written on 1997/3/5
すっかり日が暮れた街並みには、この時期にしてはめずらしく涼しい空気
が流れていた。
日焼けしたシンジの腕を小脇に抱えるようにして、アスカは歩いていた。
右腕をアスカにとられたシンジは、左腕を所在なげにぶらつかせ、アスカ
の歩調に合わせて歩く。
アスカは、白い二の腕まで露にしたしなやかな腕を、シンジの日焼けした
腕に絡め、上半身を寄りかかるようにしてしがみついていた。
今はもうアスカの頭はシンジの目の高さほどもない。
シンジの腕をとって、シンジの体温を感じていることで、アスカは安心しきっているようだった。
シンジの右腕にかかる心地よい重さ。
アスカの歩調に合わせてゆったりとしたリズムで、シンジは歩を進めてい
た。足を踏み出す度に、アスカの身体が揺れ、お互いの腕の皮膚がこすれあ
う。少しべたつく汗も、不快ではなかった。
「今日は飲み過ぎじゃない?」
シンジが、まだ熱をおびているアスファルトに目を落としながら言った。
「お酒っていいわねー。嫌なこと忘れられるし、楽しいことばかり強く感じ
るわ」
さっきからニコニコと笑ってばかりいるアスカが、いっそうシンジの方に
体重を預けた。薄着の服を通して、アスカの身体の熱がシンジにも伝わる。
すれちがう人々の視線を気にしながら、シンジは緊張を隠すように軽い口
調で言い放った。
「あ、あの、ちょっと……さ。
あんまりべたべたしすぎ……じゃ、ないかなー。なんて、あはは……」
「えー、いいじゃない、たまには。
酔ってるときしかできないんだからさっ」
そう言うと、何がおかしいのか、アスカはくぐもった笑い声をあげた。
明らかに酔いの症状が見られるアスカの様子に驚きながらも、悪い気はし
ないのでそのまま相手をしながらシンジは歩きだす。
学校のこと。
バイトのこと。
今日の天気のこと。
トウジとヒカリのこと。
混雑している海水浴場のこと。
ケンスケの写真が大会で入賞したこと。
マヤさんからそろそろ子供を作ろうかと相談があったこと。
とりとめもない話をしているうちに、お互いの家に続く分かれ道にたどり
着く。
鳴り止まぬ蝉の声。
日の暮れた歩道を照らす街灯。
一瞬だけ二人の動きは静止した。
「さてと」
思い切りを付けるように強い口調で言うと、アスカはシンジの腕から素早
く自分の腕をほどいた。
そして小さい伸びを一つ。
酔いはほとんど醒めているようだ。
「このへんでいいわ」
先程までの態度とはうって変わって、しっかりとした口調でアスカが言う。
「送ってくよ」
「いいわよ。別に」
「レ、レディーはエスコートしなきゃいけないんだろ」
アスカはシンジの顔をまじまじとのぞき込んだ。
街灯に照らされたシンジの顔が、お酒以外の理由で赤くなっていたのは言
うまでもない。
「へぇぇぇぇ。言うようになったじゃない。これもあたしの教育のたまもの
かしらねー」
アスカが茶化すように言う。
「な、なんだよ、それっ」
「照れない、照れない」
そう言っておでこを人差し指でツンツンしてくるアスカの仕草に、シンジ
は目眩を起こしそうな程の可愛さを感じた。
そしてお互いの気持ちが通じ合っているような感覚も。
理解しようと努力しなくても、お互いの態度で、言葉で、瞳で、自然と一
番気持ちのいい距離感を保てる。
昔の二人からは考えられない関係であった。
そして二人は、アスカのマンションの方へ向かって歩き始めた。
* * *
計画的に整備された緑地から虫の鳴き声が聞こえてくるなか、シンジがぽ
つりと言う。
「あのさ……」
「んー?」
「……今年も、もうすぐだね」
シンジの言葉を聞いて、アスカの表情がわずかに固くなった。
「……そうね」
沈黙が続く。
「アスカさえよければ……だけど……。今年は一緒に行かない?」
うつむいていたアスカの頭がピクリと上がり、ぎこちなくシンジの方を向
いた。
「……いいの?」
「うん。一緒に行きたいんだ」
アスカの目を見つめて、シンジは淀みなく言った。
「わかったわ」
アスカの表情には何の感情も浮かんでいなかった。
いや、あまりに複雑な想いが頭を巡り、表情にすることができなかったの
かもしれない。
ただ、信じられるのは、迷いのないシンジの瞳。
信じたいのは、今のあたしたちの絆。
「ありがと……」
アスカは呟いた。
「そんなこと言わないでよ。感謝するのは僕の方なんだから」
シンジの言葉にアスカは小さく頭を振る。
(ありがとう……シンジ……)
あの日からもうすぐ2年が経とうとしていた。