written on 1996/10/27
駅前の喫茶店。
テーブルを挟んで座っている二人の男女。
4人掛けの空いた椅子には、大きな買い物袋が二つ並んでいる。
先程から弾む会話を聞いていると、ごく普通の仲の良いカップルにしか見
えない。
「あのお店、ほんとに何でも揃ってたね」
「でっしょお! 最近新しくできたんだけど、マイナーなメーカーも、結構
入荷してくれるのよ」
「そうそう。ALOCISのスパイクがあったのには、びっくりしたよ。
あれって、もう日本には輸出してないんだと思ってた」
「まー、品薄なのもしょうがないよね。
あそこ、ほとんどプロ御用達だから。
ランキングトップ10のうち、8人が使ってるって記事、読んだことある
もの」
優梨が手首を返して、ちらっと腕時計を見た。
「あら。いつの間にかこんな時間になってる。
わたし、ちょっと部室によって、コレ置いて帰らないといけないから。
そろそろ出ようか」
優梨の言葉にうなずいて、シンジがレシートを手に取ろうとすると、
「ここ、わたしもちね。わざわざ付き合ってもらったんだし」
と、今度はお昼と違って、有無を言わせない調子で優梨がレシートを素早
く奪い取った。
シンジは何か言いたそうな顔をしていたが、優梨が首を振るのを見て、あ
きらめたように肩をすくめて腰を上げた。
そして二人はレジへと向かった。
支払いを終えた優梨が、くるっとシンジの方を振り返る。
「あの……」
「ん?」
「また、買い物がある時は付き合ってくれる?」
「僕でよかったら、喜んで」
シンジはにっこりと笑って答えた。
「柿崎さんの話、面白いから。スポーツのことも凄く詳しいし」
優梨の大きな瞳に、シンジの屈託のない笑顔が映る。
その瞳がわずかに曇ったように見えたが、それも一瞬。
すぐに優梨は明るい表情を取り戻すと、シンジの背中を押すようにして出
口に向かって歩きだした。
* * *
アスカがその二人を見つけたのは偶然だった。
いつも通り――面白い話を一つ聞かせてもらったほかは、いつも通りのバ
イトを終え、駅前の商店街をぶらついていたアスカの目の前に、その二人は
姿を現した。
あいつは大きな買い物袋を手に。
そしてその隣を楽しそうに歩いているのは彼女、柿崎優梨。
二人の姿が視界に入った瞬間、アスカは反射的に近くのお店に身を隠した。
店内を見て回る振りをして、ショーウインドウの陰から二人の様子を窺う。
心は――――怖いくらいに冷静だった。
ずしりと重く、冷たいモノが心臓を押さえつけているような気がした。
シンジと優梨は楽しそうにしゃべりながら、アスカの目の前を通り過ぎて
いく。
二人とも、アスカの知らない顔をしているように見えた。
――――あたし、何も聞いてない。
アスカは心の中でつぶやいた。
もちろん二人――シンジとアスカの間に、そんなことを逐一相手に話す義
務がないことは、アスカも理解しているつもりだった。
だが、心の中で急速に広がる暗雲を止めることが出来ない。
わかってるけど………苦しい。
昨日の電話、何も言ってくれなかった。
シンジにとっては、そんな重要なコトじゃないのかもしれないけど。
………だったら、なおさら悔しいよ……シンジ……
じわぁっと涙腺が緩くなりそうになって、アスカは両手をぎゅっと握りし
めた。
このまま無視して逃げ出そうかとも思ったけれど。
なんだか自分のこの想いが、シンジには全然わかってもらえていない気が
して。凄く悲しくて、凄く腹が立って……
でも、もう、いやだったから。
何もせずに失うのは、もういやだったから。
昔のあたしだったら、こんな無様なやり方はしないけど……
この街に残った理由。
だからあたしは、あいつの後を追いかけた。
* * *
柿崎さんと別れた直後、突然背後から誰かに肩を叩かれた僕は、飛び上が
らんばかりに驚いた。
振り返ってそれがアスカだとわかったとき、僕は声を失った。
「なにしてんの?」
久しぶりに見たアスカの笑顔だったけれど。
嬉しさがこみ上げてくる前に、背中にどっと冷や汗が流れだす。
「え、あ………か、買い物だけど」
「ふうん。何買ったの?」
僕が手に下げている袋をのぞき込むようにして、アスカが言った。
「ちょっとCDを……ね」
立ち止まってちょっと大げさに袋を開けて見せたけど、すぐに興味を失っ
たかのようにアスカはさっさと歩き始めた。
いつもより早足。こんな時はたいてい機嫌が悪いんだけど。
まさか………ね。
「部活休みだったんだ。めずらしいわね」
僕が横に並ぶと同時に、アスカが口を開いた。
「う、うん。昨日の、ほら、アスカの前に電話してたって言ったろ。
あれ、休みの連絡だったんだ」
嘘じゃ、ない。
嘘は言ってない。
僕の頭の中で、こんな言葉がぐるぐる回った。
「ねっ、のど乾いてない?」
唐突にアスカが聞いてきた。
「え? あ、いや、別に。ふ、普通かな」
さっきまで喫茶店にいたことをお腹が主張していたので、思わず否定の言
葉が出てしまう。
「そっ」
アスカは一言しか返してこなかった。
いつもだったら無理にでも僕を連れていくハズなのに。
「………」
妙に気まずい沈黙が続いて、僕は耐えきれずに口を開いた。
「やっぱり、ちょっとのど乾いてきた……かな。どっか寄ってく?」
「いい」
間髪を入れずに返ってくるアスカの返事。
でも、口調は、どこか弱々しかった。
もしかして………見られてた?
さっきから頭の中をぐるぐる駆けめぐってる不安。
見られてた?、とか、見られてない?、とか。
そんなコトを気にしている自分が、不思議でしょうがなかった。
今まで気にしたことなんて無かったのに……
たぶん、こんな気持ちになるのは。
――アスカ、だから。
「あのさ、さっきの話なんだけど……」
「なに?」
「買い物に行ったって話……」
「それがどうかしたの?」
「一人じゃなかったんだ」
さっきまでじっと地面を見つめながら歩いていたアスカが、ぴくんと、ち
ょっとだけ頭を上げた。
「……だから?」
「柿崎さんが部活の道具を買いに行く手伝いをしてたんだ」
「なに、それ。言い訳のつもり?」
「言い訳……って、そんな……」
「あたしに関係ないじゃない」
「……そう……だね。でも、なんだか黙ってるのが苦しくなって……
そ、その、アスカには全部知ってもらいたいってゆーか……」
アスカの重い反応に、思わず言葉が途切れて溜息が漏れた。
「ゴメン。迷惑だよね、こんなこと言われても」
「……バカ」
「え?」
「あんたみたいにバカ正直なヤツ、初めてだって言ってるのッ!」
怒ってる?――――いや、笑ってる……
僕はそのまま黙ってアスカの隣を歩いた。
彼女はしばらく照れたような笑いを浮かべて歩いていたけれど、10歩ほ
ど進んだところで、突然僕の方を見て大きな声を上げた。
「ケーキ!」
「へ?」
アスカが何を言いたいのかわからず、僕は間の抜けた声を出してしまった。
たたみかけるようにアスカの言葉が続く。
「ケーキよっ! ケーキ!!」
「ケーキって、あの甘い……」
「他に何があるっていうのよ! そのケーキに決まってるじゃない」
「は、はぁ……。それでケーキがどうかしたの?」
「シンジは、ケーキ、嫌いじゃなかったよね」
「うん。どちらかというと好きな方だけど」
「た……たっ、食べてみたいと、思っちゃったりしない?」
突然、アスカの声がどもりだした。
顔が真っ赤に見えるのは、夕陽のせいじゃないみたいだけど……
「あ、あの、こ、今度の金曜日にでも、作ってあげよっか?」
「作る? 金曜日? って…………あ!」
「どーせ、祝ってくれる人なんて、誰もいないんでしょ」
そんなことはないよ、なんて強がりを言う気は全くおきなかった。
自分さえ忘れていた誕生日をアスカが覚えていてくれたこと、それだけで
も嬉しいのに。
まさかあのアスカが、わざわざケーキを作ってくれるなんて。
路上だということも忘れて、僕は思わず小躍りしそうになった。
「ほんとに?」
僕が聞くと、アスカは、はにかむように頷いた。
「冗談……じゃないよね?」
アスカは、ぶんぶんと頭を横にふった。
「約束だよ!」
アスカは笑いながら大きく頷いた。
「そのかわり、あたしの誕生日は10倍返しよ!」
「じゅ、10倍!? ちょ、ちょっと待ってよ」
「だ〜めッ。10倍って言ったら10倍なの。
ヤなら、ケーキ、作ってあげない」
ぷい、とアスカがそっぽを向いた。
「う……わ、わかったよ。10倍だろ。覚えとくよ」
「わっかればよろしい。それじゃ、豪華な材料で作っちゃおうかな」
「そんな〜」
僕は情けない顔をして悲鳴をあげた。
隣では、アスカがくすくすと笑ってる。
先程までの嫌な空気は、跡形もなく消えていた。
ふと気づくと、夕陽が僕たちの影をアスファルトに長く映していた。
「ねぇ、シンジ」
「なに?」
「あたしさ、もうちょっと素直になるから……」
「え?」
「シンジはずっとそのままでいてね」
「………うん……って返事でいいのかな」
小さく頷いて顔を上げたアスカの顔は、とても幸せそうだった。