劇団態変 金満里ソロ公演
ウリ・オモニ

大野一雄舞踏研究所での稽古より
金満里
(情報誌IMAJU vol. 13他より)

 

■稽古始め

 大野一雄さん、慶人さんには、4月19日に最初の稽古を付けていただいた。
 まず、お住まいに案内されて昼食をよばれた。稽古場(研究所)はお住まいのすぐ裏。お弟子さん達が何やら騒いでいるのは、留守中に身重の猫が稽古場に入り込んで荒らした挙げ句奥に篭城しているという、なんだか、のどかな話しだ。

 いよいよ、昼過ぎから稽古の開始。
 ラフを作っておいてくださいと言われて、思いつくままに書き上げて行ったメモを読んでもらう。

[1]産れるという事/胎児の誕生
 べったりとずぶ濡れに悲しみや苦しみにまみれるように今、羊水から這いだして新しい世に産れ出る。
 新しい世をまぶしく又時には恐れながらも、拒否しながら受け入れて行く。そのエネルギーでずぶ濡れはいつしか乾いている。無邪気に遊びながら、産み落としたものと格闘しそのものを壊して行く。

[2]流浪の河
 玄海灘を越え日本の端に付く。流転流転の旅芸人。
 大河を背負い流れて行く。
 祖国と異国の地、大河の様な海を挟んで引き裂かれる心。産れ出たこの世とまだ産まれこぬ世に引き裂かれる心。

 ・・・・・

 このようなものなのだが、一読するなり慶人さんの血相が変わる。「これは、じっくりと創って行きましょう。よく考えさせてください。」
 いくつか対話をした後、とりあえず、ということで、冒頭の胎児の誕生を創り始める。
 まず、形を創るのが慶人さんの仕事だ。舞台奥、客席に対して正面から出ましょう。一寸先見えない闇に向かってミリ単位で進んでください。身体をはさんで、生と死の方向があるんです。頭が生へ、足が死に向かっている。しかし逆かもしれない。未だ産まれない胎児の命はどこへ向かうのか? 生と死の意識がこの場面の本質なんです。
 そして、私の動きを見ながら、色々と指示が飛ぶ。静止してフォルムを出してみる、激しく手で闇を掻いてみる、躓くごとく身体をよじってみる…
 無我夢中の格闘で時間の流れが全く分からない。
 そこへ、大野一雄さんが口を開く。部分ではない。いのち全体が動くのでなければならない。

 こういう調子で、休憩を挟みつつも延々六時間、すっかり暗くなるまで稽古が続いたのである。

 

◆猫篭城事件の顛末

 稽古が佳境に入って来た時に、ふいに、大野一雄さんから「宇宙の子宮」というビジョンが提起された。花になって種が宇宙に蒔かれ、宇宙そのものが子宮であり、花であり…、そういうことを語りながら、大野さん自身がふっと花になってしまって座ったまま踊り始めたのである。
 私も、〈子宮、子宮…〉と念じながら、夢中で動きを創っていく。だんだんと、稽古場が子宮の中であるかのような感覚になってくる。〈子宮、子宮…〉という念が蔓延していったのかもしれない。この稽古が一区切りついて放心状態の時に、慶人さんが急に「あの猫、気になりますね」といい出した。稽古場の奥に篭城しているという身重の猫のことだ。「大きなお腹を抱えて動きが取れなくなっているんだろう。助け出してやらないと…。」
 一同といっても、大野さんと私はただぼうぜん、慶人さんを筆頭にお弟子さん二人と私の介護者の四人で大騒ぎの猫救出大作戦が始った。うず高く積まれた資料や舞台道具をそっと動かし、通路を作り、ちょっちょっちょ怖くないよ怖くないよ、と呼びかけると、真っ白な猫が二匹、勢い良く飛び出してきた。一匹はそのまま慶人さんの頭を飛び越えて外へ出て行ったが、お腹の大きな方が、稽古場の中の反対側の荷物の山に入り込んでしまい、もう一度、そろそろと荷物の移動と呼び掛けをやってやると、やっと猫は裏口から出て行った。緊張と集中と自分自身の奥底の凝視とでがんがんだった半日の中で、思い出す度に笑えてしまうエピソードである。

 

■最終稽古

6/17・18とまたまた保土ヶ谷の大野舞踏研究所へ稽古に行ってきました。

やはり、大野さんのところでは、作品のその時の一番必要なものを引き出すための魂の有り様が問題となってきます。
だから音響をやってくれる慶人先生曰く、その日のお客さんの感じ方と演じ手の感じ方が上手く舞台の空間として入っていくような音響と照明、ということで毎日が同じというものはない東京公演となりそうで、私としてはそこが楽しみでやりがいがあるというものです。

もう既に、何ヶ所か手直しが入りました。

暗夜の胎児は、金さんの演技だけで極力観せたいと、溶鉱炉の音は殆んど始めだけで、終わりの方に水の音が出てきて、

慶人先生曰く、生まれる側と生む側の両方のものは金さんが体得しているものなので、なるたけ音も本質的なものだけにしましょう。

母と子の絆のカヤグム・サンジョウ-
生の演奏のパク・スナさん合流。
これがぐっとこの作品を今回地に足の着いたものにすることが出来てきた要因で有難いです。

ポルカの2度目のガラガラをほったところで、楽座にスタンバイ。

和紙の被っての出は、和紙の中での人か何か解らない怪しい動きをもっと出す。

・・・・・

などなどと、実に更に演じ手としての課題が膨らんで来て、ある意味では非常に作品としての綿密な乗りが掴めてきてやりがいのある今回の「ウリオモニ」と成りつつあります。本当に稽古に行った甲斐がありました。

大野一雄先生も、私の稽古を観て非常に感激して下さっていたようで良い稽古が出来ました。

18日、2日間にわたる稽古を終え、夕食をおよばれしたときに、大野先生が突如として、

鮭は我が身を子に食べさせ次の命に捧げていく
そのような行為がこれからの時代の方向性として、
必要になってくるのじゃないかと思っている。

ということをおっしゃいました。
良く聞く話ではあるのですが、何だか私の今回の公演に向けての一番の教訓としてあるものを感じるところがあり、本当にびっくりしましたね。

大野一雄は謙虚そうに見えながら、実は舞台の上ではこれほど貪欲な人はいないだろうと評していた人がいて、それはそうだろうと、私も思う。
しかしなにはともあれ、あれだけ舞台上で与え尽くす愛を演じれる人はやはりいないと思うし、私にとって大野さんを師と言わしめるのは、やはりその部分を知りたいと思うからです。

そして大野一雄にとって「わたしのお母さん」の母像は正しく、その演じるエッセンスの象徴である。

私は私の「ウリ・オモニ」に関して、女の実態として慈悲深い聖母マリアなんかではない善と悪の二面性を持つ、鬼思母神のようなバリ島の魔女ランダのような存在を出したい、というのが、女の私から描いた「わたしのお母さん」であるわけである。

しかし私の中にある、おんな性というものはおんなゆえに余計に与え尽くせないという、ある一点で踏みとどまっているプライドやこけんといったものがやはり演技の中でもあるのを感じるのです。

ある意味では女も男も越えたところでの、与え尽くすもの、それが愛でもかまわなく、それによって人を幸にさせらるのならやはり与える側になりたいと思います。

それをやはり今回は大野さんの演技のエッセンスを貰わなければ、と大野研究所での稽古の最中に思っていただけに、そこを見透かされ肩を押されたような言葉でした。

 

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