嘘じゃないわ、と少女は口にした。
ふるえる瞳の奥に、求めてやまなかった少年が映る。
嘘じゃない、と少女はもう一度口にした。
瞳の中で、少年が泣いた。
少女も、泣いた。
少女、少年 <第十六話>
空を覆う厚い雲のために、僅かにしか太陽の光が降ってこない。朝の天気が嘘のように、
今にも一雨来そうな空模様だった。
元より人気の少ないこの場所は、そんな様子と相まって、一層ひっそりとしている。十
字を模した碑が並ぶこの場所は、あの終末から戻ってこなかった人々を眠らせる役割を担
っている。
「皮肉たっぷりね。」
“葛城ミサト”と記された十字架に花を飾りながら、自嘲に近い笑みを浮かべて、アス
カはそう口にした。
かつて自らが、葛城ミサト、碇シンジと共に生活した“コンフォート17”というマン
ションの跡地に作られたこの墓地を、アスカ自身がその目に見るのは初めてだった。アス
カがドイツへ送還された後、コンフォート17は取り壊され、その後この場所が墓地にな
ったと言う話はドイツを出る前に聞いてはいたが、流石にそれを目の当たりにすると、言
いようのない感情が浮き上がってくる。
何もなく平坦な大地に、ひたすらに連なる墓標の群。
幾度見上げても、あのマンションはこの場所には無い。
あっさりと、懐かしい記憶は塗り替えられてしまう。何度も思い出したこの場所も、何
度も夢見たこの場所も、たった一瞬の現実には敵わない。寧ろそれは悲しさを通り越して、
滑稽な程だ。
もう、10年になる。
泣きわめくだけの子供だった自分が、この場所で明日に絶望して、そして明日を生きる
ために再び顔を上げてから、もう10年。
嫌いだった人間を好きになって、そして明日を願ったあの日から10年が経つ。母にな
り、科学者になり、そしてまた絶望に打ちひしがれた日々の一端。
この場所で何かを見つけて、ひたすらに走った。そして立ち止まって足下を見つめてる
今、ただ僅かにそこに見え隠れする想いの、本当の意味が知りたくて、自分はやって来た
のだと思う。
墓標の上で、パチッと水滴が弾けた。ぽつぽつと赤茶けた大地が変色を始める。何とか
持ちこたえていた空が、どうやら我慢しきれなくなったようだ。
「ここに私の名前もあれば、楽だったのにね。」
最後に一言だけ零した後、アスカは待たせていたタクシーに戻るために、踵を返した。
強く、雨が降り始めた。
「何ぼーとしてるねん。」
ケンスケがコップを拭きながらの姿勢で固まっているヒカリに、そう声を掛けた。
「あ、ごめん。ちょっと、考え事してた。えっと、雨凄いね。」
ヒカリはどこか気の抜けた様子で答えた。
ウィンドガラス越しに見える街並みは、今朝の快晴が嘘のように、街を激しく打ち付け
る様な、そんな雨にさらされていた。すっかり街並みが雨煙に霞んでしまい、街を行く人
の気配も少ない。
久々のまとまった雨。
ここ数週間の間にすっかり干からびてしまった街が、猛烈な勢いで生気を吸い取ろうと
しているようにも見える。
「それにしても久々の雨やな。しかし、コロッと天気変わってもうたな。天気予報通りや
けど、ここまで凄いとはなぁ。」
トウジはカウンターの奥の端に背を預けたまま、窓の外の景色を見ながらそう答えた。
昼の時間も過ぎ、外の天気も災いしてか、店の中に客の姿はない。先ほどまでサラリー
マンの常連客がカウンターにいたのだが、それが帰った後は、新しい客が入ってくる気配
はなかった。
「暇やなぁ。もうちょい客きてくれな、せつななるわ。」
「この天気じゃ仕方ないわよ。昼間はいつもと変わらなかったから良しとしないとね。さ
て、明日の仕込みでもしておこうかな。」
ヒカリは一通りグラスを拭きあげると、流しの下からタマネギを取り出し、その芯を丁
寧にくり抜いた。表層に軽く包丁で縦目を入れる。そこから一番外の皮をはがし、剥き身
になったタマネギをまな板の上で二つに割った。そしてゆっくりと、それを刻み始めた。
とんとんとん、と小気味よい包丁の音が店に響く。
「なぁ、ヒカリ。」
トウジは暫しの間はその様子を眺めていたが、少ししてヒカリに声をかけた。
ヒカリはその声に反応して、包丁を一端止めて、顔を上げた。
「惣流へのメール、あれ、返事来たんか?」
どこか少しだけ、くぐもった声だった。
ヒカリはその質問を苦い表情で受け止めてから、小さく首を横に振った。
「そうか。」
トウジは乾いていた唇を軽く舌でなぞってから、こめかみの辺りをぽりぽりと掻いた。
「何で、そんな事聞くのよ?」
「え、あぁ、いや何か悩んどる様子やからな。惣流からの返事でも来たんかな、と思うて
な。」
「残念ながら返事はまだ無いわよ。それにアスカにも理由があると思うから、もう少し待
つつもり。それでも駄目なら、もう一度メールするわ。」
「そうか、まぁ色々あるわな。」
「うん。」
寂しそうヒカリは軽く微笑んでから、また視線を落として包丁を動かし始めた。
トウジは視線を窓の外に戻した。
真っ白に煙る街並みを見ながら“惣流からの返事がヒカリを悩ませる”という自分の思
考の短絡さに少し後悔していた。それも、何かを考えた末に出てきた答えではなく、至極
当たり前に、さらりと言葉の表面に現れて流れ出た、それに後悔していた。
時間が経つということは怖いことだ、と思う。少なくとも安息の場所に身を置くと身勝
手になる。だから、自分たちはこの場所から動かないのだろう。水面が風で揺れることさ
えも良しとしない、そんな身勝手さと引き替えに、自分たちはこの場所を守っている。
「ねぇ、トウジ。相田大丈夫かな?」
窓の外を見つめたままのトウジの背に、今度はヒカリが声を掛けた。
「なんや突然。なんかあったんか、あいつに?」
トウジが怪訝そうな表情で振り返った。
「あ、うん、大したことじゃないけど。」
「なんや、もったいぶらんと言わんかい。何かしでかしたんか、あの馬鹿?」
「もう、馬鹿は余分でしょ。別に何かしたわけでもないけど、“今度も中東だ”って話し
てたから。最近多いでしょ、相田。」
ヒカリが包丁をまな板の上に置いて、エプロンで両手を軽く拭いた。
「言われてみれば確かにそうやな。でもまぁ、ヤツの趣味みたいなもんやからな。ライフ
ワークとか言うヤツちゅうんかいな。」
トウジはさも当たり前のように、サラリと答えた。
「でもね、ひょっとしたら命も危ないような所じゃない。それを趣味とか、そう言う風な
事で片付けてしまっても良いの?」
「人間好きなことをやってるんが一番やからな。命掛けても良いモノがあるんやろ、そこ
に。あんまり難しゅう考えるなや。あいつが今やりたいことを自分でやってるだけや。わ
しらが、どうのこうのと言う事とちゃうで。」
トウジはカウンターの中のヒカリの方に、体を返した。
トウジの靴が椅子の足に当たって、少しだけ地面を引きずるような鈍い音がしたが、店
の外から伝わってくる雨音が、それをすぐに消し去った。
「でも、それでもし相田に何かあったらどうするのよ?親友でしょ?ちょっとぐらい心配
してやったらどうなのよ。」
「親友ちゅう言葉はむず痒いけどな。なぁ、ヒカリ。心配はしとる。正直“行くな”と思
っとる。でもな、決めるのはケンスケのヤツで、ケンスケがやりたいことをやればええん
や。」
「その“行くな”って言葉を言ってあげるのが、友達なんじゃないの?」
ヒカリは少しだけ語気を強めて言った。
「なんや、今日はやけに噛みつくなぁ。あのな、昔何度か“行くな”とは言うたわ。でも、
言うこときかへん奴や。妙に頑固やしな。“好きでやってる”って言われたら“しゃぁな
いな”と思わなあかんやろ。何や、二、三発殴って“俺を倒してから行け”とかドラマチ
ックにやらなあかんのか?」
トウジ苦笑混じりに答えた。
「本当に“好きでやってる”と思ってるの?もっと他に理由があるんじゃないか、とかそ
ういう風には考えたこと無いの?」
「なぁ、ヒカリ。お前がなんで怒っとるんかわからん。が、ケンスケの件に限れば、無い。
一度もない。これから先もきっと考えへん。ケンスケは好きなことやからやってる、それ
以上の事は無い。」
トウジは今までで一番力強く、そう口にした。
ヒカリはトウジの答えを聞いて、寂しそうに小さくため息を付いた。そして暫くしてか
ら、軽く頭を振って見せた。
「ケンスケが危ないところ行くのも、いつもと変わらんことやろ。それを今日は一体なん
やねん。この前ケンスケが店来とったみたいやけど、なんかあったんかいな?」
トウジがゆっくりと、少しだけ怪訝そうに言った。
「別に何もないわよ。あんたは本当に何も分かってないんだなー、と思っただけよ。」
ヒカリが尖った様子を隠さずに、そう言い放った。そして露骨に大きく一つため息をつ
いた後、再びタマネギを切る作業を再開した。
トウジはその様子に少しだけ驚いた表情を見せたが、小さく肩をすくめて見せ、また踵
を返して窓の外に視線をやった。
『アホほど降りよるな。』
窓の外の雨は、弱まる気配を見せないでいる。寧ろ雨足はより一層強くなるばかりだ。
歩道を越えて向こうにあるはずの車道を行く車さえも、もう正確な形が掴めないほどに、
雨煙に飲み込まれている。ここまで来ると、滑稽なぐらいの雨だ。
トウジはぼぅっと、そんな事を考えながら暫く窓の外を見つめていた。が、頭の端に少
しだけ引っかかっていたモノを出そうと、深く長い瞬きをした。
「そうや、ヒカリ。一つだけ言うとくけど、シンジに聞いてもわしと同じ事を言うはずや。
だからそんなくだらん事は、シンジには聞くなよ。ええな。」
トウジは振り向かず、自分の背の向こうにいるヒカリにそう言葉を掛けた。
「え、」
ヒカリの手元で、リズミカルに繰り返されていた包丁とまな板の音が、そのトウジの声
を聞いてぴたりと止まった。
「シンジには聞くな、と言うとるねん。」
「どういう事よ、それ。」
「聞いても無駄やから聞くな、ちゅうとるだけや。馬鹿やからな。」
トウジは少し尖った声で、言葉を返した。
「何が言いたいのよ。ちゃんと分かるように言いなさいよ。」
「それだけや。この話は終わりや、終わり。もうええやろ。お前にキーキー言われたら、
この雨みたいに、気分が滅入るわ。」
最後は吐き捨てるように、トウジが言った。そして窓の方を向いたまま、一度後頭部の
辺りの髪を撫でつけるような仕草をした後、胸の前で腕を組んだ。
ヒカリはトウジの言葉に、更に何か返してやろうかと思ったが、取り付く島のないその
様子に、話を続けても余計に気分が悪くなるだけだと思い、それ以上言葉を続けることを
止めた。
そして無言で、仕込みの作業に戻った。
いつもより少しだけ、包丁がまな板を叩く音が強くなった。