伏木は沈んでいた。
昨日の回診の際の自分の何気ない問いかけが、六分儀老人の中に深い哀しみを引起した事に滅入っていた。
(立ち入るべきでは無いのだ。
所詮、俺に出来る事はなにもない。なのに何故詮索する?。
興味本位に首を突っ込み、その結果に落胆する。
これでは、まるで子供じみている。)
そう思うと、伏木は居場所の無いような不安を覚えた。
(それにしても......。)
「70年待っていた、か。」
「先生?」
看護婦が、部屋をノックする。
「なんだ。」
「あの、何か政府の方が六分儀老人の事でご相談があるとか、今正面受付の方に来られてますが?。」
(政府が?。あの老人に何の用だ。)
「先生?。どうします。」
伏木は苦笑する。本来、こんな要件なら内線電話で済ませれば良い。
しかし今取り次ぎに来た三品婦長はいつも、直接やってくる。
(ま、確かにいい加減にあしらうわけには行かなくなるがな。)
「分かった。応接室の方に御通して置いてくれないか。」
「はい。分かりました。」
伏木は気が進まなかった。さっきの事もあり、この上、関わるのはためらわれたからである。
(患者のプライベートに立ち入るのは、望ましい事ではないが。いやもう立ち入ってしまっているが。)
*********
50過ぎの初老の男が応接には待っていた。応接の入り口にはSPと思しき大男が2人、剣呑な様子で控えている。
「伏木先生ですか?。
御忙しいところ、失礼いたします。
私は、前・世界統一政府総裁の秘書を行っておりました、高木と申します。」
(総裁秘書だって?。
そう言えば、なんとかっていう前の総裁がこの間死んだってニュースで見た記憶が。)
伏木は至って時事問題には無頓着だった。
「お掛けください。どういうご用向きですか。」
「こちらに入院していらっしゃる六分儀シンジさんに、御渡ししたいものがあるのですが。」
「そうですか。でもそういう事なら、ナースステーションに断って頂ければ何時でも構いませんが。」
「しかし、六分儀氏の健康状態を考えますと・・・・・・
実は前総裁から六分儀氏にお手紙を渡すように言付かって居るのです。
ただ、御2人は、この70年もの間、一度も御会いになられていなかったものですから。」
「・・・・・・」
「前総裁のご生前に私はお側に仕えて居りましたので、御2人が強い絆で結ばれていたのは、私も良く存じています。
あの公園・・・・・・。」
「ああ、あの街を見下ろす公園ですね。六分儀さんが良く行って居たと言う。」
「ええ。前総裁は第3新東京に来られる都度、良くあちらへいらっしゃって居りました。
勿論、六分儀氏には御会いに成らず、いつも公用車の中から、そっと眺めていらっしゃるだけでしたが。」
「え?。じゃ六分儀さんの待っていた人というのは・・・・・・。」
「そうです。前総裁、惣流・アスカ・ラングレーです。」
世界統一政府総裁と、あの一見平凡に見える老人との取り合わせ。
それは伏木にはかえって至極、似つかわしいものに思えた。
しかし何故、そんな風に感じるのか伏木にも良く分かっていなかったのだが。
伏木は、心に痛みを覚えながらも、どこかであの老人が報われていた事への深い安堵を覚えていた。
それと同時に、どうしても問わなければいけない思いにかられて言った。
「なぜ、前総裁は彼に会ってやらなかったのです?。
70年も待ちつづけるなんて尋常じゃあありませんよ!。
残酷な事だとは思わなかったんですか?。」
と伏木は、高木の顔色が変わったのに気が付き、
「・・・・・・済みません。こんなことを貴方に言っても仕方が無い事でしたね。」
「いえ、かまいません。そう思われるのも無理はないですから。
でも、私は六分儀氏と前総裁との間になにがあったのかについては存じません。
いや、分かっていたとしても、それは私が御教えできる事かどうか。
私は前総裁が最初に総裁に就任した30年前からのお付き合いですが、それでも六分儀氏との事については何も教えては下さいませんでした。
ただ、会いに行かないのは、ご自分に対する罰だからだ、と、それだけでした。
それが何を意味するのかは分かりませんが。」
「罰ですか。」
(しかしそれでは、あの待ち続けた老人はどうなるのだ。)
伏木には、その言葉はひどく身勝手なものに思えた。
「それで....。わざわざ私に相談という事は、その手紙が老人にショックを与える可能性があるとお考えだからですね?。」
「そうです。これは先日前総裁が無くなる数日前に御書きになられたものです。
既にご自分の死を覚悟されていましたから・・・・。
実は、前総裁の死を六分儀さんに連絡したのは私なのです。」
伏木は気色ばんだ。
「あなたは、何をしたのか御分かりなのですか!!。
少なくとも、30年分は、あの人の苦しみを知っていた筈ですよ。
そんなことをすれば自殺の1つも考えるかもしれないとは思わなかったんですか?。」
「......私だってそれを思わない訳ではなかった!!」
高木氏はこらえていたものがはじけたように、感情を露にした。
彼の目には涙がにじんでいた。それは十分働いてきた男の顔。
その顔に伝う涙には嘘はないことだけは伏木には分かった。
「私は総裁の御近くに居た...。どれだけ彼に会いたがっていたかも、この目でつぶさに見てきたのですよ!。あなたが六分儀さんに同情されるのも分かります。けれど、私は総裁が....彼女が苦しんできた事を彼に伝えずには居られなかった!。」
伏木は、高木自身もまた、苦しんで居たことを知った。
何故、この人達は、こうも不幸にも縛りあっていたのか。
「分かりました。それでは、手紙は私が預かりましょう。それでよろしいですか?。」
「.....はい。有り難うございます。」
そう言った高木はほっとして、しかし幾らか悲しそうに見えた。
***********
昨日の事を思いだした伏木は、病室の入り口で入るのをためらった。
しかし、思いきって明るい風を装う事にして、一息深呼吸すると、足を踏み入れた。
「六分儀さん。惣流・アスカ・ラングレーさんの代理の方から手紙を預かっています。」
そこまで一気に言った後、伏木は、作り過ぎだったな、と不安になった。
老人の顔には何の表情もなく、黙ってこちらを見ていたからである。
しかし、やがて老人の顔に表情が戻ってきた。喜びの表情、というよりも嬉悦の極みといった感じの微笑み。
「アッ、ア、アスカからですか。」
そして、思いもかけず素早い動きで、老人は、伏木の手から封筒をもぎ取ると、
「ああ、アスカ、アスカ」とうわごとの様に言いながら、もどかしそうに封筒を開け始めた。
「六分儀さん。私はここいていいですか?。」
そういうと、伏木はベッドの横の椅子を引き寄せて腰を下ろした。
六分儀は、はっと気が付き、ばつの悪そうな様子を見せた。
「ええ。構いません。取り乱して失礼しました。」
「余程嬉しい手紙のようですね。」
「ええ。」
そういいながら、老人は手を休めない。左手の指が不自由なのが痛々しい。
伏木は不意に自分が腹を立てて居ることに気が付いた。
「惣流さんは、時々、貴方が公園に居るのを見にいらしてたそうですね。」
言いながら、伏木は、これが残酷な響を持つ事を承知していた。
「...知っています...」
老人は手を止め、じっとうつむき加減に前の空間をみつめた。
「というか、あの日、高木さんという方からの電話で知ったんです。」
「それでも嬉しいんですか。」
「....彼女は苦しんでいた。それは高木氏も苦しめていた。
....そうですね、それなのに喜ぶなんて...。」
「...いや、そういう訳ではなくて...すみません、出すぎた事をいいました。」
(俺は、どうして誰かを責めたいんだろうか。)
伏木は、自分の苛立ちを恥じた。
「それでも嬉しいんです。.....先生。」
そして、老人は伏木の顔をまっすぐ見た。
「大丈夫です。私は自殺なんかしません。」
そういうと老人は、手紙を読み始めた。
*************
シンジ。
これを読んでいる頃には私はもう居ない。
結局、会いに行けずにごめんなさい。
私は貴方がずっと私を待っていた事、知っていました。
貴方の日常生活を調べさせたりもしました。
貴方を遠くから見に行った事もありました。
でも会えなかった。会いたいと思うのにどうしても。
今時手書きの手紙なんておかしいでしょう。でもDVDなんて送るのも嫌だったし。
姿も声ももう昔の私とは違う。あなたが、14歳の私と比べるのが耐えられない。
それでも私は成るべく、目に付くように生きてきたから、シンジも見ててくれたよね。
いつもどこからかシンジが見てくれると思ったから、私は決して自分を偽らなかったと思う。
ただ1つ、貴方の事を除いては。
私は弱虫だったから負けそうに成ると、シンジに頼ろうとしてしまう、
でも、私は自分に禁じた。
それが貴方も縛る事になるのは分かっていたのに。
*****
六分儀老人の目から、ふと一筋の涙が流れ落ちた。
紛れもなくアスカからの手紙。
そんな六分儀老人を見ると、伏木は、そっと病室を出た。
(惣流総裁も一生独身だったな。
73年の純愛か。
いや、そんな言葉で括れるものでないのかもしれない。)
何故か伏木の目にも涙がこみあげてきた。
『これでやっと私の仕事も終わりました。』
そう言って帰って行った高木の姿が思い出された。
病棟の廊下の外に、第3新東京の夜景が輝いていた。
後に残された部屋には、六分儀老人が独り手紙を読みつづけていた。
*******
拒否したのは、私。
あの時、私たちのそんな在り方を、受入れもしていたのだけれど。
でも全世界を担って苦しんだシンジを、私は恐かったのかもしれない。
あの時は一体何だったのか、私は今でも良く分からない。
あの戦いは何だったのか。
あれから暫くして、やっと貴方が泣いていた意味が分かってきた気がした。
大人になる代償に全世界を担ってしまった人。全人類の中で唯一、種全体の為に磔にされた人。
でもシンジは子供だったものね。それが精一杯だったから、恐かった。
貴方は、あれから沢山つらい思いをして、成長しなければならなかった。
沢山の涙と落胆と。それが必要なのがはっきりと分かった。
それを私には支えてあげられるとは思えなかった。
シンジ。
そんな私も罪を背負っているの。全世界の人口の3分の2は、結局戻って来なかった。
私はそんな恐ろしい計画に荷担して有頂天だったから、そして最後の最後まで、破壊を楽しんでしまったから、
どうしてもそのことが許されるとは思えなかった。
結局、私はずっと子供のまま、心が空虚のまま、また別のものに依りかかっただけかもしれない。
そう。私は罪というものにすがろうとした。だからシンジとは会えない。それは罪だから。
あなただけ、罪を背負おうとしたでしょ。シンジ。
でも私は私のやり方で背負う事にしたのよ。
*********
「・・・・・アスカ!。」
六分儀老人は鳴咽を漏らした。
73年前。彼女と別れた後、彼は、サードインパクトの張本人として逮捕されたのだ。
ネルフの主立った者達は、結局一人も戻って来なかった。
ゼーレも首脳陣が全て居なくなった為、自動的に消滅してしまった。
だから、事態の責任を負わすべき者はシンジしかいなかったのだ。
ネルフ司令、碇ゲンドウの息子、エヴァンゲリオンの開発者であり初号機の魂であり
リリスに形を貸与えたもの・碇ユイの息子、そしてサードインパクトの選択を担ったもの。
それは不当な扱いだった。彼は、事態に投げ込まれただけだったのだから。
しかし、彼は、その重荷を敢えて引き受ける事を選択した。それを自分の意志とした。
全ては自分が意志した事なのだと。
**********
私は、シンジが日本でサードインパクトの張本人として逮捕された事を知ったのは、ずいぶんたってからだった。
知ってるでしょう。あの後、すぐに国連軍に保護されたけど、私はドイツ国籍だったから、
結局本国からの引き渡し要求で、ドイツに帰った。
勿論、こっちも戦犯扱いだったけど、むしろ、研究所での職務が与えられただけだったから、
貴方ほどは苦労は無かったわね。
一応の居場所は、私に自分の過去を忘れていい様に思わせたから、私は忘れようとしてた。
シンジの事も、ネルフの事も。
あの悪夢のような出来事も。
だから、シンジの死刑判決が出たとき、初めて私は逃げていた事を知った。
シンジが罪ならば、私はもっと罪だもの。
それからの事は、知っているわね。
**********
サードインパクト直後の日本政府は民主主義的体裁すら取っていなかった。
司法関係はすべて麻痺状態であり、軍政下に置かれたと言って過言ではなかった。
民衆は、スケープゴートを求めていた。そして強圧的な政権は、民衆の目を逸らす必要があった。
しかし、シンジの姿を民衆の前に出すのは躊躇われた。14歳の少年。
その外見は、忌むべきサードインパクトの張本人のイメージに似つかわしくなかった。
そこで民衆には、一方的に文書による碇シンジのイメージが流布された。
裁判は非公開に行われ、そして判決が下った。
「死刑」。
シンジは裁判の日の驚愕を覚えていた。それはタイル張りの小さな部屋だった。
獄吏は彼を鎖に吊るし、こうして拷問は行われたのだ。それが裁判だった。
シンジは起こった事を述べた。しかしただ1つの事は否定した。
シンジは害悪を起こそうと意志したという事を。
彼は自分の罪があの惨事を起こした事は認めた。
しかし、当局が欲しかった「悪意による犯行」という証言は拒否した。
だが、それはどうでもよいことだった。判決文は既に書かれていたのだから。
シンジは手当てもされず、また監獄にほうり込まれた。それから暫くの記憶はシンジには無い。
しかし、リリスの中で何があったのかを記憶していた者達も少なからず居た。
そしてそれは口伝えに広がっていった。
その時からシンジについては悪魔と天使の2つのイメージが語られることになる。
碇シンジが恩赦によって解放されたのは、サードインパクト後10年の月日が経ってからであった。
何故、それまで刑が執行されなかったか。
それは次第に民衆の中にシンジの嫌疑自体を疑うものが増えて行った事、そして当局自身が、執行のサインを躊躇したからであった。
恩赦の後、碇シンジは名前を六分儀と、そう、父ゲンドウの旧姓へと改めた。
民衆は彼の顔を覚えていなかったが、碇シンジという名前は、既に伝説となっていたからである。
(結局、父さんに助けられる事になったな。
父さんとはまともに向き合う事も出来なかったのに。)
それからの人生は決して楽なものでは無かった。
刑務所での10年は少年の心と体に疵を残した。暴虐は精神の健康を蝕んだ。
少年は、約束されていた筈の能力の幾つかを失った。
そして健気にも、青年になった彼は、その事を自ら悟り、
受け入れ、そして耐えた。
世界は統一政府機構を持とうとしつつあった。激減した人口と、それにも増して厳しい
この星の疲弊が、人類にその選択を余儀なくさせたのだった。
碇シンジの恩赦は、その過程でのドイツ側の働きかけによっていた事を知ったのは、釈放される日の朝だった。
その日、碇シンジの釈放はドイツ側の同席の元に行われたのだった。
ドイツ側の出席者の一人が、こうシンジに囁いた。
「我々のチームの惣流・アスカ・ラングレーから、君によろしく、との伝言だ。」
この一言で、シンジは10年の苦労が報われる思いがした。
シンジはその男にこう言った。
「アスカに、もしできれば伝えてください。ぼくは会いたい。
あの公園、中学校からの途中にいつも寄っていた、あの公園で会いたい、と。」
男は、伝える事を約した。
(恐らくあれが人生の中で、一番幸福な瞬間だったかもしれない。)
それは寂しい認識だった。六分儀老人は自分の心の中に激しいものが沸き上がるのを感じて慄然となった。
(どうして、無理をしてでも、すがってでも会いに行かなかったのか。
結局逃げていただけなのか。)
全ては遅すぎた。全力で生きた、そう思っていたのに、その全てがもう間に合わない。
************
シンジ。
私を恨んでもいいよ。でも自分を責めるなら、止めて。
あなたが釈放されたとき、私は会いに行くのを自分に禁じた。
シンジがあたしに会いたいと思っているかもしれない、そう考えたけど、
それは私の勝手な思い込みかもしれなかったし、何よりシンジに会う事を私が望んでいるから禁じたの。
それは私に下された罰。
ただ、貴方からの伝言は聞いた。
そして、貴方が毎日、あの公園へ行っている事も知った。
それは甘い痛みだった。
もう待たないで、と伝える事もできたけど、それはしなかった。
貴方が待っていると思わなければ、私は崩れてしまいそうになる。
私は罪に、私の存在を賭けた。でもそれはとても辛い生。
貴方を待たせ続ける事は残酷な事。きっと一生待ちつづける。
そう思った。それはとても罪深い事だけれども、痺れるほど甘い快楽だった。
そう。勝手な言い草ね。
罰だったのかどうか、本当のところ、良く分からなくなってきた。
**********
(アスカ!)
愛しかった。ひたすら愛しかった。
病室はそろそろ消灯時間だったが、六分儀老人の部屋は、看護婦も気を遣ってそっとしておいてくれるらしかった。
すこし肌寒くなったので、老人は、毛布を引き寄せ肩にかけた。
既に、先ほどの激しい感情は影を潜め、穏やかな哀しみが心を満たした。
あのサードインパクトの中、シンジは、人への慈しみを自分の拠り所として感じたのだ。
人は人が恐ろしい、でも、いとおしい。
その矛盾を生きる事。
刑務所の中での10年は、その実践の強さをシンジに与えていた。
そして、そのようにしてシンジは生きてきた。
********
シンジ。
結局、今度はあたしが謝ってばかりね。
ごめん。先に行くね。
また、あたしから去っていくのはつらいけど、もう、もたないの。
だから向こうで待ってる、っていったら冗談にならない歳だけどさ。
さよなら。シンジ。
今なら本当に言える。愛しているって。
********
「さようなら。アスカ。」
六分儀老人は、手紙を畳むと、枕元の横にあるテーブルにそっと置き、それから灯かりを消した。
そしてそのままベッドに身を起こしたまま、静かに窓の外を眺めていた。
それはかって2人が守った街だった。だが、その時には冬の夜景は見た事は無かった。
窓の外には第3新東京の灯かりがまばゆいばかりに輝いていた。