だしそれぐらいは適度な数だろ。ま、分かるよ、シンジ。お前の気持ち
はそれはそれで分かる。」
二人はそれなりに正当な意見を並べるが、その笑いを一生懸命堪えてる態度が、どうも
真剣味を失わせているようだ。
シンジは、小さくため息を付いて、アイスコーヒーを啜った。
「ふぅ、でもさすがに毎日は辛いよ。正直Hも嫌いじゃないけど、体力の方がね。週末に
なると貯まってる分を払わされるし・・・。」
涙目である。
「まぁ、肩を落とすな、それは幸せが”あふれている”のだ。あれだけの美女が毎日迫っ
てくるんだぞ、男なら涙するところだろう。ねぇ、マスター。」
そういってケンスケはヒカリに片目をつぶって合図を送る。
「そ、そうよ、碇君。それだけ碇君が魅力的だって事よ。」
ヒカリとケンスケはそうフォローを入れたが、がっくりと落ち込んだシンジの背中には、
男の悲哀という哀愁が漂っていた。
新婚も辛いモノだ。まぁ、そんな幸せ馬鹿には本来、同情の余地等は”まったく、これ
っぽちも全然、ふざけんなこのやろーー”と無いのだが・・・。
「あ、そうそう碇君、今日はレイちゃんは?一人で来るのなんか久々じゃない?」
ヒカリはそう言って話題を転換した。
ヒカリは中学を卒業後、シンジとレイと同じ高校に通っていた。ヒカリとレイの関係は
最初はシンジというフィルターを通してのモノだったが、余りにも世間知らずで、在る意
味高度な天然っぷりを連発するレイに対して、もとより面倒見の良いヒカリは、何かと世
話を焼いていた。そして高校を卒業する頃には、ヒカリはレイのことを同年だの友人とし
てよりも、妹の様な存在としてとらえるようになり、いつの間にか呼び名も「綾波さん」
から「レイちゃん」に変わっていた。
「うん、今日はネルフでの定期検診なんだよ。何度か話したことがあるけど、僕らはあれ
に乗ってた頃にLCLっていう液体に浸かってたんだけど、あ、ケンスケは一度入ったこ
と在るよね。でね、あれの副作用みたいなモノが懸念されてるんだって。まぁ、命に別状
があるモノではなくて、皮膚病の延長みたいなモノ、とか言ってたけど。」
「へぇ、そんなんあるんだな。シンジはどうなんだ、お前もずっと乗ってたんだろ?とい
うより、俺も大丈夫なのか?」
「その点は問題ないって。僕程度の回数だと殆ど影響は無いらしいけど、レイは僕よりも
遙かに昔からLCLに浸かってたから。それに、男性より女性の方が、こういう問題って
デリケートだと思うし。」
「ふーん、レイちゃんも大変ね。で、今のところどうなの?」
「あ、全然問題ないよ。透き通るような肌は健在。」
シンジは語尾を少し上げるようにそう答えて、顔の横で人差し指を軽く振った。
「訓練の長さと女性だって事がネックなのね。じゃ、アス、っ」
ヒカリはそう口に仕掛けて、しまったという表情で口を噤んだ。ケンスケもその言葉尻
を聞いて、少し表情をこわばらせてしまう。
シンジはそんなヒカリを見て、やんわりとした口調で口を開いた。
「いいよ、ヒカリ。そんなに気を遣わなくても。多分、ドイツでも定期検査はやってると
思う。ネルフから離れてても、少なからず組織からの拘束は受けてるはずだから。向こう
も同じ様に検診はやってると思うよ。」
「うん、でも・・・。」
ヒカリはシンジの言葉を受けても、そう口ごもってしまった。
僅かによどんだ空気が降りてくる。
「10年かな、最後に会ってから。前はどうしてるな?とか良く思ったけど・・・。今は
あんまり考えないようにしてる。大人の理由を恨んだこともあったけど、結局こうやって
自由になっても互いに歩み寄らなかったんだから。というより、僕は恨まれてるんだろう
ね。」
そう言って、シンジは軽く笑って、右の眉だけを上げて見せた。
その表情を見てケンスケも、小さく笑みを浮かべて見せた。
ヒカリは二人のそんな表情を見て取って、10年という月日の重さが、自分たちを大人
にしたのだということを、改めて感じていた。
あれから10年になる。
アスカと、自分たちの道が分かれてから。
世界が一度壊れ、思いが形になり、願いが人を作った。
『もう会えなくなるから、私のこと忘れて。私も忘れるから。』
それはアスカが、ヒカリとの最後の別れの時に口にした言葉。
そう言って悲しげに微笑んで、アスカはシャトルの向こうに消えていった。
あれから10年。
結局、押し込めても消えない記憶があるのだ。希薄になることと、失われることは全く
違う。
「やっぱり、思いだす?あの頃の事。」
ヒカリはグラスを拭きながら、そう口にした。
「思い出さない、と言えば嘘だけど・・・、思い出したくない、とは思う。うーん、昔の
こと考えると自分が子供だったんだな、ってそればかり思うからあんまり好きじゃないん
だ。世界中の不幸を自分が背負ってるとか勘違いしてたから。アスカと別れた事も結局、
後悔とかそういう部分でしか結論付けることが出来ないのが分かっているから、よけいそ
うなんだと思う。」
シンジは表情を変えずに淡々と答えた。
残り少なくなったアイスコーヒーを飲みきる。
「人は嫌な想い出ばかり心の深くに溜まっていくモノだからな。自分なりに消化できてる
なら、無理して後ろを見る必要もないと俺は思うよ。結局、”若かったんだ”としか言え
ないだろ。今から10年経ったら、今の自分もそんな風に見えるよ。」
ケンスケはそう言葉を挟んだ。
シンジは小さく「そうだね」と答え、ヒカリはその言葉に小さく頷いた。
結局は振り向くから時間がたったと思うだけで、一瞬でも過ぎ去った世界には後悔の残
骸以外は残ってはいかない。そういうことを少しずつ感じてゆくことが、時間を消費して
ゆくということの代償として返ってくるモノなのだろう、と、ヒカリは考えていた。
だから自分たちは、あの世界の終わりからも生きてきたのだと。
「あ、やばいな、そろそろ行くよ。もうすぐレイの今日の検診が終わる時間だから。ごめ
んね、ゆっくり出来なくて。ケンスケも、ヒカリも頑張って。あ、トウジ帰ってきたら、
また来るって言っておいて。」
シンジは店の掛け時計を確認しながら、そう言って立ち上がった。
ポケットから小銭を取り出してカウンターに置く。
「OK。レイちゃんに宜しくね。」
ヒカリはそう言って片目をつぶって答えた。
「あ、シンジ、少し話があるんだけど、明日空いてる?」
ケンスケが立ち上がって出ていこうとするシンジの背中にそう声をかけた。
膝の上の明日菜はすっかりまどろみの向こうに落ち込んで、こっくりこっくりと船をこ
いでいる。
「いいよ、明日もレイは検診だから昼は空いてる。今じゃ駄目なの?」
シンジは足を止め、振り向きながら答えた。
「うん、まぁ明日の方が良いな。また時間とか連絡入れるよ、今日は家居るだろ?」
「うーん、わかんないな。今日はレイと外で食事する約束してるから。携帯入れてよ。そ
っちの方が確実だし。」
「わかった、じゃ、後で連絡入れるよ。」
シンジはケンスケに軽く手を振って、入ってきたときと同じようにカランと扉を開いて、
ゆっくりと店の外に出た。
日が落ちた店の外の空気は少しだけ軽かったが、それでも十分に夏の重さを感じさせる
モノだった。シンジはもう一度今度は腕時計で時間を確認した後、小走りでその中を駆け
ていった。
この国にはまだ、夏以外の季節はない。