第五章「貪婪な無欲さ」

 

 

 弟からの封書が、フィンセントのもとに届いたのは、彼らが王都を出発してか
らわずか五日後のことであった。急げばいくらでも早くできるものである。
「………」
 さすがに、動揺はある。が、「やはり」という気持ちも、彼にはあった。国王
が重態の折りに領国へ帰るなど、通常であれば絶対にありうべきことではない。
自害するほどの陰鬱でもない限り……。
 後悔がある。
 あのとき、帰国するという父を制止していれば、このようなことにはならなか
ったかもしれない。もちろん反対はした。だが「畏れおおい言いぐさだが、まだ
陛下はだいじょうぶだ、それよりもわしのほうが具合がよくない」と言われて、
それを受け入れてしまったのだ。ヘンドリックはフィンセントと異なり、年の大
半を領国で過ごしていた。気候が合わないのだろう、父ももう年なのかな、など
と考えていた自分が恨めしかった。
(こうなると、国王が父に遺したであろう言葉が、いよいよ重要になってくる)
 と、フィンセントは思った。しかも、それはどうやら、自分が考えていたよう
な悠長なものとは、到底思えない。誰かを擁立せよという言葉では、そこまで思
いつめないだろう。いっさい手を出すな、という命令であれば、テュール家にと
っては願ったりである。フィンセントにはまだ想像もつかぬ秘密が、どうやら存
在するようであった。
 彼は思索を止め、その書簡を暖炉に放り込んだ。紙片はみるみる黒く変色し、
細かい火の粉をたててゆく。それを瞳に映えさせながら、フィンセントは従者を
呼ぶ。隣室に控えていた少年が、その主君の許に来て、辿々しく跪いた。
「クレアスか。すまんがヨーストとヒドを呼んでくれ」
 クレアスと呼ばれた少年はうやうやしく一礼すると、部屋を出ていった。しば
らくして二人の重臣が、その部屋に来た。ヒドは部下に稽古をつけていたらしく、
簡素な甲冑を帯びている。ヨーストが進み出て、言った。
「何事でございましょうか。殿下」
「まだ殿下と呼ばれる身分ではない。うかつなことを言うな」
 と、フィンセントは、重臣の無意識の追従には乗らなかった。厳しい顔のまま、
「フォンデル卿とはまだ会えないのか。かれこれ五日になるが」
「は、それがまだ……。ここはやはり若君御自ら宰相府に出府なされてはいかが
かと」
「手ぬるい! 悠長すぎますぞ」
 と言ったのはヒドである。
「何のために、われわれが日頃から武を練っているのですか。足下ら文官がその
ような弱腰だから、朝臣らに足もとを見透かされるのですぞ。宰相どのがそのよ
うな無礼な態度に出るのなら、われわれに覚悟があることを見せてやります」
 ばん、と机を叩く音がした。
「考え違いをするな!」
 フィンセントが平手を、それに叩きつけたのであった。
「公国の武力は、王国と公国の安寧を、ひいてはすべての民を守るためにある。
一個人を恫喝することに用いるなど、卑劣きわまる。そのような愚を犯しては、
当家の威のみならず、卿ら武人の矜持までもが疑われる結果となろう」
「は……、申し訳ありません」
 ヒドは、眼前の新たな主君より年長とはいえ、重臣たちの中では最若年である。
血気にはやりがちだが、自らの失点を認めるのも、また素直であった。
「やむをえん、私自ら行く」
 不満そうな顔をするヒドを見やって、フィンセントは諭すように言う。
「宰相どのに膝を折るわけではない。私が行っても公国の威を汚すことにはなら
んだろうよ。先方がどう思うかはともかくな」
 五日間にわたってヨーストに任せっきりだったのは、フォンデルが妙な勘違い
をするのを多少ならず恐れたからではあるが、それも今となっては無益な思案で
しかなかった。
 翌日、彼は充分な「手土産」を華美な箱に入れ、それを持参して宰相府を訪れ
た。供はクレアス少年一人だけであった。
 フィンセントは、公式の儀典ではともかくとして、日常の外出では、護衛のひ
とりもつけないことが多い。ご質朴な――と他人から言われることも多いが、彼
はべつに質素を旨として生きているわけではない。単に、行動の軽快さをこのむ
だけである。
 さすがにフィンセントみずからの訪問では、門前払いというわけにもいかない
らしい。きわめて鄭重に、彼は宰相府の門内へと通された。
 さほどの時間を経ることなく、宰相フォンデルはフィンセントが待つ部屋に姿
を現した。
「いや、これは公子どのみずからのご訪問、このフォンデル、光栄至極にござい
ますな」
 のっけからのこの軽薄な挨拶に、フィンセントはまったく感動しなかった。
「世辞は結構です。それより宰相閣下、わが家臣を五日間にもわたって門前払い
にした、その理由を承りたいものですな」
 フィンセントの態度は、友好とはほど遠かった。
  フォンデルはひるんだ。いきなりこのように高圧的な態度に出られては、当然
のことだろう。しかも眼前にいるのはただの若者ではない。国公位が約束された
人物なのである。
「い、いや、最近持病の腰痛がひどくなりましてな。ようやっと起きあがれるよ
うになったんで」
 あまりに陳腐な言い訳に、フィンセントは一瞬唖然とし、ついで苦笑した。目
の前にいる人物は、おそらくマールテンと同年輩であろうが、人間としての格、
品性など、全く比べものにならない。
 文官と武官との差違であるとは、思いたくなかった。フィンセント自身もまた、
文治の世界に生きる人間なのだ。
 フォンデルは、卑屈な目つきでフィンセントを見、彼の供である少年が重そう
に抱えている木箱を見た。視線どころか、その老人の所作ひとつひとつが不愉快
であったが、フィンセントはその悪感情を噛み殺して、言った。
「ご存じのとおり、わが父ヘンドリックは、現在病床にふせっており」
「おお、病気とはうかがっておりましたが……。どうかご自愛なされるよう、公
子どのからもお伝えくだされ。私にできることがあれば、微力ながら何でもいた
しますぞ」
 フィンセントが言い終わらないうちに、この軽薄そうな老人は、軽薄な口調で
軽薄なことを言った。
 腹立たしさと侮蔑を隠しながら、フィンセントは続ける。
「このままでは公国の政務も滞り、王臣としての義務も果たせません」
「ほう……?」
 と、途端に用心深げな口調になった。だが、少年が抱えている箱からは視線を
外そうとはしない。
「今さら言うまでもなく、私は公爵家の嫡子です。そこで、父の職権を、私が代
行することを、宰相閣下の権限において認可していただきたい」
 次いで、眼前の宰相にとって重要なことを、彼は言った。
「これは閣下に対する敬意と、国王陛下のご葬儀前にこのようなことを要求する
お詫びの印です。どうかお収めください」
 と、彼は言い、少年に木箱を開けさせた。驚愕するほどのものではない。中に
は黄金が、隙間のないほど詰まっていた。
  上げ底でないことは、持ってみれば分かる。それは老人の手に余るほどの重量
があったのだ。
「かようなことをされては困ります。しかし断るも非礼なれば」
 と一息で言い、老宰相は木箱の蓋を閉じて誰かの名を呼んだ。
 ほとんど間髪入れず、宰相府の下級役人が入室してきた。フォンデルの意を受
け、それを持ち去る。おそらくは執務室かフォンデルの私邸にでも持っていくの
であろう。
「ええ、構いませんとも。フィンセントどのほどの才人が国公職を代行なされる
のなら、ウィレム殿下も、安心して王座につけるというものです」
 ほら来た。とフィンセントは思った。ここからが難関である。
「ほう、やはり次期国王はウィレム殿下に決まりですか」
 と、探りを入れる。
「当然ではござらぬか、かの御方は、亡きグスタフ陛下のご嫡男ですぞ。その即
位に異存を挟むのは、それすなわち不忠の極み、ウェイルボード王国への冒涜で
ござろう」
 まったくよく喋る老人である。この老人は死ぬ間際までこの調子だろうか、と、
縁起でもない想像を、フィンセントはした。
 フィンセントは、その後しばらく、ウィレムが王者としていかに優れた資質を
持っているか、さらにはヘボウ侯アントニーを擁立しようとする神官どもの一派
がどれほど悪逆な不忠者の集まりであるかを、聞かねばならなかった。
 フォンデルにしてみればそれは本心だろうが、他者が聞いたら、どぎついえこ
ひいきと中傷の羅列であった。まあ、直接アントニーの悪口を言わないだけ、彼
にもまだ節度があったのかも知れない。
 その話が佳境にさしかかったところで、フィンセントはようやく言った。いや、
言えた。
「お話、まことにごもっとも。わがテュール家とウェルフェン公国は、殿下が即
位なされた後、なお一層の忠誠を誓うことをお約束いたします」
 話を最後までできなかった不満を表しながらも、フォンデルは頭を下げ、感謝
の言葉を述べた。フィンセントにしてみれば、この老人に感謝されるいわれはな
いのだが。
「ところで、先ほどの職権代行の件ですが、できれば宰相府の正式な書類で、確
約をいただきたい」
 フォンデルは興ざめしたようだったが、なお笑顔を崩さずに、
「ええ、結構です。できるだけ早く公邸にお届けしましょう」
「感謝します。ただ、その使者には荷馬車を使わせた方がよろしいでしょうな」
 いぶかるフォンデルに、フィンセントは魅力的な一言を投げかけた。
「人の手では持ちきれないほどの礼状を用意しますから」
 フォンデルならずとも、多少利に聡い人間ならば、フィンセントの言わんとす
ることが理解できただろう。老宰相の口元からは、今にも涎が出そうであった。
「それでは、今夜にでも」
 会談は、両者に実りあるものとなった。
 フィンセントはその会談を思い起こして、王座を巡る争いに関して言質を与え
なかったことに満足した。
 フォンデルは、テュール家が好意を示したものと解釈し、また、私邸に届くで
あろう莫大な進物に心を躍らせでもしただろうか。
(買いかぶりすぎていた)
 とフィンセントは思った。このていどの男を、である。フィンセントは、王都
にあってはあくまでも公爵家名代にすぎない。むろん、貴族どうしの社交には、
毎日のように声がかかる。彼が大貴族の令息であり、しかも独身だからだ。だが、
公的な立場、たとえば閣僚としての格式なり地位なりをもっているわけではない
から、宮廷のことについてはともかく、国政については、知識以上のものはもっ
ていなかったし、フォンデルやその周囲の人々と個人的な交流があったわけでも
ない。さらにいえば、この宰相について重大な関心をいだいたこともない。
 フィンセントは、安堵した。テュール家にとってあきらかに不利益になる理想
をかかげているはずのこの宰相は、しかし、どうころんでも自分にとっての大敵
にはならないだろう、と。
 夜半近く、フォンデルの使いが、テュール家の公邸にやってきた。公邸の侍従
に伴われてきたその男と、フィンセントは初対面であった。
「宰相閣下のご使者ですかな」
「宰相府文官房長、ラッツェルと申します。王国宰相、ルーデッツ伯フォンデル
卿の代理として、宰相府発行の文書を持って参りました。どうぞお確かめくださ
い」
(この男がラッツェルか)
 と、フィンセントは思った。
 ラッツェルという名は、王国の権力中枢にある者にとって、かなり評判の高い
ものであった。平民出身でありながら宰相府の大官へとのし上がった、王国屈指
の能吏だというのである。ラッツェル自身は、貴族の社交というものに関して、
ほとんど軽蔑に近い感情を抱いており、公式な儀典や職務上の必要以外で人前に
出ることはきわめて少ない。フィンセントはフィンセントで、王都では公的な役
職をもっておらず、他家から招待されて舞踏会やら祝宴やらに出向くことは多い
が、王宮や宰相府にでむくことは希だった。要するにこのふたりは公私をとわず
会ったことはない。いや、あるのかも知れないが、少なくとも言葉を交わすのは
これが初めてである。
 しかし、とフィンセントは思う。
 いくら公爵家への使いとはいえ、このていどの使者に文官房長という大官をよ
こすというフォンデルの神経は、いったい何事であろう。
 だが、そのラッツェルへの関心よりも優先すべき課題が、フィンセントにはあ
った。
 書簡を確認した。まぎれもなく宰相府の公式書類であり、フィンセントが父ヘ
ンドリックの官職をすべて代行することを認める旨、記されていた。
「ああ、たしかに」
 と言って、一度は広げたそれを、再びくるくると丸める。
「確かに承りました。ところでラッツェル卿は、荷馬車でおいでですかな」
「はい、そういう言いつけでござれば」
 と、ラッツェルは答えた。いささか不本意そうではあったが。
「では、少々お待ちください。ただいま荷物を運び込ませますので」
 我ながら、腰が低くなってしまうのが不思議であった。賄賂を送るという行為
は、人間の精神を卑屈にするようであった。
 振り向いて、フィンセントはすでに待機していた従者たちに指示を出す。昼間
にフォンデルに渡したものよりいくらか大きめの木箱が、荷馬車の中に運び込ま
れていく。
 わずかな時間の間に、その作業は終わった。
「これは些少ながら」
 と、使者に一袋の砂金を渡すのも、彼は怠らなかった。
 だが、ラッツェルはそれを固辞した。
「宰相閣下への進物は、公子どのとの間のことですから、私は立ち入ったことは
申しません。ですが、私個人としては、誰に対してもこういったことはお断りし
ておりますので、今さらそれを変えるわけにもいきません。お気持ちだけはいた
だいておきますが、どうか無用に願います」
 ほう、という顔をフィンセントはした。それだけ意外な申し出だったのだ。
 しかしそれだけに、自らの卑屈さを暴かれたような気がして、彼は気が鬱した。
ラッツェルが帰ったあと、彼は玄関先でため息をついた。
 諸侯の盟主であり、一公国の主であり、王国内で最強の武力を誇るテュール家
も、この状況下では誰かれかまわず媚びねば家門を維持できないのだろうか。そ
う考えると、フィンセントは陰鬱になった。やはり生まれながらの貴族である。
計算しての行為とはいえ、耐えがたいものが心中を漂う。
 そう考え、ふと、思い起こした。
 ウェルフェン公国の武威をもってすれば、少々の敵には負けはしないだろう。
朝敵となり、王国の全軍を差し向けられでもしない限り。その最悪の事態を阻止
するために自分は働いている。中立をつらぬき、なおかつ自家を保全するために。
しかし果たしてそれは正しい道なのか。テュール家がヘボウ侯に加担すれば、否、
加担を表明するだけで、私兵を持たないウィレム大公の一派に勝利するのは火を
見るより明らかである。当然、家門も維持され、宰相の野心は瓦解し、国土が血
で染まることもないだろう。いつまでも開祖ノジェール大公の遺言に固執するよ
り、そちらの方が、テュール家にとっても、民にとっても、遥かに有益なのでは
ないだろうか……。
「もってのほか!」
 自分の内面の声を叱りとばすように、フィンセントは叫んだ。周りの従者や衛
兵が、びっくりして、この若者を見る。
 はたと気づき、フィンセントは照れくさそうな顔をして、足早に自室に戻った。
 国公家は、王家に次ぐ存在であり、貴族の中でも別格中の別格である。しかし、
だからこそ国王を決めるような立場に立ってはならないのだ。国王の地位を左右
しうる立場にいるからこそ。王や王族に敵対するとき、それは、王が臣民を裏切
り人心を失ったときか、テュール家に対し無道に害をなそうとしたときだけであ
るべきだ。開祖ノジェールの遺訓、すなわちテュール家の家訓を守らねばならな
い。それを棄てては、テュール家が存在する意義と理由とが、この世から消え失
せてしまう。
 そうフィンセントは考え、さっきの不逞な思いは、一時の気の迷いに過ぎない
と、そう結論づけた。
 しかし、フィンセントの抱いた疑念を、さらに強く感じ、確信にまで至らせた
人物が、この時期少なくとも一人はいた。意外にもそれは国公家内部の人間では
ない。

 王族であった。
 つい先年まで忘れられた存在であったのに、グスタフ王が病臥したとたん、に
わかに脚光を浴び始め、いまや、ウィレム大公に次ぐ王位継承候補者となった人
物。
 先々代の国王、ハンス一世の曾孫にあたる、ヘボウ侯アントニーその人である。
 彼は、自身を擁立しようとする人々を、特に、その首塊であるデリス正教会の
フレスト大主教を、皮肉なことに深く憎悪していた。
 彼は大主教に、つい先日改名を勧められた。アントニーという名は軽薄そうに
聞こえるから、二代国王の名を頂いてヨハンと改名せよ、と言われたのである。
 彼の父ヨーゼフは、病弱ということもあったろうが、王家の嫡流であるにも関
わらず、王宮を省みずに自己の学問と学者の育成に没頭し、王立学院の首席教授
や学士院の顧問などを歴任して、長くもない生を終えた。
 その父を、彼は尊敬していた。自分もそういった生き方をしたい、父と同じく
学問と研究に生きたい、と彼は思い、王立学院を経て学士院に入学したのである。
 ウェイルボードはおそらく、大陸諸国の中でもっとも教会や寺院の権威が薄い
国であろう。だが、それでも学問と宗教は切り離せない関係にある。彼はそこで
大主教と出会い、その教えを受ける身となった。
 と、そこまではいい。
 だが、この青年にとって親戚筋にあたるグスタフ王が危篤に陥ったとたん、大
主教はにわかに彼を煽動し始めたのである。
 現在の王政は寺院や僧を軽視している。そればかりか庶民に信教の自由を与え、
異国の邪教を取り入れることを、奨励はしていないまでも黙認している。これは
神への冒涜であり、ついには国をほろぼすことになるであろう。
 ……というのがフレストの主張であった。
 確かに事実に基づいた意見ではあるのだが、余りにもフレスト個人の主観が強
すぎ、また、魂胆が見えすぎていたので、アントニーは、この僧に対する学術的、
宗教的な尊敬を一気に失った。他宗教をすべて邪教と断じては、神学は成立しな
くなる。宗教に限ったことではない、数多の事象の中から真実を、あるいは真実
にもっとも近いものを探り出すことが学問ではないのか。
 その大主教が、改名せよ、と言ったのである。フレストにしてみれば、動機は
何であれ、何としてもこの不遇な王族を国王の座へつかせようという一心から吐
いた言葉だが、アントニーにとっては、尊敬する父を侮辱されたも同然であった。
 それでなくとも彼は、ちょっとした恋愛関係にある女性から、容易ならぬこと
を聞いていたのである。
 それはまさに、先王グスタフの遺言に関連したことであり、テュール家の事実
上の当主フィンセントが時を遡ってでも聴きたいと願うことだったのだが、そこ
までは彼の知る由もない。
 その彼のもとを、一遍の信書を携えた使者が訪れた。フィンセントからのもの
であった。
 彼はフィンセントの名を知らなかった。
 国公家嫡子であり、王都における国公の代理人の名を、である。つまりそれほ
ど政治的に無知だったのだ。彼の責任ではない。もともと政治に関わるつもりな
ど、彼にはなかったのだ。
 その信書にあるテュールという家名を見て、彼は大主教の言葉を思い起こした。
「あなた様が正統の王位を回復なさるにあたり、最大の脅威となるのはウィレム
大公でも宰相フォンデルでもありませぬ。ウェルフェン公国の主、テュール家こ
そ、疑いなくあなた様にとって真の障壁でございましょう」
 という言葉を。
 彼はそのとき、
「あなた様にとって、ではなく自分にとっての障壁だろうが」
 と内心で冷笑したものである。
 しかしどうか。
 この書面を見る限り、国公家は自分に最大限の忠誠を誓っているようにさえう
かがえるではないか。
 実は彼にはそれが歯がゆい。
(彼らが大公のがわについてくれれば、あの坊主も妙な気を起こさないだろうに。
あるいはいっそ、陛下が言っておられたという言葉通りに……)
 これは、女官からグスタフ王の遺志を伝え聞いたときから、彼が密かに思って
いたことである。
 当初はフレストに対する反発がその土壌となっていたが、この信書を読んでか
ら、その思いは一層強くなったといっていい。
 彼には政治的な知識が欠けていたが、頭脳は学者を志しただけありさすがに明
哲であった。物事の本質を的確に捉え、論理的に分析することができたのである。
しかしそれをより単純化して考えるため、政治という複雑な、ときとして不合理
が合理を覆し、愚が賢を圧する世界においては、彼はまったくの不適格者であっ
た。
 ともあれ、彼は返書を書いた。二通である。
 一通には、フィンセントの国公職をはじめとする各権限の代行を支持する旨を
つたえる、文字通りの返書である。書記官に代筆させ、当然のことながら自分の
署名を入れた。
 もう一通は完全な自筆である。自分一人の密かな愉しみであるから、代筆とい
う手段は用いなかった。
 それには、先述した、フィンセントが最も知りたがっていること、すなわちグ
スタフ王とテュール公ヘンドリックとのやりとりに関連した事項を、伝聞ながら
彼の知っている限りのことを書いた。このあたりが王族育ちゆえ、と言えるだろ
うが、彼にそのような意識はない。
 署名は、当然入れなかった。というのは、この書簡が公になったとき責任を追
及されるのが煩わしかったということと、何よりも正体不明の文書に、フィンセ
ントという人物がどのような対応を見せるのかを、第三者として観察したかった
という理由からである。
 アントニーの二通の書簡は、前者が翌日正式な使者とともに届き、後者はその
日のうちに深夜密かに公邸の庭に投げ込まれた。
 しかし、フィンセントがその怪文書の存在を知ったのは、アントニーからの正
式な使者と会った直後だったので、当然その関連を調べることになった。結果、
アントニーの署名の筆跡と怪文書のそれが酷似していることが分かったので、ア
ントニーの配慮は全くの無駄に終わった。が、公爵家を混乱させるというのが彼
の目的だったのならば、その目的は充分に達せられたというべきだろう。

 公邸が、騒然となった。
 先王グスタフには、国公家に王権を移譲する意思があったということが、その
文書には書かれていたからである。
 運悪く、というべきか、深夜にそれを発見したのが下級の衛兵であったため、
その衛兵は小部隊の隊長をつとめる下級騎士に相談し、下級騎士は彼の直属の上
司である中級騎士に連絡し、中級騎士はさらに、彼らを統括する上級騎士にわけ
を話し、その騎士は、王都における筆頭武官であるヒドにその文書を渡す、とい
う長い経緯がかかった。結局、ヒドからフィンセントにその文書が渡った頃には、
公邸中のすべての武官がその驚くべき内容を知っているという有様であった。
「武官は口が固いものだと思っていたが、どうやら当家は違うらしいな」
 と、フィンセントならずとも皮肉のひとつでも言いたくなるだろう。
「ともかく、このままでは文官の方にも噂がまわるだろう。そうならぬ前に……」
 言い終わらぬうちにベルーラとヨーストが血相を変えて飛び込んできた。
「フィンセントさま……いや、閣下!」
 がっくりと、フィンセントはうなだれた。このふたりの形相を見るに、どうや
らさらに過激な噂を耳にしたらしい。
「ま、まことに畏れおおきことながら、閣下が王位を簒奪なされるなどという不
穏な噂が流れていますぞ」
 案の定である。フィンセントはそのふたりには直接答えず、
「遅かったか」
「遅うございましたな」
 ヒドは、なにやら楽しげである。さもあろう、このような政争の渦中にあって、
否、あるいはノジェール大公以来、公国にとって最大の仮想敵は、誰ひとり口に
は出さないが、ウェイルボード王家なのである。ヒドのように血の熱い人間なら
ば、この噂は言いようもなく痛快なものであろう。
 しかし、事態は痛快ではすまされない。いかにテュール公爵家といえども、単
独で王国軍とことを構えるのは自殺行為に他ならない。宰相フォンデルと大主教
フレストとが反目しあっている以上、王国軍のすべてが敵になることは考えにく
いが、それでも、無用の戦を起こす気には、フィンセントはなれなかった。
 フィンセントは文武の重臣から末端の兵士や小役人に至るまで、陪臣も含めす
べての家臣を徴集して布告を出した。
「現在流布されている怪しげな噂は、ある人物が文書をよこし、意図的に流した
ものである。従って事実無根、単なる虚言に過ぎない。諸卿らはそのようなもの
に惑わされることなく、日常の職務に精励してほしい。また、重ねて言っておく
が、当家の何人も王位などに就く意志はないし、ウェイルボードの臣僚たること
を誇りにしている。今後、このようなくだらぬ噂を流した輩は厳罰に、場合によ
っては極刑に処する」
 フィンセント自らの言葉とあって、さすがに騒ぎは鎮静した。だが、この噂が
外部に流れたらと思うと、気が重いではすまされない。
 すでに、噂の発生源は判明している。
 フィンセントは布告を出すとすぐに、ヘボウ侯アントニーの私邸へと向かった。
ヘボウ家は、王族から派生した家であるため、領土を与えられていない。したが
って家臣の数もごくわずかなため、公邸を持っていなかった。「王族に大権と大
領をあたえないことが、かえって王権を強めることになる」とは二代国王ヨハン
の言葉だが、彼が王権の拡大と強化のみを考えていたわけではないのは、テュー
ル家に対する処遇が父カーレルの死後も、あるいはノジェールの死後もまったく
変わらなかったことをみれば明らかだろう。
 それにしても、なんと多忙な日々か。「何もしないでいるためには、あらゆる
ことをしなければならない」という逆説的な俚諺が彼の頭をよぎった。
 彼を迎えたのは、長身、細身、容姿秀麗という、およそ貴公子としての外見的
な要素を完璧なまでに備えた人物であった。
「フィンセント卿ですか、お会いできて光栄です。お噂はかねがね聞いておりま
すよ」
 と、やはり貴族的な、つまりは空疎な挨拶をその貴公子はした。横柄とはいわ
ないまでも、フィンセントに対して対等以上にものを言えるのは、この国では王
族と、テュール家内の限られた親族だけである。
 フィンセントが応ずる。
「おそれいります、殿下。まったく分に過ぎた噂が流れておりまして、いささか
困惑しておりますよ」
「で、本日は何のご用で?」
 よくも白々しく、と、フィンセントは自制しかねる思いであった。
「容易ならぬ文書が、当公邸に投げ込まれましてな。私どもも非常に迷惑してお
ります。これがその文書ですが」
 と、フィンセントはアントニーにその書簡を見せる。
「ほほう、興味深い内容ですな」
「左様。さらに興味深い事実があるのですが」
「ぜひお聞きしたいですな」
「殿下のご署名の筆跡とこの文書のそれが一致するということです」
 フィンセントはずばりと言った。この繊細そうな苦労知らずの王族が、どれほ
ど狼狽するか、と意地の悪い興味を抱いていたことは否めない。
 が、フィンセントの予想は完全に裏切られた。
「はっはは、もうばれましたか」
「……い、いったいどういうおつもりで、このような文書を送られたのか」
 と、逆にフィンセントが狼狽した。
「しかし事実です」
 大胆にも、この貴公子然とした美貌の若者は、言ってのけたものである。
「何ですと?」
「信頼の置ける人物からの報告ですから、おそらく間違いないでしょう」
 フィンセントは頭を抱えた。このようなことをして、また言って、この王族に
どんな利益があるというのだろうか。もしその噂が真実に変わったらどうするつ
もりか……。
「誰です」
「それは言えませんな」
 実は、利害などはなから考えていない。であるから、フィンセントの政治向き
な思考では、いつまで考えてもアントニーを理解することは不可能であったろう。
フィンセントは、アントニーが王位を欲していると信じ込んでいたのだから。
  アントニーの論理は、つまりこうである。
 このまま王位に就いてフレストの傀儡になるのは耐えられない。かといってウ
ィレム王子が即位して、フォンデルが実権を握るのでは、自分の命が危うい。他
の王族は実力がないうえにろくな後見人をもっていない。では、やはり王家に代
わりうる存在、つまりは国公家から王を出すのがいいのではないか。少なくとも
自分やウィレムが王権を握るよりは、かなりましな政治が行われるのではないだ
ろうか……。
 テュール家嫡男の性格や能力どころか、名前すら知らなかった若者が、よくも
このような大胆な構想を抱くに至ったものである。ただし、これはまったく情緒
的、あるいは直感的な願望であり、事実に基づいた知識を積み重ねた思考の産物
ではない。
 しかし、荒唐無稽なこの構想にも、種子はある。女官から聞いた話がそれであ
った。
 病床のグスタフ王は、自分の死後、王室が分裂して相争うのは耐えられない、
国公を王宮に入れ、テュール家に国政を任せると、国公ヘンドリックとの対面の
前から、うわごとのように繰り返し言っていたという。
 その話を、アントニーはした。批評や感想を加えはしたが、話に誇張や虚偽を
加えることは一切なかった。
 しかし、フィンセントはなおも否定しようとする。相手の話に頷いたが最後、
もっとも貴重な何かが自分の中から消え失せてしまうような気が、彼にはした。
「……残念ながら、殿下、にわかに信じられる話ではありませんな。仮にそれが
事実であるのなら、なぜ殿下の周辺はこうも騒がしくなったのですか。いや、そ
れだけではない。先王がそうお考えだったのなら、わが父や公爵家名代である私
のもとにも、当然そのような話はあったはず。にも関わらず、私は宮中からも、
領国の父からも、そんな話を聞いてはおりませぬぞ」
 とまで言ってから、フィンセントは背に雷を浴びたような衝撃をおぼえた。
 父ヘンドリックは、それを聞いていたのではないか?
 そう考えると、そのあまりにも唐突な自殺にも説明がつく。
 フィンセントが受けた衝撃を知らず、アントニーは話を始めた。
「王位を欲しているのは私にあらず。フレスト大主教とその側近の神官どもです。
彼らは私を王位に据え、教会の忠実な代弁者にしようとしているだけです」
「…………」
「フィンセント卿に話がなかったというのは、おそらく宰相どのか宮廷の者ども
がその言を握りつぶしていたからでしょう。テュール王朝などができては、彼ら
の既得権は消滅するのですから」
(では、ヨーストが宰相に会えなかったのもそのためか)
 と、フィンセントは納得せざるを得ない。いちいち疑問に思っていたことが、
この青年の言うことを聞いていると、ほとんど氷解してしまうのである。
 しかし。
 フィンセントはさらに考える。
 アントニーが何を考えているにせよ、それに従う義務はない。彼が即位しない
限りは。幸い証拠もないことだ。自分は王位などに就く気はないし、ましてや望
みなどしない。
 そう思い切って言おうとしたとき。
「よろしいですよ」
 と、アントニーが不意に言う。意識してではないが、絶妙の間であった。フィ
ンセントには、自分の考えが見透かされたように感じられたことであろう。
「ですが、私などが即位したら、それこそデリス教会の権力のみが肥大化し、各
諸侯の領内にも、寺院の法や税を課するかも知れませんよ。いや、きっとそうな
るでしょうな」
 フィンセントは、驚くという感覚にもう慣れてしまっていた。そして腹が立っ
てきた。この若者は何もしない。しようとすらしない。確かに頭は良いかも知れ
ない、人を焚き付ける能もある。しかし、自分が即位した後のことについて『か
も知れない』だの『そうなるでしょう』とはなにごとか! 傀儡になりたくない
のなら、行動を起こせばいいのだ。自分なら、否、まともな男なら皆そうするだ
ろう。
「殿下、あなたは……」
 と、フィンセントは言いかけ、こみ上げてくる罵詈雑言をぐっと飲み込んだ。
仮にも相手は王族であり、また、本音を言っているのかどうかも分かりはしない。
 必死で声を抑制しながら、
「お話を伺うに、殿下は、ご自分に助勢は必要なしとお考えなのですな」
「まあ、その通りですな」
「それならばご心配なく。わがテュール家は王宮内のことに関しては、ひとつの
例外もなく常に中立を保って参りましたし、これからも同様です」
 フィンセントは立ち上がった。
「今日は、思いのほか興味深い話を聞け、じつに有意義でした。それでは失礼」
 これ以上ここにいると気が狂いそうだ。アントニーという繊弱そうな青年は、
あの老宰相とはまた違った意味で、フィンセントにとって不愉快な存在であった。
 ただ、こちらの方がたちが悪いかも知れない。なぜなら、アントニーは、不愉
快な上に不可解であったのだから。

 フィンセントが、宰相府からの出頭勧告と国許からの急使を受けたのは、とも
にそれから半月後のことであった。
 予想もしなかった形での破局は、もはや目前に迫っていたのだ。
 
 
 
 

 

第六章へ続く

 




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