■MMT(現代貨幣理論)への批判(メモ)
   2019年7月23日   阿部治正

生み出されるかどうか分からない将来の富まであてにして「架空の富」を膨れあがらせ、その再分配を企図する財政膨張策は邪道であり、労働者の闘いを解体させ、必ず破綻せざるを得ない

●MMTの主
 国債発行による財政支出増も、インフレにならなければOKだ。政府による巨額の借金は国の経済を歪めると言われるが、内国債は債務者(政府)も債権者(日銀)も国内にある経済主体なので、問題にならない。もしインフレになりそうであれば増税で引き締めれば大丈夫。
 借金が増えると金利は上昇するかもしれない。そうなったら中央銀行に紙幣を印刷させて財政支出を行えば良い。それでインフレになりかけたら、増税すれば良い。増税すれば景気が冷えてインフレが収まり、借金も返済できて一石二鳥だ。

●財政赤字膨張、国債増発が行われる背景
 資本主義的成長の終焉が歴史的な背景。成長の行き詰まりを人為的経済刺激策によって克服しようという動き。成長鈍化が必然化する資本による労働者への搾取や収奪の強化、それがもたらす階級対立の激化を緩和するための政策、社会保障や福祉の制度形成とそこへの予算の支出。

●財政膨張、国債増発の仕組みとその問題点
 国が行う借金、借金の債務証書である国債、とりわけ赤字国債や国債の日銀引き受けの問題点。それは現実の富(価値、その実体は労働)による裏付けはない。あくまでも可能性として将来に生産されるかも知れない富(価値)を当て込んだ借金、将来生産されるかも知れぬ富(の一部である将来の税)の先取り。
 将来において、その富が生み出される保証はなく、ただ借金だけが残り、その借金は返済されない可能性もある。利潤率の傾向的低下が避けられない中ではその可能性は高い。
 マルクスは、国債について、株や様々な金融商品とともに、「架空資本」と呼んでいる。つまり、現実の富による裏付けのない、そして何かのきっかけにその「架空性」が露わになること事もあり得る、そしてその時には実体経済に大きなダメージを与えうる存在だと論じた。
 架空資本の基礎は、生産部面における過剰生産、そこから生じる資本として成り立つほどの利潤を期待できない資本=過剰資本、それが信用関係を土台としてさらに巨大な過剰貨幣資本、貨幣資本の市場を生み出す。それが、国債発行に基づく国家財政運営という経済・政治現象の基礎。
 「架空性」が露わになる事態の可能性、必然性について。特に、現在の日本のように膨大な国債残高が積み上がり、加えて新たに返す当ても定かでない国債が上乗せされようとしている現状の中では、その「架空性」が露わになる事態は半ば必然であり、そしてその時の経済的パニックは巨大で深刻なものにならざるを得ない。
 大量の国債の消化不良が発生し、金利は上昇してさらに国の借金の返済は困難に陥り、国は信用を失い、財政や金融の機能は大きく低下するかマヒをし、企業活動は一挙に収縮し、社会的諸インフラのメンテナンスは困難となり、社会保障や福祉は切り縮められざるを得なくなる。その犠牲は政治経済権力を保持している資本家たちによって挙げて労働者・庶民に押しつけられることになる。

●財政膨張策、国債増発策が持つ階級闘争における意味について
 先ずは資本家にとっての意味。
 資本主義の本性から生じる経済的行き詰まりの糊塗、ダメージの緩和、パニックの爆発の先送り。しかしこの先送りは、より大きな規模でのパニックを準備するやり方での先送り。
 資本主義の矛盾の爆発的発現を緩和し、先延ばしすることは、結局は資本主義の矛盾、それをもたらす資本主義の本質的欠陥について人々に気づかせないようにするため。つまりは資本主義の延命策。だからこそ、資本家たちにとっては財政膨張、国債増発は極めて魅力的な、そして止めるわけにはわけにはいかない政策となる。

 これまで、財政膨張政策と並行して、それとは一見異なるかに見える幾つかの政策が採用されてきた。それは、新自由主義、グローバリゼイション、経済の金融化、経済のデジタル化などだ。そして今、アメリカのトランプによって、強烈な保護主義が新たに展開されようとしている。
 まず、新自由主義は、利潤が得られなくなった資本主義が、新たに利潤を得られる投資分野を求めて行う悪あがきだ。もともと資本としての利潤が上げられないからこそ国や自治体が担ってきた公的分野の民間資本への強引な開放要求、労働者の労働条件や賃金の労働力の再生産が不可能になるほどの切り下げ、しかしこれらの方策には限界があることが明らかとなった。
 グローバリゼイションは、国家の障壁を低くして資本の利潤獲得のための競争を前面開花させる試みであり、資本主義諸国間の優勝劣敗を進めた。さらにはグローバリゼイションに頑強に抵抗する非商品経済的世界(ムスリム的紐帯など)の暴力による粉砕と弱肉強食の資本主義世界への強引な引き入れ(アフガン、イラク戦争)に行き着いたが、ISなどによる「吹き返し」を生み出し、資本主義諸国の経済活動を萎縮させた。
 経済の金融化、マネーゲーム化は、実体経済が成長していない下での人為的な信用膨張、架空資本の大膨張策以外でなく、行き詰まってしまうことは必然だった。例えばリーマンショック、そしていまささやかれるリーマンショックの再来。
 ITやAI等の技術を利用した経済のデジタル化も、実体経済の世界で起きている利潤率の傾向的低下を食い止めることは出来ない。ITやAI分野に必要な巨大な規模の投資、価値の唯一の源泉である直接の人間労働の削減と不用化は、ますます利潤率の低下に拍車をかけざるを得ない。
 今世界を席巻しているトランプの保護主義、貿易・為替戦争は、以上のような資本主義救済の諸方策が結局は効果を上げなかったことを背景にしている。トランプは、これまでの諸方策は失敗だった、自分だけが窮地を脱するアイデアを持っている、それこそが強烈な保護主義だ、縮小する世界の富を他国に渡してはならない、他国からぶんどり、自分たちの下へ囲い込むべきだ。こう主張して、世界に経済戦争を仕掛けている。しかし、この方策も、かつての市場分割戦の三番煎じであり、悲惨な結果に終わることは目に見えている。

 だからこそ、先進資本主義諸国の資本家たちは、なおさら財政膨張策にのめり込まざるを得なくなっている。

●次に労働者にとっての意味
 労働者は、自分たちの生活の確保のために、まずは資本家との間で賃金闘争を闘わざるを得ない。資本と賃労働の直接対決の場での、労働者が新たに生み出した富(価値)の分配をめぐる切実な闘いであり、いわゆる第1次的な分配のための闘いと言える。この闘争には資本家の側から猛烈な反発と侵害があるが、闘わなければ労働力の再生産が不可能となる。この闘いは、個々の職場での闘いから、次第に組合間の連携、そして階級としての組織的な闘いへと発展せざるを得ない。この闘いを抜きに、労働者はより大きな目的のための闘いに向けて自らを鍛え準備することは出来ない。この闘いをスルーしたり、他の何かで代替しようとすることは、労働者の社会的な能力形成を不可能にさせてしまう。
 この闘いは、やがて資本家の政府に対する闘いとしても取り組まれるようになる。資本家政府に対して、政府が集めた租税を、政策として労働者に再分配させる闘いだ。直接的な第1次分配に対して、第2次分配と呼ぶことが出来る。これは、社会保険や社会保障、あるいは福祉政策の整備や充実の要求の形で、政治闘争として発展していく。
 このまったく正当であり必要である第2次分配をめぐる闘いは、資本主義の発展のある一時点で、国債発行による財源調達と関連させられることとなる。第2次分配が、国債発行を通した財政膨張策を条件として遂行される状態が生み出される。この状態は、戦争の費用を賄うための大量の国債発行、戦時の城内平和のための社会保険や社会保障などの要請と結びつくなどしてもたらされる。
 これらの分配・再分配の要求において重要なことは、第1次分配は労働者の階級的団結、階級的自覚の発展にとって決定的な意義を持ついうこと。第2次分配も第1次分配の発展形態として重要であること。しかしどちらの再分配も、資本の側からの労働者への分断と懐柔の手段としても用いられる可能性があることにしっかりと留意する必要がある。
 とりわけ、第1次分配のための闘いが極めて弱いか崩壊状態にある、あるいは労働者に対する分断策として強力に機能させられている現在の日本のような状況下では、第1次分配のための闘いの建て直しと活性化が極めて重要となっている。この事をおろそかにしたまま、スルーしたまま、第2次分配に、政府の社会保障政策に、期待したり、依存したりするのは誤りであり、第2次分配自体を歪なものにしてしまう。
 その中でもとりわけ、赤字国債発行による財政膨張も社会保障・福祉政策のためなら良いのだなどという主張は、労働者の闘いの発展のためにはまったくならず、逆効果。
 労働者は、かかる政策にはきっぱりと反対し、むしろ第1次分配のための闘いの再構築、第2次分配のための闘いにおいても資本の体制の許容、労働者・庶民の分断、資本への迎合や屈服に陥らないように警戒しながら闘いを組織していくべき。
 資本主義的生産の行き詰まりを現す過剰貨幣資本、架空資本、幻想の富の膨張、それを前提に、それに乗っかった分配政策には断固として「NO!」の声を突きつけていくこと。それは、幻想の富を膨れあがらせた上でのその分配という、資本家も中間階級も自らの懐を痛めないが故に反対しない政策、資本の利害との真剣な対決が伴わない、それを回避した安直で虫の良い政策への逃げ込み以外の何ものでもない。

 重要なことは、架空の富を膨張させ、将来生産されるかされないかも不明な富まで組み込んで架空の富を膨張させ、その分配をあれこれ考えることではなく、労働者が現に今、日々生み出している富(価値)の分配をめぐる闘いだ。この分野において、しっかりとした大衆的な闘いに取り組むこと、資本の強欲を厳しく批判し、資本の側に譲歩を迫り、妥協を強制し、成果を挙げていくことこそ必要だ。

 もちろん、その富をどういう生産における関係の下で、どの様な形態で、どの様にして生み出していくか、そこのところの変革への展望をしっかりと持ちつつ、分配とその前提である生産の関係のあり方を問う闘いを発展させていくことも忘れてはならない。そして、価値とともにどの様な使用価値を生み出していくのか(兵器や原発やプラスチックやジャンクフーズや半分はゴミになる等々の生産物かそれとも人々の福祉の増進や精神的文化的発達に役立つ等々の生産物か)についても、労働者市民の影響力や決定権を強めていくための闘いが求められている。