<<平凡社 世界大百科事典より

 

ラファエル前派

ロセッティ Dante Gabriel Rossetti 

バーン・ジョーンズ Edward Coley BurneJones

ミレー John Everett Millais 

 ラスキン John Ruskin

 


 

 

ラファエル前派  Pre Raphaelite Brotherhood

 

 1848 年,ロンドンにおいて芸術革新を唱える青年たちによって結成されたグループ。

ローヤル・アカデミー・スクールで知り合ったW.H.ハント, D.G.ロセッティ,J.E.ミレーの 3 人の画家に,彼らの学友であるコリンスン James Collinson,彫刻家ウールナー Thomas Woolner,画家スティーブンス Frederic George Stephens,ロセッティの弟の文学青年,ウィリアム・マイケル・ロセッティを加えた 7 名で結成された。

 この背景には,産業革命がもたらした社会変化を憂慮し,信仰に生きた中世の人々とそこで創り出された芸術との純粋で幸せな関係を語り,自然の中に存在する真実に従うべきと説いたラスキンや,ロマン派の詩人キーツの影響がある。

また F.M.ブラウンによって紹介されたナザレ派に対する共感もあった。しかし,何より彼らの心をとらえたのは, 〈初期ルネサンス美術〉であった。たとえば,当時銅版画集として出版されたピサのカンポサントのフレスコ画にみられる素朴で清新な芸術である。

 

 グループの名前は彼らが指標とした芸術が, 〈ラファエロ以前〉にあることに由来する。

当時のイギリスの美術界はローヤル・アカデミーが信条とした〈グランド・マナー〉,すなわち,古代,ルネサンス,バロックの各時代の様式を範とする絵画が主流をなしており,彼らは伝統に対する反発という点で結束した。

グループ名の頭文字 P.R.B.を,その字義をあかさないまま作品に書きこんだ秘密結社のような活動や,伝統を無視した画法などから,ディケンズをはじめ世間の非難を浴びるが,ラスキンに擁護され,機関誌《ジャーム The Germ (1850) が新しい仲間を呼んで,しだいに彼らの芸術はこの時代の画風を示すものとして定着してくる。しかし,彼らが結束した期間は短く,結成 5 年後,ミレーのローヤル・アカデミー準会員の受諾は,このグループの完全な崩壊を意味した。

 

 彼らが扱った主題は聖書の題材など,宗教的なものと,中世の伝説や文学にちなんだロマン主義的なものが多く,そのために象徴的図像を多用した。

技法的には初期のミレーやハントにみられるように,忠実な自然の描写をもとにしたリアリズムであった。

下地に白を用いて旧来の絵にはみられない明るい外光を画面に再現したのも,ここから生まれたものである。

 

  P.R.B.の活動は,その後,ロセッティの資質にひかれて集まった若い世代に引き継がれる。オックスフォードの学生W.モリスやE.C.バーン・ジョーンズらは《ジャーム》にまねて《オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン》 (1856) を発行し, 57 年にはロセッティの指揮下,ヒューズ Arthur Hughs,スタナップ Spencer Stanhope らとともに,オックスフォードのユニオン討議場の天井と壁画の制作に携わる。ここで誕生した新しいサークルは,オリジナルメンバーによる P.R.B.と区別してしばしば第 2 次,あるいは後期ラファエル前派と呼ばれる。

彼らは P.R.B.の備えていたロマン主義的な性格を増幅させ,中世風の理想主義的傾向を強調するようになる。

 モリスが〈レッド・ハウス〉に注いだ情熱はその最初の成果であり,それは後に続く,〈モリス商会〉の設立, アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメント,さらにはアール・ヌーボーに至る近代デザインの源泉となる。

また,バーン・ジョーンズをはじめとするロセッティの追随者は,さらに耽美的傾向を深めて,やがてはアカデミーの画家とその特質を共有するようになり,後期ビクトリア朝美術の主流を形成することになった。

 日本ではラスキン,ロセッティ,モリスの思想や文学の紹介に伴って, ラファエル前派が明治 30 年代の文学・芸術雑誌に盛んに取り上げられており,それに呼応するように,同じ 30 年代に青木繁や藤島武二の作品にその影響がみられるが,フランス印象派美術の導入とともに, P.R.B.への関心は下火になった。

                                                                                                                典子

 

<<ラファエル前派
 Pre-Raphaelite Brotherhood

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ロセッティ Dante Gabriel Rossetti 182882

 イギリスの画家,詩人。ナポリから政治亡命した詩人を父に,ロンドンで生まれる。 1845 年,ローヤル・アカデミー・スクールに入学。

ここで知りあった J.E.ミレーや W.H.ハントらとともに, 48 年,芸術革新を唱える〈ラファエル前派〉を結成。

その機関誌《ジャーム The Germ 》に,詩や散文を発表し,詩人としての活動もはじめた。グループは数年後に離散するが,ラファエル前派の影響を受けて育った,後の世代の中心的人物になる。

絵画の技量はとくに優れたものではないが,聖書主題あるいはダンテやシェークスピアからとった中世風のロマン的主題を,妻エリザベスや晩年には W.モリス夫人ジェーンをモデルに耽美的に描いた。妻 (1862 ) の遺体とともに埋葬した詩稿を 69 年発掘し,翌年《詩集》を刊行。 《詩集》の〈天国の乙女〉は地上の恋人と死んだ女の霊的交流をえがき, 《バラッドとソネット》 (1881) には〈白い船〉〈王の悲劇〉のほかに,名高い連作ソネット集〈生命の家The House of Life〉の大部分を収めた。そこには,絵画における理想の女性像である妻およびジェーンとの愛の損藤に悩み精神的救済をもとめる詩人の姿が浮彫になっている。

 〈おれの生涯の空白の日々――いまいずこにある〉と嘆くくだりは印象的である。晩年,精神的・肉体的障害に苦しみ麻酔剤クロラールの中毒にかかり,多彩な生涯をとじた。

 日本では蒲原有明《独絃哀歌》 (1903) や上田敏《海潮音》(1905) にロセッティのソネット数編が訳され,有明の恋のよろこびと恐れを観念的・象徴的にうたう詩風には〈生命の家〉の影響がみられる。

                                                                                                  典子+ 松浦


 

バーン・ジョーンズ Edward Coley BurneJones 183398

イギリスの画家,装飾家。バーミンガムに生まれ,聖職者になるためオックスフォードのエクセター・カレッジに入り,ここで生涯の友W.モリスに会う。   ラスキンやラファエル前派に強い影響を受け, 1856 年画家への転向を決意。

ロセッティに私淑し,初期には彼の画風をそのまま受け継ぐが,しだいにマンテーニャ,ボッティチェリ等を手本とし,また中世的なロマン主義に根ざした神話や伝説をテーマとして,夢幻的な独自の世界を築く。

77 年以降,内外ともに名声を確立し,後期ラファエル前派の中心的画家となる。モリス商会のためにステンドグラス,タピスリー等の下絵を描き,またケルムスコット・プレスの挿絵も手がけている。

典子


 

ミレー John Everett Millais 182996

イギリスの画家。サウサンプトンに生まれ,ローヤル・アカデミー・スクールで史上最年少の生徒として, 11 歳の時から学ぶ。

1848 年ロセッティらとともに〈ラファエル前派〉を結成。 53 年ローヤル・アカデミーの準会員に選出され,事実上このグループを離脱。

しだいにラファエル前派の理念から離れ,通俗的なスタイルへと移行する。

表現は甘美で時に感傷的にすぎるが,上流社会の肖像画家として人気を得,

この時代の最も成功した画家の一人となった。死の年に,ローヤル・アカデミーの会長に就任している。

日本では初期の代表作《オフィーリア》が早くから知られ,夏目漱石の《草枕》も一部の着想を得ている。

典子


 

ラスキン John Ruskin 18191900

イギリスの批評家,社会思想家。ロンドンの裕福なワイン商人の子として生まれ,幼いころから国内やヨーロッパ旅行で父に同行し,風景美に目を開かれた。のちに文学に親しみ絵画を習い,オックスフォード大学卒業のころからは建築に興味をもった。

 1843 年,もともと画家 J.M.W.ターナーを擁護するために書き始められた《近代画家論》の第 1 巻を世に問うて一躍有名となった。

その第 2 巻を書くためにイタリアなどヨーロッパ大陸を何度も訪れ,絵画,彫刻,建築を研究した結果生まれたのが《建築の七灯》 (1849) 《ベネチアの石》 (185153) などであり,美術批評家としての名声は確立された。彼は〈ラファエル前派〉と呼ばれる画家たちを擁護して評論を書き,各地で講演した。

 《近代画家論》は 60 年第 5 巻で完結したが,それ以前は純粋な芸術美を論じてきた彼は,このころから機械文明とそれがつくり出す社会悪に反対する活動に献身するようになった。

 《この最後の者たちに》(1862) は,彼の思想の転機を画した論文で,自己利益でなく自己犠牲を基本とした経済学を説き,新しい社会主義ユートピアを描いたものであるが,当時は一般の河笑を買うだけであった。しかし彼はその後も社会主義の実践活動を続け,労働者のための大学創設にも尽力した。彼の思想や作品の文体は,のちの W.モリスや M.プルーストなどに強い感化を与えることとなった。

 日本では,《近代画家論》の部分訳を試みた島崎藤村にラスキンの影響がみられ,また大正時代には《ラスキン叢書》が翻訳刊行された。

小池