好きな人が出来た。
この年――26歳になって初恋というものらしい。



CREATORS GUILD 3周年記念
好きな人
書いた人 中川 淳



その人の名は、南さん。
去年までは同じ課――営業一課に勤務していた、僕の先輩に当たる人だ。
新人としてこの課に配属され、右も左も分からずオロオロしていた僕に、南さんは仕事のコツから社会人としてのマナーまで丁寧に教えてくれた。
その時の僕には、南さんは目標となるべき理想の人と思えたし、その気持ちは今でも全く変わっていない。
思えば、その頃の南さんよりも今の僕は年上ということになるのだが、残念ながらどう贔屓目に見ても当時の南さんの足元にも及んでいない。
そんな南さんに、僕は素直に憧れていた。
そしてその気持ちが南さんへの恋愛感情に転化していくのにさほど時間は掛からなかった。

ところが南さんはこの冬、突然秘書課に異動になってしまった。
しかも社長秘書だという。
あの若さで――今年28歳になるはずだ。僕の記憶違いがなければ、だが。――社長秘書に抜擢されたのだから、もう出世は約束されたも同然。
南さんの将来を考えれば喜ぶべき事だ、と思う。
ところが理性と感情が相反する結論を導くことは良くあることで、しかもその場合、大概感情が勝利を収めてしまう。
今回の場合、僕もその例外ではなかった。

南さんはいわゆるキャリア――そんなものが民間企業である我が社にあるのはおかしいと思うかも知れない。もちろん正式な呼称ではないが、旧帝大や某有名私立大出身で本社採用の“エリート”をそう呼んでいる――で、確かに二流私大卒の僕とは釣り合わないかも知れない。
けれど、好きになってしまったものは仕方がない。
蓼食う虫も好きずき、割れ鍋に綴じ蓋、弘法も筆の誤り、猿も木から落ちる・・・と言うではないか。
・・・言ってて虚しくなってくるが。
実際問題、同じ課に勤務していた時は上手くいっていた、と思う。
もちろんそれは恋人としてではなく、同僚、あるいは友人として、という意味だが。

その南さんが異動してからというもの、営業一課は火が消えたように――少なくとも僕の主観では――なってしまった。
ここ営業一課と秘書課とでは建物のフロアも違えば、仕事上もまず関係することはない。
すなわち社内では会うことすら難しい、ということだ。

南さんを密かに――あるいは大っぴらに狙っていた人間は大いに悲しんだ。
狙っていなかった人間――僕の主観では絶対的少数派に属する――も残念がっていた。
南さんは明るく細かいことにも良く気がつく人で、課内のムードメーカーとしての役割も大きかった。
それだけでなく、営業成績が常にNo.1だった南さんを失ったおかげで、課全体としての営業成績も落ち込んでしまった。





そんな南さんと久しぶりに会えるときが来た。
営業一課は主に法人相手の営業を担当している。
その中でも南さんは、特に大企業を相手とした取引が多かった。
異動が突然決まってしまったので、その引継も急いでしなければならない。
南さんの担当のうち大手の企業は、ほとんどがうちの課でも年輩の課長代理や係長に引き継がれたが、どういうわけか一つだけ僕が担当することになった会社があった。
今日はその会社に南さんと一緒に行って、挨拶をする事になったのである。

相手方に会い、南さんに紹介されたとき、相手方の担当者は明らかに落胆し、不満を見せた。
おそらく僕のような“若輩者”に引き継がれるとあって、軽く見られた、と思ったのだろう。
僕としても営業先でのこの様な態度には――残念ながら――慣れてしまっているので、内心はともかく、にこやかに挨拶は出来る。
・・・はずだったのだが、南さんの前ということで気負いすぎてしまったのかも知れない、不満が顔に出てしまったらしい。
しまった。
と思ったときには、間髪をおかず南さんのフォローがあった。
・・・我ながら情けなかった。





この後は南さんのフォローもあって引継は上手くいった。
最後には相手方の担当者とも打ち解けて、笑って挨拶できるようになったのだから、大成功というべきだろう。
この日の僕の予定はこれだけだった。
だから僕はこれで会社に帰るものとばかり思っていた――南さんとならいつまでも仕事をしていたいぐらいだが、南さんが忙しいのは僕もよく知っている。――のだが、折角の機会だから他の営業先も、ということで、南さんが良く知っている他の営業先にも紹介してもらった。
訪れた先々での南さんの評判を聞くと、今更ながら凄い人だと思う。
どの会社に行っても南さんは信頼され、頼りにされていた。
ある会社などでは、南さんが僕のような若いのを連れてきたということで、一騒動起こったぐらいだ。

そんなこともあって、会社に戻る頃には5時を回りすっかり暗くなっていた。
もちろん、都心からさほど遠くないこの界隈では、ネオンサインや街灯で歩くのには不自由しない。
そんな人工的な照明の中を歩きながら、僕は決心した。
当たって砕けるのは僕の趣味ではないが、当たらずして消え去るのはさらに趣味に合わない。
何気なく聞こえる様に祈りながら、横を歩く南さんに声をかけた。

「今晩、食事でもどうですか?」

僕の方を向いた南さんの顔を見ると、明らかに驚いていた。
僕にこんな事を言われるとは思ってもいなかったらしい。

「どういう風の吹き回し?」

ちょっと戯けたような南さんの口振りだった。
僕は出来るだけ平静を装って答えた。

「今日のお礼です」

南さんは僕の顔を少しだけ見て考え込むと、明るく答えた。

「いいけど、どこにする?」
「l’omeletteで7時から。・・・どうですか?」

l’omeletteというのは、会社から歩いて10分ほど、繁華街から少し離れたところにある、洒落た洋食屋だ。
僕は結構お気に入りで、時間があるときにはランチにも行くぐらいだ。
南さんはOK、と軽く言うと、秘書課に戻っていった。










まずいっ、7時を過ぎてる。

僕は夜の道を走っていた。
やはり慣れないことはするもんじゃない。
滅多に着ない服のせいで、着替えに時間がかかるわ、歩きにくいわ、とろくな事がない。
おかげでl’omeletteに着いたときには7時を5分ほど回っていた。

ガラン

入り口の木製の扉を開けると、大きな鈴の音がする。
程良い暗さに包まれた店内は僕の好みだが、人を捜すときには一苦労だ。
キョロキョロと辺りを見回すと、奥の方の席で南さんが手を振っていた。
僕はコートを脱いで手に持つと、急いで駆け寄った。

「済みません、遅れました」

僕は深く頭を下げて謝った。
自分から誘っておいて遅れるとは恥ずかしかった。

「私も今来た・・・」

不意に南さんの声が途切れた。
不審に思って頭を上げると、南さんはしゃべりかけた体勢のまま固まっていた。

「どうかしましたか?」
「あっ・・・いや、別に・・・」

南さんはその場を誤魔化すように、ハハハと軽く笑った。
丁度ウェイターが注文を取りに来たので、軽くコース料理を頼んだ。





料理が来るのを待つ間、南さんはじっと僕のことを見ていた。
“そのつもり”で来たのだが、さすがにじっと見つめられると緊張する。
自分の顔が赤くなっていないかどうか、自信はなかった。

「杉原さん」

不意に南さんの声が聞こえた。

「今日はどうしたの、そんな格好で?」

とうとう訊いてくれた。
飛び上がりたいほど嬉しかったが、なんとか気持ちを落ち着かせて、ゆっくりと答えた。

「似合いませんか?」
「あっ、いや・・・よく似合っているよ」

南さんは普段の姿からは想像も出来ないほど、狼狽えていた。

「ただ、杉原さんのスカート姿なんて初めて見た気がするから・・・」

・・・あなただから、見せたかったんですよ・・・

“わたし”は、心の中で呟いた。


おしまい

 




記念企画の部屋に戻る