- Cut the fruits -
Written by みなる






9:16 a.m.


……見ないほうがよかったかもしれない。

そう思う映像から、なぜか目を逸らすことができぬまま、私はビデオのリモコンを握り締
め、絨毯にぺたん、とお尻をついて座り込んでいる。
目が悪くなるほどに近付いて見つめる25インチの画面の中では、まるで荷造りされた包
みのように、縄で縛られた女が下着姿でベッドに転がされていた。
両腕は背後にねじ上げられて自由を奪われ、乳房やウエストはぎゅうぎゅうに締め付けら
れていびつにくびれ、脚は胡座を組まされたままかっちりと固定されるという、見ている
だけで苦しくなってしまうような体勢で。
その女に、やけに浅黒い肌をした、黒いブリーフ一枚姿の男がベッドの脇から近づく。
男は女に覆い被さり、片手で黒いレースのブラジャーの上から、女の乳房を撫でまわしは
じめた。
もう片方の手は、やはり黒いレースの、パンティーの中だ。
テレビのボリュームは、うんと低くしてある。
なのに、途切れ途切れに哀願をする女のか細い声が、いやに大きく耳に届いた。

「お願い、やめてください……許して……」

許して?
いったい、何をだろう?
私はこのビデオを最初からちゃんと見ている。
デッキのデジタル数字に目を落とすと、再生時間はまだたったの4分32秒。
その間、この女の人、男に許しを乞わねばならないようなこと、何かしたかな?
何もしていないような気がする。
お勤め帰りらしきOLが夜道を歩いていたら、突然後ろから近付いてきた男にナイフで脅さ
れて、薄暗い倉庫のような部屋に連れて来られた。
思い切り頬をぶたれて倒れ伏したところで、乱暴に衣服を剥ぎ取られ、下着姿にされた。
そしてあっという間にこんなふうにぐるぐる巻きにされてしまい、現在の場面に至る。
これをストーリーと言えるのならば、そういうストーリーだった。確か。

私が訝しんだり、記憶を辿ったりしている間にも、お話(?)はお構いなしに進んでゆく。
視線と意識を画面に戻すと、

「おとなしくしていないと、こいつでそのきれいな肌を切り裂くって言ったこと、忘れて
いないよな」

男がこう言いながら、ぎらりと残忍な光りを放つアーミーナイフの刃を、女の頬にぴたっ
とつきつけて脅しているところだった。
女が無言で頷くと、男は女の下着と肌の間に刃先を差し入れ、薄い布地を切り裂いた。

そのあとのことは、もう、人間が人間に対してすることとは、私には思えなかった。
ひどい場面の連続。見ちゃいられない、と思った。
なのに私は動けなかった。
いやだ。こわい。見たくない。
そう思えば思うほど、どうしてか、その対象物をじっと見つめてしまうのが、私の悪い癖
なのだ。

女の長い髪を鷲掴みにし開きかけた唇に強引に性器をこじ入れて、しきりに腰を動かす男。
そうして吐き出されたものを口からこぼしたことに対する叱責としての鞭打ちを受ける女。
食い込む縄目と、鞭打たれて付いたいくつものみみず腫れが痛々しい、女の白い肌。
その肌の上を、蛇のように這い回る男の舌。
下半身のみ縄を解かれ、大きく開かれた女の脚の間にかけられたモザイク。
その中心に挿入された、大きくてグロテスクな形の、黒々とした器具。
小さくてコードのようなものが付いていた、ピンク色の器具。
輪郭はおぼろげでも、暗褐色の濃淡でそれだとはっきり見てとれた、性器同士の結合の大
写し。
白い体液に汚された女の顔。
大股開きで椅子に腰掛け、火の付いた赤い蝋燭を手にする男。
後ろ手に縛られたままで男の脚の間にひざまずき、必死に頭を動かす女の背中。
少しでも男の気に染まぬ動きをすると、その背に垂らされた赤い蝋の雫と白い肌との、鮮
やかなコントラスト……。

呆然と眺めていたら、いつの間にか、画面は砂嵐になっていた。

我に帰ってリモコンの停止ボタンを押すと、映像はテレビに切り替わる。
土曜の午前の情報バラエティー番組。
若い女性タレント二人組が、きゃいきゃいとはしゃぎながら、東京湾岸に新しくオープン
した観光スポットを紹介している。
どこまでも続く大きなシュロの並木道と、色とりどりの花が咲く手入れの行き届いた前庭。
その後ろに建つ、ベージュとブルーの配色が美しい、真新しくて大きなホテル。
東京のすぐ隣だとは思えない、まるで南国の海辺のリゾートようなそのホテルのエントラ
ンス前では、かわいらしい動物キャラクターのぬいぐるみが盛装をして、早くおいでよと
言わんばかりに手招きをしている。
それを見つけて、きゃー、かわいいーっ、を連発しながら子供みたいに目を輝かす、女性
レポーター二人組……。
テープが巻き戻るのを待つ間、ついさっきまでこの箱が映していたものとは大違いの健全
で明るい光景を見ていたら、ふいに虚しさが胸を襲った。

……なにやってるんだろう、私。

見終えた後で絶対に不快な気分になるってこと、最初の五分足らずで気づいていたのに。
デッキが、がちゃんと音を立てる。巻き戻しが終わったのだ。
私はのろのろと、テープを取り出した。
透明なプラスチックのケースに入れ、レンタルビデオ店の布袋にしまう。
元どおり、ラベルの面を下にして、もう一本のテープの奥側に。

……ものすごく、ばかみたい。

こそこそと、証拠隠滅に細心の注意を払ったりなんかして。
どんよりとした気分がより一層重みを増すと同時に、自分のしていることがなんだか滑稽
にも思えてきて、暫くぼうっとしていると、脱衣所のほうから「ピー」と甲高いブサー音
が響いた。
ビデオを見る前に回しておいた洗濯機が、止まったのだ。
私が、同居人の誠二が隠し忘れたアダルトビデオを好奇心から盗み見て、自分で見ておき
ながらその内容にショックを受けるなどという、おそろしく無意味なことをしている間に
も、洗濯機はしっかりと回って、私と誠二の四日分の汚れものをきれいにしていたという
わけだ。

洗濯機って、偉いよなぁ……。

妙なことに感心をしている場合ではない。洗濯物、早く干さないといけない。
えいっと気合を入れて、私は立ち上がる。
そしてテレビのスイッチを切り、リモコンをテーブルの上に置いて、脱衣所へと歩いた。



10:02 a.m.


ベランダに続く窓を開け放つ。外はいいお天気だ。
この部屋はマンションの二階で、ベランダのすぐ下が駐車場になっている。
停めてある白い車に反射する夏の日差しが眩しくて、私は思わず目を細めた。
洗濯かごを抱えていないほうの手で額にひさしをつくりながら、ベランダ履きのサンダル
を履いて、外に出た。
タオル。バスタオル。枕カバー。
ひょいとかごから取り出し、ぱんぱんと皺をのばして、布地の端をちょんとピンチに挟む。
誠二のペイズリー模様のトランクス。私のギンガムチェックのパジャマ。
誠二の大きな靴下。私の小さな靴下。
どんどん、どんどん干してゆく。
ひょいと取って、ぱんぱんっとして、ちょん。
手慣れた単純作業を何度も繰り返し終えて、私は見上げた。
青空をバックにひらひらとたなびく、洗い立ての衣類たち。
それらを清潔に乾かさんとばかりに降り注ぐ、真夏のお日さまの強い光。
なんて清々しい眺めなのだろう。私の心とは、きっぱりとうらはらに。

普段なら、急かされたりしなければ、家事はわりと楽しいと思う。
中でも掃除は好きなほうだ。
頭の中では全く違うことを考えながら、手だけはゆっくりと、でも的確に動かす。
来週の仕事のスケジュールを組み立てたり。
本を読んでいて引っ掛かった言葉に、自分なりの解釈を試みたり。
友達からのメールへの返事を練ったり。
色々なことを考えているうちに、だんだん、そこらかしこがきれいになってゆく。
考えごとも、ひとつところに淀むことなく、頭の中をさらさらと流れてゆくような気がす
る。
この感じが気に入っていて、休みの午前中は大抵、家中を掃除して過ごしている。
今日もそうだった。
土曜日なのに出勤だという誠二を送り出した後、私は、部屋に散らばった新聞や袋菓子の
空き袋、うちわや虫刺されの薬や爪切りやら何やらを、片付けて歩いていた。
そして、あのテープを見つけた。
テレビの前に置かれていたレンタルビデオ店の布袋をどけようと持ち上げたら、ビデオ二
本分の重みがあったのだ。
昨日、誠二は、以前の休日出勤の振替休日を取っていた。
私が会社に行っている間は、ビデオを観たりして過ごしていたそうだ。
でも『酔拳3』を借りたとしか、言っていなかったのに。
もう一本は何だろう、面白そうなら私も見よう……と袋を開けたら、それが出てきたとい
うわけだ。
別に驚きはしなかった。
二十六にもなって、恋人がアダルトビデオを見ているくらいでうろたえるほど、私とて世
間知らずではない。
むしろ、知り合って二年、一緒に暮らし始めてからは半年もの間、こういうもの……ビデ
オだけではなくて、雑誌やマンガの類も……を一度も私の目に触れさせたことがなかった
誠二が初めて見せた隙を、微笑ましいと思ったくらいだ。
私はたまらなく、知りたくなった。
誠二は、ひとりで、どんなものを見て欲情するのだろう。
参考になるのではないか、とも思った。
誠二を、うんと、気持ち良くさせてあげるための。
しかし今、私は、ひどい後悔の念の真っ只中にいる。
知らなかった。
誠二が、ああいうものを好んで見るような男だったなんて。
知りたくなかった。
でも自業自得だ。本当に、これぞまさしく。

もうなあんにも、したくない。まして掃除の続きなど。

私はベランダから部屋に戻ると、座布団を二つに折り曲げて頭の下に敷き、絨毯の上にご
ろりと横向きに寝転がった。
イルカの形をした、大きな抱き枕を抱えて。
水色のコットンでできたこの抱き枕の、ワッフル織りのでこぼこが頬に当るさらさらとし
た感触が、私はとても好きなのだ。
誠二にくっついて眠るのと、同じくらいに。
……でも。
今夜は、誠二と一緒のベッドでは、眠りたくない。
そう思ってしまってから、私は急に不安になった。
今夜どころか、これから先、今までと同じ気持ちで誠二に接することができるのだろうか?
まさかこんなところに辿り着くとは、思わなかった。
取り返しのつかないことをしてしまったような心細さを感じながら、私は自分の、こわが
りなくせに旺盛な好奇心を、呪った。

それにしても衝撃的だった。
アダルトビデオなんて見たことがなかったのだ。これまで一度も。
そんな無免疫状態で、あの内容を見てしまったのだから、忘れたくても忘れられない。
そして思い出すたびに、烈しい嫌悪感もセットになってこみ上げてくる。
あれは作り物なのだということくらい承知している。
しかし、私は、女だ。それも会社員の。
どうしたって、襲われたOLに感情移入せずには、いられなかった。
もしも私があんな目に遭ったら。
あんなふうに脅され、嬲られ、辱められたら……。
想像するだけで、死んでしまいたくなる。
楽しんで鑑賞できる者の気が知れない。許せない。
なのに、それが、誠二だなんて。
しかもこれは、何かの間違いなどでは決してない。
なぜならあのビデオのタイトルは「OL陵辱・悪夢の調教」だったのだ。
今考えれば、これほど内容が判り易いものはないというくらい、単純なタイトル。
誠二は、わざわざそれを、その内容であるが故に、選んで借りたに違いないのだ。

どうして、あなたが?

手酷い裏切りを受けたような気がして、胸の中が真っ暗になる。

誠二とするのなら、という条件付きで、私はセックスが好きになった。
今の私は、誠二の胸の下でなら……時には上でなら……自分でも驚くほど、大胆に振る舞
えるようになっている。
そういうこと、つまり行為自体も、勿論とても楽しいけれど。
でもそれよりも。
例えば冬の夜に抱き合うとき。
誠二はいつも、私の身体が冷えないように、掛け蒲団ごと私に覆い被さってくる。
その姿を「ムササビみたい」と私がからかうと、必ず返される誠二の微笑とか。
すごくすごくいたずらなムササビが、ふわりと私に着地する瞬間に揺れ動く、蒲団の中で
暖められた空気とか。
例えば一緒にお風呂に入るとき。
狭いバスタブには、まず誠二が先に入る。
私は彼が開いた脚の間に、彼と同じほうを向いて身を沈める。
私の身体は、誠二の長い手足に後ろからすっぽりと包まれる恰好になる。
そうして二人で温まっていると徐々に私を浸してゆく、まるで海流に流されぬよう長いケ
ルプを身体に巻いて眠るラッコにでもなったかのような、とても長閑な安心感とか。
そうしたもののほうを、私はより深く、愛しているのかもしれない。
いずれにせよ。
私が、セックスというものが、ひたすらに時が過ぎるのを耐えて待つものでも、中途半端
な気持ちのままで放り出されるような寂しさを味わうためのものでもないということを知っ
た場所は、誠二の腕の中だった。
なのに。
誠二は、心の何処かに、女を虐げたいという欲望を確実に棲まわせている。

本当は、私のことも、そうしてみたい?

私はいやだ。絶対にいや。
そんなことをされるのも。
されないまでも、そのような嗜好を誠二が持っているということがもう既に!
ならば、いっそ、この二年間を終わりにするしかない?
それもいやだ。思い付いただけで、泣きたくなってしまうほど……。




10:55 a.m.


やはり考えごとというものは、じっとしていると、淀んで濁るものらしい。
少しずつ溜まってゆく澱に視界を遮られて、だんだん自分が常軌を逸し始めているのが、
自分でも判る。
動かなきゃ。何でもいいからとにかく。
とりあえず喉が渇いたので、私は台所に向かった。
冷蔵庫から麦茶の入った瓶を取り出し、良く冷えた中身をコップに半分ついで、ゆっくり
飲み干す。
ちゃんと薬缶で煮出して作った麦茶は、すっきりと香ばしくて、おいしかった。
結露に濡れたガラスのコップは、からになってもひんやりとしていて、握っていると手の
ひらの熱が奪われてゆくのが、とても気持ち良かった。
私は徐々に、落ち着きを取り戻し始めた。

掃除をしよう。さっきの続き。こんなときだからこそ、とりあえず。
私にとって“とりあえず”という言葉は、ちょっとした魔法なのだ。

とりあえず、いい香りのお茶。
とりあえず、おいしいごはん。
とりあえず、甘い甘いお菓子。
とりあえず、温かいお風呂。
とりあえず、ひと眠り。
とりあえず、髪を切る。
とりあえず、オーデコロン。
とりあえず、新しいブラウス。
とりあえず、図書館まで散歩。

気が沈むとき。
腹が立って仕方がないとき。
何もかもがいやになったとき。
何をどうしたらいいのか、途方に暮れるようなとき。
悲しくて寂しくて不安で、もうどうしようもないとき。
私は、ささやかな幸福感を私にくれる“とりあえず”たちで自分を救って、生きてきた。
つらい事実をきちんと受け入れ、対処するできる自分になるためのきっかけをくれる、言
葉と行動の力。私は、それを、大いに信頼している。
だから、どうか。
どうか、また、私を助けて。

コップをゆすいで洗いかごに置くと、私は、2LDK中全ての窓を開けて歩いた。




11:14 a.m.


掃除機をかけながら、私は歌をうたっている。
何かを思い出したり、考えたりしないで済むように。
今はどうせ、あのビデオのことしか考えられないに決まっている。
そしてきっと、その考えは、よくない方向へと突き進んでゆく。さっきみたいに。
だから絶対に、考えたりしないほうがいいのだ。少なくとも今は。
手元コントローラーのスイッチを“ハイパワー”にセットすれば、どんなに大きな声を出
しても、私の声は掃除機の騒音にかき消される。
私は安心して、好きな歌を、のびのびとうたった。思いっきり感情移入して。
うたいながら、私は。
春の浜辺に床屋を開店した、あわてんぼうの蟹になった。
アコーディオンのジョーカーの啓示を受けて、歌うたいになった女の子になった。
夜の公園で月の光を吸いすぎて、少し気がへんになっている少年になった。
うまくいかない物事を嘆いていたら、カエルに慰められてしまった女になった。
文科系のくせにサイエンティスト気取りでタイムマシンをこしらえて、しかもその運転が
下手くそな男の、彼女になった。
そうしているうちに、絨毯に落ちていた小さなごみや、パイルに絡みついていた髪の毛、
板張りの床の隅にふわふわしていた綿ぼこりなどは、みんな掃除機の中に消えた。
心なしか、私の気分も爽快だ。
勢いをつけて……でも歌声は少し小さくして、雑巾掛けも一気にやった。窓も拭いた。
トイレやお風呂、洗面台も磨いた。目に付くところは、どこもかしこも、全て浄めた。
やがて動き疲れ、私は台所と居間とを隔てるカウンターにもたれて、部屋を見渡す。
目に映るのは、物はきちんとあるべき場所に収まり、逆に塵や汚れは見当たらなくなった、
気持ちの良い空間だ。
開け放してある窓から時折入る弱い風が、労働に汗ばんだ私の肌をさらりと撫でながら通
り抜けて行くのも、いい感じ。実に心地良い疲労感。
ふと、ダイニングテーブルの上の小さな置き時計に目を遣った。
時刻はもうすぐ1時半になるところで、それを認識した途端、私は急に空腹を感じた。
素麺でも茹でて食べよう。つるつるつるっと。でもその前に、もうひとつだけ。
私は、押し入れの湿気取り剤がそろそろ取り替え時であることを思い出していた。
その交換だけ済ませたらお昼ごはんにしようと考えながら、全ての網戸を閉めて回った。



1:29 p.m.


この部屋の収納スペースは、全部で3ヵ所だ。
寝室にしている6畳の和室に押し入れがひとつと、居間と殆ど納戸と化している4畳半の
洋間に、小さな物置がひとつずつ。
そのそれぞれに、ひとつかふたつずつ、湿気取り剤を置いてある。
押し入れの襖を開いてしゃがみ、三角形の小さなタンクを手に取ると、それはずっしりと
重かった。
持ち上げて目の前にかざすと、思ったとおり、溜まった湿気の水面は「お取り替えどき」
の線のところにまで達していた。
ほかの部屋の湿気取り剤も集めて回り、中の水を次々と流しに捨てる。
捨てながら、約3ヵ月ごとにこうするたびにいつも思うことを、今日も今日とて思った。

湿気取り剤って不思議。
この水、飲んだら死ぬかしら。

飲むどころか舐めてみる勇気もないので、結局いつものように、そのまま全部流してしま
うのだけれど。
からになったプラスチックの容器を燃えないごみの袋に入れると、私は新しい湿気取り剤
の買い置きを捜した。
どこにしまったかは忘れたけれど、どこかに必ずあるはずなのだ。
なのに見当たらない。
私は、こんなところにしまうわけがないというところまで、覗き込んで捜した。
台所の流しの下とか。
押し入れの天袋とか。
当然だが、そんな変な場所を捜したところで、湿気取り剤の買い置きなどあるはずがなかっ
た。
どうしてだろう。買った記憶は、きちんとあるのに。
納戸状態の部屋の物置も見てみることにした。
この上下二段に別れたスペースには、普段はあまり読まないけれど手放すのは惜しい、本
やマンガの詰まったダンボールなどがぎっしり入っている。
だから生活用品をしまうことはないのだが、いちおう念のためと思い、扉を広く開けた。
奥の方も調べてみようと思い、まず下段の手前側に積み上げてあるプラスチック製の文庫
本用収納ケースをどかした。
やはり見つからなかった。
しかし、手前側の物をどかした奥に現れた小さな箱に、私は目を奪われてしまい、探索の
手を止めた。
それは幅40センチ、高さ50センチ、奥行き30センチほどの、鉄製のロッカー。
本体はクリーム色。扉は緑色で、鍵がかかるようになっている。
この部屋にあるもので唯一、私がその中身を知らない箱だ。



このマンションに越してきたのは、今年の2月の終わり。
私と誠二は、それまで、別々に一人暮らしをしていた。
それぞれ住んでいたアパートが、どちらも今年の3月に契約の更新料を支払わなければな
らなくて、私達は二人とも、更新はせずにより便利で快適な住居へと引越しすることを検
討していた。
年が明けてすぐ、私達は一緒に不動産屋巡りを始めた。
二人ともいい物件を見つけられずに終わってしまったその日。
夕食に入った焼肉屋のテーブルで、少しの沈黙が続いた後、誠二がふいにこう言った。

「一緒に住まない?
そうすれば、今よりも少ない一人当たりの家賃負担で、駅から近く
て広い部屋を借りられるよ」

肉を焼く私の手は止まった。
鉄板から目を上げて思わずじっと見てしまった誠二の顔は、まっすぐこちらを向いていて、
私の答えを静かに待っていた。

「いい考えだね、それ」

迷った末に、そう返事をすることに決めるまでの数秒間、カルビがじゅうじゅう焼ける音
が、やけに大きく聞こえたのを覚えている。

そして二月の中旬。
誠二のアパートで引越しの荷造りを手伝っていたときに、私は初めて、この小さなロッカー
を目にしたのだった。
何これ、と訊ねる私に、誠二は高校時代の話をしてくれた。
通っていた男子校は、良く言えばやんちゃな男の子が多くて、私物の盗難や校内備品への
乱暴が多かったから、生徒は全員、鍵のかかるこのロッカーを入学時に買わされて、卒業
まで自己管理をさせられたのだと教えてくれた。
高校・大学の七年間を女子校で過した私は、自分の学生生活とはまるで違う世界の話を、
大きな驚きをもって楽しく聞いたものだ。
でも、何が入っているのかという質問には、誠二は素っ気無い答えしかくれなかった。

「樅子(もみこ)には見せられないもの」

私のほうを見ずにダンボールの蓋をガムテープで止めながら言う横顔を見て、私はなんと
なく中身を察し、少し意地悪な気持ちになって更に訊ねた。

「もしかして、エッチな本とか?」

「……そうだよ」

誠二は大量の本をダンボールに詰める作業にますます集中してしまった。
なんだか悪いことをしてしまったようで、私も黙って、てきぱきと荷造りに精を出した。
箱の中身がそういうものだと判っても、別に嫌な気持ちにはならなかった。
現実の女は私一人で満足していて欲しいけど、男の人にはきっと、それとは別に幻想が必
要なのだろうと認識していたから。
 

 
あれから半年。
このロッカーは、私の目には触れにくい物置の奥の方に置かれており、誠二はあのときの
「樅子には見せられない」という言葉を、ずっと守り通している。
今日のあのビデオだって。
現物を隠し忘れたというミスはあったものの、誠二は、ビデオの存在自体を隠すことには
気を遣っていたような気がする。
ゆうべ誠二は『酔拳3』を借りたとしか、言わなかった。
そのつまらなさを私に語るとき、いつになく饒舌だった。
それはおそらく、私の関心をレンタルビデオ店の布袋から遠ざけようとする、無意識の行
動だ。
しかし私はそれを見つけた。
でも見ないでおく、という選択もできたのに、私は見た。好奇心から、自分の意志で。
ならば。
誠二がきちんとかけていた鍵を、勝手にこじ開けたのは、私なのではないだろうか?
さっきまでの不快な気分に対する責任は、殆ど全て、私のものなのではないだろうか?
誠二の落度はごく僅かで、それも単なるケアレスミスで。
普段の彼は、表出できない欲望をその胸にきちんと畳んで、私をやさしく愛してくれてい
るということなのではないだろうか?
今朝、いつものように玄関で靴を履きながら、私に行ってきますのキスをして出勤していっ
た彼は、その後で私がこんなことをして、一瞬でも別れを考えたなどとは、夢にも思って
いないだろう。
そんな彼を嫌うことなど、どうして私にできるだろう?
もう何分も、物置の前にしゃがみ込んだままだった私はようやく、あのビデオに対する自
分の態度を決めた。
何も見なかったことにして、素知らぬふりを貫き通すのだ。
よく考えたら人間なんて、ひと皮剥けば、どろどろしていて当たり前だし。
そしてそれも真実ではあるが、誠二が私に見せてくれる姿もまた、紛うかたなき真実であ
ると、私は確信できるから。
私はすっかり落ち着いた、平らかな心で、文庫本ケースを元どおり物置の手前側に積み上
げ始めた。
そうしていると唐突に、新しい湿気取り剤は車のトランクに積んだままであることを思い
出した。
だけど同時にひどく空腹であったことも思い出したので、駐車場に行くよりも先に、流し
の下から大きな鍋を取り出した。
素麺を茹でて食べるのだ。冷たくて、つるつるとした。刻んだねぎと海苔と一緒に。



7:48 p.m.


夕食後のデザートに、私は梨を剥いている。
今時分から秋にかけてが、最も美味しい季節だから。
果物の中で、誠二がいちばん好きなものだから。
黄金のような色をした、丸くて大きな実に包丁を入れると、甘い香りのする水分がじわっ
と染み出て、私の指先を濡らした。
好きな男の人のために、甘い汁で手を汚す。
私、今、きっと、ものすごく幸福な女だ。

私は、一月のあの日に、肉が焼ける煙の中でした決断の正しさを噛み締めた。

一緒に住まない?
あのときそう発音した誠二の声は、実に蠱惑的に、私の鼓膜を震わせた。
一緒に暮らす。
週末だけでなく毎日毎日、誠二のいる場所に帰り、同じものを食べ、隣で眠る。
想像するだけで、嬉しくなってしまった。うん、と即答したかった。
でもできなかった。
そこまで濃密に関わり合ってしまったら、考えたくはないけれど、もしも私達が別れるこ
とになったとき、どんな理由でそうなるとしても、二人ともかなりの深手を負うことにな
るのではないかと思ったからだ。
今までにしてきた稚拙な恋愛だって、終わりのときには胸がひどく痛んだ。
だとしたら、この恋が終わるときの苦痛は、一体どれほどのものだろう?
まして生活までともにしてしまった後では、まるで布を裂くように、心が引き千切れてし
まうのではないだろうか?
答えを決めかねているうちに、数秒が瞬く間に過ぎた。
私は口がきけなくなったみたいに、誠二の顔を、ただじっと見つめていた。
彼もまっすぐ私の目を見て、私の返事を静かに待っていた。
私が言葉を取り戻したのは、二人とも黙ったままで更に数秒が過ぎた頃、彼の視線が、不
安そうにちらりと揺れ動くのを見たときだ。
誠二も、私と同じ年数を生きて、ここにいる。
それはつまり、彼もまた、私が恐れたようなことに気が付かぬほど、或いは気が付きなが
らも完全無視を決め込むことができるほど、若くはないということだ。
それでもなお、私との生活を望んでくれたこの人に、こんな目をさせるくらいなら。
私も敢えて、危険を冒そうと思った。
いい考えだね、それ。
私がそう言うと、誠二はほっとしたように息をつき、実は二人で住むのにいい物件を、も
う既にいくつかチェック済であることを、私に告げたのだった。

その結果としての、今の生活。
失うことになったときの苦しみは計り知れないが、手に入れた価値は十二分にあると思う。
部屋を暗くしてから眠りにつくまでの間、冷蔵庫が突然唸りだしたり、建物のどこかで何
かが軋むような音を立てたとしても、すぐ隣には安らかな呼吸にその胸を上下させている
誠二がいつもいつもいて、夜の闇と静寂とに怯えずに済む生活。
会社で何かいやなことがあったようなときに、私の胸に顔をうずめて甘えたがる誠二の、
柔らかそうに見えて硬い髪を、彼が必要とするときにはいつでも撫でてあげられる生活。
固くて開かない瓶詰めの蓋を開けてくれる、私専用の男の人がいる生活。
今、何やらマニアックな雑誌に読み耽っている誠二に、こうして果物を差し出してあげら
れる生活。

「はい、梨剥いたよ」

「おっ、サンキュ」

雑誌から目を上げて、私がテーブルに置いた皿に手を伸ばしながらこう言う誠二の顔は、
やはり嬉しそうだ。
彼はしゃりしゃりと美味しそうな音をたてて最初の一口を食みながら、続けて言った。

「うまいね、この梨。それに今日は、なんだか飯も豪華だったんじゃない?」

「そう?
そんなことないよ」

答えながら、私も梨を一切れつまんで、口にした。
だって豪華だなんて、本当にそんなことはないのだ。
高価な食材など使っていないし、手の込んだ料理もしていない。
ただ。
水煮缶の銀杏と鳥皮を甘辛く煮たものとか、チキンコンソメのスープとか、炊き込みご飯
とか、私がレバー嫌いだから今まで絶対に作らなかった、レバニラ炒めとか。
とにかく誠二の好きな食べものを、和・洋・中、何の脈絡も無く作って、並べただけだ。
なんとなく、今日のことの、罪滅ぼしのつもりで。
思惑どおり、どうやら誠二は喜んでいるらしい。よかった。
ささやかな満足感に浸りながら噛み潰す梨は、優しい甘み。
冷たくてみずみずしくて、夏の暑さに疲れた身体の隅々に、すうっと染み込むような味が
した。
ちゃんと見ているわけでもないのにつけっ放しのテレビでは、ナイター中継をやっている。
巨人対中日戦。
誠二は毎月発売日に買っている雑誌を今日買ってきて、それを夢中で読んでいるから、私
は二切れ目の梨を食べながらぼんやりと、松井がバッターボックスに入る様子を眺めた。
画面の隅っこには、G3−D0という表示。
野球ファンではないけれど、巨人が勝っていると、なぜかちょっと嬉しい。
そして私の視界の端には、テレビの前に置かれた、レンタルビデオ店の青い布袋があった。

私は考える。
あのビデオ、誠二の他には、一体どれくらいの数の男の人が観たのだろう。
店に置いてあるということは、この町に住む男の人の何割かは、確実に観たのだろうな。
そして、レンタルビデオ店は全国に何万と存在するから、単純に掛け算をしたら、日本全
国ではかなりの数になるのだろうな……。
女の私には目を背けたくなるような内容でも、男の人がああいうものを好んでしまうのは、
生物の雄として仕方の無いことなのだろうか?
それはもう、例えば、テレビの上のオリヅルランの鉢からするするとランナーが伸びて、
先端から子株が芽生えてきたのと同じような、とても自然で正確なことなのだろうか?
だとしたら。
日本全国の、何百人だか何千人だかの男の人のことなど、知ったことじゃあないけれど。
誠二は、つらい思いをしてはいないだろうか?
手懐けているはずの暗い情欲が出口を求めて暴れだし、それを抑えつけるために並大抵で
はない煩悶を強いられるなどということが、ときにはあったりするのではないか?
なだめてあげたい。
誠二の胸の中に存在する、ありとあらゆる苦しみを私が。

私は眺める。
梨を含んだ口をもぐもぐ動かしながら、細かい活字に読み入っている誠二の横顔を。
そして思う。
私をまっすぐに見つめてくれるときの誠二の顔は、そりゃあ勿論素敵だけれど。
こんなに私の側にいるのに、私のことなど少しも考えていないふうなのもいいな。
あのビデオを見ているときには、一体どんな表情をしているのだろう?

私は想像する。
誠二が、その目に、暗い情欲の炎を灯している姿を。
ビデオに出てきた男のように、酷薄そうな笑みを浮かべる姿を。
片頬だけを歪めて。唇を下卑た感じに曲げて。舌舐めずりなんかもして。
実際に見てみたいなあと思う。
だって思い浮かべただけで、こんなにも胸がぞくぞくと粟立つ。
実現は簡単だ。
それはおそらく、衣服を脱がせ合うのと同じようなことだ。
ただし分別という、心に纏う目には見えない衣服を。

「樅子、梨食べてる?」

「えっ?」

問い掛けられて、目の前の皿を見てみると、梨は残り一切れになっていた。

「なんか俺ばっかり食べてるみたいだからさ」

「いいよ食べちゃって。好きでしょ、梨」

私の言葉を受けて、誠二は最後の一切れを手に取った。
しかし彼は、それを自分のではなく、私の口元へと運ぶ。

「はい、口開けて」

なんてやさしい響きの命令。
私はうっとりとしてしまいながら誠二の指先を見つめ、その指が私の口の中に差し入れた
梨を半分、齧り取った。

「おいしい」

一口目を飲み込むと、私はただ一言、そう感想を述べた。
でも、このたった四文字の後には、本当はこんな言葉が続くのだ。
あなたの手から食べさせてもらう梨は、そうじゃないものよりも何倍もみずみずしくて、
酔っ払ってしまいそうなほどに甘くて、なんだか病みつきになりそう。
……とても言えやしないけれども。
だから私は誠二の、もう半分の梨をつまんだ節高な手をじっと見ていた。
その手の中の小さなかけらと一緒に、あなたの指も食べてしまいたい。
湧き上がる衝動を慌てて抑えながら、私は二口目の梨を口にした。

「樅子は夏バテしやすいんだから、たくさん食べなくちゃだめだよ」

私がどんなに邪なことを考えていたのかも知らずに、誠二は私にどこまでもやさしい。
そのやさしささえも脱がせて、もっとぴったりとくっつき合いたいから……。



11:37 p.m.


私にして欲しいことを全部言って。私にしたいことを全部、して。

私に覆い被さり、私の首筋に唇を押しあてる誠二の耳元に、うわ言のふりでこう囁いてみ
た。
誠二が驚いて顔を上げる気配を感じたが、確認することなど、とてもできなかった。
私は目を閉じた闇の中にいた。
その闇は深々とした黒で、なのに不思議とまばゆいきらめきを帯びていた。
このまま呑み込まれてもいい。
そう思ってしまえるほどに、こわくて美しい闇だった。


The End.


 



みなるさんの部屋に戻る/投稿小説の部屋に戻る