第三章 「倒れた柱」

 

 
 
 

 八日が経過した。
 使者の任務を果たし、公爵家領、すなわちウェルフェン公国から戻ってきた騎
士は、銀でできた筒を携えていた。おそらく書簡が入っているのだろう。
「国公殿下はご不快のため、直接お会いすることは叶いませんでした」
  と言って、フィンセントにその筒を渡す。筒には、ヘンドリックではなく公爵
家の筆頭文官コルネリスの署名がなされてあった。
「手紙か?」
 とフィンセントは尋ねた。
「分かりかねます」
 と、騎士は答える。
 なるほど、蝋で封印がされてある。
 フィンセントは丁寧に封を剥がし、その中の物を見た。やはり書状である。そ
れをひらく前に、ちらりと騎士の方を見る。一礼して、騎士は出ていった。
 彼は改めてその書状を開いた。
 結局、「無駄なことだろう」というフィンセントの予想が当たったことになる。
しかしそれはフィンセントの、否、おそらく万人の想像を絶する事態であった。
 フィンセントの表情が凍り付いた。
 数瞬の自失。彼はよろめき、執務室の重厚な机に片手をついて、自分の体重の
半ばを支えていた。ふと気づいたように、なんとか直立し、つとめて無表情に部
屋を出た。それでも、足もとがふらつくような気がするのは、これはもうどうし
ようもない。
 右手には先ほどの書状を握りしめ、左手には何も持っていないが、かたく拳を
作っている。よく見れば、左の掌に、爪が深く食い込んで、出血している。しか
しすれ違い会釈する者、敬礼する者は、そんなことに気を取られる余裕はなかっ
た。彼らは、これほど怒りと悲しみに満ち、それでいてどこか放心しているよう
な、こんな表情を、この怜悧をきわめる若者に見るのは初めてだった。
 フィンセントは、弟の私室に入った。間の悪い、というか何というか、アーガ
イルは侍女の一人と情事の最中であった。童顔だろうが何だろうが、二〇代前半
の健康な男なのである。弟もはた、と気づいた。兄弟の視線が交錯する。侍女は
ひとしきり、二人の公子の表情を見比べるようにして、それから忘れていた義務
を果たすかのように、悲鳴をあげた。
 フィンセントはかっとなった。
「貴様! なぜここにいる。ええい、そんなことはどうでもいい。とにかく、服
を着て今すぐ出ていけ!」
 これほど理不尽な台詞は、彼女の今までの人生、そして今後の生涯の中でも、
おそらく希なものであるにちがいない。しかし三者とも、そんな意識はこのとき
ない。
 フィンセントは、あの書状を見てから、茫然自失といった心境であったし、ア
ーガイルはアーガイルで、甚だしく不愉快ではあったが、それでもただ事ではな
い、と判断することができた。侍女は、何が起きているのかすら分かっていない
だろう。とりあえず、命令されたとおりに服を着て、部屋を出ていった。機械的
な会釈をのこして。
「何の用です、兄上」
 さすがにアーガイルは機嫌が悪い。しかし、いつもは温厚かつ怜悧な兄が、こ
れほど取り乱しているのである。すぐに気を取り直し、椅子をすすめた。
 フィンセントは黙ってそれに座り、血の滲んだ左手で顔を覆った。わずかに、
額に血がついた。何をどう説明すればよいのか、自分でもまだ分からないだろう。
「それは何ですか」
 と、右手に握っていた書状に、アーガイルが気づいた。フィンセントもようや
く我に
返る。
「本領からの、返事だ」
 ウェルフェン公国という公称を自ら用いないのが、テュール家の人間にとって、
王室を尊ぶための、いわば制度化された慣習であった。この兄弟とて例外ではな
い。
「拝見してもよろしいですか?」
「そのために持ってきた」
 と、フィンセントがアーガイルにそれを渡す。アーガイルは、兄の手によって
握りつぶされた二枚の紙片を広げ、読み始めた。
 たちまち血の気が引く。
 そこには次のような意味のことが書いてあった。
 ――国公殿下ご薨去
「!」
 慄然とした。そして、兄の顔をみた。この、「怜悧にして剛毅」などと王宮で
いわれている兄は、弟や、友人といえるわずかな家臣にだけはべつの顔を見せる。
冗談好きで、しかもたちの悪い冗談で人をからかうのが何よりも好き、という顔
だ。が、このときの兄の顔は、そのどちらでもなかった。アーガイルは何も言え
なくなり、ふたたび書面に目を落とした。
 ――公子さまがたへのご遺言は以下の通り。
「一、王国に、変わらぬ忠誠を誓うべし」
「二、王室の乱を、未然に防ぐべし」
「三、それができなかった場合は、フィンセントは王都にとどまり、アーガイル
はすみやかに領地に帰り、騒乱を牽制すべし」
「四、列国の侵略に備えるべし」
「五、父祖以来の家訓を遵守すべし」
 そして最後に、以上の遺言を遵守すべきこと、後継はフィンセントとすること、
などが、ヘンドリック自身の署名とともに記されてあった。アーガイルはそれを、
いちいち朗読した。棒読みだった。最後まで読み終わると、
「………」
「………」
 二人とも無言である。兄の沈黙は、激情がおさまったものだが、弟のそれは、
感情の波濤が迫りくる、その前兆だった。
 はたしてアーガイルは激発した。
「なぜだ! なぜこんなことになった! おれが出発するときは、元気とは言わ
ないまでも、十分に健康だったではないか」
 と叫んでから、兄の方に向き直る。
「兄上! この書簡を持ってきたのは誰だ」
 敬愛している兄に、普段なら絶対に使わないような乱暴な口調で問いかけたの
も、その激情のせいだろう。
「ヴォルテル……と言っても分からんな。わが配下の騎士だ」
  アーガイルはつかつかと、おそらくは一流の職人が数年がかりで造り上げたで
あろう豪奢な扉に歩み寄り、それをたたき壊すかと思うほど乱暴に開けた。
 誰か、と、人を呼ぼうとした弟を、フィンセントは後ろから抱きかかえるよう
にして制止した。
 素早く扉を閉め、
「何をする気だ」
「知れたこと、その男を呼んで、ことの真偽を確かめるのです」
「ばか、よさんか。どうせ何も聞かされてはおらぬ、書簡は封印されてあった」
「……それでも!」
  聞いてみなければ気が済まない、と、アーガイルは言う。
 兄の方は、弟が激情を発したからか、すでに冷静さが回復しつつある。首を横
に振り、弟をさとした。
「よく考えろ。今、家中にこのことを公表すれば、王宮にも知れる。グスタフ陛
下のご葬儀どころか、次の王さえ、まだ決まってはいないのだぞ」
 アーガイルの感情は、まだ異常なほど高ぶっていたが、理性は兄の言葉を理解
した。国王と国公。この国の歴史上、双方がともに空位という状況は、いまだか
つてなかったのである。この事実が知れれば、混乱が起こるのは必至であった。
「ともかく、重臣たちを集めて、内々に善後策を練る。それしかあるまい」
 深夜、分厚い壁と重厚な扉とで仕切られたさして広くもない部屋に、現時点で
王都にいる六人の重臣が集まった。
 文官は、フェルディナントをはじめ、ヨースト、アントン、ベルーラの四名。
武官は、マールテン、ヒドの二名。
 フィンセントとアーガイルとを含め八名である。アーガイルとマールテン以外
は、この公邸に常駐している者たちであった。
 彼らが集まった理由は、説明するまでもないであろう。当然、フィンセントの
指示によるものである。何事か、と、疑問と当惑と緊張とで三分された表情を、
全員が浮かべている。
 フィンセントは、彼ら重臣たちを深夜に呼んだことを謝し、その労をねぎらう
ような、無難な挨拶をしてから、唐突に言った。
「領地から使者をよこしてきた」
 厳密にいえば事実とは異なるが、とりあえず今、それは枝葉のことであった。
「父上が、つい先日、お亡くなりになったそうだ。書簡は、コルネリスからのも
のだったから、これは事実だと……思う」
 部屋には窓さえない。声が外部に漏れる心配はないのだが、それでも、フィン
セントの声はきわめて低かった。
 一瞬の沈黙。そして驚愕。六人の重臣たちは、にわかに騒然となった。
 はたして事実か。いや、たちのよくない冗談だろう。そうでなければ、何かの
策略だ。誰か、当家に遺恨のある者が流言をなしたに違いない。絶対に嘘だ。こ
の眼で見るまでは信じられない。……
「静まれ、静まってくれ」
 と、フィンセントが言った。普段の彼からは想像もつかぬ、か細い声だった。
弟と同様に、やり場のない激情が去った後は、悲哀のみが彼の感情を支配してい
た。
 そのアーガイルは、感情を持て余すかのように、彼らしからぬ陰気な表情で、
両手を組んで黙っている。
「事実か否かは、直ちに使者を送って確かめる。虚偽であればそれでよし、事実
であれば、問題は、このあとのことだ」
 と、フィンセントが言う。
 はっ、と、重臣たちの顔が緊張する。
「まず、ただちにそれを公表するか否か。公表するのなら、おそらく起こるであ
ろう混乱にどう対処するか。すぐには公表しないのなら、それを明かすのはどの
時期か、また、それまでいかにして秘密を守り通すか。他にも問題はあるが、今
はとりあえずこれらに絞って議論を進めてもらいたい」
 感情を押し隠すような、無機質な声であった。
「グスタフ陛下の喪が明けてから公表するのが、最上でありましょう」
 六人の中で最若年のヒドが、あまり彼に似合わぬ慎重論を唱えた。すかさずヨ
ーストが反駁する。
「いやいや、それまで隠し通すのは困難をきわめる。やはり国王陛下のご葬儀の
直後でござろう」
「空論だ、今のところ喪主さえ決まっておらぬではないか。葬儀もいつのことに
なるかわからん。ここは速やかにその旨奏上し、王室の沙汰が下るのを待つのが
上策」
 と、ベルーラ。この案がもっとも受動的であろう。
「しかしながら、次期国王が定まらないうちは、フィンセント様が爵位を継ぐこ
ともできない。いわば王室においても、公爵家においても、主不在の状態が続く
ことになる。最悪の場合、王位をめぐって内乱が起こるかもしれんぞ」
 と、今度はアントンが言った。事実である。国法によって、官爵の叙任および
剥奪は、国王の大権のひとつとされている。
「だからといって、どうしようというのだ。仮に、いや、おそらく卿の言うとお
りだろうよ。それが分かっていて、アントン卿は、この危機を看過しようという
のか。公爵家譜代の臣の忠義とはそういうことか」
 文官にしては血の気の多すぎる声で、ベルーラが反論する。
「……私は事実と予想される事態を述べただけだ。それをもって不忠呼ばわりす
るとは非礼もきわまる。即刻謝罪なされよ」
 と、アントンもここでは引けない。ふたりの間に軽い殺気が走った。
「控えよ!」
 フィンセントが叱責する。
「両人とも控えよ。ベルーラ、卿は早とちりが過ぎる。アントンも悪気があって
言ったわけではあるまい。ただ、ものの言い方ひとつで誤解を招くこともある。
アントン、代案がないのなら、発言は慎むように」
 二人とも黙った。
「マールテン、卿はどう思うか」
 と、フィンセントは、一同中の最長老に水を向けた。
「ベルーラ卿の意見が、もっとも適切かと。ただし」
 他の五人は、一斉に彼に注目した。
「ただし、じっと沙汰を待つ必要はありませぬ。わがウェルフェン公国の主張を、
しっかりとしておく必要がありますな」
「その主張とは?」
 誰かが反問した。ベルーラだったかフェルディナントだったか。
「すなわち、ごく近い将来における、公爵位の相続。また、国公、北海提督のそ
れをも含めたすべての権を、ただちに若君が代行なされること」
「代行か……」
 前例がないわけではない。嫡子が幼年であるなどの事情で、位を継がないまま
当主の権限を代行した者は、かつてテュール家にもいた。また、爵位相続という
問題がなくなるので、国王不在でも宰相府の承認さえ得られれば法理的には問題
がない。北海提督のそれについては海軍省の同意が必要となるであろうが、海軍
省という機関には、実のところ北海艦隊へ容喙する権限はないので、押しきるこ
とは充分に可能であろう。
 しかし。
 一同の中で、もっとも宮廷事情に精通しているフィンセントが、
「いや、それはだめだ」
 と、言った。
  一同が、怪訝そうな顔をする。マールテンの主張は平凡だが理にかなったもの
のように思えたのだ。
「勅令であれば、何人たりともそれを取り消すことは不可能だ。だが、宰相府の
決定は、国王がそれを取り消す権限を持っている。現宰相フォンデル卿は、ウィ
レム大公の後見人だ」
 フィンセントは言う。
 彼に頼ったが最後、テュール家はウィレム大公に荷担した、という目で見られ、
否応なしに王位継承の政争に巻き込まれる。ハンス王の嫡曾孫、ヘボウ侯アント
ニーを擁立しようとしている一派が勝てば、テュール家を待っている運命とは、
よくて減封、あるいは改易、最悪の場合は追放か処刑であろう。テュール家が勝
とうとするなら、その陸海軍を使わざるを得ない。国土は荒れ、民衆を、かつて
自分たちの先祖を認め、したがってきた者たちの子孫に、謂われのない辛酸をな
めさせることになる。……
 実は他にも、重要な理由がある。この場で口に出すものはいなかったが。
 宰相フォンデルは、中央権力の絶対化をめざす人物なのである。地方の諸侯を
弱体化させ、国王のもと、宮中の官僚が王国の支配権を握る、というのが彼の理
想だということは、ここにいる者も知っている。ウィレム大公が王冠を得たら、
フォンデルこそが、新国王「ウィレム五世」の名のもとに彼自身の決定を取り消
し、テュール家を粛清しようとするかもしれない。
 どうするか。
 何もかも投げ捨て、庶人として一生を隠遁のなかで暮らせるなら、どんなにか
楽だろう。しかし、父の亡き今、眼の前にいる六人の重臣をはじめ、平時でさえ
二万にとどく騎士、兵士、そして二〇〇万領民の身命が、彼の双肩にかかってい
るのだ。投げ出すわけにはいかなかった。
「兄上、ご料簡がちがいます」
 アーガイルが、初めて発言した。
 フィンセントは、怒るよりむしろ救われたような表情を浮かべ、続きを促す。
「国王が政務を執れない状況にあって、宰相がそれを代行するのは、国法によっ
て定められたるところです」
「それがどうした」
 前置きはいい、と、兄の眼は語っていた。
「さきほどマールテンが申したように、兄上がすべての権限を代行できるよう、
宰相に、いえ、宰相府に要求すべきです。そして、政情が定まって後、あらため
て新国王に、爵位の相続を許していただく。それならば、不用意に敵を作ること
もないと思いますが」
「ふむ」
 フィンセントは考え込んだ。アーガイルはこう言っているのだろう。ウィレム
王子の養育係に頼るのではなく、宰相府の長たる人物に、当然の義務を果たすよ
う公爵家名代として要求せよ、と。このあたり、アーガイルはどこまでも貴公子
であり、どこまでも政治家らしくなかった。
 フィンセントは溜息をついた。弟の意見はたしかに筋が通っているようではあ
るが、それは政治向きの考え方ではまったくない。問題は他者――とくにヘボウ
侯の一派――にどう見えるかということなのだから、宰相府の長という公的な存
在に要請するのとフォンデル個人を頼るのと、この場合はまったく同じなのであ
る。だがフィンセントは失望はしなかった。彼はこの闊達な弟に謀臣たることを
期待したことは一度もなく、謀臣たれと望んだこともなかった。アーガイルはこ
れだからいいのだ、とさえ、この兄は思っていた。
 兄の表情から察したのだろう、弟は発言をやめた。
 一座の中で、マールテンにつぐ年長者のフェルディナントが立ち上がった。み
な注目する。この初老の男の祖父はフィンセントらの曾祖父と同一人物であり、
つまり彼は、亡き国公ヘンドリックの従弟にあたる。フィンセントが成人する前
は、王都における国公の代理人といえばフェルディナントのことであった。他の
家臣からはもちろんフィンセントら兄弟からも相応の敬意をはらわれているが、
彼自身はみずからが「国公の甥」であったころから、臣下としての立場を崩した
ことは一度もない。ヘンドリックが国公位に就いたとき、彼を家臣の序列第一位
に挙げ、執政に任じようとしたが、彼はそれを固辞し、その地位にコルネリスを
推挙した。血が濃くなりすぎた家はいずれほろぶ、というのが彼の持論であり、
篤実な行政官であるコルネリスや人望のあつい軍人であるマールテンを上位にお
いたほうが公国の運営はうまくいく、と考えていたようだ。彼自身は序列として
は第三位にあたる王都駐在の筆頭文官という地位を与えられ、フィンセントが成
人して王都に出るまでという条件付きながら、国公の代理人という立場をもつこ
とになった。
 そのフェルディナントが言った。
「難しく考えすぎておられますな」
「というと?」
 フィンセントが訝るように尋ねた。
「この際、なにもしなくていいのではないですか」
「……どういうことだ?」
「愚考いたしますに、国公殿下のご薨去を王位継承をあらそっている人々と結び
つけてしまうから話がややこしくなるのです」
 先述したとおり、フェルディナントはフィンセントが成人する前、王都におけ
る国公の代理人、つまり一種の外交官として過不足ない能力を発揮してきた。彼
のもっともすぐれている点というのは、政治的観察力とでもいうべきものだった
であろう。名族の傍流という微妙な立場にうまれたゆえであったかもしれない。
 ともかく彼は、現在ふたりいる王位継承者とその背景を見て、テュール家はど
ちらにもつけないだろうと早い時期から思っていた。中立をまもるということで
はなく、中立にならざるをえないだろう、と。かたや王権の絶対化、かたや神権
政治をめざしている以上、どうしてもテュール家と相容れないからだ。どちらか
に味方してその後の発言力を強からしめるという手もあるが、それはテュール家
の発想にはない。
「では、どうせよと言われるのですか」
 ベルーラが問う。
「だからなにもしなくてよい、と申し上げているのです。もともと、公国内の政
務はコルネリス卿が一任されておりましたし、王都には若君がいらっしゃる。国
公殿下のご薨去によってテュール家が瓦解するようなことはございませぬ」
 これは不敬な言いぐさであるかもしれない。もしベルーラあたりがおなじこと
を言ったら、ヒドやアントンは怒りを露わにしたであろう。だがフェルディナン
トの人徳というものか、みなそれを真実としてうけとめた。
「法理上、公国のあるじは国公殿下おひとりであるべきですが、現状で若君が位
を継げないのならば次善をとるしかございますまい。つまり若君はこれまで通り
私どもにご指示をくださればよいし、公国ではコルネリス卿に政務をゆだねれば
よろしい」
「しかし、それはあまりにも消極的ではないか」
 と、これはマールテンである。先ほども言ったが、せめて国公のもつ権能を若
君が代行できるよう、宰相府にかけあうべきではないか……。
「さて、必要がありますかな……。国公殿下が公国にお帰りになった際、ご病気
ということで王宮と宰相府とに届け出てあるはずです。国王陛下ご危篤の際に帰
国されたのですから、よほどの重病でなくてはなりますまい」
「あっ」
 フィンセントが気付いたようにフェルディナントを凝視した。
「卿のいわんとすることが、わかったような気がする」
「左様でございますか」
「つまり、父上の死はなかったものとせよ、と、こういうことだな。重病という
ことで私が公権を代行できるように、と」
「ご明察、おそれいります。不敬、かつ冒涜のはなはだしきものでございますが」
「いや、それはいい。しかしフェルディナント卿」
「はい」
「結局のところ宰相に頼ることにかわりはない。それについては?」
「さきほどアーガイル様がおっしゃった通り、宰相はあくまでも公人、彼が大公
殿下の後見人であるということは私事でございましょう。……というのは建前論
ですが、若君が公権を代行できないとなると公国の政務自体が滞るということに
なれば、万一ヘボウ侯が王権をにぎったとしても言い訳にはなるでしょう。それ
よりも」
「……?」
「当家の家門さえたもてればウェイルボード王国がつぶれてもよいなどと考えて
おられる方は、ここにはいらっしゃらないと存じます。王権がどなたに帰するか、
誰がどのような思惑をかかえているか、そのようなことよりも、王位をあらそっ
て戦が起きることをふせぐことこそ、当家にあたえられた使命でございましょう。
開祖ノジェール大公殿下の時代からそうだったはずです。王位をうかがう両勢力
を牽制し、ことを宮廷内部の暗闘にとどめることこそが肝要ではないかと。テュ
ール家と新王との関係など、そのあとの話です」
「………」
 結局のところフェルディナントの意見は、基本的にはマールテンやアーガイル
のそれとほとんどかわらない。だが、彼らの意見がテュール家の保全ということ
を目的としていたのに対し、フェルディナントのそれはウェイルボード王国を護
ることがテュール家に課せられた使命である、と、より高い次元での発想であっ
た。フィンセントがもっとも悩んだのはこのことである。ウェイルボードの臣と
してどうあるべきか、公爵家の家門をまもるためにどうするべきか……。必ずし
も一致しない、むしろ相反するこの両者の均衡点を、みごとにフェルディナント
が示してくれた。
「決めた」
 という、若き世子の声がした。
  表情に、決意の色がありありと出ている。
「フェルディナント卿の案をもって、わがテュール家の公論とする。卿の言うと
おり、両勢力を牽制して内乱を防ぐことが公爵家の忠誠のあかしだ。仮に新王が
それを不忠というなら、私にも覚悟がある」
 みな、沈黙している。
 フィンセントの決意は、すさまじかった。
 皮肉な言い方をするなら、命がけで日和見を貫く、と言っているのである。し
かし、それを卑怯と思う者はこの中にはいない。ただ、みな沈黙している。
「アーガイル、おまえは公国に帰り、ことの真偽を確かめよ。しかる後、事実で
あれば、ただちに王都に早馬をよこせ。また、兵備を練っておけ。あくまでも隠
密裡にだ。虚偽であれば、虚報をながした者の探索などはコルネリスにまかせ、
すぐに王都に帰ってこい。マールテン、卿も同行せよ」
「はい、兄上! いえ、国公代理閣下」
 アーガイルは、うやうやしく一礼した。
「御意」
 マールテンは、無表情のまま言った。
 フィンセントはわずかに口元をゆるめ、すぐにそれを引き締めて言う。
「ヨースト、卿は、明日にでも宰相府に赴き、フォンデル卿と会え。趣旨は、さ
きほどフェルディナントが言ったとおり。交渉の子細については卿に任せる」
「はっ」
「ヒド、王都における筆頭武官は卿だ。不測の事態に備え、心してつとめよ」
「命に代えましても」
 フィンセントは危機に酔っていた。酔うことによって悲しみをごまかし、己の
能力の限りを尽くそうとしていた。
「他の者は、別命あるまで待機。以上だ。何か異論がある者は今のうちに言え」
 言葉を発する者は、いなかった。この公子は、決して独善的ではなく、むしろ
他人の意見を最大限尊重する傾向があったが、ひとたび決めたことを容易にひる
がえすようなことは絶対にないのだ。そのことは、この場にいるすべての者が知
っていた。
 会議は終わり、それぞれの人間が、それぞれの表情で、退室していった。
 
 

 

第四章へ続く

 




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