古人はこう詠んだという。
緑蟻新醸酒
紅泥小火爐
晩来天欲雪
能飲一杯無
私もそれに倣って酒を飲もう。
ここには残念ながら、酒を酌み交わす友も居なければ、心と躰を温める暖炉もない。
おまけに窓の外を眺めても雪すら降っていないという、詩の情景とはまるで異なる風景が広がっているが、それでも酒が人類の友として親しまれていることには変わりはない。
私は窓の外に広がる無窮の光景を前に酒を飲み始めた。
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雪見酒
書いた人 中川 淳
「またお酒ですか?」
そんな私の感傷を吹き飛ばすように、最高のタイミングで声が飛んできた。
その声は、年の頃30前後の男のもので、私の健康を案じている、という響きが混じっている。
もちろん『私の健康を案じている』というのは私の気のせいだろう。
私がいなくなれば彼も困ることになるし、私の健康を維持することも彼の仕事のうちではあるので、ある意味『案じて』はいるのだろうが、私が考えるような意味では『案じて』はいないだろう。
何しろ『彼』はコンピュータなのだから。
「お酒も結構ですが、程々にしませんと体に毒ですよ」
再び彼の忠告が入る。
人が詩を詠みながら古人に想いを馳せているというのに、全く無粋きわまりない奴だ。
折角の気分がそがれた私は、封を切ったばかりであるが酒を机の上に戻した。
もちろん普段はこんな勿体ない真似はしないが、彼に対する当てつけも込めてそうやった。
すると案の定、すぐに言葉が飛んでくる。
「危険ですから、すぐに冷蔵庫にしまってください」
もちろん言われなくともそうするつもりだ。
しっかりと固定しなかった酒は、早くも机から離れぷかぷかと浮いている。
そう、ここは一番近い恒星からたっぷり2光年は離れた宇宙空間。
とうの昔に慣性航行に入った船の中は無重量状態だった。
かくいう私も、マグネット式のブーツのお陰で床――と言っても、便宜上「床」と呼んでいる面――にくっついているだけだ。
私は宙に浮いている酒を捕まえると、冷蔵庫にしまった。
「まったく酒くらい自由に飲ませてくれよ」
とりあえず彼に向かって声を掛ける。
とはいえ、目の前にいるわけではないのでどうも雰囲気に欠ける。
私一人だからいいものの、誰かに見られたら一人で喋っている怪しい人間そのものだ。
まあそれを避けるため――だけではないのだろうが――ホログラフィーを投射する装置もあるらしいが、むろんこのボロ船にはそんな大層な装置は積んでいない。
第一、会話をする相手としてはやはり生身の人間が一番だ。
「酒は思考能力を低下させ、ミスが発生する原因となります」
相変わらず真面目くさった台詞をはく。
もちろん、この船の航行、管理、通信その他諸々は一切彼が仕切っているので、不真面目では困るわけなのだが。
その点では私と好対照と言える。
私は自分の不真面目さを認めることに関して、全くやぶさかではない。
あるいは、真面目であってはこの船の乗組員は務まらないとも言える。
なにしろ先ほど言ったとおり、船の運航に関する一切合切は彼が取り仕切っている。
はっきり言えば、途中は眠っていても――実際に「冷凍睡眠装置」で眠っているわけだが――無事に目的地まで到着してしまう。
その間の私の仕事といえば、船内時間で30日に一度の定期連絡の時に起こされて連絡するだけ。
それをしてしまえば、空いている時間は何をやっていても良い、というわけだ。
もちろん一人で出来ることなどたかが知れているので、大概すぐに眠りについてしまう。
正直に言って、私がいなくてもこの船は動く。
ただ想定外の事態――事故や故障、取引の延期など――に備えるために、さらには荷物の受け取り・引き渡しの確認のために乗り組んでいるようなものだ。
「お酒の代わりに、水ではいかがですか?」
「水なんか飲んで、何が楽しいんだ?」
たまにこういうことを言い出すから、やはり人間とは違う、と再認識してしまう。
人間なら分かってくれると思うが、何も喉が渇いて酒を飲んでいるわけではない。
それ以外の理由があって、酒を飲んでいるのだ。
私だって喉が渇いたときには水を飲む。
なにしろ酒には限りがあるが、水ならばほとんど無尽蔵と言っていいほど積んでいる。
ちょっとばかり説明が遅くなったが、この船は輸送船だ。
各星系の特産品を仕入れ、宇宙を股に掛け売り歩く大商人。
・・・と言えればよいのだが、実態はそれと正反対だ。
なにしろこの船の荷物は1種類。
しかもその荷物とは・・・水。
そう、重水でもなんでもない、本当にタダの水だ。
より正確に言えば凍らせて運んでいるわけなので、氷を運んでいると言った方が良いのかも知れないが。
ただ、少しばかり普通と違うと言えるのは、その量だろう。
氷の質量は300Tg、古典的な言い方をすれば300Mtということになる。
何故こんな物を運んでいるかと言えば、この宇宙には人類が足跡を標した恒星系はそれこそごまんとあるわけだが、その中には氷に覆われている衛星もあれば、からからに乾いた惑星もある。
そんな星から星へ水を運ぶのが私の商売だ。
持っていった星の住人には感謝されるし、私の懐も暖まると、一石二鳥の商売だが、欠点がないわけではない。
何しろこの荷物、g当たりの単価はまさしく泣きたくなるくらい安い。
かと言って値上げなぞしようものなら、からからに財布まで乾いてしまった星の住人にはとても買えないものとなってしまう。
お陰でボランティアに近いようなこの仕事だ。
まあその結果、競合他社がいないという利点もあるわけだが。
「では、酒を飲んで何が楽しいんですか?」
「ああ、それはだなぁ・・・」
中々きついところを突いてきた。
実を言えば、酒はあまり強い方ではない。
おまけに一人で飲んでいるとペースが掴めず、飲み過ぎてしまうこともある。
私の状態は常にモニターされているので、酩酊状態に陥る前には彼が止めてくれるのだが、翌日になって後悔することも少なくない。
「ほら、詩人も詠んでいるじゃないか。雪を見ながら飲む酒は格別だって・・・」
私は苦し紛れに先ほど読んでいた本の中の詩を思い出してそう答える。
・・・確かそんな内容の詩だったはずだ。
「雪など降っていませんが」
「・・・」
鋭い指摘だった。
私は何も言えず黙り込んだ。
もちろん雪など降っているわけはない。
それどころか、コロニー育ちの私は雪が降っている所など、環境映像の中でしか見たことはない。
星一面を覆う大氷原、と言った特殊な光景ならば山ほど見ているのだが。
「まあ、ともかくだ。酒を飲みたいときもあるんだよ」
「そうですか」
私はそう言って話を締めた。
これ以上突っ込まれても、私が困る。
もちろん漫才機能などを搭載していない彼が、さらなる突っ込みをしてくる心配など無かったのだが。
それからは気分転換もかねて、久しぶりに仕事をした。
だが積み荷である氷の塊に比べ、船自体はさほど大きくないため点検などをやってもたかが知れている。
おまけに最近の船はどんどんブラックボックス化していて、私程度の技術では壊れた部品を丸ごと交換するぐらいしかできない。
2時間もすればすることも無くなり、再び居住室に戻ってきた。
そうして、飲みかけだった酒を飲もうとしたとき、またも彼が声を掛けてきた。
「外を見てください」
彼がこんな事を言ってくるのは珍しい。
とは言っても、口振りからして故障というわけでもないようだ。
とりあえず居住室に一つだけある小さな窓のブラインドを上げ、覗き込んだ。
「・・・何も見えんぞ」
窓の外では何十日もその相対位置をほとんど変えない恒星が光っていた。
まさかこんな物を見せたいわけではないだろう?
そう思っていると、再び彼から声がかかった。
「失礼しました。人間の方には見えないんですね」
突然船内の明かりが消えた。
私は驚いて彼に原因を尋ねると、それには答えず、外を見てください、とだけ繰り返す。
いったい何なんだ?
ぶつぶつ呟きながら外を覗いた私の目の前に広がっていたのは、雪だった。
星々の微かな光を受け、雪が輝いていた。
「100gの水を霧状にして放出してみました。雪とはこれでいいんですか?」
そんな彼の質問に答える余裕もなく、私はただただ見とれていた。
おそらく霧となって放出されたときの角運動量を保ったまま回転しているのだろう。
背景の星々にはない煌めきを持って『雪』は輝いていた。
それは、私が今までに見たどんな雪よりも美しい『雪』だった。
「酒が美味しいですか?」
気が付くと私は酒を持ったままだった。
徐々に船から離れていく雪を見ながら酒を一口飲んでみた。
「最高だ」
私は心からの讃辞を込めて、グラスをもう一つ用意した。
おしまい
あとがき
冒頭の詩は、唐白居易の「問劉十九」という詩です。
意味としては、
醸したての酒には、緑の蟻と見える酒滓が浮かび、紅の泥で築いた炉には、ちょろちょろ火も燃える。
暮れ時ともなって、雪催いの空。
酒も炉も君を待つ。
一杯飲みにやって来られませんか。
(中島 敏夫訳)
というものです。
まあ、酒飲みにとっては花より団子ならぬ、雪より酒ということですね。
なお、詩の中で使用している漢字については、使用できる漢字の関係で一部原典と異なります。
その点、ご了承下さい。
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