Fragments dedicated to "Neon Genesis Evangelion"
旅のはじまり、旅の終わり
Chapter 1
ロシア連邦共和国
モスクワ 駐在武官クラブ
「トキィイオはこれをかなり重要視しているようですな」
「ふん」
「ヴヌコヴォに工作員が到着しております」
「ふん」
ベルベットのカウチに埋もれた国連軍の佐官は、自分の毛虫のような指先がアグア・ミネラルの小瓶を玩び、白熱灯の光がその中で切り結ぶのを鑑賞しているところだ。酒精を帯びたような潤んだ両のまなざしが、歌うように揺れ動いたあと、窓際の副官をとらえた。ひとつ反動をつけ、ぼさぼさの頭を掻きむしりながら立ち上がった。
夜通しのコーヒーを迎えた胃がむかむかと反乱を起こす。
「何時間経った?」
「発生より、百十時間あまりが経過しております」
五日前、カザン駅の操車場で軍用列車が襲われていた。表向きの積み荷はSS-25型ICBMである。だが、実際のところ巨大な格納容器にはごく小さな可搬式のコンテナが丁重に収められていたに過ぎず、それが搬送作業に関わった作業員たちを困惑させたものだった。
そして、”テロリスト”たちの目的も、濃縮プルトニウムではなかった。
「保安部隊の指揮官から送られてきた証拠物件です」
中尉は傍らのプラスティック・フィルムを取り上げ、無意味に明かりにかざして見せた。それはHK社製の二十二口径オートマチック・ライフルのものと結論づけられた弾頭だった。
この地方で好んで使われるカラシニコフ小銃のものではない。
「恐らく、ドイツかフランスの特殊部隊が三、四分隊ほど。対抗できませんよ」中尉はぞんざいにフィルムをテーブルに放り投げ、言葉を継いだ。「完璧な襲撃です」
それを聞きながら少佐は窓の外に目を細め、灰青色の陰気な朝の空気が街路や水路の方々を充填していくさまを眺めていた。彼の部下が、ぼそりと感想を漏らした。
「警備責任者は左遷かな?」
「レヴォルトヴォだ」
彼は無感動に街の風景を見ていた。彼らのオフィスの2ブロック先に、悪名高い政治犯刑務所の外郭が望めるのだった。
あと三十時間か。少佐が受け取った命令書は、襲撃から144時間以内に北海の空母戦闘群に”荷物”を発送し、無事に送り届けるように命じている。今回は分からないことだらけだ...漠然とした不安を彼は胸の奥でひそかに放ってみた。”荷物”の素性も知らされなかった。教えられたのはデッド・ラインだけだ。彼はその疑問をある将官にぶつけてみたものの、「些細な技術的問題」はあっさりとかわされてしまった。だが本当に?
「空港へ日本人を迎えに行け」
モスクワ
ヴヌコヴォ=2 要人専用空港
フリーゼンハーン中尉が泥だらけの四駆で空港にたどり着いたときには、ビーチクラフト・ジェットは駐機場の片隅に追い込まれ、MVD(内務省警察部隊)の一隊がそれを取り巻いているところだった。すでに高くなった太陽が誘導路の氷を溶かして方々に陽炎が現われ、ゆらめきながら機体を半ば包みこんでしまっている。それでも彼は、その胴体に無花果と特務機関の名が組み合わされた図像を見てとることが出来た。それは原罪の寓意的表現に他ならない……………。
「おっとっと」
泥のぬかるみに時おり足をとられながら、満面に笑顔を浮かべた東洋人が歩み寄って来た。
「特務機関『ネルフ』、加持リョウジ一尉だ」
「西部ヨーロッパ駐留国連軍司令部所属、駐在武官付のフリーゼンハーンであります。ロシア国内における、本作戦の支援を担当して参りました」
彼らはごく儀礼的な握手を交わした。
「内務省の奴らときたら、えらく無作法でね。ちゃんと連絡を入れていたのにな、完全武装のいかつい連中が外に出してくれんのだよ。いやはや君が来てくれたおかげで助かった!…………」
フリーゼンハーンは客人をホンダにみちびき、ドアを閉めた。彼は強引なターンを決め、跳ね飛ばされた温かい泥水からは水蒸気が派手に立ちのぼった。ぬるみはじめた無数の轍に足をとられて車は激しく揺さぶられた。カーラジオからは、最近モスクワで売れている歌手のポップな楽曲が流れ出し、沈黙を埋めた。
日本
第三新東京市
相変わらずだな。報告しながら諜報部の担当官はひとりごちた。寒々とした室で、彼の上司の視線を受け止めるたびごとに感じる。ある種の強度をもった空虚さ、とでも表現するのがふさわしいかもしれない。
「…………妨害者は特定されました。独国のGSG-9です。目標の破壊ではなく、輸送スケジュールの撹乱を優先させている模様で、中身がアダムのサンプルと知っているものと思われます。こちらでは、襲撃より荷物の行方を追跡しております」
「何処だ」
「確認済みです」
「作戦の進行は」
「順調です。コンテナ内の維持システムの限界時間までには、わがほうの技術者への引き渡しが完了の見込みです」
「工作員の撤収は」
「陸路での輸送では間に合いません。複座戦闘機を一機調達しております。北方に空中給油機を待機させ、防空圏を脱出させます」
担当官は一気に言い切った。いつもながらだが、早く退出したい気分だった。情感の欠けた慰労の言葉が彼を出口の方へと押しやった。
モスクワ
「火力支援チ−ム、配置完了」
世紀の変わり目頃から、モスクワの澄明な夜は、深夜を回ると何処からか深い霧を運んでくることで知られるようになった。それは通りから小径へ、そこを行く人間の襟の中に浸透していく。吸い込むと、粒子が喉の奥で感じられるほどに濃密なのだ。指揮官の少佐は結露したクロノメ−タ−を見た。あと2分。彼はもと空挺師団の士官で、五十を越えている筈だったが、正確な年齢は誰も知らない。1980年代に中東の砂漠、アフガニスタンで従軍したと言われていた。その後、殺人と破壊のプロフェッショナルとして内務省に諜報員として仕え、いまではネルフの”下請け”の一人として各種の非合法活動に携わっている。
建物の窓で赤外線ストロボが点滅した。
「突入!」
ロマノフ王朝時代に建てられた豪華な建物の、彫刻されたオ−クの扉が蹴破られ、一個小隊の特殊部隊が内部に侵入した。警備員は起きようとした。男は保安部隊の司令部につながる直通回線を使って助けを呼ぼうとした─――――――――無駄だった。回線は内偵者によって切断されていた。彼が装置の故障に悪態をつこうとした時、亜音速弾の一連射が男の左胸に拳大の穴を空けた。寄木の冷たい床を濡らした血だまりが、襲撃者たちに踏みしぶかれていく淫らなような、密やかな音が彼が最初の死者であることを教えていた。
消音銃の遊底が往復する金属の摩擦音と、布袋を膝に叩きつけるような音、そして口を塞がれたまま、誰かが頚動脈を掻き切られたことを意味する抑えた悲鳴、それらがきれぎれに続いて、それっきりになった。
十五分後、突然乾いた銃声が最上階から響いた。いまや懼りもしない自動小銃の連射音と罵り声が交錯したのち、通りの反対側から擲弾筒が撃ち込まれた。奥で赤いものが盛り上がったその瞬間に、爆発が窓枠とガラスを粉々に吹き飛ばし、飛んだ大量の書類が舗石の上にゆっくりと舞い降りた。
額から血を流した突入指揮官の後に、同僚に引き摺られた数人の負傷者が続いた。彼は、上官の前に血塗れのコンテナを下ろした。「4階にありました。そこに一人潜んでいました。ドイツか英国の諜報員でしょう。腕の立つやつで、こちらも二人殺られました」
少佐はコンテナに貼られたタグにペンライトを当てて見た。まだ鮮やかな、一掃きの緋色によって重ね描かれた黄と黒のバイオハザード。五日前に失われた荷物だった。
彼と数人の人間はコンテナと共に近くに停車していたバンに乗り、残りの者は迷彩服と弾薬、小銃の類を車の荷物室に放りこみ、プラスティック・バッグに包装されたいくつかの死体も追加し、代わりに思い思いの服を取り出して、着替え出した。数分もたたないうちに、彼らは帰宅の遅れた労働者の格好になって、地下道や路地へ、酒瓶のはいった茶色の紙袋を片手に散っていった。旧市街のこの深夜の戦闘に気付いた人間はほとんどいなかった。
一仕事終えた少佐たちは、クレムリンを中心に蜘蛛の巣状に広がっていくモスクワ市の幹線道路を郊外に向かった。いくらも走らないうちに市街地は途切れ、道路は野犬が棲むといわれる原生林に入っていく。30分の夜のドライブの後、一行は道路沿いにある自動車修理工場でクルマを止めた。
「今日はもう勘弁してもらえませんかね、旦那」
油だらけの作業服を着た男の顔色が変わった。「中です」
あたふたと男が建物の奥に消えてシャッタ−が開き、彼らは招き入れられた。
鎧戸の中はコンクリ−トの叩きで、修理中の車と架台の他に、さっきの男と工場主らしい協力者、そしてフリーゼンハーンを伴った東洋人と、あわせて四人が待っていた。作業用電灯が眩しい中に彼は緑灰色に塗装された「依頼物件」を床に置いた。