少女が伸ばした手を、少年はそっと握った。

 少女は少年の手を握り返し、そしてゆっくりと歩き始めた。

 

 何もなかったから、

 何も残らなかったから、

 何も出来ないから、

 少女は黙々と歩いた。

 

 少年が、もっと強くその手を握り返してくれると、そう信じて。

 

 


 

 少女、少年  <第十三話>

 


 

 

「大丈夫、ちゃんと帰ってくるわ。

 貴方を一人になんか出来ないもの。

 大丈夫。

 そんな不安な顔しないで。

 ママは貴方のことを、誰よりも誰よりも思ってるから。

 少しだけ仕事で家を空けるだけよ。

 えぇ、勿論よ。

 何時もと同じ。

 今度は少しそれが遠く、長くなるだけ。

 仕事が全部上手く行ったら、この部屋にちゃんと帰ってくるから。

 だから貴方も、我が儘言わないで待ってて。

 大丈夫よ、貴方はお父さんに似て、本当は強い子だから。

 勿論よ、どんなことがあっても、ママは貴方のことを想っているわ。

 何があっても、何が起こっても、ママは貴方ことを愛しているから。

 それにね、ママには貴方しか居ないモノ。

 だからママを困らせるようなことは言わないで。

 ママはね、今度はどうしても行かなくちゃならないのよ。

 今度の仕事は、ママを必要としているの。

 ママがやらなくちゃ行けないことなのよ。

 それに・・・、貴方のね、パパにも会うの。

 会って、会って・・・・、うっ・・・うん、何でもないわ。

 別に何でもないわ。

 ごめんね、心配させちゃって。

 大丈夫、ママも貴方と同じで強いのよ。

 大丈夫、大丈夫よ。

 何も心配ないわ。

 何も怖いことなんかないわ。

 いつもみたいに胸張って行くわ。

 そしてあの頃と同じように会うわ。

 『馬鹿シンジ、元気だった?』って。

 そうしたらきっと、全部上手く行くモノ。

 大丈夫、大丈夫、もう怖い事なんて何もないモノ。

 もう、辛いことなんか全部終わっちゃったもの。

 悲しいことなんか、全部、もう悲しいことなんかきっとないわ。

 大丈夫、もうママは背伸びしないの。

 手に入らないモノを欲しいなんて言わないわ。

 だから、ね、貴方も我が儘言わないで、今はじっと待っていて。

 ママはね、無くしてしまったモノが何だったのか、それだけ見てくるわ。

 それを欲しいなんて・・・、言えない。

 でも、でも・・・・、でも、もし、ううん、駄目。

 違うの、駄目なのよ。

 ごめんね、ママ変なことばかり言っちゃって。

 あ、もう時間だわ。

 じゃ、行って来るわ。

 いい子で待ってるのよ、シンジ。」

 

 


 

 

 紙コップに入れたコーヒーを口に運びながら、不機嫌そうにシゲルがディスプレイを覗

き込んでいた。その横ではどこからか持ってきたデスクチェアにマコトが座り、その後ろ

にマヤが立って、同じようにそのディスプレイを覗き込んでいる。

 

「幾ら何でも、こんな事まで向こうの希望を聞かなくちゃならないのか?」

 

 シゲルが苛立ちを隠さず、コツコツとマウスの背の中程を中指でつつきながら言った。

 

 定時退社日の定時をとっくに回ったこの時間の研究室には、三人の影以外は見えない。

元々地下にあるこの部屋は、三人のいる一角を除いて電灯が落とされ、実際の時間よりも

更に深い闇を感じさせていた。

 

「でも、突っぱねる理由が無いな。下手に突っぱねると、逆に勘ぐられる。向こうとの混

成チームで開発を進めることは、元から決めてたわけだからな。」

 

 マコトが少しだけ険しい顔で答えた。胸の前で両腕が組まれ、少し背もたれに体重を掛

けている。

 

「しかし、こりゃ一方的だろ? 向こう側にイニシアチブを奪われすぎなんじゃないのか。

チーム編成はこちら側の希望と合わせて、詰めていくのが筋だろう。向こうが一方的に通

達してくるモノじゃない。」

 

「一方的、って訳じゃないだろう。一応、”向こうの希望”って形を取ってる。まぁ、こ

っちが断れないのを見越してるけどね。次のMAGIシステムの大まかな指針は、こちら

のモノが採用されたのだし、その他の部分では向こうの言い分を聞け、って事だろう。あ、

マヤちゃん、まだコーヒー余ってた?」

 

 マコトが残り少なかったコーヒーを呷って、後ろで立つマヤの方に向き返った。

 

「多分あと1、2杯はあったと思うわよ。でも、2時間の保温は切れちゃってるかも。ま

だ暖かいとは思うけど。」

 

「サンキュウ。ちょっと入れてくるわ。」

 

「あ、悪い。もしまだ余ってたら、俺の分も頼むわ。」

 

 シゲルはそう言うと、残っていたコーヒーを一気に呷った。底の方で溶けきっていなか

った砂糖とクリームが、ドロリとした嫌な甘さとなって口に広がった。シゲルはそれに少

し顔をしかめたが、直ぐにそのコップをマコトに手渡した。

 

「OK。俺の分しかなかったら、残念だけど諦めてくれ。さて、っと。」

 

 マコトは両手に一つずつコップを持って、隣の給湯室へ行くために席を立った。

 

「マヤはどう思う?」

 

 部屋を出ていったマコトを一瞥して、シゲルが問うた。

 

「うーん、客観的に見たら別段問題は感じないけど。確かにちょっと、向こう側の思惑が

強く反映されてるとは思うけど、こっちとしても不都合があるわけじゃないわ。”向こう

が決めた”って事を除けば、反論の余地はないわよ。」

 

 マヤが自分自身にも言い聞かせるように、いつもより少しだけゆっくりとした口調で答

えた。

 

「それって、レイちゃんの所もか?」

 

「えぇ、勿論。」

 

「勿論、か。俺はその部分が理解できないけどな。」

 

「それはどうして?」

 

 マヤが間髪、問いを返した。

 が、シゲルはマヤの顔をじっと見つめたまま、それに言葉を返さなかった。

 

「これって多分、アスカちゃんが望んだ事なんだろうな、」

 

 何時帰ってきたのか、デスクに紙コップを二つおきながら、マコトが声を掛けた。

 

「あ、シゲルのコーヒー半分な。」

 

 マコトはそう言いながら、椅子に腰をおろした。

 

「あちら側だって、旧パイロット同士をくっつけたいとは思わないだろう。アレの脅威が

去ったのは事実だけど、モヤモヤしたモノは決して無くなったわけじゃないからね。個人

的には、今度のヤツにアスカちゃんが名前を連ねていたこと自体が、驚きだったよ。」

 

「それは多分、彼女の才能が他の人間から特出していた、って事でしょうね、きっと。」

 

「そうだろうね、きっと。アレをもう見たんだね、マヤちゃんも。」

 

 マコトがコーヒーをズズっと音を立ててすすりながら、マヤの方に向き返って軽く眉を

上げて見せた。

 

「日向君の所にも、行ってたのね。」

 

「正直言って驚いたよ。出来る、とは思ってなかったから。最初向こうから話を聞いたと

きは、今回のプロジェクトの主導権を取るための駒だと思ってたからね。」

 

「何? アレ、って何だよ? 俺の知らない話か?」

 

 シゲルが不機嫌そうに問うた。

 

「覚えてるか? 一番最初に向こうが出してきた素案、次のMAGIの人格を5つにする

話あったろ? 今のMAGIを流用するから現状の期間、予算で出来るのであって、これ

を5つにするなんて、基礎研究さえも終わらない、って話してたアレさ。」

 

「あぁ、あったな。結局こっちの”現状MAGIの流用案”が採用されたけど、あれは妥

当な事だろう。誰が設計するんだよ、あんなの。そもそも人格が増えることが、MAGI

システム全体のパフォーマンスの向上に繋がるかどうかも疑問視されてたしな。出来たと

しても、足を引っ張り合うのが関の山だ。そもそも向こうはあっさりと折れたじゃないか。

見え透いたブラフだろ?」

 

 シゲルが不機嫌な様子を隠さないままで、吐き捨てるように言った。

 

「えぇ、そう思ってたわよ、昨日まで。でもね、終わってたのよ、基礎研究。やろうと思

えば実現できる、ってそこまで思わせるヤツがね。」

 

 マヤがため息混じりに言った。顔には少しだけ落胆の色が見て取れる。

 

「おいおい、冗談は止してくれよ。向こうがそんなカードを握ってるのなら、何でそれを

使わないのさ。」

 

「理由は分からないな。でも、結局向こうはそれを譲って、代わりに開発チームの提案を

行った、って事さ。」

 

 マコトは軽く目を閉じながら答えた。思いの外乾いていた目に、水分が染みていくのを

感じる。

 

「だから俺達は、アスカちゃんとレイちゃんが同じグループに配置されることに対しても、

大ぴらにノーとは言えない、って事か?」

 

 シゲルが吐き捨てるように言った。

 

「まぁ、そちらは別の問題だろうけど。それには、そもそも”反対する理由”がない。さ

っきも言ったけど、これは”アスカちゃんが望んだこと”なんだと思うよ。向こうだって、

只でさえ表に出して使いたくない旧パイロットを、あえて日本でやる研究の、それも重要

なファクターとして用意するなんて、決して楽しい話じゃないさ。でも、彼女無しでは語

れないほど、向こうでは彼女の力があるんだろう。彼女が居るから、このプロジェクトで

対等、それ以上だ、ってぐらいにね。向こう側の思惑がこんな感じだと思うのに、あえて

旧パイロットどうしのグループを組むか? 正直な話、レイちゃんは力のある研究員でも

何でもないんだ。アスカちゃんと一緒に開発に携わる必要がある、って事は無い。それな

ら、旧パイロット同士を近づけるのは避けたいはずさ。何があるかも分からないからな。」

 

「何かって、何さ? 何もある分けないだろ、そんなの。」

 

 怪訝そうにシゲルが答える。

 

「分かってるさ、そんなの。既にあれも無いんだ、何もあるはずはない。でも、気持ちの

良い話ではないだろ。でも、あえて向こうからの提案として、この案が送られてきたんだ。

ここには間違いなくアスカちゃんの意見が含まれてると考えるね。この為に、MAGIの

5人格の素案を引っ込めた、とまでは思えないが。」

 

 シゲルが最後はため息混じりに、息を絞り出すように言った。

 

「なぁ、その5人格MAGIの案って、どっから出てきたモノなんだ?」

 

「メールが来たのよ。重要な部分はかなり削ってあったけど、あの素案の次に、向こうが

出そうと思ってた資料が送られてきたのよ。現状の3人格MAGIをベースとした次世代

MAGIの開発にも生かせる要素が沢山ある、という事でね。私と、えっと日向君の所に

も来てたのよね? 多分後は、上の方にも届いてるはずね。明日にはそちらから、各リー

ダーには配布されるとは思うけど。」

 

 今度はマヤが答えた。

 

「何でそんな重要な事教えてくれないんだ、」

 

 シゲルが少し不機嫌そうに言った。

 

「さっきまで目を通してたのよ。届いたのは昼過ぎだし。そしたら、今度はこのメール届

くしね。一気に色々ありすぎて、話してる暇無かっただけよ。」

 

「ふぅん、まぁいい。で、それが凄かったのか?」

 

「えぇ、まだまだ深く目を通せてないけど、あれは十分実現可能だと思うわ。予算と期間

は流石に今のままじゃ無理だけど、それでも倍に膨らむという程じゃない。天才っている

のね。同じ研究者、って側面からだと、正直悔しかったわ。でも、彼女が頑張ってること

は嬉しかった。」

 

 意図して感情を抑えている、という感じにマヤが言った。

 

「彼女一人の力じゃ無いだろうけど、あの資料の頭に付いてた研究者の名前は、彼女と向

こうの最高責任者だけだからな。多分、殆どの研究は彼女がやったんだと思うよ。凄い話

さ、こちら程、向こうにはMAGIに対する資料が揃ってたわけでは無いはずなのにな。

予算と時間が取れるなら、向こうだけで次のMAGIを作れるよ、きっと。」

 

「”彼女”って、アスカちゃんの事だよな?」

 

「あぁ、勿論だよ。正真正銘、本物の天才だと思う。本当に凄い子だったんだよな。」

 

「凄い子、天才、か。MAGIが、それが、彼女の今か・・・、」

 

 シゲルが今までとは違って、低く短いトーンで言った。

 

「多分、アスカちゃんは漠然と思ってたんじゃないかな。ネルフにいれば、MAGIに携

わっていたら、また再会のチャンスがあるかも知れない、って。これはこちらの勝手な解

釈だけど。」

 

 マヤが辛そうに言った。

 

「なぁ、なら、何故2年前、あの協定が結ばれたときに、彼女はこちらに連絡を取ってこ

なかったんだ? 直ぐにとは言わないが、機会はあったはずだ。でも、このプロジェクト

が動き出すまでは、向こうから一切連絡はなかったんだぜ。それは何故だ?」

 

 シゲルが問うた。

 

「まぁ、それは分からないな。ドイツ支部の問題かも知れないし、彼女個人の考え方の問

題かも知れない。ただ俺達が理由を見つけることじゃないと思うよ。この10年の長さは、

彼女にしか分からないことでもあるさ。俺達は一方的に押し付けたんだ。それを彼女が自

らの手で取り戻そうとしているのだと俺は思うな。後、シゲルも分かってて聞いてるとは

思うが、逆の問いに答えを用意できるか?」

 

「・・・、あぁ、そうだな。分かってるよ。十分すぎるほどに。言い訳だけなら幾らでも

用意できるが、本当はどこかで逃げてたのさ。俺達は彼女を生け贄にしたみたいなものだ。

その子が帰ってくると知ると、恐ろしくなって色々詮索している。滑稽を通り越して、愚

かさでおかしくなりそうだよ。」

 

 シゲルはそういって、ガン、と椅子に座ったままの姿勢で、机の一番下の引き出しを蹴

った。それは鈍く、そしてこの研究室には大きすぎる音となって広がっていった。シゲル

の足の指先に鈍く残った痛みが、余計に自分自身を滑稽に思わせた。

 

「それは、みんな同じよね。」

 

 マヤが俯けた視線をそのままに、ぼそりと零した。

 

 怖かったのだ、と今になれば思う。2年前、まだ自分たちは忙しかった様にも思う。当

時はあの協定の意味がよく分かっていなかった。当たり前のことが、当たり前になっただ

け。その程度の認識であったと思う。が、一気にせき止まっていたモノが流れ出した。一

気に支部間の交流が盛んになり、トントン拍子に新しいMAGIのプロジェクトが立ち上

がることが決まった。冬月がドイツに行った。その時、自分達は気がついていたのかもし

れない。”惣流・アスカ・ラングレーに会えるかもしれない”と。でも、自分も、そして

誰も大ぴらに言葉にしなかった。それは、そう、それは・・・。碇シンジと、綾波レイの

結婚が決まっていたからかもしれない。

 

 何かが、心の壁に当たった。

 

 あ、っと思った。その次の瞬間、ボロボロっと涙が零れ落ちた。ハッとなって口元を押

さえる。嗚咽が上がってくる。何故泣けるのだろう。何故だろう。嫌らしい、と思った。

この涙は言い訳なのだ。卑小で卑怯な自分への言い訳なのだ。自分は、レイにとっていい

お姉さんだった。そうあり続けようと思っていた。赤城リツコが残したから、その罪を拾

おうと思っていた。そして見えなくなった人間の事を切り捨てていた。それが次の罪だっ

たのに。

 

 堪えようと歯を食いしばった。が、うまくいかず、奥歯がガチガチと震えた。鼻からく

ぐもった音が漏れる。今度は肩が震えだした。気を許せば、ワッと大声で叫びそうになる。

 突然、シゲルの腕が伸びてきて、ぐっと、その胸にマヤの頭を抱え込んだ。いつの間に

かシゲルは立ち上がっていたようだ。そして、マヤを抱きかかえた。その暖かさに、余計

涙が止まらなく流れ落ちた。

 

 ガタンと音がして、座っていたマコトも立ち上がった。所在なさげに右手の人差し指で、

耳の裏の辺りを軽く掻いた。

 

「今日はもう帰るよ。戸締まりよろしく頼む。取りあえず、会ってから、考えよう。これ

以上は、余計に卑怯になる。」

 

 マコトはそういった後、軽く左手の甲で、マヤを抱えるシゲルの二の腕あたりを叩いた。

そして、僅かにだけ頭を振った。

 

 シゲルはそれに答えるように、小さく首を二度ほど上下に動かした。

 

 マコトはそれを確認した後、ゆっくりと研究室を出ていった。

 

 白い文字盤に黒の数字が書かれているだけのシンプルな掛け時計が、7時と8時の間で

短針と長針を重ねていた。

 

「なぁ、マヤ。マコトは辛いよ、きっと俺達より。」

 

 シゲルがぼそりと言った。

 

 誰かが自分達を罰してくれたらどれだけ楽になるだろうか、シゲルは一瞬だけそう考え

た。が、その愚かさ気がついて、また自分自身が悲しくなった。

 

 マヤは何も答えなかった。ただ自分の意志を無視するように流れ出る涙と嗚咽だけは、

ひたすらにこぼれ続けていた。

 

「俺達はあのときも抗議の声を上げるだけの人間だった。アスカちゃんと、シンジ君の味

方のようだった。でも、マコトは違う。そのマコトがまた背負おうとしてる。泣いてるだ

けじゃ、駄目だよ、マヤ。」

 

 諭すように、一言一言をしっかりとシゲルは並べていった。

 

「・・・、なんで、なんで、素直に喜べないのかな・・・。私たちって、こんな、こんな

にイヤな人間だったの・・・」

 

 嗚咽に消えそうなほどかすれた声で、なんとかマヤがそう言葉を返した。

 

 シゲルはその言葉を受けて少しだけ天井を見上げた後、マヤの髪に頬を当てて、そして

今までよりもいっそう強く、マヤを抱きしめた。


つづく


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