返事はない。
儚い希望を裏切る、静寂。
病室で穏やかに眠り続けるアスカ。
あの頃の危うげな表情ではなく、健康そのもので。
でも、その腕には幾本ものチューブがつながっていて、彼女の命を支えている。
ここに横たわるのは、ただの肉体。
アスカの、心が戻らぬ限りは。
ベットの側に腰掛けて、そっと見つめている。
仕事が始まるまでの、僕の日課。
部屋の空気が濁っているようで、窓を開けた。相変わらず、外はどんよりしていて、朝
だというのに小鳥のさえずりさえ、耳にできない。
雨が降れば、粉塵を含んだ灰色の水。雪が降れば、死の景色。それは自然が選んだ、身
を護る凶器・・・。
湿気を含んだ風が、僅かに部屋に流れ込んだ。
嫌な風だ。
窓を閉じ、アスカの側に腰掛けた。
風の為か、前髪が顔に掛かっている。
それをそっと梳る。昔と変わらない、綺麗な髪だった。
アスカは、3年たって、いっそう美しくなった。
驚くほど長い、睫。愛らしい、唇。
造形美ではない、あくまで自然な美しさ。
視界がぼやける。涙が一粒、こぼれた。
僕はアスカを見つめるだけで、涙を流す、弱い人間になってしまった。
その瞳が開かれたときも、僕はやっぱり泣いてしまうのかな・・・。
でも。
このまま目覚めないほうが、ひょっとしたら、アスカにとっては幸せかもしれない。
辛いことばかりの世界。苦しむだけの世界なら、せめて夢の中だけでも―――。
「・・・アスカ。僕は待っているから。」
「・・・いつまでも、寝ていていいんだよ。」
もうこんな時間。そろそろ仕事に行かなくちゃ。
アスカに別れを告げ、病室を後にした。
CRWの建物は、この病院のすぐ隣にある。
というより、CRWを中心とした都市が形成されつつあった。
これでも3年前より、だいぶマシになった方だ。あの頃は、崩れかかったビル、ひび割
れた道路が視界の限り続いていて。
辛うじて残った建物に、寄り添うように人々が暮らしていた。
それからCRWの発足で、食料の配給制が始まり、徐々に人が集まってきたんだ。
両親を失った子どもたちの為に、施設が作られ。
僕は今、そこで働いている。仕事は大変で、精神的にも辛いものだったが、何もしなけ
れば、頭がどうにかなりそうだった。
それに、やはり一人は寂しい。子ども達の側にいてやりたいとも思っている。
子どもは嫌いじゃないし、彼らに尽くすことで、幾分罪の意識が軽くなるのは感じてい
る。
でも、彼らの両親を、安息の日々を奪ったのは、僕なのだ。
「シンジ、ちょっといいかな」
そういって僕の前に現れた、ケンスケ。
カメラを首から下げ、メモ帳を手にしたケンスケは、すっかり記者姿。
CRWの広報、新聞記事の取材者として、たびたび僕を訪れる。
今のCRWの収入を陰で支える、「週間CRW」の記者として、彼は働いていた。
「子供たちの表情、ずいぶん変わったな。ここに連れてこられた時は、みんな泣いてば
かりで手も付けられなかったのに、今じゃどうだ。生き生きとして、こっちまで明るくな
れそうだよ。シンジは保夫さんが天職だったんだ」
そう言って、にかーっと、笑った。
僕はケンスケに、ずいぶん救われている。誰とも話したくない時でも、さりげないケン
スケの口調は僕を気遣うでもなく、かといってとげを含んでいる訳でもなくて。
思ってることを素直に話せるんだ。
そんなケンスケには、やっぱり記者が適職だと、僕は思っている。
「そうかな・・・。でも、僕もやっぱり子どもの笑顔を見るのは好きだよ。こんな荒れ
果てた世界を、少しの間だけでも忘れて、純粋に育ってくれれば、これ以上の幸せはない
と思うよ」
「そう、それそれ。今日は、子供たちの笑顔を撮りに来たんだ」
カメラを構えて、きょろきょろしてる。やっぱり、変わってないな。
「子供たちも喜ぶと思うよ。写真を撮ってもらえるなんて、滅多にないからね。でもカ
メラを壊されないように気を付けて」
早速ケンスケを連れて、子供たちの暮らす部屋へ連れていった。
ここには現在、3歳から10歳までの子供たち、100人程が暮らしている。
僕の担当は3、4歳の子供たち。
始めの頃は、何をしたら良いのかわからなかった。僕自身子どもだったし、何より内向
的で自分のことで精一杯だった。
子どもは、信頼出来る人間を見抜く能力が凄い。というか、本能なのか。
こちらが心を開かなければ、向こうも僕に近寄って来なかった。
それでも今は、絵本を書いてやったり、食事を作ってやったりしている。
小さい子どもに慕われるのは、心地よかった。
保夫さんが適職というのも、あながち間違ってはいないかもしれないな。
僕を待ってる子供たち。こそばゆい気もするけど、これも一つの幸せなのかもしれない。
ふとアスカの顔を思い出し、憂鬱。
こんな顔は見せられない。しっかりしなきゃ。
「みんな、今日はいいことがあるんだ」
それまで騒いでいた子どもたちの視線が、ふとケンスケに注がれる。
妙に照れてるケンスケが、さっとカメラを構えた。
と同時に、きゃー、とか、撮って撮ってぇ〜、とか騒ぎだす。もうケンスケは囲まれて
いた・・・。
しばらくバシャバシャ写真を撮ってたケンスケは、息を切らせて、
「シ、シンジ、俺もう帰るよ〜。こんな手強いとは思わなかった」
「うん。じゃあ・・・トウジと洞木さんにもよろしく」
「ああ。またみんなで会えるといいな」
「・・・うん。でも、みんな忙しいからね」
「シンジがいつまでもそんなだと、逆にトウジを傷つけることになる。お前は優しすぎ
るところがあるからな・・・うわぁ!」
見れば元気の良い、ガキ大将がケンスケの背中に張りついてカメラを奪おうと懸命にな
っていた。
「こら、やめなさい、ほら、離れて!」
その男の子は僕が抱きかかえるとおとなしくなって、
「・・・あのカメラ、うちの父ちゃんのだ」
―――純粋な言葉が、僕の心に突き刺さる
「あのね、リョウタ君。あの人はちゃんと働いたお金で、あのカメラを買ったんだよ。
君のお父さんも、きっと同じ種類のカメラをもってたんだね」
そういうと、それきり何も言わなくなってしまった。
ゴメンね。そのお父さんも、きっと僕のせいで・・・。
「ほら、写真を撮ってくれるっていうから、笑って笑って」
ケンスケは僕と男の子とのツーショットをカメラに収めて、じゃな、といって帰ってい
った。
「よかったねぇ、みんな写真を撮ってもらって。じゃあ、席につきましょう」
はーい、という合唱のあと、子供たちはおとなしく席につく。
そしてまた、いつものように、罪の告白のような日常が始まる―――。