第八章「躍動」

 

 
 
 
 

 レア帝国特使のハインネルは、我を通すことも出来ず、艦隊司令であるルータ
スの手前、要求を引っ込めるわけにもいかず、苦慮していた。
 ウェルフェン公国に対する要求は、四箇条からなっていた。
 第一に、ウィレム大公を支持すること。
 第二に、毎年五〇万リーブルをレア帝国に納めること。
 第三に、ハーン港への無条件寄港権をレア帝国の船にみとめること。
 第四に、半島先端にあるテュラム港の永久租借。
 この書状を見せられたとき、フェルディナントは激昂して、正確には激昂した
ふりをして、誰が制止する間もなく、それを破り捨ててしまった。
 彼は一見、穏和な老紳士であった。ハインネルとしても、甲冑を鳴らし長剣を
腰におびている輩との話し合いよりも、フェルディナントのような風貌の男と交
渉するほうが、はるかにやりやすかっただろう。だが、その期待はみごとに裏切
られた。
 つづけてフェルディナントはこう言ったものである。
「貴殿を斬り、貴国の艦隊と一戦交える」
 ハインネルは元来が小心な男である。蒼白になった。戦うのは、むしろ望むと
ころであった。指揮官の実績や兵力差などから考えて、軍事に素人である彼には、
自軍が勝つとしか思えなかった(玄人でもそう思っただろうが)。しかしそれ以
前に自分が殺されるなどまっぴらである。
 しかしそれでも彼は一国の大官である。昂然と胸をそらして、言った。
「私を殺せば、湾外の艦隊が、いや、全帝国軍が黙っておりませぬぞ。フェルディ
ナント卿は聡明な方とみえる。力の差というものを、ご理解いただけるでしょう」
「ふむ」
 フェルディナントは考えるふりをした。
「それでは、わがウェルフェン公国が滅びる様を、天上からじっくりとご覧にな
っているがよい。ひょっとしたら、ルータス卿や貴国の皇帝陛下も、それをこそ
望んでおられるかも知れぬ。レア帝国の忠臣たる貴殿としては、本懐でしょうな」
 そう言って剣を抜いた。
 もはやハインネルは失神寸前であった。
 利と理を尽くして説得しようとしたが、無駄であった。フェルディナントは、
むろん本心で言ったわけではないが、その言葉はハインネルの肺腑につき刺さっ
た。自分が捨て石に過ぎない、という可能性を、ずばりと指摘されたのである。
 その日以降、ハインネルは、あてがわれた宿舎において軟禁状態に置かれ、ま
た彼自身それを幸いとしたようなところがあった。このまま帰って、ルータスを
はじめとする武官たちに冷笑を浴びるのは、耐えがたかった。といってこれから
また、あの食えない男と交渉を続ける気には、さらになれない。結局、フィンセ
ントの一行がハーンに到着したとき、交渉はなんら進展をみせず、また、湾外で
も、アーガイルとルータスとは硬直したように睨みあったままであった。
 

「兄上が!?」
 アーガイルは驚いた。他の群臣も、また同様であった。フィンセントが帰って
きたということにまず驚き、前後の事情を知らされてさらに驚いた。フィンセン
トが冤罪に問われ、あわや刑殺されるところだったというのである。怒り狂う者
もあり、情けなさに身を震わす者もあったが、彼らは一様に、ある覚悟を決めた。
国王のいない王都に、忠誠を誓う理由なし! と。
  この時点で、彼らの眼中から、一時的であるにせよ、レア帝国の脅威は除かれ
ていた。アーガイルがついに陣頭から離れ、陸地にもどってフィンセントをむか
えたのも、その心理と無関係ではないだろう。
 どうして突然の帰着か、といぶかる群臣に、フィンセントは、この若き当主は
告げた。レア帝国軍が、ウェイルボード宰相フォンデルの教唆によって動いてい
るであろうこと、したがって王都の正規艦隊はあてにならぬこと、のみならず、
それが完全な敵にまわる可能性があること……。
「そ、そこまでやるのか!」
 そううめいた者があった。余の者も、同じ思いであったに違いない。
「で、どうなっているのだ、状況は」
 フィンセントが尋ねた。周囲の者が事情を話すと、今度はフィンセントが驚く
番だった。
「にらみ合いだと? 一戦もせずにか?」
 かれこれ一五日になります、と、いそぎもどってきたアーガイルが言った。
「帝国軍が狙うのはまず海峡の封鎖だろう、と思いました。陸軍を無傷で上陸さ
せ、ルータス卿みずからが侵攻の指揮をとるためには、そうするのが彼らにとっ
て最上の手だろう、と」
「そうだろうな、私でもそう思う」
「まずわが軍は、間一髪ではありましたが敵の機先を制することまではできまし
た。ともかく外洋で敵を視野におさめ、上陸をふせいだ。しかし」
「しかし、あのルータスが、そのていどで消極的になるわけはない」
 アーガイルの台詞を先取りするように、フィンセントが言う。
「そのていどの者が指揮をとっているのならば、わが軍はとうに勝利しているだ
ろう」
「兄上のおっしゃるとおりです」
「どう思う、フェルディナント?」
 フィンセントは、このもっとも信頼する一族に意見をもとめた。
「帝国の特使ハインネル卿の存在が、彼らの動向を掣肘しているのではないかと
思われます。交渉がすすまぬとはいえ、現状で彼はわが国の人質同然。ルータス
卿といえども、特使を見殺しにするわけにはいかぬでしょうから」
「……それはわかる。だがそれだけか?」
「フィンセント様……あ、いえ、殿下」
 声のしたほうを見ると、フィジックがいた。二〇〇〇の陸兵をひきいてハーン
の市街防衛にあたっていたが、海軍の迅速な行動によってただちに上陸される心
配がなくなったということで、フィンセントが帰着したこともあり、この城に出
向いていた。
「フィジックか、なんだ」
 フィジックは驚いたような顔をした。一年の九割を王都で過ごしていたフィン
セントが、いかに公国軍の大幹部であるとはいえ、軍事行動以外では王都はおろ
か公国領から一歩も出たことのない自分の顔などを、覚えているとは思わなかっ
たのだ。
 だが、驚いている場合ではない。
「閣下のおっしゃるように、フォンデルの教唆によって帝国軍が侵攻してきたの
ならば、敵が持久戦に入るのは当然のことではないでしょうか」
「なに?」
 マールテンがフィジックを睨んだ。フィジックは陸兵隊の大幹部とはいえ、ま
だ若い。マールテンからみたら小僧である。だがフィジックはマールテンには視
線を一瞬むけただけで、
「つまり敵の、本来きわめて危うい補給路を、王都の西海艦隊が守っているわけ
です」
「なるほど。しかしそれだけでは不充分だ。そなたの論法では、敵は持久戦にも
ちこんでも戦える、といったていどのことでしかないぞ」
「いえ、この変事で、わが公国の艦隊はハーンの沖に張り付き、陸兵も続々とこ
のハーンに向かっております。その命を出したのはソルスキア総督と私ですが」
「何が言いたいのだ、おぬし……」
 言いかけて、アーガイルが愕然とした。ついでフィジックの言わんとすること
に気付いたのはマールテンである。顔からは血の気が引き、白い髭をふるわせて
いる。対してフィンセントは表情を変えない。フィジックの言うことは、王都を
退転してこのハーンに向かいながら充分に考えていたことだった。
「おわかりいただけましたか」
 と言うフィジックの顔も、青ざめている。自分で考えたこととはいえ、そら恐
ろしい想像であったのだ。が、まだ座の半分以上は何のことやらわからずにいる。
「この機をねらって宰相の軍が北上してくる、というのですな?」
 と、これはフェルディナントである。
「……」
 フィジックは黙然とうなずいた。フィジックが黙るのと反対に、座は騒然とな
った。もしフォンデルがその息のかかった軍団を北上させてきたら……南北から
挟撃されるかたちになり、まちがいなく公国はやぶれ、ほろびるだろう。
「……だが、それはない」
 と、フィンセントに随行してきたベルーラが言った。
「すでに教会一派は彼に敵対し、近衛兵団までもが離反しかけている。そのよう
なフォンデルが王都を空になどできぬ」
 正論である。だが、どのていどの意味をもつだろうか。フィンセントはベルー
ラが言ったこの正論をまったく信じてはいなかった。どのような動機でそれほど
テュール家を憎むのかは知らぬが、ともかく北部三州をまるごと南国の餓狼に売
りとばそうとした男だ。教会と一時的に講和するていどの奇術は弄するのではな
いか……?
 教会、というより大主教フレストに好かれる理由を、テュール家はもっていな
い。彼がテュール家をフォンデル以上の脅威とみなすのならば、一時的にせよフ
ォンデルと手を取り合う可能性も絶無とはいえないだろう。
 彼の恐怖と不安は、確実に群臣に伝染した。表面的にでも泰然とした顔をして
いるのはフェルディナントくらいのものである。
「私が交渉にあたる。このままではらちが明かない」
 開戦にせよ講和にせよ、結論を急ぐべきだ。フィンセントはそう思い、確信し、
口にした。
 ここに、アーガイルの樹てた戦略は修正を余儀なくされた。長期戦に持ち込む
利点が無に帰した、とぴうよりも害のほうが大きくなったのである。にわかに修
正する以上、政治面において最上位にあるフィンセントが策をたて、また交渉に
あたるのも、当然のことであろう。アーガイルやフェルディナントはあくまで実
務家である。口をはさむ余地はなかった。
「むろん、アーガイルよ。ことが実戦に及んだときには、私は一切口出ししない。
お前の宰領に任せる」
  言うまでもないことだったが、フィンセントとしては、言わぬわけはにいかな
いことであった。弟から権限を取り上げたような印象を与える訳にはいかなかっ
たのだ。群臣に対しても、眼前にいる弟に対しても、である。
 テュール家当主にして、第一七代ウェルフェン国公たるフィンセント卿。
 このきらびやかな肩書きを持つ若者が訪ねてきたと聞き、ハインネルは驚いた。
フィンセントはまだ公爵嗣子にすぎぬ身分だと聞いていたし、王都から動けぬ状
態にある、という報告を受けていたからである。
 ともかく、向こうから交渉を望んできた以上、受けねばなるまい。フィンセン
トの器量や才幹は未知数だが、まだ若いと聞く。あのフェルディナントほどでは
なかろう……。
 というハインネルの期待は、一割ほど応えられ、九割方裏切られた。
「貴公を解放します」
 のっけから、フィンセントは言ったものである。艦隊に戻るも、ここに留まる
も、自由にしてよい、と付け加えた。ただし、とさらに言う。
「ただし、今後の交渉は、軍総帥であるところのルータス卿とのみ、おこなうこ
とにします。わが国にとって貴公との交渉は、両国関係の改善につながらぬばか
りか、かえって時間を浪費し、状況を悪化させることになりますから」
 彼の交渉術は、フェルディナントのそれとは違う。交渉の場に拳や剣を持ち出
すのは、やむを得ない場合もあるが、できることなら、言説のみで解決したかっ
た。こちらの方が、ハインネルにとっては酷な提案だったかも知れないが、ハイ
ンネル個人の事情など、知ったことではない。
 ハインネルは、絶句した。フィンセントの予想通りの反応であった。
「ご不満なら、わが国の言い分を真剣に考慮していただきましょう」
 と、フィンセントは妥協案を示した。
  レア帝国は、四項目の要求を撤回し、艦隊を退く。その見返りとして、ウェル
フェン公国は、レア帝国が今回の出兵に要した費用の二分の一までを支払う。ま
た、レア帝国は、ウェルフェン公国と(ウェイルボードと、ではない)、相互不
可侵条約を締結する。期限は一〇年で、その都度両国の同意のもとで更新可能と
する。さらに、レア帝国の国籍を有する商用の船舶に対しては、国公の判断によ
り寄港許可を与えるものとする。
 ウェルフェン公国にとって、最大限の譲歩であった。無法に侵攻されたことを
考えると、屈辱的な、といっても言い過ぎではない。しかし、フィンセントには
確信があった。呑むわけがない、と。
  呑めない、と、ハインネルは思った。
 もともと今回の出兵は、ウェイルボードの内紛に乗じてウェルフェン公国を併
呑し、大陸の北部に足場を築くためのものなのである。しかも、それに積極的だ
ったのは、ルータスよりもむしろハインネルら「北進派」の外務官僚であった。
であればこそ皇帝も彼を信任し、特使の座をあたえたのである。これに調印など
して帰った日には、「皇帝の名を汚し、帝国の武威を失墜させた」として、よく
て更迭、悪ければ追放も処刑もありえる。その点、レア帝国は容赦がない。いか
なる大官といえども、である。特例として赦されるのは、強大な武力と財力を背
景に持つ門閥貴族、それに、皇帝と個人的な情誼で結ばれているルータスなど一
部の重臣や側近だけであろう。ハインネルは違った。彼は下級貴族の出であり、
その能力と実績とによって高位を得たのである。その信頼を裏切るような真似を、
皇帝とその側近は決して赦さないであろう。
「し、しかし、しかし……」
 という彼のうめき声を無視し、フィンセントは容赦なく続けた。
「これを受諾できない、とおっしゃるなら、先ほども申し上げたとおり、ルータ
ス卿に交渉権を譲られるか、それとも即座に一戦を交えるか。……さあ、ご返事
を」
「か、考えさせてはくれませぬか」
「考える時間は、たっぷりあったはずです。これ以上交渉を引き延ばされるのは、
そちらにとっても益がないでしょう」
 益がない、という言葉には、頷かざるを得ない。こうして過ごしている間にも、
艦隊にある武官たちの、ハインネルに対する信頼感はうすれていくのである。
 ハインネルはついに決心した。
「……私を無事に帰す、とのお言葉は真実でしょうな」
「むろんです。少なくとも、わが領内で貴公を害するような真似はいたしません、
いえ、させません」
  フィンセントの言葉に頷き、ハインネルは立ち上がった。ほっとしたような表
情が浮かんでいた。
「陸路をとられますか?」
 フィンセントのさりげない問いに、ハインネルは何度も頷いた。海に戻っては
命が危ないことくらい、百も承知である。フィンセントは微笑む。そして指を鳴
らし、騎士を呼んだ。
「アーガイルに知らせよ。即開戦せよ、と」
「御意」
 その会話は、ハインネルの耳には届かなかったが、彼とて愚鈍ではない。察す
ることが出来たであろう。それに関わらず、ハインネルは自室へと戻って、いそ
いそと荷物をまとめた。この時点で彼は、職務と祖国に対する忠誠心より自己の
保全を選択していた。ルータスの率いる艦隊がどうなろうと、すでに彼の知った
ことではなかった。さいわい、フィンセントらとの間に何の文書をかわしたわけ
ではない。重要なのは、生きて帰ることだ。生きてさえいれば、皇帝に対しても
なんとか言い繕えるだろう……ハインネルはなお、自身の弁舌を信じていた。

「勝てるでしょうか、公子……いえ、国公殿下」
 というヒドの単純な問いに、フィンセントは単純な答えを返した。
「勝つさ」
 驚いたような顔をするヒドに、さらに説明する。
「帝国軍は、兵力がすくない」
 嘘だろう、という顔をヒドはした。
「わが艦隊の倍ちかいのですぞ?」
「それだ。なぜそんな大軍を編成したか? レア帝国といえば陸軍力では最強だ
が、海軍力はウェイルボードに遠く及ばない。なぜそれほどの大艦隊を編成した
のか、いや、できたのか」
「……陸兵ですか」
 ヒドの答えに、フィンセントは満足げにうなずいた。
「そうだ。おそらくあの艦隊は陸兵を満載している。上陸作戦を敢行し、ハーン
一帯を占拠するのが可能なほどにな。ことごとくが無傷で上陸したとしての話だ
がな」
 そう言って、フィンセントは窓から、外洋と湾内とをひとしく一望できるであ
ろう丘の上を眺めた。ここからだとよくわかるのだが、公国が極秘で建造した大
規模な砲台群が見える。
「だけど、そんなことは不可能だろう?」
 ヒドも、安堵したように頷いた。
 この際心配なのは、長期の消耗戦に陥ることと、先ほどフィジックが言ったよ
うに、南方から宰相の命を受けた軍勢が押し寄せてくる、ということだ。公国は
瓦解するであろう。
(おれが宰相ならそうする。北に軍勢を吸い寄せておいて南から公国を撃つ。だ
が、あの宰相、そこまでやれるだろうか?)
 フィンセントは、ヒドに一隊をあたえて南方に送ることにした。宰相の心中ま
ではわからぬ。わからぬが、ともあれ精確な情報を得るために、さまざまな手を
打っておくべきであった。
 宰相にとって、あるいはこれは一種の時間稼ぎにすぎず、その間に王都にある
敵を粛清する腹づもりなのかも知れない。そうであれば公国は滅亡をまぬがれる
が、宰相の支配権はさらに強固になるだろう。
「ここまでは奴の掌の中か」
 忌々しげに、フィンセントは床を蹴った。
 

「遅いな」
 壮年の男が呟いた。
 レア帝国艦隊総旗艦「ラ・ルース」の艦橋である。レア帝国初代皇帝の名を冠
するこの船は、彼のために造られたものであった。
 男の名は、ルータス・デ・オルケスラス。生まれたときはただの「ルータス」
であったが、二八歳のとき、伝統ある侯爵家の当主となった。血によってではな
い。この船ともども、彼の才幹と武勲によって手に入れた、稀代の才能の証明で
あった。
「かの御仁では、荷が勝ちすぎたのではありますまいか」
 ルータスの幕僚が、唇の端をつり上げてそう言った。文官のくせに船上であれ
これと指図がましいことを言っていたハインネルに対する反感が、露骨にあらわ
ている。むろん、目の前にいる上官に対する阿諛も含まれている。
 ルータスは、表情を殺したまま沈黙している。そこへ、別の幕僚が進言した。
「閣下、敵艦の見える位置まで旗艦を進めてはいかがですか? 敵艦がせまるよ
うなら決裂、待機したままだとしても、ここで無為に日を費やすよりは、我が軍
の選択肢も広がりましょう」
「ふむ」
 とルータスはうなずいた。たしかに旗艦が後方にありすぎる。前衛の艦列が邪
魔になって、ハーン港はおろか、敵の状況さえ察知しにくい。
「よかろう。旗艦を前進させよ」
 ルータスは旗艦を進めた。と同時に旗艦を護衛する一〇隻ほどの小艦隊も前に
せり出していく。
 帝国艦隊は旗艦を前列中央に置き、整然たる陣形を組みなおした。
 望遠鏡をのぞき込みながら、ルータスはつぶやく。
「……薄いな」
 公国艦隊の陣容が、である。背後に海峡を控えているとはいえ、あまりにも横
に広がりすぎている。中央突破してくれ、といわんばかりだ。いったい敵将は何
を考えているのか。
「北海艦隊はウェイルボード正規艦隊よりも強いと聞いていたが」
「噂とは誇大につたわるものです、あの陣形を見るに、愚将としかいいようがあ
りません」
 幕僚の嘲笑を聞き流しながら、ルータスは艦隊に微速での前進を命じた。布陣
してからすでに一五日。すでに、ハインネルの交渉は決裂したと見るべきだろう。
そもそもハインネル自身は、「三日もあれば公国を戦わずして屈服させてみせる」
と豪語していたのだ。であれば、三日をこえた時点ですでに交渉に失敗したか、
あるいは害されたとみなしてもおかしくはない。
 この決断は間違ってはいない。フィンセントが交渉に乗り出す前であったら、
まだアーガイルは海に戻っておらず、したがって公国艦隊は無力、その背後の港
は無防備に近い状態であったからである。ルータスの決断しだいでは、順風にの
って、一挙に港を制圧することも可能であっただろう。
 かといって、ルータスはただの人間であるから、不可視の材料をもって未来を
見通すことなどはいうまでもなく不可能である。このことで彼を責めるのはいさ
さか酷に過ぎるだろう。ルータスに運がなく、アーガイルにはあった、それだけ
のことである。
 帝国艦隊は、ゆっくりと前進を始めた。順風であったが、それに流されないよ
う、あくまでも整然と、である。
 不意に、轟音が響いた。帝国艦隊から見て左手前方に小高い丘があるのだが、
轟音はそこから聞こえてきた。
  数瞬のうちに、海面が大きく隆起した。砲弾を撃ち込まれたことは、誰の目に
も明らかであった。それが二度三度と、否、ほとんど間隔をおかずに繰り返され
た。
「こんなちっぽけな国がこれほどの砲を装備しているのか!?」
 艦橋にいる誰かがうめいた。
 火砲は、稀少品である。レア帝国ですら、地上砲の数はまだまだ少ない。それ
がどうであろう。あらためて丘の上を見渡すと、三〇門を下らない数の大砲が、
艦隊を睨んでいる。誰も、はじめは気付かなかった。ルータスですら、地上砲の
存在を可能性としては考えていたが、それは陸戦に移行してからのことだろうと
思っていたし、まさかあれほどの数が一ヶ所に集中しているとは思いも寄らなか
ったのだ。
 それにしても、このウェルフェン公国を指して「ちっぽけな国」と言い放つと
ころにこそ、レア帝国の武人の慢心があっただろう。ウェルフェン公国に間諜を
送り込むこともせずにいきなり攻め入ったのが、その驕りの最たるものであった
。あの砲台の存在を知っていれば、ルータスでなくともこれほど安易に前進しよ
うとはしなかったはずである。
 が、そのことはルータスの責任ではない。また出兵にあたってもっとも積極的
で、自然、そのための環境をととのえる責任を負っていた外務総督府にしても、
あるいはウェイルボード王宮でさえ、想像もできなかったにちがいない。ハーン
は公国の首府ではあるが、港としての規模は王都ジュロンに遠くおよばない。王
都にもないほどの砲台群があったのは確かに不思議であっただろう。
 フィンセントの生まれる数年前、彼の祖父ジョルディが命じたこの砲台建設は、
ウェルフェン公国が代々たくわえてきた財の半ばを吐き出す行為であった。ジョ
ルディはその生涯を通じて濫費には縁遠い人物だったが、軍事面の強化というこ
とについては、開祖ノジェールもおよばぬほど強い関心を、壮年をこえてからも
つようになった。
 彼はよく「ノジェール大公はまことの英雄で、天才であられた」と、自分の遠
い祖先について語っていた。
「私は凡人だ。ヘンドリックにしても、少なくとも天才ではなかろう」
 凡人であるがゆえに、つねに危機を感じ、武備をととのえ、国をまもらねばな
らない。敵将の才能にかまってくれる武人などどこにいるか。それが顕貴の家に
うまれた凡人のつとめだ、と、ジョルディは財政難をさけぶ高官たちをさとした。
 が、「天才がいなくともが国を守れるように」という発想で造られたこの砲台
が、アーガイルという、テュール家が二〇〇年ぶりにもった天才の時代になって
役に立ったというのは、ちょっとした皮肉であるかもしれない。
「あわてるな! 砲弾はわが艦隊にはとどいておらぬ」
 ルータスは声を限りに幕僚を叱咤した。
「右翼を前進させろ! 右旋回で敵の左翼を突破する!」
 幕僚たちは、一様に驚いた顔をした。
「閣下、ここは……」
 と、幕僚の一人が言う。
「敗れたわけではありませぬ。いったん退いて、根気強く交渉を続けるべきと心
得ます。それに、ハインネル卿を見殺しにしたとなれば、皇帝陛下の逆鱗に触れ
るやも知れませぬぞ」
「たわけ!」
 ルータスの怒声が、艦橋に響いた。
「ここで逃げても、ハインネル卿を見殺すことに変わりはないわ! しかも言う
に事欠いて陛下の御名をもちだすとは何ごとか!」
「といって……」
 攻撃して勝つ成算があるのか、と幕僚は暗に尋ねた。
「不利は一時のことだ。敵陣は横に長く、奥行きに乏しい。また火砲は左からは
なたれている。右翼を突出させ、敵左翼を突破するのは容易ではないか」
 幕僚は頭を垂れた。常識であり、戦術上の基本でもあったが、突然の砲火によ
り、多くの者が恐慌を起こしていた。ひとりルータスだけが、冷静に勝機をはか
っていたのだ。
「しかし、右側の岬にも火砲が設置されていたら、いかがなさいますか」
 とたずねてきた幕僚があった。ルータスが応えて曰く、
「ばかもの、そのときこそ逃げるのだよ」
 艦橋に笑いがおきた。ルータスの不敗神話を形づくっているのは、彼の才幹と
いうのももちろんあるが、こういった、愛嬌というものが彼にはあったからだろ
う。
「心得ました。右翼部隊を先頭に前進! 右旋回で敵の左翼を突く!」
 幕僚がルータスの意志を簡潔に、旗艦の信号手に伝えた。
 艦隊は、ルータスの命令どおり、右旋回で進み、公国艦隊の左翼を的確に突い
た。すでに火砲の射程に入ってしまっているが、これほど接近すれば砲は沈黙せ
ざるをえまい。
「閣下、白兵戦にうつりますか?」
「うむ」
「総員、白兵戦用意!」
 剽悍さではならぶ者のない、レア帝国陸軍の兵士たちが、甲板に立った。

「………」
「若!」
 と、こちらは公国艦隊旗艦「クリオール」である。
「ソルスキアのやつ、はやまりやがって」
 大貴族の令息とは思えぬ粗野な口調で、彼は、丘の上にいるであろう陸兵隊総
督をののしった。彼としては、中距離戦に持ち込んで敵を湾内に引きずり込み、
一挙に砲火で勝敗を決したかったのだ。敵軍が外洋にあるうちに砲の存在と位置
を教えてしまっては、どうにもならない。
 だが、ふと思いなおした。敵があの砲の存在を知ったとなれば、その戦法を読
みやすくなる。
「右翼、突撃して敵左翼の後背をつけ!」
 ルータスに数分おくれて、アーガイルもまた同じ命令を出した。
「アーガイル様、左翼部隊が崩れはじめました」
「ああそうか、どっちの左翼だ。敵か、味方か」
「味方に決まっております」
 マールテンがあきれたように言った。
 そのとおり、敵艦に接舷をゆるした艦では、喊声と悲鳴とが同時におこってい
る。
「あれでは保ちません、ただちに救出を」
「だめだ、乱戦こそ敵の思うつぼだ」
「しかしこのままでは全軍がくずれますぞ!」
「……ステルツァに」
 アーガイルは、左翼部隊の指揮官をつとめる男の名を言った。
「ステルツァに、海峡の内側に撤退するようつたえろ」
「本気ですか?」
「おれ……いや、私がゆるす」
 アーガイルはそう言いながら、海上を凝視している。そしてわずか後、
「……ああ、ここだ。中軍も前進、右翼部隊と合流して、敵の側背をつく」
 アーガイルは、もっとも陣容の薄かった左翼部隊に撤退を命ずる一方、のこる
右翼と中軍の全戦力を、敵軍に叩きつけた。一隻の予備戦力も置いていない。
 いつの間にか公国艦隊は、右翼・中軍と左翼とが完全に分離し、局地的な兵力
差はすでに二倍をこえている。

 帝国艦隊右翼は、完全にくずれたった敵左翼部隊を追って、海峡内へと侵入を
果たした。ルータスは制止しなかった。敵の残勢力は前進して海峡から離れてい
る。退却中の左翼部隊との連動は不可能だろう。
「勝ちましたな、閣下」
「まだわからぬ、油断するな」
 といちおうは言ったものの、ルータスもこの海戦では勝利したと思った。火砲
による被害が出るだろうが、それも一時のことだ。上陸さえはたせば、ハーンの
市街と公爵家居城を攻囲することができる。テュール公とやらに城下の盟をちか
わせることもできるだろう。
「うん?」
「どうかなさいましたか」
「敵の動きが妙だ。いや、撤退したほうではない、残っているほうだ」
 たしかにルータスから見ても、アーガイルの艦隊は奇妙な動きをしていた。帝
国軍左翼の後背に食いつくかと思ったら、距離をおいて当たりもしない砲を撃っ
てくるだけだ。
「わがほうの陸兵を、とことん恐れているとみえますな」
 ルータスの幕僚が笑ったが、ルータス自身は笑えない。自国が侵略されかけて
いるのに、あの艦隊の運動はどうだ。意図はわからないが、指揮官が冷静だとい
うだけでは、あれほど統一した動きができるはずはない。敵は、なにかとんでも
ない計をもっているのではないか。
「そうか……」
 ルータスは気付いた。
 帝国艦隊は、右翼部隊はおろか、中軍の一部までもが海峡に入り込もうとして
いる。ルータスは舌打ちしながら、全艦に反転を命じようとした。だが、海峡の
急な潮流と、北西から南東に吹き付ける強風とで、各艦は思うようには動けず、
多くの艦がずるずると海峡のなかに吸い寄せられていく。勇猛さでまさる帝国兵
も、軍船のあつかいでは公国兵のそれにおよばぬ。反転を命じては混乱をまねく
だけだろう。ルータスは命令をためらった。
「!」
 公国艦隊は、いくつかの無駄な動きを経てルータスの目をくらませてから、射
程ぎりぎりの距離をおいて完全に帝国艦隊の後背にまわった。
 海峡の入口付近に、帝国軍艦隊が密集している。そこに向け、丘の上から、そ
して公国艦隊から、二方向から砲火が集中した。帝国艦も応戦するが、砲の数で
は勝負にならない。これほど距離をとられていては白兵戦にうつることもできぬ。
「あの左翼艦隊は餌だったか」
 ルータスは舌打ちした。とくに目新しい戦術でもない。だが、寡兵である艦隊
が、一翼をまるごと囮に使うというのはどういうことであろう。
「散開して砲火をさけるべきでは」
「……」
「閣下!」
 ルータスは、顔の下半分を手でおおって何ごとかを考えていた。顔から手を離
すと、
「何をあわてる。これでハーンの港は裸同然ではないか、このまま全艦突撃! 
敵に背を向けてもかまわん、目標はハーン港だ!」
「おお……!」
 やはりルータスは将たる人間である。ひとつの命令で、青ざめていた幕僚や水
兵の顔に、あきらかに精気がもどった。帝国艦隊は、砲火をくぐりながら、海峡
を通過しようとする。

 ウェルフェン公国軍は、一瞬にして優位に立った。この際、帝国軍が撤退すれ
ばある程度の追撃を加え、あとは逃げるにまかせるだけだ。果敢に反転、突撃し
てきても、撃退する方法はいくらでもある。やっかいなのは、後背のことなどか
まわずに港に向けて突撃したときだ。
 やはりというべきか、ルータスはそれを選択した。
「……やはり名将だな」
 どうやら賭けに出たらしいレア帝国艦隊を遠望し、アーガイルは一人つぶやい
た。
 ふと、かたわらの幕僚をかえりみる。
「グリース、用意はできているだろうな」
「はっ、しかしあのような物をどうされるので?」
「秘中の秘だ。あとになれば分かる」
「はあ……」
 グリースは、いぶかしげな表情のまま、何ごとかを旗手に命じ、信号を送った
。それに応えるように、岬からのろしが上がる。そして港には、五〇隻をこえる
船があつまっていた。
 港に集結した船は、ウェルフェン公国艦隊の堂々たる制式艦船ではなく、沈ま
ないのが不思議、と思えるほどの老朽船であった。軍船とおぼしき物からどう見
ても漁船、といった物まで、全く多種多様である。さらに、すべての船に、許容
量を超えるほどの瓦礫や土砂が詰めこんであった。
 信号を受け、あわただしく水夫たちが船に乗り込んでゆく。すべての船は、帆
を取り去り、櫓を装備している。完全な逆風であるから、それも当然であった。
 五〇隻をこえる船が、一斉に出港した。
 水夫たちは懸命に櫓をこぎ、追い風にのって海峡をくぐってくるレア帝国軍に
劣らぬ速度で、湾の中央部へと進んでいった。
 それらの水夫たちは、自分の船が湾の中央を越えたと見るや、次々に海に飛び
込んだ。彼らを収容し、陸地に帰すために、退却中の左翼部隊のうち何隻かが、
湾の中央部に展開した。小舟が、一艘、また一艘と海に降ろされる。いっぺんに
小舟を降ろさないのは、後続の船の妨げにならないためである。
  最後尾の船に乗り組んでいた水夫が小舟に収容されたのを確認すると、左翼部
隊の将ステルツァは、そのまま麾下の艦を急いで港に戻した。勢いづいて進んだ
老朽船は、そのまま高密度な横列を展開し、惰性とはいえかなりの速さで進んで
ゆく。
 老朽船が横列をかたちづくったのは、むろん偶然ではない。アーガイルが、幾
重にも思索を重ね、水夫たちにしつこいほどの指示を与えた結果である。もし丘
にある陸兵隊の先走りがなくとも、この作戦は使わざるをえなかっただろう、と
アーガイルは思う。白兵戦をみてわかったが、兵士の強さという点では、思って
いた以上に差がある。敵の上陸をゆるしても、敵艦隊を分断すれば勝てるなどと
思っていたが、どうやらそれは間違いだ。勝つにはこの海戦で完勝をおさめる以
外になく、完勝をおさめるためには、このていどの詭計は弄さなくてはならなか
った。
「さて、世に名高いルータス卿がどう出るか。あれを見て引き下がるようなら、
少なくとも愚将ではないがな」
 アーガイルの掌に、じっとりと汗がにじんだ。
 口調は強がっているが、身体がそれを裏切っている。才能、気質とも、名将た
る資質を備えた彼ではあったが、それでも多数の部下の命をあずかるという任務
は、やはり居心地の悪い緊張を伴うものである。しかも、この作戦が不発に終わ
れば、ルータス率いる大陸最強の軍団はハーンの港に上陸を果たしてしまうので
ある。
 このときアーガイルは、ルータスに対して、自分の想像を絶するほどの智将で
あって欲しい、などとは微塵も思っていない。もしそうであれば、ウェルフェン
公国はこの地上から消滅するにちがいなかった。
 ところで、これから行われようとしている作戦は、本来、守る側が使うような
ものではない。湾内にある敵艦隊を、外洋に出られないよう封じ込めるためのも
のである。アーガイルはそれを逆用し、一気に勝敗を決しようとしているのだ。
奇計であり、戦術の常道から著しく外れることは言うまでもない。
 ルータスは名将である。だからこそ、このアーガイルの意図を見抜くことはで
きなかった。万が一見抜いたとしたら、ルータスほどの将帥である、勝ち目が薄
いと判断し、一も二もなく撤退するに違いない……。とアーガイルは思った。た
だし、これはあくまでも、ルータスの能力がアーガイルの予想の範疇を出ないと
いうことを前提にしているために、計算としてはいささか頼りないものではあっ
たのだが。
 アーガイルがそうした算段を巡らせている間にも、レア帝国艦隊の頭上には、
無慈悲な砲弾の嵐が降り注いでいた。
「かまうな! 前進だ」
 とルータスは厳命する。彼はどちらかというと、智将というにふさわしい人物
であった。だが、不利を打開するために、ここは猛将になりきった。
 そのとき、例の廃船たちが、惰性でレア帝国艦隊に向かっていった。というよ
り、猛り狂った帝国艦隊が、その廃船群にすすんで突っ込んでいったのだ。強風
にあおられた帝国艦隊と、一隻あたり数十人の水夫が腕も折れよとばかりに漕い
だ船である。避けようがなかった。
 アーガイルの作戦が功を奏した。
 廃船に、積載可能量を超える瓦礫や土砂などを積み込んでいたのは、衝突の際、
敵艦船を巻き込むためであった。あわてて避けようとする帝国艦船。だが、それ
は陣形の混乱をもたらし、しまいには味方同士の衝突を招いた。
 ある船は轟音と共に沈んでいき、またある船は周囲の船を巻き込みながら大破
し、炎上し、最後には沈んだ。
 そしてその結果、帝国艦隊の前衛は壊滅し、その進路は塞がれたのである。艦
隊の前進は完全に止まった。
「……そうか。そういうことか」
 ルータスは唇を歪めた。自軍が、すでに絶対的な死地にいることを今さらなが
らに思い知らされたのである。もともと底の浅い湾内に、無数の船が沈んでいる。
それは、レア帝国艦隊と陸地とを仕切る海底の壁であった。むろん大きく迂回す
れば港を攻めることは可能である。だが、そうする間にあの圧倒的な火砲が引き
続き帝国軍を襲うのは自明であった。といって撤退しようとすれば、ふたたびあ
の海峡を通過しなければならない。外洋には装備にすぐれた公国艦隊がいるので
ある。
 この時点で、レア帝国軍は、艦船の四割と兵員の二割をうしなっている。艦船
の損耗にくらべて兵士のそれがすくないのは、ルータスが、陸兵を満載した艦を
後衛にまわしていたからである。それに対して公国軍はというと、被害が絶無と
いうわけではなく、帝国艦隊の猛撃によって、ステルツァの率いる部隊は、囮の
役割をはたしたとはいえ壊滅状態にあった。これは、ルータスの非凡さと帝国将
兵の剽悍さの、ささやかすぎる証明であった。
「沈船を迂回して港を攻める!」
 ルータスはなおも一厘の勝機を模索して前進を命じた。火力では敵が圧倒的に
優っており、かつ後背をとられ戦況は不利である。だが、砲火によって分断され
たとはいえいまだ帝国艦隊は公国艦隊に比して数の上では優勢をたもっており、
陸兵を積んだ船は中軍の後衛にあって健在である。勝とうとすれば、全軍をもっ
ていっせいに港を攻めるしかあるまい。……勝とうとすれば? いや、勝てるは
ずだ。
 ふと、轟音がやんだ。ルータスの幕僚らが目を凝らすと、ウェルフェン公国艦
隊総旗艦「クリオール」をふくむ公国艦隊が、海峡を通過して湾内に入ってきた
のだ。
「いそげ!」
 ルータスの命令は、しかし届かなかった。中軍はルータスの直接指揮だけあっ
て整然たるものであったが、細くなった陣列を後背からおそわれた左翼部隊が、
まず恐慌におちいった。それが全艦隊へと伝播するのに、さほどの時間は要さな
かった。ルータスは、剣を甲板に叩きつけた。
「負けた」
 一本の矢が、ウェルフェン公国艦隊総旗艦からレア帝国艦隊総旗艦へと飛んだ。
 「ラ・ルース」の甲板に突き刺さったそれには、手紙が巻き付けてあった。
 ……これ以上の殺戮と破壊は、我の欲せざるところなり。願わくば敵将よ、わ
が艦橋に参られよ。貴国の勇敢な将兵の安全と名誉は、ウェルフェン国公フィン
セントが、その名において保証するであろう……
 へたに「貴殿の命」などと書いていなかったことが、ルータスの気持ちをいさ
さかでも軽くした。もしそう書いてあれば、あるいは勧告に応じなかったかも知
れない。
 平民出身の者がなんらかの功績をたてて貴族に列せられるというのは、大陸諸
国にいくらでも例のあることだが、ルータスのように一国の大元帥にのぼり、侯
爵に叙せられるというのは、やはり希有な例というしかない。ウェイルボードは
平民にも広く門戸を開いているが、たとえば「空前の立身」といわれた宰相府文
官房長ラッツェルのような者でさえ男爵家を継いだにすぎず、その地位は閣僚の
ひとりでしかない。北方の先進性とは無縁なレア帝国で、ルータスがその地位に
までのぼりつめたというのは、もちろん幸運というのもあるが、なにより彼の才
幹によるものであった。彼はレア帝国で最高の、そして大陸随一の名将であった。
常勝将軍というのは、ことさらに大げさな表現ではない。彼は、その密度の高い
戦歴の中で、自身の指揮する部隊なり軍団なりを敗北に導いたことは、たしかに
なかった。まだルータスが一将軍にすぎなかったころ、あるいはそれ以前、帝国
軍がやぶれたとしても、彼がうけもった戦線だけは勝利をかさねていたものであ
る。そして、その実績によって貴族に列せられた彼は、レア帝国宮廷の誰よりも、
帝国貴族としての気概にあふれていた。だからこそ諸将も群臣も、そして士卒も、
彼を尊敬していたのだ。もしここで自分の命惜しさに和を講ずるような真似をし
ては、世間はなんというであろう。「しょせんは平民よ」。その嘲弄に彼は耐え
られないであろう。
「その矜持が、彼を誤らせた」
 このとき、アーガイルはそう語ったという。その幼すぎる容貌とは裏腹に、落
ち着きはらった声で、彼はつづけた。
「彼はあまりにも勝ち続けた。その実力と才幹にふさわしい勝利ではあったろう
が、負けを知らない人生でありすぎた。それが彼を臆病にしたのだろう」
 という言葉に、数人の幕僚が怪訝そうな顔をした。
「臆病に? しかしルータス卿は今の今まで、果敢な抵抗を続けていましたが」
「退く勇気がなかっただけだ。なみの将であれば、海峡に集結して砲火を浴びた
時点で退却をきめていただろう。あるいは特使を送り出す間に別働隊を編成して
上陸を果たしていたはずだ。彼は、敗北したことがない。ただの一度も、という
わけではなかろうが、その経験に乏しいことはたしかだ。さらに、彼は勝ち続け
ることによって今の地位をえた。だから戦場で敗れること、敵味方に卑怯とのの
しられることは、彼にとって、自身の存在を否定されることにつながる。その恐
怖に、彼は耐えられなかった。だからこのようなことになった」
 アーガイルの口調は淡々として、独り言を呟いているようにも見えた。陸にい
るときとは、口調までが異なっている。マールテンなどが「アーガイル様は二人
おられる」と評すゆえんであった。
「ルータス卿に粗相のないように」
 と言ってアーガイルが使者として選んだのは、クロムヴェンという初老の騎士
であった。大した才幹もなく、華々しい功績を挙げたこともない。だが、その篤
実な人柄によって同僚たちに信頼されている人物である。その点、文官のコルネ
リスにも似ている。
「甲冑は脱いでいけよ」
「御意に」
 戦いは終わった。そのことを敵味方、すべての将兵に知らしめる重要な使者で
ある。甲冑姿の騎士が乗り込んで高飛車な態度に出れば、すべてが水泡に帰する
ことも十分に考えられた。かといって文官を派遣すれば、極端な武人優位社会に
棲んでいる彼らのこと、意固地になって勧告を受け入れぬかも知れなかった。ク
ロムヴェンは、武官用の礼服を着て、船を乗り換えた。
 この戦場で、軍事的な優勢を覆されることはもはやありえない。だが、ここで
使者が害されるようなことがあれば、家臣たちの手前、敵艦隊を殲滅せねばなら
ないだろう。決死の敵は恐いものだ。その過程で甚大な被害を出すに違いない。
アーガイル自らが赴けない理由がここにあった。彼が殺されたら、代わって指揮
をとれる人間はいないのだ。まして、この期におよんで敵の湾外脱出を許すわけ
にはいかなかった。
 王都との関係を断ち切った今、なんらかのかたちで一戦をまじえるのは時間の
問題である。その際「ルータス卿を破った」公国の大艦隊が遊弋しているという
だけで王都に圧力をかけられるし、何よりも諸外国の蠢動を牽制することができ
るはずだった。
「頼むぞ」
 すでに小舟に乗り換え、その姿が小さくなり始めている老騎士に向かって、彼
は祈るような気持ちで呟いた。
 クロムヴェンの使命は二つあった。
 第一に、レア帝国艦隊の武装解除。
 第二に、ルータスを陸地に、つまりはフィンセントのもとに連れて行くこと。
 第一の任務は、困難ではない。すでに帝国艦隊の各艦は、自主的な判断によっ
て停船している。降伏の意思あり、ということだ。
 問題は第二の任務である。
 異常なまでに誇り高く、敗北と不可能を知らずに生きてきたであろう「常勝将
軍」ルータスが、虜囚の辱めに甘んじるかどうか。
 懸念はそれだけだった。
 ルータスを捕虜にすることと、首を取ること。このふたつは、同等の結果に思
えるが、ウェルフェン公国にとってはそうではない。ルータスは現在のレア帝国
皇帝の恩人といってもいい人物で、帝国の重臣である。その彼が戦死しては、レ
ア帝国との間にできた深い溝が、二度と埋まらぬものになってしまう。この公国
は、望むと望まざるとに関わらず、この戦役が終われば、今度はウェイルボード
王朝との間に戦端を開かねばならないだろう。その際、敵は少ない方がいいに決
まっている。今回は様々な要素があわさって勝利におわったが、レア帝国が政治
的交渉という選択肢を捨て、総力を挙げてふたたび北上してきたら……。
「指揮官に関係なく、負ける。ウェイルボードはほろびる」
 そう、アーガイルですら思う。
「レア帝国との間になんらかの条約をむすび、公式の関係をもつことが、ウェル
フェン公国にとって、最良にして唯一の選択だろう」
 これはフィンセントの判断だが、的確にアーガイルに伝わっていた。
「今度は、海賊相手とはちがうぞ。勝利が確定したら、逃がさず殺さずを心がけ
ろ。特にルータス卿を。生かしてこそ彼には価値がある。我々にとっても、敵に
とっても」
 と、再出港する直前のアーガイルに、フィンセントはこう言ったのである。戦
闘がはじまる前にこのようなことを言うあたり、フィンセントも決して常識人と
はいえないだろう。
 ともかく、レア帝国軍はルータスの名によって降伏を受け入れ、戦いは終わっ
た。

「拙者、クロムヴェンと申す。ウェルフェン公国海軍の軍使として参上いたしま
した。艦隊総司令官のルータス卿にお取り次ぎねがいたい」
 レア帝国総旗艦「ラ・ルース」に小舟を横付けしたクロムヴェンは、艦の下か
ら、大声で呼ばわった。すでに、自分たちがすでに敗れ、生死を敵ににぎられて
いることは、末端の水兵も悟っている。慌てて縄ばしごを降ろし、慇懃に老騎士
を迎えた。中には、クロムヴェンに向かって命乞いをする者までいた。ただし、
自分の命を助けてくれ、というのではない。そのすべてが、ルータスのための命
乞いであった。
 老騎士の上官であるアーガイルも、格上の同僚であるマールテンも、陸兵隊を
率いるソルスキアも、みな士卒の信頼あつい指揮官だが、これほどではないだろ
う。なにやらルータスという人物には、その巨大な才能や実績とおなじく、部下
の心をつかんで放さない魔力のようなものが備わっているのではないか。クロム
ヴェンは、多少の気味悪さとともにそう思わずにはいられなかった。
 しかし反面安堵した気持ちもある。命乞いをするということは、おそらくルー
タスがまだ生きているということだからだ。
 たしかに、彼は生きていた。

 心底情けなかった。
 自分の下らぬ誇りのために、いったい何千人の将士が海底に消えたのだろう。
腰に帯びている剣を、そのまま自分の喉に突き刺そうと考えもした。それでも思
いとどまったのは、敗将としての義務、すなわち、生き残った兵士を故国に帰す
ことをこの上なく重要に思っていたからである。
 敵は、公国のあるじは、降伏すれば将士の安全を保証すると言った。せめて、
約束が果たされるまでは、それを見届けるまでは生きていよう。いずれは敵の剣
の錆になるにせよ。
 ルータスはそう決めたのだ。
 
 
 

 

第九章へ続く

 




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