頂上から吹く風が彼の頬を撫でていく。

歩くにも斜面には道らしい道はなく、彼は草の群れを押し倒して登っていく。

暖冬や雪不足にならなければ今年もこの辺りはスキー客でごった返す筈だが、今では枯れたリフトが風に揺られているだけの草原に過ぎない。

 

彼は人のいないここの夏が好きだった。

 

冬になるまではろくに手入れもされず、めったに人も来ないのでオフシーズンには想像を絶する程の野草が斜面を埋め尽くす。

その草原の真ん中に寝そべると、一人でいられる自分自身をはっきりと感じられた。

麓に広がる針葉樹の森の狭間には幾つかの細い道と、数えられる程の車しか見えない。そのどれもが観光客ではなく、地元民の鄙びたものばかりだった。

それだけの事が彼にはひどく有り難かった。

 

「俺が、勝手に苦しんでいるだけなんだろうな」

 

草の穂を掴んで、指で擦り潰してみる。

手に残った小さな種を息で吹き飛ばして、風に乗せた。

種の飛んでいく先の空には沸き立つような入道雲だけが見えた。

鳥のように生きる為に必死にならず、種のように流されるだけでもなく、雲はただそこにいるだけで雲として存在できる。

存在する理由も無ければ、それを考える脳も心もない。

羨ましい、と思う反面で絶対に御免だとも思う。

そうして最後にはそんな思考自体が無意味だと無理矢理結論をつける。

 

「これじゃ、いつもと同じだよ」彼は笑って余計な考えを振り落とした。

 

敷き詰められた野草が風に押されて背を曲げる。

目をつむれば、草の囁きが聞こえてくる。

大地は彼の身体をしっかりと支えてくれる。

ここには何にも煩わされず、また煩わすこともない時間があった。

せめて今はそれを大事にするべきだった。

 

「良二」

 

一瞬、反射的に立ち上がろうとした身体を抑え付けた。

 

「良二、いるんでしょ?返事をしなさい」

 

このままだと母は見つかるまで自分を探し続ける事は分かっていた。

たまには彼女もその程度の苦労をすればいいとも思うが、結局彼は立ち上がって、背中と尻に付いた草を払い落とす。

サマーセーターとスカート姿の中年女性が小走りで近づいてきた。

 

「良二、またあなたはこんな所にいて…」

「用があるなら携帯に電話すれば良かったのに」

「だって、お母さんそういうの分からないのよ」

 

だから、自分で自分を「お母さん」なんて言うなよ。

アンタは妻や母親である以前に一人の人間なんだろ?

 

「父さん達は、まだ部屋にいるの?」

「みんなでお昼食べに湯河原まで行って来たわよ。お昼食べてないのはあなただけよ」

 

じゃあ、その帰りにアンタは一人でこんな所に俺を探しに来たのか。

彼の心には感謝よりも、なにやら怒りにも似た呆れた想いが鎌首をもたげていた。

 

「一緒にいらっしゃい、お母さんとお昼食べましょう」

「いいよ僕は、別に」言い捨てて一人で歩き出す。

「よくないわよ。一緒にいらっしゃい」言葉とは逆に彼女の方が後に付いてくる。

「いいから早く帰ろう。みんなが心配するから」

「あなた、自分でこんな所にまで来て何言っているのよ。みんな心配しているに決まっているじゃない」

 

心配されているのは俺じゃなくてアンタだよ、と小声で呟いた。

入道雲はいつの間にか大きさを増して、剣呑な雨雲に姿を変えようとしていた。

 

 


 

 

「家 族」

(前)

 

 


 

 

彼の一家は毎年の恒例行事として夏と冬にこのスキーリゾートを訪れる。

夏の売り物は避暑と温泉がメインで、冬には当然スキーもできるが、唯一の名物とも言える巨大な源泉地帯がある以外にはさして目立った特徴もなく、リゾートと言うよりは伝統と名前でしぶとく生き延び続ける古い温泉地と言った方が相応しかった。

余所と比べると明らかに見劣りする中途半端な場所だったが、自宅から車で1時間も掛からない上に、バブル期に父親が友人から安く買ったマンションの部屋があったので、通常は一番高くつく宿泊費がロハで済んだ。

彼の家族には特別にその場所に対する愛着があった訳でもなく、惰性の赴くまま毎年ルーチン通りに訪れては適当に羽を伸ばした。

何のことはなく、要するに近くて安く行ければ別にどこでも構わなかったのだ。

それがこの場所に限定されていたのも、彼が拘ったからにすぎない。

しかしその彼も、自分の為に拘っている訳ではなかった。

 

「陽子姉さんが迎えに来るの?」

「買い物行くついでに迎えに来てくれるって言ってたけど、遅いわね」

「いつ頃来るって言っていたの」

「それが、適当に見計らって来るって言うだけで要領を得ないのよあの娘は…」

 

彼は母を無視して携帯で姉を呼び出した。

車の駆動音に包まれた姉の声が届き、彼がそれに答えようとした瞬間、突然母が携帯を奪い取って勝手に話し始めた。

 

「ちょっと、陽子。あなた今どこにいるのよ。ちゃんと言った通りに来なさいよ。全く、これだから仕事なんかしている…ちょっと?もしもし?」

 

そうすれば通じるとでも思っているのか、母は軽く携帯を振ってみた。

彼はもう一度ゲレンデの草原を見て彼女の存在を無視した。

 

「ちょっと、切れちゃったじゃないの」奪った時と同じような荒い手付きで携帯を返してきた。

「歩いて帰ろう。その方が早いし」

「嫌よ、母さんもうあそこまで上がるのに疲れちゃったわよ」

「じゃあ、どうやってここまで来たんだよ」

「湯河原からタクシーに決まっているじゃない」

 

構わずに一人で歩き出すと、どこからか車の音が聞こえてきた。

派手なアクセル音からこの辺りの人間の車ではないのはすぐに分かった。

姉は一般では高級車とされている父の3ナンバーのセダンを何の躊躇もなく乗り回すので、両親を含めた大人達からは総じて顰蹙を買っている。

しかし今日ばかりは母もその素早さに感謝するべきだった。

 

「あの娘は、また危ない乗り方をして…」

 

他に車がいないのをいいことに思い切り飛ばしているらしく、一瞬、自分たちの前を通り過ぎてしまうのではないかと彼は思った。

しかし車は器用に減速して丁度彼らの前で静かに止まり、同時に扉が勢いよく開いた。

 

「母さん、良二は放っておけばいいのよ。変に構うとむくれるんだから」

 

運転の邪魔になるのか、姉の陽子は肩まで伸びる長髪を後ろで束ねていた。

そして何故だか車内からは石鹸の匂いがした。

 

「もう良二だって子供じゃないのよ」

「だって、誰も気にしないんだもの。あんまりじゃない」

「良二が好きでやっているんだから、いいのよ。ほら早く乗って」

 

彼はなおも何事かを言い募ろうとする母を後部座席に押し込め、そのまま勝手に助手席に座った。

姉は少しだけ横目で彼を見たが、気にせずそのまま車を出した。

 

「どうだった?お楽しみの時間は」

「まあまあだったよ」

「そう」

 

たとえ家族が同乗していても、姉は直線になれば躊躇無くスピードを上げる。

強い加速が彼の身体を緩くシートに押し付けるが、それは何故か恐怖よりも眠気に似た気怠さを与えてくれる。そして初めはきつく感じた過激なスピードにも次第に慣れていく。

それが一見乱暴そうに見えて無駄のない運転技術のお陰なのを今では知っている。

自分が運転する時にはこんなやり方は御免だとしても、姉の操る車に乗るのは決して嫌いではなかった。

 

「良二ってさ、彼女は作んないの?」

「何だよ、急に」

「だってさ、やっぱり気になるじゃない。一応女の身内としては」

「仕方ないよ、向こうから嫌われているんだから」

「じゃ、一応は試したんだ」

「ううん、全然」

 

彼は気取られないように姉の方を見やるが、特に何の表情も見えない。

運転に集中する毅然とした視線を前に送っているだけだった。

 

「何もしないで決めつけてどうするのよ」

「だって大体分かるだろ、女の子にもてるタイプってさ」

「良二、そういう思い込みって異性に対してすごく失礼じゃないの?」

「でも、まあ仕方ないんじゃないの。作って出来るものじゃないよ」

「当たり前よ、努力して作り上げるのは相手じゃなくて自分自身なんだから」

「それって、上手い嘘を吐くって意味?」

 

答えが返ってくるまでに少し間が空いた。

 

「誰だって、抜き身の他人なんて好きになれないんだから。作ってやるのが礼儀でしょ」

「そこまで大袈裟に言わなくてもいいだろ」

「本当の事よ。彼女欲しければ自分なんて捨てなさい」

「そんなに面倒なら僕はいいよ」

「じゃ、またゲレンデの真ん中で寝っ転がっているの?」

「それっておかしいかな?」

「さあね、自分で考えたら」

 

言い返そうとした彼の耳に八つ当たりのような母の声が入ってきた。

 

「本当に何を考えているのやら、この子達は…ああ、やだやだ人を騙す事ばかり考えて」

 

こうやって他人の文句を当人の前で堂々と言うのが母の得意技で、今まで似たような仕打ちを受けてきた二人でも慣れるという事は殆ど無かった。

 

「あたしの若い頃は、もっと純粋でいい人が多かったわよ」

 

二人は何も返さない。

 

「まるで他人を騙すのが楽しいようじゃないか、あんた達」

 

車は白樺の林を抜けて、ペンションの林立地帯に入っていった。

夏の穴場を狙う観光客達が少しずつ道路上に現れ、車は見る見る減速していく。

しかも母の小言は留まる事を知らず次々と吐き出されていく。

いつしか姉は、まとめきれなかったらしい乱れた前髪を手櫛で整え始めた。

それは彼女がいらついている時の癖で、見ている側にもいらつきが伝染する質の悪いものだった。

このまま放っておくと嫌な流れに身を任せるしか方法がなくなってしまう。

彼は母が一呼吸おいた瞬間に全く関係のない話題を無理割り込ませた。

 

「姉さん、風呂入っていたの?」

「うん、揚がったばかりだってのに『すぐに迎えに行け』だって」

「父さんらしいや」

「どうせ外に出たかったから別に良かったけどね」

 

彼と姉は、他人の会話にとにかく何かをねじ込もうとする母のタイミングを心得ていた。

だから次の言葉を口に出すまで、わざと一呼吸分だけ時間を置く。

母が大仰に息を吸う瞬間を狙って言葉を置く作業は、二人にとってはジグソーパズルを解くのと同じで、ちょっとした頭の体操のようなものだった。

 

「あと、ついでに買い物頼まれたんだけど。お母さん、夕ご飯何にする?」

「え…夜も外でいいわよ。別にこんな所で作らなくたっていいじゃない」

「そうはいかないでしょ。また父さんうるさいわよ」

「でも、お母さんもう疲れちゃったのよ。作るって言っても大した物できないし…」

「じゃ、私達で何とかするわよ。母さんはお父さんとお酒でも飲んでいれば?」

「…そう、悪いわね。それじゃ甘えさせて貰おうかしら」

 

これで母は何も言えなくなった。

信号待ちになってから姉の顔を見ると、先に向こうから彼に目配せを送ってきた。

彼は少し大袈裟に座り直してこれに答えた。

 

「天気、悪くなりそうだね」

「帰るまでに間に合えばいいけどね」

 

彼が十年近くスキーをする場所を変えなかったのは、この姉の為だった。

 

 

 


 

 

 

そもそも、家族の中でまともにスキーが出来るのは一人だけだった。

正確に言えば、二年前まで彼と一緒に滑っていた陽子が滑らなくなり、今では彼一人がただ自分の腕を上げる為だけに滑っていた。

その彼も特にスキーが得意という訳でもなかったが、やはりこれも幼少時に惰性で始めてから何となく続けていただけで、多分、一家が冬にこの地を訪れる口実としての意味合いが一番強いのだろう、と彼自身は思っていた。

 

「それじゃ何?別に滑んなくてもいいの?」

「別に、ただどうでもいいんだ。考えたくない」

「そういう感じで投げやりだと格好良く見える、とか思っていない?」

「勘弁してよ、子供じゃないんだから」

「子供じゃん、15なんて」

「そうかな」

「そうよ」

「ふうん」

 

彼は黙ってジャガイモの袋を買物籠に放り込んだ。

どうせ今日作れば明日の夜までずっとカレーで済むだろう。

後は適当に味噌汁やらスープの材料でも買えばいい。

 

「ちょっと、勝手にメニュー決めないでよ」

「いいじゃん、どうせ誰も気にしないんだから」

「大体、安直じゃないの。旅行先でカレーなんて」

「安直で何が悪いんだよ」

「…ねえ、作るって言ったのは私達なんだからちゃんと作らないと馬鹿にされると思わない?」

「じゃ、どうするの」

「あたしが考えるわよ、あんたは手伝ってくれればいいから」

 

そうして姉は自分の持っている籠に次々と野菜を取って入れ始めた。

しかしよく見てみると、種類は多いがあまり彼の頭にあった品目と変わらない。

牛肉とデミグラスソースを手に取った時点で彼の予感は確信になった。

 

「姉ちゃん、何作るんだよ」

「ハヤシライス」

「やっぱり」

「何よ、何か文句あるの?」

「別に」

 

彼はそのまま買い物を姉に任せる事にして、他の食材を探す為に歩き出した。

が、姉はまるで金魚の糞のようにその後に付いてくる。

くっついてくると言うよりはしぶとくつきまとう感じだった。

 

「いいじゃない、ハヤシライス。それともトラウマでも持ってるの?」

「馬鹿言うなよ」

「じゃあ何が気にくわないのよ」

「…もう少し面白い物が出てくると思っただけだよ」

「あらそう。悪かったわね単純で」

 

そう言って姉は食材の詰まった籠を弟に押し付け、逆向きに歩き出した。

彼は両腕に買い物籠を持たされる事になったが、そのまま勢いに流されて姉の後を追っていく。

そして自然の内に姉が選んだ食材を、彼の持っている籠に入れていくという流れが出来上がっていた。

 

「カート使ったら?」姉は振り向きもせずに言った。

「面倒臭いからいいよ」

「相変わらず、下らない所は頑固なのね」

「人の事は言えないじゃん」

「どうして?」

「一番最初に付き合った男と結婚するかよ、普通」

「いいじゃない、あたしの勝手でしょ」食材を扱う手付きが無意味に荒くなる。

「そんなに焦ってどうするんだよ」

「別に焦ってないわよ」

「男なんか、その気になれば幾らでも捕まるんだろ?」

「あら、もしかして妬いていたりするわけ?」

「冗談言うなって」彼は籠の中の食材を手にとって戻した。

「じゃあ放っといてよ」姉は再びそれを籠に入れる。

「何でハヤシなのにジャガイモ買うんだよ」

「シチューも作るのよ」

「そんな気合い入れてどうすんだよ」

「言ったでしょ。やる時はしっかりやらないと馬鹿にされるのは自分だって」

 

 

 

弟の視点から見ても、姉の生き方はその言葉に集約されているように思えた。

元々、姉がスキーを始めたのも単なる興味本意からだったが、それに拍車を掛けたのが両親の言葉だった。

 

「どうせ大した考えもないくせに、軽い気持ちで手を出すんだから」

「止めておけ。怪我をする為に金を出すなどバカバカしい」

 

彼がスキーを始める頃には、もう姉は一通りの技術を独学でマスターしていた。

両親も姉の上達を見ている手前、彼がスキーを始めるのを止めはしなかった。

それどころか、いつの間にか両親はそんな姉をダシにして自慢話までしていたのだ。

無論、彼らはそんな事をおくびにも出さずに、ひたすら首を振って息子の行動に反意を述べるだけだったが。

何にせよ、彼は遙かに技術に勝る姉の後ろについて廻り、少しずつだがやはり独力でスキーを学んでいった。

そして、彼がようやく姉の後に付いて頂上から降りられるようになった頃、姉はスキーと同じ要領で大学を卒業し、就職も一流の広告代理店に決めた。

そのことごとくが、他人の挑発に乗って奮起した結果だった。

 

 

 

「そういうのが姉さんの弱い所なんだよな」

「…どういう事よ、それ」

「つけ込まれているのが分からないのかな、調子に乗せれば勝手に頑張るキャラクターだって言われてるよ、多分」

「その『キャラクター』っていうの止めてって言ったでしょ」

「だって、本当の事じゃないか。みんな適当で勝手なのに、自分だけそんなに踏ん張っても他の人間からはそう思われるのがオチだよ」

「何よそれ、良二が勝手にそう思っているだけじゃない」

「陽子姉さん、何が面白いんだよ。嫌な思いしてまで媚売って何になるんだよ」

「ふざけないでよ、私がいつ媚なんか売ったって言うの」

「結局、焦って結婚するのも家から逃げ出したいだけなんだろ?」

 

言ってしまうと、実にあっけなく姉は黙ってしまった。

特に激しく罵り合っていたわけでもなかったので店内で目立つ事はなかったが、気のせいか、彼らの周りだけがまるで取り残されているかのように人が消えていた。

やにわに姉が彼の手から買い物籠を取り返した。

 

「あんたなんかには一生分かんないわよ、このクソガキ」

 

姉はそれだけ言うと、今度は踵を返して彼から離れ始めた。

唐突な姉の行動に驚いた彼は、逆に慌てて後を追った。

 

「待ってよ」

「悪かったわね。馬鹿で媚売っていて尻も軽くて」

「そんなつもりで言ったんじゃないよ」

「じゃあ何なのよ」

「姉さんならもっと良い男がいると思ったんだ。本当にそれだけだよ」

 

最後の言葉が遠くなり、売り子と客の声でかき消された。

姉が振り向くと、弟は下を向いて通路の真ん中に突っ立っていた。

泣き出すまではいかないかったが、露骨に落ち込んだ表情を見せている弟にはさっきまでの威勢も無くなっていた。

 

「ごめんなさい」

 

陽子は肉売り場の前でうつむく弟を黙って見つめていた。

彼の視界には姉のスニーカーだけが見えていた。

その足が、ゆっくりと自分の方へ近づいてくる。 

見上げると、そこには難しい表情をした姉の顔があった

 

「バカ良二、何期待してんのよ」

 

陽子は溜息をついて、弟の額を軽く人差し指で小突いてやった。

 

「…姉さん」

「言い出しっぺなんだから夕ご飯はあんたが考えなさいよ。あたしは自分でシチュー作るから」

 

再び陽子が歩き出すと、弟もまた後に付いてきた。

いい加減に振り払おうとした彼女の手から、買い物籠が二つとも取り上げられた。

 

「持つよ」

「いいから自分で買い物しなさい」

「お腹に子供いるんだから、無理すんなよ」

 

その言葉に驚かされた拍子に、買い物籠は完全に弟の手に渡った。

 

「知っていたの?」

「父さん母さんから聞いた」

「嘘。盗み聞きしたんでしょう?」

「…うん」

 

姉はそれきり黙って淡々と買い物を続けていった。

彼が何度か材料の意見を聞こうとしても、声を掛ける事さえままならず、それどころか怒っているのかどうかすら把握できなかった。

もとより触れてはいけない物に触れたのは分かっていた。

むしろ彼は敢えて勢いに任せて触れてみたと言っていい。

ただ、それを当の彼女自身が無視し続けるのは納得できなかった。

 

「それなら、何で結婚なんかするんだよ」口に出さずにはいられなかった。聞こえないように、小さな声で。

 

二十分も経つと一通り材料が揃ったのか、姉は今まで見向きもしなかった青果売り場へと歩き出した。

しかし既に両手の籠の中には相当な量の食材が詰まっている。

彼にはこの上買い物が必要とは思えなかった。

 

「姉さん、まだ何か買うの?」

「うん、ちょっとね」

「これだけあれば明日まで食べられるよ」

「いいから、こっち来てよ」

 

そして、姉は最後にその場にそぐわない物を一つだけ籠の中に放り込んだ。

それはこの季節に買う事自体はさして珍しくもなかったが、少なくとも彼の家では殆ど縁のない代物だったので、買っていく理由はいまいち理解できなかった。

だが、それでも自分の話した内容が関わっている事だけは予感していた。

 

 


 

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