一月も終わりに近くなり、ウェルフェン公国では、前国公ヘンドリックの「国葬」が間近にせまっていた。特使としてレア帝国へ赴いたコルネリスが、年明けを目前に帝都ミラネに入ったという報告が、つい先日あったばかりだ。すでに交渉ははじまっている、あるいはすでに終わっているのかもしれない。なにしろ帝国は遠い。経過と結果とがわかるまではまだ当分かかるであろう。
またこの間、王都からはほぼ二日に一度という頻度で情報が届けられていたが、憂慮すべき重大な報告は、この一月、ほとんど何もなかった。主要なものといえば、近衛兵団掃滅の指揮をとったルードが上将軍筆頭・大将軍代行となったこと、暫定的ながら、あらたな近衛総監に、同じく上将軍ソルヴェが任命されたこと、ソルヴェの麾下にあった軍団が二分され、下将軍に階位をすすめたベリアスと、下将軍ティツィングの指揮するところとなったこと、近衛兵団軍監であったダルベルトが宮内次官に進んだこと、さらに、行方不明であった近衛兵団一番隊々長のカドゥラの死亡が確認されたこと、バルネフェルト伯爵家に対する処分は保留されたが、その領地は内務省の監督下におかれたこと――それくらいのものだ。フィンセントはもっと悪い事態――公爵家と断交状態のままウィレムが即位するような――を想定していたのである。
ともかく、これらの報告はフィンセントよりもむしろデリウスに意味があったようで、とくにカドゥラの死に彼は悲憤を禁じえず、海兵隊々長としての職務を一日だけ離れ、あたえられたばかりの自邸で喪に服したものである。
おかしい、とフィンセントは思う。宰相府の反応が奇妙ににぶいのだ。公式な葬儀とはいえ、ハーンに王都の群臣を呼び寄せ、前国公の葬儀をおこなう――ことさら疑おうとしなくても、充分に疑わしい行為である。法的に規制されていないとはいえ、本来ならばくどいほどの許可をもとめねばならないところだろう。
それに対してフォンデルが、ことさらめだった動きを見せていない。あるいはまた何かを画策しているのかもしれぬ――いや、ほぼ間違いなく画策しているのであろうが、それにしても、おとなしすぎるのではないか。
この場合、フォンデルの側にはふんだんな選択肢がある。ヘンドリックの葬儀を妨害するという一点にかぎっても、強権を発動し、一定以上の身分の者に対して王都からの外出を禁止することさえできる。現時点で、めだった敵対勢力はないのだし、ルード将軍の麾下には一万人以上の将兵があり、ベリアスもいる。あいかわらず王都の中においてさえ圧倒的多数とはいかないが、以前とは異なり、彼らに反抗しうるまとまった武力集団は、すでに王都にはない。強いて挙げるなら上将軍ソルヴェだが、彼は局外中立を望んでおり、けっして反フォンデルというわけではない。何より、宰相の策かラッツェルあたりの入れ知恵かはわからぬが、ソルヴェは近衛総監代行となったばかりであり、もとからの軍団とも切り放され、一〇人の隊長をことごとくうしなって兵力が半減した近衛兵団を再編成、統御せねばならない身である。単身でフォンデルに逆らうことのできる人物は、王族の中にすらいないだろう。なにより、どれだけ不完全なものにせよ、ともかく教会との講和が成ったのなら、グスタフ王の葬儀を執り行えるということではないか。
実はそれこそフィンセントがもっとも恐れていたことなのである。国王の葬儀をおこなうとなれば、フィンセント自身が出向かねばならないだろう。病気と称して重臣を代理にたてるとなると、猜疑――フォンデルたちにとっては格好の口実――をまねく。だが、もちろん今の王都にフィンセントが丸腰で行けるはずもない。テュール家としては、疑われ、忌避されるのを承知の上で代理を立てるか、完全に黙殺するか、フィンセント自身が出向くとなれば陸兵をともなって行くしかない……不利な選択を強いられていたことは疑いないのだ。
なぜ、それができないのか――。
「ウィレム大公殿下はいまだに姿をおみせにならない」
諸侯からの親書にも、間諜からの報告にも、くりかえしつづられた言葉。その意味をやはり考えねばならない。フィンセントは、以前より考えていたいくつかの可能性をまとめてみた。
一、フォンデルとウィレムとの間になんらかの確執が発生した
二、ウィレムが肉体的あるいは精神的に失調をきたしている
三、ウィレムがすでに死亡している
四、宰相府と教会との間でいまだに王位をめぐっての決着がついていない
五、あらたに有力な王位継承者が登場した
考えすぎか、と思わなくはない。だが、和戦いずれにせよ、王都を相手にする以上、考えすぎということはないはずであった。グスタフ王の崩御からすでに四ヶ月。フィンセントは身をもってそのことを思いしっている。
まず第一の可能性。意外ではあっても驚愕するほどではない。ウィレムは犀利とまではいかずとも充分に聡明な人物であり、英雄と称するにはほど遠いにせよ、王家の嫡子としての気概を自然に身につけていた。名君と称されるかどうかはともかく、暴君にはならないであろう――ウェイルボード王家の伝統をただしく踏襲すると思われる人物だったのだ。王子はフォンデルに、過不足ない敬意をはらっていた。しかし、あるいは、それだけに、そのいくつかの策謀を知れば、虚心ではいられないだろう。
二。この可能性がもっとも高いように思われる。ウィレムは人格的に大きな欠陥があるわけではなく、群臣の支持もまずまずりっぱなものであった。にわかにアントニーという候補が浮かび上がってきたのは、グスタフ王の病が篤くなってから、つまりウィレムが姿をみせなくなってからである。ならばウィレムが心身いずれか、あるいは双方を害していたと考えても、けっして無理はない。だが、それ以後もフォンデルがウィレムを熱烈に支持していたこととは矛盾する。
三。これも、考えられないことではない。姿をあらわさない、極論すれば生きている保証は誰にもできない、ということだ。だがここでも二と同様の疑問にたどりつく。そもそも、先王の嫡男たる人物の死を長々と隠し通すことが可能であろうか。
四。宰相府と教会がかわした密約が、ウィレムの即位を認めるかわりに……といった内容でなければ、ありうることだ。しかしその条件ぬきでフォンデルが教会と手をにぎることは考えられない。もちろん、今になってどちらかが約定を破棄したとなれば、話は別だが。
五。たしかに王家の血をひく者はすくなくはない。だが、グスタフ王の嫡子であるウィレムと、ハンス王の嫡曾孫であるアントニー以上に有力な人物が、はたして存在するだろうか? ハンス王とグスタフ王の間にはアンリ王があったが、彼の嫡子であったハインリヒは、グスタフ王の即位とともにヴェサリウス侯爵の爵位をあたえられて臣下に降り、酒席での失態から爵位を男爵に落とされ、形式としてはみずから領地の八割を返上し、王都にもどることなく世を去った。彼には、すくなくとも法的にみとめられるべき嫡出子はなかったので、そのままヴェサリウス家は絶家となっている……。
「……」
フィンセントは考え込んだ。列挙した五つのうちのひとつあるいは複数で正しいのだろうか。それとも第六の可能性があるのか……。
樫椅子に体をあずけながら、フィンセントは、部屋を見渡した。ノジェールを筆頭に、歴代国公の肖像が飾られている。ノジェールのそれと両端をなす位置に、父ヘンドリックの肖像がある。いずれフィンセントの肖像もここにならぶことになるだろう。
「……ご卑怯ですよ、父上」
おもわず呟いた。彼は父親への尊敬をうしなったことはないし、これからもそうであろう。だが、その父が、みずからの責務を放擲して逃避をえらんだということに、深刻な失望をおぼえていた。
「あなたのおかげで、私ども兄弟がどれほど……」
フィンセントは苦笑した。埒もないことを口にした、と思ったのだ。
と、そこへ、丁重とはいえない一礼とともにアーガイルが訪れてきた。
「……なんだ」
内心の気恥ずかしさを隠すためか、フィンセントの言葉は素っ気ない。
「訓練から戻ってまいりましたので、ご報告にうかがいました」
「……報告するようなことがあるのか?」
フィンセントが卓に両腕をおいた。アーガイルが日々の訓練について直接フィンセントに報告することはめずらしい。たいていはマールテンが、アーガイル、ソルスキアの両名から報告を受け、それを定期的にフィンセントに伝達するだけなのである。アーガイルは北海提督と公国軍総参謀を兼ね、事実上、公国軍の総帥といっていい。だが、平時における軍務の責任者は、兵部卿たるマールテンなのである。現在は準戦時といえるだろうが、現実として戦火をまじえているわけではない。アーガイルみずからの報告とはどういうことであろう、と、フィンセントの表情が緊張したとしてもやむをえなかった。
「いえ、訓練はいたって順調です」
「?」
「フェルディナントからことづかってきました。葬儀の列席者が確定したそうです」
「ああ……、しかし、なにもアーガイルに預けることはなかろうに」
「いえ、おれ……あ、いえ、私のほうから言ったのですよ。訓練が終わって国公府に戻ったら、たまたま会ったもので。葬儀の運営というのは……なんというか、大変みたいですね。ここ数日、自邸に戻っていないと言っていましたよ」
「ああ、負担をかけている」
といった。フィンセント自身、さまざまな葬儀に出席したことはあっても、自分がそれを主催するというのははじめての経験である。そのような経験と手腕にもっともすぐれているのは、この公国ではコルネリスであっただろうが、彼は今レア帝国にあり、公都ハーンにはいない。したがって、それに次ぐ経験を有する人物、つまりフェルディナントに実務をゆだねるしかなかったのである。ヨーストやベルーラといったあたりにやらせてもよいのだが、ヨーストは内務卿として、ベルーラは司法卿として、フィンセントの考案による公国内の新制度を実務化し、各州、各郡を指導しなければならない。ハーンにあって葬儀にかかりきりというわけにはいかないのだ。なにより、フェルディナントが二〇年近くにわたって王都に築きあげてきた人脈は、無視できるものではない。
フィンセントは書類に目を落とした。
ヒルデブラント侯爵家、フィングボーンス伯爵家、アデルハイド子爵家、デュイスドルフ子爵家、アフト子爵家、さらに八つの男爵家は当主みずからが来ることになっている。また、フロストローイ侯爵家のほか、三つの伯爵家、五つの子爵家、一三の男爵家が世嗣あるいは親族を代理として派遣……。
閣僚として参加するのは、テュール家と遠い親戚にあたる司法大臣ブールハーフェのみだが、招待を黙殺した省はひとつもない。宰相府でさえ、公的な招待を断るわけにはいかないとみえ、宰相府書記官ダウム――ラッツェルの部下にあたる――を派遣してくる。
そして軍からは――
上将軍は、ヨッサム亡き今、四人しかいない。その筆頭となったルードはいうまでもなく、軍における宰相の代弁者である。ソルヴェは、軍団指揮官から近衛総監へと転じたばかりで、しかも将兵を掌握するのに手こずっているようだから、数少ない幕僚を派遣することもできないだろう。みずから王都を留守にするなど論外である。のこるふたり、すなわちデパルツァーとホヴェルトは、東と南の、それぞれ国境をまもっており、任地を離れることは国法をもって禁じられている。だがデパルツァーの副将ギエフ下将軍が総帥の代理、つまり軍団の代表として、エストル准将軍をともなって国境地帯をすでに出発したようであるし、ホヴェルトの幕下にあるホイフェンス准将軍がやはり南方軍団の代表としてこのハーンにむかっている。その他にも、下将軍が三名、准将軍が八名。海軍からは、海軍次官のハルペルツが正式な弔問使となっているほか、都督府筆頭参謀であるヒーフォが、やはり大都督ティンベルヘン伯クラウスの代理を兼ねてやってくる……。
「これほどとはな……」
フィンセントは苦笑した。将軍位をあたえられている者はほとんどがこの招待を黙殺するのではないか、と思っていたのである。フォンデルは、フィンセントが警戒したほどではないにせよ、それでも王都で最大の権力者であることにかわりはない。彼らはそれほどフォンデルに反感をいだいているのか。あるいは……。
「日和見ということなのでしょうか、つまり、公国も宰相も敵に回したくはないと」
というアーガイルの口調には、やや潔癖性的な棘がある。
「それもあるだろう、だが、おまえにはべつの可能性を考えてもらいたい」
「……というと?」
「武官一七名、文官二五名、そして顕職に在らざる宮廷貴族が三〇名……しかもこれらは高位にある者、爵位をもつ者にかぎってのことで、彼らの随員やその他の弔問客もふくめればいったいどれほどになるのか。……そこでだ」
「はい」
「彼らが軍勢を率いてこないという保証が、どこにある?」
「まさか!」
アーガイルは兄の心配を笑おうとして失敗した。
「しかし、それならわざわざ弔問と称する必要はないでしょう。堂々と攻めかかればいいことです」
「アーガイル、大臣や将軍、あるいは伯爵家当主が、他領をおとずれるにあたり、三〇〇人の護衛をつけるとする。この数字についておまえはどう思う?」
「は?」
と、アーガイルは一瞬とまどったが、兄のいわんとすることを諒解した。
たしかに、それほどの高位にある者ならば、王都にあるときはともかく、旅程では一〇〇人単位の護衛をつけてもおかしくはない。テュール家当主がジュロンとハーンを往復するときなど、多いときは一〇〇〇人近い随員をつけていたものだ。今回、顕官・貴人とよばれる人々が七二名、ハーンを訪れることになる。それぞれが三〇〇人の護衛兵をつけるとすれば、それだけで二万をこえ、公国全軍に匹敵する数字となる。それぞれが公国領内に入り、連絡を密にすれば……。
半日でハーンは陥ちる。
そういうことですか、とアーガイルがつぶやいた。
「最悪の場合はそうだろう、だが、それだけではない。ハーンを攻める必要はかならずしもないし、極端なことをいえば人数をそろえる必要さえない。たとえば、おまえが殺されたらわが海軍はどうなる?」
「………」
「マールテンに提督がつとまるか?」
「爺は――」
「いや、これは私の言い方が悪かった。なにもマールテンを卑下するのではない。政治的な話だ。帝国軍を破ったのは誰だ? マールテンではなく、おまえだ。私の見方が誤っていなければ、フォンデルにとっての最大の脅威、つまり、表だってはいないが、奴を敵視する人々にとっての最大の希望は、バルネフェルト伯なき今、ルータスの帝国軍を破った公国海軍、つまりおまえということになる。そのおまえがいなくなっても、彼らが自分の命運をわが公国に託すと思うか」
「……しかし、そういうことならば、私などより兄上のほうが。現に兄上はフォンデルに殺されかかったではありませんか」
フィンセントは、首を左右に二往復させた。
「あれは、帝国軍と戦う前のことだ。あのときフォンデルは、私を殺してテュール家の王都への影響力を減殺し、この公国はレア帝国にくれてやるつもりだっただろう。奴にとっての誤算は、私を助け出す者が公爵家以外にいたことと、おまえが帝国軍に勝ったということだ。今はどうだ。私はすでに王都にはいない、たとえ私が殺されたとしても、おまえが国公位に就くだけだ。おまえはその地位に就くことを正当と思わせるだけの実績を、すでにえている。仮に、統治者としておまえが無能であったとしても、多少の混乱があるだけだ。むろん長い目でみればわが公国にとっては不利益かも知れぬ。だが、今おまえが死ねばわが公国に勝ち目はなく、敗れれば、われらは『長い目』などを永遠に必要としなくなる」
フィンセントの言うとおり、この時点で、アーガイルはおそらく、いや、疑いなく、ウェイルボードで最高の艦隊指揮官であっただろう。すくなくとも短期的には、フィンセントよりアーガイルのほうこそ、公国にとって、より貴重な、護らねばならぬ存在であった。そうみることは、けっして不自然なことではない。不自然といえるのは、そのことに他ならぬフィンセントがとうに気づき、しかもごく自然にそれを受けいれ、潜在的な競争相手である弟にそれを話した、ということである。このフィンセントの態度について、「良くも悪くも凡人ではない」とラッツェルならば警戒するであろうし、「なんという私心のなさだ」とデリウスならば感嘆を禁じえないところであろう。だが、この場にいるアーガイルは、「そんなもんですかねえ」と大げさに感心するだけだった。
フィンセントはそれには直接こたえず、
「フォンデルは陰謀家だ。しかも、みずからが思いついた陰謀を最上の手段だと思いこむ悪癖が、どうやらあるようだ。本当はそんなことはないのだがな……」
奇妙なことに、フィンセントの言葉には、やや同情のひびきがある。
もしフォンデルがヨッサムに対し誠意をもって接していたら、無用な軋轢はおこらず、近衛兵団を敵とすることもなく、ウィレム王の誕生はすでに成っていたかもしれない。またテュール家に対する敵意を露骨にしなければ、これほど深刻な憎悪と嫌悪、そして混乱をもたらすこともなかっただろう。
フォンデルが紡いだ策謀は、一つひとつは芸術的なほどの成功をおさめている。だが、少しばかり長く、広い目でみるとどうであろう。フォンデルにとっては損のほうが大きいとしか、フィンセントには思えない。フォンデルの奇術によって北海に攻め入った帝国軍はアーガイルの前に屈し、ウェルフェン公国はほとんど無傷である。レア帝国の君臣が、逆恨みから、人質となっているフォンデルの妻子を殺害する可能性もある。フィンセントはデリウスに救出され、家臣を引きつれて王都を退転した。またその王都では、教会を利用してヨッサムと近衛兵団を粛清したのは見事というほかないが、そのせいで軍は混乱におちいっている。生き残った近衛兵団幹部のひとりデリウスは、公国の客将という立場にひとまずおさまったが、フォンデルへの復仇を誓っていることはまぎれもない。同様の立場にある者も、けっしてすくなくないだろう。とくにレンドルフ、レッケンの両名は東方軍団の門扉をたたいたという。要するに、それぞれの策謀が孤立し、まったくむすびついていないのだ。陰謀が生みだす悪しき副産物に、フォンデルはまったく頓着していないように思えるし、そもそも長期的な展望があるのかどうかさえ……。
フィンセントはかるく首をふった。フォンデルが何を考えているのか、など、この時点では考えてもしかたがない。答えがわかるはずもないのだ。重要なことは、フォンデルが何をしたか、何をしているか、何をしようとしているかを知ることだ。その情報を充分にたくわえたときこそ、最初の疑問の答えがでるだろう。
フィンセントは弟を見つめ、ごく常識的な命をくだした。
「ともあれ、まだ可能性の段階だ。だが、弔問客の一部には、公国に対して好意をもたざる者もいるだろう。用心にしくはない。警備はヒドにやらせるが、おまえはマールテンやソルスキアとよく相談して、いつでも軍を動かせるようにしておけ。式典には出てもらうが、それ以外の時間は港ですごすことになるだろう」
「はっ」
ウェイルボード海軍式の敬礼をしてから、アーガイルはにわかに口調を変えた。
「話はかわりますが兄上、おれは前から気になっていたんですが」
「なんだ?」
「兄上は、結婚する気はないんですか?」
「……何を突然!」
さすがに、フィンセントも面食らったようだった。
「兄上、これは海軍提督が国公に訊いているんじゃない、弟が兄に尋いているんです。兄上も今年で二七。遅すぎるくらいです。どうです、いないんですか」
「何がだ」
「とぼけなくても」
アーガイルは、笑いをこらえているようだった。この犀利な兄が、自分ひとりのこととなると、極度に気むずかしく、またとんでもなく不器用になるということを、彼は知っていた。
「独身のテュール家当主。宮廷貴族や諸外国の王族がほうっておかないでしょう。誘いの声はかかっていないのですか?」
「……売るほどある」
これは強がりではなく事実である。一〇年以上むかしから、フィンセントのもとには、フェルディナントやコルネリス、あるいは亡父ヘンドリックを通じて、多くの縁談がもちこまれていた。正式な申し入れだけでも、国内外あわせて一〇件や二〇件ではない。世間話ていどのものもふくめれば、全身を指にしても数えきれぬ。テュール公爵家の姻戚になるというのは、それほど魅力的なことなのだ。テュール家に娘を輿入れさせた場合も、逆にテュール家の娘をむかえた場合も、よほどの失態がないかぎり、かなり高い官職が保証され、一族の門地は安泰となるのが常であった。爵位をもたない騎士の家ならば、例外なく男爵となり、男爵家であればほぼ確実に子爵へと昇る。宮廷貴族としての地位が飛躍的にあがるのだ。ふたりの下級騎士の覇気と勇気からはじまったウェイルボード王国においても、貴族社会では虚栄心があらゆる行為の動機となる。王国の草創期、カーレルとノジェールの時代でさえ、彼らをとりまくにわか貴族たちは「家名に箔をつける」ための努力を惜しまなかったものだ。
「……」
フィンセントはやや考えこんだ。アーガイルはからかっているのだろうが、たしかにその言いようにも理をみとめないわけにはいかない。彼には公爵家嗣子であったころからつきあいのある女性がある。いや、あった、というべきだろう。ミアというその女性はいまジュロンにいるのだ。フィンセントには彼女を捨ててきたという意識はまったくないが、何もいわずに王都を去ったのだから、彼女のほうでどう思っていることやら。
ミアは平民ではあるが、ジュロンで五指に入る交易商の孫娘であるから、正式な結婚となっても不思議ではない。この国では貴族の結婚に対する制限は、政治的な問題がある場合――たとえば外国の王族との結婚など――をのぞいてはきわめてゆるやかであった。だが、フィンセントにそのような意思はない。一時は考えたこともあるが、今となっては無理だろう。フィンセントが単なる公爵家の相続者であり、敵もすくなく、国内が平和である、というのならば、その結婚に政治的な意義をもとめずともよい。好きになった相手と一緒になればいい、で話はすむ。だが、一時のこととはいえ王都に叛逆することを決意し、またレア帝国に対しては非公式ながらウェイルボード王国の代表者たることを宣言してしまっている。コルネリスの交渉しだいとなるが、レア帝国皇帝が、皇族の娘をおしつけてくる可能性も、絶無とはいえないのだ。
アーガイルはかるく溜息をついた。この兄は、ジュロンにのこしてきたミアのことよりも、結婚という行為のうみだす政治的価値を考えているのだろう。アーガイルは、それを無情だとも薄情だとも思わない。私心がないからこそだろう、と、考えられる限りもっとも好意的な解釈をしている。だが、「このような人に惚れた女は、不幸だ」と、面識のないミアに、ふかく同情した。アーガイル自身、女性とのつきあいというものをきわめて軽く考えているのだが、この兄ときたら、女性とのつきあいかたを考慮したことすらないのではないか……。
「その話はやめにしよう」
フィンセントは笑った。意に沿わぬ状況を強いられ、激務がつづいているにもかかわらず、フィンセントの表情には疲労の色がない。疲労そのものがないはずはないのだが、それが顔にあらわれないのだ。体質によるものか努力によるものか、本人にも不分明だが、そういうところが群臣を安堵させるのはたしかである。肉体的な面ではアーガイルも兄にまったく劣らないが、精神的な疲労は、彼の場合すぐに顔に出る。最近の多忙さの中、むしろ溌剌としているのは、本人に言わせれば「好きなことをやっているだけだからな」ということになるのだ。
「ともかく、何がおこるかわからん。マールテンやソルスキアとよく相談して、万全の体制をしいてくれ。海路からくる者もあるだろうから、港の警備はやはり海軍にまかせることになるだろう。マールテンには、おまえに充分な護衛をつけるように、私から言っておく。おまえにとってはわずらわしいだろうが」
「正直にいうとそうですけど、わかってるつもりですよ」
「たのむぞ」
といって、フィンセントは弟を下がらせた。
が、アーガイルは扉の前で、立ち止まると同時に肩越しに振り向いた。
「そういえば、グスタフ陛下にも、二〇歳かそこらの王女がありませんでしたか?」
「アーガイル!」
「それでは失礼します、国公殿下」
アーガイルは、今度こそ、逃げるように兄の前から退出した。
つづく |