とてもよく晴れた、暑い8月最後の日。葛西臨海水族館。
 派手なショーとか、遊園地とかは付いていない。
 でも、そこのマグロが回遊するところを見るのが好き。


 巨大な温室を思わせるエントランスをくぐると、地下へ向かうエスカレーターが口を開けて私たちを迎えてくれる。

 ひと一人がようやく乗れる幅の、狭いその間口は、強引に暗闇へ引きずりこんでいこうとする掃除機のホースのように見える。

 おびえることは何もない。でも…。

 一歩踏み出す。
 …何もない。何事も起きない。ただのエスカレーターだ。
 滑るように、いささか冷房の効きすぎた地下階へ運ばれていく。


 突然視界いっぱいに広がる、透明な分厚いスクリーン。

 不自然なほど綺麗な水色の炭酸水。その中を、すべすべとした銀色の、そう、魚色をしたブリキのぜんまい仕掛けのおもちゃが、ぐるぐると同じ所を回っている。
 厚さ20pのガラスに顔を寄せる。すると、マグロやカツオ、サメ、マンボウが急に近くに感じられる。

 彼らは、私の視界に急に、しかも強引に割り込んでくるくせに、触ろうとするとあっという間に視界から消えていく。
 慌てて彼らを追いかける。でも、残されるのはいつも私。

 背中の黄色い三角のひれがまるでネオンのように鮮やかに光っている。目に焼き付くのは、光の筋。彼らが通り過ぎるたびに、光の筋だけ増えていく。
 目を閉じる。幾重もの黄色い残像。そこには生の残骸が、確かにある。

 

 彼らは、眠ることがない。ただひたすら泳ぎ続ける。
 寝る間も惜しんで泳ぎ続けた先に、一体何が待ちかまえているのだろう。それを見届けてから、死ぬことが出来るのだろうか。

 否。

 無理だろう。どうせ、ぜんまい仕掛けのおもちゃなんだから。
 今日も、飼育係はネジを巻く。こりこり、こりこり。世界はまた、回り始める。


 冷房の効きすぎた館内から出ると、しばらく暑さに上手くなじめない自分がいる。
 頭で「暑い」と、分かっているのに、身体がそれについていかない。暑さの中で、私の中だけしんとした寒さが宿っている、不思議な感覚。こういうのって、わりと好きだ。


 水上バスに乗る。初めての体験(笑)。
 乗り場に着くと、15:30発の両国行きに、ちょうど乗ることが出来た。

 先日の雨のせいか、ただ単にいつもこのくらい汚いのか…。分からないけれど、海は一面オキウトだか、いごねりだかの様な色をしていた。

 ガラスを多用した、結婚式でも出来そうな小パーティースペースが、そのまま船になったような感じ。
 太陽光線と、水面の照り返しで、船内は異様な程のまぶしさ。
 席について、落ち着いて周りを見回す。夏休み中だというのに、乗客はまばら。

 いいなぁ、こういうの。ゆったりしてて。

 なんか、マンガの主人公みたいだ。
 いたんだ、そういうキャラクターが。気分が落ち込んだときに水上バスに乗りに来て、そこで知らない人に紛れて、独りで海風に当たって心の整理をつけ、そして普段の生活に還っていくのだ。

 なんか、あたし、かっこいい。
 …と、思ったのもつかの間。出航した瞬間からすごい勢いで船が揺れ始めた。酔い止めを持っていなかったことを深く後悔した。

 船が東京湾を過ぎ、荒川に入ったところで、状況は一変した。船が揺れなくなったのだ。


 ぼんやりを楽しむ1時間半。

 鉄橋を通り過ぎる度に出来る影。

 河原を散歩する人たち。

 魚釣りをする少年。

 水面に浮かぶカモメ。

 大学教授にそっくりな船長の船捌き。

 船着き場に着くたびに、てきぱきと動く乗務員。

 荒川から隅田川に入っていくときに、水門をくぐる瞬間。


 何もかもが、すごく楽しい。時間が優しく、ゆったりと過ぎていく。

 こんなに気分のいい、上向きな自分は、いつぐらいぶりだろう。ちょっと思い出せない。
 まだ、こんな気持ちになることが出来るなんて、正直驚いた…。

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