「もうすぐだ。もうすぐだよ、ユイ」

 男・・・そう遠くない未来、人類の防人たるネルフ総司令になる予定の男、碇ゲンドウは不気味な微笑みをたたえて巨人・・・否、巨竜を見上げながら、そう誰に言うでもなく呟いた。その瞳は竜を、見ているのだろうか。それとも?
 不敵な光をたたえる彼の目は、なにも見ていないのかも知れない。あるいは限りのない絶望の荒野を見ているのか。それくらいに男の目は虚ろで、禍々しく、なにか形容しがたい不吉な光を宿していた。
 余人の知るところではないが、彼の目は何を見ているのか。

「ここにいたのか。もうすぐ・・・」
「ああ、わかってる」

 男の背後から、疲れを隠そうともしない老人の声がかけられた。振り返って確認するまでもなく、ゲンドウには相手が誰かわかった。彼の片腕、冬月コウゾウ。彼と共に地獄に堕ちる覚悟を決めた、ファウスト博士。別の言い方をすれば愚かな道化者。彼がそんな茨の道を歩むのは、ゲンドウさえ知らない絆ゆえだ。
 不機嫌そうな冬月の詰問を柳に風で受け流すと、ゲンドウはほんの僅かに浮かんでいた感情を消し、鋼鉄のような冷たい表情で、共に不気味な唸りの響く部屋から退室した。
 ため息をつきつつ冬月も後に続く。

 そして誰もいなくなった室内から明かりが消え、扉が閉まる音が重々しく響いた。
 まさにその音こそ、不気味な人形劇の幕開けだった。














METAL BEAST NEON GENESIS

機獣新世紀
エヴァンゾイド



第8話Bパート

SCAPE GOAT



作者.アラン・スミシー










西暦200×年

 碇ユイが表向き死亡したとき、世界は変わった。

 正確に言うと、その後、世の全てに絶望した男が竜の死骸を再発見したときに世界は変わった。男が竜を甦らせようと決意したときに。だが男を責めることができるだろうか。それが本来、彼のいる世界に属する物でないと知らない男を。ただがむしゃらになった盲目の男を。
 道を指し示すべき人物がいなかったことを、後生の人間はどう評価するだろう。
 『もしも』便利な言葉だ。

 しかし、歴史に『もし』はない。
 ただ言えることは一つ。間違いなく、その時、歴史は変わったのだ。
 歴史は本来進むべき道から外れ、違う道に乗り入れたのだ。
 それに気がついた者は誰もいなかった。















「これから、どうなるのか・・・。あいつは、アレでどうやってユイ君を」

 数日の激務に疲れた表情を隠そうともせず、ひとり廊下をとぼとぼと歩きながら冬月は呟いた。声の端々から生気が抜けていっているような、どうにも力のない姿だ。事実、すれ違った職員達は幽鬼でも見たように、一瞬ぎょっとし、ちょっとは休んで欲しいと目で訴えかけている。
 当の冬月はそんな風に見られてるとも知らず、ぶつぶつと独り言を言うのをやめないでいた。内容は断片の羅列だが、最高機密に当たる言葉だ。うっかり他人に聞かれたら、彼であってもゲンドウからどんな目にあわされるか知れた物ではない。
 端から見ると危険な兆候と言える。
 実際の所、独り言であっても言わずにはいれなかった。秘密を誰にも語ることができず、胸の内に秘めたままというのはつらいのだ。自分がその立場になって初めてわかることもある。

(あの童話、ミダス王の髪を刈った床屋の気持ちが良くわかるな)

 自分の想像に冬月は顔を歪めた。

 私が床屋なら、ミダス王はゲンドウか。
 傑作だな。

 とでも思ったのだろう。事実、無理矢理秘密を共有させられた彼にとっては、ゲンドウは暴君ミダスと同じだ。いや、ミダスは後に改心したと言うがゲンドウは改心する余地すらなかった。黄金に変わった姫は黄金のまま。待ち受けた運命はミダス王の方がましだろう。





(まあいいさ。今更この身がどうなろうと。ただ、今日は早く帰られるのはありがたいな)

 とりあえず、MAGIの完成も目前に迫り、開発も一段落したジオフロントは一種弛緩した空気が漂っていた。まあ無理もないと冬月は思う。作業が始まってから、ほとんど不眠不休で働いてきたのだ。中心にいる人間はともかく、作業員達は地上にもうすぐ帰ることが出来ると浮かれるのは至極当然と言えた。
 彼らの全身から滲ませる解放の喜びに、冬月もつられて顔をほころばせかける。
 だが、すぐに山の天気のように冬月の顔が曇った。

 悩みのなさそうな彼らに比べ、これから自分に待ち受ける運命を、そしてそれが引き起こすかも知れないことを思うと陰鬱にもなる。

 彼らの喜びはいつまで続くことやらと、不安が彼の心を苛む。
 別に彼は予言者になったわけではない。
 だが、こんな時の悪い予感はとかくあたる。それはないよと思うくらいに。運命の女神とは、かなり悪質で陰険な神なのだから。漠然とした不安を胸に抱いたまま、冬月は無言でその場を歩み去った。
 当面の小休止に少し浮かれながら。























 胃からこみ上げる酸っぱい物をかみ殺し、冬月は眼下で様々な実験を行っている科学者、職員達を見守っていた。正確に言えば、見ているだけだ。彼が見てるからといって、安全に恙なく事が進行するわけではない。

 それでも、彼らが行っている作業が最悪の結果を生みはしないかと、心配でしょうがない冬月だった。
 もっとも、その考えを表に出すことは決してない。下で作業している人間が聞いたら、激高するだろう。彼らは最高の技術者なのだ。自らの腕を誇りに思っている。
 それでも、決して過小評価してるわけではないが、未知の物を扱っているという不安は拭い去ることができない。
 喩え、世界最高の頭脳集団であったとしても。

 MAGIの調整が一段落し、配置転換してきた赤木ナオコ博士、仮にも日本有数の科学者であるゲンドウがその責任者だ。自分も参加しないかと誘われたが、正直、ただの生物学者でしかない自分が役に立つと思えないため、辞退した。ただ、その現場にフリーパスで入る権利だけは貰ったが。
 竜の解析作業は順調であるとも言えたが、ゲンドウから見たらほとんど進展がないと言っていいだろう。彼の目的は、あくまで復活なのだから。
 竜・・・名無しだと不便なので便宜上、竜、もしくはαと呼ばれているそれは巨大なポッドの中に静かに浮いていた。金属製のくせに浮かぶとは、何でできているのやら。その姿は異様と言うほか無く、剥き出しになった脊髄とそれに繋がる肩胛骨らしき部分、肋骨らしい部分、牙が全て揃ったまがまがしい頭蓋骨だけが揃った出来損ないの姿だった。
 見ようによっては、身を全て刮ぎとられた魚の骨のようにも見えた。少なくとも、竜という呼称よりは特徴を現していると言える。もちろん、こんな巨大な魚は過去も現在もいなかったし、魚が肋骨の内側、心臓のように赤く輝く、脈打つ珠を持っているわけがない。そして頭蓋骨に見られる戦闘機の風防のような部分は生物としてみた場合、あまりにも違和感があった。
 冗談や比喩でなく、本当に戦闘機の風防にしか見えなかったからだ。
 つまり、これは昔の誰かが作った戦闘機の仲間なのか?


(悪い冗談としか思えんな)


 自分の冗談で苦虫を噛みつぶした顔をしつつ、下に続く階段を下りながら、冬月は手を握りしめた。いつの間にかしっとりと汗をかき、ねばねばして気持ち悪い。体温も風邪をひいたみたいに数度上昇しているだろう。
 いつもこうなのだ。竜を目の前にすると。
 ストレスが溜まってしょうがない。
 以前、襲われ殺されかけたときのことがトラウマになっているのかも知れない。
 それにしてはいつも感じる肌寒さは異常とも思えたけれど。

(いずれ労働条件の改善と補償を請求せねばな)

 無理なことはもちろんわかってる。
 頭を振って気を取り直し、改めてそれを見上げるに及び、冬月はゲンドウが何を考えているのかわからなくなった。
 死海文書に何かが書かれていた。いまだ見せて貰ってないが、それは間違いない。内容はこの竜と使徒に関することらしい。それは一応、教えてもらったが、この竜をどうすればユイが取り戻せるというのだろうか。具体的な手段は今だ藪の中だ。
 通常のサルベージ計画が失敗し、自棄になったのかとも思うが、それにしては不敵な自信にあふれていた。

「反応は極めて微弱。エネルギーを摂取する様子もなし。
 ・・・どうすればもっと早いペースで再生するのかしら?」

 すぐ後ろから声が聞こえて冬月は少し驚いた。
 いつのまにか、ナオコがすぐ側まで近づいていたのだ。ナオコは冬月の驚きを無視したまま言葉を続けた。
 独り言のような物だが、近くに冬月がいることで少々勢いづいたようにナオコの口は滑らかになる。話し相手、この場合聞き手だが、いることで調子づいてるのだろう。

「所長はとにかく再生させろと言うんです。でも、エリクサーに浸してると言うのに、竜はほとんど再生する気配はありません。
 冬月先生。先生はどう思われます?」

 わかるわけないだろう。

 そう言いそうになって口をつぐんだ。
 首をすくめながら、ナオコを無視して冬月は竜を見上げた。ナオコに先生と呼ばれると少々面がゆい。なにしろ、自分よりもナオコの方が遙かに世間一般では名の知れた科学者なのだから。自分のように、精々教授になれれば精一杯という存在ではない。

「聞いてます?」
「聞いてない」

 ナオコの目がつり上がるのを視界の角で確認したが、無視した。
 内心の後が怖いかもなと思いながらも、質問に応えないで、冬月はカプセル内部の竜骸を見上げた。
 薄緑色の泡立つエリクサーは強力な栄養剤とのことだが、竜の骸は再生する気配が欠片も見られない。人間なら100人近く完全再生できるくらいの栄養があると言うが・・・。

「再生などさせて、どうするつもりなのかね?」
「さぁ。詳しいことは何もわかりません。使徒の対抗手段にするつもりだとは聞きましたが」


 それは嘘だな。

 ナオコの言葉を聞き、冬月はそう考えた。もちろん、真実も含まれてはいるだろうが、詳しいことは何もわからないと言うのは嘘だろう。彼女はゲンドウの計画を知った上で、これを再生させることに躍起になっているに違いないのだ。
 冬月の目が探るようにナオコを見つめた。茶色のカールがかかった髪の下、その脳細胞にはどんな秘密が隠されているのかと。
 そもそも全然、関係のないナオコがアレを調査する必要がどこにあるのか。





 ナオコがゲンドウの愛人であることは半ば公然の秘密だ。

 逆かも知れないが。

 伝聞だが、そのつきあい方はナオコが一方的にゲンドウに言い寄っているらしい。事実としたら、ゲンドウのどこが良いのかとも思う。蓼食う虫も好き好き。
 案外ゲンドウのように生きることが不器用な人間は、ナオコやユイのように天才肌の女性を引きつけるのかも知れない。そうだとすると、時折、ナオコの目に浮かぶのは、ゲンドウがひたすらにユイに向ける想いへの嫉妬なのか。それとも後悔なのか。冬月にはわからなくなることが良くあった。いや、分かったつもりになることがある、と言う方が正しいだろう。

 まあ、趣味が悪いと思うことが一番多い。


「使徒への対抗手段か。エヴァだけでにあきたらず、こんな得体の知れない物をな」
「得体の知れないのはエヴァも同じだと思いますよ。
 それに使える駒は多い方が良いと思います」
「正論だが、使い物になるのかね。駒どころか、獅子身中の虫ということになりはしないかね?」
「大丈夫ですよ。間違いなく。
 ・・・エリクサーの成分を変えてみようかと思います。金属元素濃度をもっと濃く」

 自尊心を傷つけられたのか、刺すような目で竜を見つめたままナオコは言った。微かにカルテを持つその手が震えている。わかりやすく文章にすると、『爺さんのくせに生意気な事言うんじゃないわ!やってやろうじゃないの!』ってとこだ。
 ナオコのような女性は異様にプライドが高いことを思いだし、冬月は彼女を怒らせたことを少し後悔した。洒落にならん。
 だがその一方でこうも思う。自身に対する絶対の自信、そしてそれに対するあざけりをバネに、糧にして彼女は幾つもの難事をこなしてきた。今回もまたそうだろう。
 仕返しと言うにはいささか度を過ぎたナオコの八つ当たりは勘弁して欲しいと思うが、この女ならきっとやると、確信にも似た思いが彼の心をよぎった。














 数週間後

 冬月の不安に関わらず、ナオコ他、有能なスタッフの手によってα、竜に生命反応が現れた。最初は電磁波測定器に反応があらわれ、ついで備え付けてあった各種センサーに微弱な反応があらわれたのだ。
 モニターに映し出される、活性化してエネルギーを吸収し始めたコアは、不気味に脈動し、石でできた心臓のような姿を人前にさらけ出していた。それを見守るスタッフの中にはナオコ達だけでなく、最近ネルフの一員となったナオコの娘、リツコの姿もあった。
 まだ何も知らない無垢なリツコの姿が。




 活性化の確認。
 それは竜の復活に向けて、大いなる躍進だった。
 ではあったが、極秘のプロジェクト、ゲヒルンの上部組織であるゼーレにも秘密 ーーー もっとも、ばれているだろうが ーーー で行われたプロジェクトであるため、ごくひっそりとしたお披露目が行われた。結構派手好きのナオコは不満を口にしたが、ゲンドウに逆らう気はなかったので結局引き下がるという、若干のトラブルはあったが、お披露目は順調に進んでいると言えた。

 それに先立ち、ゲヒルン所長、いやMAGIの完成と共にゲヒルンからネルフへと変わった新組織司令ゲンドウ、そして副司令となった冬月がコアだけだが甦った竜、αと再会することとなった。


(こんな姿だったんだな)


 内心、周囲の喜びを白々しいと思いつつ、冬月は感嘆の声を漏らした。骨だけの状態とはいえ、ぐでっと床に寝ころんでいるのとは何もかもが違いすぎる。
 竜の威容に息を飲みつつ冬月は巨体を見上げた。
 エリクサーの入ったカプセルから出され、とりあえず鉄骨で作られた土台の上に固定された竜の姿は恐ろしく、動かないと分かっていても近くに寄ろうという気すら起きない。さながら張り付けにされたトカゲ頭の魚の稚魚という外観だ。手足が泣く、頭でっかちなところはそっくりだろう。
 特に異様なのは胸部だ。胸に大きな赤く輝く球がある。

(手足があっても無くても、気味悪い姿だ)

 少なくとも、冬月は金を積まれても50m以内に寄ることも嫌だと思う。


 足下から頭の高さまでおよそ40m前後。ただし、尻尾から頭の先までは80m近い。信じがたい大きさだ。これで全身が再生したらどうなるのだろう?
 記憶に残る竜の腕は、トカゲに似た全体からは想像もつかないくらいに大きく、しっかりしていた。指の数は三本だったと思うが、物をつかめるように、向かい合った親指と言うべき指があったことを覚えている。それは、この竜が見た目通りの愚鈍な存在ではないことを示す証拠と言えた。
 その推定1000トン近い体重を支えるのは、油圧パイプにも似た内骨格?…疑問符がつくのは、露出して外から肉視できる部分があるからだ…そしてその周囲を取り囲む金属細胞、おそらく筋肉に相当する部分だろう。わずかに残された石化した残骸からの推測らしい。
 調査結果によれば、見た目に反してその比重は人間の筋肉とあまり変わらず、代わりに張力、強度が数百倍から、数千倍にも達するとのことだった。科学的にこんなデカブツが存在できるわけ無いという意見も、この事実を前には沈黙するしかない。ご丁寧なことに、筋肉の外側から外骨格とでも言うべき装甲が全身を覆っていた。つまり、内側と外側からがっちりと全身を支えているというわけだ。巨大な体を支えるに当たり、まさに理想的な構造と言える。
 もっとも、それらはいずれも石化して消失している。
 夢の人工筋肉開発はいつの日になる事やら。

 唯一と言っていいほど残っている物として、何の役に立つのかわからないが、幾つもの背ビレが背中から尾の先まで並んでいた。

 ふと、冬月は竜の姿が何に似ているのかを思い出した。
 少年の頃、格好いいと思っていた映画の怪獣そのものだ。ただし、元号が変わってからの物でなく、それ以前の物だ。
 少年の時、憧れた存在。
 なぜか冬月は、竜を格好いいと肯定的に考えることができなかった。
 あの時のように、心が高ぶらない。












「本当に活性化させるとはな。大したものだ」

 お披露目が終わったあと、素っ気ない作りの所長室で、部分的に金属細胞が復活した竜に関する報告書を見ながら冬月はぬるいお茶を飲み干した。いわゆる市販品のお茶だからさして旨いとも思わない。ただ渋いのか、報告書の内容が気に入らないのか、それともお茶を入れたのがゲンドウだからか苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
 お茶に罪は無かろうに。
 冬月の言葉に、同じように報告書に目を通していた尊大な態度の男、碇ゲンドウがニヤリと渋面を崩す。

「どうかな。時が来たから、勝手に動き出しただけかもしれん。
 まあ、彼女も多少は役に立つと言うことだ。MAGIができたからとすぐ用済みにしなくて良かったか」

(その分、縁が切りにくくなったのではないか?)

 お前の計画には不都合だろう。

 そう茶化そうかとも思ったが、あまりにも子供みたいなので冬月は直前でその言葉を呑み込んだ。
 どうせ友達のいないゲンドウのことだ、ニヤリと意味ありげな笑いを浮かべるだけなのだから。実際、意味があるのかどうかははなはだ疑問の。
 時々思うが、こいつ、意味ありげな笑いを浮かべてるだけで、実際は何も考えていないんじゃないだろうか、と。

 非生産的な思考を早々と打ち切り、冬月は代わりにナオコの報告書にある小さな情報、謎の甲殻生物ジオシュリンプスに関することを目で読んでいた。要約してあるが簡単に言うと、ジオシュリンプスはあの竜の金属細胞に汚染された、既知の生物が独自に進化を遂げた物らしい。すなわち、形こそ小さいがジオシュリンプスは竜の分身みたいなモノなのだ。
 それだけわかれば、後は竜をどのような環境下に置けばいいかはすぐにわかったと報告書には記されていた。


 ・・・それにしても竜の再生の度合は遅い気もする。
 本当に、ただ動いているにすぎないのではないか?

 既に限界に来ているからか、それとも何かが足らないのか。大きさに反比例するのか。
 それともまだ自分の知らない秘密がたくさんある?
 少しはゲンドウを揺さぶってみるかと思った冬月は、できるかぎり鋭い視線を彼に向けた。

「だが再生したからどうなるんだ?
 これからオタマジャクシのように手足が生えるのか?
 あれが自分で立ち上がったからと言って、役に立つとも思えんぞ」
「再生させることはまだ第一段階だ。それが済んだら次の段階に移るだけさ」
「次の?」
「ああ。頭部の遮光板らしき部分だ。戦闘機のそれによく似たあれだ。あれをこじ開ける。
 おそらく、そこに完全再生させる鍵が隠されているはずだ」
「開くのかね?」

 危険な臭いを感じ、報告書を机に置きながら冬月は探るようにゲンドウを睨んだ。こういう勘ばかり鋭くなる。
 ゲンドウは笑って答える。

「開くさ。死海文書に嘘がなければな」

 死海文書を盲信するのはどうかと冬月は思う。それは狂信的な一神教の考えと同じだ。
 ゲンドウの顔に浮かんだのは、血糊のように粘ついた笑みだ。
 痰が喉に絡んだように顔を歪め、冬月は視線をそらした。
 見ていられない。ゲンドウが、どこか人間外の生き物になってしまったように見えた。それほどにゲンドウの笑みは幽鬼めいていた。



(死海文書、全ての元凶とも言える物。お前もそれに取り憑かれたか)

 ゲンドウが既に彼の知っている人間とは違う人間になってしまったことを確信し、冬月は今は亡き教え子に対する想いと共に複雑な思いを感じていた。
 一度、死海文書を自分の目できっちりと見たい欲望を抑えつつ、冬月は所長室を後にした。


























 さらに数日後。
 再び、竜が固定されている特殊作業場、後に格納ケージと呼ばれることになる場所にゲンドウ、ナオコ、冬月の姿があった。彼らの眼前には、エリクサーで満たされた培養槽から出され、全身に計測用チューブを取り付けられ置物のように身動きしない竜の姿があった。

「つまり?要点だけ言ってくれ」

 電信柱のようにまっすぐに立ち、両手を後ろ手に組んだゲンドウは苛立たしげに声を張り上げた。直後、自分の焦りをさらけ出したことに気がついて誤魔化すように眼鏡のずれを直す。
 ナオコはここ数日間のねぎらいの言葉一つないゲンドウに失望と怒りを感じつつも、成果が出なかったことは事実なので唇を噛んだ。隈ができ、鷹のように鋭くなった目で睨みつつも、ここ数日の実験、調査結果を報告する。

「遮光板と本体との間には隙間が全くなく、またとっかかりもありません。部分的に壊して開けようとしたのですが、極めて強靱で小さな傷一つつけることが出来ず、僅かに付いた傷もすぐに再生してしまいました。あの下に目、それから何か質量を持った物があることがわかっているのですが」
「とどのつまり、開けられなかったと言うことか。
 それはまあ良い。起動方法はわかったかね」

 片手をあげてナオコを制するとゲンドウは大げさに息を吸い、吐いた。
 態度だけで失望をここまで表せる物だろうか。他人事ながら冬月はむくわれないナオコに同情した。

「いいえ。様々なアプローチを試みたのですが、反応はありませんでした」
「ふん。なぜだ?」

 それがわかれば私達は必要ない!

 わめき散らしたくなったが、そんなことをしてもゲンドウは、彼女の年下の愛人は僅かに眉をひそめるだけで微動だにしないだろう。余計なストレスを感じ、化粧の下の顔色を悪くしながらナオコは言葉を続けた。


「推測の段階ですが、鍵がないからかと」
「鍵だと?」
「あくまで便宜上鍵と言うだけですが、きっかけが必要なのだと思われます。ポンプから水を引き出すとき、まず呼び水がいるのと同じように」

 ふむ、とゲンドウは頷きつつ口元に皮肉な笑みを浮かべた。
 鍵のために鍵がいるとは何とも奇妙な話だ。
 ナオコの報告がわかっていたとでも言うように、怒るでもなく、不機嫌になるでもない。
 彼には心当たりがある。鍵に最も適してるだろう存在の。

 きっかけとはなにか、推論であろうがそれを聞こうともせず、世界に自分しかいないかの様にただ立ちつくしていた。答えは既に彼の頭の中にある。
 そして、ぽつりと、ゲンドウは誰にも聞こえない大きさの声で呟いた。

「やはり必要なのだな。・・・・・が。
 エヴァと同じだ」

























 更に数週間後

 ひとりぼっちのはずの少年が、その時に限って一人ではなかった。無論、いつもと同じく、周囲に隠れて幾人もの人間が彼を見守っていたけれど。
 ただ、今日は様子が少し違った。公園の隅の木の下で、あるいは誰もいない砂場でぼんやり過ごすことが日課の少年のそばに、一人の男がいた。
 少年は幾度も瞬きを繰り返していた。太陽が眩しいわけでなく、目に映る光景が信じられないのだ。
 彼の、まだ無垢な瞳は一人の男の姿をハッキリと映しだしていた。幻ではないことを確信し、何かを言おうと、少年の口はぱくぱくと魚のように開いたり閉じたりするが、意味のある言葉は遂に出てこなかった。
 覚悟していたはずなのに。
 だけどずっと、ずっと言おうと決めていた言葉は、空気の振動、音にならなかった。

 それくらい、少年には衝撃が強かった。

 突然目の前に現れたのは、自分を捨てたはずの男だったから。
 二度と会うことはないと思っていた、だが心の底から会いたいと思っていた男・・・。
 かわりに、少年はひゅぅっとかすれるように息を吸い込んだ後、小さな小さな声を漏らした。

「お父さん?」
「久しぶりだな、シンジ」

 男、つまりゲンドウの口元が形容しがたい微妙なゆがみを作る。
 そのわずかな変化を生んだのは怒り、とまどい、あるいは悲しみ。いや、怯えかも知れない。
 おずおずと少年、まだ小学校生にもなっていないシンジは記憶と変わりすぎた男の顔を見上げた。確かに輪郭、目、造作は変わっていない。だが、内面からにじみ出るような苦悩と自己嫌悪、そして妄執としか形容できない気配に怯えた。
 ハッキリ言うと、『人間やめました』と全身で言ってるゲンドウは怖かった。
 怖くて仕方がなかった。
 後ろを向いて、泣き叫びながら息が切れるまで走りたくなるくらいに。
 でも、シンジは逃げない。
 逃げられないと言うこともあったが、ゲンドウは彼の父親なのだから。
 たとえ傍目から絆が切れて無くなったように思えても、真実、深いところでは繋がっているはずの父親だから。

 今彼が逃げたらゲンドウは決定的に人の道を外れてしまう。
 幼くてもわかる。
 打ちひしがれた、気弱な父親の姿を見れば。
 親子なのだから。



(お父さん、お父さん)

 シンジの心が風に散らされる晩春のサクラのように散々に乱れる。

 一体何があったのか。
 無論、筆舌に尽くしがたい何かがあったのだ。

 シンジ自身、それが何かを知っている。細かい部分、意味はよくわかっていないが、母親が、ユイが目の前で悲鳴一つあげず消えていく光景を見たのだから。深海の底で溺れていくように弱々しくもがき、溶けるように消えてしまった母の姿を。
 だからこそシンジは思う。父が自分を捨てた理由がそれなら、今また目の前にいる理由もそれと同じだろう。詳しいことは勿論わからないが、漠然とシンジは悟っていた。

 今父親が目の前にいるのは、きっとその事に関係しているはずだ。
 おずおずと手を握ったり開いたりしながら、なけなしの勇気をかき集めるとシンジは核心をつく一言を漏らした。別に何か根拠があったわけではない。ただ、喉をついて出た。



「おかあさん」



 ぽろりとシンジの口から漏れた言葉がゲンドウの胸を貫いた。
 なんともこの場にそぐわない言葉だが、意外なことにゲンドウはビクリと体を硬直させた。おずおずと、人見知りする子供のようにシンジを見る。
 そんなゲンドウを、苦労の滲んだ、曇りのない瞳が真っ向から見つめ返した。

 むやみに体温が高くなり、シンジの視線に晒されるのが苦しいのかゲンドウはそっぽを向いた。そして場違いに、無自覚にゲンドウはいぶかしんだ。義理の父、つまりユイの父親はシンジにどんな教育をしているんだと。そして何を知っているんだとシンジを恐ろしく感じた。
 とどのつまり、シンジの瞳に耐えられなかったのだ。碇ゲンドウという大人は。恥ずかしくて、切なくてしょうがなくなったのだ。

 諸説はあるかも知れないが、無理もないだろう。
 誰がなんと言おうと、地獄の鬼を、修羅に戦いをやめさせるのは、子供の無垢な瞳なのだから。

 それはゲンドウとて、例外ではない。たとえがむしゃらに修羅の道を行くことを決めたとしても、シンジの存在はユイのことを、彼女の願いを思い出させる。その事実はゲンドウという蜘蛛には蜂の毒よりも強烈だった。
 陥落寸前の心を鋼鉄で覆い、頑固な意志の力で、決してその事を表には出さないが。
 代わりに照れ隠しでもするかのように、かえって怒ったような視線をじっとシンジに注いでそれ以上の言葉を制した。もちろん、すぐに自分にはそんなことをする資格がないことを思いだし、ペースが乱されたことを感じつつ、これまで以上に厳つい顔面に、無表情という仮面をかぶった。


「ユイが・・・いや、ユイは死んだ」


 涙が溢れそうな目をきつく閉じ、シンジはダダをこねるように頭を振った。

「死んでない。お母さんは、お母さんは」
「お前も知っているはずだ。ユイはあのとき、死んだんだ。認めたくないのはわかる。
 だが、シンジ。逃げてはいかん」
「だって、あの時、お母さんは、笑って」

 すでにしてこの言葉は10に満たない少年の言葉ではない。ゲンドウが変わってしまったのと同じく、シンジもまた年齢相応の少年ではいられなかった。
 ゲンドウとユイ、2人の息子として生まれた彼は、決して普通ではいられない宿命を持っているのだから。

 シンジの血を吐くような叫びに、ゲンドウは言いかけていたセリフを忘れてしまった。
 離れていても、親子で考えていたことが同じだったことに、息をすることも忘れてしまう。
 誰もいない公園の中、太陽の光が暖かく照らす中、しばらく見つめ合っていた2人だったが、やがてゲンドウはため息をつき、視線をシンジとできるだけ同じになるようにしゃがみ込んだ。涙と擦ったことで赤くなったシンジの目に、悲しみと自分自身への不甲斐なさを感じつつ、ゲンドウは不器用に口元を歪めた。

「そうか」
「・・・ううっ」

 笑ったつもりだったのだが、ビクッと後ずさったシンジの様子からして上手くいったとは言い難い。

 少しむっとしたが、怒って時間を無駄にする暇はない。もともとの目的を思い出して、できるかぎり優しい口調で語りかけた。
 あまり時間が残っていないため、少々焦っているのは仕方ないだろう。これ以上の誤魔化しは無理なのだから。直にシンジの祖父、つまりユイの父はゲンドウの企みに気付き、それを邪魔しようとする。

(邪魔をするのなら、すればいい。だが、私は決して屈しない。ユイを取り戻すためにも)

 その為なら、敢えて外道と鬼畜と呼ばれよう!

 本来外道と呼ばれるべきは、ユイであり、その祖父であり、彼の属する組織であったとしても。

 ゲンドウの両手がゆっくりと、おっかなびっくりシンジを抱きしめる。少し震え・・・そしてしっかりとシンジの小さな腕もゲンドウにしがみついた。

「そうだな。ユイは生きてる。
 シンジ・・・・・ユイを、助けよう。あの牢獄から。
 手伝ってくれるな?」














 既に日も暮れ、週末と言うこともあって誰もいないはずの竜の安置所に、人目を忍んでごそごそと動く幾つかの影があった。もちろん、いくら週末と言っても人気が無くなるはずのない場所なのだが、何故かその日に限って全くの人の気配がなかった。

 異常とも言える事態なのに、二つの影は静かに、ゆっくりと竜に向かって近づいていく。
 大きな影が一つ、小さな、子供のように小さな影が一つ。


「・・・大きいね。お父さん、なにこれ?」
「ユイを助ける切り札だ」
「切り札?」
「・・・ユイを助けるのに、絶対必要な道具だよ」


 言うまでもなく、二つの影の正体はシンジとゲンドウだった。
 おっかなびっくりと、はりつけ、あるいは昆虫標本のように壁にぶら下げられた竜を見るシンジの目は、鈍く光るコアに釘付けだった。何とも言えない恐怖感を感じ、ブルブルと体の芯から体を振るわせる。空調が作動して、快適な気温になってはいるが、言いしれぬ寒気が彼の全身を覆った。
 その一方、不思議な親しみ、あるいは友情にも似た馴れ馴れしさも感じていた。
 敵意、親しみという二律背反した意識の放射に卒倒しそうになりながらも、ぎゅっとゲンドウの服の裾にしがみついてシンジは耐えた。

 ゲンドウはシンジが感じている意識の放射がまるでわかっていないのか、単に竜の姿にシンジが怯えているのだろうと判断し、怯えて動きが鈍くなったシンジに不満げに見ていた。
 場違いな怒りを息子に向けるゲンドウ。おどろおどろとした油の浮いた目は色眼鏡越しでもわかり、かえって竜以上にシンジは怯えていた。

 怪獣より怖がられているという失礼な事実に、興奮で目的物以外の事柄に盲目になったゲンドウは気付かない。気付こうとしない。気付いたところで気にしない。

 急がなくてはならないのだ。
 シンジが居なくなったこと、最後に確認されたときゲンドウと一緒にいたことは既に碇家の人間は知っているはずだ。そしてゲンドウの最近の風評を考え、最悪の事態を想像しているに相違ない。今頃、地上にまで来ているかも知れない。もう時間はない。

「だが、いくら彼らでもここを知るには時間がかかるはず。それまでに作業を終わらせなければ」

 楽観的な考えで、あと30分くらいは時間が稼げるだろう。
 電源を切断して、作業ができないようにたくらむ可能性もあるが、幸い自家発電設備が完備されている。ここら辺、彼は抜かりがなかった。


ドカン!

 その時、彼らの背後で重々しい打撃音が響いた。
 たった一つの出入り口である、巨大な金属の扉を誰かが殴打したのだ。ゲンドウの予想を遙かに超える早さで追っ手がここまで来たのだろう。雇われた警備員達の制止では、一時的な時間稼ぎにもならなかったらしい。
 もちろん、ゲンドウは役に立つとは思っていなかったが。

(忌々しい)

 ユイの父、臆病者の執着に舌打ちをしつつ、ゲンドウは扉の様子を見た。叩く音、向こうで何かを言ってるらしいくぐもった音がするが、今のところ開く様子は見られない。MAGIにハッキングして開けようとしても無駄だ。こっち側から楔やらなんやらでつっかえを入れて、なおかつ開閉装置を物理的に壊しているのだから当然だ。
 強力なレーザートーチで扉を焼き切るにしても、特別製のこの扉は簡単に穴が開かない。

「ふっ、あの扉を破るまでに最低でも10分はかかる。それだけあれば」

 それだけあれば充分だ。
 ユイは取り戻せる。取り返すことができる。

 ユイが死んだことで灰色になった世界に色を取り戻せる。もう、色眼鏡越しに世界を見ることもなくなる。
 たとえ世界の半分が滅んだ原因の女だとしても、ユイは、彼には絶対必要な女性なのだ。
 息子が犠牲になっても取り戻そうと考えるほど。

 無論、ゲンドウはユイが帰ってきたとしても、自分を受け入れることはないことを悟っている。
 シンジを犠牲にしてユイを助けるのだから。
 母親が、普通の親の心を持った人間がこの事実を前に、息子を殺した男を許すだろうか?

(だが、それでもかまわん。ユイがこの世界に帰ってさえ来れば。
 あいつのいない世界など、無くなってもかまわん)

 結果、ユイに殺されることになっても。






 シンジを抱え、足早に竜の周囲に作られたタラップをかけ登りながらゲンドウはちらりと背後の扉に目を向けた。一部を赤く発光させ、火花をまき散らしている。

「一歩遅かったな」

 虚勢を張るようににやりと笑った。
 事実虚勢だ。ユイを取り戻しても、その後に待っているのは避けようのない破滅なのだから。

 高さが恐ろしいのか身じろぎするシンジをしっかりと捕まえながら、ゲンドウはまた階段をかけ登る。鈍く光るコアの元へと。

 休まずにコアの場所、地上20m付近まで登ると、ゲンドウは息を整えつつシンジを軽く顎で促した。既になすべき手順は話してある。あとは、シンジ次第。
 シンジの背中を軽く押し、立入禁止と書かれたプラスチックの鎖をくぐらせる。
 背中に感じるゲンドウの刺すような視線にシンジはビクッとするが、言われたとおり恐る恐る小さな手をコアに向かって差しのばした。
 あと10cmで手が接触するところまで手を伸ばし、恐ろしいのか涙がいっぱいに溜まった目でゲンドウを振り返った。

「・・・お父さん、こわいよ」
「やめるな。お前がそれを、そのコアをユイを取り戻したいと念じながら触れば、ユイを取り戻せるのだ」

 そう、死海文書の記述が正しいのなら、竜を完全に甦らせ、意のままに操るためには、セカンドインパクト以後に生まれた子供がコアに取り込ませなければならない。
 この場合、ユイの息子であるシンジ以外は考えられない。
 さしものゲンドウもこの記述には驚愕し、他の手段はないか、他の子供ではいけないのかと幾度も調べた。

(だが、他の手段などどこにもなかった。
 許せ、シンジ)



 さすがにシンジは躊躇したが、やはり父親の怒りが恐ろしいのか、それとも父親に嫌われたくない一心からか、シンジはゆっくりゆっくりとコアへ手を伸ばし・・・。

 手が、コアに、触れた。





− ドクン −





 ハッとシンジが顔を上げた。
 手の下で、コアが大きく脈打ったように感じて。

 それこそまさに、いたずら好きの運命の神がサイコロを振った瞬間だった。












「おぉぉぉぉ・・・・オギャアアアアァッ!!!」


 その瞬間、死して黄泉の眠りについていたはずの竜の口から、赤子の産声のような叫びが吐き出された。空気はビリビリと震え、振り回した頭が接触した
 光を失い、闇が覆うだけだったその両眼に鈍く、赤い光が灯る。

「なぜだ!?なぜ取り込まない!
 記述に間違いがあったとでも言うのか!?」

 竜が身を捩るのに合わせて、大きく揺れるタラップにしがみつきながらゲンドウは絶叫した。
 予定では、シンジはコアに取り込まれ、シンジの心を持った竜はユイを甦らせるはずなのに!

 だが、竜は悪意に満ち満ちた赤い目で世界を、すべてを舐め回すように見つめていた。中でもゲンドウを哀れな道化のように馬鹿にしきった目で。
 そうこうする内に、竜の身体に変化があらわれた。
 コアの周辺に血管のようなものが幾つも形成され、それは烏賊か蛸の触手のように周囲に伸びていく。壁に、タラップに、計測機器に。ただシンジだけをいたわるように避けながら。
 触手が手近な構造物に取りつくと、竜の体に新たな変化が現れた。脊椎や肋骨の内側の至る所から、青黒い泡が幾つも吹き出し、ぶくぶくと鈍い音をたてつつドンドン大きくなっていく。
 同時に、触手が触れている構造物はその質量を、存在を希薄にしていった。

「周囲の物質を吸収している。と言うより、食っている」

 まさにその通り。
 周囲の物質が少なくなるのに反比例しながら、あぶくはゆっくりとだが確固たる形を持ち始めていた。カビや粘菌が食物を覆うように、鉛色したゲル状の物質が虚ろな骨だけの体を覆い始めていく。
 内蔵らしき物がついに生み出され、肋骨の内側にその身を委ねる。続いて薄い膜状の物が骨ごと内臓の表面を覆い、内臓が動かないようにしっかりと固定した。
 次に筋肉が構成され、胴体の表面を覆っていく。自分が甦っていく事実に、竜はシンジを触手で恭しく守りながら雄叫びをあげた。
 ぎちぎちと気味悪い音をたてながら、肩口から竹が伸びるように骨が姿を現した。
 シンジの救出を諦め、すでにタラップを駆け下りて下から成り行きを見守るゲンドウだけを観客に、それは関節を作り、筋肉をまとわりつかせ、強靱な腕となっていった。同じく、一際太い鉄パイプのような骨が腰から伸び、頑丈極まりない足を形作る。
 ほんの数分の間に、ゲンドウの前には両手両足をほとんど再生させ、自分の足で立ち上がる竜の姿があった。

「なんて再生速度だ。これは、使徒以上か?」


「ぎゃううううっ!!」


 甦る嬉しさにか、それとも神経ができたことで苦痛に耐えられないのか、首を振り回しながら竜はくぐもった悲鳴を漏らした。
 再生は最終段階、皮膚に当たる外部装甲の段階に入っていた。
 どのような機能があるのかわからないサーチライトのような物が形成され、腹部から突き破るように姿を現した。でたらめにパイプを絡み合わせたような体の上を、無骨な鋼鉄の皮膚装甲が覆う。

 そして飛行機の照明のような光が体の至る所で瞬き、竜の体はまだ再生の途中だったが、大きな変化が起こった。
 竜は恐怖の余りなかば失神状態のシンジを、なぜか大事に腕に抱えていたのだが、彼を握りつぶさないように丁寧に持ち直すと、ゆっくりと頭を下げた。平行して手の中のシンジを頭の上へと持ち上げていく。つまり、シンジに対して平伏するような態度と姿勢をとったのだ。

パシュー

 空気が抜けるような音をたてて、硬く閉ざされていた竜の頭部、そこにある風防がひとりで開いた。決して開かなかった扉が。
 ゲンドウの位置からそこに何があるのか見えないが、目と目の間、座席のようになっている部分に、何か黒っぽいゴミのような物があることだけがわかった。それも見ている間に消えてしまった。
 完全に消え去った後、竜はそこに恭しくシンジを納めた。巨大で無骨な腕からは信じられない器用さで。つまり、乱暴に言うなら、自分の眉間にある空洞部分にシンジを放り込んだのだ。
 全ての秘密が隠されているはずのブラックボックスの中へ。





「ふっ、ふふ。そうか、そう言うことか」

 シンジの身に起こった一部始終を見届け、ゲンドウは全てを理解した。
 自分のやろうとしていたことが、全て無駄になったことを。自分は周囲の人間を操り、利用する人形使いのつもりだったがとんでもない。自分こそが操り人形だったことに、ようやっと気がついた。

 つくづく、神は・・・あるいは悪魔という物は悪ふざけが好きなんだと、妙なことを悟った。
 この世界は、全て神の手慰みだ。人間は神の自慰行為の産物に過ぎないのだ。
 ユイを取り戻そうと足掻く自分は、さぞや滑稽に見えただろう。それも自分の子供を犠牲にする姿は。



「ふざけやがって!」

 人間はおもちゃではない!たとえ神に創られた存在だったとしても、神の勝手な都合で滅ぼされて良いわけがない!!
 運命などと、もっともらしい言葉に翻弄されるなんて、まっぴらだ。

「そんなつまらんことで!」

 血の涙を流し、血を吐きながらゲンドウは絶叫した。

 神の形容できないまでの悪意と悪ふざけに、彼はもう狂いそうだった。だが、全てに絶望した破滅論者である、筋金入りの小心者である彼は狂うことができない。それは死よりも辛いことかも知れない。



 充血し、涙で濡れる目をゲンドウは竜に向けた。
 今や完全に再生を終え、シンジという鍵を手に入れて完全なる姿を取り戻した竜もまた、ゲンドウに視線を向ける。

【ありがとう、道化】

 そんな風に言われてるようだ。
 くくっと、笑うように竜の口が歪んだ。耳まで裂けた口の端が微妙に持ち上がる。
 自分の息子を犠牲にしようとしてまで、破壊兵器である自分を甦らせた不遜な男の願いを聞き届けんと、邪悪な期待に胸を満たしながら。
 竜は人類が使徒に対抗するための希望ではなかった。
 もう一つの悪意に過ぎなかった。
 自分が賢いと、世界の全てを知ったと自惚れる人間を罰するための悪意だ。
 そして甦った竜を、悪魔の化身を止める方法など、人間にはない。

 竜はギロリと壁の一角を睨み付けた。その壁の向こうには、エヴァ初号機の素体が眠っている。もちろん、竜の目的は自分を倒す可能性を持ったエヴァの完膚無きまでの破壊だ。

(シンジだけでなく、ユイまでも失うのか)

 このまま、竜が暴れるのを黙ってみていればそうなるだろう。そしてエヴァを壊した後、竜は世界を壊しにかかるだろう。ATフィールドを持った竜を倒すことは不可能に近い。
 今、ここで竜を止めなければ、世界は破滅だ。
 しかし、竜を止める方法があるのか。


 あった。



(たった一つだけ・・・あれを行えば)

 竜は止まるはず。


 しかし、それは恐ろしい方法である。
 恐怖に震え、脱水症状を起こしそうなくらいに汗をかきながら、ゲンドウは竜の頭部を見つめた。涙でも出たのか、ぼやけた目に映る竜の頭部、その風防の下にはシンジが居る。
 自分をあざ笑うように自虐的な笑みを浮かべると、ゲンドウは目を閉じた。
 死ぬことは怖くない。
 ただ、この期に及んでこんなことしかできない自分の愚かさが、無性に腹立たしく感じた。
 今更ながら、息子を巻き込んでしまったことを、それも無駄死にさせたことを悔いたのか、彼は生まれて初めてかも知れない、本心からの謝罪の言葉を漏らした。

「すまなかったな、シンジ」

(世界の為などではない。私にそんなことを考える度胸はない。
 ただ自らの愚かさを償うだけだ)





 両手を広げ、大の字になってゲンドウは叫んだ。

「・・・悪魔め。
 ふん!
 食え!喰うが良い!」


 その叫びを合図に、竜の体は一度伸び上がり、津波が崩れるように大顎がゲンドウに襲いかかった。無数に生えた牙を何億年ぶりかの涎で濡らし、再生したての内蔵で消化せんと期待に打ち震えながら。

「俺を食え!こんな残酷な世界、もうたくさんだ!」

(すまんシンジ。お前を犠牲にしようとし、あげく全てを投げ出し、逃げる私を許してくれ!)







 中の騒ぎに大慌てで扉をこじ開け、開けられた穴から真っ先に飛び込んだ冬月が見たのは、まさに竜に呑み込まれようとする碇ゲンドウの姿だった。



























「い、碇」

 地上から消滅した盟友の最後に冬月は呆然と呟くことしかできなかった。
 数秒前まで、確かに彼がいたはずの所には、地面ごとえぐり取られた巨大な陥没しか見えない。
 まだ何かを言いたそうに口をぱくぱくと動かしたが、それ以上彼は何も言えなかった。彼を突き飛ばすように別の人間が部屋の中に入ってきたのだ。そして彼らもまた、同じように硬直した。

「な、なんだあの化け物は!」

 碇家の人間が、恐怖に震えた声を漏らした。
 シンジを保護するだけの任務だったはずなのに、目の前でこんな化け物が暴れてるのを見れば、出るところをまちがえたかと思っても無理はない。
 逃げ出したい本音を何とか押し隠し、求める人物、シンジを探して部屋中に虚しく目を向けるが、当然ながらシンジの姿を確認することはできない。

「いないぞ」
「まさか、アレに食われ・・・」

 彼らにはそれ以上何も言えなかった。
 恐ろしい予想と、もう一つの理由故に。


 竜が動き出したのだ。
 重々しく足を持ち上げ、金属コンクリートの床にめり込むような勢いで足を踏み下ろし、尻尾をしならせながら彼らがいるのとは反対の壁に向かって。



『おぎゃああああっ!』



 振りかぶり、音速を超える速度で突き出された腕が肘までも壁にめり込んだ。続けて二発、三発と拳を、尾を、頭突きを壁にお見舞いする竜。
 激しい振動に立つこともできず、冬月初めその場にいた人間はみんな転がった。
 壁という壁にヒビが走り始めるに及び、リーダーである男は苦渋の選択をした。

「くっ、退避しろ!
 冬月先生、あなたも退避して下さい!」
「だ、だがアレをほうっておくわけには。それにシンジ君は、碇はどうするつもりだ?」
「もう人間には手に負えません!一時、ここを離脱しないと、みんな死んでしまいます!」

 それだけ言うと、彼らは渋る冬月を捕まえ、格納庫から離脱していった。












 さて、そんなことがあったとはつゆ知らず、竜は相変わらず壁に向かって八つ当たりでもしているかのように攻撃を繰り返していた。鋼鉄の腕がひとたび唸れば、金属の装甲であっても紙同然に引き裂かれていく。
 超高出力の粒子光線に耐えるほど頑丈な壁でも、1000トンを越す化け物の、単純な物理攻撃にいつまでも耐えられるはずもない。数回目の殴打によって、とうとう水飴のようにねじ曲がり、とどめと加えられた最後の体当たりによって防御壁は突破されてしまった。
 轟音と共に竜は壁を突き破り、後に大穴を残すと、再び目の前で重々しく道を遮る別の壁に向かって攻撃を開始した。


『おぎゃああああっ!!』


 血塗られた月のような瞳を赤く輝かせ、竜は絶叫した。



 竜がエヴァ初号機の元にたどり着くのも、時間の問題だった。





















ダンッ!

 皮膚が剥け、血が滲むことにも構わずナオコは右手をコンソールに叩きつけた。
 だが痛みを感じないのか、ナオコは変わらぬ憎悪の目で正面メインスクリーンに写る竜の姿を睨んでいた。
 特殊ベークライト、拘束ワイアー、オゾン(毒ガス)、装甲歩兵の攻撃等、考えられる限りの防御装置で竜の進行を押しとどめようとしたのだが、そのいずれもが効果がなかったのだ。

「忌々しい!」

 深爪することもかまわず、がじがじと親指の爪を噛むナオコ。不機嫌なことは猿でもわかる。
 彼女が不機嫌なのは、ゲンドウが食われたからでなく、寝入り端を叩き起こされたからでもない。
 彼女の考えに考えた防御装置を突破する竜の強さ。そしてその前に無力な自分に不機嫌なのだ。何人もの科学者達がモラルや人間らしい生活を犠牲にして作り上げてきた科学の塔、それをあざ笑うような古代文明の遺産。
 これに不満を持たない科学者がいるだろうか?

 血走った目で竜を睨むナオコを、不安そうにリツコは見守る。
 神経質になった母親が落ち着くような、何か気の利いたことを言いたかったが、混乱した頭には何も浮かんでこない。



「万策尽きたか」

 装甲歩兵のロケット攻撃を物ともせずに突き進む竜に、ナオコの横で成り行きを見守っていた冬月が疲れ切った声を漏らした。正直、攻撃力が異常突出した現在において攻撃が一切通用しない存在がいるなど、信じられることではない。

「死者は・・・幸いまだいないようだな。ナオコ君、どうするかね?」

 気怠げに冬月は言った。
 もちろん、ゲンドウのことは敢えて死者の列に数えなかった。
 大嫌いな奴ではあるが、冬月は彼に生きていて欲しかった。これは願望だ。
 ゲンドウによって引きずり込まれた彼である。彼が死んだ今、一気に目的も何も見失ったかのようにその姿は薄く、力がない。
 こんな時に頼るな!と心の中で罵声を浴びせると、ナオコは端末を操作して情報を集めているリツコに向き直った。

「・・・リツコ」
「なに、母さん?」
「竜の、αの目的はなんだと思う?」

 唐突な母の質問にリツコは少し考え込む。
 母が疑問を持ったように、竜の行動は不可解だ。
 人間を襲うわけでもない。
 闇雲な破壊行為をしているわけでもない。生物であるかどうか疑問は残るが、その行動は生物の行動原理から逸脱している。
 ただ一つの情報、その進行方向から推測されることは・・・。


「エヴァの素体」
「でしょうね」
「食べる気なのかしら?」


 恐る恐る推測を述べるリツコ。
 あまり想像したくない絵だ。食いではありそうだが。

「可能性はあるわ。でも私が思うに食べるんじゃないと思う。
 いえ、結果として食べるかも知れないけど、αの目的はエヴァの破壊にあると思うわ」

(食べるんならゲンドウ君と同じく、逃げ遅れた職員を食べてるはずだし)

 と心の中で付け加える。


「エヴァの破壊?」
「ええ。ゲンドウ君のスタッフが解読した死海文書の記述。正しいのならあの竜は使徒と天敵同士らしいのよ。つまり、天敵が目覚める前に先に潰してしまおうと考えてるんじゃないかしら」

 なるほど・・・。
 ナオコの推論は納得するに充分な根拠があった。
 眠気のすっ飛んだ目で、リツコは何度も頷いた。久しぶりに見る科学者としての母の姿は、やはり尊敬に値する。
 いつの間にか2人の世界を創っている赤木親子を、不安そうに冬月は見た。
 基本的に戦闘に類することは素人な彼だから、横から口を挟むこともできない。ただ、竜が最後の装甲板を突破してエヴァ初号機が置かれているケイジに侵入したのを、馬鹿みたいに口を開けて見ていた。

「奴め、ケイジに侵入したか」
「え・・・?
 しまった、うっかりしてた!」

 神がかった狂信的な神父のように声を漏らす冬月。
 事実、今の彼は天使からの啓示を伝える預言者のように見えた。













 破られた壁の隙間から、冷却液が血潮の滝のように雪崩れ落ち、竜の全身を赤く染め上げていく。なおも強引に壁を引き裂き続けるため、当然穴はドンドン大きくなり、溢れる冷却液の量は増えていく。


『おおおぉぉぉ』


 歓喜にも聞こえる声を漏らす竜の眼前に、まだ装甲が取り付けられていない素体が剥き出しの初号機が、静かに立っていた。
 さながら紅海を渡るモーゼのように冷却液のプールをかき分けかき分け、ゆっくりと竜は素体へと近づいていく。すでにナオコ達は手出しすることを諦め、成り行きを見守っているだけなので、もう彼を邪魔する物は何もない。


 ゆっくりと竜は右手を伸ばした。三本の爪を大きく、猛禽のように開いて素体の頭を掴む。そのまま拘束具によって固定されている素体を、腕力だけで強引に引き寄せた。
 その強引すぎる行いに、素体の体がねじれ、肉の一部が千切れてそこから体液が漏れ出た。これが人間なら、苦痛と乱暴な動作に耐えきれず、何らかの抵抗をするところなのだが、素体はまるっきりの無抵抗で竜の暴行を受け続けた。
 ぎりぎりと音がするほどに竜の腕に力が込められていき、硬い物に亀裂が走るとき特有の鋭い音が響いたかと思うと、素体の口から赤い体液が大量に噴き出し、冷却液と混ざって不思議な渦をつくる。

 血の臭いに興奮でもしたのか、一際竜の眼が赤く光った。
 僅かに前屈みになった姿勢から、左の手刀が衝撃波を伴って素体の胸に叩きつけられた。

 ぐちゃりと鈍い音をたて、素体の胸が爆発したように肉の花を咲かせた。剥き出しになった肋骨、その間にて鈍く光る赤い珠がモニターで事の成り行きを見守っていた一同の目の前にさらけ出された。
 ナオコが息を飲む。
 その赤い珠こそ、全ての秘密の鍵を握るもの。エヴァの、使徒の精髄であり、碇ユイが内に封じ込まれている・・・S2器官でもあるコアなのだ。

「コアが・・・」
「まずい。このままだと、破壊されてしまう。なんとかできんのか!?」
「もうどうにも手のだしようがないわ」

 ナオコの言葉通り、冬月達は、人間はあまりにも無力だった。
 ことさら嬲るように竜は剥き出しになっていたコアを眺めていたが、やがてぐわっと耳まで裂けた口を開いた。長く蛇のように伸びた舌がべろりと口の周りを舐め回し、喉の奥の暗い穴が地獄の門のように開く。

「まさか、コアを呑み込むつもりか」
「S2機関を取り込むつもり!?ただでさえ手に負えないってのに、それじゃますます手を出せなくなるわ!
 いえ、最悪大爆発を起こすかも!」

 ナオコの言葉を契機に、スクリーンに映る竜と、解体されたエヴァ初号機の素体が恐怖の象徴のように人間達の心に突き刺さった。
 竜とコアの接触が何を生むのか分からない。
 サードインパクトとまでは言わないが、施設の一区画程度なら、容易く粉砕してしまうだろう。
 尋常でないことが起こることを勘で察し、ナオコは絶望のうめきを漏らした。たとえ幾つもの装甲で守られていても、発令所が崩壊することは避けられないだろう。もし二体が爆発した場合、単純計算だが衝撃はN2兵器を凌駕するだけのエネルギーがある。
 つまり、今更逃げられないと言うことだ。
 そうとなると、かえって諦めがついたのか、ナオコは清々しい気分で今まさにえぐり出されようとしている素体のコアを見つめた。

(赤い・・・・・罪にまみれた赤い色)

 達観とコアが呑み込まれるのを見守るナオコ。
 その時、汗で湿った髪を振り乱しながらリツコが叫んだ。

「素体に、エヴァ初号機にエネルギー反応!」
「なんですって!?リツコ、それは間違いないの!?」
「間違いないわ!なにか電気信号みたいなものを盛んに発信しているわ!
 交信相手は・・・α!」
「「α!?」」









『お、おお・・・・・おぎゃぁぁぁ』


 ほんの僅かの間に、またも事態は急展開をしていた。
 今まさに食らわんと欲していた、エヴァのコア。
 竜はそれを両手で抱え直すと、まるで母親が幼子を愛撫するように優しく優しく撫でさすっていた。そして求めていた物を見つけたように、寂しさと喜びが複雑に混じり合った産声を漏らしたのだ。
 答えるように一瞬、エヴァのコアがわずかに明滅し、光が消えた。
 軽く頷くと、竜の胴体に大きな亀裂が走った。
 亀裂にそって装甲がずれ、その内側で脈動する生体組織が露出する。その場にいないので分からないが、さぞやもの凄い臭いがしているだろう。

 やがて、竜はゆっくりと素体のコアを自分の胸の内側に押し込んだ。
 左右に開いていた肋骨がそれに合わせてゆっくりと閉じていき、鉛色をした触手のような物がコアに絡みついていく。そして全てが肉の壁の向こうに隔離されたと同時に、開いていた装甲が音もなく動き、開いていたのが嘘だったように元の位置に戻っていた。

 竜は周囲を見回し、解体された蛙のような姿の素体を見下ろすと、ため息をつくように微かに揺れた。
 それは別れを告げたのか。

 そして竜は膝を折り、その場にうずくまると、静かに動きを止めた。


 誰も何も言わなかった。
 数分後、ようやく自分を取り戻したリツコが、端末に映っている情報を報告する。

「α、活動を停止。赤外線、電磁波、放射線、すべての計測機器に反応ありません。S2機関の反応も、ありません」
「止まった?一応、助かったみたいね」



 ため息をつきつつ、ナオコは額の汗を拭った。
 緊張が解け、やたらとだるい。考えてみれば現在時間は深夜。疲れない方がおかしいだろう。

「完全停止を確認した上で、被害その他のことを調査して。
 αに関しては、私自らが調べるわ。
 すみませんけど、冬月先生。雑務の方はお願いします」
「胃に穴が開きそうだよ」
「まったく。最悪、ネルフはなくなるかも知れませんね」

 それだけ言うと、ナオコは目を伏せた。

 そして歴史は動き出す。
























 数時間後、彼女は碇ゲンドウの死と、二度と会うことがないと思っていた女性がこの世に帰還したことを知る。







「頭部の風防が開きます!
 あっ、あれは・・・」

 急ごしらえのタラップの上で、ナオコは何をどうしても開かなかった風防が勝手に開くのを、既視感を感じながら見守っていた。根拠はない。だが、彼女は彼女が近寄った今こそ、それが開くことを確信していた。
 そして中に何が、誰がいるのかを。

(ゲンドウ君。これがあなたの望んでいたことなの?
 世界の全てを利用し、踏みにじり、ついには自分を殺してでも、彼女を助けたかったなんて)

 開いた風防の下、両目の間にある操縦席の中には、すやすやと眠る4人の人間がいた。
 涙の痕を残した少年、瓜二つの少女が2人。最後の一人は、その三人のいずれにもよく似た大人の女性。
 ナオコの憎んだ、今でも憎んでいる女性。

「ユイさん!?
 って冬月先生、なに見てるんですっ!?後ろ見ててください!」
「おお、そんな殺生な」
「やかまし。これだから男ってのは・・・。
 それはそうと、帰ってきたのね。ユイさん」

 シンジはともかく、他の少女は一体誰だろうと思いながら、ナオコは意識のないユイにシーツをかけた。まだわだかまりは残っているが、裸を男達の前に晒すのは忍びない。悪人になりきれないナオコだった。




















 ジオフロントの湖の脇で、レイとレイコと名付けられた2人の女の子の手を引きながら、ユイはナオコと話をしていた。湖の縁ではね回りながら、レイコに引っ張られてとまどい顔のレイ。
 天蓋から降り注ぐ陽光が水面を黄金色に輝かせ、光の中で楽しそうに遊ぶ子供達を眩しそうに見つめながら、ナオコはユイを見つめた。


「あなたが、ネルフの司令に?正気?」
「ええ。このままだと、ネルフは完全に解体され、ゼーレの老人方が好きかってする世界が続くだけだわ。あの人達にとっては、古代生物兵器である使徒ですらも問題にならない。
 問題にならなくなってしまったわ。
 それを終わらせるためにも、あの人の願いを叶えるためにも、なにより子供達の未来を守るためにも・・・。
 私は、戦うことを決めたわ。既にお父様の承諾は得ています」
「元ゼーレ評議会議員のお墨付き・・・か。
 でも、どうやってゼーレと戦うつもりなの?私達には何もかもが足りないわ。特に、ゼーレに対抗するための決定的な力が」

 ユイに協力するのはやぶさかではない。だが勝ち目のない戦いはゴメンだ。まだ飼い殺されてる今の方が良い。
 全身でそう言い募るナオコに、ユイは悲しそうな顔で答えた。

「武器はあるわ。ジオフロントに残された2体のエヴァ。
 そして、アレがあるわ」
「冗談はよしなさい。あなた、同じあやまちを繰り返す気?また、罪のない親子を犠牲にするの?
 キョウコと彼女の娘さんみたいな!」

 激高するナオコ。ユイは彼女の怒りをもっともだと思いつつ、だけど仕方がないと言葉を続けた。

「仕方ないわ。このままだと、みんな死んじゃうもの。
 もちろん、全部終わった後に償いはするつもり・・・。
 それにメインで使うのはエヴァじゃないわ。あの機械生命体よ」
「どっちにしても子供を使うことは同じじゃない。あなた・・・絶対地獄に堕ちるわよ」

 ちらりとナオコは泥遊びをするレイ達に視線を向けた。
 その仕草に込められた皮肉、怒り、その他諸々を悟ったユイは自嘲気味に笑った。何を今更・・・、と。

「そんなに悪い所じゃなかったわ」
「・・・悪魔。ゲンドウ君があなたに惹かれたわけだわ」


















 ジオフロントに幾つも大型掘削機械を搬入し、その様子をみながらユイは拳を握りしめる。

「ジオフロントに眠るその他の竜骸を見つける必要があるわ」
「いつから私達はトンネル業者になったのかしら?」
「皮肉はやめて下さい。それより、ナオコさんにはパイロット候補の選定計画を立ててもらいます」

 もう後戻りはできない。















 過労で倒れたユイを見舞うナオコ。
 慣れた手でリンゴを剥きつつ、呆れたような口調で話しかける。

「たまにはシンジ君のためにも帰ったら?ずっと壊れたままなんでしょう?」
「そんな暇はないわ」

 やせ細りながらも、毅然とした顔でユイは言った。
 今は普通の母親ではなく、ネルフの司令でなければならないと強く念じながら。

「あ、そう。別にあなたの勝手だから良いけど。彼も可哀想ね。
 それはそうと、新しいスタッフが明日、到着よ」
「・・・彼女が?」

 わずかにユイの顔が曇る。
 不幸にならなくても良いはずの家族のことが胸を刺したのか、過労であることを差し引いても、彼女の顔は蝋のように白くなっていた。

「ええ。娘さんと一緒に。
 嬉しい?親友と再会できて」
「キョウコ・・・」
「そうやって自分も誤魔化すのね」










 時に西暦2015年。

 数多の人々の思惑が複雑に絡み合い、集束していく激動の時へと。




 竜は、静かに時を待つ。




 沈黙する竜は何も語らない。



第8話Cパートに続く






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