深夜――宰相邸。
「殺してしまったのか?」
ラッツェルは、椅子を蹴って立ち上がると、ベリアスにつめよった。
「……ああ」
「なぜだ! 裁判にもよらず、近衛総監ともあろう方を殺すなど」
「しずまれ、ラッツェル」
ラッツェルが憤然としたまま背後をふりかえる。
「宰相閣下! なんということをしたのです」
ラッツェルの詰問を、フォンデルは無視した。
「ベリアス卿は、わしの邸でおこった不祥事について、バルネフェルト伯に事情を聴きにいった。が、伯が取り乱して剣をふるわれたので、『やむをえず実力をもって』それを制した。不幸にも伯は負傷し、その傷がもとで逝去された……」
「………」
ベリアスは黙っている。彼としても、後味のよくない仕事だったのだ。
「そのような詭弁、だれが信じますか」
ラッツェルは吐き捨てた。「今度はうまくやる」とはこういうことか。この宰相は高潔な野心というべきものを、かつてはもっていた。いや、今もそれは同じだろう。また、それにふさわしいだけの力量を依然たもってもいる。だが、近年になってその精神にいちじるしく均衡を欠いてきているように、ラッツェルには思える。レア帝国を領内に引き込んだこと、フィンセントをにわかに投獄した件、今日のヨッサムの件、そして……。数日前いだいた感想は、どうやら真実らしい。ラッツェルは思ったのである。「この人は、自分の陰謀にふりまわされている」と。
しかし、それでもラッツェルにとってフォンデルという男は、なお必要な存在であった。
もはやヨッサムがいない。ウィレム大公を擁立するためには、いや、彼を王位につかしめずとも、その安全を確保するためには、フォンデルの存在が不可欠であろう、とラッツェルは思う。彼はテュール家の存在などウェイルボード王国にとって一利もないと考えている。結局はフォンデルにしたがうしかないのである。だが、したがうからには、言うべきことは言わねばならぬ。
「諸侯、諸将がだまっておりませぬぞ。とくに近衛兵団」
「わかっておる」
やけに自信満々に、フォンデルは応えた。
ラッツェルの言うとおり、近衛兵団幹部はおどろくほどはやくヨッサムの横死を知り、副総監イリーヤ下将軍の邸宅に、おもだった者があつまって復讐を企図していた。暗殺などという陰険な方法はこの兵団にふさわしくない。白昼堂々、宰相府に詰問状をだし、王都のみならず王国中に宰相フォンデルを打倒するための檄文を発し、最終的には近衛兵団の武力をもって王都を制圧し、宰相の首をあげる……。
副総監イリーヤ、一番隊々長カドゥラ、二番隊々長カッテンデイケ、三番隊々長デリウス、六番隊々長ヤン・ヨアヒム、八番隊々長シモーネ、九番隊々長ビルスナー、一〇番隊々長レンドルフ……といった面々である。四番隊々長レッケンと五番隊々長バルーフ、七番隊々長ヒューホーは、王都内の巡察あるいは王宮の警備にあたっているため、この場にはいない。軍監ダルベルトはつい先ほどまで同席していたが、「その三人に変事を報せるため」退席している。
宰相はすでにそれを察知していた。このときフォンデルがもちいた策というのは、おどろくほど狡猾なものであった。宮中の官吏でありながら近衛兵団の軍監をつとめるダルベルト准将軍を通じ、「宰相派の軍人がヨッサム卿を害した」という情報をイリーヤらに流したのである。隠蔽しようとしても、両日中にかならず露見する。それならばすぐにでも情報をわたしてやったほうが、敵の動向を予測するということでは利点が大きい。近衛兵団の幹部たちは、総監が暗殺されたという変事を、その主犯によって知らされたのだ。
ダルベルトはもともと軍人ではなく、王宮から派遣された軍監であったから、他の幹部たちは彼に冷淡であった。だが、これは信じぬわけにはいかなかった。なにしろダルベルトは事実をありのままに言っただけなのだ。いや、ダルベルトがおこなった工作がひとつある。些細なことだが、これがきわめて重要な結果をもたらすことになった。
一座の中ではデリウスがもっとも若い。その彼は涙も流すことすらできないでいた。ヨッサムを制止しきれなかったこと、昨夜の宴で護衛につかなかったこと、このふたつが、彼に巨大な自責と後悔を強いていた。はげしく泣き、涙を流しつづけているのはデリウスについで若いレンドルフであった。
「殺してやる、殺してやるぞ!」
レンドルフは叫び、両の拳で机を叩いた。
「……レンドルフ卿! 自分の立場をわきまえられよ。われわれはバルネフェルト家の私兵ではない。閣下が亡くなられたのは痛恨事だが、ただその一事によって激発し、宰相たる人物を害するなどということがあってはならない。われわれの任は王都の防備と、なによりも国王陛下と王宮を鎮護したてまつることだ」
そういってレンドルフをたしなめたのは、一座の最年長者、ビルスナーである。
「悔しいのは卿だけではない」
と、これはカッテンデイケである。
レンドルフにしてみれば、いわれるまでもないことだった。ビルスナーにしてもカッテンデイケにしても、ヨッサムを慕っていなかったわけではないのだ。
「復讐もよかろう。だが、閣下のご葬儀が先だ」
とカドゥラが言ったのは感傷からだけではない。この場合、葬儀はそれ自体が重要な政治的行為である。葬儀をおこなうことで、ヨッサムが暗殺されたことを満天下に公表し、自分たちの復讐を正当化できるであろう。
……が、カドゥラがここで提案したヨッサムの葬儀が実際におこなわれたのは、これより半年以上も後のことである。
ところでカドゥラはヨッサムの腹心であった。もし彼が一番隊々長という重職になければ、今すぐ、独りででもフォンデルの邸内に討ち入ったであろう。一〇人いる隊長の中で、たしかにヨッサムはこのカドゥラをもっとも信頼していたのだ。臆したか、とカドゥラをののしる者がいなかったのは、この近衛兵団幹部たちは、痛いほどそれがわかっていたからだ。
カドゥラはここで感情に流されるわけにはいかない。一〇人の近衛隊長の中で、彼は首座を占めており、当面は副総監のイリーヤが全部隊を統括する以上、彼は近衛兵団全軍の参謀長と実戦指揮官との双方をつとめねばならないのだ。
「だが」
と言いだしたのはヤン・ヨアヒムである。
「なぜわれらは、こうも早く、総監閣下の訃報に接したのだろうか」
「……?」
一四本の視線がヤン・ヨアヒムにつきささる。
「副総監閣下は、不審には思われなかったのですか」
「……卿が何をいっているのかよくわからぬ」
「総監閣下が害されたのは、宰相邸での祝宴のあとだというから、すでに夜のこと。その報をここにもたらしたのはダルベルト卿だというが、なぜダルベルト卿はその報を知ったのです。かの御仁は軍監であり、隊長ではありません。独自に率いる兵もない。その彼が、なにゆえわれらよりも先にその報を知ったのでしょうか」
「それは」
ダルベルトは昨夜、宰相府に詰めていた――彼が軍監であり本来は文官である以上、宰相府にひんぱんに出入りすることはさほど不自然ではない。すると、幾人かの兵士が「ヨッサム閣下のご遺体」を運んでいたという。ダルベルトが彼らを問いつめると、宰相の命によってヨッサムを捕縛しようとし、思わぬ抵抗にあってやむなく斬殺におよんだと「白状」した。宰相以下の幹部はすでに不在であったため、ダルベルトはイリーヤの邸宅に駆け込んできた。イリーヤは蒼白になりながら、ダルベルトをともなってヨッサムの自邸に向かった。バルネフェルト家の家僕は、震えながら、ことの顛末を話した。彼は主人が殺される現場そのものは見ていなかったが、近隣に邸をもっていた貴族が駆け込んで報せたのだという。「兵士たちが近衛総監閣下を害した」のは、その貴族の邸宅の門前であったのだ。その邸の門衛は、まず呆気にとられ、ついで恐怖に駆られ、門の中に隠れてしまったという。近衛兵団の本営にむかおうとするイリーヤを、ダルベルトはとめた。本営は王宮に近すぎ、外部の者も多い、今後について隊長たちと相談するのならば、彼らを私邸によぶべきだ。………
説明しながら、イリーヤの表情がにわかにくもってきた。
「なぜその兵士たちは、わざわざダルベルト卿の目にふれるように閣下のご遺体を運んでいたのでしょう。閣下が謀殺されたとしたら、そのことはできるだけ隠そうとするものではないでしょうか。いや、そもそも今、ダルベルト卿はどちらにおられるのです」
「……!」
一同が戦慄した。
「罠……か?」
カドゥラがつぶやいた。近衛兵団の幹部をひとつところに集め、一網打尽にしようというのであろうか。宰相としては、ヨッサムを殺してしまった以上、それは当然の戦略であるかもしれない。そしてまた、彼らを、麾下の兵力ときりはなすことも。
「副総監閣下! この邸宅には何人の兵がおりますか?」
と叫ぶように尋ねたのはシモーネである。剣技ではデリウスに次ぎ、カドゥラにまさるといわれる、王都の中でも五指にはいるであろう剣豪だ。
「……一〇〇に届かぬ」
しかも、近衛兵ではなく、すべてイリーヤの私兵だという。
イリーヤは子爵家当主である。王都に一〇〇ちかい私兵を擁しているというのは、子爵家としてはずいぶんと多いほうであろう。だが、もし宰相の軍、たとえばベリアスの遊撃隊あたりがおしかけてくれば話にもならぬ。近衛兵団の隊長たちは、全員が武勇に秀でているが、一人で一〇人を倒せるほどの、いわば人間ばなれした強さをもっているのは、この場ではデリウスひとりだけである。
「……みな、別々の道をたどって本営にむかおう」
近衛兵団本営は王宮のすぐそばにある。総勢一万がつねにいるわけではないが、士官はともかく兵士は営舎に居住することが義務づけられているため、非番や休暇中の者をのぞいても、八〇〇〇ていどの兵はいるはずだ。生きてそこにたどりつけば、市街戦を視野に入れることもかなうだろう。別々の道をたどるというのは、幹部が一網打尽にされることをふせぐためである。「戦力を分散させるのはどうか」などという者はいなかった。
「四通りの道を行こう。二人ずつにわかれる」
イリーヤが言う。みな異存はない。イリーヤの一〇〇人足らずの私兵は同行させぬことになった。馬の数が足りないからである。それに、敵と出逢ったとき、その兵力では心もとない。まだしも、二人ずつで動いたほうが目立たぬし、戦闘を避けることもできるだろう。
デリウスはカッテンデイケと連れだって本営へと向かう。
「営舎への道は封鎖されているだろう」
とカッテンデイケは言う。デリウスは、まだ自失の状態から完全に立ちなおったわけではないが、わかりやすい目標ができたからか、表情には精気がややもどっている。黙ってうなずいた。
他の六人とわかれ、馬を走らせていると、かすかに喊声がきこえた。宮廷ではない。宰相府の方角だ。
「なんだ?」
デリウスは馬首をそちらに向けようとしたが、カッテンデイケに制止された。
「ことの軽重を誤るな。今は、一刻も早く本営にたどりつくことだ」
「……」
結局デリウスらは喊声のあがっている方向は無視して、本営への道を急いだ。だが、このとき、宰相府のそばで市街戦がおきていた。ベリアス麾下の八〇〇人の部隊が、昨夜から市内の巡察に出ていたバルーフの近衛兵団五番隊を急襲したのである。五番隊には総勢で七〇〇人をこえる兵士が属しているが、このときバルーフが率いていたのはその半数ほどでしかない。勝負になるはずはなかった。しかもバルーフはこの時点ではまだ、近衛総監の死を知らない。なぜ攻撃されるのか、と混乱しているうちに、彼の隊は千々に解体されていき、彼自身はベリアスの剣にかかって死ぬことになる。
四番隊々長のレッケンと七番隊々長のヒューホーは、バルーフよりはるかに幸運であった。彼らの任は王宮の警護であり、すでに近衛兵団の本営へと戻っていたのである。彼らもまだヨッサムの死を知らない。だが交代の刻限であるというのに兵団幹部がそろって不在であることから、不穏な気配を察し、ふたたび兵を動かし、王宮の警護にあたった。むろんこれは名目であり、戦闘の準備をととのえたということである。
「近衛兵団に不穏の動きあり」
ルード上将軍は、フォンデルの示唆によって、麾下の軍を動かした。近衛兵は、兵力があるとはいえ、兵と将帥とが切りはなされている。まとまった軍事勢力としては、ルードの率いるこの野戦軍団がまぎれもなく王都で最大のものであった。彼は、イリーヤ下将軍の邸宅から王宮へとつらなる街路すべてを封鎖した。「人の形をしているものはすべて通すな」というのが宰相フォンデルの指示である。ルードは各路に一〇〇人ずつを配し、残りの大半を王宮のそばの近衛兵団営舎へとむけた。将帥なき近衛兵団を掣肘するためであり、近衛兵が組織的に蜂起したときにそれをおさえるためである。さらに一隊をイリーヤ下将軍の邸宅を襲撃するために差し向けたが、これはすでにイリーヤら一党が危険を察知して邸宅を出たあとであり、失敗におわった。
「兵を配置するとすれば、この先の五叉路だろう」
「同感です」
カッテンデイケが言い、デリウスが応じる。
いた。
「どうする?」
「突破できない数では……いや、無理でしょうな」
三〇人ほどであろうが、突破できたとしても無傷ではいられないだろう。
(ぐずぐずしてはおられぬ)
突入するにせよ引き返すにせよ、即断がもとめられる。
「カッテンデイケ卿」
「うん?」
「私が敵を引きつけます。その間に貴方だけでも」
「ばかを言うな!」
ヨッサムの義理の甥であり、王都で最高の剣士であるこの若者を、自分のために犠牲にするなど、ゆるされることではない。カッテンデイケはそう言った。
「ことの軽重を誤るな……貴方がおっしゃった台詞です」
「……」
たしかに、兵を指揮するということなら、デリウスとカッテンデイケのどちらが行ってもさほど変わるものではない。デリウスは無双の豪傑とはいえまだ若く、一〇人の隊長の中ではレンドルフとならんで末席というあつかいだった。また、近衛総監の義理の甥であるということで、彼のことを「家柄で立身した」と見て、その武勇を認めながらも、統率力に疑問をいだく者が、下級士官の中には決して少なくなかったのだ。
「そんな私が行くよりも、貴方が行かれたほうがよい」
しかもその過程で自分が死んだとなれば、なおさら兵士たちは奮いたつだろう。
デリウスはそこまでは言わなかったが、カッテンデイケはそれを察した。
「……死ぬなよ。なんとしても逃げのびるのだ」
「はは、私とて、この若さで死ぬ気はありませぬ」
……デリウスが馬を進めると、兵士がそれを見咎めた。その兵士はデリウスの顔を知らないようであり、
「どこへ行かれる。この道は、ルード上将軍閣下の命により封鎖されておる」
と馬前に立ちふさがった。
「貴殿の名は?」
「……」
「答えられぬか? ともかく、馬を返されよ」
デリウスは、馬を立たせたままにやりと笑った。
「引き返すわけにはいかぬ。そのかわりに、名を教えてやろう」
「なんだと?」
「きけ! わが名はデリウス。近衛兵団三番隊々長のデリウスだ!」
「なっ……」
兵士は絶句し、周囲がどよめいた。デリウスは手綱を引いた。馬が立ち上がり、目の前の不幸な兵士をその前脚で蹴飛ばした。
「おのれ!」
周囲の兵士が、デリウスにむらがりよってくる。デリウスは、五叉路のうちのひとつ、王宮ではなく、今は無人となっている公爵家の公邸につらなる街道に馬首を向けた。
「王宮に用はない。おぬしら、無駄な血を流したくはなかろう」
兵士たちも、デリウスの名は知っている。本来、王宮に向かわぬとあらば通してもかまわぬのだが、ルード将軍が、近衛兵団の幹部全員の首に賞金をかけている。いや賞金はともかくとして、その幹部たちの中でももっとも高名なこの騎士をだまって通したとあれば、将軍の怒りは自分たちの身にふりそそぐであろう。
「何をしておる! 捕縛するのだ!」
と、士官が叫んだのをきっかけに、兵士たちは槍あるいは剣をかまえてデリウスに向かってきた。デリウスは馬を走らせた。
一瞬のうちに三人の兵士が致命傷を負った。「剛勇無双と称される人間は諸国にいくらでもいる。だが、ウェイルボードにはまさにひとりしかいないであろうよ」というグスタフ王の言葉を思いだした者が何人いただろう。
「馬だ、馬をねらえ」
という声に呼応するように、兵士たちはデリウスの乗馬に槍をむける。だが、デリウスはその剣技とおなじく、騎乗の技術も凡庸の対極にあった。それをかわしつつ、近寄る者をその剣によって死骸に、あるいはそれに近いものに変えていった。だが、ついに兵士の槍が尻をかすめ、いなないた馬が疾走しはじめた。デリウスは舌打ちし、左手で馬の頸を押さえつけ、剣をもった右手で手綱にしがみついた。その後を、兵士たちが追いかける。そして、士官たちはいっせいに騎乗し、デリウスが走り去った街道に向かった。
カッテンデイケはその隙をついて馬を駆けさせた。むろん王宮に向かって、である。その場にのこった兵士がそれを見咎めたが、すでに数はずいぶんと減っている。疾走する馬を止めるには、蹴り殺されることを覚悟せねばならない。
「よし」
カッテンデイケは無事に五叉路を抜けたであろう。デリウスはやや安堵しながら、後ろを振り返った。自分を追う兵士たち。徒歩の者は次々と脱落していったようだが、騎乗している者の数は、さすがに減っていない。
「一三人か……」
同時に相手にするのはきびしい数である。デリウスは手綱をしぼることなく、馬が走るにまかせた。実際、デリウスにも余裕がない。馬から振り落とされぬように、膂力と神経との大部分を使わねばならなかった。追っ手が見えなくなったところで、デリウスは、見覚えのある場所に出たことに気付いた。
「ここは……」
デリウスは周囲を見た。いつの間にかテュール家公邸の近くまできている。
だが、テュール家はすでに王都を退転している。頼みにはならないだろう。
「いや」
とデリウスは思いなおす。
このまま逃走を続けても、いずれ馬が力尽きるだけだ。それに、自分を追う兵士どもがテュール家の退転を知っているとは限らぬではないか。潔さよりも、ここは生き延びることを考えてみるか……。
馬首をめぐらせ、公邸の門をくぐった。馬をおりて玄関にかけこむ。幸いにも、鍵はかかっていない。両開きの扉をあけ、馬を招き入れる。外に置いていては、ほぼ確実に馬が殺されるからだ。
自分を追う馬蹄の音が、門外で止まった。
中に入ってくる気配はない。
「やはり、そうだ」
奴らは、この邸が無人であることを知らぬのだ。玄関はおろか門内にさえ駆け込んでこないというのは、公爵家に対する配慮からであろう。フォンデルとテュール家の確執、それによるテュール家の退転は、フォンデルの側近であるラッツェル、ベリアスなどは知っているだろう。ルードも知っているかもしれない。だが、中級、下級の士卒までが知っているだろうか。門衛が立っていないことをいぶかしく思ったとしても、下級士官が、公爵家の居館にずかずかとあがりこめるものではない。しばらくそこで息を潜めていると、馬蹄の音はしだいに遠ざかっていった。あるいは見張りが残っているかもしれないが、一〇人をこえる数でなければ、全員を斬りふせるとまではいかずとも、逃げ切る自信はある。デリウスは、邸の中に足を踏み入れた。
「荒らされてはいないな」
フィンセントらが王都を去った後、フォンデルはこの邸を調べなかったのだろうか。デリウスはやや意外に思った。だが、自分たちに不都合になるようなものを残すことは、あのフィンセントのことだ、絶対にないだろう。もし残っていたとしたら、それこそ罠の可能性が高い。フォンデルがそう思ったのかどうかはわからぬが、ともかく、この邸をしらべて判断材料を増やすことよりも、テュール家が王都から去ったという事実を隠蔽することを優先したにちがいない。
いくつかの部屋をまわった。剣でも、槍でもよい、なにか役立つものがあれば、と思って探していたのである。しかし、ぐずぐずしていればこの邸の見張りが増えるおそれもある。
衣装部屋のようなところに、デリウスは入った。
そこには、公爵家の誰もがおよそ必要としないであろう衣服の数々があった。漁師の服、狩人の服、南国の庶人がもちいるような薄衣や半衣……そして、デリウスの見覚えのある服があった。中どころの交易商が着るような、厚手の木綿服である。
「なるほど、アーガイル卿だな」
デリウスは失笑した。それは、二月ほど前にはじめて出逢った奇妙な若者が着ていた服だったのである。
ふと、気づいた。ここにある服をうまく使うことはできないだろうか?
自分の服を見ると、それは軍服でこそないが、絹作りの長衣と羊毛の外套であり、貴族か、それなりの地位にある武官が用いるものである。下級兵士にせよ士官にせよ、デリウスの名は広く知られているが、その顔はそれほど知られているわけではない。ならば庶民とおなじ格好をすれば……。
先ほどは、カッテンデイケが営舎に向かえるようにと、わざわざ大声で名乗ったが、もはやそのような配慮は必要ない。幸運にも生きているのだから、生き残るための配慮をこそするべきであった。さっそく服を着替える。デリウスの体躯は、アーガイルのそれよりも縦にも横にも一回りほど大きかったが、アーガイルがとくに寸法などに気を遣っていなかったのか、その衣服はデリウスの体にちょうどよかった。予備のためにいくつかの衣服を取って荷造りし、用心ぶかく玄関へとむかった。兵士が中に立ち入った気配はない。フォンデルの陰謀好きとそれにともなう秘密主義が、この場合はデリウスに幸いした。荷を馬の背にしばりつけ、裏手の厩にのこっていた飼葉を喰わせると、ふたたび上の階へとむかう。周囲のようすをうかがうためである。
「あれは」
窓から外を見て、デリウスは愕然とした。邸の周囲には意外にも兵の姿は見えなかったが、むろん、デリウスが驚いたのはそのようなことではない。
「聖堂騎士団……!」
近衛兵も一般の陸兵も、礼服はともかく通常の軍装はたいしてかわらない。だが、それとはまったく異質な軍装をまとった一団がある。デリウスが視認するかぎりでは三〇〇人ほどの部隊があるのみで、大軍とはいえない。だが、小部隊にせよ、彼らがこの動乱に介入することの意味は小さくない。
ついに動いたか、とデリウスは思った。ルード将軍が動いている以上、フォンデルはその持ち駒の大部分を投入しているはずだ。また近衛兵団は、ヨッサムの横死とデリウス自身をふくめた幹部の行方不明とによって、おそらく混乱のきわみにあるのではないか。今朝イリーヤ邸にいなかったレッケンらがうまく統御していれば……という期待はあるが、そもそも彼らが営舎に帰着しているかどうかもうたがわしい。また帰っていたとしても、彼らは、おそらくは自分もふくめ、数百人の部隊を進退させるのには過不足ない手腕をもっているが、数千の大軍を統御できるかどうか。それができるのは、才能はともかく階級や経験という点では、ヨッサムの亡い今となってはイリーヤくらいのものであろう。宰相側にしても近衛兵団にしても、余力はない。つまり、教会が武力によって王都の主導権をにぎる、千載一遇の機会であるのだ。
聖堂騎士団がどのような作戦を立てているのかは知らぬ。近衛兵団にとって敵になるかどうかもわからぬ。だが、すくなくとも味方になることはありえないだろう、とデリウスは思う。亡きヨッサムにしてもイリーヤにしても、あるいはカドゥラなどにしても、近衛兵団の最高幹部たちは、決して策士ではない。教会に利を食らわせてともに宰相と戦うという発想は、おそらくなかったであろうし、これからもないであろう。むしろ、宰相フォンデルのほうこそが、近衛兵団を殲滅するにあたり、聖堂騎士団を共犯に引きずり込んだのではないか。そちらの想像のほうが、よほど現実味がある。
「いや、いずれにしても想像にすぎぬ」
今は、自分にできることをやるしかないだろう。
騎乗して門から駆け出したとき、デリウスはとまどった。兵の気配がまったく感じられなかったからだ。どこかに伏せているのだろうか、と考えもした。だが、一隊を率いているというのならともかく、すくなくともここには自分ひとりなのだから、そのようなことをする必要はあるまい。それでもデリウスは用心しつつ進んだ。やはり、気配はない。彼らは、デリウスがテュール家公邸に逃げ込むはずがないとたかをくくって他の場所を捜しているのか、それともあきらめて本来の持ち場に戻ったのか。
「やつらはそれほど間抜けなのか」
と思ってから、おかしくなった。彼らが間抜けならば、その彼らから逃げまわっている自分は何なのだ――そう自嘲した。だがともかく王宮にむかわねばと思い、馬に鞭を入れようとしたとき、かすかな地響きを感じた。王宮の方角に煙があがっていた。さきほどのように、かすかに見えるというていどではない。いくつもの白煙、いくつもの黒煙……。
「はじまったか!」
宰相軍と近衛兵団との戦いがはじまったのだ。急がねばならぬが、最短距離を走れば間違いなく途中で阻まれるだろう。それを警戒して、デリウスは西へむかった。つまり港ちかくの商業地を迂回することにしたのだ。都合のいいことに、自分が着ているのは商人の服だ。
……王宮の西門、近衛兵団営舎の近くでは、レッケンとヒューホーの両隊長が率いる近衛兵団三〇〇〇と、ルード上将軍みずからが率いるおよそ七五〇〇の軍とが、広い街路を挟んでにらみあっていた。レッケンらが指揮するのは、現在うごける兵のうち、半分以下である。これは、彼らが千単位の軍を動かしたことがないからで、指揮能力の限界をこえると判断したからだ。
「王宮に軍をむけられるのか、ルード将軍!」
ヒューホーは、いまだ事態をのみこんでいない。何ごとがあったのか、と思いながらも、すくなくともルードが来ている以上、耳に心地よいことであるはずはなかった。ルードは宰相派の重要な一員とみなされており、宰相は彼らの総監にとって深刻な政敵だったからである。
「近衛兵団の士官全員に、その任を解くという辞令がくだっておる。おとなしく武装を解除して、秩序にしたがえ」
「何者の命令で? 近衛兵団の秩序とは、畏くも国王陛下と、その委託をうけた近衛総監の手にのみ帰せられるもの。宰相府や陸軍省に、いつから近衛兵の任免があずけられたのです?」
「国王陛下ご不在の今、その大権を代行したてまつるのは宰相府ぞ。その長たる宰相閣下の命により、不肖ながら拙者が近衛兵団の指揮権を代行することになった。総監代行として命ずる、そこをどけ!」
「だまられよ、ルード将軍。われわれは、現職の近衛総監閣下が更迭されたなどという話はきいておらぬ。きいておらぬ以上、旧来の命令にしたがって王宮をまもるのみだ」
というレッケンの返答は、ルードを驚かせた。ルードは、近衛兵団幹部は全員、昨夜のことを知っていると思っていたのだ。
「知らぬのか、そなたら……?」
語尾に冷笑がまじった。
ルードの口調に、レッケンとヒューホーは、悪寒をおぼえた。それが伝染したように、下級士官や兵たちの間にもざわめきが起きる。
「ヨッサムは、詰問使に刃をむけ、誅殺された。おとなしく従っておれば免官と謹慎ですんだであろうに、ばかな男だ」
と言おうとして、ルードはやめた。ヨッサムが配下の将兵から圧倒的に支持されていたのは知っている。このことを言えば、相手を死兵にするだけである。兵力差があるとはいえ、自軍も無視できない損害をこうむるであろう。
「武装を解除せよ、おぬしらの悪いようにはせぬ」
「くどいぞ、上将軍!」
若いレッケンが、もはや階級に対する礼儀も放棄して、怒鳴った。
「総監代行を名乗るのならば、われらをことごとく殺してゆかれるがよい。もっとも、われらもあきらめのいいほうではござらぬでな、せいぜい抵抗させていただく」
「そうか、あくまでも王威にそむく気か」
「王威とは、王あってのものではないか。宰相の走狗ごときが口にしてよい言葉ではない、よく考えてからものを言ったらどうだ」
「言わせておけば! この奸賊どもが」
さすがにルードは激怒した。彼は宰相から命令をうけている。「王国の秩序に服せぬ者はすべて逆賊である、逆賊を討つことをためらうな」と。
王都ジュロンは、大部分の住民にとってはなんら意味のない戦雲にたたきこまれた。そしてこの日、列国の大使あるいは公使は、その混乱をかいくぐって、本国に早馬をとばした。今後の情勢や結末について、彼らの認識や見解はさまざまであったが、近衛兵団が壊滅し、宰相フォンデルの勢威が一時的にせよ高まるだろう、という点では、おどろくほど一致していた。
つづく |