Michael Lorenz: Jenamy concerto》試訳 2005/9/1 

   (著作権問題をクリヤーしておりませんから、あくまで学術的参考扱いということで、転載はご遠慮ください)


試訳: 

1) もし手短にモーツアルトのピアノ協奏曲変ホ長調K.271〔の重要性〕について説明しようとするなら、誇張なしにそれを音楽的な驚きに満ちた独創性の記念碑と呼ぶことができる。  そのオーケストレーションの見事さと、その並外れた清新さは、それまでの誰にもみられなかったものだ。 それはモーツアルト自身にとっても最初の真に重要な作品であり、アルフレート・アインシュタインの言うように、「彼のエロイカ」であり「モーツアルト自身、その後決して超えることがなかったほどの記念碑的作品の1つ」である。 ある種のひらめきに満ちた、比類ないほど噴出する創造力でそれまでの慣行を克服することで、モーツァルトは彼の〔後年の〕ウィーン時代のピアノ協奏曲を特色付ける職人芸の域まで達した。 外面的な目新しさで驚くべきは、無限なほどに豊かに結びついた旋律である。  〔つまり〕、第2小節でピアノ・ソロが主題に加わるという驚くようなやり方(モーツァルト自身二度と使わなかった効果)で、 ピアノとオーケストラの間での、劇的な緊張とバランスの取れた対話というやり方(means)によって展開したいくつかの主題が、オペラ的な効果や歌うような(カンタービレ)傾向を伴った結びつきは全楽章にわたってみられる。たとえば、低声部での長めのトリル、メッサ・ディ・ヴォーチェのようなピアノの「本当の」入り、旋律の転回する第2主題は、後年に ケルビーノ〔フィガロの結婚〕の≪自分で自分がわからない≫や、 その他の洗練されたやり方、 ソロパートでの多くの擬似的レシタティーボなどで再びみられるものである。

2)  弱音器を付けた弦楽器によるアンダンティーノの第2楽章は、モーツァルトが書いた最初の短調の協奏曲楽章である。 それは、グルックに触発されたようにみえるオペラ的な部分で最高潮に達する。そこで モーツァルトはピアノを、最も美しい声楽的な装飾音で歌うような悲劇のヒロインへと変える。モノスタトス〔魔笛に登場する黒人〕のアリア≪恋すりゃだれでも嬉しいよ≫に、そっくりなロンド〔第3楽章〕の旋律は、このコンチェルトを捧げられたピアニストのヴィルトォージティ〔名人技〕を思い起こさせてくれる。この段階においても、モーツァルトの驚くべきアイディアは種切れにはなっていない。カデンツァの後、変イ長調のサブドミナントのゆっくりしたメヌエットが、快活なフィナーレに崇高な味わいを与えているのだ。 最終楽章に楽曲の重要性を与えるというこの非常に効果的な方法を[後に]、ピアノ協奏曲K415、482で再度試みている。

3) K271には、他にも〔語るべき〕重大なことがある。 20世紀の間、聴衆になじんだその≪ジュノーム協奏曲≫という名前は、ありもしないおとぎ話から、 意図的にでっち上げられたものだったのである。それは、あるモーツァルト研究者がまったくの無知からつけたニックネームなのだ。以来、92年間にわたって、 この有名な協奏曲は誤った名で呼ばれてきたのである。

 4)  どうしてこんなことになったのだろう? モーツァルトは、草稿に「1777年1月」と、日付を書き込んだ。 そして1778年9月11日付の父への手紙の中で直近に書かれた他のピアノ協奏曲と、日付を逆転したりしながら列挙した。 「[版刻師に] 現金と引き替えで協奏曲を三曲、すなわち『ジュノミ Jenomy 用K271、リッツァウ Litsau用、K246、および変ロ長調のもの、K238』を渡すつもりだ。」  ドイツ語でジュノームは明らかに女性を指す。 彼女が1776−7年の冬の間にザルツブルクを通過したことは明らかである。 モーツァルトは1778年にパリで再会を果たした。 彼は、1773年ウィーンで知り合った舞踊家で振付家のジャン・ジョルジュ・ノヴェールと共同で、バレエの公演を行うことを計画した。

 「ノヴェールは(ぼくは彼の家で好きな時によく食事をさせてもらっていますが)全体に目を通し、意見を聞かせてくれます。それは『アレクサンドロとロクサーヌ』という題になると思います。ジュノーム嬢も当地にいます。     <白水社版書簡全集訳による> 」

 この手紙に対し、問題の女性と知り合いであったに違いないレオポルト・モーツァルトは、こう応じている。  「グリム男爵、ノヴェール夫妻、それにジュノマイ夫人に、私からよろしくと伝えてください。」  これが、つい最近に至るまで、モーツァルトが彼の最初のピアノ協奏曲の傑作を献呈したという謎の女性についてわかっていたことのすべてなのである。

5)   19世紀においてこの情報の溝(食い違い)は、研究者にとって何ら問題とはならなかった。 モーツァルトのつづり何の偏見(先入観)もなく受け入れられたのである。
 [受け入れた]オットー・ヤーンは、1856年に[出版した]彼のモーツァルト伝の中で、この作品を「ジュノミーのための協奏曲」と呼んだ。 しかし、テオドール・ヴィゼワとジョルジュ・サン=フォワの1912年に発行された大冊の研究書、 『モーツァルト:その音楽家人生と作品』において、フィクション[推測]と事実とがごちゃまぜにされた。

「ジュノーム」という名前はもともとフランス語だったのを単にイタリア語化したのだと2人は考えたが、それには根拠はなかった。 そして2人は、「ジュノーム」とは、「この当時最も洗練されたヴィルトゥーゾの1人」ということにし、彼らがモーツァルトのことを「若い男(jeune homme)」と好んで呼んでいたこともあって[もじって]、この「人物」を「マドモアゼル・ジュノーム」として世に出したのであった。 

6)   このことは、伝説を形成するのに十分であった。 その名前〔ジュノーム〕をアピールした最初の無批判的なモーツァルト研究者は、アルトゥル・シューリッヒで、彼は1913年に「ジュノーム嬢」と書き、彼女は当時大人気のピアニストとした。 92年の間、この情報は物を書く人から人へと受け売りされた。『新モーツァルト全集』には、こう書かれている。「モーツァルトは、ジュノームのピアノのヴィルトォーゾ性に触発されて、彼の作曲技法の粋を尽くした。」さらに、最近のモーツァルト研究の中には、モーツァルトがフランス語の発音が下手だったと指摘するものがある。「モーツァルトは、たしかにその協奏曲のことを、例の『ジュノム婦人への曲』 (ドイツ語ではdas fur die jenomy [ママ])といっている。彼は、フランス語を自分の発音通りにつづっていたが、その発音が非常にお粗末だった[ことがこれからもわかる] (Robert W. Gutman, Mozart A Cultural Biography, 1999).

 7)  真実をみつけ 「未解決の疑問」を解決するためには、モーツァルトの欠点のない耳に 頼るしかない。 我々は、ジュノームに関するすべてのばかげた伝説を除外して、古い文献に戻らねばならない。

8)  モーツァルト言うところの"Madame Jenomy"は、ジャン・ジョルジュ・ノヴェールの長女であった。彼女は、1749年1月2日、シュトラスブルクに生まれ父がその宮廷に1747年から舞踊主任として雇われていたのであったそして彼女は生まれたその日に"Louise Victoire"の名で洗礼を受けた。 (名付け親は、Louis Henri Ballard と Victoire de Fresney Brunであった)
彼女は、父がウィーンの宮廷に雇われた1767年の夏、ウィーンにやって来た。その翌年 1768年の9月11日、彼女は裕福な商人 Joseph Jenamy ヨゼフ・ジュナミ (1747 – 1819)と結婚した。彼は、18世紀の初めにサヴォイ王国からウィーンにやってきた名家の一員であった。
 シュテファン教会で行われた結婚式では、フランシスカーナプラッツ1番地にあったノヴェールの大家のvon Stegnern フォン・シュテグネン男爵と、レーオポルト・モーツァルトの友人の台本作家Franz Heufeld フランツ・ホイフェルトが立会人を務めた。

9) モーツァルトがウィーンに滞在していた1768年に、ノヴェールや彼女の娘と会ったという証拠はない。しかし、5年後彼がその有名な舞踊家と友人になった時、ヴィクトワール・ジュナミと知り合ったことは疑いない。彼女はモーツァルトがウィーンに来る少し前に、ピアニストとしての腕前を披瀝していた。彼女の父が彼女のために1773年2月15日のケルントナー劇場で開いた舞踏会の際に、彼女は公的な公演を行った。[当時の]Realzeitung:実話新聞は、 「彼(ノヴェール)の娘は、ピアノ協奏曲を芸術的才能[技巧]に富み易々と演奏した。」と、伝えている。 しかしながら、ジュナミがプロフェショナルのピアニストであったという事を示す証拠は遺されていない。


10)  1776年のか1777年初めに、彼女がウィーンから父親のいるパリへ行く途中、ザルツブルクに到着した時、モーツァルトは ノヴェールの仲間の音楽愛好家たちに自作の曲を献呈することで自己を宣伝する機会を得た。  近年の研究は、K271第3楽章のゆっくりしたメヌエットは、舞踊家ノヴェールに関連あるかもしれないとも言われている。  1778年4月 モーツァルトは、パリのジュナミの父の家で彼女に再会した。 ("Mad:me jenomè is here as well" 「ジュナミ夫人も当地にいます」)  しかし、彼女がウィーンに戻ってくることがあったのか、証明する手立ては今のところない。1813年のウィーンでのある情報は、彼女は1812年9月5日 こどものないまま死亡したと伝えている。けれども、どこで死んだのかは明らかではない。 

(試訳にあたり、WEB掲示板の常連ASTRAさまに多大な教示を頂きました)


*参考: この原文(英語)が、ローレンツ博士の下記Webに掲載されておりますから、ご参照下さい。

  http://members.aon.at/michaelorenz/jenamy/ 


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