願いは形になり、想いは過去を塗り替えていく。

 

 愛しています。

 愛しています。

 愛しています。

 

 闇に溶けだした少女の想いが、少年の心を塗り替えていく。

 

 もう一人の少女のいない、この場所で。

 

 


 

 少女、少年  <第十七話>

 


 

 

 変わらなく雨は強く降り続けている。

 

 大粒の雨の音が、窓ガラス越しに鈍く店の中に響いている。

 “ASUNA”とアルファベットで窓に書かれた文字も、流れ落ちる雨にさらされて、それ

を読みとる事は難しい。

 

 トウジはヒカリとの会話をうち切った後は、ぼうっとそのあやふやな境界線を見つめて

いた。

 

 突然そんな様子の店内に、カラン、と店の入り口が開く音が響いた。そして同時にザー

っという地面を叩く雨音が店に入ってきた。

 トウジの視線が店の入り口に向いた。同時に慣れた様子で「いらっしゃいませ」という

決まり文句を反射的に口にした。

 

 街を覆う雨雲で太陽は隠れきってるが、それでも店の外の自然光が、入ってきた客を暫

しの間、灰色のシルエットで隠した。

 女性、だろう。長いスカートが分かる。

 店の入り口にある傘立てに、どこかで買ったのか、半透明の傘を刺してから、その女性

が店の中に入ってきた。

 

 長く伸びたブロンドが後ろで束ねてあった。白い長袖のブラウスが雨に濡れていた。踝

の少し上まである長いスカート。怖いぐらいに整った顔のバランス。透き通るように、そ

して吸い込まれるように深い、瞳の蒼。そして薄いルージュ。

 

 直ぐに分かった、とは言えない。

 いや、時間にしたらほんの僅かだったろう。それでも直ぐに分かったわけではない。

 

 気が付いても、そんな馬鹿なことがあるかい、とトウジは思っていた。ほんの僅か前の

思考が、今ぐちゃぐちゃになって頭の中を駆けめぐっていた。

 

 トウジはハッとなって、ヒカリの方に視線を向けた。ヒカリはまな板の上で包丁を持っ

たままの姿勢で固まっていた。半分だけ開かれた口、瞳が明らかに揺れているのが見て取

れた。

 

「久しぶり、元気だった?」

 

 記憶の奥にあるよりもゆっくりとしていて、記憶の中よりも低く落ち着いた声が、店の

中に響いた。

 

 


 

 

 シゲルは小さく積み上げられた資料から幾つかを選び出し、明日提出するための報告書

の見直し作業を行っていた。

 

 幾つかの会議とオペレータールームに下りた人間が姿を消している為、この研究室の人

影は少ない。

 そんな静かな空気の中で、シゲルは黙々と作業に没頭している。

 

 ここ数ヶ月ほどシゲルが携わってきた小さな研究の報告書だった。一応予想以上の成果

を上げて、後は報告書を提出すればそれで暫くは楽になれる予定である。その報告書も書

き上がっているのだが、一応提出を前にチェックを行っているところだった。

 

『定時までには終わりそうだな。』

 

 シゲルはそんなことを考えて、ディスプレイの右下にある時計に目をやった。定時まで

にはまだ十分すぎる時間がある。

 

 アナログ時計の横で、デフォルメされた雲から雨が落ちるアニメーションが動いている。

この部屋からは確認できないが、外は雨なのだろう。

 ここ最近では纏まった雨が降った記憶はない。久々の雨だ。これで街も少しは生き返る

だろう。この街には無意味に沢山の湖があるので、雨が降らないからといって簡単に水不

足になることは無い。が、雨の持つ役割はそれだけではない。雨は埃っぽい街のうざった

さをそぎ落とす役割があると、シゲルは思っている。少なくとも、シゲルは雨が嫌いでは

ない。

 

 シゲルは思考を横道に暫し泳がした後、また報告書に取りかかろうと視線を資料の方に

戻した。が、それとほぼ同時に、ピッ、と小さな電子音がして、メッセンジャーが小さな

窓を開いた。

 ふぅとため息を一つ入れた後、シゲルはディスプレイのその窓に視線を移した。その窓

の中では、マコトが親指を立てて合図を送っていた。

 シゲルはゆっくりと部屋の入り口に目をやった。部屋の入り口のドアがコンプレッサー

の働く小さな音と共に開いて、マコトが入ってきた。そしてシゲルを手招きした。

 この位置からでは表情があまり読みとれないが、あまり楽しげな様子ではない。

 

 シゲルは資料を保存し直して、席を立った。そして一度両手を伸ばして背伸びをした後、

先に扉の向こうに消えたマコトを追って、研究室から出た。

 

 

「ごめん、忙しかったかな?」

 

 マコトは廊下の壁に背を預けて、シゲルにこのフロアの入り口で買ってきた缶コーヒー

を渡して、そう言った。

 

「いや、それ程でもないな。例のヤツがやっと終わったから、レポートの方を少し手直し

してるだけだ。」

 

 シゲルは缶コーヒーを受け取りながら答えた。よく冷えた缶だった。

 

 空調の良く利いた研究室と違って、廊下は少しばかり快適に過ごせる温度より高い。照

明の光量も小さく、どこか重い気配が漂っている。そんな空間の中では、冷えた缶コーヒ

ーは有り難かった。

 

「そうか。」

 

 マコトは軽くそう答えて、右手に持っていた自分の缶コーヒーを口に運んだ。そして一

口だけ口に含んで、曖昧な甘さを確かめてから、ごくんと喉を通した。

 

「何かあったのか?」

 

 今度はシゲルが尋ねた。

 

「ちょっとね。悪い話が一つと、報告が二つ。」

 

 マコトが口元を軽く上げて答えた。苦虫をかみつぶしているような、微妙な感情がその

口元に溢れていた。

 

「勿体ぶるなよ。そもそもお前から聞く話の三分の一はいつも悪いニュースだ。」

 

「まぁ、そうかな。」

 

 マコトはそう口にして、軽い笑いを浮かべた。

 

「まずは報告からだけど、例のネルフの解体の話、どうやらあれが具体化しそうになって

いるらしい。“MAGIプロ”が終わると同時に、国連で議題に上る。今度ばかりは避け

ようがないそうだよ。」

 

「おいおい、ちょっと待てよ。“MAGIプロ”が終わったからといって、直ぐネルフを

解体してどうするんだ?MAGIの運営はどうなる?こんなでかいモノをネルフ抜きで運

用できるわけがない。そもそも、こっちの話も国連に全部見せてるわけじゃないだろ。そ

れをあっちだけで何とか出来るのか?」

 

「組織の完全解体が無理なことは、誰しもが認識しているのは間違いないけど、さてどう

するつもりなのかな。微妙な所だろうね。名前をすげ替えるだけなのか、それとも一時解

体してから新たな組織を編成するのか、その辺までは分からないよ。ただシゲルも口にし

たけど、国連にとっては“ネルフ”の見せてない部分、そのブラックボックスを何とかす

る改革、って事になるだろうからね。名前だけでは終わらない様な気はする。今までもタ

イミングを探っては来てたんだろうけど。」

 

「それで、今度の“MAGIプロ”が終わるタイミング見計らって、って事か。俺達の処

遇はどうなる?」

 

「変わらないだろうね。多分何らかの形で次の組織に組み込まれる、って所じゃないかな。

シンジ君、レイちゃんも同じだろうね。」

 

「こっちは流れに任せるだけ、か。」

 

「まぁ、ね。」

 

「“ネルフ”という組織の問題は、既に大半は俺達の手から放れているからな。今は

“MAGIプロ”で手一杯だし、その先の話はその時に考えるしかないな。」

 

「“ネルフ”と言う名前が無くなるのは寂しくもあり、そしてホッとする面でもあるけど

ね。客観的に言えば、“ネルフ”という入れ物は無くなった方が良い、とは思ってるけ

ど。」

 

「客観的には、か。で、出所は何処だ?ミサトか?」

 

 シゲルが鼻に小さな笑いを浮かべて、今までよりも小さな声で聞いた。

 

「内緒。企業秘密という事にしておこう。」

 

 マコトは唇の前に右手の人差し指を立てて、左目を軽く閉じながら答えた。

 

「まぁ、それはいいわ。で、残りは?」

 

「次は未確認というより、微妙な所なんだが。」

 

「なんだ、それ?」

 

「どうやらね、アスカちゃん、ドイツを発ったらしい。」

 

「発った?」

 

 シゲルが驚いた表情を隠さずに、少し身を乗り出して聞いた。眉間に小さな皺が寄って

いる。

 

「正確な情報は一切無いし、事実かどうかも現状では確認できてない。ドイツ支部に問い

合わせるわけにもいかないしね。正式なスケジュールでは、早くても来週なんだけ

ど・・・。」

 

「その話の出所は何処なんだ。ちゃんとしたルートじゃないんだろ?」

 

「うーん、次の“悪い話”に繋がるんだけど、どうもね、これの出元が副指令らしいんだ

よ。流石にそうなると、噂では終われなくて。」

 

「副指令が?」

 

 シゲルは渋い顔で、語尾を強めて言った。

 

「余り大きな声では言えないけど、副指令、かなり悪いらしい。今週末に手術するそうだ

よ。」

 

 マコトは、少し下がっていた眼鏡を中指で軽く戻しながら答えた。

 

「それはどこからの情報だ?」

 

「向こうに行ってる技術屋から。見舞いに行ったときに本人から聞いたらしい。ドイツ支

部の方は、その手の報告をこちらにするつもりは無いようだけど。まぁ、副指令はネルフ

と関係のない人間といえば人間だから、そこにケチを付けるわけには行かないけどね。」

 

「いつものことだな。で、手術の見通しは?」

 

「厳しい様だね。“開けるだけで、結局はそのまま閉じるだろう”と、副指令自身の弁ら

しいけど。」

 

「そんなにか?きつい話だな。しかし何とか、こちらに帰ってくることは出来ないのか?」

 

 シゲルは一つ大きなため息を吐いてから、言った。

 

「無理だろうね。シゲルにも分かるだろ?」

 

「そうか、そうだな。じゃあ、こちらから俺かお前、それかマヤの誰かが向こうに行ける

ような、スケジュールの組み替えは無理なのか?これならまだ可能性はあるだろ。」

 

「それも無理だよ。時期が悪すぎる。“MAGIプロ”の主要責任者が、今のこの時期に

こちらを離れることは出来ない。上も絶対に了承はしないな。そもそも現状の“ネルフ”

と“副指令”は表面上は一切関係のない人物になってるからね。あくまでも、ただの“知

人”だよ。そんな身内でもない人間のために、こちらに穴を開けるような話は到底受け入

れては貰えないだろうね。」

 

「穴をあけると言ったって、マコトとマヤは兎も角、俺はまだまだ忙しくは無いぞ。何と

か時間的な都合も付くだろう。」

 

「簡単じゃない。“MAGIプロ”の件は勿論だけど、そもそもシゲルの出国の許可が直

ぐには下りないだろ。申請しても三ヶ月は待たされる。その間に“MAGIプロ”が正式

にスタートする。その時期にお前がここを離れられるわけがない。そうなると結局無理

だ。」

 

「こんな時にも申請、許可か。いつまで経っても何も変わらないな、ここは。」

 

「難しいね、その辺りの話は。で、アスカちゃんの話に戻るわけだけど。」

 

 マコトは右手の缶コーヒーを軽く振った。ピチャピチャと小さな音がする。もう殆ど残

っていないだろう。マコトはそれを一気に煽り、軽く缶の側面を握って潰した。

 

「アスカちゃんがね、何度か副指令のお見舞いに来ていたらしいんだよ。」

 

「アスカちゃんが?その話、お前は聞いていたのか?」

 

 シゲルが怪訝そうに聞いた。

 

「全然。初耳だよ。」

 

 マコトは軽く首を振りながら答えた。

 

「だろうな。しかし副指令もアスカちゃんがお見舞いに来ているのなら、何か一言こちら

に言ってくれれば良いものを。」

 

「何とも言えないところだけどね。副指令にしても何か理由があったのかも知れないし、

詮索するなら、アスカちゃんが副指令にそう頼んだのかも知れない。この辺は自分たちが

色々考えても仕方がないよ。」

 

「まぁいいよ、それは。で、どうなったんだ?」

 

「丁度ね、こっちの人間が見舞いに行った前日も来てたらしくて。そのアスカちゃんが、

“明日新東京に発ちます”と副指令に伝えたらしい。その話を、副指令がこっちの人間に

ね。」

 

「なるほどな。でもその話が本当だったら、アスカちゃん、既にこっちに着いてる可能性

が高いな。」

 

「だろ?でも今のところお手上げだけどね。多分、実際にこちらに来ていたら、今日、明

日には何らかの情報が入ってくるとは思うけど。一応、そっちに何か話が入ったら連絡し

てくれ。」

 

「了解した。しかしそれが事実だとして、ドイツ支部的にはオッケーな話なのか?」

 

「うーん、詳しい事情とか何も分からないから。でも、実際にアスカちゃんがドイツを発

ったのなら、向こうとしてはゴーサインを出したって事だろうからね。アスカちゃんの行

動の制約が、俺達が思っているよりも緩いのかもね。ひょっとしたら、俺達が難しく考え

すぎてるのかも知れないな。」

 

 マコトはそう答えた後、腕時計に目をやった。

 次の会議が始まるまで、もう少しだけ時間がある。

 

「何とも言い難い話だな。兎に角、こちらに何か話が入ったら連絡するよ。マヤにも伝え

ておく。」

 

「よろしく。あ、そうだ、もう一つ話がある。」

 

 今までの口調より少し明るめに、マコトが言った。

 

「何だ?悪い話なら勘弁しろよ。」

 

「俺には悪い話じゃないけどね。上の中会議室に17:00って伝えてくれ、って第一の主任

に言付かって来てたの忘れてたよ。次に研究室に入れる解析ツールの話だって。」

 

「マジかよ。くだらないことで会議ばっかりやるなよ。そもそも、次に入れる解析ツール

の話なんか、俺が出ても仕方がないじゃないか。」

 

 シゲルは吐き捨てるように言った。

 

「まぁシゲルさんのご意見が聞きたいのでしょうね。第一の主任って、前のOS入れ替え

の時に、他の部署に“予算の無駄遣い”とか散々責められてたからね。シゲルがOK出せ

ば、今度は他も何も言えない、って腹づもりだね。精々頑張ってやってちょうだい。」

 

「それならお前でOKじゃないか?」

 

「悪いね、俺は今から会議なんだよ。丁度定時間際まで入っててね。そっちには無理なん

だ。」

 

「ちょっと早く抜けて、参加してやれよ。俺は今日は定時に帰る気満々だったんだから。」

 

「運が悪かったと諦めなさい。」

 

「あの主任もいつもは俺のこと煙たがってるくせに、こんな時だけ利用するなよなぁ。」

 

 シゲルが本当に悔しそうに言った。

 

「まぁ、そういうものさ。さて、会議があるからそろそろ行くよ。」

 

 マコトはそう答えて、軽くのびをした。肩の関節が、コキコキッっと軽く音を立てた。

そしてもう一度時計に目を通してから、踵を返して廊下を歩き出した。

 

「そうだ、マコト。」

 

 歩き出したマコトの背に、シゲルが声をかけた。

 マコトはゆっくりと上半身だけで振り返った。

 

「アスカちゃんの件、シンジ君とレイちゃんには直ぐに伝えるのか?」

 

 先ほどまでより少しだけ、強く大きな声だった。

 

「そのつもりだよ。隠す理由がない。」

 

 マコトがわずかな躊躇もなく、そう答えた。

 

 シゲルはその答えを聞いて、少し長く、意図的に息を吸って、それを吐いた。

 

「そうか、そうだな。悪かった。」

 

 マコトはシゲルの言葉を聞いた後、優しげな笑みを僅かな時間だけ浮かべてから、また

振り返って、歩き始めた。

 

 淡いベージュの廊下の壁に、コツコツと響くマコトの足音が弾けて、そして消えていっ

た。


つづく


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