第四章「慟哭」

 

 

 王都に留まることわずか一〇日で、アーガイルとマールテンとは、わずかな随
員を引き連れ、帰路についた。むろん、グスタフ王の葬儀もまだおこなわれてい
ない。
 海路をとると、北西にのびるバラシッド半島を迂回せねばならないうえに、こ
の季節は逆風となるため、やたらと時間がかかる。
 彼らは陸路をとった。

 余談だが、王国の草創期に、王都ジュロンを拠点とする正規海軍と国公領の首
府ハーンに駐留する北海艦隊とに二分したのには、政治的な理由の他に、純軍事
的な意味もあった。すなわち、西海の守りと北海の鎮護とを、一個の艦隊にゆだ
ねるには、この半島が、距離的な障壁となったのである。仮にノジェール大公と
いう巨大な存在がなくても、遅かれ早かれこの国の海軍は、二つの拠点を必要と
したであろう。

 仮にもテュール宗家の一行である。通常であれば、急ぎの場合でも一〇〇人程
度の行列を組んで、五日はかかる行程である。現に、つい先日、ヘンドリックが
領地に帰るときには、六〇〇人の行列を組み、八日を要した。
 しかし、二〇人に満たないこの一行は、出発の翌日の夕刻には、ハーン郊外の
公爵家居城に到着していた。全員が騎乗しているとはいえ、異常な早さであった。
実際、彼らはほとんど不眠不休であり、王都で選りすぐった駿馬がこの強行軍に
よって、ハーンに到着してからことごとく死んだほどであった。
 すでに老境に入っているマールテンをはじめ数人の騎士が、城に着くなり倒れ
こんで、衛兵の手をわずらわせたが、さすがに若いだけあり、アーガイルは、門
前の井戸で水をがぶ飲みすると、すぐに城中に駆け込んだ。
「コルネリス、いるか。アーガイルが王都より帰って参ったぞ」
 兄の養育係であり、公爵家で最大級の重臣の名を、若者は呼ばわった。
 衛兵がそれを取り次いでいる間、アーガイルは、玄関のすぐ脇にある応接室に
入り、待った。
 さほどの時間も経過しないうちに、善良そうな顔をした中年男が出てきた。コ
ルネリスであった。いかにも治世の能吏らしく、行政能力には長けているが、権
謀術数とか駆け引きのようなことについてはさほどの才幹を見せない。だが、い
や、だからこそ、彼は誰からも信用されていた。例の書簡にコルネリスの署名が
あったというだけで、みながその内容を信じたのが、そのいい例である。
「アーガイル様、こちらへ……」
 挨拶もそこそこに、コルネリスは、アーガイルを地下室へと案内した。
 季節は秋。
 この北方の地では、秋とはすでに寒冷の季節である。ましてや、終日陽の当た
らない地下では、凍えるようであった。
 地下へ降り立ったアーガイルは、そこに棺を見つけた。思わずふるえたのは、
寒さのせいだけではなかっただろう。
 コルネリスに促され、アーガイルはおそるおそる棺を開けた。
 紛れもなく、第一六代テュール公ヘンドリックの「死んだ顔」が、そこにはあ
った。喉には包帯が巻かれており、どす黒い染みが本来白いそれを浸食している。
死因は、明白であった。
 アーガイルは、生まれて二二年目にして、初めて死を恐ろしいと感じた。母親
が亡くなったのは、彼が二歳の頃であるから、すでに記憶にはない。この「死」
が、彼にとって身近に感じた初めての死であった。
 ヘンドリックは、政治家としては凡庸であったが、一個の人間としてはきわめ
て聡明な頭脳を持ち、態度も堂々として、国王相手でも引けを取らなかった。し
かし、聡明さや威厳など、所詮は生きていてこそのものではないか。自分を叱り
つけていた頃の父とはまったく別人のように青ざめ、冷たくなった顔を見て、彼
はそう思った。
「何者だ」
 と、彼は尋ねた。腹の奥から絞り出すような声である。両眼が、怒りと悲しみ
のために、恐ろしいほどぎらついていた。
「何者が、父上を害したのか!」
「遠因は分かりかねますが、喉を短剣で一突きにしておられました。殿下御自ら
の手で……です」
「……自害か!」
 アーガイルは、全身が麻痺したような衝撃を受けた。思わず、ひざをついた。
あの聡明な父に限って、乱心も、衝動も、絶対にありえぬ、と思った。あるいは
殉死だろうか、いや、それも違うだろう。ヘンドリックはグスタフ王から敬意と
信頼を受けていた。ヘンドリック自身もグスタフ王に誠意をもってつかえてきた。
だがそれはあくまで君臣としてであり、彼らが個人的な情誼でつよくむすばれて
いるといったことは、聞いたことがない。
 もしそれがあったとしても。
 ヘンドリックは政治家としても軍人としても大した才略をもってはいなかった
が、気質としてはじゅうぶんに政治家であり、詩人ではなかった。殉死という、
この劇的な行動によって自分の生涯を完結させるのは、彼が詩人であるならばあ
りえることだろう。だが、王が死に、次代の王が決まるまで、ヘンドリックの存
在はこの王国に欠かせぬものであったはずだ。ヘンドリックという男は貴族にし
ては、いや貴族だからであろうか、自分というものを考えることがすくなく、ど
う行動するのが王国のためであり公国のためであろうかということを、とくに意
識せずともつねに優先させていた。その彼が、この時局の中で王の後を追うなど
ということはありえないだろう。
 自己の命を絶つほどの苦しみを、背負っていたというのか。
「……そのこと、誰かに漏らしたか」
「いえ、ただ、最初に現場を発見した女官と、親衛隊長のユルース、それに親衛
隊の一部の者は、このことを知っております」
「他に漏れている心配は」
「ございません」
 若者は怪訝な表情をした。
「適切な処置をとったのだろうな」
 ところで、コルネリスとマールテンとは同格である。否、むしろ、文官のコル
ネリスの方が序列は上であった。自分の教育係でもあるマールテンに対してはあ
れほど弱いアーガイルが、同様に自家の重鎮であるコルネリスに対してつい高飛
車になるのは、やはり貴族だからであろうか。
 が、コルネリスは不機嫌な表情ひとつせずに、若者の質問に答えた。
「侍女には、充分な慰労金と郊外の田園とを与えて暇をやりましたし、親衛隊の
上層にはただちに箝口令を布きましたゆえ……」
 そうか、とアーガイルは重臣に背を向けたまま深く頷き、そのまま顔を上げよ
うとしない。
「コルネリス、少しのあいだでいい。少しでいいから外してくれ。一人になりた
い」
 深々と一礼し、コルネリスは階段を一人で上がっていった。アーガイルはそれ
を確認すると、ひとりでに、涙があふれた。泣いた。
 その慟哭は、あるいは地上の階にいるはずのコルネリスやマールテンらにも聞
こえたかもしれない。が、この若者はかまわずに、ただ、泣いた。
 ……アーガイルは、身をつらぬくような寒さで目が覚めた。どうやら、認めた
くないことだが、泣き疲れて、わずかの時間眠ってしまったらしい。地下室の床
に、その体を横たえていた。
 不意に、腹が鳴った。
 そういえば、王都を出立してからの二日間、まともな食事をしていない。そう
気づき、階段を昇っていった。われながら不思議なことに、先ほどの激しい悲哀
は、一抹の寂寥感というほどのものに変わっていた。
 マールテンと、彼のごく少ない近臣たちが、気遣わしげに待っていた。
 外は、すでに薄暗い。いや、まだ薄暗い、というべきか。さほど時間がたって
いないのである。
「アーガイル様、心中お察しいたします」
 と、その中の一人が言った。先ほどまでの凄まじい慟哭は、やはり地上に届い
ていたようであった。
「いや」
 と、アーガイルは首を横に振る。そして、彼らにとっては意外なことを言った。
「食事にするか。考えてみれば、昨日の朝からかれこれ丸二日間、まともなもの
を食っていない」
 このとき、近臣たちはどうやら誤解したようである。この若い貴族が、精神の
激痛に、必死で耐えていると思ったのである。
 好意的かつ単純な解釈であったが、真実はさらに単純であった。ひかえめに讃
えた家臣に、彼はこう答えたものである。
「そんなたいそうなものじゃない。ただ、腹が減っただけだ。そのとき、ああ、
自分は生きているんだな、と思った。思ったら、泣いているのがばかばかしくな
ったのさ」
 若者には謙遜も韜晦もなく、ただ、心情を正直に語っただけだが、それでもあ
る者は奥ゆかしさを感じ、ある者は若者の前向きな心に感じ入った。後者の方が
より真実には近かったが、それでも過大評価だろう。
 アーガイルは、涙を「排泄」することによって、精神の再建を果たした。その
証拠に、翌日から彼は彼の仕事、すなわち軍隊の再編と強化に没頭したのだ。悲
しみを紛らわすためにああしているのだ、といううがった見解もあったが、若者
の闊達な笑顔を見るにつけ、そうした声は小さくなっていった。
 ともかく、若者は、動乱を防ぐために、あるいは戦に備えるため、軍事に専念
した。
 下級兵士の士気を高めるのに、時間はかからなかった。何しろ、テュール家の
アーガイルといえば、王都にまで聞こえた名将ということになっている。実戦経
験はただの一度だから、それがまぐれでないとは言い切れないのだが、純朴な、
あるいは無知な兵士たちにしてみれば、命を預ける提督が無能であるとは思いた
くないところであろう。
 海軍の幹部たちも、さほど手こずりはしなかった。実際、アーガイルに率いら
れて大勝した経験が、彼らにはある。
 問題は、陸兵隊(陸軍というほどの規模はない)の幹部、特に、平民出身の中
級、下級の将校たちであった。
 代々テュール家に仕えている家臣ならば、公爵家当主の次子であり事実上の軍
権代行者たるアーガイルの命令には、比較的従順である。だが、平民出身の将校
たちは、中には王都の王立軍学院を出た者もあるだけに、テュール家に対する忠
節よりも自己の能力に対する自信の方が大きい。事実、能力がなければ登用され
ないのだから、黙っていてもある程度の地位を保証される階級の将校よりも、彼
らは全体的に有能であった。
(所詮は小僧ではないか)
 とか、
(陸兵を率いた経験があるのか)
 といった声もある。しかも決して小さくはなかった。
 ウェイルボード王国は、その起源からも分かるように、支配者と被支配者とを
分かつ垣根が低い。この公国も、もちろん例外ではなかった。
  アーガイルは、あえて彼ら平民将校を刺激せず、陸のことに関しては、武官筆
頭のマールテン、陸兵隊総督ソルスキア、副総督フィジックといった熟練した上
級指揮官たちにすべてをまかせた。もともと彼の関心は海軍にあったので、面倒
くさいという思いも少しはあったに違いない。
「兄上は、うまくやっているだろうか」
 港で、訓練を指揮しながら、彼は不意にそう呟いた。
 
 

 

第五章へ続く

 




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