何も言わない夜、

 少女は少年に与えた。

 

 少年は泣かなかった。

 少女も泣かなかった。

 

 少年は少女の手を、強く握り返した。

 


 

 少女、少年  <第十五話>

 


 

 

 新東京市の北東の山間にある国際第三新東京空港は、あの終末の後にできた空港である。

 500ヘクタールの敷地、2本の滑走路と決して大きな空港ではないが、年間の延べ利

用者数が300万人弱と言う現状を考えれば、その大きさは十分といえるかも知れない。

 

 この場所に何時も同じように降る太陽の光を、10年ぶりに帰ってきた彼女はまぶしげ

に右手で遮っていた。そして細くした目で足下を一別した後、空港のホールから、タクシ

ーの並ぶ焼けたコンクリートの上に歩み出た。

 

 惣流・アスカ・ラングレー。栗色の髪と蒼い瞳の女性。

 かつて異形のモノと戦い、そして世界の果てを見た少女の、その10年後。

 

 アスカは短く意識的な深呼吸をして、ゆっくりと辺りを見渡した。

 10年前、彼女が生まれ故郷への帰路に就いた頃は、この場所に空港はなかった。だか

ら今彼女の目に映る光景の全ては、彼女の記憶の何処を探しても出てくることのない景色

だった。

 

 アスカはしばしの間その景色にとけ込んでいたが、意を決したように歩みだし、客待ち

をするタクシーに乗り込んだ。

 手短に行き先を告げると、タクシーはゆっくりと動き始めた。

 

 10年ぶりの第三新東京。

 背中には、言いようのない焦燥とした感覚が走っている。

 

 窓の外を流れるように過ぎ去る景色が、霞がかった記憶と相まって、異様なほどくっき

りと浮かんで見える。

 アスカは世間話を口にする運転手に相づちを打ちながら、じっとその景色に目を凝らし

ていた。

 

 何が新しくなり、何が失われたのか。

 

 アスカは自分の中で、それをゆっくりと消化しようとしていた。

 

 


 

 

 シンジはけだるい体を億劫そうにしながら、ゆっくりとベッドの上で起こした。

 隣には未だ夢の中に居るであろう、青髪の妻が眠っている。

 

 深い緑のカーテンの裾から、今日も変わることのないだろう熱い太陽の光が零れている。

 時計に目をやった。まだ6時を少し回ったところだ。普段起き出す時間よりは、一時間

余りも早い。もう一度ベットに潜り込むことも考えたが、体とは対照的に、妙に醒めてし

まった頭がそれを許さないだろうと思い、レイを起こさないことに気を遣いながら、ゆっ

くりとベットから抜け出した。

 

 寝室を出て短い廊下を行くと、直ぐにダイニングに出る。綺麗に片づけられたテーブル

の上に、造花が飾ってある。レイと一緒に暮らしだした当時、レイは生花をよくテーブル

に飾ったのだが、どうも蘭やその系統の花の匂いが好きになれなかったシンジがその事を

話すと、それ以来レイは造花を飾るようになった。

 

 シンジは何が欲しいわけでもなく、冷蔵庫の扉を開けた。昨日食べ残したシチューが、

小さな鍋に移し替えられて、入っていた。作り置きしている麦茶と、缶ビール、スポーツ

飲料のペットボトルが扉の裏のドリンクホルダーに並べてある。シンジはそれらの中から、

スポーツ飲料を取り出すと、そのままそれを呷った。乾いた体にゆっくりと染みこんでい

く水分が、眠っていた体を揺り起こすように感じられる。

 

「駄目、ちゃんとコップに移し替えて飲まないと。」

 

 突然声がして、シンジが振り返った。

 

 そこには眠たそうに目をこすりながら、少し大きめのパジャマを引きずるようにして、

レイが立っていた。まだ頭がはっきりしないのだろう、少しだけ体が左右に揺れている。

足取りもどうもおぼつかない様だ。

 

「あ、ごめん。起こしたかな。」

 

 レイはその言葉に答えず、トボトボとシンジの所までやってきて、あっ、とシンジが思

う間もなく、そのスポーツ飲料のペットボトルをシンジから取り上げた。そしてそれを見

つめて少し思案した後、まるでシンジの真似をするように、それをそのまま呷った。シン

ジは片手でそのペットボトルを呷っていたのに対して、レイのソレは両手で支えられてい

るという違いはあるが。

 

「おいしい。」

 

 うぐうぐと暫しそれを呷った後、レイはそう言って、ニコリと微笑んだ。

 

 シンジは最初レイのその行動に呆気にとられていたが、少ししてレイの意図に気が付い

て、そのペットボトルを取り返した。

 

「ちゃんとコップに移して飲もうよ。」

 

 そして軽くレイにキスをした。

 レイは嬉しそうに、少しだけ目をつぶった。

 

「朝ご飯、今日は僕が作るよ。」

 

 シンジはペットボトルを冷蔵庫に戻しながら、まだ少し眠たそうにしているレイに言っ

た。

 

「あ、でも・・・」

 

「いいよ、今日はなんだかいつもより頭だけ冴えちゃったんだ。卵炒めるぐらいしかしな

いけど、レイはそこで座っててよ。紅茶、先入れるから。」

 

 シンジは長袖の寝間着を二の腕の辺りまでまくり上げて、まずはやかんを火に掛けた。

そして久々とは思えない手慣れた動きで、朝食の準備を始めた。卵、ベーコン、トースト、

ジャム、バター、塩、コショウ、レタス、あく抜きしたオニオン、ブロッコリー、缶詰の

アスパラ、ツナ、エトセトラ、エトセトラ。

 

 途中で、先に作った紅茶を、じっとシンジを見つめて座るレイの前に置いた以外は、ま

るで流れるように朝食を作っていく。

 

「スクランブルエッグと炒めたベーコン、サラダ、トーストだけど良いよね?」

 

 シンジがフライパンを振りながら、レイに言葉を掛けた。

 

「十分。スープが欲しいって、我が儘は言わないわ。」

 

 レイが楽しそうに答えた。シンジは、そのレイの言葉を受けて、鍋に水を張って火に掛

けた。そして、それに固形のコンソメスープの元を放り込み、ちぎったレタスと、余って

いたベーコンを放り込んだ。

 

「コショウは?」

 

 シンジが聞く。

 

「シンジの好きなだけ入れて。」

 

 レイのその答えにシンジは瓶のコショウを取って、2回だけ軽く鍋にふった。そしてそ

のまま軽く煮た後、スープ用の底の深い皿にそれを入れて、その他の作っていたモノと同

様にテーブルに並べた。

 

「美味しそう。私の居る必要ないね。」

 

 レイが少し悪戯ぽっく言った。

 

「味の方は保証できないよ。それに久々だったから、簡単なモノしか思いつかなかった。

これを毎日レイがやってくれてると思うと、改めて感謝の気持ちが沸くよ。」

 

 シンジが少し照れくさそうにそう言って、レイにバターを塗ったトーストを手渡した。

 

「頂きます。」

 

 レイはシンジにそう声を掛けてから、トーストを口にやった。カリ、っと良く焼けたト

ーストの音がした。口の中に、バターとトーストの良い香りが広がる。

 

「美味しい。」

 

 美味しかった。何時も食べているはずの食パンが、いつもより甘く、そして優しかった。

 

「良かった。」

 

 シンジが本当に嬉しそうに微笑んだ。そして自分もトーストを口に運んだ。良く焼けた

トーストが、本当に美味しかった。

 

 なんだか、懐かしい景色だ、とシンジはふと思った。昔はこんな朝食を良く作ったな、

と、そんな事が頭をよぎって、少しだけノスタルジックな気分になった。

 

「どうしたの?トースト見つめて?」

 

 レイがぼぅっとトーストを見つめたまま動かなくなったシンジにそう声を掛けた。

 

「あ、いや何でもないよ。ちょっとバター塗りすぎたかな、って。ジャムと半分半分にす

れば良かった。」

 

 シンジはそう答えて苦笑を浮かべた。

 

 レイはそれを聞いて軽く微笑んで、皿に取り分けたサラダを口に運んだ。

 

「あ、そうだ。取れなかった夏休み、ずらせて取れそうなの?」

 

 シンジもサラダを自分の皿に取り分けながら、そうレイに言葉を掛けた。

 

「うん、大丈夫。私が余り忙しくなることは無いと思う。マヤさんとマコトさんにはあら

かじめ伝えておいたし。」

 

「そうか、なら大丈夫だね。こっちはMAGIの方にも参加してないから、多分問題なく

取れるはずだよ。」

 

「何処行くの?」

 

 レイが少し首を傾げながら尋ねた。

 

「うーん、多分近場になるとは思うけど。久々だからね、少し贅沢したいけど。でも、温

泉とかが良いな、やっぱり。レイはどこか行きたいところある?」

 

 シンジはサラダを食べるのを一度中断してから、改めて聞いた。

 

「二人で行けるなら、私は何処でもいい。」

 

 レイは少しはにかんだ様子で答えた。目線を意図的にテーブルの上に落としている。

 

「じゃあ、温泉にしよう。温泉とかだったら、すぐに見つかると思うし。思い切って一週

間、って言いたいけど、流石に無理かなぁ。有給と土日つかって3、4日だね。なるべく

早く予定を決めた方が良いな。今日でもちょっとこっちの予定を聞いておくよ。」

 

「私も、今日もう一度マヤさんに言っておく。今月の検診の予定とかも聞いておかないと

駄目だから。」

 

「うん、じゃ近いうちにまた予定を立てよう。さて、あんまりのんびりしてられないな。

さっさと朝食済ませて、仕事行く準備しないとね。」

 

 シンジはそう言った後、サラダを再び口に運びながら、窓の外に目をやった。

 

 いつもと変わらないやけくそな空の青、透明な朝の光。少しだけダイニングに流れ込ん

でくる風が、いつもより冷ややかで気持ちよかった。ただほんの少しだけ、そこに雨の匂

いがした。


つづく


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