STEPSの感覚
楽曲についての解説
(著作文責/作曲家 坂野嘉彦)
1. Photomusic
Photomusicというのは楽曲の名称というよりも演奏システムの名称と考えていいだろう。それは図形楽譜の一種で、使用する音階と演奏時間の指定以外は演奏者(指揮者)の自由に任されている。この演奏は坂野のリコーダーと中島、山本のマンドリンというトリオで演奏されたバージョンであり、指揮は中村が担当した。どこか中国の民謡を思わせる音楽になったが演奏中に気が付いた人は誰もいなかった。
このディスクにおけるPhotomusicの音階はディスクとしての統一感を出すために全て同じものを使用している。

2.手の音、足の音
この作品はダンサーと複数の楽器のために作曲したものであった。楽器の指定はなく、演奏人数も一人から100人以上のオーケストラでも演奏可能である。ディスクでは中村のマンドリン、石田のセロ、そして作曲者のピアノで演奏している。もともとダンサーの動きを合図に音楽を作ってゆくという方法をとっていた。演奏家にむけて手を動かした時、足を動かした時、音楽家は指揮者から合図をうけるように予め決められた断片を選択演奏し音楽を作ってゆく。予告のない動きから発せられる音楽は奇想天外なリズムを持ち、それがダンスにも影響を与えるという相互作用をもつ多層的な作品だった。今回は大きな改訂をおこないダンサーなしで、長時間の演奏が可能なようになっている。このディスクでは5分程度の演奏時間であるが、作曲者としては最低でも30分ぐらいの演奏時間が欲しいと思っている。実演する機会もあるだろう。

3.合奏協奏曲
愛知学院大学マンドリンオーケストラとSTEPSのメンバーによる60人のPhotomusicである。集団即興の音楽は既に沢山の才能ある音楽家、作曲家が挑み、そこにはある程度の回答が出されたと思う。それはポリフォニーの限界であり、環境音への限りない隣接であった。後述するが「点」である雨の音がいつしか、「線」である音響へかわる瞬間を見せているようなものだ。今回作曲家として集団即興のいかんともしがたい魅力にとらわれ、同時多発的に起こる演劇的な側面を強調する音楽を作った。
愛知学院大学マンドリンオーケストラは素晴らしい理解力と機動力をもった集団である。わずかな説明でほぼ音楽の全容を表現してくれた。群音と独奏の対比の美しさはマンドリンの大きな特徴の一つだと思う。

4.死せる白鳥よ、あなたはまだ歌うのか?
この作品は2009年に初演された作品である。いまや作曲というのは非常に多義的な意味を持つ芸術行為である。昔、高名なジャズメンは「メシを喰うのも、風呂にはいるのもジャズだ」と言い、あるクラッシックの作曲家は「私が部屋で歩き、小説を読むのも作曲なのです」と言った。これは観念的な意味ではない。もちろんこの言葉が発せられた時代にはメタファーとして語られた事なのかもしれないが、現代は同じくらい、いや、それ以上に作曲という言葉には多くの意味が隠されるようになった。「死せる白鳥」で私の考えたメロディは一音たりと存在しない。しかし、逆に私の作り出した以外の音楽も存在しないのだ。サンサーンスの著名な作品「白鳥」におけるチェロのパートをサンプリングし、分解し、緻密に検討し、再作曲されたのがこの作品なのだ。
最後に付け加えるならば、作曲というのは単に音を作りだす事ではない。音を知り、音を考え、それを構築(コンポジション)し、提示し、新たな価値観を創造する事だ。死んだ白鳥を無理に歌わせてはいけないし、その白鳥の歌しか音楽ではないというのは軽率なのである。白鳥はその存在を提示する事で、既に立派な白鳥なのだから。

5.Photomusic
このPhotomusicは中村直哉、山下直美のマンドリン、野尻敦子のマンドリンチェロで演奏されており、まさに正統派の響きが聴こえて面白いと思う。前述した愛知学院大学の方に「現代音楽ってどう思う?」とアンケートをとってみたところ「リズムが複雑」「メロディがない」という返答が多く寄せられた。これは「リズムは本来こういうもので、メロディとはこういうものだ」という固定概念が生み出した誤解なのであるが、逆に奇妙奇天烈なリズムにメロディとして認識できない音群を演奏(作曲)すれば現代の音楽になり、シリアスで高尚なものであるという誤解も生み出した。これは演奏者、聴衆のみならず当の作曲家さえも思い込んでいる場合がある。四分の四拍子で四分音符の羅列でも現代の音楽になりえるのだ。出典を書くと問題になるのでやめておくが音楽評論でこういうシンプルなリズムにたいし「幼稚なリズムが云々」という文章を書いていた人がいた(日本人ではありません)。アホである。リズムなのだ、律動なのだ。幼稚も高尚もない。人間の生理現象(心拍)から発生した芸術行為にまで進化論をあてはめているのだ。単純で下等なものから複雑で高等な物へ進化するというのはごく一部のオブジェクトに限定されるべきで、少なくとも芸術の分野ではそれを持ち出すのはどうかと思う。中世の単旋律が、現代の複雑なクラスター書法で書かれたオーケストラ楽曲より価値が低いわけないでしょう?八分音符が四分音符より優れていないのと一緒である。
だいぶ話がずれてしまったが、この3人とのPhotomusicのセッションはまさにSTEPSがどう音楽を考え作ってゆくかのシュミレーションだった。演奏して話あい、また演奏して話す。繰り返せば繰り返すほど音楽は進化論からはずれシンプルで、美しく、刺激的な様子を見せる。この3人の奏者には相当の負担をかけたが、それも全部報われた音楽に仕上がったと思う。

6.ギョーム
この作品はギョーム ド マショーというヨーロッパ中世の音楽家へのオマージュとして日本大学藝術学部の打楽器部屋で「その場作曲」したカノンである。ただし自由リズムを持ちメロディのどの部分から演奏を開始しても良いという「動的」なカノンになっている。
常々マンドリンオーケストラの響きというのはトレモロがあるなしに関わらず雨に似ているなと思う。一つ一つの水滴の音(点)が雨音(線)に変化する様というのは不思議な感動に満ちているのだ。このテイクは作曲者のトイピアノと中村直哉のマンドリン、そして愛知学院大学のマンドリンクラブ全員で動的カノンを演奏したものだ。アルバムの最後に相応しい約70声部の壮大なカノン演奏である。メロディは次第に認識できなくなり混沌とした海のようなサウンド、しかし、しっかりとした中心音をもった究極で至高のポリフォニーになった。あとは雨の音や風にそよぐ木々のざわめきを聴いて欲しいと切に思う。