雨 月 の 賦
口上
さぁてお立ち会い。
ペ、ペンペンッ
本日これより演じまするは、第弐拾参代西南守護【白炎の導師(びゃくえんのどうし)】たる榎怜麟(か・れいりん)様の若き日の一幕。
貪官汚吏(たんかんおり)に魑魅魍魎、悪逆非道な無法者を【銘刀・迅雷】【白紙の符】をもて、ばったばったと退治ゆく。
ペンッ
付き従いますは、【西海白竜王剣士】輝皓玉(き・こうぎょく)、
ペンッ
【槍聖】敖涼穿(ごう・りょうせん)。
ペンッ
そして、歴史に名高き名君【黄の明武帝(めいぶてい)】
ペ、ペンペンペンッ
都に来たなら、これをば見ずしてなにを見る。
さぁさぁさぁ、ずず、ずぃっと中にお入りくださいませぃ。
幕前
【黄】の今上(きんじょう)帝五拾弐載(年)、【炎雀(えんじゃく)の節】壱拾九日
禁城紫恒殿(きんじょうしこうでん)、翠明(すいめい)の間
「ようやく来てくださったか」
儀礼用の煌びやかな礼装に身を包んだ禁軍の兵が侍立、その中心に設えられた豪奢な牀(しょう)に横たわる男。【原の民】【陽の族】姓を慶(けい)、名を堅(けん)、【字(あなざ)】を武成(ぶせい)という。年代記に於いて、大国【黄】の中興の祖『黄の明武帝』と称される人物だ。
風路は開け放たれ、心地よい陽光が降りそそぐものの室内は陰の気に満ちている。
「久しいな、武成」
「貴殿にとっては、でしょう……定命の我に四拾載は長すぎます」
「そうか……もうそれだけになるか」
女……見たところ【原の民】にして齢(よわい)弐拾を出るかどうかの痩躯(そうく)の女だ。太刀を佩(は)き、胡服(こふく)を纏う。その装束(しょうぞく)から虎派(こは)を祖とする剣術の使い手と見えるが、何枚かの【符(ふ)】も姿を見せている。
【森の民】【陰の族】の特徴たる月髪(銀髪)を高い位置で結い上げ、腰裏まで流す姿は堅の記憶とそう違わない。身の丈五尺(一尺=〇・三米)と、かなり小柄だ。
「初めて会ったときから貴殿は美しかった」
「老いても女は褒める、か。変わらぬな、その性格。
しかし、これでもか?」
寂しげに頬の傷を人差し指でなぞる。
故あって負い、
故あって残した傷だ。
「然り、貴殿は美しい」
「拝聴しておこう。
こうしていると病とは思えぬな、武成よ」
空気が震える。老人の不健康な笑いが部屋に満ちる。
「はて、老いの病を、病と数えますかな?」
女はそれに答えず、開け放たれた風路の外を見やる。
「良い天気だ。此方(こち)と初めて会ったときは酷い雨だったが……」
第壱幕 “雨”
雨
雨が降っていた
その日、雨が降っていた
一本の木がある。枝を広く張り出した広葉樹。背は高く五丈(一丈=三米)を越えることは確か。周囲を見回しても、樹齢にすれば五拾有余載(年)から壱百有余載を越えるものがほとんどだ。
ここは、大陸南西部に広がる大森林地帯。
雨期にも関わらず、人影がある。
先頭は生成(きなり)の麻地に、呪(じゅ)を込めた套(とう)に包まれた小柄な影。
続くは同様の装束と、背に大きな荷を負ったさらに小柄な影。
殿は同じ套を纏ったひときわ大きな影。その巨躯は目算にて高さ約一間(一間=一・八米)を越えるだろう。手にした長物は槍だろうか?
特に急ぐわけではない。街道を離れ、このような裏道を行くにも理由がある。このまま行けば、【森の民】か【獣(けもの)の民】の集落があるはずだが。できればそれまでに片を付けたい。
「れーりんちゃん、疲れたよぉ」
「だぁぁぁぁぁぁっ、虹玉(こうぎょく)っ。その名で呼ばないでって言ってるでしょっ!」
中央の矮躯(わいく)の影からの呼びかけに、先頭が立ち止まる。翻(ひるがえ)った套の裾から覗くは太刀の鞘(さや)。虎派(こは)の剣士か?
【字(あざな)】といっても全てが全て自分で定めるわけではない。帝に下賜(かし)されることもあれば、土地の古老、なにがしかの師に戴くこともある。榎怜麟(か・れいりん)の場合は【麟(りん)】の字を先帝より下賜され、名乗ることになったが……どうにも重い。だから自分からはあまり名乗らない。いつか【字】に負けないだけの実力を備えたときまで……
「んじゃ、恋(れん)ちゃん」
そんな恋を知ってか知らずか、虹玉こと輝杏(き・きょう)は全く悪びれない。幾分湿った蜂蜜色(はちみついろ)の髪が頭巾(ずきん)の中で揺れてる。背負った荷が意志があるかのようにゆっくり動いている。
「どこで休むのよ、この雨の中」
「恋ちゃんの【符(ふ)】で何とかなんないの?」
「水術は専門外。【符】は有限なんだからくだらないことで使わせないのっ」
「だって、足でこんなに歩くの久しぶりなんだもん。りょーせんくんだって休みたいよね?」
杏、面妖なことを云いつつ今度は後ろを見上げる。
涼穿(りょうせん)が答えたのは別のこと。
「後背半里(一里=五〇〇米)にひとり、着いてくる」
存外優しい顔つきだ。ただ、緊の一字が表情となる。姓は敖(ごう)、名は恒(こう)。東方の産。恵まれた体躯の黒瞳(こくとう)が優しい青年。
「相手はこの先、一里のところ……」
殺気がわだかまっているのが恋にでも分かる。
「ねー、恋ちゃぁん。やすもーよー」
「流れ者を巻き込むのは……まずいわね」
「不確定要素は排除せねば、な」
杏の言を二人は無視。それにしても後背の人物、雨の中ここまで存在を飛ばすとは、相当な使い手らしい。
「決まりね」
「はい」
「休むの?」
再び黙殺。その代わり杏の套と荷の覆いを繋いでいた紐をほどく。
「先手必勝」
恋の判断に恒の頬がゆるむ。彼とて同じ事を判じていたか。
うっとおしい。
笠を僅かに上げ、天を睨(にら)む。小径の脇に立つ木々の葉に隠れ、目的の雨雲にまで視線は届かない。
背にした物をひと揺すり、位置を僅かに直す。
大剣だ。それも尋常(じんじょう)な大きさではない。刀身だけで五尺、柄まで併せれば丈(たけ)一間に届く。常人ならば、持ち上げることすら叶わぬであろう得物だ。それを、さして大柄ではない――なにせ、身の丈二間を越えるような種族が存在するのだから――【原の民】が佩(は)いている。装束は翼派(よくは)に連なる剣士見られるものではあるが……はて? 身につけた鎧は甲派(こうは)の物だが……
先行する気配が離れてゆく。それぞれに大きな力を秘めているようだ。
「気が付いたか……」
うなずき歩みを早める。
【星宿(しゅくせい)】の囁(ささや)きは、彼をどこへ導こうというのか?
【符】が舞った。
一枚、二枚、三枚……
「榎家の末裔(まつえい)、恋の名において西王(せいおう)に勅(ちょく)す」
朗々と詠(うた)う言霊(ことだま)が【符】の動きを征する。
定められた通りの紋が描かれたそれには『斬』の一字。
そこへ【白紙の符】を一枚投げ込む。これで二四枚。
「万物を斬する爪牙と為さんことを」
叩き付けられた詞(ことば)によって、【符】が灰へと変じ虚空へと溶ける。
それに併せ、異界の力が恋の周囲にまき起こる。
「疾(と)く」
舞う。
濡れた木の葉が輪舞、
地に落ちる雨粒が円舞、
その中心にあるのは恋。
複数の【符】を使用した呪をこれだけの手際で完成させるとは……修練のほどを伺わせる。
「行きなさい」
わだかまる力。
穏やかな言霊を得、無音のうちにそれは解き放たれる。
仮面の如く表情を変えぬ、眉目秀麗(びもくしゅうれい)な青年。
穏やかな笑みを浮かべつつ、衆を睥睨(へいげい)する矮躯の少女。
槍を無座造作に掴み、巨躯を思わせぬ動きで前に出る。
套の裾(すそ)から何かを取り出し、頓着(とんちゃく)なくひっ掴むが構えようとしない。
恒の威容(いよう)に圧倒されていた男たちの中に、嘲(あざけ)りが走る。
「虹玉殿」
「なに? りょーせんくん。止める気かな?」
全く緊張感を感じさせない口調で、手にした獲物を振り上げる。
刀身を外した大剣。
なるほど、盗賊たちが嗤(わら)うわけだ。
「ちょっと、あれとか気に入らないから左よろしく」
巨漢にみなまで語らせない。
少女が踏み出す。と、同時に背負った荷が跳ね上がる。
恒も止めない。云われるまま、後方左翼、十五人の中心へひと跳びで達する。距離にして五丈はあるだろう。金属鎧を纏った【原の民】の巨体が、呪の力を借りずして跳ぶには些(いささ)か酷(こく)な距離ではあるだろう。
その動きに対応できなかった三人が、旋回した穂先に引っかけられ命の飛沫(ひまつ)と共に崩れ落ちる。所詮(しょせん)は烏合(うごう)の衆。それだけで敵討ちとばかりに前へ出る者、災厄から逃れようと下がる者。僅かとはいえ乱が生じる。
一つの動きにあわせ、流れるように前へ。振り向けられる穂先を叩き落とすことを第一義に、持久戦にはいる。実質四人を同時に相手取ってさえ、後れをとらぬ技の冴えは常人の及ぶところではない。
訓練でも試合でもない、先の知れぬ旅の途中だ。傷を受ける危険を避け、確実に盗賊どもを葬ふってゆく。が、いかんせん効率が悪すぎる。
「【羽(う)族】かっ?」
ただ白く、何処(どこ)までも皓(しろ)い二対四枚の翼。
跳ね上げられた覆いが雑木に引っかかるよりも疾く、刀身のない大剣が閃光の軌跡を描く。
最初の犠牲者は、先に指を突きつけ杏を嗤った者。
腰の上で両断され、上体が悪い冗談のように大地へと落下。その衝撃で、何かを思いだしたかのように赤いものの流出が始まった。なにが起こったか分からぬまま、叫び、悶(もだ)え、死に切れぬ男。一瞥(いちべつ)くれてやる。
軽く鼻を鳴らし、刀身無き大剣の柄をもう一度振るう。
その口の端に浮かぶは酷薄(こくはく)。
その目元を飾るは愉悦(ゆえつ)。
さらにたち割られた上体が、断面を瀟々(しょうしょう)と落ちる雨粒に曝(さら)し痙攣(けいれん)を繰り返す。
「そういえば、云い忘れていたのう。妾(わらわ)は、血を見たら性格が変わるらしい」
艶(あで)やかに、
先の無邪気なものではなく、婉然(えんぜん)とした陰性のそれ。
「ふむ、いかに屑(くず)でも耳ぐらい付いておろうが、理解できるかどうかは知らんが一応は聞いておけ。
鄭(てい)公がな『領内での狼藉(ろうぜき)、目に余るもの有り』と、いたくお怒りでな。公の命により、汝(うぬ)ら全員ここに斬す。異議は認めぬ、おとなしく九泉(きゅうせん)の下へ旅立つがよい。
心配するな、手形は妾が直々(じきじき)にくれようぞ」
同時に、隙を見たか斬りかかってきた盗賊の一人を見るまでもなく、見えぬ刃が頭頂から股間まで走り抜ける。
「ふむ。次は、誰かや?」
視界が広くなった。樹齢壱百有余載を越えるような巨木ですら、切断面を見せ大地に横たわる。それに数倍する盗賊たちが腹を割かれ、或いは倒木に押しつぶされ骸(むくろ)となり果てている。
「少し、手を抜きすぎたかな?」
套の中から一振りの得物を取り出す。【虎派】の剣士が好む細身片刃の一刀。速さを重んじるそれは、切れ味、貫通力ともに最高と謳(うた)われる。
故、扱いが難しい。斬れば、脂(あぶら)で切れ味が落ち、下手に振るえば簡単に折れてしまう。
名をば“刀”と呼ばれる。
刀を持つ剣士、それだけで恐怖の対象足り得る。
それを、見せつけるが如くゆっくりと引き抜く。
とうに鞘の長さを越え、さらに引き出される刀身。
恋の身長に迫らんとする、長大(ちょうだい)な刀身を片手で一振り。それで手に馴染(なじ)む。
術師(じゅつし)が三人。自ら設(しつら)えた鮮血の海に沈んでいる。その捨て身の献身のおかげで、幹部と思しき連中を含め屈強な男達が壱拾人ほど残っている。その中心にはやや老いた人物。
「なんとまぁ、誇り高き【獣の民】まで居るとはね。どこの誰がそそのかしたかは……まぁいいけど、収税の役人どもを襲ったのは間違いね。それとも、兵士たちを動かせない今なら何とかなると思った?」
左手に【符】の束、右手に長大な刀。
「それとも、」
予備動作なしでひと跳び。【符】の一枚が灰と化すのを待ち、三丈程度の距離を一度の跳躍で一息に詰める。
「伯(はく)殿の命だからかしら?
塊(かい)家の兵士諸君」
それを合図に、盗賊たちが剣を槍を抜き放つ。間合いを詰める様子にも全く動揺を示さない。屈強な男性でさえその重さに閉口する巨大な得物を片手に、余裕をもって男達を見上げる。彼らの動きは、訓練された者のそれ。
恋は余裕の笑みを絶やさない。ただ、一歩だけ前へ出る。
「白符よ自ら【天眼(てんがん)】を判ぜよ」
それは舞踏。死を呼び、見る者尽(ことごと)くを魅了して止まない剣舞。
無音の雅曲(がきょく)が始まった。
踏み出した足を軸に左へ回転。それを追いかけるように、冷たい軌跡が走る。まず中央の一人、逆袈裟に抵抗無く振り抜く、振り上げた白刃を降ろすために左へ身体を倒す。その先にもう一人。まずは刀身を叩きつけることで体勢を立て直し、左足を地に着ける。これが次の軸足だ。体重移動しながら、半ばまで刀を飲み込んだ躯を鮮やかに骨ごと斬り捨てる。
そこで一枚の【符】が灰と消えた。
今度は右足を浮かせ、背後に迫った槍の穂を切りとばす。跳ね上がった刀が、次の半回転で背後と見て不用意に踏み込んできたもう一人の首に食い込み、あとは流れのままに振り抜く。
また、【符】が消えてゆく。
そこで回転が止まった。今度は、前へと身体を倒す。左翼最後の一人【獣の民】馬人にまではさすがに届かない距離。右足でそれ以上倒れるのを抑えつつ、右手の一刀をさらに突き出す。それでもあと二尺(一尺=〇・三米)届かない。
遠い切っ先のさらに先。男が嗤い、間合いを詰めようと構える。
遠い柄元のさらに先。女が微笑み、ただ一言を叫ぶ。
「招・雷っ!」
刀身に焼き込まれた風と炎の粒子が励起(れいき)。言霊に導かれ跳ねる力が収束する。
発した劫雷(ごうらい)が空を貫き、その先へと伸び嗤いごと男を喰らう。
一刀より放たれた砲声をもって、雅曲は終わりを告げる。
当然のように、全ての動きが止まった。
右翼の四人、指揮官らしき一人。
女符師(ふし)の卓越した剣技に、一同怯(ひる)みを禁じ得ない。
「【銘刀・風の迅雷(じんらい)】と【白紙の符】……汝は……【闘(刀)姫(とうき)・怜麟】か……」
「へぇ、意外と有名人なんだ。私」
沈黙を雨滴(うてき)が埋め、後背の剣劇の音が大気を叩く。
雨に濡れた套が、予想以上に身体の負担になる。槍一閃をもってまた一人を葬るが、その隙間に新たな影が滑り込み、恒に一撃を見舞う。それも余裕を持って受けきる、が不利は否めない。
出来るだけ使いたくはなかったが……
不自然な力の流れ。何人かの気の利いたものがそれに気づき、仲間を制止する。背後を警戒する者は誰もいない。いや、それどころではない。
「義によって助太刀いたす」
鉄塊が一時身を引いた盗賊たちの背後を容赦なく襲う。剣と呼ぶにはあまりにも巨大な呪鋼(じゅこう)の塊(かい)。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、らぁあああああああああああああああ」
獣じみた叫びに続き、まず、街道上二人の首が消失した。原形をとどめぬ二つの頭部が一体となって、盗賊の一人に衝突。音程の外れた奇妙な悲鳴が響く。
恒から奇妙な力が抜ける。包囲側の士気が完全に崩壊。それを見逃すほど恒は人間が出来ていない。
無言で、左端の一人に穂先を突き込む。腹への一撃はすぐには絶息には至らないが、時間の問題だろう。が、恒はそれだけで満足せず、男が刺さったままの槍を力任せに振り回す。
情けを掛けるつもりはない。
この盗賊ども、およそ壱百余人程度の人数をもってここ壱載の間に約弐千余名もの無辜(むこ)の民を殺めている。そうであっても周辺諸侯が手を出せなかったのは、この地が帝室直轄の御陵地(ごりょうち)であり、諸侯が有する兵士の侵入を厳しく制限していたからに他ならない。また、中央に対して現状を訴えるなどとは、たかが盗賊に対して面子が立たぬというものだ。解雇した自領の兵を使おうにも、周辺諸侯によってその旨中央に報告されれば面白いことにはならない。
今上陛下(景嘉帝(けいかてい))においては、猜疑心(さいぎしん)強く至尊の座にあること弐拾載。些末(さまつ)なことで取りつぶされた諸侯家は十指に余る。六百と参拾弐載前の建国戦争、また八拾六載前の【赤帝(せきてい)の乱】に於いて、武勲誉(ほま)れ高い鄭候家であっても例外はないだろう。いや、その名声故(ゆえ)に瑕瑾(かきん)あれば直(ただ)ちに潰される。先の乱以後、斜陽(しゃよう)にある帝室の力を誇示するにはまたとない好機となるだろう。
話を戻す。
呪鋼の大剣をかざした青年。踏み出した足下の小石が、街道と鉄靴(てっか)に挟まれ砂と砕ける。
「っだあああああああああああああああっ」
厚み弐寸、剣の形をした呪鋼の塊を質量そのままに叩きつける。その重量、その衝撃に人体が耐え得るはずもなく、もろとも地中へと叩き込む。その叫びは、恐怖の具現(ぐげん)として盗賊たちの血染めの心を握りつぶす。
地面に叩きつけた反動で、浮き上がる身体を抑えることなく、そのままに剣を飛び越し身体全部を使って地面から引き抜く。あまりに常識を外れた動きに周囲の盗賊たちも手を出せない。そこへ、恒の振るった槍から吹き飛ばされ、腹腔(ふくこう)から尾のように血液を滴らせた屍体になりきれぬ身体が二人の男を巻き込み、樹木に激突。各部を破損させた肉体が下生えに転がる。もう、自らの意志によって動くことはないだろう。
「でぇぃりゃぁあああああああああああああ」
動作の大きな踏み込みと共に、また巨剣が青年の頭上に縦の弧を描く。柄を持つ者には通常の大剣ほどの重量だけを伝え、刀身に触れる犠牲者には数倍の質量をもってのしかかる。折れた左腕を抱え、立ち上がろうとした盗賊の頭部へと。
今度は、身体を低い位置に固定して反動を全て身体で受け止める。その耳元をかすめて背後から前へと何かが通り過ぎ……正面、立ち上がった最後の一人、【獣の民】猪人が胸の中央に吸い込まれ……
……貫き……
……傷の周囲をえぐり取りながら、わずかに速度を落としただけで突き進む。
真っ直ぐに、樫の古木に突き立つ
「助太刀、感謝いたします」
「いや……余計なことをしたな」
「そんなことはない。正直、楽になりました」
「そう言ってくれれば助かる。しかし、派手にやってくれる……私の仕事がなくなったよ……」
ごく自然に頭を巡らせ、前方にてその動きが止まる。
「いや、まだ残ってるか」
雨にも濡れず、返り血も胡散する。
汗もかかず、雨にも濡れず。
息も切らさず、羽根運びも乱さず。
鋼(はがね)すら断つ斬撃をもって葬ふり
空間すら裂く剣閃は、犠牲者に斬られたことすら気付かせない。
先程までの態度はどこへ行ったか。
より華麗に、
より美しく。
恋のように舞踏でなくして、
恒のような無駄のない太刀筋でもなく。
優雅にして鮮烈(せんれつ)。
励起した光が舞い、二対四枚の翼が羽ばたくことなく、あるだけで自在に身体を制御する。
一片(ひとひら)、落ちる花弁(かべん)のように。
衆を圧する瀑布(ばくふ)のように。
青年が恒の助太刀に入るよりも早く、彼と同数受け持っていた人数を斬り捨て、天空を振り仰ぐ。見える。厚い雨期の雲を通して星辰(せいしん)の輝きを観(み)る。光に愛(め)でられし【飛空(ひくう)の民】の少女は何かをしっかりと読みとる。
「ふぅむ、【宿星】などとやっかいな物がのう……【崑崙(こんろん)】のお人も心配性と見ゆるわ」
雷撃が空を焼き、大気を殴りつけた振動が紅玉(こうぎょく)の皓い翼を振るわせる。躯を焼いた匂いが杏の鼻腔を刺激する。恋が放った【迅雷】の一撃。これはさすがに、首を巡らす。
一言で表すなら『無惨』
塩の柱を中心に完全に炭化した差し渡し三丈程度の半球の空間。それでも、被害は小さく済んだ方だ。杏の知る限り【迅雷】の力が最も発せられたのは、西部原地帯での怨霊(おんりょう)掃滅戦のみ。
弐拾載ほどの昔の話だ。
泉(せん)公領にて蔓延(まんえん)した病魔によって、領民が死に絶えた邑(むら)一つ。どこの誰か知らぬが、塚を一つ建て【符】を置いた。供養の【符】ではなく、冥界への途(みち)を隠す【符】を。
見習い符師は、死の瘴気(しょうき)によって【怨(おん)】となり果て、近隣諸邑の良民さえ巻き込みはじめた哀れな霊魂を【符】によって強制浄化するを潔しとしなかった。
恋が採ったのは、土地自体の浄化。雷火(らいか)によって瘴気を焼き尽くし、その力によって再び冥界への途を開こうというものだ。
結論から言えば、この試みは成功した。しかし、無制限に広がった力は周囲五里四方を焼き尽くし、予(あらかじ)め民を避難をさせていたとはいえ、三つの邑をも焼いてしまう結果となったが……
その様な危険きわまりない武器――当然、恋自身の能力も上乗せされるわけだから――であっても、恋がそれなりの【符術】を使うことを思えばかなり被害を抑えられる。なにしろ風の初歩的な儀式符術で、街道を数間にわたって広げてしまうのだから。
ざっと見て、残るは【獣の民】四人と【原の民】一人。盗賊の首領(しゅりょう)らしきは初老の【猪族(ちょぞく)】。その前に【犲族(さいぞく)】と【狼族(ろうぞく)】、【熊族(ゆうぞく)】まで居る……残る【原の民】はかなりの手練(てだ)れと見ゆる。
恋の剣技は大したことがない――紅玉から見れば、の話だが――少しは楽しめそうだ。
「【獣の民】の人って、見分けつきにくいのよね。でも、あなたの感覚、憶(おぼ)えがあるわ……ちょっと思い出せないけど」
動けない。手練れと見て後に回したが……少々気が重い。もう一度【迅雷】を起動するにも制御に力をまわしたため、次に満月が上るまではただ性能のよい呪刀にすぎない。
「二人がかりでも、ちと骨が折れそうじゃのぅ、怜麟殿よ」
「杏……紅玉か、また血に酔ってるみたいね」
杏の様子に呆れながらも、指揮官らしき猪男からは目を離さない。
最初に動いたのは【犲族】。無駄のない前進から、鋭く突き出される細身の一振り。【竜派】の剣士が好む刺突剣の一種か。
「【盾】となれ」
恋の言霊にて、【盾】と書かれた一枚の【符】が差し出された切っ先を受け止める。急制動をかけられた【犲族】の男が苦痛に呻(うめ)く。身体に重量があるだけに、深刻な傷になりかねない。が、それも案じる必要はない。杏の一閃が頸を断つ。鼓動数拍置いて転がり落ちる頭部。さらに数拍遅れ、周囲を赤に染めつつ背中から倒れる躯。
「行け、【斬】」
目標も見ずに、十枚近くの【斬】と書かれた【符】を飛ばす。一枚が竜の鱗にすら突き刺さらんとするような代物だ。選択的に裂帛(れっぱく)の気合いをもって相殺(そうさい)する【熊族】と【原の民】さらに【狼族】。狼の頭部を持つ男は武器を砕かれたが何とか無傷。【原の民】は機会を逃し、【符】が腹から背中へと突き抜けた。最後の【熊族】は、力で全ての【符】をねじ伏せた。
すくい上げるような恋の斬撃も、手にした斧(おの)で易々と受け止める。【熊族】の腕力に抗するまでもなく、一度下がる。恋の前に大きな空間が出来る。大斧(たいふ)を得物とする熊男は当然のようにそこへ身体を押し込む。体勢の整わない恋に向かい、手にした物を振りかぶる。
それが間違い。
大地へと突き刺さる皓。五臓六腑をぶちまけ左右に分かれて崩れ落ちる【熊族】その頭上を、駆けるが如く往くは呪鋼の塊を担(かつ)いだ【宿星】の剣士。恋、杏を一息に飛び越え、指揮官の老猪の頭上へと呪鋼の大剣を振り下ろす。
「りゃぁあああああああああああああ」
その老猪。武器を失い、逃げようとする【狼族】を掴み、空中の青年へと投げつける。信じられない反応速度且(か)つ膂力(りょりょく)だ。常軌(じょうき)を逸している。
さすがにこれには対応できず、とっさに【狼族】の男を蹴り飛ばすことで体勢を整えるが、目標からは大きく外れてしまう。
着地と同時に大剣を捨て、左へ身を投げる。直後、着地した場所に槍の穂が突き出されるが、そこに【宿星】は居ない。
代わりに、別の槍が脇から老猪を貫かんとする槍が伸びるが、すんでの所で逆に槍身にて払われてしまう。そのまま背後へと飛ぶ。踏み込み厳しく杏が迫り、光の閃刃を左から右へと振り抜く。それでも足りない。掌一枚分向こうへ下がっている。わずかに響く舌打ちの音。
「貫けっ、【穿】」
恋が放った三筋の炎矢が急追する。【猪族】の男自身が持つ槍が跳ね上がる。その穂先に貫かれるは、【宿星】に蹴落とされた【狼族】。否応もなくその身体で全てを受け止める。
「ふむ、さすが禎鏡(ていきょう)殿の娘御(むすめご)、よい仲間をお持ちだ。
出直すとしよう」
手にした宝珠(ほうしゅ)を一息に砕く。昏(くら)き闇がその身を包み、喰らい、溶けてゆく。
「逃げたか……」
恋の呟きが、雨音に溶けて消えた。
雨
雨が降っていた
その日、雨が降っていた
雨滴は屍体を洗い清め
罪を洗い流す
雨
止むことのない、
雨
幕間 壱
風が吹き抜けていった。
都の北に起立する、中岳嵩山(すうざん)から来る少し湿った風。
僅かに届く庭園の鳥たちが羽音。
「まったく、どこで油を売っていたのやら」
「その方が虹玉(こうぎょく)殿らしいでしょう。紅玉(こうぎょく)殿の出番などない方がよいではありませんか」
「いつから常識など持ち合わせるようになった? 武成(ぶせい)よ」
女の口調に少し不機嫌なものが混じる。表情は大して変わらないが、かつて交流のあった老皇帝には、ただ彼女が拗(す)ねているだけというのがよく分かる。自分の孫娘と同じではないか……
「精神も身体の老いには抗し切れませんか。少々臆病になったようです」
かつての仲間たちは、未だ往事の姿と力をして……世界の大きな流れとしては全くの反対なのだが、自分だけが仲間との時代の流れに取り残されてしまった……その、寂寥(せきりょう)が老皇帝を包む。
視線を横に流せば、あの頃旅を共にした呪鋼(じゅこう)の大剣。
「そうか……時にな」
「改まって、何ですかな? この老骨に答えられることであれば何なりと」
「いや、待て。虹玉が来た」
風が運ぶ、かすかな羽音。
二対四枚が織りなす、複雑な音色。
「酷いよぉ、先行っちゃうなんて」
「どこから入って来るっ」
風路を「よいしょ」と乗り越えて、何事もないかのように房室(へや)へと侵入する。考えてみれば大変なことだ。一国の皇帝の寝所(しんじょ)に忍び込んでいるのだから。かなり堂々と、だが。兵士の制止ももっともだ。
「よい、この方はこれでよいのだ」
「甘やかすな、武成。
で、涼穿(りょうせん)たちはどうした」
「りょーせんくんたち、空飛べないから」
「そんなことは分かっている。その飛べない涼穿たちはどこに置いてきた? 此方(こち)を待っていたはずだが」
「細かいことは気にしちゃだめだって。
でも、ぶせーくん。病気だって聞いたけど元気そうじゃない。でも、ちょっと見ないうちにすっかりおじーちゃんになっちゃったね」
ちょっと……それが【仙籍(せんせき)】にある者との大きな差。
あの頃と変わらぬ無邪気な様は、堅の心に冷たい風を通す。
置いてゆかれたのではない。自分が先に行ってしまった。
あの頃、彼女たちとこれほど長い付き合いになるなど思っても見なかった。
きっかけは、些細なものと言いかねるが。
第弐幕 “虧”
虧(か)いたる月が盈(みつる)は必定
帝とあっても、
貴人とあっても、
諸侯とあっても、
士大夫とあっても、
布衣(ほい)とあっても、
月満つれば則(すなわ)ち虧くことは避けるを得ない
たとえ、
仙とあっても
荘国(そうこく)慶林(けいりん)城
大陸南部、南岳衡山(しょうざん)の西、西岳華山(かざん)の南に横たわる大森林地帯最大の街都、西南街道最後の宿場。
地方都市ではあるが荘候の居城でもあり、地方経済の中心街都として、また近隣沿岸諸侯国への渡し場としてなかなかの賑わいを見せている。
そしてもう一つ、この街都には小さからざる意味をもっている。
【白炎(びゃくえん)の導師】の居館【樂瑯館(らくろうかん)】へと至る唯一の街都。四里(一里=五〇〇米)ほど北へ上れば館への正門たる【明滝門(めいろうもん)】がある。その先は風と炎の聖域、清浄なる世界が広がる。
「白炎。貴方に客人が来ているわ。【明滝門】だけど……どうする?」
五尺三寸(一尺=〇.三米)の体躯は【原の民】の剣士としては――女性であることを差し引いても――かなり小柄。一丈を越える種族もいる中ではかなり不利だろう。が、その鍛え抜かれた肢体は、柳の若枝のごとくしなやかに空を断つ。体格の不利を補うだけの気迫と剣技、そして疾さ。【疾風】の二つ名で呼ばれるが【導師の剣】としての勇名の方が最近とみに広まっているようだ。姓を敬(けい)、名を詠來(えいきょう)、字(あざな)を卿淑(けいしゅく)と云う。西の方【琥(こ)】国の産であり、【白炎の導師】の古くからの友人でもある。
【導師の剣】の座を受けてからは弟子入り希望者が絶えない。が、今日の客は違う。
「『号で呼ばないように』ってこの八拾載ほどの間、言い続けて来たと思うんだけど……卿淑、歳じゃないの? 記憶力の欠如(けつじょ)は、老化の兆しよ」
「あはは、手厳しい。歳はお互い様でしょうに……
で、客人はどうするの。いつまで待たせる気?」
友人の悪態を気にした風もなく、一笑に付す。
「招かれざる客人には去ってもらうのが一番ね。でも、確認するからには何かあるんでしょ?」
掛けていた榻(とう)。日当たりのよい庭園に向けられたそれから、ゆっくりと立ち上がる小柄な……詠來よりもさらに小さな影。【森の民】の種族的特徴だから仕方がないのだが、【原の民】すなわち、ひとの基準からすれば「少女ではない」といった微妙すぎる年頃に見える。実際のところは三百歳を越えているという話もあるが、比較的長寿な彼女たちの感覚ではそれほどの歳ではらしい。事実がどうあれ、【仙籍(せんせき)】に入った時点で、年齢など意味を持たなくなっているのだが。
彼女たちの老化は八拾余載ほど前に止まっている。実質的には生気に満ちあふれた肉体と、柔軟な精神――場合によるが――を持ちあわせていることになるようだ。
姓を榎(か)。名を諷媛(ふうえん)。字を禎鏡(ていきょう)。号して【白炎】と称する。当代において最強にして最も若い【導師】。容姿においても際立っているためか、巷間(こうかん)での人気も高い。そういった民衆の中にも、何か勘違いしてここまで押し掛けてくる輩(やから)も希(まれ)にいるが、詠來の様子からしてそういった手合いではなさそうだ。では?
まだ手にしたままだった水晶の球体を暫(しば)し見つめる。何かを吹っ切るかのようにそのまま文机の引き出しへ。
顔を上げる。そこにいるのは、五尺に満たぬ華奢(きゃしゃ)な肢体しか持たぬ女ではなかった。この世界の根幹を支えていると言う自覚と自信が禎鏡を大きく見せる。
「ふぅ、解ってるわよ。誰が来たかくらい。
卿淑はどっちに付く?……ここから立ち去ってあの娘に付いていてくれる方が嬉しいんだけど」
「今ごろ何を云う、全てはあの時に選択されてたの。来るべき時が来た、それだけよ。
まっ、怜麟(れいりん)を巻き込まずに済んだのは不幸中の幸いだったってことね。問題は……」
真正面から諷媛を見つめる。冗談では済まさない。欲しいのはその真意。
「……勝つ気があるの? この数日……禎鏡、貴方の行動を見ていたけど……どうも腑(ふ)に落ちないの。
どう見ても、死ぬ準備をしているようにしか、ね。ましてやその晶石……」
諷媛が手にしている、気を練り込んだ晶石を指す。暇があれば、そんなことをやってることに気がついたのは、数載前のこと。
「勝つわよ。勝ってみせる。まだ、恋(れん)を一人になんて出来ないもの。妾(わたし)の実力、貴方が一番よく知ってるじゃないの」
自分でも信じていないことを……違うか……自分で信じたいことを言うときの癖。神経質に護符の首飾りをいじる……刃を向けるは、かつての仲間。
【導師】には、その身を守るための従者が数人付く。第弐拾弐代【白炎の導師】を例に取れば、一人を【剣】と呼び、一人を【楯】と呼び、【鎧】と呼ぶ。最後の一人は【杖】と称す。さらに何人かの弟子や、警護の兵士が付くのだが禎鏡は騒々しいのを嫌い兵士は隣村に住まわせ、外からの弟子はとっていない。身の回りの世話をするものはいるが、慶林から数日毎に通うことが常となっている。他には、家宰(かさい)夫妻が【鳴滝門】の外に一家を構えている。
資格無き者が、結界の内に住むことは許されない。
降りしきる雨の中、灼熱の風が【導師】とその【剣】を覆う。
「戴我(たいが)。この【白炎】が何を司(つかさど)っているのか忘れたか?」
熱風は渦を巻き、さらに温度を上げて行く。周囲の草花は一瞬にして炭化し、大地は渇きひび割れる。
「つまらん芸だ……返す。礼もつけてるから、遠慮なく受け取りなさい」
【還】と書かれた【符(ふ)】が五枚。宙を舞う毎(ごと)に満ちた異界の力を集めゆく。
さらに、【刃】と書かれた【符】が集めた力に形を与える。
「行け」
熱き刃の渦が放った本人へと襲いかかる。
荒獲と呼ばれた男は、複雑な印を結んだ右手で宙に失われた文字を刻む。さらにそれに手を当て叫ぶ。
「避っ!」
術は正しく発動した。地面からやや傾いて現れたそれは、力を受け流すことに成功し耐えきった。
砂埃が舞い、視界を遮る。
「挨拶にしては気合いが入りすぎていますよ、禎鏡」
風がざわめく。
三人、門の外に見える。見知った顔が並んでいる。その実力はよく知っている……昔の話だが。【頂(いただき)の民】と【獣(けもの)の民】……身の丈、二間(一間=一・八米)に届かんとする巨人と、人間の身体に水牛の頭をもった存在。【獣の民】の頭部はなにも水牛とは限らない。多種多様な動物の頭部を持ち、それによって潜在的な力も異なってくる。
「参ったわねぇ……彼奴(あいつ)らまだ一緒だったらしいわね。いつの間に不老の力を手に入れたんだか一つ、直接聞いてみる?」
暢気(のんき)なことをのたまりつつ、詠來が前に出る。とは言え、これはかなり重要なことだ。【頂の民】にしろ、【獣の民】にしろ百有余載も生きることはまず無い。
可能性があるのは、一人の【森の民】。姓を楼(ろう)、名を荒獲(こうかく)。字は戴我のみ。
「久しぶりね。ちょっと痩せたんじゃない?」
旅をしていた頃は精悍(せいかん)とも言える顔つきだったが……今はさらに痩せている。病的なものではなく、無駄なものを削り取った……それでいて無駄のないとは言い難い。今も変わらないのは、恋と同じ月髪。
共に在りし日、碧玉(へきぎょく)の如く希望の光をたたえていた双の瞳は闇星を思わせるほど昏い。
「あの程度では挨拶にもなりませんか。腕を上げましたね。先代の選択は間違いなかった……と言うところですか」
侮蔑(ぶべつ)……とも違う何か?
悪意?
違う。そんなありふれたものではない。常人には持ち得ないような、黒くまとわりつくような感情に何かが微妙に入り交じった……
「男が昔のことを、何ぐだぐだ言ってんだか……で、戴我、用があるんじゃないの? まさか『旧交を温めに』なーんて抜かしても騙されるほどお人好しじゃないわよ」
「卿淑、相変わらずよく囀(さえず)りますね。今は貴女と話しているのでは……まぁ、よいでしょう。禎鏡、迎えに来ました。私の知る中でも最高の術師である貴女をね」
導師の右手に棍(こん)。左手には【符】。
自らの気を【符】へと集める。
「決裂……ですか」
不自然な風の流れ。
「【斬】」
言葉の裡(うち)が言霊(ことだま)となり、【符】を灰と為し具象化する。この世界に存在することを許された風の刃が三人の男それぞれに襲いかかる。
「避」
失われた文字による力の解放と同時に、刃は方向を変え消滅。後を追ってきた詠來の愛刀【疾風】も【頂の民】塊鉛(かい・えん)の大剣に阻まれ、本命には届かない。
脇から突き出された【獣の民】籠雲(ろう・うん)の槍に蹴りを入れつつ後退。二人の攻撃範囲から半歩抜け出る。
刃渡り五尺八寸、柄本(つかもと)一尺五寸。美しい曲線を描く片刃の細刀が凶風を巻き起こす。希代(きだい)の剣客(けんかく)の腕を持ってして、何とか切り抜けた。しかし、動けなくなったことも確か。
塊鉛、籠雲、共に一流の戦士に違いない。
その二人をしても足止めにしかならないその技量を誉めるべきだろうが、詠來の中ではそんな事はどうでも良い。今、この瞬間に朋友(ほうゆう)を救えない。そのことの方が重い意味をもつ。斬撃を与え、受け止めるにつれ高まる焦燥(しょうそう)と不安。それを感じるが故、積もりゆく焦り。
風は大地に砕け、大地は風に削られる。炎は水に征され、水は炎に散らされる。戦線は膠着(こうちゃく)しているように見えるが、水面下の動きは激しい。既に手段は尽きかけている。繰り出す術全てを防がれる……余裕で。驚異的な自制心で自分を押さえてきたがそろそろ勝負をかけたくなってきた。
「我が契約の槍をもて、其を貫くことを命ず。
行け」
やたら複雑な文字と、荒獲の呼び声に応えて躍り上がる二頭の二本爪の龍ならぬ蛟(みずち)。目標はもちろん諷媛。
「榎家の末裔、諷媛の名において南王に勅す。
来たれ、【朱雀(すざく)】」
派手に降り撒いた【符】が失せると同時に、こちらは炎の怪鳥(けちょう)を召喚し対抗する。蛟相手ならこれでお釣りが来る。ましてや、術師としての格が違いすぎる。術師の精を喰らう幻獣召還は、召還者の精神によってその能力が左右される。ましてや、二体に振り分けるなど、愚の骨頂。一体の召還に絞れば【三本爪の龍】ぐらいは召還できるだろうに……
【朱雀】の動きに心を残しながら、さらに【符】を用意する。
爪に腹を割かれ、嘴に眼を失いながらもまだ諦めることはない蛟。それに伴い、荒獲の身体にも傷が増え、流血は増して行く。召還された霊獣と、召還者は一身にして同体。
「そろそろ頃合いですか……」
炎の霊獣が爪を【避】の一字で躱(かわ)すと、別の文字を宙に描く。
「血と、贄(にえ)もて我が契約を果たせ……」
出血が続く傷口から、溢れ出すものがなくなり、二頭の蛟もその存在を見えぬ何者かに喰われ失せる。
「何を……する気か……」
定石を無視したその行動に、警戒感を深めてしまう。用意したのは防御系の【符】。
「【蚩尤(しゆう)】」
上古の時代。桁違いの力を持った者同士の戦があったという。
その圧倒的な力は
海を干し
炎を満たし
風を裂き
山を崩し
光さえも自在に操った、と。
浮遊する大陸を自在に操り、世界を断つ壁さえも越えた超越者たちは突如歴史から姿を消す。
ただの伝説だ。
しかし、大陸各地にそれらしき痕跡が残っている。
その中に出てくるのが【蚩尤】
大陸の東にあったとされる【方丈島(ほうじょうとう)】を、一息に打ち砕いたと云う。
所詮(しょせん)、ただの昔話だ。
まずは、叫びだった。
手にした槍を取り落とし、頭部の角を降りかざす。
頭を抱え、転げ回る籠雲を前に何をせよと?
自分の身体よりも長い刀を片手に、守るべき朋友の元へと駆け寄る。
聖域にあって、瘴気(しょうき)が渦を為す。人には過ぎたそれが一人の男へと注がれる。
人の存在からかけ離れたものへの変貌(へんぼう)。
「卿淑、あれは……まずいわ」
既に二人の周囲には、【盾】と書かれた【符】が十枚以上漂っている。
「ええ、妾(わたし)もそう思ってたところ……」
詠來、徐(おもむろ)にその一刀を振りかぶる。
「招・嵐」
振り下ろされた刃先から転(まろ)び出たのは、間隙。
ただの間隙。
だから、その間に何者の存在をも許さない。
為すべき時に、為すべき事を、躊躇い無く為す。
見えざる刃は、一直線に牛頭の旧友に向かいその寸前で砕ける。
「あらま、遅かったみたい……」
気の抜けたような詠來の声に続き、【朱雀】が急襲を掛けるが、何かに邪魔され嘴(くちばし)が届かない。僅かに眉をひそめた諷媛だったが、腕の一振りで、【朱雀】を炎に還元。その存在を解放する。
荒獲は?
首を巡らせ、記憶にあるとおりの場所にその姿を認める。
口元を朱に染め、それでも毅然と立ち塊鉛を従える。堂々たる長者(ちょうじゃ)の風格もて、諷媛の視線を受け止める。僅かに口元が歪んだ事を確認。
「師匠、ご無事ですかっ!」
聞き慣れた、声。雨音に紛れても良く通る若い声。
「恋っ、控えなさい!」
師母(しぼ)の制止にも止まらない。勢いのままに【符】を掴み声高に叫ぶ。
「【斬】」
諷媛の声と重なり、恋の言霊が周を圧す。秀麗(しゅうれい)なる見習導師の手を離れた【符】は、風の刃となり朱に染まった術師と【頂の民】の巨体に殺到する。
慌てない。憎たらしいほど余裕をもった動きで、且つ、素早く宙に失われた文字を書き上げ
「【砕】」
の一文字を起動。失われた文字の一つで、七枚の【符】が散る。恋の呪力を、荒獲のそれが上回った結果。
浮かべた笑みが、その鮮やかな朱と共に凄絶(せいぜつ)を演出する。
「麗しき師弟愛ですか……諷媛の弟子殿、よく生きてましたね……豊剥(ほうはく)の槍から」
「有象無象(うぞうむぞう)を束ねたってどうにもなんないわよ」
虚勢だ。荒獲の『凄絶』に飲まれることに抗するための。
風を叩き、一人が無刃の一振りをもて。
地を蹴り、一人が希代の銘槍をもて。
それにやや遅れて、もう一人が呪鋼の大剣をもてその脇を固める。
「【昴星(こうせい)】か」
導師の呟きに、驚き振り返る。
「ほら、よそ見しない。【宿星(しゅくせい)】の剣士よ」
どう見ても年下にしか見えない女剣客に叱られ、慌てて正面へ向き直る。
「で、こいつらは何なんです? 師匠」
「【赤帝(せきてい)の乱】の【慶徳門七勇(けいとくもんしちゆう)】……生きた化石だけど、」
「だけど?」
そういえば、諷媛もその【七勇】の一人。
時は、八拾六載の昔に遡(さかのぼ)る。
【赤帝】を名乗る一人の男が、壱百有余人を率い南方、鈴泉(れいせん)の邑(むら)で反旗を翻した。両三年に及ぶ飢饉(ききん)によって高まっていた民衆の不満に乗じ、瞬く間に反乱(はんらん)は各地へ飛び火。王朝の根幹を揺るがしかねない大乱となった。
しかしながら連鎖的に起こった反乱は、「生活の困窮(こんきゅう)故(ゆえ)、反乱に加わった者の罪を問わない」「官庫の解放による食料の援助」などの対策を、時の宰相【丙祭(へい・さい)】が早期に打ちだしたため急速に収束の方向に向かった。が、【赤帝】が直接率いる一軍の結束は堅く、討伐軍をよく退けついには帝都【黄京(こうけい)】の南門へと迫る事を許してしまう。
【鄭の成候(ていのせいこう)】率いる防衛軍の善戦により、戦力の大半と有力将帥のほとんどをを削り取られながらも、【赤帝】及びその旗本五千余騎が禁城南の正門【慶徳門】に至る事に成功した。
たった十二人が守るその門に於いて激戦が展開され、諷媛を中心とした攻城呪法級儀式符術により【赤帝】軍本隊を撃退した。
その時、最後まで生き残った七人が【慶徳門七勇】と称されている。
それは、
例えば、榎諷媛であり、
例えば、敬詠來であり、
例えば、楼荒獲であり、
例えば、趙豊剥であり……
「一騎にして当千。なめるんじゃないわよ、恋」
【符】の束を持ち直し、ようやく立ち上がった牛頭の籠雲に向かい構える。
「って、あれは何です? って、うわっ、凄い瘴気……」
「ろくでもないのが、ろくでもないことをするために呼び出した、ろくでもないもの」
「……よく分かんないですけど、分かりました」
よく似た師弟であることは確かなようだ。
「涼穿、杏(きょう)は妾(わたし)と共にこちらだ。【昴星】、あれは任せる」
「武成だ。慶堅(けい・けん)、字は武成。憶えていただきたい、【剣】殿」
「くっくっく、気に入ったわ、若造。この敬卿淑に、その様な口をきく者は久しぶりよ」
肩をすくめ、【蚩尤】に向き直る。見た目十七・八の少女に言われるには、少々くすぐったい言葉だ……中身は九拾歳を越えるのだが……それは禁句である。
「恋、【浄化の法】は憶えてる?」
「はい、師匠」
二十八の星宿が、それぞれ一枚一枚に描かれた【符】を示す。
「幸い、ここに【宿星】が一人居るから利用するわよ」
「なっ」
「おだまりっ!」
何か抗議しようとした堅を一言で黙らせる。【導師】、貫禄の勝利。
【星宿符】の束から一枚を引き抜く。『昴』と書かれたそれを、目の前の広い背中に叩き付ける。
「頼りにしてあげる……」
その詞(ことば)に応えること無し。
黙って、その【符】を受け入れる。何か、堅の中で僅かに鼓動。跳ねた心臓が力を送り出しはじめる。胸のつっかえが取れた……そんな気がする。
恋の手には残り二十七枚。七・七・六・七。分けられたそれを、東南西北それぞれの方向へと一息に投げる。空に散った【符】は【蚩尤】を中心に、【宿星】の定められた位置へ。
「行けっ。慶堅」
星々が形作る結界に一つの穴。西の中央にあるべきは【昴星】。【二十八星宿】最後の欠片が【導師】の言霊の後押しを受け、その速度を増し突入。
二十九枚目。真っ白な【符】を、
「力となれっ、【滅(めつ)】」
躊躇い無く、星の力を秘めた清浄なる炉へと放り込む。恋の発した【滅】は炉の結界に触れることで【浄】が加わり、【瀞】として力を持つ。つまり、【争】を【静】するに【威】をもって為すという……分かるものにしか分からない理屈をして結界の中で瘴気を滅する力に変化する。
最初の変化は唐突だった。星の光で構成された天蓋(てんがい)が、内圧に折れ急速に膨張をはじめる。星宿の結界が、その浄化能力の全てを瘴気に喰われ、その存在を書き換えられてゆく。
「武成っ」
恋の声に応えるように、地の底から響くような雄叫びが始まる。
諷媛の【符】が飛び、結界を維持。さらに高まる内圧と叫び。
最初の一撃は塊鉛によって生み出された。
荒獲の操る『失われた文字』が刻まれた大剣【喪(そう)】は、その一振りで斬撃自体が音速を超過。実体化する。僅かに遅れた詠來の肩に担がれた【疾風】が、振り下ろされると同時に巻き起こした風の斬撃がそれを迎え撃つ。
斬撃同士がかみ合い、大気を破壊しながら共に失せる。
破壊された風たちが物理的に変化、空中の杏がその副産物の乱気流に巻き込まれ体勢を崩す。地上から迫る恒には、破壊された大気の余韻が前進を阻む。
振り下ろされた刃が反転、跳ね上がる。当然、周囲を圧する斬撃が発せられる。変質した大気の壁をも断ち切り、塊鉛にまで……その前に荒獲の『失われた文字』が立ち塞がる。急速に実体化した【壁】の一字にぶつかり、磁器の如く澄んだ音をもって砕ける。
それはそれでよい。目の前に、肉眼では判然としない道が開けた。
できたての僅かな隙間をめがけ、宙より舞い降りる皓(しろ)い影。
その速さには、さすがの荒獲も間に合わない。光の軌跡が楕円(だえん)軌道を描き、塊鉛を頭頂より両断せんと迫る。正(まさ)しく猛禽(もうきん)。
物質であれば、何者をも両断せしめるはずの光の剣。込められた呪力によって、それを受け止めたのは【喪】。刃が咬(か)み合った衝撃が等しく両者に与えられる。
塊鉛は問題ない。巨躯に力を込め、耐える。
【飛空(ひくう)の民】の骨格は空を舞うために特に華奢に出来ている。頑健な【頂の民】にとっては全く問題ない衝撃であっても、【飛空の民】……なかでもとりわけ華奢な杏にとっては、両腕の骨が砕けるぐらいではすまないだろう。
だから、光の刃が骨ではない堅いものに当たったことを知覚した瞬間、
硬質で高く澄んだ余韻(よいん)を残し光が散った。
柄だけになった光の剣を振り回すことで体勢を空中で整え、地に足がつくと同時に前へと蹴り飛ばす。同時に二対四枚の翼を展開。天へと飛翔。跳ぶよりも疾(はや)く飛ぶ。
その鉄靴(てっか)をかすめるように、左袈裟(ひだりけさ)の斬撃。下がるだけでは、巻き起こる衝撃波に五体はおろか、五臓六腑に至るまで完全に打ち砕かれていただろう。【疾風】や【喪】とは違い、杏の剣は衝撃波を生み出すまでには成長していない。打ち消すことは不可能。
僅かに痺(しび)れの残る腕では、現状に於いてこれ以上の継戦は不可能。そのまま、塊鉛の手が届かぬ高空へと。
虚しく空を叩いた【喪】の斬撃を、相殺ではなく直接叩き切った詠來が剣の脇を、恒が駆け抜ける。“道”以外の大気も、やや動きを制限するぐらいにまで調整化しているが、その“やや”が命取りになり得る。
完全に振り下ろされ、地に付いた切っ先が上がるよりも早く、自分の間合いを確保。眼前、塊鉛を守るために展開された【壁】の一字。完全には覆っていないことを確認。身を低く、地を掠める槍の一撃。恒の槍は別段、特種な呪による加工が為されているわけではない。よい作りではあるが、普通の槍だ。
塊鉛、肉を削いだ穂先を、傷が広がるのも構わず柄を蹴り上げる。
衝撃に跳ね上がるままに手を離す。穂先が砕け、用を為さなくなったそれを一瞥すらせず、拳を固め肩からぶつかるように前へ。まず、【壁】に当たるが、その衝撃をもって失せる。摺(す)り足で跳んできた左足が着地。具足の底が杭を打つが如く地を掴み、右足が前へ跳ぶために地を蹴る。左足を軸、右足が伝えた力をして身体腰が回転を始める。右の拳を、抜き手に構え全ての力を乗せ、捻るように突き出す。
塊鉛、左手を【喪】から離し、受けにまわそうとするが決断が遅い。絶望的なまでに間に合わない。
まずは鋼(はがね)の鎧。変形することで受けた力を逃がすが、衝撃の大部分は塊鉛の腹へと注ぎ込まれる。恒の手甲も、その衝撃に耐えきれず、かろうじて腕に巻き付いている程度……。
つまりは、素手……いや、指先で鋼を切り裂いたということ。すかさず、後ろへ倒れ込みつつ抜き手を引き抜く。防御に間に合わなかった塊鉛の左腕に捕まる前に。鮮血の下に、薄青い鱗が見える。
自ら倒れようとするその身体に、丸太のような足が叩きつけられ、塊鉛に比べ小柄な――それでも鎧を含めた重量は三十貫(一貫=参千七百五拾 瓦)を大きく超えるのだが――軽々と舞い上がる。
「【爆】」
事あるを期して用意されていたその文字を声高に叫ぶ。
跳ぶ。
望んだものではないが、火を伴わない純粋な爆発に高く高く、遠く遠く……
「りょーせんくんっ。掴まってっ」
手を伸ばすが、反応がない。鎧の前面が大きく弾け、薄青い鱗がここにも見える。が、あまりの衝撃に意識が飛んでいる。
見た限り、致命的な外傷がないことを確認。安堵(あんど)。意を決して正面から抱きつく。下降が始まっている、時間がない。が、三十貫を越える重量は、やはり杏には荷が勝ちすぎたか。いつものように、恋を抱えて飛ぶのとはわけが違う。落下速度はゆるんだが、正面光の天蓋にそのまま向かっている。いまさら方向を変えられるぐらいなら、苦労はしない。
広い胸板に顔を埋め、ちからいっぱい恒に抱きついてみる。と、そっと包まれる感触。
「きがついた?」
「ええ……状況は?」
「えへへ……ついらくちゅう……」
「そうですか……」
杏を抱く腕に今少し力を入れ直した次の瞬間、星の光の満ちる天蓋を突き破る。
「どっ、どうしよう……母様(かぁさま)」
予想外に悪化してゆく事態を前に、恐慌(きょうこう)に陥(おちい)る恋。頼るべき存在が側にあると、意志の力はどうしても弱くなる。それを、一般に“甘え”と呼ぶ。師の呼び方が変わっているのもそう。
「状況を繕(つくろ)う手段か、清算する手段か……選びなさい、恋」
具体的に採るべき手段ではなく、抽象的な選択肢の提示。
慌てて自分の服を叩き、とっておきの【符】を探す。
まずは、【白紙の符】を振りまく。
「榎(か)家の末裔(まつえい)、恋の名において西王に勅す」
探し出した【符】をかざし、朗々と詠い上げる。
「万物を滅する咆哮(ほうこう)と為さんことを」
【白紙の符】たちが一つの流れに乗る。
「疾(と)く」
他の【符】よりも二周りは大きな【符】。【白虎(びゃっこ)】と書かれたそれは、恋の言霊に反応して周囲に異界へ続く細かな穴を開け、力を蓄え始める。
流入するそれを纏わりつかせ、
「その力をっ」
さらに方向性を与えられ、
「顕(あら)わせっ」
それは虎。顕現(けんげん)した幻獣は、見る間に崩壊途上の結界を吹き飛ばし、堅の大剣を素手で掴む牛人の姿が……先よりも体が大きくなっているか。その向こうで、のろのろと起きあがろうとしている恒たちに少し安堵。
堅が慌てて剣から手を離し、地へと身を投げる。
恒が伏せたままの杏の上に、覆い被さろうとしている。
【白虎】の爪が、魔獣と化した籠雲を打ち据(す)える。
定められたように弾ける。
今し方付けた傷を媒体として、その身を力と変え【蚩尤】へと叩きつける。
爆発的な風の膨張。
立木をもなぎ倒す暴風は、二人の術師のみを避け無差別に殴りつける。
「【裂】」
暴風の中、聞こえるはずが無く、避けることもまた叶わぬ。
動いたのは、諷媛。
おもむろに恋を突き飛ばす。
自分の頬が深く裂ける……
自分の身体が倒れてゆく……
自分の目の前で、母の首が転がり落ちて……
分からない。何が起こっているのか……
動かない。咄嗟(とっさ)に何も出来ない。
銀色の何かが視界を舞う。
何も出来ず、地面に尻をつく。
その上に、肩より上を無くし、鮮血を吹き出す母の身体がのし掛かる。
喉の奥まで悲鳴が駆け上がるが、必死で堪(こら)える。叫んでしまえば術が使えなくなる。恋のやけに醒(さ)めた部分が、その教えを忠実に守ろうとしている。
術の主が風を割って女たちの元にやってきた時、【符】を構える程度の事しかできなかった。母の躯を抱き、荒獲を見上げる。
「……禎鏡?」
やけにひび割れた声だった。
この男と、師であり母でもある女性との間に何があったかは知らない。
昔の仲間……それだけではないだろう。
今、それを問う気にはならない。
間違いないのは、その男は……母の、師の仇(かたき)。
今は力が足りない。
絶対的に足りない。
救われたこの命、簡単に捨てるわけには行かない。
「娘」
頭上から浴びせられた言葉に、残った力全てをかき集めた視線を返す。
「憎いか?」
ゆっくりと頷き返す。
「【緊】」
その一字で、躯から離れてしまった頭部が氷の棺に納められる。かなり短くなってしまった髪も、美しい。生者にはない、何か人形めいた美がそこにある。
「いつでも取りに来い」
宙に三つの文字を刻む。
「【転】」
導師が【暴(ぼう)】したことで、失われた聖域の結界。荒獲の転移の術は発動し、彼を残し宙に溶け去る。氷に閉ざされた諷媛の頭部さえも。
「諷媛の若い頃によく似ている……娘か……」
なにか、感慨深げに一人呟く。
「さらばだ……【転】」
最後の一人も【失われた文字】と共に消えた。
虧いたる月が盈は必定
帝とあっても、
貴人とあっても、
諸侯とあっても、
士大夫とあっても、
布衣とあっても、
月満つれば則ち虧くことは避けるを得ない
たとえ、
仙とあっても
【暴】するを避けるに能(あた)わず
虧いたる思いは戻らず
虧いたる日々は戻らず
虧いたる思いは戻らず
ただ、
ただ、
虧くことを恐れるのみ
幕間 弐
「どうした?」
堅(けん)の僅かな変化に、一人気付いた者が居る。そっと額に掌を押しあて、老いたる巨躯を牀(しょう)に倒れ込ませる。
「少し、昔のことを思い出していました……」
「そうか……」
額から頬へ優しく手を差しのばし、そっと包み込む。
「顔色が悪い。少し休め」
「貴殿にその様な言葉をいただけるとは……長生きした甲斐があったというもの」
老人が力のない笑いを向ける。必死で、冗談であることを告げようとしている。
「言葉ぐらい、いくらでもくれてやる」
兵士が房室(へや)を去ってゆく。それを促(うなが)した杏(きょう)はと言えば、榻(とう)の一つを占拠して壁際に陣取っている。特等席というやつだ。翼に引っかかるだけの、邪魔な背もたれは先程切り落とした。
「今ここで眠って……次がありますかな?」
強がりなのか、弱気なのか。
「安心せい、涼穿(りょうせん)めが来れば九泉(きゅうせん)の下からでも叩き起こしてやる。病人は大人しくしておれ」
宥(なだ)めるように、軽く手を握ってやる。
「ええ、お願いします……怜麟(れいりん)殿」
「伝えるべき言葉が違うのではないかな?」
皮肉な調子で云いながら、また優しく鉄灰色の髪を撫でてやる。
「……そうだな、怜麟……少し眠る……」
「ええ、それがいいわ」
ほんの一時、あの頃の二人に戻る。
あの頃……
お互い、立場などと堅苦しいものがなかった頃。
穏やかな寝息が聞こえてくる。
やはり顔色は悪いが、呼吸は安定している。
その貌(かお)に宿った死の影は、どうにも追い払うことは出来そうにないが。
つうと視線を房室の入り口へと向ける。
寂しそうに潤んだ目元。優しげに弛んだ口元。
たちまち、凛々(りり)しくも引き締められる。
「恒(こう)くんだー」
杏の無邪気な一声に続き、
「早かったな、涼穿」
「いえ、遅刻ですよ」
「そうだったな……。して、焔(えん)はどうした?」
「紹媛(しょうえん)殿は、第七皇子の第二息女殿下と、第四皇子殿下の第二皇孫妃殿下と談笑とのことです。卿淑(けいしゅく)殿は、旧知の御仁へ挨拶と」
両殿下とも、妙齢の美しき武人として名高い。どこで付き合いがあったのか、焔または、紹媛なる人物とは旧知と云うことらしい。
【黄】の国は太子が置かれない。皇帝が直に認(したた)めた勅書(ちょくしょ)が玉座に収められており、皇帝自身の手によるかその死後でなければ余人がそれを見ることが出来ない。その為、皇帝が病に倒れたときなどは、世俗(せぞく)の権力が及ばぬ【仙】を招き謁見の間を封印する。今回は、恋にそのお鉢がまわってきたと云うこと。
事情を知る、どこかの誰かが気を利かせたのかも知れないが。
「まったく、あの娘は……」
「れーりんちゃんの、ちっちゃい頃と同じだね」
「くっ」
恋の小言に、すかさず杏が茶々を入れる。云われた方に自覚があるため、云い返すことが出来ないが。
「武成兄(ぶせい・けい)はお休みですか?」
「ああ、今眠ったところだ」
離れた榻を引き寄せ、腰を落ち着ける。堅の手は握ったまま。
ふと、天蓋を見上げてみる。
「焔にも、師を真似るは大概にして貰わねば、な」
少し、風が冷たくなっていた。
第三幕 “渇”
ただ、ひとつ
それを失いて
全てを投げ出す者が居る
ただ、ひとつ
それを得て
全てを得る者が居る
ただ、ひとつ……
灯りはない。ただ、外から戸を叩く音が聞こえる。【符】で封じてはあるが、房室(へや)の外にいる男にとっては何物でもないだろう。
目前にある、呪氷(じゅひょう)の冷気がその身を包んでいるが気にもとめない。
この地下室に、母の遺した水晶球と共に籠(こ)もって既に十五日。以前から一日や二日といったことはあったが、ここまでとなると初めてだ。
杏(きょう)はともかくとして、他の三人は焦れてきている。その中で一番直情な者が迎えに来ているのだろう。誰であるかは、想像がつく……遠慮なく叫ぶなんて一人しか思い当たらない。
唐突に騒音が失せた。
沈と冷えた静寂の中。
「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
叫びに続いて破砕音(はさいおん)。
「いつまで籠もっているつもりだ」
煌々(こうこう)とした灯りが差し込み、部屋の中を照らし出す。
「怜麟(れいりん)、何をしているんだ?」
叩き壊した戸から。呪鋼(じゅこう)の大剣を引き抜き、石造りの床に軽く突き刺す。
「何をしているのか、と聞いている」
「ほっといてくれる……」
どこまでも静かな声。
「ここで腐ってゆくつもりか? 託された役目も果たさずに」
僅かに肩が揺れた。
「新しき【白炎(びゃくえん)の導師】よ。師母(しぼ)の思い……踏みにじる気か?」
遠慮なく叩きつけられる言葉。
「弐載(年)待った。本当にそこで腐るつもりなら……」
何かに生気を抜かれたように、ふらつきながらも立ち上がる。
「我が、斬るっ」
乾いた音が響いた。
恋の右手の一閃は、遙か高い位置にある、堅(けん)の頬を的確に捉えていた。
「何が分かる……」
「なんだと?」
「汝(うぬ)に、何が分かるっ」
雑袍(ざつぽう)の襟(えり)をねじり上げ、堰(せき)を切ったように逆巻く感情を、そのままに叩きつける。しかし、詞に覇気がない。言霊(ことだま)が籠もっていない。
「ああ、解らんな」
「……なっ」
「そうやって捻(ひね)ていれば満足か……案外だったな……」
つまらなそうに吐き捨てる。
「汝(うぬ)の覚悟はその程度か。剣を持つに価せんな……っ痛」
突然、目の前の巨漢が跳ね上がる。
「っめい、何しやがる」
「言葉遣い」
「後ろから蹴り飛ばすような奴に、礼儀なんざ云われたくないっ!」
襟首(えりくび)掴んだままの恋(れん)をそのままに、身体ごと振り返る。
一度は切断された腕を組み、【宿星(しゅくせい)】の巨漢を見上げる詠來(えいきょう)。とはいえ、鉄靴(てっか)で容赦(ようしゃ)なく蹴上げるのはいかがなものか。
あの時……風に煽(あお)られ身体の平衡(へいこう)を失った詠來の左腕を断ち、諷媛(ふうえん)をも討った【裂】の一文字。
恋の符術(ふじゅつ)によって、剣士としての生命も救われた詠來。しかし、堅に俯(うつむ)きながらしがみつき、自分に貌(かお)を向けようとしない恋にこのときばかりは容赦しなかった。
「冷たい氷に閉ざして、いつまでここに放置するつもり? 大した親不孝だこと」
ほんの少しだけ、恋の肩が震える。
「禎鏡(ていきょう)もつまんない死に方したわね。後を託したのがこんな腰抜けなんてね」
基本に則(のっと)った悪態ではあるか、それだけに直接恋の心を揺さぶる。もともと、気にはなっていた所だから尚更(なおさら)だろう。
未だ握り締めていた雑袍の襟を、より一層捻りあげる。
「じゃぁね、しばらく会えなくなるから」
顔を真っ赤にして、理不尽な仕打ちに耐えていた堅を突き飛ばし詠夾の方へ向き直る。
「……どうして……」
「やっと口をきいたと思ったら、『どうして?』 分かり切ったこと聞くじゃないの。【導師】を討つような危険人物、放って置くわけには行かないでしょう……って建前なんてどうでもいいわ。あの莫迦(ばか)だけは私が斬らなきゃ気がすまないのよっ」
「……そうじゃない……」
やっと二人の視線があった。
「……卿淑(しゅくけい)まで私を捨てるの……」
次の瞬間詠夾のとった行動は、つきあいの長い恋にとっても意外なものだった。
一息に恋の間合いへ侵入、右胸ぐらを掴、足を払いつつ回転。体を入れ替え、そのまま踏み込みと抜刀の速度で遠慮なく右手一本をして壁へ叩き付ける。
人を斬るときでも見せない、剣呑な殺気を隠そうともせず……いや、あえて恋に浴びせかける。
「捨てる? 違うわね、恋。
捨てたのは、貴女の方じゃないの」
「それは云いすぎ……」
「黙れ、【昴星(こうせい)】」
後背の巨漢を見もせず、一言で黙らせる。
僅かに舌打ち。浪費してしまった時間を埋めるように、さらに前へ出る。
額をぶつけ、噛み付くような距離へ。
「甘ったれるんじゃないわよ」
低く低く抑えられた声には、隠しようもない本物の怒気が混入している。
「期待を裏切ったのは誰?
責任を放棄したのは誰?
貴重な時間を無意味に浪費したのは誰?
まぁいいわ……良くはないんだけど」
そこで一旦身を離す。とはいえ、恋を押さえつける力は小揺るぎもしないが。
「で、ここからが重要。今まで云ったことなんか、貴女だって分かってるみたいだからね。
……これからどうするつもり?」
無言の意思表示は許さない。
頷くことも、
首を振ることも、
意思表示にはならない問い。
「……いく……」
「何?」
「……私も行く。卿淑と一緒に、討ちに行く……」
幾分力が抜けてはいるが、先と打って変わった力が籠もっている。
「断る」
詠夾の応えは、恋が期待した
優しい抱擁(ほうよう)
厳しい叱咤(しった)
とはまるで違う。
「……考えなさい。結論が出るまでぐらいは、待ってあげるわ。雨の季節になる前に、旅に出たいんだけど」
どこか他人事のように。
まだ決めかねてるように。
「さぁ、行くわよ。【昴星】」
「えっ、あっ、おい……えーっと」
為されるべき事は、為されたようだがどうも納得がいかない。
「斬る」
とまで云った、あの決意はどうなるのか?
先からの自分は、控えめに云っても道化。
「なに訳の分からないこと云ってるのっ。さっさとこっちへ来なさい」
「もう少し、一人にしてくれないかな……武成」
愛すべき好漢が、そこにとどまる理由はもう……無かった。
「卿淑殿」
ただ、雑草のみが点在する広い広い庭。
今度、雨の季節が来ればもう弐載になる。
一度高熱に焼かれた土は、何物も育まない。
赤い砂塵が風に舞う。
「解ってるわ。あの娘に……厳しすぎるって云うんでしょ」
「あれでは……」
「時間がないのよ。時間が……」
苦渋。
「出来れば、自然と立ち直って欲しかったんだけどね……
……最近、【西海竜王(せいかいりゅうおう)】が交代したんだけど……どうもきな臭いのよ。
【崑崙(こんろん)】が調査を命じてきてね……
あちらさんも、新人の実力を見たいんでしょう……って云うのは表向き。
実際は、自分の弟子を送り込みたい俗物(ぞくぶつ)がたくさん居るのよ。新入りほど叩きやすい……ってね」
「【仙】の方でも、その様なことがあるのですか?」
「所詮(しょせん)、もとは同じ。高潔な人間なんて、そんなに居ないわよ」
つい漏れてしまうため息。振り返って、館を仰ぎ見る。古(いにしえ)の呪が効き、自己修復を果たしたその姿。長年見慣れたその姿。
「我々と同じですか……彼女もそうなんですかね……」
なんとなく、抜けるような青空を見上げて、巨大な剣を担(かつ)ぎ直す。
「なに、気になるの?」
ほんの少し、からかいの色が混じる。
「まぁ、私も恋の母親みたいなものよ。あれが生まれたときに立ち会ったし、二人で育てたようなものだからね。
まっ、せいぜい大事にしてよ」
先とは別の意味で天を振り仰(あお)ぐ。どうにも、苦手な存在というものはとことん着いて回るらしい。
「知るか、んなもん」
なにを見られるとまずいのか、ずっと空を見上げ続ける堅だった。
風を叩き、皓(しろ)が舞い降りる。
二対四枚の翼が、ゆっくりと折り畳まれる。
「あれ? れーりんちゃん」
彼女をこの庭で見るのは、ほぼ弐載ぶり。
二人が顔を合わしたのは、ほぼ参拾日ぶり。
いろいろ云うべき事があったのかも知れないが、杏(きょう)の笑顔の方が何倍も雄弁だ。
「いいてんきだね」
「……うん……」
つられて同じように空を見上げる。先刻、同じようにした二人がいることを知る由もなく……
右の頬に浮き上がった傷跡が、未だ自己を主張している。
【斬】れたのではなく【裂】けたため、自然治癒では痕が残ってしまった。早期に符術を使えば綺麗に治ったのだろうが……その真意は今もって不明。
「……杏……わたし、また……戦えるかなぁ……」
訥々と、ただ漫然(まんぜん)と。以前の恋にあった『烈気』は形を潜めたが、しばらくの隠遁(いんとん)生活によって何か別のものが醸成(じょうせい)された感がある。
「だいじょうぶ、だよ」
「ん?」
「れーりんちゃんは無理しなくていいんだよ。ぼくたちがいるんだから、ね」
「……」
視線を下ろすと、そこに杏がいた。
何となく合ってしまった、黄金の瞳と。
物怖じすることなく、泰然(たいぜん)と碧の双眸を見つめ返す
水の匂いが風に乗ってくる。
【蛟竜】の季節が近い。もう数日もすれば、南部森林地帯は雨に閉ざされる。
「杏……ちょっと頼めるかな?」
翌日、二人の姿が【樂瑯館(らくろうかん)】から消えた。
一枚の書き置き、
『旅に出ます、探さないでください』
を残して。
「ったく、あの不良娘たちはっ」
「保護者の監督不行届だと思わんか? 涼穿(りょうせん)よ」
「武成兄(ぶせい・けい)、声が大きいです」
「聞こえないように云ったら、ただの陰口だろ……のごぁ」
一顧(いっこ)だにすることなく繰り出された卿淑の拳が、冗談ではすまないほど鮮やかな色に染まる。
して、ひとこと。
「すまんな、手が滑った」
踏み込み、角度共に完璧な一撃。振り抜け感が爽快なのがその証拠。手甲を付けていたりするから、なお質が悪い。
「めっ、明確な殺意を感じたが……」
「気のせいよ」
今の一撃を食らって、すぐに起きあがる方もただ者ではない。鼻血で大変なことになってはいるが。
「二人とも何を遊んでるんですか。早く出発しないと……少なくとも半日は遅れていますから」
「そう……行き先はだいたい解っているからね」
男達が怪訝(けげん)そうに詠夾を見下ろす。
「杏がどこから帰ってきたと思ってるのよ」
「知らん」
「知りません」
自信たっぷりに言い放つ二人に、ちょっとため息。
「恒、悪いことは云わないから、惚れた女の行き先ぐらい把握しときなさい」
「けっ、卿淑殿っ。とっ、突然何を言い出すんですかっ」
「ほらほら、顔が赤いわよ……そうそう、その杏だけどちょっと【崑崙】に行ってもらってたのよ。【西海竜王】の件で、ね」
解っているのかいないのか……しきりに頷いている義兄弟をそれはそれで放置することにする。どうあれ、詠夾の行動に差し障(さわ)るわけではない。
「さっ、もう出かけるわよ」
「確かに、これだけ子分を集めることができても【西海竜王】に敵(かな)うわけがないし……」
「そーだね」
「聖域の結界も解けてる……」
忙(せわ)しなく風を叩く四枚の翼と、呪(じゅ)で集めた風の上に胡座(あぐら)を組む術師。
壱百有余人を四人で覆滅(ふくめつ)――それも無傷で――するような者からすれば、目算六拾余人などどうとでもなる数だ。となると、直接戦闘力で恋たちを圧倒的に上回る【西海竜王】とその家臣六人を相手にするとなると、どう考えても役者不足だ。『もともとの数からここまで減った』という考えは確かに有効だが、そうなればこの付近に屍山血河(しざんけっか)が築かれているはず。
さて、誰がどんな策を使ったか……
「真っ当に考えれば、『人質』『だまし討ち』『術者がたくさん居た』……意外なところで『人生に疑問をおぼえた』『飽きた』……真っ当に考えましょ、真っ当に」
「うんうん、まっとーにね」
一度、何か云いたそうに杏を見るがそのまま眼下の館――要塞と言った方が正しいような気もするが――に視線を戻す。
首謀者……つまり【西海竜王】を僭称(せんしょう)しているのは彩英會(さい・えいかい)と名乗っているらしいが、今まで誰も聞いたことのない名だ。だからこそ疑惑が持ち上がったのだが……
【四大導師(しだいどうし)】と【四海竜王(しかいりゅうおう)】
両者は似て異なる存在だ。
共にこの【界】を支える“存在”ではある。
古くからある習慣と云うだけではなく、この世界を分かつ“結界”の鍵となっている……らしい。過去幾人かその“結界”の存在を確認しているため、存在することは間違いない。
間違いはないが、その“結界”がなぜそこにあるのか……ほとんど解っていないというのが現状だ。
【四大導師】は“結界”の維持の役割を果たし、
【四海竜王】は“結界”の防衛の役割を果たす。
なぜ?
何のために?
それは、歴代の【導師】【竜王】が問い続けた問いだ。
ただ、その役割を理解せずして、その地位のみ欲しがる者もいる。嘆(なげ)かわしいことだ。
「さて……ん? なに? 杏」
胡服の裾(すそ)を引っ張る杏にもう一度顔を向ける。
「あれ……みおぼえない?」
つぅと、指をさした方向。大きな二つと少し小さな一つ。
「もう追いついてきたの? さすが卿淑、三日も引き離せてないじゃないの」
と、この面子なら出来なくもない一策――芸がないし、策とも呼べないかもしれない――しかし、こうとなればこれ以上有効な戦術もあるまい。
「まぁ、彼奴なら殺したって死ぬほど殊勝な性格してないし」
「おい、何か間違ってないか?」
そんなことを言いつつ、前方左右から斬りかかってきた男二人をまとめて切り伏せる。
「武成兄もそう思いますか」
こちらは、一閃をもって両肩両腿に風穴を穿(うが)つ。死なない程度に戦闘能力を奪う。
おおざっぱに計算して、小者はそろそろ終わるころ。
さて、あちらはどうか……
情けなかった。
どうしても抜けない。どうしても詠(うた)えない。そのことがたまらなく悲しかった。
柄を握るだけで震える手、攻撃的な文字が刻まれた【符】に触れるだけで心に冷たいものが走る。
前衛に一人立つ詠夾は、まったく危なげない。どこからともなく飛んでくる矢までさばいている。どこまでも常識からかけ離れた御仁(ごじん)とみえる。
杏はこの後大仕事があるため、さらに後ろで観戦中。
深呼吸を一つ。僅かに鼓動が落ち着いたように感じる。
【符】を詠(よ)まねばならない……理屈では解ってはいるが、それに必要なだけの念が集まらない。
とりあえず一枚。直接人を傷つけるものではないが、それなりに威力のあるものを。
「風よ、集えっ【圧】」
詠夾の立ちふさがる廊下の先。やや広くなった場所の中心に異界への扉が開く。
違う?
「えっ? 卿淑、伏せてっ」
振り返ることも、問うこともせず。出来るだけ速やかにその場へ倒れ込む。
次の瞬間。
空間が弾けた。
密閉空間に解放された風は、あの【白虎(びゃっこ)】がもたらしたものを上回る勢いで荒れ狂う。
廊下を狂馬(きょうば)の如く駆け抜け、壁を、天井を吹き飛ばす。
既に全滅とかそういう次元で語ってはならないような惨状だ。
「あ……いや……その……どういうこと?」
放った本人が一番驚いているが。
迎撃用の広間に詰めていた者のほとんどが、急激な気圧の変化に耳をやられ戦闘不能。所期の目的は達してはいるが……
「それはこっちが聞きたいわよ……」
【銘刀・疾風】を床に突き刺し、呆れたような視線を向けている。
「えっと、いつも通りって云うか、そんな感じで使ったんだけど……基礎能力が上がってるって事かな?」
「きっ、気が付かなかったの?」
「なんとなく『呪がかかりやすいなぁ……』とか、『安定してるなぁ……』とは思ったけど……」
「……つくづく禎鏡の娘ねぇ……」
何か諦めたように、しみじみと……
「……もしかして、酷いこと云ってる? 卿淑」
「そんな事より、杏を探して先行くわよ。どこに飛ばされてるんだか……」
「あ……忘れてた」
「ときに、なぜに虹玉(こうぎょく)が疲れ切っているのか説明して欲しいのですが……」
恋が背負った杏を見ての、恒(こう)が放ったひとこと。
相当怒っているらしい。とりあえず、疲労回復のための【符】が数枚張り付けられているから、大したことはあるまい。
「ほらほら、いつまで甘えてるの。降りなさいって」
「きゅ〜ぅ」
大した余裕だ。
正面、正殿には件の彩英會が居るはず……礼に則った正面からの挑戦に対し、返答は矢石(しせき)であった。
通常【竜王】の継承は刀槍(とうそう)によって定められる。正面から挑戦されて、逃げるなどとは論外。正々堂々とした一騎打ちの後、その位が決せられる。
不正があれば?
それも問題ない。それは結界の揺らぎとして現れる。通常、【導師】【竜王】からなる討伐隊(とうばつたい)を退け得る者が不正を働く通りはない。
礼に従わない時点で『私には【竜王】たる資格はありません』と公言するも同じ事。
「彩とやら。礼に則って、ここにある、輝虹玉(き・こうぎょく)が一騎打ちを所望する。方々、出てこられませいっ」
朗々(ろうろう)と響く詠夾の声。
「出て来ないんなら、館ごと吹き飛ばすしかないか……」
なにげに恐ろしいことを平然と呟く恋。左翼側の回廊を壊滅させた『実績』があるだけに、冗談とかに聞こえない。
最初に動いたのは、恋。
【白紙の符】を盛大にばら撒き、
「【壁】となれっ」
攻城呪法級儀式符術が、その【壁】を飲み込み
「【散】」
最後まで発動させることなく、恋の一言であえなく散り果てる。
「ばかなっ、【白紙の符】だとっ」
【白紙の符】……符術師の究極とも言える形。
符術の難点は、予め【符】を用意せねばならないところ。用意されていないものは使用することが出来ない。ならば、使用したいときに念をもって、使用したい言霊を書き込めばよい……云うは易し、為すは難(かた)し。
本人の念だけに感応する【符】と、それだけの集中力、念の強さ。それでも周囲に気を配らねばならない……普通の人間に出来る技ではない。
その声が聞こえてきた方向に掌を向ける。揃(そろ)えられた手指には二枚の【白紙の符】。
儀式符術の主の顔が恐怖に凍り付く。声を上げることすら出来ない。自身最大の術をあっさりと散らした相手の術を受ける。ぞっとしない話だ。
恋の目が細められ、酷薄(こくはく)なものが漂う。先の暴発で何か吹っ切れたのか、躊躇(ためら)い無く詠う。
「【緊】」
拘束の術……
事実上、今回の騒ぎが終わった瞬間だった。
「はい、そこまで」
問答無用の一閃にて、彩の剣を断つ。なるほど、彩とやら一流と呼ぶに相応しいが【竜王】たるには役者不足。手にした剣も、よいものではあるがそれだけだ。先代の【竜王】の剣は扱いきれなかったようだ。
喉元に突きつけられた光の切っ先に、呼吸すら支配されたかに見える。詠夾の裁定を待つまでもなく、勝負有り、だ。
好む、好まざるを別にして、【西海白竜王剣士】輝皓玉が誕生したわけだ。
結局は『超遠距離からの儀式符術による不意打ち』と云うことらしい。それにしても幾つか疑問は残るが……とりあえず、当面は【崑崙】に引き渡すしかあるまい。
ただ、一つ気になることを聞いた。『楼某(ろうのなにがし)』という人物に策と、それに必要な【符】を貰ったという。
夜。……今後何があるにせよ、【崑崙】からの引き取り手が来るまでは動けない。
主無き【西海竜王】の館を借り、しばらく逗留(とうりゅう)するしかなく……ただ、自分の髪と同じ色の月を見上げる。
背中で少し、気配が動いた。よく知っている、大きくて温かな……
「眠れないの?」
「そういう先手を打つかぁ? 普通」
照れ笑いを浮かべながら、房室の入り口で立ち止まる。やおら腕を組み、ぼうと何かを眺めやる。
「やはり、絵になるな。これは」
雲が出てきているが、遮られることのない低い位置の月。それに照らされた均整のとれた肢体、やや乱れてはいる髪だがそこがまた自然。手酌(てじゃく)で美酒を煽る姿は……なるほど一幅の絵として残すにやぶさかではない。
「どう? こっちに来て一杯」
「月見酒とは風流だな」
手近な榻(とう)を担ぎ上げ、窓枠に掛ける恋の手前……小さな台の前に陣取り、しばらく無言で杯を傾ける。大きめの碗も、この男が持つと湯飲み程度にしか見えないが。
「吹っ切れたか?」
「もう少し聞き方というものがあるでしょうに……まぁ、それが武成の良いところなんだろうけど」
「そういうことを面と向かって云うんじゃない」
決して酒気によるものではない顔の赤さが月光に照らされる。
それを見て、心の底から楽しそうに笑う恋。こちらは、酒気のためにほんのりと顔を、腕を薄紅色に染めている。
無言でもう一献(いっこん)。今度は一気に空ける。
「『楼某』の行方は分かりそうか?」
「うん、手信(てがみ)を残してたから術で追いかけられるわ。掌の上で踊らされてるみたいだけど……悔(くや)しいけど、今のところ唯一の手がかりだから」
杯に目を落とせは、静かに揺れる水面が月光を反射している。
しばらくそれを眺めてから、おもむろに堅へと視線を向ける。
「ところでさ……」
「ん?」
「私のこと、どう思ってるの?」
床に目を落とせば、空になった酒瓶(さかがめ)が幾つか。相当に呑んでいるらしい。
「絡(から)み酒か……」
「何か云った?」
呂律(ろれつ)の方はしっかりしている。相当に質(たち)が悪そうだ。
「一番辛いときでも呑まなかったのに意外だな、とな」
「ふーん、まぁいいわ。んで、どう思ってるの?」
「卑怯(ひきょう)だな、酒の勢いと……月の光が強すぎてで怜麟の顔がみえんぞ」
「女の特権よ。こう云うことに卑怯も何もないの」
好き勝手なことを、どちらかというと酔っぱらいの特権でのたまう。
「そういうもんかねぇ」
頭をかきながら、とりあえず立ち上がってみる。
台に手をつき、恋の顎の下にもう片方の手を差し入れ上を向かせる。
「こういうときは眼を閉じるもんじゃないか?」
その言に従い、静かに碧の瞳を伏せる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
短くない時が過ぎた後、少しだけ恋の方が身を引いた。
「強引ね……」
嬉しいような、困ったような。そして、どこかくすぐったそうにそっと目を開く。
そのままゆっくりと、その広い胸に身を預ける。ささやかな酒宴の台は脇へ押しやられ、掛けていた榻も後に置いてゆかれる。
「で、どう思ってるの?」
「……今ので分かるだろう」
雑袍の襟を優しく握り、はにかみ俯いてしまう。
「……だめ、許してあげない。ちゃんと口に出してくれなきゃ」
さらに、見上げたかと思うと悪戯っぽく笑ってみせる。
「……惚れた弱みか……」
どこか諦めたように呟く堅に、嬉しそうに擦り寄る。月光に照らされた頬に浮き上がる傷跡。そっと、壊れ物を扱うかのように……ひと撫で。
「綺麗だな……」
「やめてよ、冗談なんて……」
「いや、綺麗だ」
「だいたいこの傷跡だって……」
云いかけた口を、先と同じ方法で強引にふさぐ。
やはり女性。頬の傷には内心忸怩(じくじ)たるものがあるようだ。
それも、時間にして数呼吸分。
「そんなもの関係ないな。こんな生活してりゃ傷の一つや二つは受けるだろう。俺だって全身傷跡だらけだ。慶淑殿はどうだった? 宮廷や街都で着飾っている女たちとは違うんだ。もっと自信を持てばいい。
おまえは美しい。そんな傷跡ごときで俯かなくてもいいさ」
見上げる瞳がたちまち潤みだし、堅を凝視したまま熱いものがつぅと頬を、顎を伝い流れ落ちる。堅の両腕が躊躇うように宙を泳ぐ。数瞬の後、そっと肩に置かれさらに背中へと回り込む。
「何で真顔でそんな事云うのよ……
何でそんなに嬉しい事云うのよ……」
「……やっぱり……惚れたからかな」
それだけ云って、本当に照れくさそうに笑う。
「風が冷たくなってきたわね……」
雨の季節の水分を含んだ風が、やや乾燥したこの地にも辿り着いたようだ。【樂瑯館】付近は雨の天幕に覆われている頃だろう。
何も云わず、恋を抱き上げ壁際の牀(しょう)へ。
「どうする気?」
からかうような響きの中に、僅かながら不安の張りがある。
「さぁな……まだ考えてない」
ゆっくりと恋を横たえ、身を起こそうと……ややぎこちなくではあるが、恋の両手が堅の首の裏に回る。
また、眼があった。
言葉はない。二人の距離が縮まりどちらからともなく、また眼を閉じる。
月の治める時間は、まだ……
ただ、ひとつ
それを失いて
全てを投げ出す者が居る
ただ、ひとつ
それを得て
全てを得る者が居る
ただ、ひとつ……
渇き
癒され
また、渇く
ただ、ひとつを求めて……
飽くことなく、
何を求めるのか……
幕間 参
「ここは……」
第一声がそれだった。
「気分はどう?」
「ああ……夢を見ていた……若い頃のな」
「そう……」
眠る前より濃くなった死の影に、周囲の者も言葉が出ない。恋(れん)のみが、自らの手巾(しゅきん)で額に浮いた汗を拭ってやる。
「紹介したい人が居るんだけど、いい?」
答えの代わりに首を巡らせる。その視線の先には、かつての盟友たち。
「涼穿(りょうせん)……久しぶりだな。卿淑(けいしゅく)殿も……」
「無理はしないで下さい、武成兄(ぶせい・けい)」
「ええ、久しぶりね。【昴星(こうせい)】」
それに応えて不敵に笑ってみせるが、すぐに荒い呼吸の中に埋まってしまう。
「で、怜麟(れいりん)。紹介したいというのは?」
意外と力強いが、声に張りがない。問うてはみたが、視線が少し定まらないようだ。
恋……視線を逸らせ、しばらく息を整えるように深呼吸。溢れそうになった感情を何とか抑えきる。
「さ、焔(えん)。ご挨拶なさい」
恋に促(うなが)され進み出たのは、肩より少し下ぐらいの結い上げた月髪、濃紺の瞳を持った【森の民】の女性……まだ、少女といったところだろうか。
「【白炎(びゃくえん)の導師】榎怜麟(か・れいりん)が弟子、榎焔(か・えん)。字を紹媛(しょうえん)と申します。陛下の御孫様に当たります、香泉(こうせん)殿下、恵明(けいめい)妃殿下とは親しく交際させていただいております」
物腰も優美ではあるが、その節々に烈気が見える。“あの”悲劇が起こる前の恋にそっくりだ。
「そうか……二人とは末永く仲良くしてやってくれるか……」
「とんでもない。こちらこそお願いいたしますわ」
万事そつなく応対してみせるのは、やはり二人の皇室関係者との親交があるからだろう。
「榎か……一族の者か……」
「ええ、私の娘よ……」
老皇帝の独白とも思えるつぶやきに、要点だけを応える。少し肩に力が入って見えるのは、気のせいではないだろう。
「そして、武成……貴方の娘でもあるわ」
第四幕 “父”
顧みて想う
今まで見上げていたのは何であったのか
振り仰いで想う
今己の前にあるのは何であるのか
労るべきであり
越えるべきであり
敬すべき存在
其を……
帝都【黄京(こうけい)】
雨……これから二月は降り続く雨。
北方、玄武山塊が森林地帯を北上してきた雨雲を引き留め、毎載(年)一定量の潤いをもたらす。
【赤帝(せきてい)の乱】で街都の六割が灰燼(かいじん)と帰した事もあったが、【黄】王朝の威信を懸けた復興事業によってかつて以上の賑わいを取り戻している。
【鄭成候(ていのせいこう)】が賊軍の大将頸三つを挙げた地には南の大市がたち、大きな賑わいを見せている。戦乱を憶えている者は最早少なく、みな平和を謳歌(おうか)している。
周囲を見回せば、東西の丘陵に十二貴士家の屋敷が建ち並ぶ。彼らの住居であると同時に、帝都最外縁の城壁として機能する。だからこそ、【赤帝】は討伐軍の存在を承知で南方から攻め寄せるしかなかった。
北方は中岳嵩山(すうざん)、の天嶮(てんけん)に抱かれ天然の清水、井戸などに不自由することはない。
南方、帝都南門から二里(一里=五〇〇米)の地点で各街道が交わり、さらなる賑わいを見せる。よく詩に詠(うた)われる【安寧橋(あんねいきょう)】【奉戴津(ほうたいしん)】は、先の大乱の後この地に玄武山塊に端を発する流れを人工的に導き、南方の守りとしたため誕生したものだ。東海に注ぐその流れを、【泰河(たいが)】と云う。
「まったく……大げさなところにいるもんだわ……」
禁城にほど近い街区、堅の知人、申岱(しん・たい)なる人物の屋敷。とある皇子の守り役ということだから、かなりの地位にあることは間違いない。
その中でもかなり大きな房室(へや)を借り切り、【符】の数枚をもって目標の位置を特定したのだが……
「ここから、こんな感じで真っ直ぐのところ」
と云いつつ、【黄京】のおおざっぱな地図に線を引く。先に引かれた二本の線と交差する場所。街都北方の大空白。
「【左殿】……いや、【豊正殿(ほうせいでん)】だな……皇子の中でもできの悪い、表にも出せないような奴らが放り込まれているところだ。
今のところは、一番上と下だったかな」
「やけに詳しいわね」
堅の説明に、もっともな疑念を挟む詠夾(えいきょう)。
「ここの家主に聞いたからな」
まだ何か引っ掛かる様子だが、とりあえず追求はしない。そう云うことなら、色々と事情が繋がってくる。
「現在の帝位継承権を持つ皇子は四人。できの悪い二人は除くとして、一人は行方不明でもう一人は詩人としてはともかく、為政者(いせいしゃ)としては絶望的……よくもまぁ、皇室も弱体化したものね……そう思わない? 【昴星(こうせい)】」
それも、今上帝が帝位を伺(うかが)うことが可能な皇族を尽(ことごと)く殺したからに他ならない。卿淑の言は皮肉ではあるが、決して間違ったことを云っているのではない。
「そういう振り方をされても困るが……さて、どうする?」
広くはあるが、この房室にいるのは僅かに三人。恒は杏のお守りついでに、南の大市まで都の雰囲気を探りに行っている。
「どうする」などと云われても採りうる手段などそれほど多くはない。
『こちらから乗り込む』
か、
『どこかにおびき出す』
ぐらいしかない。穏やかに“謀殺”が出来るほど甘い相手でもなさそうだ。
「卿淑(けいしゅく)。実際問題、おびき出せる相手?」
「あれと知恵比べする気には……正直、ならないわね」
「懐かしいな……」
それを見上げ、詠夾が呟く。白絹に、銀糸で炎の様を織り込んだ豪奢(ごうしゃ)ではあるが落ち着いた衣装だ。
禁城南門、即(すなわ)ち【慶徳門(けいとくもん)】。珍しく晴れた夜の月光に照らされ、所々黒ずんだその姿は記憶にある姿より少々古くさく感じる。時の流れというものだろう。
自分が付けた門柱の傷に目が留まった。思わず、あのとき自分が担当していた場所を振り返る。
「役所、か」
今では一軒の政庁が建つその場所で、諷媛(ふうえん)たちの儀式符術が完成するまでの時間稼をぐために【疾風】の一刀を振るったあの日。ぴーぴー泣きながら、『なぜ』と問いながら、友人の死を目の当たりにしながら……
「申岱殿、ここまでしていただいて……貴殿もただでは済みませぬぞ」
古い記憶から自分を引き離す。
まず現実問題として、客人待遇として禁城に招き入れてくれた同族の老人に。
「殿下が騒ぎを起こされた時点で、老骨の首はありませんからな。お気になさらず、存分におやり下さい」
なかなか大胆なことを……なるほど、こういう人物の教育を受ければ、ああなるのか。まさしく、剛胆と呼ぶに相応しい老人だ。
詠夾にはその背に向かい、静かに一礼するしかなかった。
壮麗ではあるが空々しく見える。おそらくは、この建物の使用目的を知っているからだろうが……
静謐(せいひつ)であるべき禁城に爆音が轟いた。
堅を除き【導師】とその従者の正装に身を包んだ一同は、【豊正殿】正面に穿(うが)った爆破孔より突入を開始する。
赤と白の布地に、金糸銀糸をふんだんに使った【導師】の装束に身を包んだ恋が次の【符】を用意する。腰に下げられた水晶球が跳ね上がる。
白地に、金糸のみで炎を縫い込んだ胡服(こふく)を纏う杏。柄だけの剣を握り、恋の右に並ぶ。
白一色に、微妙に色合いが違う白糸で炎を織り込んだ胡服の上に、金属鎧を着込んだ恒。総身鋼作りの槍を手に、恋の左を守護。
背後に控えるのが白に銀糸をあしらった胡服の上に、要所だけを鎧った姿は虎派剣士の標準装備といったところか。
最後の一人、堅だけは黒一色の装束の上から、作りの良い黒革の鎧に身を預けている。
行く手に立ちふさがるは、一人。
「まったく、最近の若い者は礼儀という物を知らぬのか」
「あんた、あのときの……」
恋の目が剣呑(けんのん)な輝きを見せる。細められ、表情全体に酷薄なものが宿る。
「趙豊剥(ちょう・ほうはく)……だったかしら?」
「いかにも」
「どっかで見た憶えがあるわけよね。二回ほど……いえ、この前のを合わせて三回は会ってるんだから」
恋がまだ子供だった頃、母を訪ねてきた【猪族(ちょぞく)】の男を憶えている。最後に見たのは六拾載ほど前。その時より、眼前の姿の方が断然若い。
「恋、先に行きなさい。昔のよしみで、妾(わたし)が相手をするから」
「卿淑」
「全員でぶちのめした方が楽だぞ」
詠夾、自分に正直な回答を述べる堅を一瞥(いちべつ)。
「四人がかりで、我に触れることも出来なかったのは誰かな?」
「百人がかりで、誰にも触れることが出来なかった奴もいたっけな」
挑戦的に笑ってみせる。
僅かな静寂の中に、鯉口を切る音が静かに鳴った。
「さっさと行きなさい。元凶はこの先よ。
恋、敵を討つ役は譲ってあげるから、生きて戻りなさい」
【疾風】を引き抜きながら前へ出る。
「【昴星】、案内してやってくれ」
「それは困るな。一人しか足止めできんのでは申し開きがたたぬ」
「行けっ」
詠夾の号令に従って、四人が行動を開始する。
それを阻止する動きに出ようとする豊剥を牽制するために、一歩前へ。
高く響いた金属音の後には、【疾風】に止められた【潰影(かいえい)】の斧鉾。
「ほう、あの小娘がな……腕を上げたな」
「時間だけはあったからね」
どちらからのもなく離れ、跳び退り、間合いを確保する。
「では、始めようか」
目の前に転がる屍が二つ。地上五階。かなり豪勢な房室だ。
「兄貴と啓(けい)か……」
誰にも聞こえぬ様にそっと呟いてみる。
「注意して、たぶん【蚩尤(しゆう)】が居る……」
贄(にえ)は既に捧げられている。以前のように“血”だけではなく“生命”を捧げている。【樂瑯館(らくろうかん)】での悪夢が恋の脳裏に蘇ろうとするが、一度首を振っただけで振り払う。
四枚の【符】が宙を舞う。
「【壁】」
四人が違いに背を合わせ、注意深くそれぞれの得物を構える。
「怜麟ちゃん」
聞き慣れた声ながら、いつもの間延びした口調ではない。
「杏……皓玉(こうぎょく)ね」
「そういう喋り方も出来るのか……なんでいつもはああなんだ?」
周囲の緊張を意に介していないかのように、素朴な疑問をぶつける堅。
「あの方が楽だから」
「……聞かなきゃ良かった」
杏の至極当然といった応えに、本気で後悔する。
「先に行ってくれる? 妾(わたし)と恒の方が何かと自由が利くから……」
「まさか……」
「それしかないでしょう……怜麟殿」
いつもの調子で恒が告げる。確かに、前回は師母(しぼ)がいてもあの結果だ。【宿星】を利用した【浄化の法】すら効果がないのであれば、恋に出来ることはない。
「…………」
沈黙。
誰もが恋の応えを待っている。
「武成、他に心当たりは?」
「無いことはないが……」
さすがに歯切れが悪い。このなかで【蚩尤】の力を直接体験したのは堅意外にいない。。
「行きましょう」
「いいのか?」
堅の問いは、恋に向かったものか、ここに残る二人に聞いたものか……
既に恋の足は房室の外へと向いている。
と、廊下の手前で一度立ち止まる。
「杏、涼穿……先に行ってるわ」
裏庭とでも呼ぶべきだろうか。高い塀に囲まれたそこは、ある種異様な光景に見える。結局この建物の住人は、いかに豪奢(ごうしゃ)に飾られていようと虜囚なのだ。無能であることを唯一の罪科として囚われていたの、と。
なるほど、無能であるが故に万一至尊の座に着く機会を奪うのは納得できる。分不相応な野心を制限することも可能だろう。佞臣(ねいしん)の道具にされることもないだろう。命を奪いたくないという親心か……一族郎党を殺し尽くした非情なる皇帝も人の親としての感情は残っていたと見える……しかし、この突入劇を許した真意は解らないが。
数億の民のためを思えば、王朝の存続を考えれば些細(ささい)な犠牲というところか……
かつては、政争に敗れた者。造反を企てた貴人などがこの【豊正殿】で果てたという。
また、第弐拾五代皇帝(明帝)は当時帝国を壟断(ろうだん)していた権臣から保護をするために、【豊正殿】にて育てられたと……
「案外暇なのね」
恋たちの前に、二人、男が立っていた。
一人は塊鉛(かい・えん)。【頂(いただき)の民】の巨体はそれだけで周を圧するに足る。山岳の厳しい環境に耐えうるそれは、【十二の民】の中でも飛び抜けた身体能力を示す。
もう一人は楼荒獲(ろう・こうかく)。【森の民】の細身に強烈な存在感が宿っている……どことなく不安定な……
「準備が済んでしまえば意外と手すきでな……」
頭上から破砕音が聞こえてくる。もう始まっているのだろう。
「約束どおり、返してくれるんでしょうね」
「ほら、そこだ」
荒獲の示す方向に目を移すと……なるほど。氷の塊らしきものが見える。おそらくは師母、諷媛の頸(くび)。
【符】の束を左の手首に装着。両手で【迅雷】を構える。
それより先に影が月光に踊った。
危なげなく鉛塊の剣【喪】に受けられるが、それも折り込み済み。弾かれた呪鋼の大剣の軌道を強引に修正して、今度は足を払う。身体の大きな者は、得てして足下に弱い。膝に叩きつける勢いで振るったそれが何かにぶつかり止まる。
【壁】の一字。
舌打ちと共に下がる。
振り下ろされた【喪】に衝撃波を呼ぶほど勢いが無く、ただ宙を斬り大地に亀裂を穿つ。
「【斬】」
恋の声と共に、塊鉛の鎧――肩当て――が弾け跳ぶ。
「招・雷っ!」
【迅雷】の一刀が雷(いかずち)を宿す。これが本来の能力。雷撃を打ち出すのは制御を離れた暴走に他ならない。
【迅雷】を振りかぶった恋が、問答無用に頭上から落下してくる。さらに、
「【封】っ!」
発動しかけた古(いにしえ)の文字が消えた。
あとは、刃を振り下ろすだけ。
【喪】を地面から引き抜けない。
かつて【慶徳門七勇(けいとくもんしちゆう)】と並び称された二人が、得物を手に向かい合う。
鞘に収めた剣。鯉口だけは切られているが、柄を握るでなく添えられた右手。腰を低く落とし、最初の一歩から全速力を出せるように。
豊剥の手は読める。
突きだ。
最も疾(はや)く、斧鉾が持てる力の全てを発揮する一撃を持ってくるだろう。
問題は、その力を受け流す事が出来るかどうか。その穂先を躱(かわ)す事が前提であれば、“後の先”を取らねばならない。
“後の先”……相手の動きを見てから、自分が動き、先に斬りつける。
純粋な疾さなら自分の方が絶対に上だ。残念ながら力がない。絶対値に於いて力が足りない。だから、疾さのある虎派の中でも最も疾い剣術“居合い”を習い憶えたのだから。 五歩の間合い。
僅かな空間を介して、かつての戦友が相対する。
豊剥はただの一歩で必殺の間合いに捉えることができる。その場合、詠夾は三歩を必要とする。
「……そうか……そうだな」
ならば、一歩も動かずに届かせればよい。
光の軌跡が、下から上へ奔(はし)る。確かな手応え。腕の一本も斬り落としただろう。が、ほとんど効いてはいない。
腕だけなら三度目。いずれもいつの間にか再生している。
牛頭の魔獣は、前よりも確実に強くなっている。
杏の切り落とした左腕の方向から、恒の鉄槍が伸び【蚩尤】の身体に突き刺さる。
戻し、さらにもういちげ……戻らない。
槍をくわえ込んだまま再生が始まっている。躊躇うことなく得物を捨てる。その巨体からは想像もつかない速度で繰り出される右の拳。かろうじて左の籠手で受け、勢いに逆らわず背後へと跳ぶ。木壁にぶち当たり、砕き、転がる。
伸びきったその腕を、当然のように杏が切り落とす。これで時間が稼げる。
「涼穿、生きてるっ?」
「たぶん……」
「それだけ言えれば上等っ」
次は足。膝上から見事に切り落とす。
「だめっ、再生速度が上がってるっ」
既に悲鳴に近い。
見れば、左腕が既に再生している。再生途上の右足に構わず、強引に身を起こす【蚩尤】。
咆哮(ほうこう)。
ひとまわり大きくなった体を震わせ、床板を掴み、破砕する。
後退。
「涼穿。どうするっ?」
「このまま逃げ帰ったんじゃ、格好が付きませんね」
不敵に笑ってみせる。
拳を固め身を起こす。
「皓玉。下がっていてください」
気が巡る。
光が生まれる。
それは力。
気の光はひと型肉体を崩し、別の形に再構成する。
迷わず、それに背を向け、開け放たれた風路から飛び出す杏。
間をおかず、木造の館が不気味なきしみを上げる。杏の姿勢が安定し、何とか【豊正殿】を離れた直後、三階より上層の構造物が……消えた。
その穴を埋めるように、衝撃波が襲ってくる。
それをまともに受けぬよう、必死で風を捕まえる杏。凶暴な嵐に翻弄されながらも、姿勢だけは何とか保つ。
一息ついた杏が振り返ったとき……
帝都の夜空に、光の柱が立った。
まずは振り上げられた左腕に食い込む。雷撃で肉が焼け、炭化するのも構わずその腕を外へ大きく振るう。
遅い。
既に切断した後だ。
二の腕の半ばから失った腕の下、頭を逸れ今度は首筋に【迅雷】が触れ、焼き、斬る。斬撃が胸の半ばに達した時、残る塊鉛の右腕が恋の細腰(さいよう)を捉えた。
慌てない。塊鉛の背後を見ながら迷わず柄より手を離し、振り回される勢いに身体を任せ……ただ一声詠う。
「【斬】っ」
と。
今度は肩口から右腕が脱落する。【斬】の呪が断ったのだ。与えられた勢いを保持したそれは、恋共々大地へと放り出される。
塊鉛がその行方を確認しようと腰を捻ったとき、世界が傾いた。
「許せ」
それが、この世で聴いた最後の詞(ことば)。
もう一人、背後より迫った武成の呪鋼の大剣がその腰を両断していた。均衡を崩し、上体と下肢……でたらめに崩れ落ちる。
「【爆】」
息を吐く暇無く、武成の無防備な背後を呪の爆風が襲う。
「武成っ」
もどかしげに亡き塊鉛の腕をはぎ取り駆ける。
その堅を視界に収めつつ、己の【迅雷】に手を伸ばす……僅かに動いた……死んではいないようだ。
塊鉛の骸の胸から伸びた一刀を、その胸に足をかけ一息に引き抜く。
次の一歩は、既に全速力に近い。
「【天眼】っ!」
発動と同時に三枚の【白符】が灰と消える。
それに対処するだけの時間は、荒獲には残されていない。恋とは違い、身体技能は並よりましな程度。正面から無防備に突っ込んできた恋に向かい放った、必殺の術が効かない……既に採りうる手段などあろうはずもない。
恋の一閃が手応えなく、その身体を通過したとき……
衝撃が全てを打ちのめした。
揺れた。
それが契機だ。
突き。
詠夾。身体の中心線へ突き出された穂先を見ることなく、一歩右へ。震脚(しんきゃく)の響きが伝わってくるが無視。必殺の一撃が空を切る。
同時に無音のまま引き抜かれた【疾風】が、大気を割り無を作り出す……
「お見事……」
最後の息を、それだけを告げるたまに使い……己の血池に伏す。
既に鞘に収められた【疾風】を掲げ、
「貴殿の勇戦、確(しか)と心に刻んだ」
剣士の礼もて、静かに別れを告げる。
未だ館は大きな揺れにさらされている。それでも、強靱な足腰と平衡感覚を動員し危なげなく軋みを上げる館の内部を駆ける。
階段を見つけ適当に二階ほど駆け上ったところに……光の柱が起立していた。
眼を焼かんがばかりの光は急速に終息し、蒼く輝く美麗なる鱗を持った聖獣が姿を見せる。
五本爪の龍。
【鱗の民】【龍族】【敖(ごう)姓】つまり、龍王の――四海を治める【竜王剣士】とはまったく関係ない――直系。
解放を喜ぶかのように一声啼(な)く。
四丈を越える体をくねらせ、【蚩尤】へ炎を吹き付ける。
詠夾も、とりあえず無を放ってはみたが……瞳のない眼で睨み付けられただけ。相手にもされない。
「卿淑さん、こちらへっ」
「皓玉かっ」
自分で確認も何もせず、その詞だけに従い背後へと跳ぶ。
空中で受け止めた直後は、少し危なっかしい様子だったがややあって安定したものに戻る。
「いったいどうする気だ?」
「【蚩尤】は急速に学習しています。より強い肉体を求めて……」
そうであるなら、目の前で行われている青龍の攻撃は逆効果ではないか?
杏の言に内心首を傾げる。
「そうであるなら、どこか核……苗床になっている部分があるはずです。そこを見極めて討ちます」
四肢を幾度も失ったその姿は、原形すらとどめぬほど凶悪化している。
「そう……で、妾に出来ることは?」
「怜麟ちゃんの援護を。ここは我々で何とかします」
「良いのか?」
「二人の時間を邪魔しないでください」
余裕を見せてはいるが、その声の真に籠もったものを見逃すほど詠夾は甘くはない。笑い出したくなるのを押さえて、首を巡らせ杏の瞳をのぞき込む。
「云うようになったじゃない……解ったわ、あの娘たちはどこ?」
「裏庭に」
「了解……そうそう、これだけは云っとかなくちゃ。あの娘だけじゃなくて、あなたのこともかわいい娘だと思ってるわ。忘れないで」
「……ありがとう。おかぁさん」
背中をどやしつけられるような衝撃を無視して、正面を見据える。たった今、斬り捨てたばかりの荒獲がいない。手応えもなかった……その向こう……荒獲だ。幻を前にたて、その背後から攻撃する……単純な手法ながら、完全にしてやられた。
眼があった。
口元がいやらしく歪むのも見えた。
何を叫んだのかも解った。
「【砲】」
胸の中央に鉄槌を打ち付けられたような衝撃に、なす術なく吹き飛ばされる。【天眼】の呪で身を守っていなければ、風穴が空いていただろう。
止めとばかりに、もう一つ文字を宙に刻む。
が、
「っく、【砲】」
正面から跳んできた何物かに向かって使用。それを掃滅させる。鉛塊の右腕?
してやられたことに気付くが、遅い。
眼前に【壁】を展開。一撃型の堅であればこれで容易に防ぎ得る。
一撃。
展開した【壁】が消え、次の一撃が……
「【翔】」
堅の得物がまた空を斬る。
「飛びやがった……」
空から放たれた呪によって、自分が吹き飛ばされるのをどこか他人のように感じながら、空を見つめ、月を見つめ……背中から大地に激突する。
と、その視界を何かが通過した。
「戴我(たいが)っ、汝(うぬ)は実の娘を殺す気かぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
叫びと共に無の斬撃を、
【斬】の一字で相殺。
高所からではあるが、余裕をもって着地する詠夾。
呪が切れたか、荒獲も降りてくる。
「卿淑……」
堅と肩を支え合いつつ、立ち上がる恋からの呼びかけに微笑んでみせる。
「ごめんね、恋。禎鏡(ていきょう)にも口止めされてたのよ」
詠夾を挟み、対称となる位置に荒獲。
「卿淑、それは……まことか?」
「んな、悪趣味な嘘ついてどうすんのよ」
こちらへは睨みつける。
「そうか……娘か……」
恋の貌(かお)をみつめるが……本当は何を見ているのだろうか?
「しかしな、この世界は解放されねばならんのだ。【神】をも拒絶する結界などあってはならんのだ。【神】の不在によって、この世界には不均衡が蔓延(まんえん)している。皆が平等に安楽に暮らせる世界を、【神】に御手(みて)がもたらせてくださるのだ。その正義の前に血縁など小さな事にかかずりあってる暇はないな」
「【神】?」
まったく新しい概念に、困惑を隠しきれない堅。
「そうだ。汝のように、この世界の住人は【神】の存在すら知らぬ。唯一にして絶対なる【主】の庇護(ひご)のもと……」
「あんた、荒獲じゃないね」
凄まじいまでに冷え込んだ詠夾の言が、熱狂に浮かされつつある荒獲の言葉を堰(せ)き止める。
「考えてみりゃ“あの”荒獲が何物かに頼るなんてあり得ないわ。身体は本物かも知れないけど、中身は別物ね」
「何を莫迦(ばか)な……」
「同じ事を言っていた人間を知っているもの。
この帝都を目指して、力尽きた人間を……ねぇ、【赤帝】さん」
その沈黙が雄弁に何事かを語っていた。
「【赤帝】も禎鏡にご執心だったし……考えてみれば、帝室の陰に隠れるなんて荒獲の流儀じゃないもの。数万の兵士の陰に隠れていた汝とは根本的に違うわね」
荒獲……いや、赤帝から表情が消えた。
「とんだところに切れ者が居たようだ。ぴーぴー泣くぐらいしかできない小娘かと思えば、なかなかに云ってくれる。
もし仮に、我が赤帝だとしたらどうする? 卿淑よ」
「些(いささ)かの迷い無く斬れる……かな」
【疾風】を見せつけるように軽く振るってみせる。
「が、それは妾の役目ではないか」
「そうか……では、先に本命の目的を果たすとしようか」
誰が止めるまでもなく、至極簡単な一字を宙に描く。
「【焼】っ」
突如、皇帝の御座所である【後殿】が炎を吹き上げる。
「親父っ」
堅の悲痛な叫びが、爆音の中に吸い込まれる。
「文字というものは、かように仕掛けも出来る。便利なものだな……さて、仕切直しと行こうか」
龍と魔獣。
明らかに龍の動きが鈍くなっている。
幾度と無く決定打とも呼べる一撃を与えながらも、決着が付くことがない。
対する【蚩尤】は疲労を見せることがない。いつも身体のどこかが欠損しているため、龍を追いつめることは出来ないが正面から互角に戦っている。
多少の焦りに苛まれながらも、その戦いをじっと見つめる黄金の双眸(そうぼう)。
「見えた」
一度高空に舞い上がる。
月明かりに慣れた目に【後殿】の炎が眩しいが、迷わず柄のみの剣に光の刃を灯す二対四枚の翼は“光の愛し子”の証明。
「光よ、力を貸して……」
刃の輝きがさらに強くなる。
「いざ、参る」
誰に告げるわけではない。強いて云えば自分に、か。
翼をたたみ、【蚩尤】に向かって落下する。
魔獣は杏に全く気付いていない。
十分に近づいたところで、翼をめいいっぱい伸ばし制動をかける。
ここまで無音。
振るった刃は、見事に双角を切り落とす。
悲痛な咆哮。断末魔のごとき余韻が満ちる。
直後、機会を謀ったかのように龍の爪が魔獣の左腕を奪う。
再生が始まらない。
床に膝をついた姿勢から、再び飛び立つ杏。
事のついでに光の剣を振り上げる。
刃は、魔獣の股間から頭頂までを滞ることなく“斬”……その巨体が左右に分かれ崩れる。
龍の一息が、あたりを炎に染める。
魔獣を土へと還す炎に。
「【天眼】を判ぜよ」
再び詠う。
今度は自分を含めて三人に。
形見の水晶球から、何か温かいものが流れ込んでくるような気がする。
【符】一枚の力を越える打撃まで無効にはできないが、衝撃を和らげるぐらいの役には立つ。
再び詠夾が放った無の斬撃を再び無効化、堅の重い一撃も【壁】の一字で簡単に防ぐ。
強い。
どこからともなく拍子が聞こえてくる気がする。
それに合わせ、【符】を撒き詠う。
【斬】
【斬】
【斬】
【迅雷】の柄を両手で握り直し、詠夾、堅を押しのけ前へ出る。
詠夾の制止の声が聞こえる。
堅が何かを叫んでいる。
それでも舞う。無音の雅曲に合わせ、舞う。
疾い。
剣閃に呪を織り交ぜ、
「招・雷っ!」
刀身の放電が始まる。
【迅雷】で【壁】をうち払い、呪をもって切り裂く。細かい手傷は負わせられるが、決定打がない。
摺り足で右足を前へ、そこを軸に回転。形、威力共に十分非凡な足をもって払うんとするが、またしても【壁】に阻まれる。それは先刻承知。
第二段は用意していた低い位置からの突き。ねじ込むようなそれを、目標の左足に突き込む。
抑えられた雷撃がその身を焦がす前に、
「【黙】」
左手で描いた文字が打ち消す。
まだ右手の文字が残っている。
「【砕】っ」
「【刃】っ」
とっておきの本命の呪を至近距離で迎撃され、またしても両者余波によって吹き飛ばされる。力に逆らわず、【符】をもって風を操り痛手を避ける。
「ったく、無理しやがる。そのうち怪我するぜ
まっ、そろそろ何とかしないとな」
恋の小さな身体をしっかりと受け止めたまま、右肩に乗せた大剣を一度降ろし、投げの態勢に。構えた刀身に恋が一枚の【符】を張り付け囁く。
「露払いは任せて」
「解った……こいつで決めてやるっ。
だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ、貫けぇぇぇぇぇっ」
「【ざぁあん】っ」
残った【斬】の【符】十二枚。全てをつぎ込み、投擲された呪鋼の大剣の先に立つ。張り付けられた【符】の力もあって、素晴らしい勢いで……その前に呪による急造の土壁が立ちはだかるも、十二枚の【符】が風穴をぶち開ける。
やっと起きあがった赤帝が左手の【壁】の文字。手をかざし発動。呪鋼の大剣の切っ先一点に集中した力に耐えきれず、【壁】の一字が砕け左腕もろとも裂ける。
恋、もう一度間合いを詰める。堅の制止を振り切り、飛翔の術を使い赤帝の眼前に迫る。
無の斬撃がもう一度展開された右の術を喰らった。
遮るものは何もない。
「【封】」
と詠い、赤帝の足から抜け落ち、足下に転がる【迅雷】の鍔(つば)に左足をかけ跳ね上げる。
右足が着地。左回転で手を伸ばし【迅雷】を空中で受け――もう一度やれと云われても、恐らく二度とは出来ないような曲芸ではあるが――逆手に持ち、左足を赤帝の前に降ろして振るう。確かな手応えが残る。
勢いを殺すため半ば背を向けるように止まったとき、切っ先は赤帝を指している。今度は左手を添え、
「覚悟っ」
呪を詠うことに喉を酷使したため、かすれた声でではあったが、その場の誰もが聴いた。
赤帝の右手がなんとか文字を刻もうとするが止まる。驚愕に見開かれる眼。現れる絶望の色。
身体ごとぶつけるように前へ。
僅かに反った刀身はただ穴を穿つだけでなく。僅かに切り裂きながら赤帝の身体を突き進む。
四尺五寸の刀身がその身を貫き、その胸に肩からぶつかり……終わった。
「榎禎鏡の娘……いや、榎怜麟とやら……次はこうは行かぬぞ」
薙がれた腹から大量の出血を。
貫かれた胸からも相応の出血が始まっている。
「次?」
「さらばだ」
唐突に赤帝の……いや、荒獲の身体から全ての力が抜ける。
重量に耐えきれず、下がった【迅雷】の刀身を己が血と脂で滑り、いたずらに傷を広げながら大地へ投げ出される。
「とうさま……か」
それが、楼荒獲と呼ばれたかつての英雄の最後だった。
雨が降りだした。
激戦より三日。誰もが傷つき、疲れ果てていた。
【後殿】の大火の中、皇帝は崩御。焼け残った【健正殿(けんせいでん)】の玉座より恋が取りだした遺勅(いちょく)の指名する人物は慶堅……つまりは武成を指していた。
「怜麟、ちょっといいか……」
どうせなにがしかの仕事を放り出してきたのだろう。拒否する理由も見あたらず、素直に堅の後に続く。まだ身体の芯が重いような気がするが……
「まずは、すまん。今まで黙っていて悪かった」
案内されたのは、小さな――庶民感覚で見れば十分な広さではあるが――房室だった。
「皇子だったこと?」
「ああ……やはり、どうも云いづらくてな」
とはいえ、皇族が身分を隠し一人で旅に出ることは珍しいわけではない。昔から何人も「社会勉強」と称して禁城を脱出、気ままな旅に出かけている。
「そんなの云いふらす事じゃないでしょ……気にしていないわ」
穏やかに微笑んでみせる。珍しく着飾ったその姿に、堅自身知らぬ間にため息が漏れる。禁城の女官たちに、寄って集(たか)っていいように着付けられたものだが、恋自身は「動きにくい」との非常に散文的な理由から気に入ってはいない。
「ああ、そう云ってくれると助かる……そこでだ……」
少しだけ迷ったように視線が宙をさまよう……深呼吸を一つ。
「ここに残って……その……后(きさき)になってはくれないか」
恋の両の肩に手を置いた好漢の顔が真っ赤に染まる。
「武成……申し出は嬉しいけど……それは、だめ」
堅の興奮を打ち消すような、恋の冷たい声に房室は沈と静まりかえる。僅かに身を捻ることで、両肩にかかった大きな手を振り払う。
「【宿星】の貴方は【仙籍】に入ることは出来ないし、【仙】の妾(わたし)は世俗の政治に無用に関わってはいけないの……今回は特別よ……」
そっと近づき、堅の唇に自分のそれを重ね合わせる。
「これでおしまいね。明日、ここを立つから……さよなら、武成」
脇をすり抜けようとする、恋の華奢な身体を強引に抱き留める。今ここで逃がしてしまえば、二度と逢えないような気がする。榎怜麟という女性に。【白炎の導師】になら会えるだろうが……
「なら、今日一日だけでもつき合ってくれ」
「まったく、強引なんだから……」
「生来、無骨でな」
「皇子様なの……んっ」
まだ何かを言い募ろうとする恋の唇を、己のそれで塞ぐ。強く強く抱きしめ、恋もまたそれに応える。
降り続く雨が、僅かに強くなった。
顧みて想う
今まで見上げていたのは何であったのか
振り仰いで想う
今己の前にあるのは何であるのか
労るべきであり
越えるべきであり
敬すべき存在
其を……
父と呼ぶ
終幕
「人生も最後に至って、これほどの驚きを味わうとはな……面白いものだ……」
恒(こう)に呼ばれた侍医と近侍のものがが牀(しょう)を挟んで恋(れん)の反対側へとまわる。
「そうだな……焔(えん)よ、剣は何を使う」
「師母と同じく……」
招かれるままに、母のとなりに跪く。ちょうど見下ろさない良い位置に貌(かお)が来る。
「ならば、【鳳聖(ほうせい)】をやろう。始祖が使っていた宝剣だが、【迅雷】や【疾風】並の力を持っている。
父としてしてやれることが、物を与えるだけというのも口惜しいが、形見だ……持ってゆけ」
「はい……父様(とうさま)」
無理に微笑んでみせるが、既に眼の焦点が合っていない。
「怜麟よ……貴殿が羨ましい……願わくば、共に同じ時間をより長く生きたかった……」
「何を云う、妾(わたし)は武成の方が羨ましいぞ。世界と同じ時間を共有できる。こうして残され送ることもない……願わくば……な」
「どちらにせよ、もう手に入らぬか……」
苦笑したのだろうか、老皇帝の頬が少しだけ弛む。
そして眼を閉じ……開かれることは二度と無かった。
「葬礼……出なくて良かったの?」
今ごろは嵩山(すうざん)の麓、陵墓へと向かって葬列が出発しているのだろう。
街道の交点に立ち、振り返る。
恋と同じように全員が、帝都【黄京(こうけい)】を振り返る。
「ありがとう、卿淑(けいしゅく)」
「なにが?」
半ば笑っているように見えるのは……全てお見通しなのだろう。
「何でもない……」
今日は珍しく雨が降っている。
雨の季節は終わったのに、あの日のように雨が降っている。
出逢ったときも、
初めて抱かれたときも、
別れたときも、
こうして、本当の別れを告げるときも……
雨
雨が降っていた
その日、雨が降っていた
雨
止むことのない
雨
(雨月の賦 了)
Ver. 1.30
2000/02/13
あ と が き
ども、片山京でございます。
まずは、
「祝・CREATORS GUILD 3周年」
つーことで、日頃お世話になっている感謝を込めて「雨月の賦」を贈呈いたします。
“スペオペ”とか“伝奇”とか“幻想詩”とか手を広げすぎですな(笑)
こういうところで細かいことをぐだぐだ言ってもしようがないので、本作品への論評は避けますが……辞書を用意してから読んだ方がいいかも知れません(爆)
しかし、普通にファイルサイズが3桁“逝く(笑)”というのはいかがな物でしょうか?
もう、病気ですね、これは(笑)
しかし……今、これを書いているのが“2000/02/13”の2●時なんてとてもじゃないけど言えませんなぁ(爆)
また、本作品の制作に当たりまして、「INTERFERON」のわとそんさん、「DASOKU−E」の沙崎絢市さん。
また「N2爆弾」のnozさんを初めとするチャットメンバーの皆様に多大なる援助をいただきました。
この場をお借りいたしまして御礼申し上げます。
また、HTML化はわとそんさんにお願いいたしました。ありがとうございました。
ではでは、このあたりで失礼いたします。
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