第六章「名将の襲来」

 

 
 
 
 

 舞台は、ふたたびウェルフェン公国に移る。
 王都から「首尾は上々」との知らせを受けたアーガイルや群臣は、ひとまず胸
をなでおろした。この知らせが、国公職代行の件であることはいうまでもない。
「これで、当面は安心というところですな、アーガイル様」
 と、コルネリスが言う。本音であった。
 中立を旨とするウェルフェン公国が、王位をうかがう両陣営から警戒されるの
は、すでにわかりきったことである。政争がしずまったのち、負けた側からの報
復はないにしても、勝った側から「味方しなかったこと」を理由に粛清されるこ
とは考えられる。フィンセントとしてはすみやかに公国の権を掌握し、王位がさ
だまった後のことにそなえねばならない。父の死を隠さねばならない理由が、こ
こにあった。事態が表面化すれば、国王不在のためフィンセントは爵位や官職を
相続できないばかりか、すでに当主が死亡している以上、それらを「代行」する
こともできない。新王を擁する宮廷が、テュール家に当主がないことを理由に改
易などといった挙にのりだす可能性もあるのだ。
 コルネリスの言葉に、アーガイルも深くうなずく。彼とて、兄を信頼していな
いわけでは、むろんなかったが、それでも一抹の不安はあったのだ。
 たとえば宰相などが職業上の権限を濫用して「わが方に味方せねば、その件認
めるわけにいかぬ」などと言い出せば、兄にも自分にも、相当の覚悟が要ったこ
とであろう。宰相の言うとおりウィレム大公に加担するか、あるいはその逆を採
るか。いずれにしてもテュール家は、ヘンドリックの遺言もノジェール以来の家
訓も、ともに投げ捨てねばならない窮地に陥っていたはずである。
  しかしそれは、やはりできないことであった。兄フィンセントが考えたように、
アーガイルにとっても、テュール家がテュール家として存在する意味をうしなう
ことは、やはりたえがたいことなのである。
 しかし、ともかくその危機は回避できたのだ。祝宴をやろう、という者もいた
が、さすがにそれは実施されなかった。
 それはさておき、このとき彼らには、まったく想像しない方向からの脅威がせ
まっていたのだが、それを知る者は、少なくともこの場にはいない。

 帰国からしばらくして、ハーンの軍港に、いつものように艦隊の訓練指揮に出
ていたアーガイルは、ある凶報を受けた。外洋にて哨戒訓練を指揮していた、グ
リースという、公国海軍幹部の報告であった。
 アーガイルは、軍港の一角にある、古びた屋敷にいた。赤褐色の煉瓦で造られ、
本来は白かったのが、年月を経て茶色く変色した屋根をもつこの建物は、第三代
国公オルデン以来、一貫して公国海軍の本営として使われてきた。正式には「北
海艦隊提督府」というが、多くの者はその建物を「国公府」と呼んでいる。ハー
ンの市街を見おろす地にある公爵家居城でも、ましてや王都にある公邸でもなく、
この古くさい建物こそが、公爵家の勢威と公国の武威の象徴なのだ。アーガイル
は、その奥にある、国公かよほど高位の文武官しか入室をゆるされないとされる、
いわば公国軍の最高指導部があつまる部屋で、マールテンをはじめとする幕僚た
ちと、何ごとかを話しあっていた。そこに、侍従や護衛官の制止をふりきり、グ
リースが駆け込んできたのだ。とがめられるべき非礼であり、現にマールテンな
どは血相をかえてグリースを怒鳴りつけようとしたが、アーガイルがそれを制止
した。グリースの表情に、尋常ではないものを感じたからである。
 グリースの報告は、やはり尋常ではなかった。
 外洋に、国籍不明の大艦隊がいるというのだ。
「進路からみて、おそらくはこのハーン港に向かうものと思われます。艦隊には、
レア帝国の軍旗が」
 外洋に出ていた八隻の軍船が、一隻も欠けることなく戻って来ていることをま
ずグリースに確認し、アーガイルは、その大艦隊の指揮官が、高潔な精神の持ち
主か、あるいは単なるお人好しであったことに感謝した。
 ただ、決して油断はしなかった。否、できなかったのである。
「……よりによってレア帝国か!」
 と、誰かが悲鳴をあげるように言った。
 レア帝国。
 ウェイルボードのはるか南に位置し、「七大列国」の中でも、おそらく軍事と
いう点では最強であろう。その歴史はウェイルボードにくらべても新しいほどだ
が、すでにゼッカー王国、ジュスラン公国、フェイルラント騎士団領といった大
陸中部の伝統ある中堅諸国を地図から消滅させている。
「数は」
 ひとり冷静に、あるいはそう装って、アーガイルが質問した。
 グリースは答えにくそうに、
「およそ、一三〇隻」
 また騒然となる。公国艦隊を総動員しても、艦船数は八〇隻たらずでしかない。
「たしかか?」
「すべて数えたわけではありませぬが、視認した数と彼らの陣形から推測して、
妥当な数かと思います」
「グリース、おぬしはその指揮官と会ったのか」
「い、いえ、会ってはおりませぬ、しかし」
「しかし?」
 グリースは、またしてもためらった。知らない、とか、忘れた、といったよう
な気まずい表情ではなく、言っていいのか、と迷っているようであった。
「いいから、申せ」
 と、マールテンがうながす。
「帝国軍旗と、もうひとつ、元帥旗が」
「……ルータスか!!」
 一同は、驚愕した。やはり、という表情で天を仰ぐ者もいた。
「帝国軍がこの北海にいるだけでも一大事なのに、その上ルータスが来ただと?」
 と、誰かが言った。
 さもあろう。
 先述したとおり、レア帝国はウェイルボードの遥か南に位置する。この王国に
侵攻する意図があるのなら、陸路では最低二つの大国を通らねばならないし、海
軍力を用いるにしても、西海艦隊の拠点でもある王都ジュロンを攻めるのが、一
般的な観測というものであった。陸戦でもそうだが、後方を遮断されては、軍が
立ち腐れてしまうからである。レア帝国の大艦隊がこの海域にいるというのは、
ジュロンにあるウェイルボード艦隊がすでに敗れたのだろうか。それも、このハ
ーンに報せが届くより早く。
「ありえない」
 と誰かが言った。たしかにそうであろう。ウェイルボード海軍は常勝不敗とい
うわけではないが、数的に劣勢だとはいえ、自国の領海で一戦して全滅などとい
う醜態をさらすことは、どう考えてもありえない。
「王都の連中は何をやっていやがったんだ!」
 あるいは察知できなかったのであろうか。これはありえないことではない。国
王崩御によって、全軍は喪に服し、中には度が過ぎて機能をうしなっている部隊
もあった。哨戒に出る艦も減っていただろう。遠洋の航路をとられれば、察知で
きないかもしれない。だがそれにしても、国境を接してもいない、他の六大国の
中でもっともウェイルボードと縁のうすいレア帝国が、いきなり艦隊を北海にさ
しむけるなど、およそ考えられることではなかった。
 が、現実に敵はいる。ありえないことだろうが、現に敵はいるのだ。
 しかもその指揮官はルータス卿。
 大陸諸国の知識階級で、ルータスの名を知らぬ者はまずいない。皇帝の名を知
らなくとも、ルータスの名は知っているとさえいわれる。
 かつて、平民の出身ながら、そのたぐいまれなる軍才と幸運とによって、弱冠
二八歳にして、一〇万近くの将兵をたばねる、五人の軍団長のひとりに列せられ、
その後も数多くの武勲を樹て、四〇歳の今、すでにレア帝国軍務総督という顕職
と、帝国軍元帥という建国以来ひさしく空位であった階級とをあわせもち、六〇
万を超える将兵を統率している人物である。たかが一公国の英雄にすぎないアー
ガイルなどでは、勇名も実績も、比較することすらおこがましい。才幹と将来に
ついてはともかく。
「あの常勝将軍が……」
 と、老練なマールテンですら慄然とする。歳は、いうまでもなくこの老人の方
が経ているが、戦歴ということになると比肩すべくもない。無理からぬことでは
あった。
「しずまれ!」
 アーガイルが一喝した。
「まったく突然に戦端をひらくことなどありえぬ」
 諸将は訝った。レア帝国が常勝を誇るのは、兵の勇と将の智のみに帰するわけ
ではなく、まっとうな騎士ならばけがらわしいとさえ感じるほどの狡猾さがあっ
たからだということは、みな知っていることだ。それをグリースがひかえめに問
うと、
「グリース、おぬしが率いていた八隻の艦船は、わが軍の貴重な戦力だ。ルータ
ス卿はそれをたやすく見逃した。これこそ、彼らの意図が戦闘ではなく政治的な
交渉にあることの証拠ではないか。恐れるな! 無用の恐れを抱くことこそ、相
手の思うつぼだぞ」
 武官たちを励ますように、アーガイルは大声で言った。
「マールテン!」
 爺、とは呼ばない。公の場ではそのような私的な呼び方はするな、と、アーガ
イルは幼いころからこの「爺」に叩き込まれている。人の上に立つ者は、無私で
あるべきだ。マールテンとの間にある情誼は私事でしかない、と。
「はっ」
「艦隊が出撃できるまでどのくらいかかる」
「将士がそろいしだい、いつでも。半日は要しませぬ」
「よし、おぬしは幕僚としてクリオールに同乗せよ」
「御意に」
 老人は、自身の教え子がひさびさに見せる強さを、心から頼もしく感じた。
「グリース、おぬしは城に戻ってことの次第を伝え、海軍の総員と陸兵隊の幹部
をここにあつめよ。急使を王都に送るのを忘れるな」
「ただちに」
 グリースはさっそく駆け出していった。
 しばらくして、公国軍の幹部全員が国公府にあつまってきた。みな、はりつめ
た顔をしている。アーガイルは円卓に地図を広げた。その周囲に幹部たちが座り、
アーガイルが口を開くのを待つ。
 アーガイルは単に艦隊司令官であるにとどまらない。いつぞやのように、そし
て今まさにそうであるように、公国に攻め入ろうとする外敵があった場合、彼は
国公にかわり全軍を統率する権限と責任とをもっている。もちろんアーガイルは
陸では一兵も率いたことはないから、用兵について口を出したりはしない。だが、
戦略をさだめるのは彼の役目だった。
「ソルスキア」
「はっ」
 陸兵隊総督の職をもつ壮年の男が歩み出た。
「ただちに動員できる陸兵は」
「……八〇〇〇といったところです」
「充分だ」
 と言い、アーガイルは卓上に開いた地図の、一点を指さした。
「ここ――おぬしはそのうち五〇〇〇を率いて東の岬に布陣せよ。海軍は、まず
敵の上陸をふせぐことに全力をそそぐが、もしそれがかなわなかった場合、敵は
おそらくその近くに上陸してくる。正面から戦おうなどと思うなよ。肝心なのは
、敵の進撃を遅らせることと、砲台をうばわれぬことだ。フィジック、おぬしは
のこりを市街の外縁に布陣し、万一にそなえよ」
「……よろしいので?」
 副総督フィジックが、うたがわしげにアーガイルを見やった。ハーンの城をま
もる兵力が、これではまるで足りない。
「城だけ生き残ってもしかたあるまい」
 なるほど、この場合、城をまもって戦う時点で勝敗はすでに決しているであろ
う。ただでさえ少ない兵力を城の防衛のために割くのは、無意味どころか有害で
あるかもしれない。
 アーガイルの指示は、きわめて的確であり、きわめて実務的であった。半日と
しないうちに海陸全軍が出撃できるであろう。
(ただ、分からないのは)
 と、アーガイルは考える。
(なぜジュロンを素通りしてこちらに来たのか、だ)
 戦いが長期にわたれば、いやわたらずとも、王都にある西海艦隊に背後をとら
れ、挟撃されるか、確実に帰路を絶たれるだろう。あるいは、短期間のうちに勝
敗を決する自信があるのか。……否、ルータスはそれほど楽観的な人物ではない。
常に最悪の場合を想定して戦いに臨むからこそ、彼は常勝将軍という異名がふさ
わしい人物となったのだろう。
 しかし、事態は切迫している。考えている暇は、彼にはなかった。にわかに港
にむかい、北海艦隊の旗艦「クリオール」に乗り込み、他の船の出撃準備が整う
のを待った。長く待つ必要はなかった。訓練中だったということもあり、わずか
な時間で、艦隊は出撃体勢にはいることができたのだ。
「全艦、出撃!」
 アーガイルの号令一下、七〇隻を超える艦隊が、ハーンの各所から出港した。
いうまでもなく、公国艦隊の全軍である。
 ハーンの湾は、決して広くはない。
 東には、湾内と外洋とをひとしく見おろすことのできる丘陵がある。アーガイ
ルが「東の岬」とよび、陸兵隊総督のソルスキアを派遣した場所である。そこに
は無数の砲台を設置してあった。まもなくソルスキアの率いる陸兵隊がその周囲
に布陣し、友軍を支援する行動に出るだろう。むろん敵の上陸軍にそこを取られ
てはこの戦いそのものが終わってしまうため、ソルスキアはアーガイルの指示ど
おり、麾下にある陸兵隊の大部分を、その高地の防衛にあてるつもりでいた。
「彼らは武装解除には応じまい。また、ルータス卿が全権を握っているなら、敵
地に身をゆだねることはないだろう。ただ、彼以外の高官が特使として同乗して
いるのなら、こちら側で交渉をおこなえるかもしれん」
 と、アーガイルが言う。彼の筆頭幕僚マールテンは「その通り」と深くうなず
いた。一軍の総帥を敵地にゆだねるのは、常識的には、総帥に匹敵しうる副将が
いる場合に限られる。だがルータスが総帥ならばそのような者はいるはずがない
。ただし、高位の文官が同乗しているのならば、それに交渉をゆだね、ルータス
以下の武人どもは何の心配もせずに戦闘の準備をしていればよい。
「もし、アーガイル様が彼らの船に招かれたら、いかがなさいますか」
「……行く、かもしれんな」
 アーガイルは即答はできなかった。自分がいなければ、公国軍は絶対に勝てな
い。これはアーガイルの自惚れではなく、まったくの事実であった。だが、この
少年じみた風貌をもつ若者は、おどけるように言った。
「そこで殺されるなら、俺はしょせんそこまでの男だ。天から必要とされなかっ
たのだろうよ。まあ、せっかく招かれても、兄上からの命令がない限り、本格的
な交渉には応じられんのだがな」
「………」
「それより、よく聞け。重要なことは、あの艦隊をハーンの港にいれないことだ。
もし入港するとすれば、それは奴らが武装解除に応じたときか、あるいは、わが
艦隊が全滅したときだけだ」
 と、この一見恐れを知らぬ若者は、さらりと言う。
「まあ、可能性の低さという点では、どっちもどっちだがな」
 マールテンは気付いていた。若者が「港にいれない」と言ったことに。「湾に
いれない」ではなかったのだ。この若者は、湾内決戦でもやる気なのだろうか。
 戦術的には悪くない判断だ、とマールテンは思う。ハーン湾の入り口にあたる
海峡は幅がせまく、大船ならば三つとならべないであろう。大艦隊がこの海峡を
出入りしようとすれば極端に細長い縦列にならざるをえない。海峡の内側で待機
し、敵が兵力を小出しにせざるをえない状況をつくりだし、逐次たたいていくの
が、たしかにもっとも効率のいい戦術であろう。だが……
「いや、このまま外洋に出る」
 アーガイルは言った。
 マールテンはおどろいた。敵は一三〇隻、こちらは七〇隻余、外洋でまともに
戦えば不利はまぬがれない。いかにレア帝国の士卒が海戦に不慣れであるとはい
え、敵軍の総帥はあのルータスである。ルータスは軍神のうまれかわりなどとよ
ばれ、平民出身という出自もあいまって、下級の兵士たちからはほとんど信仰に
ちかい目で見られている。総帥に対する信頼の濃淡が軍の強さを大きく左右する
のは素人にもわかることだ。帝国艦隊は、その実力以上の力を出すだろう。
「いや、まったくいろんな戦い方があるものだな」
 アーガイルはそう言った。どうやら頭の中でさまざまな可能性を紡いでいたら
しい。
「……幼いころ、おぬしに教えられたことがあったな。戦うときは敵の身になっ
て考えろと」
「はあ」
 マールテンは戸惑った。たしかにそのようなことを言ったかも知れないが、そ
のていどは常識のようなものであり、教えたなどとはいえないだろう。いずれに
せよこの若者がなにを考えてそのようなことを言いだしたのか、マールテンはつ
かみかねた。
 海峡の外には、すでに哨戒のための小艦隊がせり出している。「いまだ敵影見
えず」という信号旗がひるがえっている。
 東にのろしがあがった。陸兵隊が到着したのだろう。
「哨戒に出ている部隊を合流させろ」
 彼らも戦力として計算せねばならぬ。岬に友軍が布陣したのならば、外洋の監
視は陸兵隊にまかせるべきであった。
「では、アーガイル様がルータス卿の立場であれば、どのようにしてわが国を攻
略しますか」
 マールテンが話の続きをもとめてきた。
「そうだな」
 アーガイルはしばし考えこみ、
「レア帝国は陸軍では大陸随一の強国。だが海軍の質においてはウェイルボード
はおろかセルブル大公国にもおよぶまい。いずれは上陸軍を編成するにせよ、数
でまさっているうちに海戦で勝利をおさめたいのではないかな」
「ではやはり、外洋に出るのは彼らの思うつぼでは」
「……と最初は考えたが、やはり違う」
「……?」
「敵の目的だ。レア帝国は遠く、またウェイルボードと貿易などをめぐって対立
しているわけでもない。共通の隣国さえない」
 と、アーガイルは説く。いつのまにか周囲の幕僚たちもふたりのまわりに集ま
ってきて、にわかに幕僚会議の様相を呈してきた。
「その彼らがなぜこのような挙に出てきたかはさておくとして、彼らがウェイル
ボードの海軍力を削ぎ落とすことのみを目的としているわけではないだろう。ま
さか、かの国がセルブルやワイツの傭兵まがいのことをするとも思えぬ。つまり」
「……つまり?」
「やはりこのハーンを、ひいては公国を占領することが目的なのだろう。ウェイ
ルボード国王がさだまってから莫大な償金とひきかえにそれを返還してもよし、
あるいは占領を恒久的なものとし、大陸北部に足場を築くか……」
 まとまらぬ思索を口にしているうちに、アーガイルの中で何ごとかが形になっ
てきた。国王崩御による混乱と、この突然の侵略とは、はたして無関係なのだろ
うか?
「……となれば、私なら艦隊の一部をもって海峡に蓋をし、敵――というのはわ
れらのことだが――が出るに出られなくなったところで陸兵を上陸させる。やや
遠回りになるが、そうなればハーンを落とし、市街を占領するのはさほど困難な
ことではない。われらとしても、まさか市街に大砲を向けるわけにもいかぬから
な」
 マールテンをはじめ、幕僚たちは慄然とした。この海峡が、寡兵である自軍の
味方だとばかり思っていたが、それを利用しようとするのは敵も同じだろう……。
「……では!」
「うむ、全艦前進。外洋に出るぞ!」
 公国全軍が湾外に出るよりはやく、水平線上に船影がみえはじめた。
 おそらく帝国軍の最後尾とおもわれる艦列が見えてきたとき、ようやく艦隊の
布陣を終えたアーガイルは、
「間一髪だったか」
 とつぶやき、全艦に微速前進を命じた。
「グリースの報告は精確でしたな」
 マールテンが感心したように言う。船影はぜんぶで一三五。グリースはあの船
団のすべてを見たわけではないようだが、実測した数とさまざまな情報とを組み
合わせて「およそ一三〇」という数字を導き出したのだ。
「なんの慰めにもならないさ」
 憮然としてアーガイルが応じる。彼としては、グリースが存外な臆病者で、実
数より多い報告をしてきたものだと思いたかったにちがいない。
 帝国艦隊も微速でせまってくる。
「なんと重厚な」
 アーガイルの幕僚のひとりがつぶやいた。ルータスという名がそうさせるのだ、
と、アーガイルは苦々しく思った。
(とても勝てない)
 と思ったのはひとりやふたりではない。
 すぐに苛烈な戦闘が始まったわけではない。ある程度の距離をたもったところ
で帝国艦隊が動きをやめ、それに呼応するようにアーガイルも全艦に停止を命じ
たからだ。陸地とは距離がある。ここまでくれば、一戦もまじえぬまま上陸をゆ
るすようなことにはならないだろう。
 両軍は対峙し、一戦もまじえないまま、膠着した。アーガイルがじれったさを
おぼえるほど、敵はまったく動きをみせない。別働隊を動かしているわけでもな
いようだ。そのまま、五日が経過した。
 六日目の朝、帝国艦隊から、一隻だけ突出してむかってくる艦がある。いや艦
というよりも小舟であり、一隻というよりも一艘といったほうがふさわしかった。
「交渉を望む」
 言わずもがなのことを、その小舟は知らせてきた。
「いかがいたします」
 と、マールテン。
「旗艦に誘導してやれ。くれぐれも鄭重にな」
 アーガイルの意志は、的確に通じた。
 時間を要さずに、その小舟は旗艦の足もとまで辿り着いた。
 旗艦に乗っている水兵たちに、士官が命令を下す。
「縄ばしごを降ろしてやれ。ただし、万が一ということも考えられる。使者が武
器を携帯しているかどうか、たしかめるのだぞ」
 ルータス卿の英雄伝説を、アーガイルも伝え聞いている。彼には狡猾な戦術家
という一面も確かにあるが、敵と味方の双方から罵声と嘲笑とを浴びるような作
戦をとったという話は一度も聞かない。そのような下策に出るとは考えづらいが、
暗殺ということも、手段としてはある。特に、この艦隊は、アーガイルの傑出し
た軍才がなければ、装備にはすぐれているものの、平和に慣れたまったくの弱兵
集団になりさがるのである。用心するのは、当然のことであった。
 しばらくして、使者が、アーガイルのいる艦橋へと上がってきた。むろん、丸
腰であることを確認された上で。
「貴殿が、この艦隊の指揮官ですか」
 と、文官とは思えぬほどどっしりとした体格の男は尋ねた。……マールテンに。
「いや、拙者は違います」
 慌てるでもなく、それを否定するマールテン。逆に使者の方が慌てた。
「こ、これは失礼を。では、あなたが?」
 と、今度はまた別の幕僚に尋ねる。体躯に似合わず、小心な男のようだ。
 たまらず、アーガイルは吹き出した。
 その幕僚に教えられ、さすがに使者は面食らった。この小僧が? とでも言い
たげな表情である。確かに、外見的な威厳、年齢など、アーガイルよりも左右の
幕僚たちの方がよっぽどそれらしく見える。何の予備知識も持たずに乗り込んで、
アーガイルを最高司令官だと見抜く人間の方が少数、否、皆無であるに違いない。
「若輩ながら艦隊の指揮を執っております、アーガイルです」
「……これはこれは、重なる非礼をお赦し下さい。まさかこれほどお若いとは」
「貴国のルータス卿も、二〇代で軍団長の重責を果たしておられたと聞きますが
な」
 アーガイルは冷淡である。
「ともかく、挨拶は不要です。まずは、なにゆえ無法にもあのように軍列を組ん
で、わが港へ乗り込もうとするか、その理由をぜひ伺いたい」
「いえいえ、わが皇帝陛下はむしろ、貴国との間に深い友情を結びたい、とのお
考え。決して、他意はございません」
「答えになっておらぬ! それならなぜ艦隊を引き連れてくるか」
 比較的若い幕僚が激昂した。今にも剣を抜きそうな形相である。
「控えよ!」
 と、今度はアーガイルが怒鳴ると、その士官はおとなしくなった。
「失礼。しかし、ご使者。私も、あの者と同様の疑問を抱きます」
「それは、安全のためです」
「安全?」
「左様、王都ジュロンであれば、わが国の公使もおりますゆえ、拙者の身分を証
明するのは容易です。しかし、こちらに単身乗り込んでも、皇帝陛下の特使たる
ことを信じていただけるとは限りません。万一の危険もございますれば」
「なるほど。慎重も度が過ぎると思わないでもないが、まあそれはいいでしょう。
しかし、まだ伺いたいことがあるが」
「何なりと」
 やや優位に立ったと、使者は感じたことであろう。
「貴殿の名、職責、レア帝国における身分、それにあの艦隊の中での序列」
 と、劣位に立ったとは少しも考えないような口調で、アーガイルは尋ねた。
「おお、これは申し遅れました。わが名はハインネル。爵位は子爵。職責は、外
務総督府副総督でござる」
「……貴殿は、皇帝の勅命を受けた全権特使であられるのか」
「形式的にはそうなりますが」
「実質は違うと言われるか」
 と、アーガイルも手厳しい。
「いえ、そういうわけではござらぬが、艦隊を指揮統率しているのは軍務総督の
ルータス卿ですから、艦隊内の序列としては、はなはだ微妙なところで……」
 なるほど、彼が外務総督であるのなら、軍務総督のルータスと同格であり、職
責上、外交に関しては完全に優越権を持っているはずだ。だが、副総督に過ぎな
いのなら、階級的には格下ということになる。しかしながら、全権特使であると
いう一点において、政治的には上位である。この辺が、両者の関係を複雑にして
いるのであろうか。
「ともかく」
 と、アーガイルは言う。
「貴殿がレア帝国の特使であるということ、この一点は信じましょう。交渉をす
るとして、この船上でおこないたいが、よろしいか」
 アーガイルとしては、今艦隊を離れるわけにはいかなかった。帝国軍の策謀と
いう疑念も捨てきれない以上、当然のことでもある。
「……」
「貴殿が否と申すのなら、わが方としても貴国を信用するわけには参りませぬ。
このままお引き取りいただくか、貴殿に代わる人物と交渉するしかございません
な」
 本来アーガイルは、決して雄弁家でも政略家でもないが、この人物の弱点を的
確に見抜いていた。軍務総督ルータス卿とこそ交渉の価値があると言われては、
ハインネルは立つ瀬がなくなるであろう。
「そ、それはいかん! いや失礼、皇帝陛下の全権特使は私ですぞ。ルータス卿
ではござらぬ。私をさしおいてルータス卿が交渉に臨むのは、筋違いというもの
でござろう」
「では、この艦にしばらくご逗留ください」
 間髪入れず、アーガイルが言う。
 それに対し、しばし迷ったあと、
「……分かりました」

 だが、この特使はすぐにこの艦をはなれてハーンの港に上陸することになる。
 公国の重臣フェルディナントが、王都からにわかにハーンに戻ってきたのであ
る。
 アーガイルには政治交渉の経験はない。そういった面ではまさに百戦錬磨とい
ってもいいフェルディナントの帰着というのは、アーガイルにとっても彼の幕僚
たちにとっても、ねがってもないことであっただろう。
 アーガイルはさっそくフェルディナントに交渉をゆだねることを決め、ハイン
ネルという名の特使を港まで送りとどけた。なぜ唐突にフェルディナントが帰っ
てきたのか、王都で一大事が出来したのではないか、という当然すぎる疑問もあ
る。フェルディナントには事情を聞かねばならないだろうが、ともかくこの時点
で、アーガイルが艦隊を離れるわけにはいかなかった。
 
 
 

 

第七章へ続く

 




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