Sounds Of Singles

Kazusi Moriizumi Presents


新世紀エヴァンゲリオン アナザーアフターストーリー

<CANDY HOUSE EX>

「水晶の瞬間」


(…To LOVE,Too DESIRE…)


 男の頬を夜風の冷たい指が撫でて、過ぎていく。

 芦ノ湖を吹き渡る風は冷たく、そして孤独だった。

 その風と同じく、彼もまた孤独だった。

 芦ノ湖の周りが賑わったのは、彼も知らない遠い過去のことだ。

 湖畔を走る道路には街灯さえなく、深閑な夜に覆われるに任せていた。

 男の顔の下では、芦ノ湖の湖面が細波を立てているはずだった。

 それすらも闇の中にあり、目にすることはできなかった。

 地と水とを隔てるガードレールにぶら下がるように体を預けていた男が、顔を上げた。

 その視線の先には、光があった。

 第三新東京市の街明かりと、もう一つ独立した明かりが。

「ネルフ……か」

 固い声が、その口から転がりでた。

 その声は、まだ若かったけれども、酷く疲れた声だった。

 落ちていく声は、暗く細波を打つ湖面に弾けて消える。

 その途端、男が体を激しく震わせた。

「ぅげぇ……」

 胃が痙攣して、内容物を逆流させようとする。

 しかし、これが二度目の発作だった。

 もはや、吐き出す物なんかない。

 自分の中身が空っぽだってことは嫌でも思い知らされた。

 苦い味を振り捨てようと、何度も何度も唾を吐き出す。

「……はぁっ」

 大きく溜息をつくと、ずるずると男はガードレールから体を離して、道路の上にへたり込んだ。

 その闇にあっては、か弱いと言えるハロゲン光が、男の体を包み込む。

 長い茶髪が夜風に揺れ、苦しい涙の跡を撫でて熱を奪う。

 その寒さに、男の顔がびくりと震え、顔を光に向けさせることになった。

 その端正な顔の持ち主は、青葉シゲルだった。

 路肩に止めたDRの単調に響く単気筒の鼓動だけが、森閑な世界にノイズを与えていた。

 シゲルは、そのか弱い光に包まれた自分の体を抱きしめるように腕を回した。

 ──希望なんか、無くしたはずだ……

 そう思っていた。

 ──だから光なんて、望むことはできない……

 そう割り切ったはずだった。

 自分の不安定な人生に、他人を巻き込めるはずもない。

 そう思っていたはずなのに……

 涙が滲む。

 吐き気が苦しくて涙が出るのか?

 それとも、苦しい胸のせいで涙が出るのか?

 判らなかった。

 肩越しにシゲルは振り返り、ネルフの放つ光を見つめる。

 それは涙のせいでぼんやりとしてしまった。

 涙のせいだけではないのかも知れない。

 明確な目的を消失した今、シゲルに光の存在を確信することは到底不可能なことだったからだ。

 ──どうして、俺はあそこにいるんだ?

 だからシゲルは、自問する。

 しかし、答えを見出すことはできない。

 だが刹那、彼女の顔が脳裏に浮かんだ。

 それが、唯一の理由なのかも知れない。

「それが理由なら……俺はとんだ嘘吐野郎だな」

 皮肉っぽい嗤いを口の端に浮かべて、シゲルは立ち上がる。

 痙攣を起こした、胃のせいでふらふらになりながらも。

 傍らに転がっていたヘルメットを拾い上げ、シゲルはDRにまたがった。

 ──いずれにしろ、俺の赴き先はどこにもないってことか……

 その通りだ。

 しかし、それが無いということは、どこにでも行けるということなのだ。

 ヘルメットを被ったシゲルは、右手を思い切りよくひねった。

 闇を切り裂くように、YRDの排気管から歯切れの良い音が叩き出され、DRは小さなUターンを決めて、再び市街地に向けて走り始めた。


 細切れにされた、耳障りな音がその部屋の中には響いていた。

 ベージュとライトグリーン系の調度で整えられた室内は、可愛らしくも落ち着いた雰囲気を持っていた。

 六畳のダイニングキッチンと八畳のフローリングの部屋という独身者用のマンションの一室。

 フローリングの部屋には洋服ダンスとドレッサーとベッド。

 ベッドのヘッドボードには、マイクロコンポが鎮座している。

 部屋の真ん中にはグラステーブルが一つ置かれ、手作りらしいクッションが幾つかその周りに転がっていた。

 そこまでなら、ただの女の子の部屋だったが、その部屋の雰囲気からは大きく逸脱した物が部屋の片隅にはあった。

 複雑怪奇な結線を施されたコンピューター機器が一式。

 常に稼働しているらしいそれのディスプレイを保護するためか、コンピューターの中には猫が一匹飼われていた。

 ちょこまかとディスプレイの中を駆けずり回り、腹を空かせたのか悲しげな鳴き声を上げている。

 ディスプレイの片隅に置かれている、餌皿はすっかり空になっている。

 しかし、その飼い主はベッドに倒れ伏し、そんな猫の仕草に気づいてやることもなかった。

 柔らかな枕を抱え込んで、その中に顔を埋めたままで。

 マイクロコンポから延びたヘッドホンで、耳を覆って。

 先刻から漏れ聞こえていたのは、そこからの音だった。

 かかっている曲は、なんてことのない最近の流行り歌。

 彼を思い出したくなかったのだ。

 彼女の持っているCDは、彼が奨めてくれたアーティストの物が大半を占めていたのだから。

 彼の趣味は古い音楽が多かったし、ギターメインのやかましい曲が多かったけれど、音楽に疎い彼女でもいいと思えるアルバムが揃っていた。

 だから、いまだけは聴きたくない。

 CDの演奏が終わると、部屋の中に小さな嗚咽が代わりに響いた。

 のろのろと腕だけが伸ばされ、コンポの再生ボタンに触れる。

 再び室内は耳障りな、しゃかついた騒音に支配される。

 耳を打つ騒音と化した曲に耐えかねるかのように彼女の顔が動かされて、横顔がひととき露わになった。

 雪崩れた短い黒髪が、露わになりかけた横顔を隠してしまう。

 隠された顔の持ち主はマヤだった。

 大きな黒い瞳。

 それが涙に濡れて真っ赤になっていた。

 横を向いた拍子に、溜まっていた涙がこぼれだして、つう、と一筋の線を描く。

 ぐす、と鼻を鳴らすとマヤは再び枕に顔を埋め直した。

 ──なんで、あんなこと言っちゃったんだろ……

 同じ疑問だけがぐるぐると彼女の頭の中を駆けめぐっていた。

 今朝までは、大丈夫だった。

 何を言わなくても、一人で生きていけるつもりだった。

 それなのに、シゲルとほんの少しだけ心を通わせただけで、孤独に耐えられなくなってしまった。

 自分のまわりから誰もいなくなる。

 本当はそんなことはない。

 必ず誰かは、いてくれるはずなのに。

 ──ばかみたいよ、わたし……

 後悔の涙がとめどもなくこぼれ、枕を重く湿らせる。

 泣いている自分を思っただけで、体の中に幾つもの取り返しのつかない悲しみが膨れ上がる。

 恥ずかしくて泣きたいのか?

 シゲルに顧みられなかったのが悔しいのか?

 何も判らないまま、ただ悲しみだけに突き動かされて、マヤは声を上げて泣き始めていた。

 ヘッドホンをしていれば、自分の声すら聞かなくてすむ。

 自分が泣いていることを噛みしめたくなくて、マヤは手探りでコンポのボリュームを更に上げていた。

 だから気づくことがなかった。

 部屋のチャイムが、先刻から鳴り響き続けていることに。


 ──馬鹿か、俺は?

 そう思いながらも、シゲルはそこから離れようとはしなかった。

 マヤの住むマンションの入り口。

 女性専用のマンションであるここはエントランスにもドアがあり、入居者が部屋の中から鍵を開けるか、暗証番号を打ち込まない限りはマンション内部にすら部外者は足を踏み入れることができないのだった。

 だからシゲルはここで、マヤの部屋に繋がるチャイムを押すことしかできない。

 しかし、マヤの部屋のホームセキュリティと繋がっている、来客確認用のスピーカーは沈黙を保ったままだった。

 けれどシゲルは、マヤが部屋にいることを確信していた。

 駐輪場にベスパは置いたままだったし、何より部屋には明かりが灯っていたのだから。

 けれど、徒労というものを長く続けることは難しい。

 何度となくチャイムを押し続ける腕が、重く、痺れる。

 ──何やってんだよ、俺……

 あんなことを言ってしまった舌の根も乾かないうちに戻ってきて、恥ずかしげもなくチャイムを鳴らす自分自身が酷く浅ましく思え始める。

 有り体に言えば、マヤを抱きたいがために戻ってきたんじゃないか、という思いがシゲルの心を浸食し始めていた。

「…………」

 その思いにとりつかれた瞬間、シゲルは腕を下ろしてしまった。

 ──マヤを傷つけたのは、オレじゃねーかよ……

 ギリ、と歯噛みする音が漏れる。

 その自分自身を責める心こそが、逃避そのものだということに気づかぬままに。

 まだ間に合わせることができるのに、それから逃げ出そうとしていた。

 ワークブーツとコンクリの床のあいだに挟まれた砂利が嫌な音を立てる。

 足許に落とした視線がその音を視覚で捉えた。

 それを合図にしたかのように、シゲルは踵を返してしまった。

 だが、そのときにシゲルの足を止めさせるほどの素っ頓狂な声が上がった。

「あ〜っ! 青葉さんだったぁっ!」

「!」

 心臓が止まるかとも思うような衝撃がシゲルを刺し貫き、その顔を上げさせた。

 振り上げた視線の先には、一人の女性がニタニタ笑いながら立っている。

 小首を傾げ、ボブカットにした髪を小さく揺らしながら彼女はシゲルに近づいてくる。

「え……エーコちゃん?」

 流行りの大きく胸の開いたシルクシャツとニットパンツで包んだ小柄な肢体の彼女に詰め寄られ、シゲルは心持ち後ずさった。

 彼女はわざとらしく、サンダルの背の高いヒールの音を響かせながら近づいてくる。

「やっだな〜、青葉さ〜ん」

 そう言うと彼女、陸奥エイコは小さめの唇の端をきゅーっと吊り上げて意味ありげな笑いを浮かべて見せた。

「マヤさんに、よ・ば・い?」

 そう言いながらエイコは肘でシゲルをちょいちょいとつつき、その腕をがっしりと掴んだ。

 その途端、シゲルの鼻は酒精の匂いを感知していた。

「エーコちゃん、酔ってるな?」

 それも、尋常な量ではなさそうだ。

 もちろん、葛城ミサトが誇る飲酒量とは比ぶるべくはないが。

「そーです、アタシは酔っぱらいですっ!」

 きっぱりと宣言しつつ、エイコはシゲルの腕を掴んだまま、扉を開ける暗証番号を酔っているとは思えないほど素早く正確に打ち込んでいた。

 さすがオペレーターの一人ではある。

 ロックを外すモーターの音が、意外なほど大きく響いた。

 一瞬、白けたような空気が二人のあいだに流れた。

 何か間抜けにもお互いの顔を見合わせていた二人だったが、我に返ったようにエイコがシゲルの腕を強く引っ張った。

「さ〜、行きましょう。青葉さん!」

 そのまま、エイコはシゲルをマンションの中に引きずり込もうとする。

 端から見たら、酔っぱらいがもう一軒と無理矢理につきあわせるような構図にも見えるが。

「お、おい……だから、俺はもう帰るんだって」

 ゆっくりとエイコが振り返る。

「あたしは最初っから、み・て・ま・し・た」

 有無を言わさぬ口調だった。

 そしてエイコの目は、確かに据わっていた。

 それにはさしものシゲルも口を挟めないほどの迫力があった。

 無理もないのだ。

 彼女には、素手で人殺しをした過去があるのだから。

 それもやはり時空の彼方に吹き飛ばされるあの瞬間の、僅かな時間のうちに起こったできごとだった。

 陸奥エイコ。

 彼女もまた、青葉達と同じくオペレーター業務に就いていた一人だった。

 ただし、司令室の上部構造に詰めていた青葉達とは違い、下部構造に詰めていたため、普段言葉を交わすことはあまりなかった。

 あのとき、戦自がネルフ内部司令室下部構造に突入したとき、彼女も戦った。

 マシンガンで、拳銃で。

 弾丸がつきた後は、怒りに燃える、その拳で。

 合気道の達人の彼女はたった一人で、楯に護られた自衛隊の突入部隊に殴り込みをかけたのだった。

 最終決戦時、突入部隊の侵攻状況を把握していたエイコは全てをその目で見つめることになった。

 自衛隊が何をしたのかを。

 同じ人間が、命令の名の下に何をしたのか。

 火炎放射器の粘性のある炎に包まれた同僚の姿。

 投降の意思を表した同僚に向けられた、容赦のない冷たい銃口。

 そして、自分自身がしなければならなかったこと。

 死者に対しての冒涜としか思えないベークライトの注入。

 それをしたのは自分の指先だった。

 それが彼女の向けようのない怒りを駆り立てた。

 小柄な彼女のどこにそんな力が秘められているのか?

 シゲルもマコトもその瞬間を見ていた。

 突入部隊に応射していた、シゲルとマコトの視界の端を人影がよぎった。

 そう思ったときには、彼女は突入部隊の楯を飛び越えていた。

 制止の叫びを上げる暇もなかった。

 その直後に、二人の屈強な男が受け身もとれずに首から床に叩き付けられて絶息した。

 同士討ちを怖れた突入部隊員はライフルの銃床を振り回して飛び込んできた暴風に対抗しようとしたが、それは彼女の思うつぼだった。

 回転しながら自分をめがけてくる剛力を利用して殆どの力を受け流し、エイコは新たなベクトルを加えるだけで良かった。

 それだけで、その男は何人かを巻き添えにして階下へと墜ちていった。

 だが、彼女の奮戦もそこまでだった。

 「命令」によって、足許に転がされたテルミット弾が他の部隊員もろとも彼女の存在を焼き消した。

 「現在」に戻り、それを記憶に留めていたシゲルはエイコに訊ねた。

 後悔してるか、と。

 シゲル自身も人を殺していた。

 しかし、その相手もこの世界に戻ってきているのかも知れなかった。

 後悔すべきか、否か。

 彼女は、笑顔を見せるときっぱりと言った。

「後悔なんかしてません、あたしはこの事実を受け止めるだけです。

 そしていま、生きていることも事実です。

 「彼」がこの世界をどのように再生してくれたかは判りませんけど、私が人殺しをしたのも事実です。

 でも、後悔するほどのことだったのかというと、正直言って判りません。全部、夢だったような気もするし……

 決して忘れることはないと思います。でも、それを後悔するなら、あたしはあの場で何もしないで死んでいたと思います。後悔するなら、そのときにきっとしていたでしょうね」

 そう言いきって、エイコはシゲルとマコトにとびきりの笑顔をくれたのだ。

 その笑顔をシゲルは、いま思い出していた。

 ──そーいや、マコトの奴……

 思い出しかけた、その後のマコトの姿がかき消された。

「さー、行きましょう。愛しの姫様が待つ部屋へ〜」

 ぐいぐいと引っ張られ、感傷に浸っている場合ではなくなってしまった。

 しかし、いま目の前にいる酔っぱらいが、あのエイコと同一人物とは到底思えなかったが。

 少々の頭痛を憶えながら、シゲルは僅かに反旗を振りかざしてみた。

「エーコちゃん。マヤの奴、いないみたいなんだ」

 にぱっと笑い、エイコが振り向いた。

「そーしたらぁ、あたしのとこに泊めて上げますよぉ」

 その言葉にシゲルは逆上しかかった。

「あほ! この酔っぱらい、何考えてやがる」

「だーいじょうぶ、酔ってても体は正直です。青葉さんなんか片手でちょちょいとひねれますから、安心して下さい」

 やっとの思いで立てた反旗も、彼女の小指であっさりと薙ぎ倒されてしまった。

「わかったわかった」

 そう言いかえすことが、シゲルにできる関の山だった。

 シゲルはエイコにひきづられるままに、階段を上り、マヤの部屋の前にエイコと共に立っていた。

 所在なげな表情を浮かべたままのシゲルの顔を覗き込み、エイコが訊いた。

「押さないんですかぁ? チャイム」

「あ、ああ……」

 促されるままにシゲルは、チャイムのボタンを押してみた。

 確かに部屋の中でチャイムの音がするのは聞こえた、けれど、それ以外の物音は聞こえてこない。

「ほら、な」

 この期に及んでも、シゲルはほっとした気持ちで言ってしまった。

 それにエイコは気づいたらしい。

「多分、もう寝ちまったんだろ。だから俺、帰るわ」

 踵を返そうとする、シゲルの腕をがっちりと掴んでエイコは肩を震わせた。

「寝てるんなら、起こせばいいんです!」

 そう言うとエイコは空いている方の手で、スチールのドアに掌底を叩き込んだ。

 尋常ならざる音が、静まり返った廊下に響いた。

 あまりの音にシゲルは他の住人が起きて来るんじゃないかと、気が気ではなく、辺りを思わず見回していた。

「え、エーコちゃん?」

 思わず声まで、ひっくり返ってしまった。

「まーだ、起きないかぁ? もう一発、行きますよぉ!」

 シゲルの言葉なんか、全っ然聞いちゃいない。

 エイコは、ついにシゲルを掴んでいた手を離し、しっかりと腰を据えると構えを取る。

「ヒュ!」

 鋭い呼気と共に、瞬雷の速度で右手が突き出された。

 その途端、ドアが押し開けられた。

 目測を狂わされたエイコは、カウンター気味に当たりそうになった拳をすんでのところで逸らせることに成功した。

 右斜め上方へと逃された掌底の向こう側からマヤの顔が覗いた。

 マヤは目の前で、足を踏ん張って拳を突き出しているエイコを不思議そうに見つめていた。

 気まずそうに、ちろっと舌を出してエイコはマヤに笑いかけた。

「なにしてんの、エーコちゃん?」

 マヤの位置からだと、エイコが邪魔をしてシゲルの姿は見えなかった。

「王子様のご帰還ですぅ」

「なんのこと?」

 訊き返したマヤの視界に、ふらりと人影が入った。

 シゲルが、自分で足を踏み出していた。

 思わず、手で口を覆ってしまった。

 自分の目を信じることが、マヤにはできなかった。

 あれだけ泣いたのに、また涙が溢れそうになる。

 シゲルは、そんなマヤを声もなく見つめていた。

 泣き濡れたのだろう。

 その良く動く大きな瞳は真っ赤に充血していた。

 頬に残っている、涙の跡。

 寝乱れたままの黒髪。

 マヤの全てが、シゲルを魅了していた。

 煮え切らぬ自分の不甲斐なさが彼女に強いた結果だった。

 けれど、マヤがそこまで自分を思っていてくれたことが判って、シゲルの真空の心は暖かな何かで満たされようとしていた。

 ──ホントか、おい。

 しかし、そこで何かが邪魔をする。

 理性とか、道徳観とか、惰弱な心とか。

 そういったものが、シゲルの心を押しとどめようとしていた。

 その途端、ひょいっとシゲルは引っ張られ、マヤの目の前に立たされていた。

「へ?」

 と思う間もなく。

「お幸せに〜」

 との声が二人にかけられて、どんっ、とシゲルは突き飛ばされた。

「うわっ……」

 たたらを踏んだシゲルは、マヤを巻き添えにして玄関先に倒れ込んでしまった。

 スチールドアが固い音を立てて、世界を閉ざす。

 二人は至近で互いの顔を見合わせる。

 もはや、言葉はなかった。

 用意したはずの謝罪の言葉も、頭から吹っ飛んでいた。

 シゲルはマヤの唇だけを見つめていた。

 マヤはシゲルを見つめてはいなかった。

 ただ、目を閉じて、待っていた。

 ひたすらに。

 そして、待ち受けた感触が唇に触れた。

 それは、思っていたよりもずっと柔らかだった。

 ──来てくれた……

 そんな思いを感じながら、マヤは無我夢中でシゲルの背中に手を回して、その体をかき抱いていた。

 シゲルは胸の下に感じるマヤの体の感触を感じていた。

 ──マヤってこんなに華奢だったんだ……

 そんな二人の背後で、再びドアが開きエイコが顔を覗かせた。

 背後で起こった容易ならざる事態に、シゲルは硬直した。

 抱き合ったまま固まっている二人に向かって、またしてもにぱぁとエイコは笑いかけて言葉を続けた。

「日向さんは明日っから職務に復帰しますんで〜、宜しくとのことでしたぁ」

 唇を貪り合ったまま固まった二人も意に介さず、言いたいことだけを言ってエイコは首を引っ込めた。

「ごゆっくりどうぞ〜」

 再びドアが閉じる。

 シゲルの首がゆっくりとドアに向けられた。

「あ〜の〜な〜ぁ〜」

 燃え上がった激情に冷水をかけられてしまい、妙に冷静になってしまったシゲルが怒りの声を上げた。

 ふと見ると、組み敷いたままのマヤまでもがクスクス笑っている。

 シゲルも苦笑を漏らすと、マヤの手を引いて立ち上がった。

「ムード殺がれちまったな」

 そう言いながら、シゲルはシリンダー錠をひねって戸締まりを確認した。

「……そうね」

 すっかり安心した笑顔を見せて、マヤはシゲルの手を取って自分の部屋へとシゲルを導いた。

「へえ……マヤの部屋って、こんなんだったんだ」

「もう、あんまり見ないでよ」

 顔を少し赤くして、マヤが言う。

「お……」

 と、シゲルはディスプレイを中からカリカリと引っ掻いている猫を見つけた。

「マヤ……こいつ、腹へってんじゃないの?」

「え?」

 シゲルを押しのけて、マヤはディスプレイを覗き込んだ。

「あ〜っ、ゴメンねぇ」

 マヤは慌ててマウスを操作すると、餌皿に猫飯を盛ってやった。

 猫は餌皿めがけてまっしぐらに走っていくと、ものすごい勢いで食べ始めた。

「なんか……餓死寸前だったみたいな喰い方」

 そう言った途端に、シゲルの腹の虫も鳴いた。

「青葉君も、お茶……じゃ足りないみたいね」

 微笑をこぼしながら、マヤが言った。

 片眉を吊り上げて、シゲルは「ご覧の通り」と肩を竦めて見せた。

「座ってて、何か作るから」

 シゲルを座らせて、マヤはキッチンへと戻った。

 ごろりとシゲルは床の上に転がった。

 その途端に気づいたことがあった。

「そういや、なんでエーコちゃんがマコトの病状を知ってるんだぁ?」

 素っ頓狂な声で、シゲルが言うと、キッチンからマヤが戻ってきた。

 マグカップを片手に。

「だって、エーコちゃん日向君とつきあってるもの。そろそろ半年くらいたつのよ、知らなかったの?」

 それをシゲルの目の前に置きながら、マヤはシゲルに訊いた。

「へ? だってマコトの奴、葛城さんのことは?」

「割り切ったみたいよ、でも葛城さんのファンクラブは存続するらしいけど」

 マヤは再びキッチンへと戻った。

「何を考えてるんだ、アイツぁ」

 半分呆れたように毒づきながらも、シゲルはマコトの選択が正しいだろうことを理解していた。

 どれだけ愛したとしても、手に入れられないものはあるのだ。

 そしてその対象を別のものに振り替えたとしても責めることはできない。

 その振り替えたものに対する愛情が代替品だったとしても。

 唯一無二などというものは、よほど運が良くなければ手にはいることはないのだから。

 ──それなら、俺は運がいいのか?

 多分そうなのだろう。

 運がいいから、此処にいられるのだ。

 ──そっか、俺は運がいいのか……

 思わず顔がほころびそうになる。それを引き締めようとするが、なかなか上手くいかない。

「やだ、青葉君何ニタニタしてるのよ」

 マヤが、皿に盛った焼きそばを運んできてくれた。

 気づくと、美味しそうなソースの焦げる匂いが部屋に充満していた。

 それにも気づかないほど、シゲルは幸せというものを知らず知らずのうちに満喫していたのだ。

「あれ、そお?」

 と、とぼけて見せてシゲルはマヤの手から皿を受け取った。

「あれ、マヤのは?」

「わたしは、先に食べちゃったもの。こんな時間に食べたら太っちゃうし、ね」

「なら、遠慮なく」

 先刻、胃の中身を全て捨ててしまい、本当に腹の空いていたシゲルは猛烈な勢いで焼きそばをかき込み始めた。

 ディスプレイの中の猫と大して変わるところがない。

「そんな食べ方しなくても、誰も取らないわよ」

 マヤは苦笑しながら、土瓶と小さなポットをシゲルの傍らに置いた。

「ゆっくり食べてて」

 そう言い残して、マヤは姿を消した。

 食べることに夢中になったシゲルは、もう余計なことを何も考えてはいなかった。


「あ〜ぁ、喰った喰ったぁ」

 そのスマートな佇まいには似合わない、オヤジくさい台詞を吐き出しながら、シゲルは後ろに手を突いて満腹になった腹をさすった。

 マヤの料理の腕前は、なかなかのものだった。

 さすがにシゲルとマコトの住むマンションの階下に店を構える小料理屋の女将さんの腕には比肩すべくもなかったが。

 中身に似合わぬ、可愛らしいマグカップを取り上げて一口啜る。

 ほうじ茶の程良い苦みが、口の中を爽やかにしてくれる。

 ──幸せ……ねぇ……

 目を閉じてその思いに浸る。

 自分が幸せになるなんてことを考えたことは、あの決戦のあとからはなかった。

 他人のために、何かのために、自分を犠牲にすることをいつも考えていた。

 けれど、それが実は大嘘だと言うことにようやくシゲルは気づいた。

 自分が幸せになれなければ、他人を幸せになんかできやしないということに気づいたのだ。

 現に、マヤは幸せそうなのだから。

 ──いままでのことが、間違いだったとは思いたくはねえけどな……

 その思考を叩き斬る鋭い悲鳴が聞こえた。

「マヤ!」

 一挙動でシゲルは立ち上がり、ダイニングの方に消えたままのマヤを探したが、その姿は何処にもなかった。

 鋭く走らせた視線の先に小さな脱衣所があり、バスルームのものとおぼしきガラスドアが入った。

 明かりのついたそこに人影が動くのを認めて、シゲルはドアノブに手をかけた。

「どうした、マヤ?」

 いま、何かが起こることは考えにくい。

 しかし、何が起こっても不思議ではないのがネルフに勤める者の宿命だ。

 だが、マヤが次に発した言葉は……

「ゴキブリ〜ッ!!」

 がく〜っ!

 と、シゲルはうなだれて、掴んだノブから手を離した。

 張り詰めた緊張感が一掃された。

 いっそ清々しいくらいに。

 ぽりぽりと頭を掻きながら、シゲルは呆れたように言った。

「シャワーを熱湯にしてぶっかけちまえよ、シャンプーでも効果覿面だぞぉ」

「やだやだやだーっ!」

「あーのなぁ、ゴキブリ退治するには俺が中入らなきゃ、できないでしょ?」

 だんっ! とガラスドアにマヤの背が押しつけられた。

 磨りガラス越しに、マヤの姿態がほの見える。

「青葉君……やってよぉ……」

 震える小さな声が、シゲルの保護欲を刺激してやまない。

 シゲルは溜息をつきながら、色々な言い訳を自分自身に対して行いながら、壁に掛けられたマヤの物らしいバスタオルを掴んだ。

 ガラスドアを少しだけ開くと、ドア越しにマヤに手渡す。

「これ体に巻いててくれよ」

 正直なところを言えば、巻いてくれなくても構わなかったのだが。

「うん……」

「それじゃ、入るからな」

 シゲルは靴下だけを脱ぐと、バスルームへと体を滑り込ませた。

「?」

 思わずシゲルは辺りを見回していた。

 割と大きめだが、作りつけのユニット型のバスルーム。

 一体成型のベージュ色した壁面にも床にもゴキブリの姿なんか何処にもない。

「マヤ、ゴキブリは……?」

 訊こうとしたシゲルに湯の矢が降り注いだ。

 頭からずぶ濡れになり、へばりついた長髪を掻き上げたシゲルの目の前に何一つ纏わないままのマヤが佇んでいた。

「ゴメンね、嘘」

 シゲルは何とも言い難い表情を口の端に浮かべていた。

 ──俺は、マヤの顔をこれからいくつ知ることになるんだろう?

 そんなことを思っていた。

 騙されたことには腹も立たなかった。

 こんな単純な手に引っかかった、自分の方がよっぽど情けなかった。

「怒ってる?」

 マヤは胸を腕で隠すようにして、シゲルの顔を覗き込んだ。

 殊勝に反省しているようにも見える。

 けれど、シゲルには判っていた。

 ──マヤも女だった、ってことか……

 誰に仕込まれたのかは、何となく予想がついたが。

 それでも、構わなかった。

 どうせ自分も……

 シゲルは舌で乾いてきた唇を舐めると、マヤの顔の横に手をついて上から彼女の顔を威圧するように覗き込んだ。

「オレを騙すなんて、百万年早いぜ」

 そう言いながら、シゲルはマヤが何かを言い返す前に唇を塞いでしまった。


 白々と明るくなり始めた窓に視線を流したまま、シゲルは灰皿代わりの空き缶をたぐり寄せて、ゴロワーズをくわえた。

 火をつけないまま、自分の胸に顔を寄せるようにして眠るマヤの頬を撫でる。

「……ぅん」

 小さな声を漏らして、マヤが更に顔を埋めようとしてくる。

 黒髪が揺れる度にくすぐられるような感触がひろがる。

 その小さな頭を抱き寄せて、シゲルは苦笑を漏らした。

 ──結局オレの方が翻弄されちまったなぁ……

 マヤの手練手管は、シゲルの想像を超えて洗練された物だった。

「今日は、仕事行けねぇなぁ……」

 服はびしょ濡れになったまま、浴室に脱ぎ捨てたままだった。

「ま、こんな日もありかもな」

 シゲルの胸の裡は自分で思っていたよりも穏やかだった。

 ──いつの間にか、平穏って奴に胡座をかいていたわけか……

 そして、その平穏よりも新たな変化を迎えた方が落ち着けるというのも、不思議な話だったが。

 結局、人間は変わっていくしか生きる術がないのだ。

 過去に縛られ、何もないことを理由に自分一人の殻にいつの間にか閉じ籠もっていた自分自身。

 何もないから、他人を巻き込みたくない。

 自分一人なら、自分自身で責任を取ることができる。

 けれど、それも嘘だった。

 寂しいのは自分。

 自分が寂しいから。寂しいから他人と深く触れあいたくない。

 マヤに諭したことは、自分に対しての言葉だったのだ。

 溜息を一つ漏らして、シゲルは結局火をつけることのないままゴロワーズを空き缶に捨ててしまった。

 そのまま目を閉じて、マヤの与えてくれる温もりに身を預ける。

 ──こんな俺でも、誰かに甘えたくなることもあるんだな……

 そのまま、シゲルは暖かく、柔らかな闇の中へ意識を埋没させていった。

 ──もう、眠れない夜を過ごすこともないだろうな……

 と思いながら。


杜泉一矢 law-man@fa2.so-net.or.jp

あ と が き

 ども〜っ(笑)。

 青葉部屋の皆さん、お久しぶりです。杜泉でございます。

 ようやく約束を果たせました。

 青葉話の完結編、完成いたしました。

 ま、夏コミまでにはどーしても仕上げなくちゃ、ならなかったわけですけどね。

 これで、ようやく夏コミに販売する本の目処が立ちました。

 今回は青葉本一冊のみ、相方なしの完全文章オンリーの個人誌になります。

 あ、今回のこのウェブ版に書き足しがありますから、同人版には。

 ……Hなとこ(爆失笑)。

 前の二作も、少し手を入れるようにします。

 イラストなしで売れるかなぁ、心配だ……

 あ、遅れに遅れているキャンディですが、書いてはいます。

 気に入った表現ができないだけで。

 更新が遅れると、すわ凍結か? と思う方もいらっしゃるようですが、私に関しては単なる遅筆ですんで、首を長くして待ってやって下さい(笑)。

 あ、それとキャンディ外伝をこりもせずにまた書いてます。今度はばりばりの18禁(爆)。

 ここ、で書いてますので、こちらもどうぞ宜しく。

 さ、今度こそはキャンディ本編でお逢いしましょう。

 それでは、また。


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