Michael LorenzJenamy concerto ジュナミー協奏曲》について

  〜 要約・評価・感想       2005/9/1

 


 

1.対象論文:Michael Lorenz: Jenamy concerto 

   web  http://members.aon.at/michaelorenz/jenamy/ より

 

2. 初出:2004年3月のシュトゥットガルト放送交響楽団演奏会解説。(原文ドイツ語)

 

3. 著者略歴:博士号を持つウィーン大学の研究者という以外、詳細不明。

    1998年のMozart-jahrbuch に論文" Mozarts Haftungserklaerung fuer Freystaedtler.

    Eine Chronologie"を寄稿している。(1-20頁)

 

4. 論文の位置づけ:本格論文の前段階。今後の論文に期待したい。

    まだ本格論文化されていない最新情報の梗概を紹介すると共に、現時点で公開された範囲の

    情報を検討する。《ジュノーム》の同定もさることながら、舞踊家ジャン・ジョルジュ・

    ノヴェール[i]との関係に触れたことに注目した。

 

. 要約

  1)モーツァルトが《ジュノーム協奏曲K271》[ii]を献呈した女流奏者=

     「ジュノーム嬢」について、舞踊家ノヴェールの娘、ヴィクトワール[iii]と同定した。

  2)ヴィクトワールは1749年1月シュトラスブルクに生まれ、1768年ウィーンで、

    裕福な商人Joseph Jenamyヨゼフ・ジュナミと結婚しヴィクトワール・ジュナミとなった

  3)1773年、ケルントナー劇場でピアノ演奏会を開き好評を博した。

  4)1776年の末か1777年初めに、パリ行きの途中ザルツブルクに立ち寄り、

    この時、モーツァルトはこの曲を作曲した。

  5)1778年4月パリでモーツァルトと再会した。

 

6. 論文の評価と感想            
  学術論文でないための資料不足から、随所に不満が残る。

 著者Lorenzは、この小論に先立ち「ジュノーム嬢」について、

「ウィーンのアルヒーフ調査で発掘した資料により」舞踊家ノヴェールの娘、

ヴィクトワールと同定した、との説を、昨年(2004年)のニューヨーク・タイムス

3月15日号に公表した。

しかも、これまで知られていた「ジュノーム Jeunehomme」でなく、

「ジュナミー Jenamy」であると。

私は、直ちに著者宛に詳細情報を問い合わせ、音楽雑誌EARLY MUSICの今年(2005年)

初めの号に論文を発表予定ということを聞き出した。

しかし、当該誌を閲覧しても掲載されていないので再照会したところ

「締切に間に合わすことができなかった…」ため、当面、(学術論文ではないが)

アメリカ・モーツァルト協会機関誌のために自身が英訳した演奏会解説 

"my program notes of 18 March 2004 in its newsletter"を参照するようにと、

URLを教えられた。それが本小論文である。

資料典拠が明らかにされていないが、新聞記事よりは詳細で、その内いくつかは検証可能である。

1768年9月頃、モーツァルト父子はオペラ上演のためウィーン滞在中であったし、

1778年4月パリで、モーツァルトがノヴェールと接触していたことは引用された書簡以外にも、

《レ・プティ・リアン》作曲などからでも明らかである。

小倉重夫氏訳の『舞踊とバレエについての手紙 』解説によれば、ノヴェールには男女の子供がいた、

とされている。裏付け資料について現在パリ滞在中の気鋭のノヴェール研究家 森立子氏に照会したが、

これまでノヴェールの伝記研究は未開拓で、子弟の情報も氏名以外の詳細は知られていない、

とのことである。 Lorenzの発見した新資料公開が待ち望まれる。

この小論がノヴェールとモーツァルト両者の関係に新たな光を当てた点に注目したい。

今後両者の関係の本格研究により、例えば、これまで不明だったモーツァルトが斡旋された

ベルサイユ宮殿オルガニストの職を断った理由の解明の可能性なども期待されるのではないか。


<注>

[i]  ジャン・ジョルジュ・ノヴェール(1727〜1810)は、当時最も著名な舞踊家の一人である。

  スイス人でフランス軍人だった父のもと、パリに生まれた。

  少年時代から舞踊を志し、パリ・オペラ座の舞踊手のもとで学んだ。

  その後、ベルリン、ロンドン、リヨンを経て、シュトゥットガルトにおいて盛名を博し、

  1767年ウィーンに招かれた。ウィーンでは、劇場で活躍するほか、宮廷のメートル・ド・バレ、

  帝室舞踊教師としてマリー・アントワネットを教えた。

  1775年、マリー・アントワネットの強い要望でパリにもどり、王立アカデミ−のメートル・ド・バレ、

  舞踊界の中心となった。

 著書『舞踊とバレエについての手紙』は、1760年リヨンとシュトゥットガルトで出版され、

 後にウィーン、パリ、アムステルダム、コペンハーゲンで刊行されるなど大きな影響を与え、

 『舞踊の旧約聖書』と称えられた。

   モーツァルトとの関係は、1778年のパリ訪問時にモーツァルトの面倒をみたことや、ノヴェールの

  黙劇バレエ《レ・プティ・リアン》の曲をモーツァルトが作曲したことが知られている。

  但し、この際の劇場ビラに作曲者モーツァルトの名前は出ていなかったという。

  また、これに先立って、ノヴェールとモーツァルトの間で、あるオペラ作曲の構想が話し合われ

  いたことが書簡で述べられているが、いかなる理由からかそれは実現しなかったなど、

  両者が微妙な関係にあったことが窺われる。 

  (この項は、『舞踊とバレエについての手紙』小倉重夫訳 冨山房 の解説から要約した)

[ii]  モーツァルトが1777年に作曲したピアノ協奏曲第9番 K271のこと。

  「[1777年]1月、フランスの若い女流クラヴィーア奏者ジュノーム嬢が、ザルツブルクに立ち寄った折、

   変ホ長調の協奏曲を書いて与えた…」(『モーツァルト』海老澤敏 白水社)とされるが、

  そのジュノームの正体はまったく不明である。

  「ジュノーム」という名の由来について、国立音楽大学の吉成 順氏は、テオドール・ヴィゼワと

   ジョルジュ・サン=フォワの1912年に発行された研究書、 『モーツァルト:その音楽家人生と作品』において

   「創作された」との説を、主張しているが(『ユリイカ 1991・8』) ローレンツはこの論文でその主張を

   全面的に採用している。

[iii]  ノヴェール研究家の森立子氏からの情報によると、これまで知られているノヴェールの子女は、

   アントワーヌ(17501829)、 クローディヌ(1752〜?)の一男一女で、本論文のヴィクトワール

   (174912日〜181295日)の存在は全く知られていない、という。

   (森氏本人も、Lorenzの発見した新資料公開が待ち遠しい、とのことであった。

 

*この小論は、筆者(フクチ)が、2005/6/24 成城大学大学院の総合ゼミで行った研究報告をもとに作成した。

 


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