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第一章 −兄弟(あに・おとうと)−
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アトックワ。
人々は、自分達の生活の場であるくぼ地を、そう呼んだ。
一口にくぼ地とは言っても、季節を問わず、常に雪の消える事のないユーズ
ーリの名をいただく峻嶺の連なりを背に、前方には夏、豊かな水源となるエト
川まで続く広大な原野は、歩いてそれを横断するのに、まるまる一週間を要す
る程だ。
それが人々の日常の生活圈と、ほとんど一致している。
アトックワに息づく人々、その総数、およそ五百。
世帯数にすれば、百を少しばかり越えるほどだろう。
トゥールとマトクがもたらした、ブローグ現わるの知らせは、村人達の間に、
静かな波紋を呼び起こしていた。
見た目はこれまでとあまり変化はなくても、人々の日常の行為の端々に、ほ
んのわずかの差異を発見する事は、冷静な鋭い観察者であれば、あるいは可能
だったかも知れない。
少なくとも夜更けに、たった一人で森の中に入って行こうとする者はいない
はずだ。
半地下のソリ置き場で、ちょうど同じ頃に帰って来ていた父親達に、ブロ
ーグについての報告を済ますと、トゥールはマトクと別れ、地下のトンネル網
を、さらに奥へと進んで行った。
ほどなく、目的地に着いたことを示すものが、トゥールの目に映る。
フォーラの家族の住む区画の木のドアを叩くと、中から現われたのは、一夏
過ごした位の、小さな女の子だった。
アトックワの一年は、我々の感覚で言えば四年にあたり、年齢を数える時は、
いくつの夏を過ごしたかで計算するのである。
少女の名はシャーマ。
フォーラの妹だ。
フォーラの居場所を尋ねると、友達のクゥリの所にいるという返事だ。
ありがとう...と、礼を言って立ち去ろうとすると、
「トゥールおにいたん、ブローグ見たの?ほんと?」
つたない口調で、彼女は尋ねる。
先にソリの片付けを終えた大人達のうちの、誰かが教えたものらしい。
「ああ、本当だよ。」
「こわくなかった?」
「...う、うん。」
トゥールは一瞬、返答に詰まっていた。
でも、すぐに、
「怖くなんてないよ。
そうでなきゃ、狩りなんて出来ないからね。」
「えらいわねえ。」
感嘆のまなざしで見上げるシャーマに、何となくトゥールは、くすぐったい
ものを感じていた。
「じゃ、またね。」
シャーマの視線を背中に感じたまま、トゥールはクゥリの家へと、急ぎ向か
う。
クゥリの家は、クゥリの両親、祖母、三人の弟、叔母夫妻とその娘、さらに
居候が数人いて、結構な大所帯である。
村の中でも中心に近く、その上クゥリの祖母という人が、穏やかな人柄で村
人達に慕われていて、また、本人もひどく世話好きのところがあって、よく、
大人達の溜まり場になっていた。
トゥールが訪ねた時には、トゥールの父親など、その日、狩りから帰ってき
た男達の自慢話やら何やらで、もうすっかり、雰囲気が出来上がってしまっ
ていた。
「よっ、トゥール!遅かったな!」
マトクが、背後から声をかけてきた。
振り向くと、マトクの後ろにクゥリやフォーラなど、トゥールと同じ年頃の
少年少女達が集まっている。
アルコールが入って御機嫌な大人達に対抗してというわけではないのだろ
うが、子供は子供同士、自分達だけで盛り上がっていたらしい。
「ああ、ちょっとな。」
「まあいいや。
それでよ、俺とトゥールとでサジャルを追っ払った後、奴を見たんだ...」
マトクが軽快な口調で語り始めると、少女達は、目を輝かしてマトクの顔
を見つめた。
クゥリはともかく、フォーラまでもが、マトクの話に、じっと聞き入ってい
る。
フォーラのうっとりしたような表情に、トゥールは、ぼんやりと見とれてし
まっていた。
「まったく、ブローグって奴はでかかったね。
ドッソーの、五倍位はあったかな。」
少女達は思わず声を上げた。
ドッソーと言えば、村で一番の巨漢で知られている男だ。
赤ん坊など、手のひらにすっぽり入ってしまう。
しかし、そのドッソーの五倍とは、これは明らかにマトクの誇張だ。
「別に、ブローグを追っ掛けてってもよかったんだけどな。
トゥールのヤツが、みんなに報告しなきゃなんねえって言うからよ、仕方な
く戻って来たんだ。」
「何だよマトク!
黙って聞いてれば、好き勝手な事言って。
お前だって、青くなってガタガタガタガタ震えていたくせに!」
それまで黙って聞いていたトゥールだったが、マトクのあまりの言いように、
思わず口を出した。
フォーラの手前、事実を言われるのが癪だった事もある。
「そう言うお前こそどうだってんだよ!
なんだよ、人の事ばっかり悪く言いやがって!」
「人の事ばっかり?
先に言ったのはお前の方だろ。」
「うっせえ!
文句あっかよ!」
「なんだと、この...」
マトクとトゥールは勢い良く立ち上がり、顔と顔を突き合わせた。
そのまま、互いを睨み付ける。
そんな二人に、クゥリは肩をすくめてフォーラを振り返った。
「まただわ、あの二人。
あいつらったら、寄ると触わると喧嘩してんだから。」
「いいじゃないの。
喧嘩するのは、仲がいい証拠よ。」
「...そうかしら?」
二人の女の子が、フウッと深い溜息をついている間に、マトクとトゥールの
喧嘩は始まっていた。
喧嘩と言っても当然、本当の喧嘩ではない。
言わば、一種のスポーツのようなものだ。
娯楽の極端に少ない雪の民の知恵とでも言おうか、暗黙の了解で、拳骨にし
ても蹴りにしても、一応は寸止めのルールである。
要は、いかに相手の攻撃をうまくかわすかという事だ。
その辺、トゥールとマトクは良く分っていたが、生まれた日を同じくし、そ
れ以来、競争するようにして育ってきた二人である。
互いの手の内、裏の裏までも知り尽くしていたため、本気に紙一重の、手加
減なしで拳が飛び交っていた。
と、不意にトゥールの動きが止まる。
何かに気を取られた様子だが、マトクはそれを、万に一つのチャンスと見た。
マトクの会心の一撃が、トゥールの左顎に吸い込まれる。
それをまともに食らったトゥールは、もんどりうって後方に倒れ込んだ。
しかし、何か柔らかいものが下にあって、衝撃があらかた吸収されてしまう。
「な、何だ?」
目をぱちくりさせるトゥールは、背中の方から聞こえる呻き声に、反射的に
跳ね起きた。
「い、痛てぇよ!」
トゥールより、一夏分年下のコイザが、涙と泥とで顔をグシャグシャにして
いる。
「だいじょうぶ?」
声をかけ、抱き起こしてくれたのは、コイザと同じく、トゥールとは一夏年
の違う、ネルサという少女だ。
「ぼけっと見てるからだぞ、コイザ。」
いつの間に、トゥール達の喧嘩を観戦していたのか、若い連中の中では頭
角のシロムが、笑いながら言った。
「トゥール。
どうしたんだ、いったい。
喧嘩の最中に、ぼんやりはいかんぞ、ぼんやりは。」
トゥールの父、レドがでかい声で言った。
でっかい図体に合わせ態度も...いや、貫禄もなかなかの威丈夫である。
隣にいるシロムとは二まわり以上、体のサイズが違う。
シロムはと言えば長身で、なおかつ人並み以上に筋肉が付いているにも関わ
らずだ。
「フォーラに見とれてたな。」
若い衆の一人が、冷やかし声で言った。
「何だお前?
その年で、もう女か?」
レドの言いように、皆が笑う。
トゥールはムッとしたが、
「あっ、そうだ!」
トゥールは、腰の皮袋の中に手を入れて、それを出した。
それ...つまり、例の雪玉である。
「ああっ!」
女の子達が、歓声を上げた。
トゥールの手のひらの上で丸まっていたワフールは、それまで眠っていたの
だろうか、急に明るい所に出されたので目をぱちくりし、キョロキョロと、辺
りを見回した。
「おう、ワフールか?」
と、これはレド。
「珍しいな。
もう、そんな時期か?」
こちらはシロムだ。
「可愛いっ!」
「見せてっ!」
同時に両手を差し出したのは、フォーラとクゥリ。
「何だよ、おめえ。
どおりで獲物が少ねえと思ってたぜ。
しかしまさか、そんなモンに油売ってやがったとはな。」
この口の悪い台詞は、もちろんマトクである。
「ワフールって、北の山脈の向こう側にいるんでしょ?」
フォーラの問いに、シロムが、
「ああ。
冬も、本格的に寒い頃になると、山から降りてくるのさ。
冷たい空気が、山脈で遮られているからな。
しかし...」
「ふうん...
おいで!」
フォーラの手振りに、それまで、そのクリクリした大きな目を、あちこち巡
らせていたワフールは、フォーラにその視線を定めると、ピョコンと飛び上が
った。
ふわりと、フォーラの手の中に降り立ったワフールは、フォーラの、大きな
深い色合いを持つ緑の瞳を、じっと見上げている。
フォーラは、にっこりと微笑んだ。
その、春の日差しのような暖かい穏やかな微笑みを、トゥールは言葉もなく
見つめるのだった。
と、そのトゥールの脇腹を、マトクは肘でつっ突いた。
「何だよお前、その年でもう、女か?」
明らかに、レドの口真似だ。
フォーラを見つめる眼差しそのままで振り返ったトゥールは、いきなりマト
クの腹に、握り拳をぶち込んだ。
「おうっ!」
大仰な身振りで、自分の腹をおさえるマトクに、
「さっきのお返しだ。」
トゥールは、ニヤリと笑ってみせる。
むろん、本気で殴ったわけではない。
「ふふっ。」
「いひひひひひひっ。」
ワフールで盛り上がる少女達とは関係なく、トゥールとマトクは、二人だ
けに判る笑いの中に、その身を任せていた。
ひとしきり楽しい会話で盛り上がった後、再びブローグについての話が出た。
その口火を切ったのは、クゥリである。
「ねぇ、マトク。
マジなとこ、ブローグって、そんなにでかいもんなの?」
そろそろ馬鹿話もネタが尽き、だれ始めていた大人達も、ブローグの一声
で目を覚ました感がある。
寝転がっていた連中も起き上がり、何となく、クゥリとマトクの方に、視線
が集まった。
「ああ。
でかいとも。
頭のてっぺんまで、大体イハリの三十年木位(約3メートル)は、あったか
な。」
答えるマトクも、特に他の連中の視線を意識したわけではないだろうが、い
つになく真面目な口調だ。
と、その場のいくぶん堅くなった空気をぶち壊すように、
「もう、シニックは食えないよぉ、かあちゃん...」
間延びした、コイザの声が響いた。
「あらあら、この子ったら...」
クウリの母親が、眠ってしまったコイザを抱き上げた。
その隣でネルサも、クウリの背中に寄り掛かって、静かな寝息を立てている。
「母さん、ネルサも連れてって。」
「はいはい。」
たくましいクウリの母親の腕に包まれて、コイザとネルサは、奥の方に運ば
れていった。
その、まるまると肥えた背中を見つめるマトクは、ちらりとクウリの横顔を
眺め、
(こいつも、あんな風になんのかな?)
マトクとしては、複雑な心境である。
「ブローグっていうのはな、大体、エト川が完全に凍り付いた頃に、現われる
んだ。」
珍しく、レドが話し始めた。
見るとレドは、片手に酒の入った椀を抱えている。
もっとも、その目つきは真剣そのものであったけれど。
「山の動物ってのは、寒さが厳しくなると、みんな山を降り始めてな。
恐らくそれを、ブローグが追い掛けて来るという寸法だ。」
恐らく...というのは、ブローグと人間が遭遇した場合、そのほとんどはブ
ローグの餌食になってしまい、生き残るケースは稀だからである。
したがって、今までブローグは捕獲された例がなく、どんな場所に住んでい
るのか、何を食べているのかというような基本的な事柄すら、まったく判って
いなかった。
「おっさんは、見た事あんのかい?」
マトクが尋ねる。
「ああ。
随分と、昔の事だがな。」
レドは椀を口に付け、中の液体を軽く飲み込む。
「マトク...
お前が生まれる、少し前の事だった。
俺はアレオスと一緒に、山に出掛けていた...」
「親父と?」
マトクは思わず、レドの顔を見つめ返した。
レドの顔に、微かに浮かんだ優しげな表情は、マトクに、今は亡き弟の面影
を見ているのかも知れない。
「ああ。
優秀な奴だったよ。
俺はまあ、自分で言うのは何だが、体格に恵まれていたおかげで、今じゃ村
一番の狩りの名手って言われてるんだが...」
自分で言いながら、照れ隠しに首の後ろをポリポリ掻くレドだが、それが事
実である事をもっとも良く知っている男達は、いたって真面目な顔付きで、そ
んなレドの顔を眺めている。
「俺の弟は、恐らく生きていれば、この俺を遥かに凌ぐ、狩りの名人になって
いただろう。
何より目のいい奴で、その上頭が切れた。
俺と弟が組んで、いったい何頭のユーロック(クマの一種)を仕留めたもの
か...」
レドの心は、はるかな過去へと飛んでしまっているらしい。
また同時に、目前で自分の話に聞き入る、トゥールとマトクを見つめてもい
る。
内心では、この二人こそ、将来最高のコンビになるだろうと思っているのだ
が、それをそのまま口に出せるレドではない。
「あの日、俺達二人は、ドグ・ウォレ(トナカイの一種)を追っていた。
久しぶりの大物で、俺達は多少熱くなっていた。
まだ陽は高かったし、何より自分達の若さに、絶対の自信を持っていたから
な。」
レドの声のトーンが、僅かに低いものになっているのに、トゥールは気付い
ていた。
決してうまいとは言えない語り口のレドだったが、それ故に、現場の臨場感
をそのまま聞き手達に伝えていた。
シン...として皆は、レドの次の言葉を待った。
「俺達は、こそりとも音をたてずに、そいつに近寄った。
最初に奴に近付いたのは、アレオスだった。
ドグ・ウォレが、何かに脅えたようにして飛び出してくるのを、俺は一撃で
倒した。
...が、アレオスはそいつの事などまったく無視して、何かをじっと見つめ
ていた。
肝っ玉の太いアレオスが、震えていた。
そして、あいつの目線の先に、奴がいたんだ。」
レドは、そこで一息ついた。
一休みというより、当時の状況を思い出し、その時の感情の強さに、言葉を
つなげなくなったのだろう。
すでにかなり飲んでいる筈なのに、レトの頬には、紅みなど微塵もなかった。
「奴は、俺達とはほんの目と鼻の先にいた。
奴がそんな近くに来るまで、俺達はまったく気が付いていなかった。
その時の俺には、どうする事もできなかった。
それまで俺は、内心、狩人としての素質は、人並み以上だと思っていた。
しかし、そんな自信も一瞬で消し飛んだ。
気付いた時には、奴はすでに、こっちの首根っこをがっちり押さえていたん
だ。」
レドにしては珍しく、比喩の表現を使っている事から、いかにその時レドが
恐怖したか、よく判るというものだ。
トゥールは、いつの間にか自分自身が、ブローグと対決しているような気分
になっていた。
今、トゥールの目前には、つい先刻見たそのままの姿で、ブローグがいる。
白くそびえ立つ、毛皮の壁。
その中に、黒々と濡れ光る二つの瞳。
そしてそれは不意に、重力から切り離されたかのように、トゥールに向かっ
て飛び掛かる。
銃を構える、トゥール。
トゥールは迷う事なく、銃の引き金を引きしぼった。
しかし...
撃鉄は、カチンと空しく小さな音を響かせるのみだった。
そう、トゥールはついさっき、ドグ・ウォレを倒したばかりだった。
その後、弾丸の補給をしていない事に、トゥールはようやく気が付いた。
そのトゥールに、ブローグの巨大な鉤爪が閃いた。
トゥールの体は、まるで重さを持たないかのように、軽々と放り投げられる。
だが、そんなトゥールを支える、たくましい腕があった。
見るとマトクが、トゥールの体を抱え、ソリに運んでくれている。
「トゥール。
村に着いたら、すぐここに集まるよう、皆に伝えてくれ。
それまで俺が、できるだけこいつを引き付けておく。」
「マトク。
しかし...」
マトクは、トゥールに最後まで言わせなかった。
マトクは、スロットルを目一杯開け、それまで握り締めていたブレーキ・レ
バーを、そっと離した。
弾けるように、飛び出すソリ。
深手を負ったトゥールは、振り落とされないようにハンドルにしがみつくの
が、精一杯だ。
しかしトゥールは、マトクの訴えかけるような眼差しだけは、見る事ができ
た。
それは死を目前に、しかし全てを諦めてはいない、男の瞳だった。
その瞳の輝きを、そしてその心を、トゥールは生涯忘れることはないだろう。
いや、忘れようとしても、無理だったに違いない。
レドの話が終わっても、しばらくは誰も口を開く事ができなかった。
現実の世界にかえったトゥールは、マトクの方に目をやった。
マトクと目が合い、二人は、それぞれが同じ思いを抱いている事を知った。
ブローグを倒す。
それは、他の男達も同じ思いである。
無言のうちに彼らは、互いの心が一つになってゆくのを感じていた。
黙りこくってしまった男達を見て、フォーラは何か、息苦しい気分がして
いた。
マトクもトゥールも、まるで普段とは、違う気配を放っている。
こわい顔をして、互いに見つめ合っている彼らは、女を寄せ付けない雰囲気
をまとっていた。
(男の人って...)
思いかけ、そして、やっぱりそうなんだなと納得する。
家の中、あるいは村の周り。
ほんの散歩程度にしか出歩く事のない女と違い、男達は獲物を求め、とき
には半月(我々の単位と同じく、ひと月は三十日)以上も帰る事がないのだ。
時には吹雪に脅かされ、あるいはいつ、獣に襲われるかも知れず、未知の危
険に溢れている世界。
そんな中で、妻や娘達のため、時には命を掛けて、自然に立ち向かってゆ
く男達の心情を推し量る事など、幼いフォーラには、まだまだ無理というも
のだろう。
(でも、私達は、そんな男の人達に、暖かい食事と寝床を用意してあげられる。
私も...)
たとえ間接的であっても、彼らの役に立ちたいと、フォーラは思った。
それは静かな、しかし強い願いであった。