『ゴドーを待ちながら』作品紹介

 一九五三年にパリの小劇場で初演されたこの作品は、不条理劇の代名詞だとか、アンチ・テアトル(反‐演劇)の代表とか云われて、現代演劇において非常に重要な位置を占めている。
 しかし初演の時には散々な悪評であったという。それはそうだろう。この演劇にはストーリーらしいものは全くなく、二人の浮浪者がゴドーという人物をただ待っている、なにやら噛み合わない会話をしつつひたすら待っているだけ、という人を喰ったような内容なのだ。
 そもそも「待つ」という行為が演劇になり得るのか?
 ふつう演劇と云えば惚れたり憎んだり裏切ったり復讐したりといった能動的行為で成り立つものだろうし、少なくとも舞台の上で何かが起きることを観客は期待して待っているものだろう。ところが、待てど暮らせど、何も起こらない。舞台上では二人の男が待ち続けているのだが、客席でも観客は待たされ続けている。
 そんな演劇のどこが面白いのだろうか?
 ところが人はこの作品に惹きつけられ初演の五年後には二十ヶ国語以上に翻訳され、現在に至るまで上演が繰り返され、論評には尽きるところがない。要するに問題作で在り続けているのだ。

 本作の問題性が色濃く象徴される最近の上演としては、一九九三年に戦火の真っただ中であったサラエボ(旧ユーゴスラビア)でスーザン・ソンタグ演出にて挙行された公演がある。一般市民が普通に道を歩いていて狙撃手に射殺されるような状況の中、現地役者を招集して稽古を重ね、劇場は超満員となった。現実世界の不条理が、ようやく演劇に追いついて、これこそがリアリティだと共有された由。また更に近くは、この七月に福島第一原発から二十キロの地点で本作を上演してビデオに収めたグループがあった。被曝という点で無謀極まりない行為だがそうせざるを得なかった気持ちはわからなくはない。

 『ゴドーを待ちながら』が反‐演劇と呼ばれるのは、筋書き・出来事・会話の意味といった従来の演劇が依拠していた枠組を一挙に破壊してしまったからである。この破壊によって、自己の存在意義を失いつつある現代人の姿とその孤独感を斬新なスタイルで描くことに成功したのだ、と論評される。
 破壊、アンチ、とくると、劇団態変も黙っているわけにはいかない。なにしろ旗揚げ公演で「障害なのか演技なのかいちじるしく混乱させられ」挙句には観客への挑発が過ぎて「観客が怒って一人残らず帰ってしまう反‐演劇、という夢想がわく」という劇評をいただいて、前衛芸術追求の航海が始まったのだったから。
 台詞を用いず、抽象的身体表現のみでという態変のスタイルでこの問題作をどう料理するか、このチャレンジにご注目いただきたい。

文責:仙城真


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