第9話「Leave-taking 『Reason,3-B』」
『ちゅ』
そう音がしたかは彼らしか分からないが、2人の唇は距離をとった。
アスカとシンジの顔は真っ赤だった。
が、語りかけるようにシンジはアスカの青い瞳に向かい口を開いた。
「逃げたのは・・・ショックだったんだ。
アスカが・・・その・・・彼と・・・キスしてたのが・・・
アスカは・・・気になる存在だったから・・・他の奴とキスしてたのがショックで・・・
頭が回らなくなって・・・あの時はアスカと顔合わせても普通にできる自信が
なかったから・・・避けたのは汚いなんて思ったからじゃないよ。
それにアスカは汚くなんか無いじゃないか。僕から見ても凄く・・・
シンジは頬を赤らめ、躊躇しながらも続ける。
・・・き、綺麗だし・・・こんな事したいと思うのアスカだけだよ・・・。
それに汚いって感じてたら出来ないだろ・・・こんな事・・・」
アスカはハッとして彼を見ると、彼の口の周りに赤い泡が付いてるのが見えた。
「シンジ・・・口洗って。・・・汚れちゃってる・・・」
「汚れてないよ。全然きれいじゃないか。アスカのお陰で僕の唇もきれいになったよ」
アスカはシンジのその言葉に目頭が熱くなる。
(普通なら・・・人の歯磨き粉の泡なんて気持ち悪い物の筈なのに・・・
私を励ますために無理してまでそう言ってくれてる、我慢してくれてる・・・
うれしい・・・すごくうれしいよ・・・シンジ・・・)
彼女の目は涙のフィルターで輝いていた。彼にその奇麗な瞳が見える。
「・・・うん・・・シンジが・・・落としてくれたね。
私の唇の汚れ・・・落ちたよ・・・シンジ」
シンジは彼女と固く結ばれた手と指をさらに握る。
「よかったね。落ちて」
「・・・うん。
・・・・シンジ・・・もう洗っていいよ。泡が口の周りに付いてるから」
シンジが彼女と繋がれていた片方の手を離して口を拭ってみる。
「あっ、ホントだ。でもアスカも酷いよ。先に洗いなよ」
彼女の心にも多少の余裕が出来てきたのか、
すまし顔をシンジに向けながら口を開く。
「・・・そう、やっと分かってきたじゃない。シンジにしては上出来ね」
イヤミじゃなく、自然に言えてるセリフ。
シンジは久しぶりにこのアスカ節を聞いたようで嬉しくなる。
この後で二人は口を洗った後で、思い出したようにシンジが大声を上げる。
「あっ!まずい!今日テストだった!アスカ、この後予定ある?」
余りに唐突に聞いてきたシンジに、アスカは暇だということを告げると、
「じゃあ悪いんだけど綾波を見ていてもらえるかな。一人にするのは心配で」
「そうね。やることもないし、いいわよ」
アスカとシンジは一緒にシンジの部屋まで歩いてきた。お互いにここまで色々と
会話をしてきたが、シンジの部屋の少し手前でアスカが歩を止め、
キスの最中から今までずっと絡まっていたシンジの右手と指、
アスカの左手と指を彼女の方からほどくと、彼女はシンジに背を向けるようにくるっと
半回転し、手を後ろで重ねるとシンジに振り向きながら一言。
「・・・責任、取ってよ」
「えっ・・・」
「アベルはキスした責任をきっちり取ったわ。シンジも責任取ってね」
「・・・分かったよ。で、どうすればいいの」
「っ回して」
頬を染めているアスカの声だが、あまりに小声だったので・・・。
「何?聞こえないよ」
アスカは意を決して、喉に力を込めた。
「もう一回・・・今度は勢いじゃなくて・・・。
ちゃんとキス・・・してくれる・かな・・・。
さっき洗っちゃって余韻を味わえなかったから・・・駄目?」
アスカの頬は朱に染まり、
その俯いていた潤む瞳は射抜くようにシンジに向けられた。
シンジは露骨に狼狽する。先ほどのシンジとは別人のようだった。
「な、何言ってるんだよ。こんな所でできる訳ないだろ。それにあれは・・・」
そう言ってる最中にアスカはシンジの首に手を回してきた。
「ん・・・」
アスカは催促するように瞼を閉じ、唇をシンジに向かいつきだす。
彼はなかなかキスできなかった。さっきは彼女を何とかしたい一心で唇を重ねたが、
どうキスしたのか彼にも分からなかった。どうしたらいいのかオロオロするシンジに、
アスカは閉じていた瞼をゆっくりと開くと、天使のような微笑みを浮かべる。
シンジの心臓の動悸が一気に跳ね上がる。
そんな目のやり場に困って目線がさまようシンジを見たアスカは、
少し恥ずかしそうに彼に言葉を向ける。
「・・・馬鹿・・・今度はアンタからしてよね」
アスカは彼の唇に彼女自ら唇を宛った。
「そう、分かったわ」
『ピッ』
「今シンジ君がサーキットに向かったそうよ。こちらも行動を開始するわ。
全ての事は私達に任せなさい。マヤはシンジ君の説得をお願いね」
「・・・でも、いくら先輩の命令でも・・・やっぱり・・私・・・」
リツコは車の後部座席に積んでいたハンドバックを手に持つ。
この中には麻酔薬やら睡眠薬類の入った注射器が入っている。
「そう、なら別にいいのよ。ただ心を多少なり交わしたレイがいなくなったと
知ったらシンジ君はどう思うかしら?不要な心配はさせるなというのが会長の
言葉だったでしょう。貴方もシンジ君の主任なんだから心配の種は摘みなさい」
その時に黒いスーツをまとった男2人がリツコにカードを手渡した。
カードはこのホテルのマスターキー。
「じゃあ、マヤ。後は任せるわ」
そう言い残すとリツコは車から降りてレイの待つホテルの部屋へと向かった。
リツコがマスターキーをドアロックに通すと、
『ピピッ』
という音と共にロックが解除される。
と同時にEVIAの諜報員2人と共にレイのいるホテルの部屋に入っていった。
レイとアスカにも足音が聞こえていたのだが、
彼女達にすればシンジが忘れ物でもしたのかと思い、
まだ見えぬ侵入者に向かいアスカが口を開く。
「どうしたのシンジ、何か忘れ・・・」
そう言いながら出入り口に歩を進めたアスカの目に2人組の男と奥にリツコが見える。
「な、何よアンタ達は!」
そう言っている間に諜報部員にアスカは取り押さえられた。強引に壁に押しつけられた
アスカの口に手があてがわれる。流石にプロの手際の良さだった。
必死に抵抗を試みるアスカであったが、
どうしたらこんなにがっちりと押さえ込めるか聞きたいくらいに身動きが取れなかった。
そんなアスカの前まで歩を進めるとリツコはアスカに向かい、言葉を投げかける。
「アスカ、少しの間我慢してて。貴方には危害を加えるつもりはないわ」
「ン〜、ンンンンン」
口を塞がれていたが話そうとした。だが声にはならなかった。
リツコがレイの視界に入る。
「!!・・・・」
彼女を見たレイの瞳孔が開く。知ってる人・・・恐い人。
彼女はリツコを見ただけで凍りついた。
「久しぶりね、レイ。さ、本部に帰るわよ」
レイにはどうすることもできなかった。歩けもしないのでは逃げようもない。
が、このまま連れて行かれればどうなるかは分かっている。
リツコはレイに近づいて行きながら、まるで人形にでも話しかけるように口を開く。
「全く手間をかけさせててくれたわね。まあもう自力では動けなくなるけどね」
その言葉を聞いたレイは側に来たリツコを凍りつくような冷たい目線で凝視する。
「何?その目は」
レイは目線をリツコからはるか彼方にそびえる外界の山に移す。
「同じよ、あなたも私と。今は利用価値があるからそうしていられる。
けどその内捨てられるわ。私と同じで使い捨てなのよ」
レイはリツコに目線を戻して続ける。その目は厳しかった。
「今の私があなたの未来の姿よ。その結末は貴女の母親と同じ・・・」
リツコの手がレイに振り上げられ、乾いた音と共にレイの白い頬が赤くなる。
「私はあなたや母さんとは違うわ。一緒にしないで欲しいわね。
レイ・・・あなたはこうなる運命が生まれた時から決まってたのよ。同情するわ」
リツコは哀れみの目線をレイに投げかける。レイはその目線・・・。
いつも彼女に向けられていたその目線が嫌いだった。だがそう思ったのは2年前から。
それまではそんな目線を気にはしなかった。
いや、分からなかったと言っていいだろう。
しかし2年前に世界を知ってからは人の目はその人の心を表すと知った。
優しい目、落ち着く目、思いやりある目、怒ってる目、きつい目、哀れみの目・・・
そして今・・・彼女に向けられた目線はレイを憤慨させるには十分だった。
『ズドッ』
「くはっ」
レイは手元にあった杖でリツコを殴りつける。
その時のレイの目は隼のように鋭かった。
「明日は我が身の貴女なんかに同情されたくないわ」
リツコは腹部に入った杖をレイが第2発目を繰り出す前にがっちりとつかんだ。
右脇腹の患部を左手で押さえながらリツコは苦しそうに呟く。
「・・・やってくれるわね・・・レイ」
怖い・・・
レイは彼女の表情を見てそう思った。杖をがっちりと掴んだリツコは
隣の黒スーツの男に目で合図を送った。
杖を必死でリツコから取り戻そうと引っ張るレイの視界の中に暗黒ともとれる
黒色が次第に広がってくる。レイに抵抗する術は持ち合わせていなかった。
シンジは息を切らせて部屋に戻ってきた。そしてキーを通して勢い良くドアを開ける。
真っ暗な部屋。シンジは灯りのスイッチを入れて奥に入っていく。
そこにはベッドに横になって寝ている、いや気絶しているアスカがいた。
シンジは彼女に走り寄って、揺すりながら起こそうと声をかけた。
「アスカ、大丈夫?」
アスカの瞼が揺れた後に、目を開けた。アスカの視界にシンジの顔が写る。
(・・・・・・シンジ?)
アスカはベッドから飛び起きシンジに抱きついた。
シンジと重なったアスカの体は震えながら嗚咽を漏らし始める。
「・・・アスカ・・・」
そんなアスカをシンジは優しく抱きとめる。彼女は彼の優しさを体全体で感じ、
落ち込んだ心が多少なりとも救われて、泣きながらも彼女にとっては
この上なく重かった口を開く。
「シンジ・・・ごめん・・・ごめんなさい・・・ワタシ・・・何も出来なかった。
あの娘・・・レイの事、守れもしなかった。・・・ここに居たがってたのに・・・。
抵抗してたのに・・・見てることしか出来なかった・・・情けないわよ・・・。
黒スーツの男に押さえ込まれた時、シンジの名前呼んでたよ・・・。
『碇君助けて』って何度も・・・睡眠薬が効いて眠りに落ちるまでずっと・・・。
シンジの名前言ってた・・・何もできなかったなんて・・・見てただけなんて・・・」
アスカはそこまで言うと更に泣き出した。号泣といってもいい程だった。
なぜ逃げてきたのか、なぜ追われていたのかはアスカには分からない。
だがあの綾波レイがそこまで感情を出して抵抗する、
シンジを頼りにして、ここに居たがっていた彼女に何もしてやれなかった。
そんなアスカの無力感と『碇君助けて』というセリフが耳について離れない。
耳の中で反復されるそのセリフが彼女を一層悲しみの底に落としていた。
シンジは泣いてる彼女の泣き声を締め潰すように、思い切り抱きしめる。
「・・・アスカだって一生懸命やってくれたんだろ。しょうがないよ」
シンジはすぐ横にあるアスカの耳に向かい囁く。
彼女は何も言えなかった。ただ止まらない嗚咽のみが彼女から発せられる。
シンジはそんな彼女の全てをかき消すように口を合わせる。
アスカを慰めようと思った訳じゃない。小さく震えながら嗚咽を漏らす彼女を
このとき初めて愛おしいと実感した末の行動だった。
真っ暗な部屋の扉が開き、中を廊下の電灯が照らす。
その光は中にいた赤い瞳の少女の左足を照らした。
据え置かれたベッドの上で微動だにせずに片足を抱えて腰を下ろしている少女、
綾波レイ。
その少女の前に現れたのは先ほどレイをさらった男の一人だった。
「・・・綾波レイ、会長がお会いになる。ついてきたまえ」
そう言うと、レイの手に付けられた重いモノに、彼の腰についていたロープをはめる。
『カチッ』
音と共にフックが固定される。
「さあ、行くぞ」
それを聞いたレイは電動式の車椅子に乗せられた。その車椅子に乗って、
その部屋から出た彼女の顔に光が当たる。その表情は感情をまるで表していなかった。
まるで抵抗もせずに彼女は第1実験室に連れて行かれる。
レイには見慣れた光景。
壁代わりにレイの分身が液体の中に所狭しと浮かんでいる水槽。
床一面ガラス張りの下は空洞だった。2年前には床一面に並べられていたコアは
今はもう一つしか置かれていなかった。
そのコアが彼女を待つように赤く点滅していた。それがレイのコアだった。
ゲンドウはレイの培養装置の前に立ち、その顔にコアの赤い輝きが不気味に
照らされていた。レイは今まで定まらなかった目線を彼に合わせる。
瞬間彼女の瞳が輝きを取り戻した。
レイはゲンドウと、その斜め後ろに立つリツコと、培養装置の裏の端末にマヤが
座っている前まで車椅子が押されていくと、そこで手にはめられていたモノが
外され、ゲンドウはレイに向かい冷たく話しかける。
「逃亡して少しは気が晴れたか?お前はここから逃げることなど許されん。
あまり子供じみた真似はするな」
レイはゲンドウの態度が変わっていない事に寂しく思った。確かに期待したわけでは
ないし、そんなつもりでここから出ていった訳でもない。彼女は覚悟を決めた。
黙って返答をしないレイを気にもとめずにゲンドウは続ける。
「ここに連れてきた理由を分かっているな、レイ。これがお前の最後の使命だ」
レイは消え入るような小声で呟く。
「・・・はい」
もう吹っ切れたつもりだった、覚悟を固めたつもりだったが、
それだけしか発しなかった彼女の声は震えていた。
「そうか・・・なら始めるぞ。最後に言っておきたいことがある」
レイはゲンドウを見た。彼の顔・・・そこには何の感情もなかった。
「今までご苦労だった」
レイはその言葉を聞いたとき、目を背ける。
レイにしては悲しすぎる最後の言葉・・・無意識のうちに手を握りしめ、
背けた目が悲しさを物語っていたが、ゲンドウは見て見ぬフリをしてマヤに合図を送った。
マヤはその合図を受け、震える指でキーボードをたたく。
『ブゥン』
その音と共に彼の頭上の巨大なオブジェが活動を開始すると同時に光を発し始め、
最後のコアが激しく点滅する。その後で床の下に置かれていたコアが
エレベーターによりレイ達のいる床の上に上がってきた。
『ガゥン』
その音の後でエレベーターが停止。レイ達と同じ高さにコアが来た。準備は整った。
巨大なパイプの固まりである頭上のオブジェの中で、パイプの中を這うように
光が無数に走っていた。
「レイ、待たせたな。さあカプセルに入れ」
ゲンドウがカプセル横のボタンを押すと中に満たされていた液体が下に流れ落ち、
正面に置かれたハッチが開く。
レイは最後の時を迎え、シンジの顔を思い出していた。
優しい、包んでくれるような彼の顔を思い出し、心の中で礼を述べる。
(ありがとう碇・・・シンジ君・・・あなたに会えて良かった)
レイはマヤに支えられて立ち上がり、何とか体重を支えられるようになった両足で
しっかりと床を踏みしめて、一歩一歩、歩を進める。
彼女はカプセルに入ろうとした時に最後まで優しかったシンジに・・・。
「マヤ・・・さん。碇・・・シンジ君に・・・ありがとう・・・って伝えて」
マヤは声もなくうなずいた。
レイは彼女の優しさを感じながらカプセルの入り口に差し掛かる。
いつも入っていった入り口が今日はまるで違う物に見えた。
今まで何度も嫌で何度も止めたいと思っていた物が今日で終わる。
(嬉しい筈なのに・・・私は・・・今の私は・・・
・・・辛くても生きたい・・・酷い生活でも生きたい・・・でも・・もうおしまい)
レイがカプセルに入ろうとして入り口の縁を支えにした。
手に冷たいガラスの感覚が伝わった時、フラッシュバックされるシンジの言葉。
『何でもかんでも1人で背負い込むなよ。そりゃまだ僕とは親しくないかもしれないし
迷惑かもしれないけど・・・今の綾波をほっとけないよ』
シンジの優しい顔と、言葉が脳裏をよぎる。
『大丈夫、僕はずっと側にいるから』
レイの目から、1粒の涙がこぼれ落ちた。