強く、そして時には弱く

 想いは少女を打ち、そして締め付ける。

 

 一人では無いから、今は一人でも生きてゆける。

 小さな希望が少女を支え、今を生きる価値を与えた。

 

 今度こそ、願いは形になると信じて。

 

 


 

 少女、少年  <第五話>

 


 

 

「だから、無茶はするなって言ってるんだよ!」

 

 オペレータールームに青葉シゲルの怒鳴り声が響く。

 

「何言ってるのよ!レイちゃんは新婚で悩んでるから、私が解決の方法をすこし教えてあ

げたんじゃない!」

 

 こちらは青葉マヤ、シゲルに負けないぐらいの大声で怒鳴り返す。

 

「解決の方法って、あんなマッドな方法を伝授することはないだろう!シンジ君は今日は

絶対股間を押さえてトイレで泣いてるぞ!」

 

 シゲルはまるで見てきた様に言う。

 

「なっ、あれは絶対に副作用のでない先輩直伝の漢方薬なのよ、所定の容量さえ守って服

用すれば、絶対そんなことは起こらないわ!」

 

 残念ながら、それは守られてはいない。

 

「先輩、先輩って何時もそれか!薬自体に副作用が無くても、それが生み出す結果がある

だろう!俺もひどい目にあったんだ!」

 

 体験談に基づく推測だったようだ。

 

「それはシゲルの体力不足の結果でしょう。可愛い奥さんの願いを叶えてくれてもいいじ

ゃない!」

 

「体力なんか関係ないだろ!体力があれば股間は痛くならないのか!」

 

 もっともである。

 

「愛が足りないのよ、愛が!それに何よ、新しいオペレーター入ってきたら直ぐ色目使っ

て・・・、私のこと本当に愛してるの?」

 

 マヤは少し目を潤ませ、言葉の尻を掠れさせるように”台詞”を口にした。

 レイの師匠である。

 

「あ、いや、勿論だよ、勿論愛してるに決まってるじゃないか、」

 

 男は馬鹿である。

 過去に何度騙されていようとも、誰が今のシゲルを責めることが出来ようか?いや出来

まい。(そして反語)

 

「ぐす、ぅん、うん、ほんと、ほんとに愛してる?」

 

「本当だ、本当に愛してるよ。」

 

 シゲルはマヤの瞳をまっすぐに見つめ、力強くそう言葉を返す。

 既に先ほどまでの喧噪は何処へやら、何処で路線がずれたかすっかり問題は置き換わっ

てしまっている。

 シンジに唯一の同情を寄せていた同士は、既にこちら側の世界の住人ではない。

 

 

 

 この事の起こりは、今日の検査が終わった後、シゲルが居る目の前で、レイが昨晩の成

果を報告した所だった。

 

「『今週のびっくりどっきりメカ』の成果は非常に素晴らしかったです(ぽっ)。」

 

 それはレイの検診が終わり、オペレータールームで談笑する二人の間にレイが落とした

爆弾だった。

 そして怒号飛び交う口げんかが勃発した。

 

 休日ということで二人以外の人間が出勤していなかったことは幸いであったかもしれな

い。

 何が起こっているのかいまいち理解できていないレイを置き去りにして、二人は突っ走

っていた。が、今は別方向に突っ走っているみたいだ。

 

 

 

「ねぇ、もう一度言って。」

 

 下唇を少し噛みながら切なげな表情を作り、マヤはシゲルの胸に頬を預けた。両腕は既

にその体に巻かれている。

 

「ああ、何度でも言うよ。愛してる、俺が愛しているのはマヤだけだよ。」

 

「ほんと、証明できる?」

 

「出来るさ、こうやってね、」

 

 シゲルはそう言って優しげに微笑み、マヤの体を一端自分から引き剥がして、その唇を

乱暴に、そして情熱的に奪った。

 

 抱き合いながらキスを交わす二人の口元から、ぴちゃぴちゃという妖しげな音が漏れる。

最初は自らも激しく舌を絡めていたマヤだが、やがて全身の力が抜けたようになって、シ

ゲルの為すがままになってしまう。

 シゲルはぐったりとしたマヤを確認すると、ゆっくりと唇を離した。マヤは名残惜しそ

うな表情を浮かべる。

 

「ね、分かってくれた?」

 

 まったりととろけそうなほど甘い声で、シゲルはマヤの耳元でそう囁いた。マヤは力が

入らなくなった体をシゲルに預けきっている。

 

「もう一度キスしてくれたら分かるかも・・・、」

 

 頬を朱に染めながら、マヤはそう答えた。

 

 

 ここはネルフのオペレータールーム。

 レイは今日の検診結果を聞くために、目の前で暴走する二人を待っている。

 

「もう帰ってもよろしいでしょうか?」

 

 レイのその台詞は空しく、ピンク色した部屋に響いた。

 

 


 

 

「検診結果は異常なしね。で、ごめんね、レイちゃん。」

 

 マヤは顔の前で両手を会わせながら、すまなさそうな声でそう謝った。

 

 結局その後事態が改善したのは、どうすることも出来なくなったレイがオペレータール

ームから立ち去ろうとして、入り口近くの椅子に足を引っかけて豪快に転倒したときだっ

た。

 

 ばつの悪くなったシゲルは「帰り支度してくるよ、またね、レイちゃん。」と言い残し

てそそくさと部屋を去ってしまった。

 マヤは遅れに遅れたレイの検診結果を、今伝え終わったところだった。

 

「幸せそうですね。」

 

 レイはたおやかな笑みを浮かべて、マヤにそう返した。

 

「うん、まぁね。何もかも旨くいってるわけじゃないけど、十分だと思う。ちょっと、あ

の人が最近、新人の女の子にデレデレしてるのが心配だけど。」

 

 マヤは少し困った顔を作ってそう答える。

 

「でも、それも青葉さんが魅力的な証拠だと思います。」

 

「かな、やっぱり?」

 

 マヤのその答えで、レイとマヤは一斉に笑った。

 ぽりぽりと頬をかきながら照れるマヤの仕草が愛らしかった。

 

「でも、シンジ君も凄く格好良いじゃない。レイちゃんも心配じゃないの?」

 

 マヤは意地悪くそう話の方向を変える。

 

「私はマヤさんと違って、信じてますから。」

 

 レイは不敵に微笑んでそう答えた。

 

「く、言ってくれるわね、レイちゃんも。」

 

「色々勉強しましたから。」

 

 レイはそう言ってぺろりと舌を出した。

 

「はーい、仕方ない。今日はお姉さんが降参です。で、今日もシンジ君と駅で約束?」

 

「そうです。昨日しなかった外食をしようかと思って。」

 

「そうなんだ、あ、私も今日シゲルと外で食事して帰ろうって話してるんだけど、一緒に

どっかに食べにいこうか?今日は私がおごってあげる。」

 

 マヤはそう言って片目をつぶって見せた。

 

 レイは今月の家計簿を少しだけ頭の隅に置いた後、嬉しそうに頭を下げた。

 

「じゃ、シンジ君はシゲルの車で拾いに行きましょうね。ちょっとだけ片付けがあるから

ここを出るのは遅れるけど、バスと比べたら駅に着く時間は変わらないと思うから。」

 

 そう言いながら立ち上がったマヤは、両手を真っ直ぐ頭の上に挙げて「うーん、」と声

を出しながら体を伸ばした。

 そしてレイも立ち上がり、オペレータールームを無人にするための作業を開始した。

 

 その後戻ってきたシゲルと二人が合流し、3人がネルフを後にしたのは、シンジとの待

ち合わせ時間の10分程前だった。

 

 


 

 

 シンジはレイとの待ち合わせ時間よりかなり早くに駅のバスターミナルにやってきて、

少しずつ陰っていく町の様子に目を落としながら、ぼんやりと重く沈む思考の中に身を任

せていた。

 日の終わりに近づく世界にあっても、夏の熱は変わることなく淀み、重くまとわりつく。

 

「怖いのかな、僕は。」

 

 思わず口をついて零れたその一言が、シンジの想いの全てを代弁している様だった。

 

 シンジにとって10年という月日は、決して短いモノではなかった。

 もう二度と出会うことはない、とそう引き剥がされたあの時から、想いを断ち切り、自

分という存在をゆっくりと探して、そして今レイを愛するようになったこの時まで、その

密度は決して薄いモノではない。

 

 その全てが、簡単に否定されるかも知れない。

 

 自分は10年で強くなった、と思っていた。が、脆弱な心根は、簡単に揺らぎ動揺する。

そして又、逃げようとする自分自身を押さえつける、あの呪文を探している自分が居る。

 

『もし、10年後に再びアスカと出会えることを、あの時知っていたなら、僕は今どう生

きていただろうか?』

 

 考えてはいけない事。

 分かっていながらも、そこへと降りてゆく思考をくい止める術がない。

 

『もし、もし知っていたら・・・・、』

 

 一から自分を作り直すような生き方をしていただろうか?

 アスカに頼り、ずっと弱い存在のままだっただろうか?

 それともこの出会いのために、もっと強い人間になっていただろうか?

 

 全て架空の物語なのだ。知り得たはずはない。

 絶望のように離れていった二人の運命が、もう一度交差する場所があるとは思わなかっ

た。そう、思わなかったはずだ。

 

『そして・・・・、』

 

 何かが警笛を鳴らす。

 が、それを無視してシンジは、もっと暗く深い心の深淵をのぞき込んだ。

 

『レイを愛しただろうか?』

 

 その瞬間、声を上げて叫びたくなった。

 

 ケンスケからアスカのことを聞いた時から、無意識が押さえ込んでいたその想いが、表

層を覆う全ての言葉を蹴散らすように浮かび上がり、感情を蹂躙する。

 自分がどんどんどす黒く思えて、吐き出したくなる程の嫌悪感が全身を覆う。

 その下らない思考をうち消したい、そう思えば思うほど、弱い自分が、消し去りたいと

思う卑屈な自分が、大声で叫ぶ。

 

 自分がひどく汚らわしい存在の様に思えて、とぎれない感情の高ぶりが、頬を伝って顎

先からこぼれ落ちた。

 それさえも欺瞞の様に思えて、また胸を締め付ける。

 

 今、レイを愛していることに疑う術など何もないのに、目に見えない、薄くぼんやりと

した気配が、その深淵を覗くことをくい止められなかった自分が、ひどく怖かった。

 

 そして彷徨う様に、思考は続きを探す。

 

『10年間、アスカは待っていたかも知れない。』

 

 もう、答えなど用意できるはずはない。

 全て虚構の中で汲み上げられた世界なのに、その恐怖がシンジを包み込んでいく。

 

 2年前、自分とレイに対する制約が弱まったとき、本当は少しだけ気が付いていたのだ。

手を伸ばせば、それに届くかも知れないと。

 でも、出来なかった。

 レイを想い、今を思うと、それが出来なかった。

 

 卑怯だと自分自身を詰れるほど、自分は強くはなかったのだ。

 

 

 今、目の前に、確かに通じるアスカへの再会の道がある。

 ケンスケから破片のように聞いたアスカの今が、この先にはあるだろう。

 

 そして必ず自分たちの世界は交錯する。

 それだけは断言できる。

 

 

 シンジは濡れている頬と目尻を指で拭って、湿っぽい息をゆっくりと吐き出した。

目の前には、いつもの町の喧噪がある。

 

 シンジの思考の切れ目を知ってか知らずか、バスターミナルで切符を売っている老婆が

シンジの元にやってきて、その仕事をしようとシンジに話しかけた。

 

「切符、いりませんか?」

 

 老婆の声は力無く、何処か脆さを感じさせるモノだった。

 

 シンジは右手を振って、必要が無い、という意思表示をした。声を出しても、正しく音

になりそうになかったからだ。

 老婆は特別残念な表情を浮かべるわけでもなく、何事もなかったかのように次の客を求

めて去っていった。

 ターミナルで切符を売る老人は珍しくはない。仕事としては確立されているのだろう。

はたして1枚切符を売って、どれ程のもうけになるのかわからないが。

 

 

 ふと我に返り、シンジは自分の思考がほんの少しだけ別方向へと向かうと同時に、熱を

帯びた頭の芯が少しだけその温度を下げた事に気が付いた。

 深いため息を吐いて、深沈へと気配を変えていく、空の深い青に目をやった。

 

 久々に見上げたその空の青は、シンジが思っているよりも遙かに遠かった。


つづく


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