二ヶ月後、元和と改元されることになる慶長の二十年五月六日未明、長曾我部右衛門太郎盛親は霧の中にいた。
 馬上、具足をつけているが兜はかぶらず、わずかに伸びた髪を霧に濡れるままにしている。率いる手勢は五千三百。勇猛で鳴る土佐兵を主体としたこの一隊が、大坂城を発してのち、久宝寺を経て八尾へ向かうべく、あぜ道を東進している。
 後年、大坂夏の陣として語られる一連の戦いが、すでに始まっている。


 豊臣方の軍事行動といえるものは、四月二十六日の大和侵攻がその皮切りである。大和郡山城に侵入し、法隆寺村を焼き討ちした。その後、矛先を南に転じ、二十八日には堺を焼き払った。大坂に近い堺商人のあいだでも、事実上天下を制した徳川家になびく者が多かったためである。
 これらの動きに対し、はやくから徳川家康に恭順の姿勢を示している紀州浅野家は軍勢を動員、紀州街道を北上し独力で大坂城をうかがう気配をみせた。
 浅野勢との戦いで、豊臣方は兵力比では有利だったにもかかわらず、主将大野主馬治房の統率力不足から思わぬ敗北を喫する。行軍途中の貝塚にある願泉寺で主隊が大休止中、先陣の塙団右衛門直之が突出してしまい、泉南の樫井という地で敵と接触、単騎勇戦するも団右衛門は討死してしまった。大野治房はこの敗報に接し、慌てて軍を進めるもすでに遅く、戦機は去っていた。浅野勢はそれ以上北上する様子がなかったため、豊臣方も大坂城まで退いた。これが二十九日のことである。
 四月三十日、城内で軍議がひらかれている。紀州浅野家という支隊などでなく、まもなくやってくるであろう攻城軍本隊への対応を決めるためである。同日、家康は京の二条城、その息子で征夷大将軍である秀忠は伏見城にあったが、指揮下の諸将はむろん先行している。大和盆地は、はやくも徳川方の兵で満ちた。
「出戦の他なし」
 席上、まっさきに断言したのは後藤又兵衛基次である。
「大和路の国分の嶮、これに拠ることこそ、御味方勝利への道でござる」
 盛親だけでなく、真田左衛門佐幸村、毛利豊前守勝永、明石掃部全登など、主に先年冬の戦に際して入城した牢人出身の将がうなずいた。なにしろ敵は天下の諸侯ことごとくをしたがえる大軍であり、河内平野になだれ込まれては用兵の余地もない。大和と河内を隔てる生駒山系に迎撃地点を選ぶのは、兵法を知るものにとって自然の要請といえた。
 逆に、籠城はそのまま敗北を意味した。
 その堅固を天下に誇った大坂城も、冬の戦のあと、防御力を大幅に低下させている。戦ののちの和議が定めるところにより、大坂城は外濠を埋めることとなった。しかし、家康は、外濠を埋めた勢いで三の丸を平らにし、ついで内濠までも埋めてしまったのである。家康一流の謀計であった。
「ふむ……」
 豊臣家の筆頭家老たる大野修理亮治長は、しかし、又兵衛の言葉に疑義をあらわす。大野道犬や渡辺糺など、主として豊臣家譜代の人間は、多かれ少なかれそのような気配を示している。彼らにしてみれば、金城鉄壁であった大坂城は、幻影となってもなお脳裏から消し難いのかもしれない。
「修理どの」
 と、治長に釘をさしたのは、幸村だった。
「濠なきいま、もはや城に拠る利はござりませぬぞ」
「わかっておる」
 治長は渋面を作った。冬の戦の最中に和議を進め、結果的に家康にいいようにだまされたのは、牢人諸将でなく城内官僚団ともいうべき治長たちなのである。
 幸村はさらに続けた。
「又兵衛どのの案、まことにごもっとも。国分において寄せ手の軍勢に蓋をしてしまうのでござる」
 それもただの蓋ではない。戦上手で知られた又兵衛とその配下である。国分を西へ越えようとする敵の先鋒は、隘路で自らの行軍の勢いを逆用されて潰乱するにちがいない。
「しかし、敵は大和からだけではあるまい」
「左様、京からも軍勢が発したとのこと」
「ならば」
「しかし、まずは大和路の敵でござる。これを押し戻さねば、我らは裸城に追い込まれることになりもうす」
「む……」
 いいかえせない治長の横顔を、盛親は黙して見ている。
 先年十月に大坂城入りしてから、盛親は城内の奇妙な権力構造に驚くことが多かった。
 むろん城主は太閤豊臣秀吉の遺児、秀頼であるが、実権はそこになかった。
 秀頼の生母、淀君にあった。
 そして淀君との距離の近い人間によって、城内のことは執り行われていた。いわば側近政治である。その中心が淀君である以上、顔ぶれは侍女たちが多くを占めた。その中で治長は数少ない例外だった。
 軍略の才を見込まれてということではなく、淀君の乳母である大蔵卿局の子であるというのが、男でありながら淀君の側近たり得た理由だった。
(ようするにこの修理という男、母親の威光を借りて家老の真似事をしているだけ……)
 が、盛親の場合、その事実をもって、ただちに治長を柔弱とあざけることはできない。自嘲という、盛親にとってはこの十五年来なかば習慣のようになった感情を挟まねばならなかった。
(親の七光りというなら、俺も変わらぬか)
 盛親に武功はない。
 父の元親にはそれがあった。土佐の一土豪から身を起こし、ついには四国全土をもぎ取ったのである。その後、秀吉に屈して土佐一国の安堵を認められるに甘んじたが、それでも二十二万石。あとすこし四国統一が早ければ畿内にまで領土を広げていたことは確実で、薩摩の島津、奥州の伊達と並び称せられる、辺境の豪傑であった。
 盛親は、その父の死によって慶長四年に土佐二十二万石を受け継ぎ、翌年、関ヶ原の合戦で西軍についたため、そのすべてを失った。
 西軍についたといっても、何をしたわけでもない。特に、関ヶ原では、文字どおり何もしなかった。功を立てることもなければ、失敗もしなかった。ただ、流されるままに動き、ついに大名から一牢人に転落してしまった。
(幸村は、違う)
 又兵衛の戦術意見を、今や具体的な方策に変えて手元の絵図面で力説する幸村へと、盛親は視線を転じた。
 真田の雷名は、信州上田城にこもって徳川の大軍を相手に二度も大勝したことで天下に轟いている。だが、その指揮をとったのは幸村の父、安房守昌幸であって、幸村自身の武名は父のかげに隠れがちであった。関ヶ原ののち昌幸、幸村は領土を失い、紀州九度山に蟄居するが、それも土佐を追われてから京の庵で寺子屋まがいをしていた盛親の境遇と似通っている。
 だが、幸村は、先の冬の大坂城籠城戦でおおいに自らの武名をあげた。真田丸という出城を城南に築き、繰り返し寄せてくる敵に鉄砲をさんざんにあびせて出血を強いるかと思えば、浮き足立った敵を出撃して蹴散らすなど、変幻自在の戦いぶりは徳川勢の肝を寒からしめる一方で、孤城に立てこもる豊臣方を励ましてやまなかった。采配を振る将としての幸村の評価はじゅうぶんに定まったといえる。
(俺は、戦えなんだ)
 盛親は冬の戦いでは八丁目口という箇所の守りを受け持った。城壁をへだてて相対したのは井伊掃部頭直孝。徳川譜代でも精兵で聞こえた井伊勢だけあって、たしかに容易な部署ではなかったが、幸村ほど華々しい戦いをしたというわけでもない。
 盛親の評価は、依然、長曾我部元親の子でしかない。
(だとすれば、淀君の乳母の子に生まれたというだけの男と、なんの違いがある……)
「宮内少輔どのは、なにか存念は」
 と、ふだんは幸村などに発言を譲ることの多い盛親に言を促したのは、他ならぬその乳母の子、治長だった。
 呼ばれ慣れているはずの官名に、このとき盛親は、口の端をわずかに歪めた。盛親が宮内少輔を名乗っているのは、同じ官位にあった父が死んだから、それを襲ったに過ぎない。
 見まわせば、諸将、発言を終えていた。軍議の大勢は又兵衛らの作戦計画に傾いており、盛親にも別段異議はない。
「又兵衛どの、左衛門佐どのの案でよろしゅうござろう」
 軍議は、籠城でなく、野外決戦と決まった。

 豊臣方は、野戦に訴えるとはいっても、実際には城内にも兵力を控置せざるをえない。総数五万余のうち、出撃するのは諸隊あわせて三万ほどである。
 対する攻城軍の兵力は、おおきくまさっている。動員、実に十五万を数えた。
 国分越えの軍勢だけで三万四千、これを指揮するのは、三万石の小身ながら豊富な戦場経験を買われて抜擢された、家康にとって三河以来の譜代衆である水野勝成。
 他にも、京から河内路を南下する軍勢が十二万ある。こちらは第一陣だけで一万五千を超える。井伊直孝、藤堂高虎の二将がその先鋒を任せられていた。
 井伊家は戦国最強と恐れられた甲斐武田家滅亡後、その遺臣を多く召し抱え、徳川譜代中の精鋭とされている。井伊の赤備え、という武田家にならい赤で揃えた具足は、すでに名高い。
 藤堂高虎は、徳川譜代ではなかったが、秀吉が生きている間にいちはやく徳川の天下を見抜いた。当時は五大老の筆頭でしかなかった家康に接近して豊臣家の内情を逐一通報し、関ヶ原では当然のように東軍についた。その功により、今では伊賀伊勢二国を有する大名となっている。だが、高虎とて、豊臣政権が安定するまでは槍を振るって立身してきた戦国の男であり、権力者間の遊泳術だけでのし上がってきたわけではない。幾多の戦塵を知りすぎるほどに知った、老練な指揮官である。
 家康が天下の九分九厘を平らげてもなお慎重だったことは、生涯の覇道を完成させる最終決戦にあたっての人選にもあらわれているといえよう。
 五月に入って以降、物見からの報告によって、これらの敵情は豊臣方も逐一つかんでいた。
 最後の物見は、大和から押し寄せようとする攻城軍の先鋒らしき部隊が国分に現れたという報せをもたらした。

 いくつか、川がある。
 河内平野を代表するのは、琵琶湖を水源とする淀川である。この川が下流へ土砂を運ぶことによって、河内や摂津という国は海へと張り出していった。よって、基本的に全体が低湿地となっている。大雨となると、とくに江戸期になって灌漑が進む以前は、たやすく氾濫した。
 先年冬の戦において、豊臣方はこの地形に目をつけ、淀川堤の決壊をこころみた。堤防襲撃はそれを察知した徳川方の部隊にはばまれ、一部を壊したにとどまったが、それでも河内平野のほとんどが冠水したという。それだけが理由でないにせよ、攻城軍の主力は城南に布陣し、攻撃も城の南にほぼ限定された。
 先の冬、そして今回と、攻城軍は全国から動員した大軍であるが、それゆえの制約も多々あった。大軍を駐留、展開させるにあたって、水はけの悪い低湿地は適さない。城南に広がる上町台地の他に適当な場所はなかったのである。西は大坂湾がせまり、北は淀川、東は平野川が流れている。大坂城が難攻不落を誇った理由は、その巧みな地形の利用にあった。
 又兵衛や幸村が敵の侵攻は大和路と予見したのは理由があった。城南に大軍を集結させるならば、京から下る河内路は城東の低湿地をさらに東へまわり込まねばならないが、大和路ならば城南の台地に直接続いている。ならば、攻城軍の第一手は、大和からの軍勢になるであろう。
 さて、大和路であるが、これは大和川に沿っている。
 大和川は淀川と異なり、琵琶湖源流ではない。大和盆地から西へ流れ、大坂湾にそそいでいる。
 川は河内平野の東を区切る生駒山系を割っているが、そこが又兵衛の案で邀撃地点とされた国分である。大坂城からは直線距離で東南へ約四里。ここまで南にくると、それまではなかば水に浸っているようだった河内国も丘陵が多くなる。
 五日の段階で、豊臣方は当初の計画案より出遅れていた。敵に国分の先制を許してしまったのである。
 軍議が開かれた。場所は又兵衛の陣屋のある平野という地である。
「ならば、小松山でござるな」
 又兵衛が、いった。
 国分から西へ半里行けば道明寺であるが、そのとき攻城軍は左手に小松山という小丘陵を見ながら進むことを強いられる。国分に先に到達できなかった以上、迎撃拠点には小松山をおいて他にない。
 出席者は、他に真田幸村、毛利勝永。いずれも賛同した。明日の決戦を期しての配置が定められた。
 大きく、二軍に別れる。
 一軍は、もちろん道明寺を経て小松山を目指す。その先陣は又兵衛が率いる二千八百。さらに薄田隼人正兼相、明石全登らの軍勢三千六百が直接の後詰めとしてつく。さらに後方、毛利勝永、真田幸村、渡辺糺など一万二千が続く。この道明寺方面が、兵力からも指揮官の顔ぶれからも全軍の主隊といえる。
 もう一軍は、八尾、若江方面に進軍する。河内路から折れて生駒山系の西麓にある高野街道沿いを南下する敵の動きが見られたためである。道明寺からは北へ一里半行くと八尾、さらに半里で若江であるから、こちらは道明寺とは別の戦場といっていい。すでに城東に出ている木村長門守重成の六千、そして城内にある長曾我部盛親の五千三百が向かうこととなった。これを道明寺方面援護の助攻と見るか、道明寺にある主隊に対し、南下する徳川方の圧力を許さないための側面防御的な攻勢と見るかは、数字だけを比べると、なかなか微妙である。
 だが、ふたたび地形に触れれば、八尾や若江は低湿地であり、そこを玉串川や長瀬川といった細流が北へと通っていて、人馬の移動は制限される。河内路からの敵は、翌日実際に若江、八尾と南下するのだが、それはあくまで道明寺へ出て大和路からの軍勢と合流するためであった。大軍に軍略なし、という言葉があるように、圧倒的兵力を誇る徳川方にとって、挟撃などという小細工のためだけにわざわざ難所を行軍する必要はどこにもなかった。豊臣方の意図がどうであれ、結果は変わらなかったであろう。
 翌六日、道明寺、八尾、若江で、豊臣方はただでさえ少ない軍勢が連携なしに戦い、各個撃破されるという結果に終わる。


 又兵衛らが軍議を終えるころ、盛親は城内八丁目に設けられた自らの陣屋にあって、空を見ていた。
 日が落ち、しかし星は見えなかった。
 霧が出はじめていた。
 盛親にとって、忘れられない霧がある。
 関ヶ原の南、南宮山の麓に、西軍の一将として布陣していたときの霧である。

 慶長年間の政治危機は、慶長三年八月十八日に最高権力者の豊臣秀吉が病没したことに始まる。
 その後を継ぐべき秀頼は、当時六歳。五大老筆頭で、最大の実力者であった家康は、この幼児に遠慮することなく、自らのさらなる勢力拡大につとめた。
 これに異を唱えたのが、豊臣政権吏僚の代表格である石田三成であった。両者は秀吉死後二年の慶長五年九月十五日、東西から大軍を引き連れ、美濃関ヶ原にて激突した。
 天下の諸侯を二分したこの戦いにおいて、土佐二十二万石の当主であった盛親も旗幟を明らかにすることを迫られ、結果的に三成の西軍についた。
 が、そもそもは東軍につこうとした。いよいよ東西決裂となった慶長五年六月、家康の非を鳴らす三成からの檄文を土佐で受け取った盛親は、一通の書状をしたためた。三成への返書ではなく、家康にあてた密書であった。
 そして、それを家康に届けられなかった。書状を携えた密使の十市新右衛門と町三郎左衛門が、折りから警備を厳しくしていた近江水口の関所を突破することができなかったためである。水口は西軍の将、長束正家の領国であった。
「やむなし」
 と、盛親は、これも天意であろうと、西軍につくことに決した。
 盛親、このとき二十五歳。父の死によって国を継いでから一年あまりである。
 六千六百の軍勢を率いて盛親は浦戸を出港、堺に入った。土佐は遠国であるがゆえ、その士卒は華美に流れず屈強で戦に強いとされている。三成は喜び、盛親を歓待した。
 西軍第一の目標は伏見城であった。この攻略に土佐勢も参加している。守将鳥居彦右衛門以下城兵は寡兵ながらもよく守り、二週間あまり持ちこたえたすえに落城した。土佐国主としての盛親の初陣は、ひとまず勝利に終わった。
 以後、西軍は二手に分かれた。宇喜多秀家ら美濃路を進む軍勢と、毛利秀元ら伊勢路を進むものとである。土佐勢は後者に入った。両者は美濃で合流し、東海道を西へ進んでいる東軍を迎え撃つということになっていた。
 たしかに、美濃の関ヶ原で合流したといえるし、東軍との戦端が開かれたのも、そこでであった。
 しかし、伊勢路を進んだ西軍は、実際の戦闘ではまったく戦力として働かないという、驚くべき結果を見る。これは年若い毛利秀元の補佐役となっていた吉川広家の内通によるものであった。広家は早い時期から東軍に通じ、戦闘では傍観するとの意志を家康に伝えていた。しかも広家の巧妙なところは、伊勢路をゆく諸将に、毛利秀元の名で南宮山山麓に陣取るように指示したことである。
 盛親は奇怪に思った。南宮山の勾配はかなり険しい。山麓に位置して、街道を進む敵を撃てるだろうか。
 さらには毛利秀元、吉川広家の手勢の布陣である。これが、土佐勢よりもさらに高くに陣取っている。なるほど堅固な陣ではあるが、しかし眼下を東軍の軍勢が進めば取り逃がしてしまう布陣でもある。
「毛利どのは、戦をなさる気がおありか」
 盛親だけでなく、同じく指示に従って南宮山の麓に陣を敷いた長束正家や安国寺恵瓊らも不審がった。あるいは中国に覇を唱えた毛利家も、元就亡き後はみな臆病風に吹かれるまでに落ちたのであろうか。
 すべてを盛親が悟ったのは、戦闘の前夜、家康が関ヶ原に入ったという報告を物見から受けたとき、家康の陣所が桃配山と知ったときであった。
 桃配山、それは南宮山の、いわば裏側である。海道一の弓取りとまでいわれた家康が、南宮山に西軍が陣取っていることを知らずに桃配山に腰を据えるという手抜かりをするはずがない。これがすなわち毛利の、吉川の、裏切りを示すものでなくてなんであろう。しかも、土佐勢が単独で家康の陣に夜襲をかけようとしても、こうとわかった今では、山上からの攻撃を受けるおそれがあるため、動きがとれない。
 夜半より、雨が降った。
 雨の中、盛親は自らの過ちを思い知った。すでに戦の帰趨は決していた。毛利吉川の軍勢だけでなく、南宮山の西軍全体が、戦う前から戦力として機能することを無理矢理停止させられてしまっている。戦は戦場だけではなかった。あのとき、密書を家康に出すときから、すでに始まっていたのだった。だとすれば、一度の失敗で届けることをあきらめた自分は、いわば一槍突き入れただけで逃げてしまったようなものではないか。
 対して吉川広家のしたたかさはどうであろう。動かない、ただそれだけで西軍の兵力を半減させてしまっているのである。これほどたやすく、かつ効果的な売恩もあるまい。その上、狡猾なことには、たとえ西軍が勝ったとしても、裏切ったという明白な証拠は残らない。南宮山の布陣は、怯懦と見せかけて、その実おそろしいまでの策謀が秘められていた。
 ひるがえって、長曾我部はどうか。
 土佐から引きつれてきた軍勢六千六百が、なすこともなく雨に打たれている。
「おおっ」
 床几に座ったまま、手にした軍配を小刻みに震わせながら、盛親は低くうめいた。
 夜が明けると、雨は上がっていた。
 関ヶ原が霧に包まれていた。

 子の刻になるころ、盛親は配下の侍大将を陣屋に集めた。その多くは、かつて土佐で長曾我部家の家臣だった。
 牢人のまま十数年の困窮を過ごしたすえに入城した者もいれば、ようやく他家に仕官がかなっても盛親の入城を聞きつけるや一切を投げうって来た者もいる。さらには、新主のもとから脱走する途中で追手と戦い斬死した者もいると、盛親は聞いていた。
 雑多な出身の牢人で構成される他の部隊と比べ、盛親の率いる兵の結束の強さは、城中でも抜きん出ていた。
「われらは河内、八尾へと撃って出ることにあいなった。丑の刻に城門を出られるように準備いたせ。先鋒は、内匠、そなたにまかせる」
「承知つかまつった」
 吉田内匠、かつては家老をつとめるも長曾我部家没落後は牢人、盛親の大坂城入城を聞き、馳せ参じた旧臣である。
「皆の者」
 盛親は、続けた。
「今宵は、霧が深い」
 霧という言葉に、幾人かが点頭した。十五年前、盛親に従い、関ヶ原におもむいた古武者たちであった。
「道を誤ってはならぬぞ」
 噛み締めるように発したその警句は、あるいは盛親自身に向けたものだったのかもしれない。

 関ヶ原の霧も南宮山の霧も、日の出を過ぎ、なお晴れなかった。午前八時、西軍宇喜多秀家と東軍福島正則の陣の間で鉄砲の撃ち合いが始まったときにも、霧が野を深く覆っていた。
 数発だった鉄砲は、やがて山をも揺るがすような数になった。続いて法螺貝の音が響き渡った。桃配山の、関ヶ原の方角であった。すべては霧の中であった。
「毛利は、動かぬか」
 盛親は物見を何度となく出した。三成が動いていた。家康が動いていた。まさに天下が動いていた。南宮山だけが動かなかった。やがて霧が晴れた。午後二時、もはや勝負はついていた。小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなっていた。
 盛親は即座に部下に退却を命じた。
 池田輝政や浅野幸長といった南宮山に備えて布陣していた東軍諸侯の兵が、伊勢路へ退こうとする土佐勢に対し、手柄を立てるのはこの時とばかり一斉に襲いかかった。古来、もっとも難しい戦いは退却戦である。盛親は、関ヶ原では、ただそれしかしなかった。
 剽悍で聞こえた土佐兵であったが、退勢の中ではその強さを発揮することはできなかった。さんざんに討たれ、盛親自身も槍を振るって血路を開いた。土佐に戻ったとき、人数は千を割っていた。
 家康に恭順するか、抗戦をつらぬくか、家臣たちの意見は割れた。しかし、数日のうちに戦いの興奮から醒めたのか、結論は恭順と決まった。いまや天下を握った家康相手に抗戦しても勝算がないことは、冷静に考えれば、おのずと明らかになる。
 兵をともなわず、わずかの家臣をつれて、盛親は再び大坂へと向かった。大坂屋敷ではひたすら謹慎し、家康の家臣にとりなしを頼み、釈明の機会を待った。
 だが、下った処分は苛酷だった。即刻召し放ち、一命は助けるが帰国すら許さず領国は没収というものであった。そして、手ぶら同然の盛親には、これを受け入れる他になかった。
 一夜にして土佐二十二万石の大名は、牢人になった。
 名も変えた。大岩祐夢という。頭を丸め法体となり、京の相国寺にほど近い庵で、わずかの従者と共に暮らすことになった。長曾我部盛親という存在自体が、公的には抹殺されたのである。
 祐夢としての生活は楽ではなかった。江戸の出先機関である京都所司代の監視下にあっては目につく行動はできず、領国も失ったため糧に窮して、ついには近所のわらべらに手習いを教える身にまで落ちてゆく。
 慶長十九年十月、豊臣秀頼の名による招聘に応じて大坂城に入城するまでの十数年間、盛親の名は諸記録から消える。


 盛親以下、五千三百の軍勢は玉造門より大坂城を出て、夜霧の中を八尾村へと進んだ。
 途中、久宝寺村に入ったところで、先を探らせていた物見が戻ってきた。高野街道を南下している軍勢の旗指物は紺地に白餅、すなわち藤堂高虎。だが、霧が深く、敵の陣形などまではわからないという。
 藤堂勢とすれば、事前の情報ではその数およそ五千。しかし、数で互角だからといって、正面からぶつかるわけにはいかない。盛親には援護のあてがないのに対し、藤堂勢は十万を超える大軍の先鋒、いいかえれば重厚な後詰めを持つ。
 数秒、思案にとらわれているうちに、凄まじい銃声が轟いた。首をめぐらす。それは南方、道明寺の方角。又兵衛が国分からの徳川方と戦端を開いたことは明らかであった。
 南の闇、そして行く手であるところの東の薄闇を、盛親は目を細めて見据えた。午前四時、日の出にはまだしばらくの時間がある。松明は霧で役に立たなかった。
 この先にいる藤堂勢にも今の音は聞こえたに違いない。ならば高虎はどう動くか。この銃声を無視するか、それとも。
 盛親は先を行く吉田内匠の部隊に進軍を控えるよう伝令を出した。霧のため本隊の行軍速度が遅れがちになっている。このままでは先鋒が突出するおそれが出ていた。

 五月六日の一連の戦闘は、後藤又兵衛配下の山田外記らが小松山を奪おうとして、まずは敵の布陣を推し量るべく探りの鉄砲を撃たせたことに始まる。
 対して、徳川方の応射は、凄まじかった。
 闇の中を轟々と響き渡ったこの銃声で、歴戦の古強者である後藤又兵衛の生涯最後の戦の幕が切って落とされた。
 そしてこれは若江、八尾方面にも、微妙な影響を与えることとなる。
 現在は東大阪市、八尾市となっているこのあたりは、川によって地形が特徴づけられている。
 いくつかある川は、すべて北へと流れている。そのうち、ある程度の川幅があり、堤防をともなっているのが、長瀬川と玉串川である。長瀬川の方が西に位置していて、つまり盛親らにしてみれば手前ということになる。
 この二つの川に挟まれて盛親の目指す八尾村がある。さらに北に萱振村、若江村とつづく。
 若江に向かっている豊臣方の軍勢は、木村重成に率いられた六千。美丈夫という伝が多く残されている重成はこのとき二十二歳。生母が秀頼の乳母であったので、秀頼とは乳兄弟である。牢人衆に比べて戦意のあがらないと見られていた豊臣家譜代衆の中で、重成は数少ない例外の一人であった。初陣である冬の戦いでは、城外に出て又兵衛とともに勇戦し、武功を挙げている。
 この五月六日未明、重成は香をたきしめた兜をつけ、結わえた緒の端を切って出陣した。目指すは敵の大軍に飛び込んで家康の首を挙げること、その一点のみであり、再び兜を脱ぐことはあるまいと死の覚悟を固めていた。
 途中、重成は隊列を南へ旋回させ、八尾から道明寺へ出ようとする。これは重成が独自に放った物見の報告により、敵がそちらにあると判断したためである。この段階で後に続く盛親が八尾を目指していることを知っていたはずだが、若さであろうか自ら敵の主力にあたらんとした。折りしも南の道明寺から銃声が聞こえた。重成の判断に影響を与えたことは想像に難くない。
 しかし、あぜ道くらいしかない場所で、松明の明かりだけで行う方向転換は難渋し、しかも向かったところが沼に出てしまった。このため、やむなく再び若江に向かう。この逡巡の結果、長瀬川を越えて若江に陣を布いたのが午前五時となった。もとより兵力が隔絶しているから勝敗に影響を与えることはなかったであろうが、戦闘の序盤、この遅延は重成にとって有利に働く。

 徳川方河内方面軍の先鋒ともいうべき任にあたっているのが藤堂高虎であるのは、すでに触れた。
 関ヶ原以前から家康に接近し、その一戦では東軍についた結果、伊賀伊勢の二国を有するまでになったことも、すでに触れた。
 関ヶ原とは、戦い自体もさることながら、戦後に行われた論功行賞の規模の大きさでも、それまでの戦史に例を見ないものであった。
 西軍諸大名への処分は苛烈というしかない。土佐の長曾我部家も含め改易九十家、減封四家、その総石高は六百六十万石に達した。このことからも、まさに天下を二分する戦いであったことがわかる。
 多くの大名家が取り潰されたことは、大量の牢人を生み出すことにもなった。現に慶長十九年二十年の段階で大坂城の主戦力となっている多くが、これらいわゆる関ヶ原牢人である。
 一方で、関ヶ原で東軍となった諸侯は加封された。これは、戦となったあかつきに揃えるべき軍勢が、それだけ増えることを意味する。足軽程度であれば増えた石高でいくらでも動員できようが、千人、二千人を率いる優れた侍大将となるとそうはいかない。その能力を持つ人材が広く求められることとなり、関ヶ原牢人のうち武名の知れたものは、こうして新たな仕官先を見つけることができた。長曾我部家の旧臣でも主立った者のうち五十ばかりが他家へと召し抱えられている。
 藤堂高虎も、伊予宇和島八万石から一躍、伊賀伊勢の二十万石を超える大身となったため、当然それら関ヶ原牢人たちを受け入れていた。その代表は渡辺勘兵衛了であろう。槍の勘兵衛とまでいわれた渡辺了も、主の増田長盛が西軍であったため一転牢人の身となった。高虎は同郷でもあるこの練達の指揮官を、一万石という大名級の知行で迎えている。
 同じく関ヶ原後に藤堂家の家臣となった者で、桑名弥次兵衛一孝がある。彼の旧主は、長曾我部盛親その人であった。藤堂家での桑名一孝の禄は二千石であり、こちらも高い評価を受けていたことがわかる。
 ただ、牢人を高禄で召し抱えたことは、藤堂家家中に微妙な波紋も招いた。以前からの家臣は高虎と同じ藤堂一門でその多くを構成されていたが、彼らと新規家臣との間で軋轢が生じたのである。特に勘兵衛など、若年のころは高虎と同僚として同じ主君に仕えていたこともあって、今では主となったはずの高虎に対しても遠慮なく直言することがしばしばだった。
 これでは反感を持たれてもしかたがないが、しかしそうとわかっても、自他ともに戦場巧者と認める勘兵衛からすれば、権力者のあいだを渡り歩くような高虎の処世術は気に入らず、藤堂一門や高虎本人を怒らせるような物言いを繰り返していた。
 このため、藤堂一門はこの戦いでは何としても勘兵衛を出し抜く武功をたてようと、はやっていたという。


 生駒の山々より日が昇ろうとしている。
 その少し前、藤堂の軍勢は、いかにも藤堂家らしい理由で複雑な行動をとった。
 西から人馬が近づくことを察知したのは、まだ夜の明けきらぬ頃合いであった。これが盛親の隊に先行する吉田内匠以下百五十だったのだが、藤堂勢は道明寺に到れという命をうけて南下している途中である。そしてその道明寺からは銃声が聞こえた。
 藤堂の将たちは西にうごめく敵を討つべしと高虎に進言した。自隊にとって直接の脅威だからである。だが、高虎は迷った。
 乱世たけなわの頃であれば迷わなかったであろう。しかし関ヶ原より十五年、世はすでに徳川に定まり、武功をいくら挙げようが家康の機嫌を損じるだけで取り潰されかねない。戦場は西の敵に対処することを求めているが、その場合は悪くすれば軍令違反を咎められる。それを恐れた。
 前線にあって同時に後方を恐れることができる嗅覚を備えていればこそ、高虎は関ヶ原の荒波を乗り切れたのだが、このときばかりは余計な手間を踏むことにしかならなかった。悩んだすえ、高虎は後方に指示を仰ぐことにした。しかも、伝騎を走らせればすむところを、自ら家康の本営まで馬を飛ばしてである。
 一軍の将が敵を前に陣を離れるなど前代未聞。配下の諸将は困惑した。気の荒い渡辺了など、敵を見て撃たぬとはなにごとと、このときの高虎を痛罵している。
 しかし高虎はあえて陣を離れた。むろん、その前に下知はしている。南下しつつ側面にも備えよ、ただし戦闘はするな、というものである。何度となく合戦を経験した高虎らしからぬ愚策であるが、それでも家康に無用の誤解をされることの方が恐ろしい。
 このため、藤堂勢の陣形はいびつとならざるをえなかった。右隊が右旋回する一方で左隊はなお南へ進んだ。全体で見れば、一端を南向きに固定された扇子のもう一端を、西へと開くような具合である。
 この旋回運動に吉田内匠の小部隊はまともに接触してしまう。

 霧が薄まりはじめ、そろそろ薄明かりのもとで見通しがきくようになった。
 この光景が、家康の本営へと逆走していた高虎を、途中で戻らせることになった。霧のむこうに動く敵影が、高虎の中で戦塵を生き抜いてきた部分をよみがえらせたのであろう。自陣へ戻るなり矢継ぎばやに指示を飛ばした。萱振村から若江村にかけて人馬の動きがあり、後方の家康の陣をうかがっているようにも見えた。だとすれば、これを逃せばそれこそ戦国生き残りの藤堂高虎は面目が立たない。
 この判断の是非を評価するのは難しい。萱振村にいる吉田内匠の小部隊と若江村にいる木村重成の部隊には何の連携もなかったからである。よって敵情判断としては誤っているのだが、西の敵を攻撃に値するとした判断自体は妥当であろう。ともあれ藤堂勢の戦闘は、萱振村から始まることとなった。
 八尾村の北、萱振村にまで出ていた内匠のもとに後退せよという盛親の伝令が届いてからいくらも経たないうちに、藤堂勢中備の将、藤堂高吉率いる千人が鉄砲を撃ちかけてきた。もはや退却もかなわず、やむなく内匠は突撃を命じた。内匠の隊には一丁も鉄砲がなかったためである。百五十の小勢が鉄砲だけで二百を数える相手に挑んだところで結果は明らかであった。部隊はまたたく間に潰滅し、内匠も討死した。
 藤堂勢は勢いに乗った。さらに右先手の藤堂良勝、藤堂良重が奥にいる敵を求めて足を速めた。結果、彼らは盛親の隊でなく、その北の若江にあった木村重成隊の右翼を攻撃することになった。
 時を同じくして藤堂勢のうち左先手の部隊が八尾に入りつつある長曾我部勢に挑みかかった。その中に盛親のかつての家臣、桑名一孝がいる。
 一方、盛親は三々五々と敗走してくる吉田内匠の部隊を収容しつつ軍勢を急がせた。長瀬川に藤堂勢に先んじて到達したとき、盛親は躊躇せず一隊に橋を渡らせ、自らもそれに続いた。東岸の堤にのぼると、麦畑を突っ切りこちらへと向かってくる藤堂勢を望見することができた。
「殿、兜を」
 その声で、ようやく盛親は僧形とさして変わらぬ頭を霧にさらしていることを思い出した。
 関ヶ原より十余年の蟄居のあいだ、盛親は大岩祐夢であった。坊主頭で手習いを教えつつ朽ち果てるかと無念の想いでいたのがわずか半年前、冬の戦いでは兜をつけねばならない緊迫した場面などなく、ついに今まで入道姿のままでいた。
 が、もはやそれを変えるときであった。
 関ヶ原以来の南蛮鉢の兜を盛親は受け取った。かぶるとき、つるりと頭を手でぬぐった。
 濡れている。霧の中をここまで来たのだ。
 くっくっと、盛親は小さく笑った。
 ここまで、盛親は自嘲することで耐えてきた。そうでもしなければ己の内にある鬱屈はついに五体を引き裂いて噴出していたであろう。石田三成のごとく自ら立ち上がったすえに敗れたのならば諦めもつこうが、時流に流されるままにろくな合戦もせず土佐二十二万石から牢人にまで落ちたことは、そしてその馬鹿げた変転と偉大すぎる亡父の武名との滑稽なまでの落差は、つねに盛親の内面でよどんだ鬱屈となって蓄積し、しかも牢人である以上、鬱屈は自嘲という発現を強いられた。だが、もはやそれを変えるときであった。この長瀬堤に盛親の采配を妨げるものは何もない。
 だから、関ヶ原では己の不明を嘲笑するかのようにたれこめていた霧を利用することを思いついたとき、盛親は皮肉でも自嘲でもなく心からその諧謔を笑ったのである。
「馬を降りよ」
 と、盛親は騎馬の者に命じた。続いて徒立ちの者には槍を置いて身を伏せさせた。鉄砲も置くようにいった。ただし火縄は前もってつけさせた。
「そのまま、声をたててはならんぞ。わしが命じるまでは、たとえ敵が撃ちかかろうと、みだりに動いてはならん」
 盛親だけが騎乗した。地黄に黒餅の旗指物が、その周りに高らかにひるがえった。
 藤堂勢左先手が長瀬川の堤に近づいてみると、それはまるで霧の中から忽然と現れたかのようであった。小人数しか確認できないが、そこにあるのは目のさめるような鮮やかな黄色に黒丸が三つ、四国全土に名をはせた長曾我部の旗指物に間違いない。
 部隊を率いる藤堂高刑は探りの鉄砲を数発撃たせた。応射は一発も返ってこなかった。
 先に潰滅させた吉田内匠の一隊に鉄砲がなかったこととあわせて、高刑はこの隊も鉄砲は持たないと判断した。堤の上に陣取る敵将を討ち取るべく、高刑自身も馬を降り、部下とともに駆け上った。
 彼我の距離が十間にまで狭まったとき、盛親の右手が、さっと上がった。関ヶ原でついに振ることのなかった軍配を握った右手が天を指して、正面に振り下ろされると同時に、盛親の大音声が響き渡った。
「かかれ!」

 鉄砲の一斉射撃を援護にして、槍ぶすまを作ったまま長曾我部勢は堤を駆け下りた。藤堂勢にすれば頭上から敵が降ってくるのも同然で、たまったものではない。どっと崩れて一気に混戦となり、しかも勢いは長曾我部勢にあった。必死に隊列を立て直そうとした藤堂高刑は混乱の中で討死した。
 ついで桑名一孝の率いる一隊も、堤を駆け下りてくる波に飲み込まれるようにして潰乱した。桑名家は長曾我部家に代々仕え関ヶ原以後やむなく藤堂家の家臣となってからも一孝は盛親に対して何かと援助をしたのであるが、牢人のままでいた土佐の旧臣たちはそのような事情は知らず、目の前の一孝は裏切り者でしかなかった。そのため執拗に狙われ、ついに討ち取られてしまった。
 藤堂勢のうち、八尾村のやや北に出ていた本隊の藤堂氏勝が、友軍の急を救うべく堤に沿って南に走った。対して、盛親は待ち受けずに一隊を繰り出して迎え撃った。激闘するうちに、逆に氏勝自身が深手を負って、部隊も退却を余儀なくされた。退却中に氏勝は息絶えた。
 先に吉田内匠を討ち取った藤堂高吉の隊も長曾我部本隊に挑むが、これも救援するどころか圧倒され、高吉の方がようやくのことで脱出しなければならないほどであった。この高吉を追撃する長曾我部勢の一部がついに高虎のいる本陣に迫った。
 とうとう高虎までが逃げねばならなかった。もはや形をなしているのは渡辺了の一隊だけで、他の藤堂勢はことごとくが粉砕された。
 盛親は勝った。土佐兵の勇猛によって。 そして彼自身の采配によって。河内の野には長曾我部の旌旗がひるがえっていた。もはやそこに霧はなかった。


 若江でも激戦が展開されている。
 すでに触れたが、藤堂勢は初動において萱振村の長曾我部勢とその北にあった木村重成指揮下の軍勢を同一の部隊と誤認した。そのため、藤堂勢の主力は長曾我部勢にあたる一方で、一部は木村勢の右翼と戦端を開いている。
 重成にとって、幸運というべきであろう。夜半の行軍の際の逡巡が、ちょうど彼の部隊にこのような敵の誤認をさそう位置に布陣させることとなったのである。もし藤堂勢五千が一致してか、その半数ででもかかってくれば戦いは違った結果になっていたかもしれないが、実際はその右先手千人のみであった。率いるは藤堂良勝、藤堂良重。他は前後して長曾我部勢と槍を合わせたため、藤堂勢としては兵力の分散をまねくこととなった。
 あるいは良勝、良重にも気負いがあったのかもしれない。他に援軍を求めず独力で木村勢に向かった。下地があった。渡辺了への対抗心である。猪突ともいうべき攻撃をするが、これも重成にとって有利に働く。
 重成は兜の緒を再び解かぬ覚悟で出陣したのだが、この日の彼の戦いぶりは、まさにその決意が二つの形で現れていた。一つは凄まじいばかりの突進力、もう一つは攻撃が直線的で単調であったことである。
 藤堂良勝、良重の部隊に対して、重成は真っ正面からぶつかった。死力をつくした凄惨な戦いが繰り広げられたが、双方とも弾力的な用兵をした形跡はない。勝敗を決したのは数の差と、士卒にまでいきわたっていた重成の悲壮な決意であった。藤堂勢は三度の突撃を試みたすえ、良勝、良重とも討死し、部隊は半数以上の損害を出して粉砕された。
 意気あがる木村勢が指向したのは、むき出しになった藤堂勢の中核でなく、さらに東方であった。このことからも木村勢と長曾我部勢に連携がなかったことがわかる。戦闘開始の時点で長瀬川を渡っていた木村勢だが、重成は部隊に玉串川をも渡河させて、藤堂勢に続く敵を求めた。
 現れたのは、騎馬武者から足軽まで赤具足で揃えた井伊の赤備え、井伊直孝の軍勢であった。その左先手一千余りが激しく銃撃しながら向かってきた。
 武田家伝来の紅蓮の威容を前にして、若い重成の戦意は逆に天をつくばかりに燃え上がった。部隊一丸となってこの強敵に突撃した。激闘のすえ井伊勢左先手の将、川手良利の首を挙げた。
 しかしこれが限界であった。夜通しの行軍と未明からの戦闘で兵士は疲労はなはだしく、重成は部下から後退を進言されもした。
 そして重成は退かなかった。なおも馬に鞭をあてた。目指すは家康の首。結果、木村勢六千は死兵と化し、さらに数度の突撃を敢行して敵に打撃を与えたものの、そのほとんどが砕け散った。重成自身も井伊勢右先手の将、庵原朝昌との一騎打ちのすえに、討ち取られた。
 自ら予期したごとく重成は馬上戦死したのだが、これを無謀と非難するのは少し酷であろう。絶対的劣勢であることは、出撃する前から、そもそも戦いの始まる前からわかっていたことであった。その上で十万を超える敵軍の総大将を討ち取ろうとするならば、もはや生死は度外視して突き進む他に道はない。重成はそれを忠実に実行し、その困難を己の肉体でもって証明したのである。翌七日、真田幸村もこの運命をなぞることになる。
 とはいえ六日昼過ぎのこの段階で、重成の愚直ともいえる戦いぶりとその指揮下の部隊の潰乱は、大阪方にとってさらなる敗北をまねかざるを得ない深刻な意味を持っていたのも、また事実である。
 木村勢の消滅と同時に、八尾村の長曾我部勢は側面を敵にさらけ出すこととなった。

 すでに日が高い。
 旧暦五月六日とは、新暦でいえば六月二日にあたる。霧の晴れた河内の野は、じりじりと気温が上がっていった。泥田のような戦場で、敵も味方も、泥と汗と、そして血にまみれながら戦った。
 藤堂勢はほとんどが撃ち破られていた。高虎すらわずかな近習だけに守られて陣を捨てたほどであり、隊伍を保っているのは渡辺勘兵衛了の隊だけになった。もっともこれは、他の藤堂一門の将のように積極攻勢をとらず、八尾の北の一角を守って動かなかったのが理由である。
 藤堂諸隊の敗残兵は、自然、勘兵衛の部隊に吸収されることになった。本来は五百ほどの人数であったのが、六百、七百と膨れていった。この残敵を打ち砕くことで盛親の勝利は完全なものとなる。
 孤立している勘兵衛の一隊に当たるために部隊を堤に沿って再編しようとした、まさにそのときだった。
 伝騎が盛親のもとにたどりつき、若江の敗報を伝えた。主将木村重成をはじめ名のある者ほとんどが討死、部隊は敗走中という。
 盛親は川下を見やった。
 戦機は去った。
 形勢は逆転した。正確には、形勢がすでに逆転していたことを知った。孤立し逼塞している残兵でしかなかった眼前の敵はその意味を変えた。ほどなく井伊勢と連結、収容されるであろう。そしてさらに十万の敵兵が続く。対して盛親の部隊は孤軍である。しかも夜明けとともに激闘を続け、消耗が著しい。
 若江で重成が部下に後退を進言されたときと同じ局面が、八尾で再び発生した。
 進むか退くか、盛親は選ばねばならない。
 なぜなら部下は盛親の下知を待っていた。勝手に戦線を離れる者などひとりとしていなかった。
 関ヶ原の過ちから国を失い流浪の苦しみを強いた盛親を、十年以上経っても忘れずに馳せ参じた旧臣たち。進めと命じれば彼らは力の続くかぎり進むであろう。五千余が確実な死に向かって疾走する。重成はそれをやった。
 盛親は決断した。
 軍配を振った。
「退け」
 長曾我部勢は大坂城へと戻るべく、退却戦に移った。
 夜半、霧の中をたどったあぜ道は、人馬で踏みしだかれ乱れていた。
 長瀬川を再び渡り、久宝寺、平野と、西へ走る長曾我部勢に対して、ようやく動きを見せたのが勘兵衛の隊だった。しつこくつきまとうように攻撃をしかけ、平野を過ぎるあたりでついに長曾我部勢の隊列を乱すにいたった。後衛をつとめていた増田盛次が、この追撃を防ぐうちに討死した。

 夕刻、大坂城へ戻った盛親は、道明寺の戦況を聞いた。
 ここでも豊臣方は敗れていた。濃霧は真田幸村や毛利勝永ら後続の行軍を遅らせ、先鋒の又兵衛の二千八百のみが突出、孤軍奮戦して幾度か敵を押し戻すもついに又兵衛は銃弾に命を落とした。後に続こうとした薄田兼相も敵の大波にのまれるように討ち取られた。真田勢、毛利勢が誉田から藤井寺のあたりで必死に敵を防いで、今は天王寺に陣を布いているという。
 敵の一隊に壊滅的打撃を与え、ともかく部隊を保って城へ帰った盛親は、凱旋の将ということになった。秀頼に戦果を報告し、ねぎらいの言葉をうけた。
 ただ、首実検は、疲労を理由に退席した。旧臣である桑名一孝の首と対面する気にはなれなかった。
 自らの陣屋に戻った盛親は土佐以来の家臣を集めた。傷を負った者が多かった。
「皆、よくやってくれた」
 傷つきながらも、そろって意気盛んだった。戦意は衰えておらず、彼らが明日も死力を尽くして戦うことは間違いない。
「我らの明日の部署は北の京橋口となった。移るのは日が明けてからでよい。おそらく明日……」
 明日、この大坂城も落ちる。
 又兵衛や重成らが死んだことは大きな痛手だった。数の上では同数か、あるいはそれ以上の損害を敵に強いたとはいえ、そもそもその数の差が圧倒的なのだ。それぞれの局面すべてを完勝し続けていかないかぎり大坂の運命はひらけない。
 だが、それはかなわなかった。大和と京の二方面からの敵勢の合流を許したことで、さらに明日の戦いは不利となる。戦巧者の幸村とてこの劣勢を覆すことは無理であろう。
 激戦を経て疲弊しきっていながら、待ちうける敗北を知りながら、しかし関ヶ原以来の霧が消えたように晴れやかな笑みを浮かべている家臣たちに、盛親は告げた。
「明日、この城も落ちよう。されど短慮はすまいぞ。落ちのびよ。長曾我部の家運は盛親のみならず、そなたらの命あるかぎり続くとこころえよ」


 翌七日、豊臣方の諸隊は絶望的な戦いを挑む。その中で幸村や勝永は幾度か家康の本営に肉迫するも、とうとうその首を挙げることはできなかった。幸村は戦死、勝永は城へ戻って秀頼や淀君らが自決するときともに割腹した。その他おびただしい死者とともに天下の名城は落ちた。炎上する天守閣は一晩かかっても火勢が衰えなかったという。
 落城の混乱のさなか、盛親らは脱出した。だが、徳川方の落武者捜索は厳重をきわめ、数日して捕縛された。十五日、六条河原で斬刑となり、首は三条河原にさらされた。享年四十一。
 首となった盛親を鴨川の霧が濡らしたか、記録を欠く。

 end


ver 1.00
2000/05/29
Copyright 2000 くわたろ

 




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