第7話
「愚笑」


全ての訓練が終わったのは午後3時。
今日のテストはこれでおしまいなので、
アスカはそのまま誰と言葉を交わすでもなく無人のケージから足を更衣室へと向けた。
「アスカ!」
そんな彼女の後ろから声が響く。振り返る先には廊下を走ってくるミサトが見える。
足を止め、彼女を待つ。ミサトは彼女の前で立ち止まると少し息を切らせながら
手に持ったバインダーを広げた。
「今日調子悪かったみたいじゃない。
 反応とか、射撃命中率は上々だったけど・・・。
 シンクロテストの結果が昨日とほぼ変わってないか、下がってる箇所もあったわよ。
 何か気になることでもあるの?」
こう思うのは当然だったが、当のアスカはミサトに焦点が定まらぬ視線を向け、
お腹をさすりながら切り返しただけだった。
「ちょっと・・・ね」
アスカの態度の意を、ミサトはすぐに察した。
「あ・・・だったら言えば良かったのに。そんな日にまで無理してテストを・・・」
ミサトの言葉はアスカの声でかき消される。
「私はパイロットなの。こんな事くらいでスケジュールは空けられないわよ」
そう言い残し、アスカは更衣室へと足を向ける。
廊下に一人立つ女性はアスカの背中に一言呟きを送ることしかできなかった。
「・・・ごめんね」


「なぁ碇、まだトウジは退院できないの?」
2人だけで家路につく彼らだが、物寂しさがあってか疑問を投げかける。
「・・・もう少しかかるみたい。体の方は順調らしいから、じき元気な顔が見られるよ」
「ふぅん・・・でもあいつの顔を見ないと調子が出ないんだよなぁ」
シンジはケンスケの顔を避けるように学校のガラスに視線をはわせた。
「あの特徴的な方言聞かないとなんかしっくりこないっていうか」
教室の中には誰もいない。ただガラスに空と校舎が反射するだけ。
「あんなヤツでも寂しいよな、やっぱ」
ガラスの少し上に視線を移す。
反射する青い空、それを眺めながら、
ケンスケと歩調を合わせて歩みを勧める彼に空と重なる顔が見えた。
顔だけが浮かび上がり、髪はないように見える人影。
シンジは歩を止め、ガラスの風景に目を凝らした。
ケンスケのどうした、シンジという声と同時に彼は用が出来たと言い残すと、
ガラスに写っていた校舎へ足早に入っていった。
目の前に広がる階段を1段飛ばしで上っていくと、少し息が上がってきた頃に
階段は目の前から消え、替わりに現れたドアに手をかけ、キイと押し開けた。
先ほど空にとけ込んでいた髪の毛も、ここからなら緑をバックに輪郭が浮き上がる。
「綾波、何してるの?。こんな所で」
彼の言葉が終わる前に赤い瞳が鋭く彼を見据えるが、その視線は彼を認識すると
穏やかなものに変化する。そして、再び彼女は彼方にそれを移した。
シンジは彼女の元に歩み寄ると、
レイと同じように鉄柵に寄り掛かって同じ方向を見つめ出す。
「何してるの?」

「・・・何も」

「・・・何が見えるの?」

「・・・何も」

「・・・今日は行かないの?。本部に」
「行かないわ」
「そうだよね。だからここで暇をつぶしてるんだよね?」
「・・・」
「でも珍しいね。いつもはマンションに帰るんじゃないの?」
「・・・」
「あ、そうだよね。たまには息抜きも必要だよね?」
「・・・」
「・・・あの・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・さよなら」
去りゆくレイの姿を追いかけることも、声をかけることもなく、
シンジはその姿を目で追うだけだった。


・・・ホントなの?こんな計画・・・。


キシキシとバスケットは歩みに合わせて音を響かせる。
いつも気にならない音が、今はやけにうっとおしく感じる。
『ごめん、今日はちょっと用があるから先に帰ってくれる?』
『いいわよ、別に』
真正面を見据える彼女にドアが写る。
歩幅を変えることなく慣れた手つきでキーを機械に通す。
電子音とともにロックが解除され、赤いボタンを押し込む。
玄関はすでに淡い明かりがともっていた。
唇がきゅっと引き締まると同時に足を正面に向ける。
光があふれる部屋へ移動したとき、唇が動く。
「ただいま」
彼女は持っていたバスケットをテーブルの上に置いた。
その足でキッチンに行く。リビングの先客はバスケットを眺めながら
彼女の消えた方を気にするようにちらちらと眺めていた。
彼女の姿はすぐに彼の視界に描かれ、その陰はバスケットを開け、
手に持った袋へと内容物を移し始めた。
「勿体ないことしちゃった」
「食べられないのかな?美味しかったのに」
「もう駄目。食べられる代物じゃないわ」
「・・・そう」
シンジは黙々とビニールへと手を運ぶアスカの横顔を気づかれないよう見ていた。
「・・・何か食べてきたの?」
アスカは彼の問いにも表情は崩さない、何も表さない顔。
「ここで食べるつもりだったから、なにも」
「あ、じゃぁこれから作るよ」
彼女の頷きを見て取ると、居場所に窮していた彼は、キッチンへ向かう。
シンジの姿が消えるとアスカの手が止まり、
彼女の視界にはビニール袋がくしゃりと音を立て歪む姿が描かれていた。


目の前に映るオレンジ色の液体がゆらゆらと内容物を揺らす。
人体と同じ比重を持つ液体故に、彼女達が浮かび上がることはない。
ゆっくりと循環する液体の流れのみが、彼女達を動かしていた。
無数に映る瞳は見ない。
無数に映る体を流し見ながら、
赤い瞳の少女はその場にすとんとスカートを落とした。


「あ・・・あの・・・どうしたの?」
テーブルに額を付けてうつむくアスカの横で、
カレーを作ってきたシンジはどうして良いか分からないのが態度に現れる。
落ち着きなく彼女のそばでオロオロと言葉をかけることしかできずにいた。
ここで、アスカから何かしらの反応があれば彼も事の次第を図れるのだが、
彼女はうつむいたまま、彼の声にも答えずにいた。
「アスカ?」
とても触れられなかった。
息をしているのは分かる。
寝てるわけでもないのは少し震えが見える肩からも理解したが・・・。
「・・・なんで」
そんな彼女から声が漏れる。シンジは彼女の横で立っていることしかできずにいた。
「・・・来てくれなかったんだろ」
足下に置かれたバスケットからシンジにもだいたい察しがついた。
再び沈黙に入った彼女の背中。シンジは背中に向かい口を開く。
「加持さんも忙しいんだと思うよ・・・最近は姿も見えないし・・・」

「・・・でも・・・連絡くらいくれても・・・約束をすっぽかす事なんか無かったのに」
「・・・手が放せないほどの急用とかじゃないのかな。
 加持さんだって忘れた訳じゃないと思うよ」

「・・・そぅ」

「そうだよ、加持さんだって楽しみにしてた筈だもの」

「・・・あんたも一応・・・わかってんだ」
シンジの目の前で小さく見えていた背中が起きあがり、
彼と同じ目線にアスカの青い目が光るのが見えた。
状況を理解しきれないシンジに、アスカは呆けた目線を向ける。
「楽しい?」
「えっ・・・?」
「・・・楽しいか、って聞いてんのよ」
笑ってない瞳に見つめられ、何も言えないシンジ。
長い沈黙に耐えきれなくなっていたアスカは彼の胸に手を伸ばし、
強引に胸ぐらをつかみ上げながら、その声はついに荒くなって彼に浴びせられる。
「私のこと馬鹿にして楽しいかって聞いてんのよ!
 加持さんの事、あんたの事、みんなミサトから聞いたわ!
 何が急用よ!ふざけないでよ!!」
一方的に捲し立てる事はしない。シンジの返答を待った。
「え、あ・・・・・・・・・いや、ば、馬鹿になんかしてないよ」
アスカの視線が彼の瞳を射抜き、張りつけにする。
「だったら止めなさいよ!」
「・・・」
返答がないことに憤るアスカはさらに首を締め上げながら言葉を荒げる。
「忙しい?!
 急用?!
 そんな嘘並べて!
 馬鹿にして!
 陰でクスクス笑いものにするのがそんなに楽しい?!」
「・・・そんな・・・笑いものになんか・・・」
「じゃぁ何なのよ!
 あんたの態度はそうとしか取れないじゃない!
 黙って、心の中で笑ってんでしょ!」
青い瞳が鋭さの中にも光を帯びてきたのを見逃さなかったが今の彼には何も言えない。
だんまりを決め込むシンジの態度に憤りを強めたアスカは
視界の端に映っていたサンドイッチを捨てた袋を足でけり飛ばし、内容物が床に散乱した。
「さぞ気持ちよかったでしょうね。
 私のことからかって、優等生ぶってお姉さんに報告してさ。
 これ作ってるときも笑ってたんでしょ。
 どうせ来ないのにあんな上機嫌で馬鹿な奴・・・って笑いながら見てたんでしょ!」
「・・・そ、そんな・・・」
「そういえばタイミング良くリビングに来たモンよね。
 全て計算尽くだったんだ・・・ばかみたい」
アスカの視界にもサンドイッチの散乱物が目に入り、途端に口調は弱くなる。
楽しみにしていた物の残骸に、感情が一気に高まってきた。
唇を軽く噛みしめてみたが、それは止まらなかった。
必死で押さえていたが、瞳に貯まる一方の物がこぼれおちそうになる。
視線を泳がせながら感情の処理に手一杯だった彼女は、
視線の通過点に映る彼の瞳が自分に向いていると気づいた。
「Narr!!」
・・・
沈黙。
きびすを返したアスカの腕を、シンジはがしりと掴んでいた。
何故掴んだのかはシンジにも分からない。
掴んだあとで、目の前の状況が彼を理解させた程だった。
アスカも彼に腕を握られたまま振り返ろうとしない。
「・・・馬鹿になんかしてないよ。勘違いはしないでよ・・・アスカ」
喉のつまりを感じながら、アスカは一息ついたあとに口を開く。
「・・・だったら言いなさいよ。何で言わなかったのか。
 何で加持さんが来られないって知ってて言わなかったのよ・・・」
シンジからの返答はなかった。
沈黙の時がただ無駄に流れ、彼女の心を締め付けてゆく。
「言えないわけ・・・?」
シンジの顔は見ない。
「・・・言えなかったんだ」
自分の顔も見せない。
「・・・アスカの気持ち・・・考えると・・・」
「なんでよ・・・?」
この答えには返答の声は帰ってこなかった。
ただ沈黙の時だけが二人の間に流れていた時、
一閃。
彼女の足が彼の脇腹に回し蹴りを打ち込んでいた。
彼女の頭にはもう顔がどうなってようが頭にない。
うずくまる男を真正面に睨みながら、今一度蹴りつける。
「何がわたしの気持ちよ!
 あんた私のこと分かってるつもりなの?!
 何にも分かってやしないじゃない!
 あんた私がどんな気持ちで待ってたか分かってんの?!
 時間に遅れたことない加持さんの事待ってる間どんな気持ちで・・・
 あんた秒針が動くのすら遅く感じたことある?!
 秒針の動きを目で追いながら待つ私の気持ちがどんなんだか考えてた?。
 あんた分かって無いじゃない!
 あたしのこと全然分かって無いじゃない!!
 勝手に・・・」
自分の目から飛んだ涙が床に落ちたのも構わないほど張り上げていた声を止める。
声をぶつける相手からの声とも取れない音に、彼女は声を止めさせられた。
「・・・ク、ク・・・ハハハ」
そして、それが笑い声だということを理解するのに時間はかからなかった。
その声に怒りよりもやるせなさが彼女を支配し、
一気に脱力した体はその場にへたり込む、涙の粒2つと共に。
力が抜けていた。
腕を振り上げ、目の前で笑ってる、笑われてる奴に思い切り振り下ろしたかった。
それすら出来ずにしゃくりをあげるアスカ。
震える喉に声も出ない。
「・・・強いね」
アスカの切ない嗚咽が漏れる中で、シンジは口を開いた。
「・・・強すぎるよ・・・アスカは」

「僕は・・・加持さんのこと聞いたとき・・・ショックだった・・・
 それほど親しかった訳じゃないのに・・・
 それでも・・・

 ・・・アスカは・・・加持さんと親しかったから・・・
 僕が想像できないほど繋がりがあったように見えたから・・・
 言えなかった・・・加持さんが死んだなんて・・・
 ・・・言わなければアスカが辛い思いをするって・・・
 でも・・・
 ・・・言えなかったんだ・・・とても・・・」

下を見つめ続けていたシンジが顔を上げてアスカを見つめる。
途端、彼女の手が伸び彼の肩を掴む。
震えるアスカの拳がシンジの視界に入り、消えた。

荒く息を吐き出すアスカと、床に突っ伏するシンジ。
シンジの赤く変色した頬にも涙の筋が浮かび上がる。

「僕の気持ちも分かってよ・・・。
 分かるだろ・・・。
 ・・・アスカなら言えた?
 デートの相手が死んだなんてあの状況で言えたのかよ?!」

肩を掴んでいた力が増し、彼のシャツにしわを作った。
慟哭する彼の姿を正面に据え、瞬きすら止めた瞳が彼を映していた。

「なに・・・言ってんのよ・・・」



「どうした」
景色を吸い込む闇が支配するホールに声が響き渡った。
一瞬瞳孔を萎ませた彼女は、自分に照らされているオレンジの露光に
浮かび上がるサングラスを見る。
「・・・見ていました」
カツカツと足音を響かせながら、彼は水槽内の少女に寄ってゆく。
「なにか、観えるのか」
真正面を見つめながら、少女は一度瞬く。
「・・・」

・・・・・・わたしのかたち


作者の愚痴

・・・駄目だ。
今回のお話はかなりの部分を読み手に依存してます。
できるだけ考えて読んでみてください。
文中の「Narr」ってのはドイツ語で馬鹿って意味です。
文にしようとしたんだけど、あの場合は単語の方が良いと思ったので。(^^;)
一応後3話分は書けているんだけど、最近の創作はどうしても納得いかないんす。
それと、当初はシンジを酷い奴にしようとしてたんですけど
そこまでやる必要もないと思い、ちょっと予定変更。
庵野的エッセンスを強く受け継ぐ必要もない、ということでこの形にしました。
もう今のままでも「最低だ、俺って」って腐るには十分ですし、今後の展開もあるし。(^^;)
でも反省してるのは、諜報部員にアスカを襲わせたことです。
庵野さん同様にちょっと安直な方向に走りすぎ。
今考えると他のアプローチでも同様の流れにもって行けただけに、反省。(--;)


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