BE TRUE

わたしα



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 第四章 −出現−
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 フォーラは、汗をぬぐった。
 ずっと走りずめで、すでに全身汗だくだ。
 しかし、そんな余裕ももう、ほとんどないように、フォーラには思えた。
 あれが、自分のすぐ後ろに迫ってきている。
 そう思った時には、再び足が動いていた。
 息が上がり、まるで鉛の足枷でもはめられているようだ。
 エネルギー節約のために、パワーをおとした浮行靴は雪に半ば沈み、一歩ご
とに、残り少ないフォーラの体力を奪ってゆく。
 だが、いざという時のために、余分なエネルギー消費は、極力控えなければ
ならない。
(いざという時?)
 フォーラは、自分で考えたその言葉に、思わず苦笑いをしていた。
 歴戦の勇士レドでさえ、なす術もなく、逃げる事しかできなかったのである。
 それを、自分のような戦い方も知らない少女が、たった一人で、一体どうや
って、あの化け物に立ち向かえというのだろう?
 しかし、フォーラとて極限の地に住む一族の一人である。
 生き延びる確率が万に一つもないと知ってさえ、あえて、自ら死の牙に向か
って我が身をさらそうとする程、感傷的な心を持っているわけではなかった。
(クゥリは大丈夫かしら?)
 余計な事を考えないようにと、自然、フォーラの意識は、他人の方へと向か
ってゆく。
(無事だったらいいのだけど...)
 フォーラの意識に、たくましい青年の顔が浮かんだ。
「シロム、助けに来て!」
 知らず知らずのうちに、言葉が洩れた。
 と、フォーラは、不意に表情を緊迫させ、立ち止った。
 気配が湧いていた。
 それも、ま正面にだ。
 フォーラは横に跳んで、手近な木の根元の雪溜まりに、その身を隠した。
(もう、逃げられない?)
 フォーラの頭から、どうっと、音を立てて血が引いてゆく。
 恐怖に思考は働かず、体の震えが止らない。
 フォーラは思わず、ぎゅっと目を閉じた。
(助けて!誰か助けて!)
 フォーラは、心の中で叫んだ。
 誰でもいい、そばにいて欲しい。
 シロムでなくたっていい。
 マトクでも、トゥールでも、クゥリだっても、居ないよりはまだましだ。
 たった一人で、こんな所で死にたくない!
 そんなフォーラの背後に回り込んで、気配の主が動いてゆく。
 ゆっくりと、フォーラに向かって近付いてゆく。
 フォーラの意識を、閃光が貫いた。
 ハッとして振り向く。
 瞬間、フォーラは息を呑んだ。
「ばぁ。」
 妙に間延びした声の主は、フォーラより一夏下の、コイザの姿を有していた。
 拍子抜けしたフォーラは、それまで気を張り詰めていた事もあって、深い溜
息と共に、その場にすとんと腰を落とした。
「威かさないでよ、コイザ。」
 ホッとすると、今度は逆に、少し腹が立ってきた。
 まったく、このガキときたら...
 そんなフォーラの表情の変化など、全然気にかける気配もなく、コイザは翳
り一つない笑顔で、フォーラの向かいに座り込む。
「ごめん、フォーラねーちゃん。
 ちょっと、テストしてたんだよ。」
「テスト?
 ...って、また何か作ったの?」
 フォーラの口調は、なかば呆れ、なかば諦めの気分からのものだ。
 それでいて、微妙な期待感もまた見え隠れしているのは、この小さな発明狂
が、ごく稀に、役に立つものを作るからである。
 コイザはしかし、そんなフォーラの態度には、まるで無頓着に、
「まあね。
 見ててよ。」
「何?」
 フォーラの目には、特に変わったものは見当たらなかった。
「判んない?」
「ええ。」
 コイザは、ニッと唇をひん曲げ、決して上品とは言えない笑みを浮かべると、
「これこれ。」
 コイザは、自分の足首の辺りを指差した。
「足?
 その...靴の事?」
 フォーラがそう言う間に、コイザはすでに行動に移っていた。
 コイザの目が細まる。
 眉をひそめ、意識を集中している様子だ。
 フォーラは声もなく、コイザの幼い顔だちを見守っている。
 しばし、沈黙が周囲を包みこんだ。
 風はすでにやんで、動くものといえば、フォーラとコイザの吐く、白い息だ
けだ。
 フォーラ自身の呼吸音が、ひどく大きく響いてくる。
 コイザは、意識集中のため、深く、ゆったりと息をしている。
 コイザは、瞳を閉じた。
 ほとんど、呼吸音は聞こえない。
 と、ゆるやかにコイザの体が上昇してゆく。
 フォーラは、思わず大きく目を見開いた。
 その間にも、コイザの体は、音もなく高さを増してゆく。
 コイザは目を開け、フォーラを見下ろした。
 コイザの足の裏から雪面まで、人一人通れるだけの余裕がある。
 わずかに瞳を細めると、すうっとコイザは降りてきた。
 フォーラより少し高い位置まで、目線が下がる。
 女の子では背の高い方のフォーラだから、もちろんコイザは、地に足を付け
ていなかった。
「...どう?」
 得意げなコイザに対して、フォーラは素直に感嘆の表情をあらわした。
 この、自然な賛美の態度こそが、彼女の長所の一つであるのだが、当の本人
は、その事に気付いてはいないようだ。
「すごぉい。
 何?どういう事?」
 フォーラは、コイザの顔と靴と、かわりばんこに目を移す。
 機械にはさ程詳しいとは言えないフォーラだったが、それまで使ってきた浮
行靴とは、まったくの別物だという事はよく判った。
 フォーラが今履いているものだって、最大出力で、雪面にわずかに触れる程
度なのだから。
 コイザは、ちょっとばかし得意げに、
「まあね。
 こいつがあれば、音もなく獲物に近付く事もできるさ。
 フォーラだって、わかんなかったろ?」
「そうね。」
 フォーラは微笑みかけ、しかし、先に驚かされた事を思い出した。
「でも、ひとを驚かすのはよくないわね、コイザ。」
 フォーラは腕を伸ばし、指先で、トンとコイザの胸を突いた。
「それに、一人で森の中に入るなんて。」
「俺はもう、子供じゃないよ!」
 しかし、そう訴えかけるコイザの姿は、やっぱり子供子供した所があった。
 無理もない。
 フォーラとは、一夏分も年齢が違うのだから。
「でも、ブローグの事もあるのだもの。
 一人で出歩くのは、大人だって危ないのに。」
 と、フォーラは急に、クゥリの事が気になった。
 クゥリを見失ってから、だいぶ経つ。
 コイザに脅かされ、何もかも放り出して走ってきたから、きっと、森のかな
り深いところまで来てしまったのだろう。
 取り敢えず、コイザにクゥリの事を尋ねてみることにした。
「ううん。
 見なかったよ。」
 思ってた通りの答えだ。
 少しの間、考えに沈んだフォーラだったが、すぐに、
「取り合えず帰りましょう。
 そろそろ日も沈む頃だし、試験飛行は、もう充分でしょ?」
 フォーラは、少しばかり皮肉な気分になっていたが、コイザは、彼女の気持
ちを推察できるほど大人ではなかった。
「うん、分かった。」
 と、どさりと何かが落ちる音がして、二人はビクッとして振り返る。
「なぁんだ、雪の音か。
 脅かすなよ。」
 コイザの声は、わずかに震えていた。
 実験の興奮もやんで、ようやく状況判断ができるようになったらしい。
 キョロキョロ落ち着きなく周囲を見回すコイザの瞳に、はっきりと怯えの色
を見て取って、フォーラは、怖がってはいけないと自分自身に言い聞かせた。
「まぁ、コイザったら。
 そんな事じゃ、またトゥール達に笑われるわよ。」
 自然に振る舞えるかという心配は、声に震えが現われない事で払拭された。
 頬のあたりに引っ掛かりもなく、笑みが作れれば大丈夫。
「仕方ないだろ。
 トゥールの方が、年上だもんな。」
 コイザは、ムッとして言った。
「そうねえ。
 そういえばトゥールも、一夏前までは、ずいぶん怖がりだったわねえ。
 そう、今のコイザよりも、もっとね。」
「本当?」
 コイザは、思った以上に嬉しそうだ。
 結構、気にはしていたらしい。
「ええ。」
 と、フォーラはコイザの顔をちらりと見て、少し考える仕草をして、
「でも、これはトゥールには内緒にしといてね。
 こんな事言ったのがトゥールに知られたら、わたし怒られてしまうわ。」
「そんな事ないよ。
 トゥールはフォーラに首ったけって、マトクが言ってた。」
 コイザは、マトクの口真似をして唇をとんがらせる。
「生意気ね。」
 フォーラは、ちょっと怒った顔をしてみせた。
 が、すぐに破顔し、コイザも一緒になって笑う。
 と、フォーラは、コイザの瞳が、自分を見ていない事に気付いた。
 コイザの顔に浮かんだ驚きの表情が、徐々に恐怖に彩られてゆく。
「コイ...」
 コイザの唇が、何事か言葉を発しようとして、小刻みに震えている。
 フォーラの背中を、何か冷たいものが走り抜けてゆく。
 頭の中に想像したものを、自身の感情が否定した。
 ...まさか?
 だが、理性が彼女の体を動かした。
 反射的と言ってもよいだろう。
 ゆっくりと振り返ったフォーラの瞳に、そいつの姿が映った。
 気配もなく。
 息遣いの音も、なく。
 ただ、その白い、恐るべき姿のみが、フォーラの感覚し得た全てだった。
 ブローグという名が浮かんだのは、それからだいぶ時間が経ってからのこと
である。
 フォーラは、声もなく目前のブローグを見つめていた。

「よぉ。」
 マトクは、並走するソリに向かって声を掛けた。
 返事はなかった。
 期待してもいなかったが、それでも、ちょっとばかし腹が立った。
 こういう時だ、少しは気を利かせろっての。
 そう思ったが、一方では、普段と変わりない友の態度に安心もしていた。
 非常時に一番怖いのは、普段なら何でもなくやれる事も、うまくできなくな
る事だから。
 その原因は、ほとんど精神的な部分から来るものだと、マトク自身がよく知
っていた。
「南と東の方は確認済みだ。
 イーシュ達は、北の方に向かってくれ。
 俺達は西に向かう。」
「分かった。」
 そう、返事をしたのはソルカである。
 ソルカとイーシュ、それぞれの乗ったソリは並んだまま、ゆっくりと方向を
転じていった。
「おっさん、他はどうなってる?」
 マトクが、激しい風切り音に負けじと、無線機にむかって声を上げた。
 ついさっきから降りはじめていた雪が、だいぶ勢いを増してきている。
「俺と一緒に出たソリは三十だ。
 その後から、二、三十は出ているだろう。
 半分は北に向かった。
 俺達の隊は、お前らを追っ掛けているところだ。」
 無線機から流れてくるレドの声は、いつも通り落ち着いている。
「了解。」
「トゥール!」
 レドが、息子の名を呼んだ。
「なんだい?親父!」
 トゥールも、自分のソリのコンソールに向かって叫ぶ。
「急くなよ!」
 トゥールは、すぐに返事をしなかった。
 急くな...か。
 しかし、そうはいかない一つの理由が、トゥールにはあった。
 たった一つだが、それでいて、他に思い付く百の理由さえも、軽々と凌駕す
るものだった。
「分かってるよ、親父。」
 トゥールは自分の返事を、まるで他人事のように聞いていた。
 俺の事など、どうでもいい。
 ただ、フォーラが無事でいてくれるのなら。
 すでに太陽は、西の森に引っ掛かり始めている。
 もう、日没までほとんど間がなかった。
 太陽が完全に沈んでしまえば、もはやトゥール達に、なす術はない。
 小さな人工の明かりなど、深い森の暗やみの中では、力を発揮する事はでき
ないのだから。
 それが、吹雪の中となればなおさらだ。
 時と共に、再び太陽が味方してくれるといっても、それまでブローグが待っ
ていてくれるはずもない。
 ともすれば先走りそうなトゥールの意志を乗せ、ソリはただひたすら、雪原
を駆ける。

「コ、コイザ...」
 しばし呆然とした後、フォーラは振り返る事なしに言った。
「コイザ、逃げて!」
 フォーラは、コイザを背にしたまま手振りをした。
 が、コイザに動く気配はない。
「何してるの?」
 振り向いたフォーラの瞳に、ぽかんと口を開いたまま、真ん丸に目を見開い
た、コイザの顔が映った。
「コイザ!」
 フォーラは、いきなりコイザに平手を食らわせた。
 パン、パンと乾いた音がして、ようやくコイザは、フォーラの存在を思い出
したらしい。
「コイザ、逃げて。
 あなた一人なら、きっと逃げられるわ。」
「で、でも...」
 コイザの体が、ガクガク震え出す。
 ついつい、ブローグの方に目がいってしまうコイザを力ずくで制止し、フォ
ーラは両手で、コイザの顔を挟み付ける。
「見ちゃだめ!
 それより、早く逃げて!
 あなたの靴なら、逃げられるわ!
 私の事はいいから!早くっ!」
「で、でもフォーラ!」
 コイザの逡巡は、フォーラの身を案じてというより、一人になる怖さからで
ある。
 フォーラは、強い瞳でそんなコイザを見つめた。
「その靴が使えるのは、あなただけでしょう?
 それに、このままでは二人ともやられてしまうわ!」
 フォーラの気迫に、コイザはなんとか頷いた。
「あたしがブローグを引き付けているから、最大出力で逃げるのよ!」
「うん。」
 振り返ったフォーラの目が、ブローグのそれとぶつかった。
 コイザと話す間、全く動いていなかったらしい。
 こちらの様子を窺っているのだろうか?
「行って!」
 フォーラは、ブローグを睨み付けながら、コイザの身体をぽんと押した。
 ちらりと後ろを見て、コイザが地を蹴るのを確認すると、再び視線を前方に
戻し...
「いない?」
 さっきまで、ブローグがいた筈の空間を、雪を含んだ疾風がなぶっていった。
「う、うわあっ!」
 コイザの悲鳴に振り返ったフォーラは、我が目を疑った。
 コイザの頭の向こう、ほとんどその呼吸音が聞こえるくらいの所に、白い毛
皮がそびえたっていた。
「どうして?」
 フォーラの意識は混乱した。
 いったい、何が起こったのだろう?
 コイザが、フォーラにすがり付いて来る。
 フォーラは、コイザの頭をしっかり胸に抱いて、ぎゅっと目をつぶった。
 脳裏に浮かぶのは、シロムの精悍な顔だちでもなく、トゥールのはにかむよ
うな笑みでもなかった。
 両親がまだ生きていた頃見た、イルアリアの丘の頂からの眺めが、フォーラ
の眼前に広がっている。
 物心ついた時、フォーラの一家は長い長い旅の途上にあった。
 それは辛く苦しい旅だったけれど、両親がいつもそばにいてくれたから、フ
ォーラはあまりそれを苦痛に感じずに済んだ。
 そうして、長い旅の果てに、ようやくフォーラの一家は、このアトックワの
地に辿り着いたのだった。
 イルアリアの丘で花を摘み、草原を走りまわるフォーラを見守りながら、優
しい微笑みを浮かべている筈の母の顔は、しかし、不思議と霞んで、よく見え
なかった。
 今は亡き両親のことを、決して忘れた事はない、フォーラだったのに。
 幼いフォーラは、母のもとに駆け戻る。
 が、さっきまでフォーラを見つめていた筈の母の姿は、そこにはない。
「母さん!」
 フォーラは叫んだ。
 しかし、幼い少女の声は、草原の葉ずれにかき消され、吹き寄せる風の中に
四散する。
「かぁーさぁーーーん!」
 フォーラは、満身の力を込めて叫んだ。
 我知らず走りだし、たちまち鋭い草の葉に、腕や足を傷だらけにされる。
「母さぁーん!...あっ!」
 涙で前が見えず、丈の長い草に足を取られ、フォーラは倒れる。
 倒れながらもフォーラは、母の名を叫び、その両腕は、母の温かみを求めて
宙を彷徨う。
 果てのない草の海の中で、少女は必死になってもがいていた。
 と、突然、フォーラは雪の中に放り出された。
 視界全体を埋めつくしていた緑と青が、一転して白一色の世界に変わる。
 そして不意に覚醒した意識は、直ぐにはそれが何を意味しているか、理解で
きなかった。
 だが、それも一瞬の事。
 フォーラは、すぐに事態の変化を悟った。
 それは彼女に、次の行動を促した。
「トゥール!」
 涙声で、フォーラは少年の名を叫んでいた。



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