第6話「焦慮」


朝。
カーテンから漏れだした光を待っていたかのようにベッドから飛び降りる。
光を遮る布を取り払うと、眼下に広がる景色に微笑みを向けた。
「いい天気・・・日頃の行いの成果ね」
彼女は朝日に背を向け、着ていたパジャマを脱ぎ捨てるようにベッドへ放り投げると、
×マークが5つ書かれたカレンダーを見て、クススと含み笑いを浮かべる。
同時にトリートメントの効いた艶やかな髪に櫛を入れ
鏡に写る髪を見ながらアスカはにこりと微笑みを浮かべた。
「寝癖も無し。気を付けて寝てた甲斐があったわね」
口を動かすのと同時にドライヤーのコンセントを入れ、彼女は最後の仕上げに取りかかった。


「葛城さん、葛城さん」
まだ誰もいない、機械すら動いていない整然とした第2発令所の空間にマヤの声が響く。
それほど大声で発した声ではないのにその声は発令所内全てに響きわたった。
さすがのミサトも残響音が続く声に意識が戻ってくる。
腕の上に置かれた頬を持ち上げ、大あくびをしながら声の主に顔を向けた。
「あれ・・・」
ミサトは見慣れた顔を見た後、時計に視線を移す。
「どうしたの?早いじゃない」
「昨日はここの整理でMAGIだけが動いていただけですから・・・」
ミサトは目をこすりながら思い出したように相槌を打つ。
「あ・・・そうだったわね」
マヤはそうしている間にも自分の席に座り、端末の電源を入れる。
彼女の前のモニタが光を帯び、キーの音とともに発令所内が活気を帯びてくる。
「でも、葛城さんこそどうしたんですか?こんな所で寝たら風邪ひいちゃいますよ」
ミサトは傍らにあった、バッテリーが落ちてダイオードも光を発していない
ノートパソコンのスイッチをオフにすると、細めた目で視界にあるモニタを畳み込んだ。
「あまりに静かな発令所を眺めてたらね・・・。
 ・・・眠くなっちゃって」
少しおどけてみせるミサトの言葉にマヤは視線を落とした。
「じゃ、少し仮眠室で寝よっかな。あ、9時になったら起こしてくれる?」
「・・・はい、分かりました」
ミサトはノートパソコンを抱えるとマヤの肩を1回優しく叩く。
「よろしくね」
マヤはミサトが出ていった方を見つめながらぽつりと呟く。
「葛城さん・・・忘れられるわけないわよね・・・」
彼女は活動を活発にし始めて光溢れる発令所に目を移す。
「ここだって・・・思い出の固まり・・・」
マヤはしばしの間、発令所内の光を感慨深げに眺めていた。

シンジはいつもとは違う朝を迎えていた。
布団の中の耳にまで達してくる鼻歌。
その鼻歌に混ざるリズミカルな音・・・。
子守歌のようなリズムだが、聞き慣れない音に落ち着かないシンジは
床を離れ、とりあえず着替えをすまして音源へ向かう。
リビングに出たときには鼻歌が何の歌であるかシンジにも分かった。
そして、その歌主が誰なのかも。
まだ7時を回ったところで、普段の日曜なら彼女はまだ寝ている時間。
それだけに、何だ?と思っても不思議ではあるまい。
ひょいとダイニングに顔を入れてみるシンジの耳にはっきりと声が聞こえた。
「あっち行きなさいよぉ。あんたの食べられそうな物は無いんだってばっ」
「クエッ、クワワ」
「だぁ〜、まとわりつかないでよぉ〜」
そんなやりとりにシンジはくすっと笑みを浮かべる。
「ペンペ〜ン」
シンジの方に首をきゅっと向けるペンペン。同時に凄い勢いで彼の元に走り寄る。
今までじゃれついて仕方なかった動物の素早い行動に呆気にとられながらも
アスカはペンペンの後を追ってダイニングへ入った。
「ったく、変わり身の早い奴ね」
魚を手にするシンジにじゃれつくペンペンを見ながらアスカは少し口を尖らせて声を出す。
「・・・この時間がペンペンのご飯の時間だからね。
 アスカがご飯くれると思ったんだよ」
「ま、邪魔されなくていいけどね」
そう言いながらテーブルにバスケットを載せるアスカを見て、シンジは目を疑う。
シンジにとっては彼女のエプロン姿は初めて。
それだけにジロジロと見る結果になった。
そんな視線にアスカが気づかぬ筈もなく・・・。
「何見てんのよ」
じろりと睨み付けられる。当然といえば当然の反応。
シンジの疑問は声となり、アスカに向かった。
「フフッ、お・べ・ん・と・う・づ・く・り」
明るい声とともに軽快な足取りでキッチンへ戻るアスカ。
シンジは彼女がダイニングに戻ってくるまで待った。
アスカの態度、仕草・・・彼女は今まで見たことがない程ご機嫌な様子。
それはシンジにとっても歓迎すべき事であったが、お弁当というのが引っかかった。
事実、テーブルの上にはバスケットが置かれ、傍らにはボトルも見えた。
とても室内で食事をする雰囲気ではない。
ましてや、自分のために料理を作ってるときにはあんな顔はしないだろう。
シンジの顔がほんの少し曇る。
まさかな・・・
思案のうちにアスカがダイニングに姿を現し、バスケットの底にナプキンを敷き始める。
シンジは外堀を埋める気を込めて言葉を発した。
「あ、いいのに・・・そのままお皿に盛れば良いよ。その方が食べやすいし・・・」
少し自信なさげな声のシンジは、案の定ジト目を返される。
その視線が、シンジをさらに不安にさせた。
そして、返ってきた答えはシンジの予測通りだった。
シンジは努めて残念そうな顔を見せながら続ける。
「え・・・でも誰?。アスカのパートナーって・・・」
もし予想が正しければ・・・。
でもそれはあってはいけないこと・・・。
だってあの人は・・・もう・・・。
そんな彼の思いを知らずに、アスカは幸せそうに手を動かす。
「私の愛情のこもったお手製サンドイッチを食べられるのはただ一人、
 加持さんだけに決まってんでしょ。馬鹿なこと聞かないでよね」
彼女の明るい顔と声が、シンジに追い打ちをかける。
ミサトから口止めされていた事実。
だが、もし加持が来なかったら・・・。
頭の中が渦を巻く中で、彼はアスカの顔を見つめた。
真実を知ればこの笑顔は消し飛ぶだろう。
それどころか、せっかく元気になった彼女が以前より落ち込むのは明か。
それ以前に、シンジに言える勇気はなかった・・・加持が死んだなんて。
アスカが加持にどれだけ好意を持っているか知っているシンジだから尚更・・・
・・・言える筈無かった。


「お前ともあろう者がとんだ失態だな」
「・・・若い者には勝てんよ。老兵は去りゆくのみ、この言葉が最近は身にしみる」
かちりかちりとエレベーターの階を知らせる音だけが規則的に狭い部屋に響く。
「安心しろ。鍵をすげ替えられてるわけではない。
 少し昔話を、私より老人がいる場所で話してきただけだ」
ゲンドウは冬月の言葉にも動き一つ見せなかった。
表情も、瞳がサングラスで隠れているせいで読みとることは出来ない。
頭の上から1回だけベルの音がする。
同時に彼らの体が床に押しつけられる感覚が襲う。
だが至極当たり前の感覚に驚く者はいない。
扉が開くと同時に彼らはその部屋から出てゆく。
「老兵は去りゆくのみ・・・だな」
ゲンドウの声をその部屋に閉じこめて彼らは司令室へと向かっていった。


突き出されたサンドイッチに少し暗い顔で応対するシンジ。
普通の人間なら、どうしたの?と心配するところだが
これが彼の通常の顔であるからアスカも気にしない。
実際はいつもより暗い顔をしていたのだが、
彼女にはどちらも変わりないどうでもいい顔だから気づく筈もなかった。
「毒味。食べてみてよ」
彼女に摘まれていた長方形のサンドイッチ。
中身はハムと卵のようだ。彼は一度アスカの顔を見た。
視線が合い、彼に向かい、ほら、という感じに彼女は口元をゆるめた。
指を伸ばしパンを摘んだ。
ひやりとしたあとで、パン特有のフワフワザラザラとした感覚が彼の指に伝わる。
濡れてるわけじゃないのに冷たく感じたのは何だろうと思いながら
半分ほどを口に運ぶ。手にした感覚と同様の感覚が彼の口内に伝わてゆく。
違うのは卵の味とハムの味が加わってることだけ。
「おいし?」
頷きを見たアスカは用意してあったサンドイッチを微笑みを絶やすことなく
バスケットに詰め始めた。
すでに髪の毛の準備も終わり、
艶のあるストレートな髪が彼女の動きに合わせて整然と踊る。
バスケットの鍵をかけると、アスカはちらりと腕時計に目をやった。
現在7時20分を回ったところ。
彼女は冷やしておいたオールドティーを水筒に注ぎ始めた。
最後の水滴を確認してから蓋を閉め、再び時計を見る。
ジャストタイム。
アスカは水筒をバスケットに作っておいた隙間に入れ、
上に付いている取っ手を引き起こしながらエプロンを外すと、シンジに視線を向けた。
彼女の行動をを何も言うことなくずっと眺めていたシンジは
突然正面に向いた彼女の瞳に肩がビクッと震えた。
「美味しいからってつまみ食いしたら殺すわよ」
この台詞を残してアスカは小走りで自分の部屋に戻った。
笑顔から出た台詞とは思えないが、彼女にすれば目の前で物欲しそうな男がいるのに
何も言わずにこの場を離れるのはリスクが多すぎる。
せっかく準備が終わったバスケットを荒らされてはたまらないから、釘を差した台詞だった。
栗毛の少女が目の前から姿を消し、バスケットだけが視界に残る。
確かに美味しいサンドイッチだったが、これに手を付けられるはず無い。
今、喉に通るのは唾液だけで精一杯だった。
心の中での葛藤、言うべきか・・・言わざるべきか・・・。
言わなければシンジに実害があるわけではない。
知らんぷりして、もし彼女が加持のことを知る事になっても、知らなかったで事は通る。
だが、それではあまりにアスカが不憫に思えた。
加持は来ないと言った場合はおそらくなぜ来られないのか理由を問われるだろう。
だが、上手い誤魔化し台詞がシンジには思いつかなかった。
最悪、やきもちからの狂言だと罵られるだろう。
無限ループに陥ったシンジの頭に軽い足音が突き刺さる。
その主は彼が振り向く隙にダイニングに現れた。
「じゃ、行って来るわね。後片づけよろしくっ」
アスカがバスケットを握り、落ちあげた。
瞳に写った光景に、シンジはとっさに声を上げていた。
彼の声に振り向くアスカ。その姿が、彼の喉を一気に詰まらせた。
1度、2度・・・アスカの問いかけに手を強く握りしめるだけだったシンジ。
3度目の少し気分を損ねた感じで返す声に押し出され、シンジの口が開いた。
シンジの視界に惚けた顔のアスカが写る。
そして、その顔は穏やかな表情へと変化を遂げた。
「まぁったく、もったいぶるから何かと思っちゃった。
 それじゃ、気が向いたらあんたの分のおみやげも買ってきてやるわね」
その声を最後に、シンジの視覚も、聴覚も彼女の存在を感じることはなかった。
「ごめん・・・ぼくには・・・いうことができな・・・・・」
声が消え、彼の聴覚はなにも感じなくなる。
ただ、視覚は揺れるダイニングを写しだし、
触覚は手のひらにぽつぽつと落ちる水滴を感じていた。


「あれ・・・シンジ君?。あぁ、おはよう。え?葛城三佐か?。いや、まだみたいだよ」
「あ、ちょっと待って」
青葉は受話器を肩と耳に挟みながら空いた手をキーボードに走らせた。
「あ、今日は11時入りだな。それまでは休息時間になってる」
青葉が受けている電話の内容から、マヤがこっちに切り替えてと彼のモニタに写した。
「ちょっと待って、今伊吹二尉に代わるから」
「あ、シンジ君。葛城三佐なら今仮眠室にいるわ。午後9時に起こしてって頼まれてるの。
 でも急ぎだったら今から起こしにいくけど」
「え?そう、わかったわ。じゃあそう伝えておくわね」
マヤが受話器を置いたのを確認して青葉がイスを60度ほど回転させた。
首を少し捻れば彼女の瞳が見られる位置。
「マヤちゃん、珍しいよね。シンジ君がこんな所に電話かけてくるなんてさ」
「でも急ぎの用って訳じゃないみたいだし・・・どうしたんでしょうね」
「ま、生死に関わる重大なトラブルって訳じゃないみたいだし、
 葛城さんが来れば理由も解るか」
「そうですね・・・本当に何でもなければいいんですけど・・・」


チラリと腕時計に目を移す。
短針は8に重なっているのに、長針はまだ55の所を指している。
あんたも早く0の所に行きなさいよと彼女は笑顔を振りまきながら腕時計に投げかけた。


「葛城さん、葛城さん」
無意識下から上がってくる声が、徐々に輪郭をはっきりとさせてゆく。
声だけではなく、肩も揺すられていたことに気づくのはさして時間はかからなかった。
ゆっくりと声の主の方に寝返りをうつミサト。
「九時ですよ。葛城さん、、おはようございます・・・葛城さん?」
声でマヤと解ったミサトは、顔を何度か手のひらで洗いながら上半身を起こし、
マヤはミサトの方に屈み込んでいた背筋をまっすぐに伸ばした。
「・・・ありがと、時間・・・ぴったりね」
怠そうなミサトの態度によほど疲れがたまってるなと感じながらマヤは口を開く。
「・・・さっきシンジ君から電話がありましたよ。
 葛城さんが起きてからでいいから連絡してくれとのことです」
「・・・シンジ君から??」
ミサトも意外な気持ちだった。初めてじゃないかしらと思いながら頭をかく。
ベッドの横にかけてあった上着の中に手を入れ、携帯電話を探し始める。
「じゃぁ私は仕事がありますので」
「あ、忙しいのに悪かったわね」
マヤはミサトに一礼したあと仮眠室を後にした。
マヤの姿が消えるのとほぼ同時に携帯を取り出し、オートダイヤルの4番スイッチを押す。
呼び出し音は3回目が鳴り終わる頃に切れた。
「あ、シンジ君。私だけど、なにかあったの?」
ミサトはシンジの声を聞いてすぐにいつもと違うことを悟る。
かれている声と、時折息をのむ音が彼の状態を物語っていた。
「・・・え?!」
嘘を言っているようには思えない。ミサトもシンジ同様、アスカの行動に言葉が詰まる。
「・・・わかったわ。ごめんねシンジ君。後はこっちで何とかしてみるから」
そう言いながら彼女の頭は対応策を模索し始めた。
「えぇ。アスカのことは心配しないでいいわ。大丈夫だから」
携帯のスイッチを切り、枕元に掛けておいた腕時計を腕に巻き付けながら呟きが漏れる。
「1時間半の遅刻か・・・辛いわね・・・」
彼女は上着を掴んでベッドから飛び降りた。
ドアに歩を進めながら上着に袖を通し、今度はオートダイヤルの2番を押す。
今度の呼び出し音は2回で切れた。
「あ、日向君?。そう。ちょっと急な予定が入ったからちょっと出てくるから。
 何かあったらこの携帯に送ってくれる?」
「じゃ、よろしくね」
ミサトは携帯を内ポケットに入れると、誰もいない廊下を走り始める。


「焦慮」Bパートへ続く

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