第一五章
 

 事態は、近衛兵団幹部たちの危惧をなぞるように推移した。ジュロンの高官たちは情報が早い。近衛副総監イリーヤの名によって諸将に送られた宰相打倒の檄文も、何の効果もなかった。中立をたもっていた将のほとんどが貴族であり、自分一身のことならばともかく、門地、家系、財産すべてを賭博にささげるような者はいなかった。自分一個の判断によって動ける平民出身の高官は、もともと宰相派に属している者がほとんどだ。
 地の利は近衛兵団に有利にはたらいたこともあって、戦闘そのものは数日間続いたが、もはや近衛兵団に勝機なしとみて、上将軍ソルヴェ、下将軍ティツィングをはじめとする、当初は静観していた陸軍の諸将が続々と宰相側に参陣した。海軍も、直接戦闘には参加しなかったが、大都督の名のもとに宰相支持を表明した。
「もはや敵はわれらの一〇倍、いや、もっとだな」
 イリーヤがつぶやいた。すでにバルーフとシモーネにくわえ、ヒューホーとカッテンデイケが戦死し、カドゥラとヤン・ヨアヒムは行方不明のままである。兵士たちも戦死、投降、逃亡などで当初の三分の一に満たない。王宮の各所も次々に陥落し、ウィレム大公の居する王宮東側からも、ついに撤退を余儀なくされた。大公の身柄を確保し、交渉にのぞむ――つまり人質にとるという提案をした者もいたが、「逆賊という汚名が真実になるだけだな」というイリーヤの一言をうけ、その案をひっこめた。
 その愚直な副総監が、のこった四人の隊長を見渡して、言った。
「ここでの戦いは、われらの負けだ」
「ここでは……?」
 レンドルフが怪訝そうにイリーヤを見た。近衛兵団は、もはや兵団と称しうるだけの人数をもっていない。それに対してフォンデルはほぼ完全に王都の軍権を掌握している。次の機会があるなどとは思えなかった。
「いや、まだ北がある」
「……」
「宰相と教会との関係は、遠からず破綻する。今回の一件で宰相に不信感をもった者も多かろう。ふたたび王都は混乱におちいるはずだ。総監閣下のご遺志は、公爵家に託そうではないか」
 沈黙を、異論を唱える者がないと解釈したのか、イリーヤがさらに続ける。
「デリウス卿」
「は……」
「卿は公爵家の両公子と面識があるときいた。北へ行くのは卿が適任だろう」
「副総監閣下、それがしは」
「卿にとっての重大事は、ウェイルボードの未来か、それともデリウス一個の名誉か」
 といわれてしまえば、デリウスも「ここで死ぬ」とは言えないだろう。黙って顔を伏せた。
「レンドルフ卿とレッケン卿は、辺境で身を隠すがよい。東方国境にある軍団の副将ギエフ下将軍はわが旧友。卿らを庇護するくらいは頼めるだろう。デパルツァー上将軍も、見ぬふりくらいはしてくれるはずだ。デリウス卿が公爵家を説得できた暁には、彼らの力になってくれ」
「……」
 やはりこのふたりも、ここで死ぬ覚悟であったのだろう、即答しようとはしなかった。
「卿らはまだ若いのだ」
 と、これはビルスナーである。
「先がある。だが、わしなどはここで死に損なったら、いったいどこで死ねばいいのかわからん」
「そうさな、処刑台しか残っておらんだろうな。あるいは逃げる途中でのたれ死ぬか」
 イリーヤが和した。
 無骨で稚拙な冗談だったが、若い三人の騎士は理解していた。
 イリーヤとビルスナーは、両者ともすでに五〇をこえている。負傷しているということもあり、たとえ逃亡しても、それに耐えるだけの体力を残していないだろう。また現存する幹部五人がすべて逃亡しては、残党狩りを必要以上に強め、生き残った兵士たちをも巻き込むに相違なかった。すくなくとも、ヨッサム亡きあとの近衛兵団を指揮したイリーヤは、この場で死ぬか、彼自身が言ったように裁判を受け、処刑台に登らねばならないだろう。
「しかしそれにしても、われら二人にのみ身を隠せとは。いっそ私もデリウス卿とともに北へ向かいたく思います」
 レッケンが抗議すると、イリーヤは、だめだ、と言った。
「卿らは、敗れたりとはいえ近衛兵団の大幹部だ。その卿らが連れだって公国に入ったとあっては、宰相めには公国攻伐の口実をあたえることになり、公国にあっては閥をつくることになる。いや、卿らの望むと望まざるとにかかわらずそうなるのだ。公国の立場と力と、双方を弱め、かえって宰相をよろこばせるだけだ」
「………」
「決めた」
 沈黙したレッケンにかわり、レンドルフが高い声をはなった。
「おれは東に行く。デリウス卿、北をたのむ」
「たのまれよう」
 未明、敵の総攻撃を控え、デリウスら三名は、それぞれわずかな部下をともなって、王宮から脱した。包囲網を突破するのは、困難ではあったが、決して不可能なことではなかった。討伐軍の最高司令官となっていたのはルードだったが、聖堂騎士団をはじめさまざまな部隊が入り混じっていたため、指揮系統が混乱していたのだ。城門を出たところで、デリウスはレッケン、レンドルフのふたりとわかれた。結局、レッケンも東にむかうことで納得したのだ。
 ともかくデリウスは王都から落ちのび、部下に解散を命じ、単身、北に向かった。いよいよ公国に入ろうとしたところを、ヒドの率いる部隊と遭遇した……。

「……それがしが知っているのはここまでです」
 デリウスが言い終えたとき、公国の首脳たちは言葉もなかった。まさかヨッサムが暗殺され、精強をうたわれた近衛兵団が数日で壊滅するとは思ってもいなかった。
「軽率な……!」
 思わずうめいたのはアンクレスである。公国としては、今のところ、王都でにらみ合いの状況をたもっていてもらったほうが都合がいい。また、宰相の軍と戦端をひらいた際、近衛兵団は貴重な味方となるはずであった。王都に対する政戦両略を、またしても大幅に修正しなくてはならなくなる。
 デリウスはにわかに、表情をかくすようにうつむいた。怒気を抑制しているのはあきらかだった。それに気付いたのか、マールテンが、
「アンクレス!」
「は……?」
「殿下がフォンデルの獄から脱することができたのも、血を流すことなく王都を脱することができたのも、バルネフェルト伯のおかげではないか。今さら当方の都合によってかのお方を非難する資格が、卿にはあるというのか!?」
「……いえ、もうしわけありません」
 とアンクレスは一礼し、デリウスのほうに向きなおり、
「つまらぬことを申しました。忘れていただければありがたい」
「いや、軽率な行動であったのもたしかでござれば」
 と、デリウスも柔らかい態度で応じた。
「それにしても、あんたの話を聞いていると、近衛兵団は何を目的として戦っていたのかがさっぱりわからんのだが」
 せっかくやわらいだ雰囲気をまたぶち壊すようなことを、アーガイルが言った。デリウスは今度は怒らなかった。
「敵の」
 その言葉を使うことをためらう理由は、もはやデリウスにはない。
「行動が迅速をきわめたのだ。伯父上が凶刃に倒れたときいたとき、われらにも戦略のようなものはあった。だが、奴はつねにわれらの先手を打ち、われらの選択肢をことごとくつぶしていった。われらは戦場で奮闘するしかなかった。思うに――」
 フィンセント卿の一件から教訓をえたのではないか。
「あれで慎重になるかと思えば、そうではなかった。拙速であればとことん拙速、卑劣であればとことん卑劣に、というわけか」
 デリウスはうなずいた。
「仮にわれらがあの時点で宰相に対する報復をあきらめていたとしても、奴は軍をもよおして攻めかかってきただろう。それだけは断言できる」
「それにしても危険な賭ですな。宰相にとって、ということですが」
 と言ったのはソルスキアである。彼は王都の情勢にはやや疎いが、それでも軍事の専門家であり、百戦して百勝ということがありえないことを知っている。宰相がヨッサムを殺したというのは、近衛兵団との間に戦端をひらくことに他ならない。もし教会が彼を裏切ったら、あるいは諸将は近衛兵団についたかもしれないのだ。
「いや……」
 フェルディナントが首を横にふる。
「近衛兵団の武力はたしかに無視できるものではないが、それが政治的に影響力をもっていたのは、総監たるバルネフェルト伯がいらしてこそです。近衛兵団に味方するとしても、諸将にとっては、誰のために戦うのか、ということになる。デリウス卿や、戦没された方々には失礼な物言いになりますが」
「いえ、あとから考えればたしかにそういうことになります。わが伯父ヨッサムが害された時点でわれらの敗北はすでに約束されていた。それでも、われらは戦いに臨まねばならなかった」
 デリウスの表情がさらに沈痛なものになった。近衛兵団としては、あくまで宰相に敵対するのならば、公国と連合するのが最上の手段である。だがその連絡は密とはいいがたく、また近衛兵である以上、こぞって王都から逃げ出すわけにはいかない。王位継承候補者たるウィレム大公を擁する機会がありながらそうはしなかったというのも、彼らが近衛兵であり、ヨッサムという政治家がすでに存在しなかったからである。
「ところで、デリウス卿」
 フィンセントが口を開いた。
「はっ……」
「卿は、わが公国に何を期待しておられる?」
 一同が緊張した。まさしくそれこそが最大の関心事であろう。デリウスも、ここでは迂闊な返答はできない。
「身の安全をお望みならば、わが公国はそれに応える用意はある。卿を賓客として遇しよう。だが、宰相に対する復仇をお望みなら、残念ながら確約はできぬ。すくなくとも今のところは……」
「わかっております」
 デリウスの表情はむしろ晴れやかである。
「ですが、それがしも伴食とののしられるのは不本意のきわみ。もはやジュロンに帰る場もなし。それがしを公国軍の端にでもおくわえ願えれば幸いですが」
「それはこちらも願ってもいないことだ。現在は陸、海ともに再編成の途上でな。卿の役職はマールテンに決めさせよう。それでよろしいか?」
「おそれいります」
 ふかぶかと頭を下げ、デリウスは言った。
 ……アーガイルが強く希望し、マールテンが同意したことから、海兵隊の指揮官に、デリウスはおさまることになった。この部隊は、先の海戦において、白兵戦になると劣勢を余儀なくされた反省から、アーガイルの希望によって新設された部隊である。接近戦あるいは上陸戦、つまりは「海戦の一部としての白兵戦」を専門とするこの部隊は、まだ指揮官が決まっていなかったのだ。マールテンは高齢である上に、閣僚の一員である。フィジックという人選が有力だったのだが、信頼すべき副将を手放すことにソルスキアが難色をしめし、ヒドは船酔いする体質から論外とされ、クロムヴェンは指揮能力に不安があり、グリースはアーガイルの幕僚として不可欠な存在であった……。
 ただし、デリウスが国事犯として追われる身であるのはまず間違いないので、非公式な人事とされた。
「これで艦隊がさらに強くなる」
 と、アーガイルが無邪気な顔で破顔した。最大の弱点であった白兵戦が、海兵隊の創設によって全面的に、とはいわぬまでもかなり改善されるだろう、と、アーガイルは確信していた。しかもデリウスが指揮をとるとなればなおさらだ。これまで白兵戦要員といえば、陸兵隊から数隊を借りて艦隊に同乗させたり、水兵に帯剣させたりしていたのだが、前者はソルスキアら陸兵隊幹部の了承を必要とした上、普段は陸での訓練が主であり、後者はもともと白兵戦を前提とした訓練をおこなっていたわけではなかったので、精強さという点でアーガイルには大いに不満があったのである。

「……思うようにいかぬものだな、悪いことをした」
 フィンセントは私室でつぶやいた。部屋には、フィンセントのほかには、彼の侍従兼付き人兼世話係といった役割を負っているクレアス少年と、フィンセントにとって信頼すべき閣僚であり、尊敬すべき親族であるフェルディナントがいるだけである。フェルディナントは公国外務卿という重職をになっているが、単なる閣僚ではなく、フィンセントにとって貴重な政治顧問というべき存在だった。公国の重臣には、コルネリスをはじめアンクレス、ピーテルソーン、ベルーラ、ヨースト、アントンといったように、有能な行政官あるいは法官はそろっており、マールテン、ソルスキア、フィジック、ヒド、そしてアーガイルというように、信頼すべき武官もいる。だが、政治むきな思考、あるいは外交官的な発想のもちぬしがすくない。王国の属邦であったころはそれでもよかった。政治と外交を考えることのできる人間は王都に一人いればよかったのだ。
「なにが、でしょう?」
 そのフェルディナントがたずねてくる。
「……」
 クレアスはさりげなく一礼して、隣室に下がった。狎れることもないが、必要以上に畏まることもないこの少年を、フィンセントは好ましく思っていた。だがフィンセントは寛容なだけの人物ではむろんなく、むしろ自分一身のことに関しては極端に気むずかしい部分をもってもいたから、クレアスがその微妙な境界線をどちらかに踏み越えたら、ただちに彼の不興を買っただろう。
「とぼけるな、わかっているのだろう」
 と、これはフェルディナントに対する台詞である。
「……教会へ使者をおくったことですか」
「ああ。フォンデルは、善悪、正邪は別として、とにかく無原則な男だ。なにかきっかけがあれば教会と結ぶこともありえるとおもった。奴が妥協できないのはわれわれに対してだろう、ともな」
「殿下のご賢察でありました」
「なにが賢察なものか」
 フィンセントは自嘲した。
「奴はあせっていたはずだ。レア帝国軍がわれわれに敗れるなど、想像もしていなかったであろうよ。教会のなまぐさどもも、わが公国が帝国軍を撃退したときけばあわてるにちがいない。どちらかの背をひと押ししてやれば、奴らが一時的にせよ手を結ぶことは充分に考えられることだったし、実際にそうなった。もし宰相が単に教会と手をにぎっただけならば、不満と不安を感じる貴族や将軍は多かったはずだ。だが、奴は――」
「フォンデル卿は、近衛兵団を粛清するのに教会を利用することで、周囲の不満を畏怖に変えてしまいました」
「その通りだ! まったく狡猾な。まだ私は奴のことをみくびっていたようだ」
「それにしても、なぜバルネフェルト伯は、みすみすフォンデルの罠にかかるようなことをしてしまったのですかな」
「だからわざわざ戦勝祝賀の宴などをひらいたのであろうよ。伯はすべてを知っていたわけではないにしても、多くのことを知っていただろう。伯にとっては一夜でフォンデルを追い落とす絶好の機会に思えたはずだ。私でもその立場であれば……」
「なるほど」
 フィンセントは、幾人かの下級騎士を王都に残してきており、また、先だってはコルネリスの推挙をもとに、あらたに王都に人を送った。教会に対してある可能性を示唆するためである。すなわち、教会のめざす神権政治とフォンデルのめざす中央集権政治との間には、広くて深い溝があるが、すくなくとも中途までの道程は一致する。テュール家の打倒というのがそれである。両者が矛をおさめ、なんらかの妥協点を見いだすことさえできれば、テュール家なきウェイルボード王国は明日にでも実現できるだろう、と。
 この策は、一見したところみずからの首を絞めるだけであるように思える。だが、フィンセント自身が「われながら悪辣だが」と複雑きわまる表情でいったように、宰相と大主教とが手をむすべば、どちらかを支持していた者、あるいはヨッサムのように双方に対して批判的であった者は、激昂して両者を非難するにちがいなく、彼らが握っていた武力が彼ら自身の手をはなれるような事態も、充分に期待できたのである。そうはならなかったとしても、そこで彼らが「安心して」公国軍との間に戦端をひらくとなれば、それこそフィンセントの狙い通りなのだった。それこそ、誰のための、何のための戦いなのか、フォンデルがどのような美辞麗句をつくしたところで、将兵にはさっぱりわからないことだろう。要害を利用して持久戦にもちこみ、主力決戦を海上でおこなうようにもっていく自信がフィンセントにはあったし、海戦ならばアーガイルが十中八九は勝つであろうし、勝たないにせよ負けることはないという信頼もあった。
 だが、フィンセント自身が苦々しく認めざるをえないことに、フォンデルは教会をみごとに利用した。近衛兵団がほろびた今、ヨッサムの死に疑念をいだく者はあっても、声高に抗議する者はいないだろう。教会と手をむすんでいるのならばなおさらである。
「それにしても……」
 フィンセントの声に苦みがまじっている。自分の策をフォンデルに逆用され、あげくのはてにヨッサムが暗殺され、近衛兵団が粛清されたとあっては、何も知らずに自分をたよってきたデリウスに対して、後ろめたさを感じずにはいられなかった。
「わかったことがひとつある」
「は……?」
「政治は悪人の仕事だということだ、フェルディナント卿」
 デリウスが亡命をもとめてきたとき、フィンセントは思ったものである。この豪傑をフォンデルにひきわたし、それをもって交渉のきっかけとすることが可能か否か、可能ならばそれは有効か否か、有効ならば利害どちらが大きいか、と。
 もちろんこの場合は、海兵隊の指揮官が不在であったこと、デリウスの勇名、なにより今の宰相府との間に交渉をもつことの無意味を考え、フィンセントは未練もなくその考えを破棄した。とはいえ、そのような発想がでてくること自体、すでにまともではない、と思うのだ。
 フィンセントはこの一ヶ月間、ことさら善人でなくとも眉をひそめるにちがいない悪辣な策謀を、その頭脳の中でいくつもひねりだしている。もっとも、今回のデリウスの件もふくめ、そのほとんどをフィンセントは、頭蓋骨の外には出さずに封印していた。これはフィンセントの良心によるものではない。内外さまざまな要因から、最善の方法ではないと判断したからである。陰謀というものはしょせんは詭計であり、害のほうが大きい場合がほとんどである。フィンセントがフォンデルと決定的にことなる点は、陰険な策略というものの限界をわきまえていることであろう。一再ならずフォンデルの尋常ならざる謀略と実行力を目の当たりにし、それをみとめつつも、彼に対する軽蔑をかくそうとはしないフィンセントであった。
 フェルディナントは答えなかった。政治は悪人の仕事――この年少の血縁者が、その懐疑心と良心を、公国に対する責任感に優先させることはありえない、とわかっていたからだ。
 
 
 

   つづく

 




有助さんの部屋に戻る/投稿の部屋に戻る