運命があるのなら、それを呪うことも出来るだろう。
残酷が去って、悲惨がやってくる。
赤く絡みつく過去からの贈り物。
少女は自分の肩を抱きながら、一人になった部屋の隅で顔を伏せる。
もう何処へも行けない。
少女、少年 <第二十話>
小さな溜息を一つ吐いた後、アスカはゆっくりと電話ボックスから外に出た。
すっかり日が落ちた後も、雨は依然として降り止む気配を見せない。
外に出てみると、思ったより下がっていた街の空気の温度に驚かされた。
アスファルトに街灯の光が弾け、油の浮いた水たまりが虹色に輝いている。
重い気配の電話だった。互いに何かを探り合っていたのは確かだ。アスカ自身は覚悟が
出来ていたが、向こうは唐突な電話に驚いたと思う。
それでもこちらの願いを快く受けてくれたことは、アスカにとって有り難かった。後は
面と向かって、言葉を紡ぐだけだった。
アスカは少し辺りを見渡した。
長い時間を掛けて作り直された街並みは、アスカの知らない景色ばかりを見せる。昼に
見れば少しは印象も違うのだろうが、日が落ちた今見るこの街並みは、感慨深い懐かしさ
を与えてくれるモノは一切無い。ただ、街並みに漂う空気、生活の臭いだろうか、それが
微かに遠い日々を思い起こさせた。ノスタルジックに浸ろうとする心の奥底が感じさせる
幻想かも知れないが、それはそれで仕方が無いとも思える。経った時間を否定するつもり
はない。
電話をする少し前、久々にラーメンを食べた。
何年ぶりか覚えていないが、酷く懐かしい味がした。多分、とてもシンプルなラーメン
だったと思う。一人前の量が思ったより多かったのに驚いた。昔は足りないぐらいだった
のに、と思うと、それもまた懐かしかった。
こんな女が一人でラーメンを食べているのが物珍しいのか、店にいる間中、いくつもの
視線を感じた。好奇の目で見られることには十分すぎるほど慣れているが、あまり心地の
良いモノではない。
向こうからこちらへ来る前も、向こうに戻ってからも、それは何も変わらない。
店を出る直前、アスカを遠巻きに見ていた数人の少年グループの中の一人が、アスカの
元にやってきて、少し照れた表情でアスカを誘う言葉を掛けた。
たどたどしいその台詞と、その姿を一生懸命のぞき込む残りの少年達の様子がおかしか
ったが、まじめな顔で「これから彼に会うから駄目なのよ。」と断った。少年はその答え
にシュンとなって、仲間達のところに帰っていった。
これから彼氏に会う女が、一人でラーメンを食べていると言う状況は、普通に考えると
そうは無いのではないだろうか?と自分の口にした台詞を振り返って思った。頭が回って
いるようで、どうも上手くいっていない様子だった。
小さく笑って、アスカは雨道を歩き始めた。
道の所々で小さな水たまりが出来ている。跳ね上がった水が長いスカートの裾を汚しそ
うなのが気になったが、あまりのんびりと歩く気にもなれなかった。少しばかり高揚した
精神は、小さな自制心を蔑ろにしている。
通りの幅は広いのだが、とても人通りの少ない道だった。ここで痴漢にでも襲われたら
戦わなきゃならないわね、と一瞬そんな考えが浮かんだが、直ぐにそれを否定した。
多分、どこかで遠巻きにSPが見ているだろう。私には内緒になっているが、本国から
数人は付いてきているはずだ。いっそ襲われて、彼らを表舞台に登場させる方が面白いか
も知れない。
暫く歩くと、緩やかな上り坂がやってきた。視線を少し遠くにやると、小高い丘にマン
ション群が見える。多分、そこが目的地なのだろう。
アスカは少し歩く速度を上げた。
徐々に大きくなってくるそのマンションの姿が、コンフォート17と呼ばれた、あのマ
ンションの姿にダブって見えた。
「えぇ、わかってます。理由はこっちで適当に作りますよ。もういいでしょ、それで。明
日か明後日にはこっちを発たせます。代わりの人間?要りませんよ。後はいつも通りやり
ますから。はい、じゃ、そう言うことで。」
ケンスケはそこまで話すと電話を切って、それをベッドの横の小さなテーブルの上に戻
した。そしてゆっくりと、饐えた匂いのするベッドに倒れ込んだ。
薄汚いベッドを被うシーツには、所々茶色いシミが広がっている。天井は煙草の煤で汚
れきっている。小さな窓があるが、こちらも元の色が分からないほどに汚れたカーテンで
覆われている。
最初に部屋に入ったときにシャワールームの蛇口をひねってみたが、案の定、水は出な
かった。電気が止まっていないのが不思議なほどのホテルだった。
ケンスケにとっては慣れっこだったが、隣の部屋では、相棒が頭を抱えているだろう。
後数マイル行けば、戦場が待っている。
宗教対立の終わらない街。
分かりやすいロジックで、人殺しが繰り返される街。
数日の内にその地獄をカメラに納めに行かなければならない。過去に何度も撮った光景
と代わり映えはしないだろうが、見る立場にとっては現在進行形のそれに意味があるのだ
ろう。勿論、撮る立場にとっても、それが現在進行形であるということに意味がある。
見せ続ける以外に、何かを変えるすべは無い。それがあることを知らなければ、それに
思いを寄せるモノも居ない。
いつも一人でカメラを回してレポートを作るケンスケにとって、今回の旅は久々に相棒
の居る旅だった。少し妄想癖のある猪突猛進型の女性だが、負けん気の強さと行動力だけ
は評価できた。取材の方針が二転三転した結果、彼女も現地に同行する事になったのだが、
ケンスケはデスクと一発大喧嘩をやらかして、何とか当初の予定通り相棒をこの町に置い
ていくことを了承させた。
戦場をバックにした女性レポーターの画像が欲しいという無駄な理由のために、リスク
が増える選択を選ぶ気にはなれなかった。
相棒には“戦火の街の危険が増しているので、この町で取材をして日本へ帰る”と伝え
るつもりだった。明日街を回り、その後相棒だけを日本へ返すつもりだ。“航空便の予約
が一人しか取れなかったから、自分は後数日滞在する”とか何とでも適当な理由を付けれ
ば、自分だけこちらに残る言い訳も出来るだろう。あの性格を考えると、ケンスケがデス
クを説き伏せたことを知ったら、意地でも付いてくる。それだけは避けたかった。
時計に目をやると、18:00を少し回っている。このホテルの場合はルームサービス
でディナーを頼めるとも思えなかった。
ケンスケはゆっくりとベッドから体を起こして、ジャンパーに手を伸ばした。そして軽
い勢いを付けて立ち上がった。
「日が在るうちに相棒でも誘って、飯行きますかね。」
独り言をこぼして、部屋の出口に向かおうとした瞬間、コンコンと扉を叩く音が聞こえ
てきた。
「はい。」
意識した大きな声で答える。
「私です。晩ご飯でもどうかと思って。」
どこか遠慮がちな声が聞こえてきた。
ケンスケは余りにも良すぎるそのタイミングに少し苦笑したが、扉のところまで進んで、
ゆっくりとドアを開けた。心持ち焦燥した感のある相棒が立っていた。
「僕もそのつもりだったよ。」
ケンスケはそう口にして、部屋の外に出た。
薄暗い廊下は、埃っぽい砂の匂いがした。
「いつもこうなんですか?」
廊下を進んでいくケンスケの背に、相棒が声を掛けた。
「いつもって?」
ケンスケが振り返らずに答える。
「部屋のことなんですけど、ちょっと色々と。」
「あぁ、シャワーの水が出ないんだろ?」
「はい。フロントに電話入れたんですが、英語がちゃんと通じないし、最後には一方的に
ガチャンとやられちゃって。水が出ないとか、そんな話は聞いてたんですけど、いざ自分
の事になると・・・。」
長旅とお世辞にも良いとは言えない環境に、普段は余り見せない一面が見える。
「慣れるよ。俺なんか一週間風呂に入らなくても平気だけど、ね。暫しの辛抱だよ。運が
良ければ、明日の朝には水が出るかも知れない。あ、でもお湯は出ないな、きっと。」
廊下の突き当たりにあるエレベータの前までやってきたが、どうやら今は動く気配を見
せないで居る。ケンスケは目で残念なことを伝えた後、近くにあった階段を下り始めた。
「エレベーターは動かないが、一応電気も来てるし、往来に出れば飯も食える。」
ケンスケは独り言のようにつぶやいた。
相棒はトボトボとケンスケの後ろを付いてくる。
階段の至る所の壁に、何を伝えたいのか分からない張り紙が沢山ある。人捜しか職探し
か、それとも神様への言葉か。
一階まで降りると、外の喧噪がフロントの辺りにまで響き渡っている。
ケンスケはフロントで、この辺りで夕食をとれる店を数軒聞き出した。フロントの対応
はぶっきらぼうだったが、別に悪気があるわけじゃないだろう。多分、そんな街なのだ。
ケンスケは後ろで待つ相棒に合図を送って、踵を返した。
ちょうどその時だった。
突然ドガンと、何かが大きく爆発する音が辺りに響き渡った。
地震でも起こったかのように揺れる足下。
ビリビリと悲鳴を上げるホテルの窓。
外の通りを、砂塵が猛烈な勢いで抜けていくのが見える。
次の瞬間、ケンスケはホテルの前に飛び出した。
多分に砂を含んだ熱風が、ケンスケの視界を覆い隠すように襲ってくる。
数十メートル先の露天の一角が吹き飛んで、辺り一面に火の手が上がっていた。
吹き飛んで倒れた人の姿が見える。中心部の辺りは煙と火の手でよく分からない。
相棒がフラフラとケンスケの後を追って通りに出てきた。
「フロントで待ってろ!」
ケンスケはそう叫んで、急いでホテルの中に飛び戻った。
階段を数段とばしで駆け上がる。思いの外速く進まない自分の体が忌々しかった。
廊下には物音を聞きつけて飛び出してきた人間がちらほらと姿を見せていた。ケンスケ
はそんな人を避け、部屋に戻ると、急いでバッグから商売道具のカメラを取り出す。そし
て、急いでまた部屋を飛び出した。
廊下には更に人の数が増えていた。皆一様に不安そうな表情を浮かべている。ケンスケ
はそれを縫うように廊下と階段を走っていく。
フロントに降りると、相棒が口元を押さえて、入り口のそばの壁にもたれ掛かっていた。
ホテルの外に出ると、辺り一面には絶叫が響き渡り、火薬の匂いが充満していた。野次馬
なのか被害者なのか何だか分からない人の群が、現場周辺を覆っている。濛々と白煙が上
がり、砂塵が降るようにやってくる。
ケンスケはカメラを回しながら、人並みを縫うように一番火の手が上がっているところ
に向かって走り出した。
そこへ近づけば近づくほど、今度は肉の焦げる匂いが広がってくる。
悲鳴と怒号が鳴りやまない。
黒こげになった車が微かに見える。どうやらこれが爆発した様子だった。
「馬鹿がっ、」
ケンスケが吐き捨てるように言った。
また無駄なことが繰り返される。
何度やっても同じだと何故分からないのか。
近くを見渡すと、知り合いのジャーナリスト数人もカメラを回しながら走っている。阿
鼻叫喚の最中で、無機質に行動している彼らを見てケンスケは無性に腹がったった。が、
次の瞬間、自分も全く同じ事をしていることに気がつく。その自分自身のコントラストの
残酷さに、ケンスケは唇を噛んだ。
人の数がどんどんと増えていく。
現場を囲むように、大きな半円の人垣が出来ている。
人混みを押し分けながら、ケンスケはどんどんと輪の中心へと進んで行った。撮らなき
ゃいけない。それが残酷な行為であっても、それがこの仕事を選んだ自分の使命なのだ。
暫しの時間を掛けて、ケンスケは輪の中心に出た。
まだ息のある人を、周りの人間が急いで何処かへ運びだそうとしている。
遠くでサイレンの音が聞こえる。
腕なのか足なのか、体のどの部分なのか分からないものが、辺り一面に飛散している。
言葉にならない悲鳴が、あちらこちらで響き渡っている。
人の形を保ったまま燃え上がっている固まりがある。
煉瓦の壁を突き抜けるように人が刺さっている。
悪夢のような光景。
過去にケンスケが何度もカメラに納めたことのある光景。
幾度も繰り返される地獄。
愚かさの象徴。
どこかセピア色に見える世界。
ケンスケは周りの群衆をなめるようにカメラを回す。
悲鳴。
絶叫。
焦燥。
怒号。
号泣。
ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと、カメラを回していく。
突然、頭の中で、何かがチクリと刺さった。
何だろう?
ケンスケはそのカメラの動きを止めた。
ケンスケの居る位置から半円の斜め向かい、人混みを背負うように少女が居る。
幼い少女。
少女が居る。
ボロボロの身なり。
一人だろうか?
凛とした表情。
なんだろう?
少女?
少女だ。
これは何だろう?
違和感?
その幼さに似合わない瞳の強さ。
他にも小さな子供の姿は見える。
少女が居る。
だからどうした?
少女の親は何処にいるのだろう?
親が巻き込まれたのか?
その背格好に不釣り合いな程大きなリュックを背負っている。
何だろう。
この違和感は何だ。
この少女の違和感は何だろう?
何をしている?
何処を見つめてる?
どんどんと音が消えていく。
少女以外の世界が暗転する。
何故?
どうして?
この少女は?
レンズ越しに、少女とケンスケの目があった。
少女が寂しげに笑った。
次の瞬間、世界が砕ける音が響き渡った。