第七章「逃避行」

 

 
 
 

 公邸に、二通りの使者があった。
 一方の使者はこう告げる。
「ハーン近海に、レア帝国の大艦隊があらわれました。至急ご指示を」
 フィンセントの周囲がにわかに緊迫する。
 彼は即座に答える。
「公国内の問題に限り、わが弟と重臣たちに一任する。自衛のための行動であれ
ば手段をえらぶ必要はない。ただし、ことがウェイルボード王国の事情に及ぶの
なら、使者を王都に来させるか、または私の命令を待て」
 また、おなじ時期、宰相府からも出頭要請というかたちの使者があった。
「どういったご用件か」
 と、はなから宰相を信用していない騎士が、使者に冷たく言った。この男にか
ぎらず、もともとテュール家の者は、宰相をこころよく思ってはいない。
「すぐ行く」
 それを伝え聞いたフィンセントが言った。家臣たちはやや驚いたが、やむをえ
ない、とすぐに思いなおした。将来はともかく、この時点でまさかフォンデルの
ような立場の男が国公家に害をなそうとは思えない。むしろ、フィンセントのほ
うでこれをことわれば、宰相とその謀臣たちの心に、悪意にもとづいた想像の種
をまいてやるようなものだ。……
 フィンセントはフェルディナントを呼んだ。
「領地に戻ってくれるか」
「は……?」
 唐突に言われ、フェルディナントは当惑した。なるほどレア帝国の艦隊が攻め
入ってきたとあれば、交渉ごとに経験をもつ自分が出向くのは当然であるかもし
れない。だが、王都も混迷をふかめている。ベルーラ、ヨースト、アントンはそ
れぞれ優秀な官僚だが、機に臨み変に応じる才能はもちあわせていないように、
フェルディナントには思える。ヒドにいたっては一介の武辺である。政治家とよ
べるのがフィンセント一人となっても、公爵家は王都の政情に対応できるだろう
か……。
「心配ない、私は大丈夫だ」
 フェルディナントの懸念を察したのか、フィンセントは言った。
「それよりヒドに、あらゆる事態に備えよと伝えてくれ。ただし絶対に暴走する
な、ともな。それにしても……」
「……」
「いっそ、貴族などに生まれなければよかったと、最近は思う」
「……! 閣下!」
「冗談だ。ともかく、あとは頼むぞ、フェルディナント卿」
  笑みというには弱々しい。そんな表情を残して、若者は馬車に乗り込んだ。
 馬車の中で、彼は尋ねた。
「……で、宰相閣下は何の用件で、この私を呼びつけられたのか」
「存じません」
 使者は、まともに答えようとはしない。
「それに、宰相府への道とはちがう。どこへ連れていく気だ」
 今度は返事すら返ってこなかった。
 鋭く舌打ちして、フィンセントはそれっきり何も聞こうとはしなかった。
 広大とはいいかねるジュロンの街を、馬車は南へと進んでいく。御者も含めて
三人の人間と、重苦しい沈黙を乗せて。
 馬車は、王宮の西側、高等法院の門前に到着した。
 その門前には、厳めしい顔をした衛兵が、ずらりと並んでいた。
 その時点で、フィンセントにはおおかたの予想がついた。自分が何のために呼
ばれたのか――
  フィンセントが馬車から降りるやいなや、その中の隊長格とおぼしき人物が、
「テュール公爵家当主代行の、フィンセント卿ですな」
「いまさら名を聞かれるほど無名なのかな、私は」
「確認のためです。フィンセント卿、宰相閣下の命により、あなたを逮捕します」
 フィンセントは驚かなかった。しかし、それだけに後悔があった。いずれ必ず
敵にまわる男だろうと思ってはいたが、ここまであざやかに先手を打たれるとは
思わなかった。宰相の卑劣さよりも自分のうかつさをこそ罵りたくなる。
「……試みに問うが、罪状は」
「われわれは命令にしたがうのみです」
「なるほど、偉大なる宰相閣下の命では是非もあるまいな」
 思い切り皮肉な口調で、フィンセントは吐きすてた。
「……拘束せよ」
 二人の衛兵が、左右からフィンセントを取り囲み、その腕を鷲掴みにしようと
する。隊長格の人物は、後ろに張り付いた。どうあがいても逃げられはしないだ
ろう。
「おいおい、私はまだ二六だぞ、そういう気遣いは宰相のような老人にしてやれ」
 衛兵たちは案の定、聞く耳を持ってくれなかった。
 彼は、高等法院の管轄下にある牢に拘禁された。牢というには豪奢で、調度も
整ってはいたが、彼自身は絹服を剥ぎ取られ、粗末な囚人服に着替えさせられた。
「木綿服を着るのは、子どもの頃以来だ。もっとも、アーガイルなどはこちらの
方が好きかも知れんな。おれが囚人服を着たときけば、あいつ、うらやましがる
のではないかな」
 フィンセントはそう呟いて、ふいに微笑んだ。闊達な弟の姿が、脳裡によみが
えったのでもあろうか。
 陽も暮れぬうちに、この牢に来客があった。フィンセントはその人物と顔見知
りである。決して好印象を持ってはいなかったが。
「できれば、このような形で会いたくはありませんでしたよ、公子どの」
 言葉を表情が裏切っている。この人物は、明らかに笑っていた。それも明るい
笑いではない。憫笑と嘲笑と冷笑とが混沌とした、奇怪な笑顔であった。
「命令をくだしたのが閣下ご自身だと知らなければ、まったく同感なのですがな」
「公子どのには不憫ですが、これも国法を遵守するため」
 宰相の老いた顔が歪む。本人はまだ笑っているつもりらしい。
「まさかそんな言葉を本気で信じておられるわけではないでしょう、閣下。私が
何の罪を犯しましたか?  仮に罪があったとしても、テュール家の一族を宰相府
や内務省に、それを逮捕する権は認められていないはず。テュール家を裁くのは
国王陛下とテュール家のみという原則をお忘れになられたのか」
「もちろん存じております。しかし大逆罪となれば話は別」
「……やはり、そう来ましたか。ではお伺いいたしますが、何を根拠に」
「宰相である自分を買収しようとしたこと、反王室を唱えるデリス教会の一味と
密議を交わしたこと、さらに、文書を捏造し、不逞にも王位継承権を主張しよう
としたこと。ご不満ですかな?」
「反論をゆるしていただけますかな」
「法廷で言えばよろしかろう」
「ほう、私には裁判を受ける権利は残されているのですな」
 フォンデルの笑顔がひきつった。が、
「それはあずかり知らぬところです。なにせわが国は法によっておさめられる国。
高等法院の決定には、宰相たるわたくしもさからえませぬのでな」
 形式にすぎない。高等法院はたしかに宰相府どころか王宮からさえも独立した
存在と認められている。だが現実には高等法院の判事を任命するのは国王であり、
その人選をおこなうのは宰相府の隷下に属する司法省である。しかも現在、国王
が不在のためにこの宰相が国王の大権を一部にせよ代行している。影響力のない
はずがなかった。おそらく裁判も形式的なものにおわるであろう。
「なるほど、どのみち私には刑に服するしか道がないと。ごりっぱな忠臣ぶりで
すな」
 フィンセントは皮肉を言ったのだが、宰相は一向に悪びれる様子もなく、
「みながみな、公子どののように聡明であったら、裁判など無用の長物となるの
ですがな」
「……それはどうも」
 何を言っても無駄だろう。フィンセントは後悔した。この老人を軽視しすぎて
いた。我欲の強い人物だ、という観察は当たっていたかも知れないが、それだけ
だと思っていたのは大きな間違いだったのだ。
 ふと、彼の脳裡をよぎったものがある。もうひとりの急使は何を告げていたの
か。
「それはともかくとして、宰相閣下。レア帝国の艦隊が、呼びもしないのに北海
にあらわれたらしいが、それについてはご存じか」
 うまくいけば起死回生、とばかりにフィンセントは言った。
「私の処遇はともかくとして、海軍大都督のティンベルヘン伯に命令を出したら
いかがです。ただちに北海に向かうように、と」
「ふ、心配はご無用。あれは味方ですからな」
「なに……?」
「わが国土に上陸し、我々の力になってくれる、大事な味方です。彼らがウェル
フェン公国を討伐し、王都にあるわが軍は、デリス教会に巣くう不忠者どもを殲
滅する。簡単で、しかも効率の良い筋書きだとは思いませんかな? 公子どのは」
「馬鹿な!」
 初めて、フィンセントは悪寒を覚えた。それは怒りと絶望感とをともなうもの
であった。
「貴様は、国を売るつもりか!」
「売る? そうかも知れませんな」
 フォンデルは、さらに冷笑する。
「ウェルフェン公国を売ることによって、カーレル大王陛下からつらなる王朝の
正統が守られるなら、むしろ良い取引だと思いますが」
「いいかげんにしろ! あの領土欲の塊のような国が、たったの三州で満足する
か。遠からず、ウェイルボードはレア帝国に併呑されるぞ。貴様は自分の足もと
に穴を掘っているのだ。自分の命は言うに及ばず、貴様が後生大事に思っている
ウェイルボードの正統をも葬るための墓穴をな!」
 フィンセントの罵声は、もはや悲鳴に近かった。顔をひきつらせながらも、強
者の余裕か、やはりフォンデルは笑っていた。
「……いつまでもそうやって吠えていなさい。負け犬の遠吠えは、勝者にとって
心地良いものですから」
 フォンデルは去っていった。後に残されたのは、彼の奇怪な高笑いの残響だけ
であり、それもすぐに消えた。
「畜生!」
 と、フィンセントは床を蹴った。目のくらむような屈辱、宰相に対する憎悪と
怒り、未来への絶望、自分の甘さに対する嫌悪など、さまざまな負の感情が、彼
自身を圧し潰しそうであった。
 だが、奇妙な納得も存在する。彼の行為がいかなる結果をもたらすかは別とし
て、王朝の正統を護るというフォンデルの動機は、嘘ではないだろうと思うのだ。
あの宰相が最大の価値をおいていたのは、ウェイルボードの国益ではなく、みず
からの私欲でもなく、王朝の正統とやらだった。彼にとってはウェイルボード王
国そのものよりも、ましてそこに住む一五〇〇万の民よりも、王朝が大切だった
のだ。
 もし彼が宰相として、ウェイルボードの利益のみを考える人物であれば、当然、
このような挙には出ないであろう。またフィンセントがそう考えたように、私欲
の虜だったなら、すくなくとも教会一派との決着がついていない現状では、公爵
家世嗣を投獄するなどという、致命的とさえいえる危険をおかすことはしなかっ
ただろう。だが王朝は国家より重いなどという、およそフィンセントには想像も
つかない価値観で動いていたならば、テュール家を目の敵にする理由も、レア帝
国を領内に引き込むという行為の意味も、すべて納得がいく。
「永遠に理解できない相手を、おれは理解した気になっていたのか」
 フィンセントはつぶやいた。彼にしても、王室に対する忠誠心は、さすがに貴
族だけあって庶民の何十倍もふんだんにもっている。だが同時に、国あっての王
なのだとも思っているし、何より民あっての国であるということが、この国の誇
るべき国是ではなかったか。
 これからどうなるのか。あの宰相に擁立された王子が即位し、ウィレム五世と
なれば、遠からずウェイルボードはレア帝国の属領となり果てる。それに対抗し
うる存在として、ヘボウ侯アントニーの存在があるが、あのように無気力かつ冷
笑的な人物が王位を得たら、それこそ彼自身が言っていたように、この国とそこ
に住む民は、デリス教会の神官どもの私物に堕するであろう。
 もはや、カーレル大王の建てたウェイルボード王家は、その存在する意義を喪
失しているといわざるをえないのだろうか。国そのものではなく、王家が。そん
なことはない、とフィンセントも信じたい。だが少なくとも今の王位継承者たち
には、国を背負って立つほどの気概も能力もない。そして彼らを後援する者たち
は、王権はおろか、この国そのものを私有しようとしている……。
 それならば、とフィンセントは思う。いささか遅きに失したが。
 それならば、テュール家が、なおテュール家であり続けるためには、一つしか
方法がない。開祖ノジェールが示した、最後にして最悪の選択である。
(すなわち、宰相も教会も打倒し、テュール家の主導により王国を再建する。も
う、この期に及んでは、それしかない。アントニーの思惑に乗るようで不愉快だ
が……)
 二重の意味で、悲しい決意であった。
 ひとつには、王臣としての立場を捨て去らねばならないということ。さらに彼
が悲哀を感じるのは、その決意を実践する術がすでに失われている、ということ
であった。

 いくつかの夜が、むなしく過ぎた。

「閣下は、まだ戻られないのか!」
 公邸の一室で、ヒドが他の者に怒鳴った。本人は一応質問しているらしいのだ
が、誰の眼から見ても、それは八つ当たり以外のものではなかった。
「よさんか! 怒鳴ればこの事態が解決するのか? それならばいくらでも怒鳴
れ。しかし、無益であることは、卿もよく知っておるだろうが」
 と、こう言ったのはベルーラであった。
 それに対してヒドは、
「なんだと? ならばうかがうが、ベルーラどのは何か努力なさったか。ご自分
の怠慢を棚に上げ、拙者のみを批判しようとなさる。ご卑怯ではないか」
「卑怯だと!?」
 ベルーラが怒声を発した。彼は公爵家代々の家臣ではないが、それでも騎士で
ある。騎士である以上、ヒドの言ったことばは、とうていゆるせるものではない
だろう。
「私が言いたいのは、苛立っているのは卿だけではないということだ。若いとは
いえ、卿も公爵家の重臣。まして閣下ご自身こそが卿よりも年少だ。若さが言い
訳になるとは、まさか思うまいな」
「やめられよ、ご両人。閣下のご留守に、われわれが仲違いしている場合ではな
かろう。どちらにせよ、事態がはっきりしたわけではない。われわれにできるこ
とは、待つことだけだ」
 と、うんざりしたように制止したのはヨーストだ。だが、こう言う者もいる。
「……事態が分かってからでは、遅いのではないかな」
 アントンであった。
 他の三人は、その不吉な言葉を不快に感じたようである。六本の視線が、アン
トンに突き刺さる。
「どういう意味だ。戯れ言と聞き流すわけにいかぬぞ、今の言葉は」
 と、ベルーラが言う。詰問調であった。
 王都にある重臣たちをまとめてきたのは、当然ながらフィンセントであり、そ
れ以前はフェルディナントであった。フィンセントは投獄され、彼が残した命令
によりフェルディナントは帰国した。上位に立つ者がいなくなったことで、みな
の気分がささくれ立っているようであった。
「ヨースト卿が行ってもベルーラ卿が行っても、宰相は会おうともしない。宰相
府の役人どもも、その件に関しては、知らぬふりを決め込むばかりだ。もはや考
えるときは過ぎたのではないか」
 と、アントン。
 味方が増えた、と感じたのか、ヒドが深くうなずく。
「その通り、ここは実力行使しかない。宰相府に襲撃をかけ、閣下の居所を力づ
くでも聞き出すのが最善だ」
「待て待て。それすらも計算のうちかも知れぬぞ。われわれを暴発させ、一挙に
王都から当家を締め出すつもりに違いない」
 という慎重論はヨーストである。
「卿らも知っての通り、レア帝国が攻めてきたという。つまり、領国の軍は動け
ない状況にある。しかも公子は敵の手中にある。われらが激発し王都を追放され
るようなことにでもなれば、それこそ宰相の奸智にはまるだけではないか」
「…………」

 四人の重臣が議論を交わしていた夜、宰相府にはすでに動きがあった。弁護人
はおろか被告すら不在の裁判で、フィンセントに死刑判決を出し、直ちに執行す
べし、という非公式の勧告が、宰相フォンデルの名において、ウェイルボード高
等法院の首席判事パトルスに出されたのである。
 パトルスは、もともとデリス教会の高僧であったが、教会内部でフレスト大主
教と対立し、すでに破門された身である。破門された人物が高等法院の首席判事
という顕職にあること自体が、デリス教会の政治的影響力の低さをものがたって
いるだろう。
 ともかく彼には、デリス教会の実権を握るフレストという大敵がいる。勧告を
拒否し、国政の実権を握るフォンデルをも敵に回す勇気はさすがになかった。
 よって、渋々ではあったが、この勧告を結局は受諾した。
 期限は翌々日。フィンセントの命は、まさに風前の灯火であった。

 投獄されて四日、そのフィンセントの許に、三日ぶりの来客があった。あの宰
相に比べれば、天使のような人物である。もっとも、天使というにはほど遠い風
貌の男ではあったが。
「デリウス卿、なぜここへ?」
「しっ、公子どの、お静かに」
 デリウスの手には、この牢の鍵が握られていた。
「?」
 状況の変遷が、あまりにも突然すぎる。フィンセントは、何がなんだか分から
ない、といった表情を見せた。
 ともあれ、デリウスは、フィンセントにとってまさに天使であった。不本意、
かつは不当な拘禁から、自分を解放してくれようというのである。
「何をなさっているのです。さあ、早く外へ出られませ」
「しかし衛兵たちがいる」
「どうか、おまかせを」
「……分かった」
 彼が来た理由、目的など、この際はどうでもいい。このまま牢にいては、座し
て死を待つだけであろう。フィンセントは、無精髭の伸びた顔を上げ、この牢獄
から一歩外に踏み出した。この豪傑に命をあずけてみよう、と思ったのである。
 陰気な通路には、中年の看守が、陰気な顔をしてのびていた。デリウスはおそ
らく、この男から鍵を奪ったのだろう。
 しかし、少し歩いたところで、案の定、衛兵に制止された。
「デリウス様。その仁は……」
「さよう、フィンセント卿だ。宰相閣下のご下命により、この人物の身柄は、宰
相府に移すことにあいなった」
「し、しかし、拙者はそのようなことは聞いてはおりませぬが」
「問い合わせれば分かることだ。しかし、ことは一刻を争う。このまま通しても
らうぞ」
 衛兵は、しかしそれに従わなかった。
「卑官ながら、拙者も騎士の端くれ。はいどうぞ、というわけには参りませぬ」
 そう言って上下の唇を結び、剣をかまえたのである。
「なるほど、武人としては天晴れ……」
 デリウスが剣をぬいた。こうとなっては、やむをえぬ。
 フィンセントは、故グスタフ王臨席のもと行われた、昨年の演武会を思い出し
た。あのときデリウスは、最年少ながら、剛柔合わさった芸術的なほどの剣技で、
並みいる豪傑を制し、王杯を授かったのである。それにしても、フィンセントは、
衛兵がひれ伏すまで、物音らしいものを聴かなかった。尋常な腕前ではない。
 デリウスは剣を振って血を落とした。
「卿を敵に回したくはないものだ」
 薄暗い廊下に転がっている衛兵を見て、フィンセントはしみじみと言った。
「裏口に、馬車を待たせてあります。さあ、お急ぎを」
 言われるまでもないことだった。幸いにもそれ以降は兵士に会うこともなく、
無事に裏門に、二人は着いた。
 急いで馬車に乗り込み、一息ついたところで、フィンセントは尋ねる。
「もういいだろう、なぜ私を助けた? そのようなことをすれば、卿の立場があ
やうくなるばかりだろうに」
「理由がなくてはいけませんか?」
 と、手綱をさばきながらデリウスは言う。
 時刻は夕方、最も人通りの多い時間であった。しかし逆にそれが幸いしたのだ
ろう。その馬車を怪しむ者はいなかった。
 フィンセントはむっとしたように、さらに問い返した。
「ごまかさないでくれ。確かに感謝はしているが、私は卿の本心を知りたいのだ」
 デリウスは、しばらく考えてから、
「公子どののような傑物が、宰相などに殺されるのでは、我が国にとってあまり
な損失。死ぬのは次代の国王が決まってからでも遅くはないでしょう」
 納得しかねる。フィンセントの表情は、そう語っていた。それをちらりと見て
から、微笑しつつ言った。
「というのは建前で、実はさる人物の密命を受けましてな」
「その人物とは?」
「その人は、フォンデル卿にえらく失望しておりましてな。ウィレム殿下につい
てはともかく、宰相一派の跳梁をこれ以上許すわけにはいかない、と」
 フィンセントの脳裡に、ヘボウ侯アントニーの、秀麗だがどこか無機質な顔が
よみがえった。
「アントニー殿下か?」
 フィンセントの問いに、デリウスは大笑した。声があたりに響く。走っている
馬車の中とはいえ、フィンセントが思わずぎくりとしたほどであった。
「いや、失礼。しかし、あのようなお方と一緒にされてはたまりませぬな」
「……」
 フィンセントは考え込んだ。デリウスにこのようなことを命令できる人物、ア
ントニーの一派に属さず、なおかつ宰相を苦々しく思っている人物といえば……。
 そして、やや考えた末、ひとつの結論に達した。
「バルネフェルト伯か」
 バルネフェルト伯ヨッサム。現職の近衛総監であり、王都において最大の兵力
を握る人物である。ヨッサムの妻が、たしかデリウスの伯母であったはずだ。
 ヨッサムは、一連の権力闘争において、態度を鮮明にしていない。グスタフ王
の生前はウィレム大公寄りであったが、このような行動に出るということは、デ
リウスの言ったとおり「宰相に失望」しているだろう。
 デリウスはすました顔で
「当然の結論というべきですな」
 他人事のように言った。
 少し表情を引き締めて、
「いかにも、その通り。これ以上の隠し立ては無意味でしょう。ところで、この
まま公邸までお送りするわけですが、その後はどうなさるおつもりですか?」
「どう、とは?」
 瞬間、フィンセントの口調と表情とが、用心深いものにかわった。
「これまで通り、最大諸侯たる地位に甘んじられるのか、あるいはいっそのこと」
「……どうせよと言うのだ」
「ははは、やめにしましょう。ただ、これだけは知っておいていただきたい。わ
が一族は、テュール家に並々ならぬ期待を寄せているということを。さあ、着き
ましたぞ」
 馬車は、公邸の東門に着いた。
 粗末な馬車から降り、公邸を見上げたとき、フィンセントは、もう何年もここ
を留守にしていたような気がした。
「何と礼を言っていいか。ともかく、上がってくれ。精一杯の誠意を示させてい
ただこう」
「いえ、それは結構です。それよりも、先ほど小官が申し上げたこと、ゆめゆめ
お忘れになられぬよう」
「分かった。せいぜい卿らの期待を裏切らないように努めよう」
 フィンセントはデリウスを視線でとらえながら、言った。
「テュール家の名誉にかけて」
 一連の事変において、テュール家が外部の人間に対して、その態度を鮮明にし
たのは、このフィンセントの言葉をもって最初となるのかもしれない。
「かたじけない。公子どののそのお言葉をうかがっただけで、千金の謝礼にまさ
ります。それでは」
 と言って、デリウスは馬車に飛び乗った。フィンセントが声をかける間もなく、
馬に鞭を入れ、デリウスは去っていった。
 馬車が走り去った後、フィンセントの背後から誰何の声がした。
「何奴か!」
 という声を聴き、フィンセントは振り向いた。公邸の門衛であった。
 振り向きざま、その門衛を叱りつける。といっても、彼の性格によるものか、
口調は至って穏やかであった。
「自分の主人の顔を忘れたか。それほど広い屋敷でもあるまいに」
「こ、公子さま。しかしそのお姿は?」
 と言われて、気付いた。彼はまだ囚人服のままだったのである。しかし、それ
を気にも留めないように、フィンセントは足早に公邸に入った。
  彼を迎えたのは、群臣の驚愕の視線であり、次いで歓喜の豪雨であった。
「閣下、いままでどちらに」
「どういった事情が」
「すぐ、ヒドさまたちを呼んで参ります」
 一〇〇を数え終わらないうちに、四種類の足音が、フィンセントの耳に飛び込
んできた。
「閣下! よくぞご無事で……」
 と、ヒドなどは涙ぐんでいる。それを横目で眺めながら、アントンが、事情を
聞こうとした。
「とにかく疲れた。しばらく部屋で寝るから、夕食が終わったら呼びに来い」
「し、しかし……」
「あとだ。何度も言わすな」
「はあ………」
 不承不承、アントンも頷いた。
 陽が暮れ、さらに数刻が過ぎた。
 幾らかの時間が流れた後、フィンセントは、すでに待ちくたびれたような表情
をした四人の前に顔を出した。当然、伸び放題の髭をそり落とし、さらに、囚人
のそれから貴族に相応しい服装に着替えていた。アーガイルとは違い、こちらの
方が落ち着くのである。
 彼は円卓の周りにある椅子のうち、最も豪華なそれに腰を下ろした。
 気が急いて、かえって何も言えないでいる彼らを制し、いやにかしこまった、
しかし堂々たる口調で、フィンセントは宣言した。
「私、フィンセント・ファン・テュールは、本日ただいまより、テュール家一七
代当主、および、第一七代ウェルフェン国公を正式に襲名する。諸卿、そうここ
ろえられよ」
 奇妙な昂揚感を伴った沈黙が、室内に流れた。さらにフィンセントは言う。
「この公邸を今夜中に引き払い、今後、わがウェルフェン公国は、ウェイルボー
ド王国宰相フォンデルとその一派を公敵とみなす。かの人物が宰相の地位にある
限り、また、次期国王が定まらぬ限り、ウェイルボード王国の属領に甘んじる気
はない」
「……?」
「……!」
  一種の絶望感と戸惑いが、無音の音楽のように加わった。
 ヨーストは驚きもあるが、なにより王国との決別をフィンセント自身から聞く
と、心臓が凍り付きそうだった。しかし、誰がこのお人を不忠と罵れるだろう、
とも思う。無道に害をくわえられ、それでもなお王家に忠実たらんとするのは、
テュール家の美徳ではない。それはすでに奴隷であり、誇りをもつ人間の態度で
はない。
 フィンセントは事情を説明し、そして言った。
「異論はあるだろう。しかし、ここは黙って私に付いてきて欲しい。否、という
者があれば、止めはしない。このまま去ってくれ。その足で宰相府に駆け込んで
も、もちろんこのあとで敵にはなるが、恨みには思わぬ」
 フィンセントの伝記において、必ず語られる名場面の一つである。これは演出
などではなく、自身を賭けた賭博であった。ここで重臣に棄てられるようならば、
この先どんな大望を抱いたとて、それは痴人の妄想に過ぎないだろう。
 彼は、賭けに勝った。誰一人、その場を去らず、それどころか、全員、片ひざ
を床につき、頭をたれる。それは公爵に対する礼ではなく、国王に対する礼であ
った。
「閣下の命ずるままに」
 とヒドが。
「不肖の身ながら」
 とアントンが。
「王国のためにもわが公国のためにも、これが最善の途でありましょう」
 とヨーストが。
「閣下にしたがいます。……ウェイルボードのために」
  とベルーラが。
 四人の重臣が、ことごとく、フィンセントに忠誠を誓った。むろん、公爵家譜
代の騎士であるヒドと、ベルーラのように成人してから職能を買われて公爵家に
つかえた者とでは、その心情は大きく違ったであろう。しかしともかく、彼らは
テュール家公子、否、新たにテュール公となった若者に拝跪し、ひとしく忠誠を
誓ったのである。それは、ウェイルボードの現支配体制との決別でもあった。
 とにかく、目下の急務は、もはや「敵地」となったこの王都からいかにして出
るかということである。公邸にある兵力は二〇〇〇。それなりの威力にはなる。
だが、王都にある王国軍は四万をこえる。むろん、そのことごとくがフォンデル
の隷下にあるわけではなく、おそらくバルネフェルト伯ヨッサムの近衛兵団は、
わるくても中立を保ってくれるであろうが、それでも数倍の敵がすぐ近くに存在
することに変わりはない。しかも王都を退転するとなれば、各人の家族をも連れ
出さねばならない。二〇〇〇の兵士はその護衛とならざるをえないだろう。
「そうと決まれば早いほうがいい。ヒド、卿は兵員すべてを召集し、いつでも出
発できる体勢を整えよ。アントン、卿は、書類をすべて整理し、不要な物は焼き
捨てろ。ベルーラ、卿は陸軍省に行け。バルネフェルト伯にお会いし、宰相一派
の蠢動を抑えるよう願い出ろ。あとで何か不都合があれば、テュール家が面倒を
見る、とも言え。ヨースト、卿は宰相府に赴き、宰相に面会を求めよ。決して、
私が帰っていることを悟られるな。うまくいけば、宰相は教会を始め、あらゆる
ところを捜索するだろう。奴らの兵力を分散させるのだ」
 フィンセントは言った。
「それぞれ、今後は過酷な途を通らねばならぬ。心してついてきてくれ」
「御意!」
 という四色の声。
 この状況の変わりようはどういうことか。国王の死からまだ一月も経っていな
い。省みて、人智には限りがあるということを思わずにはいられなかった。
 その日の夜半、ベルーラが戻ってきた。すでにヒドとアントンは、自分の任務
を終え、いつでも出発できる体勢を整えていた。
「おお、ベルーラか。首尾は?」
 せっかちに、フィンセントが尋ねた。
「うまくヨッサム卿に会えたか」
「御意」
 自信たっぷりに、ベルーラはうなずいた。すでに、近衛兵をはじめとする陸兵
が、王都の各所にある宰相一派の部隊を監視する体制に入ったという。
「しばらくは時間をかせげるでしょう。宰相も、なかなか思うようには軍隊を動
かせないはずです」
「よし……。あとはヨーストか」
 とフィンセントが呟いたところへ、クレアス少年が扉の外から声をかけた。
「ヨーストさまがお戻りになられました」
 間髪入れずフィンセントが声をはりあげる。
「すぐに通せ!」
 入ってきた重臣の顔は、やはり、自信に満ちていた。
「宰相めは、慌てておりましたぞ」
 その一言で、十分であった。
 フィンセントが獄中から消えたという報はすでにフォンデルのもとに達してい
るだろう。テュール家の仕業だと思ったにちがいない。そこにヨーストが「フィ
ンセントさまをいつになったら帰していただけるのか」と出向いたのだから、当
惑しただろう。さすがに、そこまで見越したフィンセントの計だとは思わなかっ
たようである。
「すぐに出発だ。主だった騎士には、王国軍の軍装をさせろ」
「はい、すでに」
 ヒドが応じた。
  公邸の周囲に兵がいないことを確かめさせると、ヒドが外に出た。あとから、
一五〇〇をかぞえる兵がついている。文官や、果ては女官までも武装しているた
め、総数は四〇〇〇人を超えていただろう。「夜逃げ」を気取られないための配
慮であった。
 途中、いくつかの小部隊と遭遇したが、それらはいずれも正規の軍隊であり、
宰相の私兵でもなければその息のかかった者たちでもなかった。バルネフェルト
伯に、本日中に王都を退転すると伝えたわけではなかったから、見咎められるこ
ともあったが、ヒドの機知と何よりも四〇〇〇人の無言の圧力とで、それらをや
り過ごすことが出来た。しかし、城門を出たあとで追っ手がかかるのは覚悟した
ほうがいいだろう。
 彼らの一行が王都の、二番目にさびれた城門をくぐったとき、未だ東の空に太
陽は見えてはいなかった。この先は、出来るだけ早くハーンに戻らねばならない。
事情をいささかなりとも知っている騎士たちは、一様にそう考えていた。それよ
り下級の者たちには、満足な説明は与えられていなかったが、それでも何事かを
察することはできただろう。
  やはり彼らも陸路をとった。徒歩の者もいるため、一週間以上かかるだろう。
 ハーンの湾外には、おそらくレア帝国の艦隊がひしめいているのだろう。こと
によるとすでに戦闘が始まっているかも知れない。
 フィンセントは、王都の城門をくぐってしばらく進むと、頭から被っていたぶ
あついフードを取った。
 問題はこのあとだ。あの帝国軍が、なすところなく去ったとは考えづらい。交
渉が続いているのか。それとも戦闘がすでに始まったか。
 
 
 

 

第八章へ続く

 




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