第17話「HANE」


シンジがバンクを通過してブースターをカットし、バックモニターをチラリと見た。
彼方に消えたマックスを見てすうっと重圧から解放される感覚に酔う。
「よし、もう後2周。この分で行けば絶対に勝てる!」
そんなシンジが自分のピット前を通過しようとしていた時、異変に気づいた。
「なんだ?!アイツ確か・・・」
いつも見ているピットサインボード。
それを持っている男を見て、シンジは困惑した。いつものメカニックじゃない。
その男は思いっきり身を乗り出してシンジにボードを向けた。
書かれていたのは白いボート上に黒いペンで
サインボード一杯に殴り書きされた6文字だけ。

              『バカヤロウ!』

これだけ大きく書かれたら、高速走行中のシンジにもはっきりと見ることが出来た。
だが、イマイチ意味が分からなかった。
「何だったんだ?今の?それに何であいつがサインボードなんか出してるんだよ」

「トウジ君」
マヤはトウジに無線のインカムを放り投げた。
「それだけじゃシンジ君には分からないわよ。それ使ってお尻を叩いてあげて」
トウジの目から鱗が落ちた。手をポンと叩きながら
「そや、無線があったやんか。さすがマヤさん!頭ええなぁ!」
それを聞いてアスカは思う。
(あんたが熱血馬鹿一直線なのよ。普通サインボードなんか使わないわよ)
そう思いながらも、アスカは口元を緩めていた。
「ほな、使わせて貰います」
トウジの眉がキリッとつり上がり、目にも真剣な光が宿る。

そのころシンジは1コーナーの減速ポイントに来ていた。
さっきのサインボードのことは、気にしないことにした矢先。
『聞こえてるか?!おい!おまえさっきから何やっとんのや!』
無線から聞こえてくる関西弁。シンジは応答できなかった。
ギヤを落とす最中なのだから無理もない。
『話は惣流から聞いた。今のお前はマックスに勝とうとしてるんやろ。
 そやけどな、お前がマックスに勝つ為だけに走るのを惣流が望んでると思うのか?。
 ・・・お前だってホントは分かってるはずやろ。
 マックスに負けたって構わない。ただお前にチャンピオンを取ってほしい。
 そう惣流が思ってることぐらい、お前なら分かってるやろ!
 さっきまでの惣流の走りを見ていてそう感じたやろ!
 お前が一番大きいトロフィーを見せるって言ったんはそう感じたからやろ!
 惣流の気持ちに答えようと思ったんやろ!!』
シンジは何も言わない。
ドライビングも忙しかったが、何より返す言葉が見つからなかった。
『それがなんや、今のお前は勝てないかもしれない相手から逃げて、
 勝てそうな奴だけを相手にしてる情けねぇ野郎や。
 惣流はな、ぶっ倒れるまで無理してお前を引っ張ってたんだぞ。
 全てはお前にチャンピオンを取らせるためや!
 それなのに肝心のお前が逃げてどうするんや!
 ・・・お前にはチャンピオンという称号は軽い物なのかもしれねぇ。
 だが惣流の望む物は判ってるんだろ。
 お前は好きな女の願いすら叶えられないチンケな男なんか!
 いいか!ここまでやったんだ!負けてもいいなんて死んでも思うなや!!』
トウジは思い切り無線を切った。
ここまで言ってまだその気にならないのなら仕方ない。
帰ってきたところでアスカの体の状態を知らせて2,3発殴るだけだ。
トウジは腹立たしさを押し隠し、モニターをジッと眺めはじめる。
アスカとマヤは、そんな当時の横顔に穏やかな視線を投じていた。


「まさか・・・」
カヲルの目に、4つの赤いライトを点滅させたマシンがグングン迫ってくる。
明らかにカヲルに迫ってくる白いEG-M。
「信じられない。今の僕はシンクロ率を大幅に上げて走っている。
 なのに何故追いついてこれるんだ!」
3コーナーを立ち上がった所でカヲルのマシンに追いついた白いEG-M。
明らかに勢いに勝る白いマシンは次の右巻きの4コーナーでカヲルのインに
滑り込もうとマシンを動かす。
「そうは行くか」
カヲルはブロックに入ろうとしたが、
カヲルのマシンがインコースに動き出すと同時に白いEG-Mは急激に加速、
カヲルの空いたアウト側にマシンを移動させた。
「馬鹿な!加速と反応が早すぎる!」
全てがアッという間の出来事。カヲルが気づいたときには白いマシンは真横にいた。
しかしインコースを押さえていたカヲルはブレーキを堪え、
何とか白いEG-Mを押さえきった。
更に機会をうかがうようにマシンを左右に動かす白いマシンを
バックモニターで眺めるカヲル。
「・・・やはり彼女は・・・僕と同じ力を有しているのか・・・。
 でなければこのパフォーマンスはとうてい理解できない」
神経を張りつめているカヲルですらこの有様。
普通のドライバーなら抜かれるまでそのマシンの動きをつかめないだろう。
それほど白いマシンのレスポンスはズバ抜けていた。


『トウジ・・・だよね?』
シンジの声が、インカムを通じてピットに送られてきた。
トウジは別に聞きたくはなかったがマヤからトウジとアスカにも
インカムを渡されていた手前、渋々聞くことになった。
『確かに君の言う通りだよ。僕は全てを理解した上で、楽な方に逃げた。
 もう逃げないって決めたのにね・・・。マヤさん?』
『何?シンジ君』
『僕のバックモニターの回線をカットしてください。もう後ろは見ない。
 チャンピオンを取るために前だけを見つめて走る』
トウジとマヤは顔を見合わせて、ニコリと微笑む。
『分かったわ。しっかり、シンジ君』
まだシンジの視界には白いマシンとグレーのマシンは見える。
(僕にはチャンピオンなんてどうでも良い・・・
 でも僕がチャンピオンになることを望んでる人がいる。願ってる人がいる。
 彼女の願いを叶えたいから走るんだ。喜ぶ姿が見たいから走るんだ!)
追いつけるかどうかは分からない。
だがシンジは自分の出来ることをやって駄目なら仕方ない。
やらずに後悔するより、出来ることをした、その後で後悔する結果になったとしても
やらなかった時よりはましだ、と思った。
「見ててよ・・・アスカ・・・」
シンジの視界に写るバックモニターが切れた。
シンジの目に写るのは少し先を走るカヲルと、レイのマシンのみ。
その目は鋭く獲物を見据えていた。


インフィールドセクションの最終コーナー、ディアブルコーナーを抜けるカヲル。
ここまで何とかレイを押さえてきた彼は、ストレートに入りステアバーを握りしめる。
「まさかここまでシンクロを上げているのに追いつかれるとは・・・」
カヲルはインフィールドの段階で
先ほどまでのブースターレベルまでシンクロを上げていた。
にもかかわらず、レイのマシンは離れるどころか逆に差を詰めてきた。
そして、レイのマシンがブースターをかけたのが、彼の目に見えた。
「仕方ない・・・もう限界まで上げるしかない。抜かれるわけにはいかないんだ・・・」


トウジは安心した。あれ以降のシンジは見た目にも走りが変わった。
前を走るカヲルに追いつくことは出来ていないようだったが、そんな事は二の次。
前向きに全力で走る彼を見るだけで、彼は満足だった。
「さて・・・と」
トウジは手に持て余したサインボードを座っているアスカの足の上に置いた。
「・・・何?」
しかし、トウジが彼女にマジックを握らせたところで、全てを理解した。
「最後になんか書いてやれや。最後の鞭を入れるのは惣流が一番や」
「でも・・・まだ・・・」
マジックさえ強くは握れないアスカの手。
トウジはそんな彼女の手を握ると、にこりと微笑んだ。
「なんて書くんや?。ワシが手助けしたる。
 サインボードを出すときもサポートするさかい何も心配することはあらへん」
そのやりとりを聞いていたマヤ。
「そうね、サインボードを出すのはアスカの仕事でしょ。
 今年最後の仕事、やってくれるわね。アスカ」
トウジの言葉、マヤの言葉。アスカはその言葉を受け、一度だけ頷きを見せた。


ストレートを通過し、バンクに入るカヲル。
「うぁぁぁ・・・」
カヲルの額の青筋から血の粒が縦に流れ、サーッと赤い線を描いてゆく。
カヲルの最大の武器であるシンクロ高低術。
だが度を過ぎればそのプレッシャーは彼本人にかかってくる。
体内の血液が沸き立ち、彼の毛細血管をブローさせ始める。
だが、シンクロを引き上げたことで彼のマシンは更なる加速に入った。
その光景と苦痛の声をモニターとインカムで知っていた織田ユウイチ。
「そう、お前にはもう後がないんだ。体が潰れるまで頑張るんだね。
 しっかりやれよ・・・カヲル」
そう言いながら、車椅子に座るユキに目を移した。
「彼女のためにね・・・フフフフフ」
含み笑いを浮かべる織田の言葉を彼女は聞いているのかいないのか、
身じろぎもせずに瞬きだけを繰り返して、ジッと前を見つめていた。

カヲルはシンクロを最大まで引き上げてストレートを走り抜けるが、
それでも、白いマシンはカヲルを捕らえて離さなかった。
「信じられない・・・何故だ・・・なぜこんな力が彼女にあるんだ!」
正直なところ、ここまでシンクロを上げているにもかかわらず追いついてくるレイ。
こんな事があるとは正直思ってはいなかった。
「だが、負けるわけにはいかない。残り1周・・・なりふり構ってはいられない。
 こうなったら・・・」
カヲルのマシンがホームストレートにくる。真後ろにレイのマシンが続く。
2つのコア音が、ピットウオールにもたれ掛かるアスカには1つの音に聞こえた。
そして、その音はどんどん大きくなってくる。その後ろから聞こえるコア音。
このコア音を聞いて、アスカの心臓が高鳴る。
(来た・・・)
アスカはジッと、小さく見え始めたシンジのマシンを待った。
「よし!出して!」
その合図とともに、トウジがアスカの手を支えながらサインボードをシンジに向ける。
彼女の耳にまず2台のコアノートが轟いたすぐ後、
もう1台のコアノートか通り過ぎる。アスカの顔はその音を追い続けながら、
小さくなっていく、シンジのコア音のする方をずっと眺めていた。
(がんばれ・・・)


1コーナーが迫る。カヲルの真後ろにはレイのマシンが続く。
カヲルは限界までブレーキを我慢している。
そして、半ブロックラインをトレースしてレイの出方を待った。
外から来るか、内から来るかどちらから来ても対応できるようにマシンを待機させた。
白いマシンがカヲルの右バックモニターに映った。
「インか!」
しかしそれはフェイントだった。
次の瞬間、鋭く左バックモニターに移動した白いマシンを見て
カヲルは何も考えずにマシンを左に寄せる。
もう加速状態に入っていた白いマシンはカヲルにコースから押し出される。
白いマシンの左タイヤから砂煙が立ち上る。
が、幸いマシンはそのままカヲルの真後ろに戻ることが出来た。
とにかく前に出さない。汚いと言われても構わない。
カヲルは白いマシンが動いた方にマシンを移動させるつもりだ。
こうでもしないとレイに抜かれると思った末の決断だった。
もうカヲルはほとんど前を見ないでバックモニターだけを眺め続けていた。
「後1周・・・殺されても抜かせるものか」
カヲルのブロックは執拗だった。ほとんどのコーナーでレイのマシンは
右に左にカヲルを抜かそうとマシンを振った。
だがその進路をことごとくカヲルが潰していく。

白いマシンの中でグッタリとしているレイの体。
彼女の体はコーナーごとに左右に振られる。
今のマシンは全てコアが仕切っていた。
全ての指令はコアが送り、シートに座るレイはただ何もしない。
4つのライトにあるカメラが状況を見て、コア内部の人格がマシンを操縦する。

カヲルのマシンはレイのマシンのすぐ前にいる。
ブロックラインをトレースするカヲルをアウトからかぶそうと白いマシンが右に動く。
だがカヲルのマシンも瞬時に同じ方向に動き、とにかく横にも並ぶことを許さない。
カヲルはそのままクリップを通り、4コーナーに入る。
レイのマシンはアウトにマシンを移動させて4コーナーに侵入、マシンを加速させて
カヲルの真後ろまでマシンが迫る。
次の5コーナーは左巻き。今回もインコースにマシンを移動させようとした白いEG-Mだが
完全にブロックしか頭にないカヲルの前に、どうしてもオーバーテイクできない。
ここまで激しくブロックしているお陰で、シンジとの差も一気になくなってきた。
「よし!まだチャンスはある!」
もう目前に迫ったレイのマシンとカヲルのマシン。
そして、恐らく真後ろにいるであろうマックス。
彼らは最後のディアブルコーナーを抜ける。
カヲルはここでディアブルコーナーのクリッピングポイントでブレーキを踏んだ。
レイのマシンも追突してはたまらない。減速を余儀なくされる。
「ここから行くぞ!」
カヲルは最後の力でシンクロ率を引き上げた。
急激に加速に入るグレーのマシンと同時に白いマシンもブースターを立ち上げた。
「く・・・さすがに反応が早い・・・」
ほぼ同時に加速に入ったレイのマシンを見て、カヲルは呟く。
というよりマシンからのプレッシャーで声が出なかった結果、呟きになっていた。
だが、ブレーキングで遅れた彼らより早く加速に入っていた
シンジのマシンはレイのマシンに並びかけた。
「よし、カヲル君もまだ伸びてない!行ける!!」
完全にカヲルの作戦は失策だった。
レイを牽制するあまり、ディアブルコーナーで減速させ過ぎた結果、
シンジに付け入る隙を与えてしまった。
「シンジ君?!しまった!!」
レイのマシンに並びかけたシンジのマシンを
認識したカヲルはブロックしようとマシンを右に寄せた。
だがシンジはブースターによる上積み加速により一気にカヲルの真横まで来ていた。
お互いのタイヤのホイルがぶつかり、火花が散る。
「くっ!駄目か!」
カヲルはマシンを引いた。
これ以上はクラッシュに繋がるし、抜かれるのは目に見えていた。
「ここまで来て負けるのか・・・
 これ以上のシンクロアップは僕がマシンに取り込まれる危険がある・・・
 だが・・・
 だが・・・・・・・やるしかない」
カヲルの瞳が光に包まれる。
歯を食いしばり、持てうる最高点までシンクロを引き上げた。
血管が浮き上がり、その筋はじわりと赤く染まる。
「くぁぁぁぁぁぁ!!」
絶叫と共にカヲルのマシンが一瞬だけ、赤い壁に包まれた。
その光景を見ていた織田ユウイチは勝利を確信する。
「馬鹿が、初めからそうしてれば良いものを・・・ハラハラさせやがって。
 ・・・お前の体が潰れようと私の知った事じゃないからね。 
 だが、これで勝ったな・・・これで君達も用済みかな・・・フフ」
織田ユウイチは冷淡な笑みを浮かべながらユキを眺める。
「な?!・・・なんだと」
織田はユキの顔を見て信じられないと言った面もちで彼女の正面に走りよる。
「こんな事が・・・」
織田の言葉の最中にもユキの目からは涙がこぼれ落ち、唇がワナワナと震えている。
何かを言いたいようだったが震えるだけで、言葉にはならなかった。
「こいつの意識は薬物で飛ばしている・・・もう2度と元には戻らないはず・・・
 それなのになぜ動いてるんだ」
そう言っている間にもユキは天井に据えられたモニターに向かい、
その顔を機械仕掛けの人形のようにゆっくりと向け始める。
この時初めて、彼女の口から声が漏れる。
「ア・・・ウ・・・ィ・・・チャ・・・・・・・」

マックスは離れゆく3台のマシンを眺めていた。
「今回は負けた・・・。だが・・・悔いはない
 後は思う存分タイトル争いをすればいいさ。だが・・・今のうちだけさ」

赤い壁に包まれたカヲルのマシンだが、彼を赤く包みこんだ光の壁はすぐに消滅。
次の瞬間、強烈な加速力でカヲルはシンジのマシンの真横に並びかけた。
「何でカヲル君がこんな!」
並びかけたカヲルを見たシンジは驚きを隠さない。
カヲルはストレートでは遅いはず、それにブースターもない。
正直、追いつかれるとは思ってなかった。
一方のチャンピオン候補レイはカヲルの真後ろピタリと付けていた。
あの急激な加速にも、レイのマシンは後れをとらなかった。
レイのマシンは彼らよりも加速し、カヲルのマシンに接触しそうな程、接近した。
だが抜くだけのスペースがない。目の前はカヲルとシンジが並んで走行している。
白いマシンは加速を中止し、カヲルの後ろで待機の構えを見せる。
カヲルは限界をついに越え、その加速力はシンジを捕らえると徐々に引き離していく。
「ここまでストレートで伸びるのか!何で今まで隠してたんだ」
そしてそのカヲルの真後ろにピッタリと付くレイ。
「綾波まで・・・ストレートじゃ僕が一番速かったはずなのに・・・」
シンジのマシンの横にレイの白い車体が見える。
「僕の方が立ち上がりじゃ速かったはずだ!
 全開で走ってるのに何で抜かれるんだよ!」
シンジはハッとしてシンクロモードのダイヤルを見る。
「そうだ・・・まだこれがあるじゃないか」
シンジはダイヤルに付いていたシールをはがし、ダイヤルを思い切り右に回した。
彼の目には、最後のトルネードバンクが壁のように映っていた。


第18話に続く

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