■(19年3月2日)
米朝会談は不調に終わりました。これを喜ぶむきもあるようですが、それは朝鮮半島における緊張関係や軍事対立の継続、軍拡の一層の進展を望む勢力のように見えます。もちろん、朝米会談がそのまま自動的に朝鮮半島や東アジアの緊張緩和や和平への動きをもたらしてくれるわけではないでしょう。
大事なことは、わずかとは言え緊張が緩和されることと緊張状態が継続されることのどちらが、この地域に暮らす民衆にとって望ましいかということ。東アジアの民衆が、自らの運動の力を通して関係各国の支配層に緊張緩和や和平に向けての取組を強制していく上で、どちらの状態が有利であるかということです。
米国による北朝鮮への武力行使や戦争の恫喝が続き、それを口実にして北朝鮮による核開発が継続したり強化されたりする状況よりは、韓国の文在寅大統領が期待する米朝の緊張緩和、それを条件として可能になる朝鮮半島の安定と経済社会の発展の方が、和平に向けての環境として遙かに望ましいことは明らかです。
朝米会談不発という事態が私たちに教えているのは、私たちが東アジアの各国の民衆と連携して、米国と北朝鮮の支配層に、そしてその周辺諸国の政府に対して、私たち民衆自身の運動を通して和平を強いていく、そのための闘いをさらに強めていく必要、この事だと思います。
■(19年3月1日)
今日は、朝鮮の民衆が日本の植民地支配に抗議して決起した3・1朝鮮独立運動の祈念すべき日。朝鮮民衆は、1919年3月1日を期して、京城のパゴダ公園に集結して独立宣言を読み上げ、デモ行進を行った。当時世界的に高まっていた、反帝国主義、民族自決の運動の一環として起きたが、同時に日本国内でも生じた米騒動など世界の反動・反民衆政治に対する大衆的抗議の運動とも連動していた。
この独立運動に対する日本の官憲による弾圧はすさまじく、多くの死傷者や逮捕者を出したが、その事がかえって独立運動を朝鮮の各地に、そして民衆各層に拡大させることとなった。当時の日本政府は、この独立運動の規模を過小に伝え、その意義を貶めるために反日的な一部の暴徒による騒擾だと捻じ曲げた。
しかし、この運動の意義は巨大であり、その精神や理念は現在の韓国の民衆運動の中に、脈々と息づき、引き継がれている。もちろん、アジアの他の地域の民衆運動にもにも少なくない影響を与えた。我が日本においても、日本のアジア諸国への関わり方に疑問や批判を持つ人々に対して、衝撃を与え、勇気づけた。
翻って、現在の日本政府やそれに追随する人々の韓国・朝鮮に対する姿勢や態度はどうであるか。かつて3・1独立運動を暴徒の騒擾だと宣伝し、朝鮮人への蔑視や敵意を煽り、強権で弾圧した帝国主義政府やそれに追随する幼稚な帝国主義的臣民とどれだけ隔たることが出来ているか。
3・1独立運動とそれを記念する今日の日は、私たち日本人に、とりわけ日本の働く人々や民衆の社会変革の運動に対して、単なる過去の話としてではない、極めて今日的な問いを発している。それを真正面からしっかりと受けとめて、未だに根深く残る、どころかますます膨れあがろうとしている反韓・反朝鮮のどす黒くおぞましい反動世論に立ち向かい、それを封じ込め、乗り越えていく闘いを強めなければならない。
■(19年1月28日)
厚労省データ不正・偽装の影響は、失業給付の過少給付、労災補償の過少給付、育児休業補償の過少給付等々、被害者は2000万人を超え、被害額は数百億円に上ります。まさに、「消えた年金」以来の大変な問題です。
不正の手法は、東京都のデータを本来の全数調査ではなく3分に1だけのサンプル調査に変えた。このことによって賃金は低く見積もられ、上で述べたような影響が生じたのです。
それだけではなく、さらに、昨年の1月からは東京都のデータを3倍に補正した結果、賃金伸び率が見かけの上で3.3に偽装されました。現時点でその補正をやり直すと、実際には1.4、それどころか賃金の伸び率は実際にはマイナスだったという指摘も出てきています。
思えば、安倍政権が発足した直後の12年12月に賃金が大きく下振れしました。その事を問題視した麻生財務大臣が、15年10月、座長である安倍首相も同席した経済財政諮問会議で、賃金統計の取り方の変更の必要を強く示唆。その結果もたらされたのが賃金の伸び率上昇の偽装です。
安倍政権の下でのデータ偽装や公文書改ざんや資料の隠蔽などは、以下に見るように、数え上げれば枚挙にいとまがないほどです。
生活保護費の支給削減を目的にして、低所得者だけの物価大幅下落の見かけを作りだした物価偽装。
防衛省・自衛隊のイラク・南スーダン日報隠し。
森友・加計問題での公文書や資料やデータの改ざん、隠蔽。
裁量労働制改悪案を通すための対象労働者の労働時間の過少集計。
入管難民法を改悪するための外国人労働者の労働条件などのデータ偽造。
等々。
嘘つき安倍政権を打倒しよう。
■(19年1月24日)
今朝の駅頭活動は「南流山駅」の南口。冬だから当たり前ですけれど、寒い朝でした。
帰宅して朝食を食べながらTVをつけると、韓国軍が自衛隊機による低空での威嚇飛行を糾弾しているとのニュースを流していました。日本の防衛省・政府による韓国駆逐艦が自衛隊機にレーダー照射をやったとの非難が尻すぼみになったと思ったら、今度は韓国からの非難。どうにも、まったく、本当に、困った連中です。
日本にしろ韓国にしろ、軍や権力者のやることは、国民・市民の安寧などは考えず、軍や政府のメンツや対抗意識を最優先、国民をナショナリズムで煽って政治的な威信を高めようとする等々、危なっかしい限りです。私たち勤労者・市民は、こんなことに巻き込まれて右往左往させられているほど暇ではありません。
「60〜70メートルなどと言う低空飛行はしていない」という今回の防衛省・自衛隊の言い訳について言えば、なんともお粗末。レーダー照射をやったやらない問題で韓国をあれほど責め立てた防衛省(というより安倍官邸)なのですから、韓国軍の指摘と批判にきちんと答えるべきでしょう。
ちなみに、1年ほど前になりますが、自衛隊は流山市など東葛地域でかなりな低空飛行を繰り返していた時期がありました。数日間にわたって、断続的に、何度も何度も。防衛省に理由を問いただすと、「そもそも自衛隊機が流山などの上空を飛んだ事実はありません」などととんでもない返答をしたのです。こちらは、写真を撮ってちゃんと記録し、また流山市民であれば知らない人はいないくらいの公然の事実であるにもかかわらず、傲慢にもその事実すら認めようとしない。これが自衛隊の実態であれば、彼らの言葉を真に受けることは出来ません。
いずれにせよ、軍隊・軍人の言うことをそのまま信用することは極めて危険。これはどの国についても言える真実。保守政治家、特に安倍自民党に蝟集する政治家たちは軍人以上に信用できない、危険な人たちですけどね。
■(19年1月23日)
昨日は、午後から、千葉県市議会議長会第4ブロックの議員研修会でした。流山市議会を含む8つの市議会の議員が集まっての合同研修会です。講師は、ご存じ、神野直彦さん。
テーマは「地方分権と地方再生」、そこそこ面白い講演内容でした。レジュメにちりばめられた言葉を少しだけ紹介すると、「ポスト福祉国家」「工業社会の終焉」「『量』の経済から『質』の経済へ」「『所有欲求』から『存在欲求』へ」「環境と文化による『地域再生』」等々。こうした言葉だけで、神野さんが何を言いたいかが伝わると思います。
神野さんは、一般には社会民主主義者と理解されていますが、社会民主主義にもいろいろあろうというものです。少しだけ、不満を言わせていただければ、現代日本にあって地方分権の重要性を強調するならば、沖縄の問題、原発の問題(軍事基地や原子力施設の立地の問題)、憲法改悪の動き(軍備拡張、海外派兵、中央行政機関や内閣への権力の集中、議会の形骸化の動き)への言及は避けて通れないはずですが、神野さんは完全にスルー。また、問題は「資本」の限界、資本関係という社会関係の行き詰まりであるのに、それを「工業化社会」の行き詰まりに矮小化しています。
私の好きなJ.S ミルの言葉、最近でも「定常社会」についての議論の中で良く紹介される言葉を、神野さんは、「脱工業化社会へ舵を切る」との表題の下に紹介しました。一番最後にそのミルの言葉は引用しておきますが、本来はこの言葉は、ミルにとっては単なる「定常社会」論ではなく、ましてや「脱工業社会」論でもなく、人と人との関係論、アソシエーション社会への展望とともに語られているものです。つまり、「労働者たちが、作業を営むための資本を共同で所有し、労働者たち自身で選出しまた解任し得る経営者たちの下で働くところの、平等という条件に基づいた労働者たち自身のアソシエーション」(J.S ミル)について論じた内容と関連しているのです。このミルの理論の最良の部分のひとつは、後にマルクスによって、資本主義の論理の厳密で精密な解明を通して、資本が支配する社会からそれ以上の、その後の社会に繋がる新しい対等・平等・連帯社会のあり方として発展させられた思想・理論です。
しかし、この重要なJ.S ミルの言葉が、神野さんにおいては、「脱工業化社会」論として換骨奪胎させられています。私たちは、このミルの着想は、人と人の関係論、生産関係論として、正しく位置づけ、内容の豊富化、具体化がなされていくべき論点だと考えます。
J.S ミル『経済学原理 4』からの引用
「資本および人口の停止状態なるものが、必ずしも人間的進歩の停止状態を意味するものでないことは、ほとんど改めて言う必要がないであろう。停止状態においても、あらゆる種類の精神的文化や道徳的社会的進歩のための余地があることは従来と変わることがなく、また『人間的技術』を改善する余地も従来と変わることがないであろう。
そして技術が改善される可能性は、人間の心が立身栄達のために奪われることをやめるために、はるかに大きくなるであろう。産業上の技術でさえも、従来と同じように熱心に、かつ成功的に研究され、その場合における唯一の相違と言えば、産業上の改良がひとり富の増大という目的のみに奉仕するという事を止めて、労働を節約させるという、その本来の効果を生むようになる、ということだけとなるであろう。今日までは、従来行われたすべての機械的発明が果たしてどの人間かの日々の労苦を軽減したかどうか、甚だ疑わしい」
■(19年1月22日)
昨日からTVは、韓国駆逐艦によるレーダー照射があったか無かったかの問題は、日本側からの実務者協議の打ち切りが宣言された報じています。安倍晋三は、防衛省・自衛隊の困惑や躊躇も無視し、これ幸いとばかりに韓国政府にバッシングを仕掛けて、反韓感情をさんざん煽りました。しかし、その愚行によって、抜き差しならない状況に陥り、慌てて幕引きを図り始めたということでしょう。一体、何のための大騒ぎだったのか。
安倍晋三の下で、日本の外交はボロボロです。「安倍政権のレガシー」が欲しいという浅ましい思惑から始まった「2島返還+アルファ」は、ロシアの強硬姿勢の前に風前の灯火。中国とは政経分離で「一帯一路」の美味しい所取りを図ったが、米国の対中強硬姿勢に引きずられ、経済実利追求の思惑も頓挫。その米国とは「強固な同盟関係」「首脳同士の信頼関係」を自慢した割りには、貿易と為替問題で冷たくあしらわれて大きく譲歩を迫られる有様。北朝鮮とは「後は私と金委員長のトップ会談だ」と大見得を切って見せたが、中国や韓国とさえうまく付き合えないくらいだから、金委員長からは全く相手にしてもらえない状況。
マスメディアは中国の経済状況の悪化をしきりに報道していますが、米国や欧州や日本はそれ以上に困難な状況に直面しています。確かに中国の経済成長には一定の翳りが生じてきていますが、長期的に見れば米国の退潮、衰退はそれ以上に動かしがたい趨勢です。その中にあって、米国にくっついて行けば何とかなるという状況ではもはやないのですが、日本の支配層や安倍晋三はこれまでの習い性である米国追随の姿勢に何の疑問も持っていない様子。彼らは、仮に米国の強力な影響力に反発することがあるとしても、それは歴史修正主義、つまり戦前の日本の擁護と賛美というみすぼらしい復古ファンタジーの域を出ることはないのです。
私たちの立ち位置は、ワシントンでもペキンでもモスクワでもなく、もちろんトウキョーでもありません。私たちが依って立つ場は、日本の働く人々と市民、その日々の生活と労働の場。それは米国や中国やロシアで私たちと同じ境遇におかれている人々と共通のものです。
さらに言えば、私たちの立場は、「直ちに健康に影響はありません」「私たちの立場は自民党宏池会と同じ」と言って憚らなかった党首を戴く政党とも異なります。また「民主集中制」という名の官僚統制をよしとし、北方四島や尖閣・竹島問題では自民党以上の領土主義やナショナリズムを煽り、「党の党による党のための政治」に励む政党ともまったく無縁です。私たちの立場は、先に書いたように、徹底して、日本と世界の働く人々と市民、その日々の生活と労働と闘いの現場であり、それ以外にはあり得ません。
改憲の発議をさせないための「市民連合」や「野党共闘」の必要は否定しませんが、私たちの闘いは単に「改憲発議をさせない」ためだけにあるのではありません。現代社会の根本問題、本質問題である、搾取や抑圧や差別をその経済的社会的前提とともに克服していくこと、そのための力を働く人々や市民自身が自らの中に培い獲得していくこと。資本が支配する社会の様々な矛盾を背負わされながらも、いまだ自分たちの困難の原因を知ることが出来ず、声をあげることが出来ず、行動を起こすにまで至っていない、無数の人々、巨万の民衆、彼らの生活と意識の現状にこそ最大の注意を払い、関心を注ぎ、その変化を手助けし、促進していくこと。それこそが私たちの第一義の課題とされるべきであり、それは今ある政治諸勢力の数あわせや組み合わせにおける必要な工夫とは、本質的に異なる課題です。
現在の利益の中で未来の利益も合わせて追求をする。目標と志を高く持ち、自身が「ここが要諦だ」と信じる課題を曖昧にせず、日々の活動に精進しよう。
■(19年1月19日)
精神医療についての本を多数出されているジャーナリスト嶋田和子さんの新しい著書、『青年はなぜ死んだのか』が近く発刊されます。アマゾンではすでに予約受付を開始しています。
ひとりの青年が、精神病院に入院中に頸椎骨折となり、気管切開、寝たきりとなって、後に亡くなりました。青年が容れられていた保護室のビデオには、複数の職員が青年に暴行を振るう様子が映されていました。
職員たちは暴行致死で起訴されました。一審の千葉地裁では、青年の顔面に3度の蹴りを入れた職員が暴行罪で有罪となりました。東京高裁では、もうひとりの、膝に体重をかけて青年の首を押さえ付けた職員は、その行為が頸椎骨折の原因となったかどうかを断定できない、必要な医療行為と考えられるとして、無罪となりました。それと同時に、一審で暴行罪が認められた件の職員は、公訴時効でなんと免訴となりました。
職員たちが保護室に入ってくる前は青年の頸椎は正常で、彼らが暴行を加えて出て行った後、青年の頸椎が折れていたという事実は、裁判官も認めています。保護室に放置された青年は次第に弱々しくなり、その後頸椎骨折が確認されたために他の病院に救急搬送されました。青年の身体は傷ついており、顔は暗い紫色の痣とともにひどく腫れ上がっていました。私も、事件の直後に、ご家族と一緒に、そのビデオの一部始終、病院に担ぎ込まれた時の青年の無惨な顔写真などを確認しています。
著者の嶋田さんは、この事実を多くの人に知って欲しいと願い、また日本の精神医療はこれで良いのか、司法はどうなってしまったのかと訴えています。
これは、現代日本に生きる者にとって、無視することの出来ない問題です。精神医療がはらむ深い闇は、いい加減な診断、病名付与、間違った投薬、多剤大量投与などを伴いながら、この青年だけでなく、いまや日本中の多くの子どもたち、若者たち、そして高齢者の日常を覆う事態となっています。嶋田さんの他の著書とともに、皆さんに是非読んで欲しいと思います。
■(19年1月17日)
このかん、市民の皆さんから指摘をされていた、森の図書館側の高線量の地点について、私も市に測定と除染を要求しました。市の環境部からは、直ちに測定と除染を行うとの約束を頂けました。
私の測定では、地上5センチで0.604マイクロシーベルト毎時。年間に直すと5.291ミリシーベルトとなって、国の甘い基準に照らしてさえ、その5倍以上の線量となっています。地上5センチで測定しているのは、流山市当局が、子どもが多く利用する施設では「地表から高さ5センチで0.23マイクロシーベルト(1時間あたり)にし、この値が下回るよう除染」としているからです。
私の線量計は、流山市が空間線量測定に使用しているものと同じく、堀場製作所の機種で、毎年きちんと校正を受けているものです。
森の図書館の周辺は、福島原発事故の後、非常に線量の高いところでした。事故の初年度は、今回の0.604など小数点以下ではなく、3〜6台の放射線量が測定されたところです。林の中には子どもたちのための遊具が数台設置され、まさに子どもの遊び場になっています。その場所で、いまだに年間5ミリを超える放射線量が測定をされているのです。
今回は公共の土地でしたから、測定をしてそれを公にすることが出来ました。しかし流山市内には、地権者の同意なしには公表が難しい民地で、まだまだ1以上〜4台の値の時間線量が測定される場所が残っています。原発事故の恐ろしさ、それをもたらした者たちの犯罪性に、あらためて憤りを感じています。
これから、朝刊2紙をざっと読んだあと、朝の駅頭活動に向かいます。今日も
■(19年1月14日)
昨日から、新聞やTV、特にTVは五輪の東京招致委員会委員長・日本オリンピック委員会(JOC)会長の竹田恆和氏がフランス司法当局に予審を請求された話しで持ちきりです。フランスの司法に詳しい法律家たちは、予審にかけられたという事はかなり疑いが濃厚、証拠も集められているのではないかと言います。
これに対して、TV番組などでリベラル批判を熱心に行うご子息の竹田恒泰氏や、一部のMCやコメンテーターなどは、「ゴーン氏逮捕へのフランス側の報復だ」などの発言を繰り広げています。
事態の深刻さを飲み込めていない上に、極めて主観的で感情的な反発と言うしかありません。フランス司法当局は、ゴーン氏が逮捕される前、すでに昨年の8月時点で竹田恒和氏への予審や事情聴取を決めていたと言われます。それどころか、竹田氏への捜査はすでに3年前に開始されており、日本の国会でも取り上げられ、JOCや竹田氏も釈明の声明などを出していた案件です。その釈明内容は、私たちが読んでも疑惑否定に成功していないどころか疑惑を一層深め、今日の事態を準備してしまったと言うしかないような内容でした。それに加えて、様々な証拠がいよいよ固まってきたが故の、予審開始とみるべきでしょう。
問題を矮小化しようとする人々は、一方で疑惑はない、贈賄などしているはずがないと言いながら、他方ではコンサルタントに対する疑いの声をあげるという矛盾を犯して恥じません。仮に良くないお金が動いたとしても、それはコンサルタントのせいだとの逃げ道を用意した発言です。彼らは、さらに追い詰められれば、次には「悪いのは電通だ」と言い始めるかも知れません。しかしそんな言い訳が通用するほど、フランス当局の捜査は甘くはないでしょう。というより、そうなってしまえば、2020東京五輪はいよいよオシマイでしょう。何しろ、東京五輪関係の準備事業のほとんどは、電通が請け負い、仕切っているのですから。
問題は、フランス側の報復などという次元の話しでも、また善意の竹田氏やJOCが悪徳コンサルタントに利用されたという話しでも、さらには電通が黒幕だという話でもありません。問題の根底は、今や五輪は巨万のマネーが動く巨大ビジネスとなっており、IOCからJOCまで、そして招致に絡むコンサルや五輪を取り仕切る宣伝広告会社まで、それどころか国家や巨大都市を牛耳る政治家や官僚、公共土木や交通運輸やマスコミなどの企業群までが絡む利権の巣窟となっているという事です。つまりは、五輪イベントは、この資本主義システムの写し絵以外の何ものでもないという事態そのものなのです。
「平和の祭典、諸国民の友誼の場であるべき五輪が金儲けのために歪められている」と憤る人もいるかも知れませんが、そういう情緒的な問題でもないでしょう。いまや、どこの世界に、五輪を「平和の祭典」などと信じている人がいるでしょうか。五輪が、巨大なカネまみれの国際イベント以上でないことは、誰もが気づいていることでしょう。
個々のアスリートの中には、ナイーブな勘違いをしている人はいるやもしれませんが、そのナイーブさはこの時代には罪でしょう。ひとりの大人であり、社会人であれば、いまや五輪は、カネまみれの打算や駆け引きや欲得や不正が渦巻く巨大なショービジネスなのだという自覚を持っていなければ間違いです。そのことに薄々、あるいははっきりと気づいていながら、それでも自分は五輪の成功にしか関心がないなどと言う人は、アスリートエゴと非難されても仕方がありません。
2020東京五輪は、潔く返上すべき。そのことで、日本の経済社会が今以上の泥沼につっこんでしまうことを避けるべき。その代わりに、2020年で無くても良いので、ささやかな、下から積み上げた、真のスポーツマンシップに基づいた、様々な競技を世界の各都市で分担して開催し、そこでこそ「世界の平和」と「諸国民の友誼」を高らかに歌い上げましょう。
■(19年1月14日)
世間は、株価の乱高下に一喜一憂。エコノミストやアナリストを自称する人たちは、まだ第2段の下落があるかもしれない、いやもう底を打ったと思いたい等々、適当な見立てを語っています。しかし、根本問題は、資本の利子率、その背後にある利潤率の低下の趨勢です。これは、資本主義の発展が必然的にもたらす避けがたい傾向です。
資本の勢力は、この大難題に対して、資本の弱肉強食の競争を地球大に拡大するグローバリゼイション、公的部門や不採算部門の強引な市場への引き入れとそこへの資本投資、金利の持続的引き下げ・市場へのマネー投入・信用膨張、政府債務の拡大を通した公共事業や軍拡などへの財政大盤振る舞い、経済のデジタル化・IT化等々で乗り切ろうとしました。それらの過程における労働者への徹底した搾取強化、資本の競争場裏と化されることに抵抗する国や地域(ムスリム社会等)への武力の発動等々を強行してきました。
しかし、それでも、資本の利子と利潤の低下の趨勢は、克服は出来ませんでした。そこで登場したのが、私がこのFBでも何度も繰り返しているように、トランプです。トランプは、これまでのあらゆる資本主義(彼の場合には米国資本主義以外ではありませんが)救済策は成果をあげられなかった。自分だけが、その救済策を持っている。それこそが、中国、欧州、日本等々との貿易戦争、経済戦争だ。縮小し、先細る資本の利潤を、他国に譲り渡し訳にはいかない。関税や為替の操作、外交的軍事的圧力、排外主義やナショナリズムの扇動等々、使える手段は何でも使って、利潤を米国資本の下に囲い込むのだ。それだけが、米国の生き残り策なのだ。
資本主義が持っているある種の側面、歴史の一定の局面では必然的とも言えるこの衝動を、トランプは極めて正直に、あからさまに宣言したのです。そしてこの宣言は、中国や欧州や日本などを巻き込み、さらにその周辺の地域をも引きずり込みながら、世界を大きく揺り動かしています。北朝鮮が今までの戦略から脱皮しようとしているのも、その反映のひとつです。
したがって、私たちの闘いの構え方も、こうした状況に見合ったものでなければなりません。日々の活動は、労働者や庶民に寄り添った、彼らの暮らしと労働とその利益を例え寸土と言えども資本に譲り渡さないため、さらにそれを拡張し次の闘いの足場としていくための、地を這うような地道な活動。その活動を、この行き詰まった、それが故に全世界を混沌と争乱と大災厄に引きずり込みかねなくなってしまった資本の体制そのものを乗り越える闘いとして、全面的に体系的に構築していくこと。そのためにこそ、私も自らの小さな力を惜しみなく、そして効果的に注いでいこうと思います。
暮らしと労働の場での闘い、消費増税や改憲を許さない闘いを、統一自治体選挙や参院選挙としっかり結びつけて、頑張ろう。
■(19年1月7日)
日本政府による韓国軍への非難の背景が少しずつ明らかになりつつあります。自衛隊自身はあまり大事にはしたくなかったようですが、安倍首相が映像や音声の公開にこだわったようです。動機は、徴用工や慰安婦問題で日本の企業や政府の責任を問う韓国への牽制なのだとか。
しかし、そもそも、徴用工や慰安婦などの日本企業と政府に対する要求は、韓国の市民の行動、それを受けた韓国司法の判断であり、日本が韓国政府に圧力をかけたり嫌がらせをしたりする筋合いのものでは全くありません。これらを一緒くたに扱って、韓国政府に嫌がらせをするなどは、安倍首相の頭の中で政府と司法、何よりもそれらと市民との区別がついていない証拠です。
そもそも、戦争犯罪とその謝罪や賠償について、過去に国家と国家との間で金銭のやり取りがあったからと言って、それでご破算に出来るものではありません。戦争犯罪の被害者である市民ひとりひとりにそれを要求する権利があることは、この間の法思想や法理論の発展からも、それらを一定反映した国連などの見解からも明らかです。
安倍首相の思惑は、徴用工や慰安婦問題での日本政府に厳しい韓国世論への対抗、反韓感情の鼓吹やナショナリズムの扇動でしょう。対米関係でも貿易・関税交渉などがうまくいかず、ロシアとも北方4島問題の交渉の不発の予感。株価下落や円高など、信用膨張とバブルが破裂してアベノミクスの幻想を跡形もなく一掃してしまうかも知れぬ不安。そうした事態への備えとして、政権への新たな求心力を必要とし始めたという事でしょう。
しかし、そんな禁じ手に拍手喝采を送るのは、ネトウヨなど極右の極少数派のみ。迫り来る安倍政治への逆風に対しては屁の突っ張りにもならないでしょう。逆に、もし仮に、この反韓ナショナリズムの扇動が功を奏したとしたら、これほど日本とアジアに暮らす民衆の利益に反する愚行はないと言うべきでしょう。
仮にも軍事同盟を結んでいる隣国、しかもかつては日本が植民地支配と暴虐を強いた加害国で相手は被害国という関係にある隣国に対し、よりにもよって軍事問題で言いがかりを付け、事態をのっぴきならないところまで進展させて平気でいる安倍晋三。この人物のげすさ加減、愚劣さぶりは、いったい何と言えば良いのでしょう。日本のためにも、アジアのためにも、安倍政権をこれ以上続けさせるわけにいかないことはもはや明らかです。統一自治体選挙と参院選を通して、安倍政治の打倒を何としても実現しましょう。
■(18年12月31日)
昨日、渋谷のUPLINKで立て続けに観た4本の映画の感想。
まず、「タクシー運転手 約束は海を越えて」については、短く。二度観の映画ですが、やっぱり良かった。数ヶ月前に観た「1987、ある闘いの真実」と同様、韓国の民主化闘争を史実をベースに描いた傑作です。私としては、「1987」でも「タクシー運転手」でも、権力側の人間に、民主化闘争を密かに擁護し支援する人々が登場するところが凄いと思います。「1987」では上層部の圧力に抵抗した検事や民主化闘争を支援し政治犯を守った刑務所の所長や看守。「タクシー運転手」では主人公たちの逃走をわざと見逃した戒厳軍の兵士など。韓国の民衆運動の層の厚さ、性根の座り方には頭が下がります。
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次に観た「華氏119」もかなり冴えていました。ムーア監督は、トランプ大頭領を誕生させた要因のひとつとして、米国民主党の長年のブルジョア追随政治、というよりもブルジョア政治そのものがある、と指摘しています。そうした政治が、大衆の民主党への幻滅と反発、そればかりか政治総体へのアパシーを生み出したのだと言うのです。
そういうムーア監督が、オバマ前大統領に対しても厳しい見方をしていることは当然です。ムーアにとっては、オバマも体制側の人物です。そればかりか、左派と目されるバーニー・サンダースに対してさえ、若干懐疑的です。例えば民主党内での大頭領候補選挙で最後まで可能性を追求しなかったこと、ヒラリー支持を呼び掛けたのは誤りであったと、事実上、指摘しています。
今、ムーア監督が心を寄せ期待しているのは、先の米下院選挙において小さくない勢力として登場した、コルテスらに代表される民主党非主流の新たな勢力のようです。コルテスらはまさに、総体として堕落した米国政治を根底から問い直そうとする勢力、大衆の生活の中から現れた、失うべきものを何も持たない、大衆の代表者と見なされているようです。ブルジョアの利益におもねり、ブルジョアの利益に追随する民主党主流に公然と異を唱える新潮流と評価されているようです。
もちろんムーアは、自身への厳しい目もちゃんと持ち合わせています。自分自身も、ブルジョア政治やブルジョアメディアに対して、中途半端な寛容さを示したと見られたことがあったかも知れぬということを知っているようです。
いずれにせよ、ムーアの危機意識はかなり激しく深刻です。米国の民主主義は底が浅い、いつでもナチスまがいの独裁政治にさえ行き着き得るのだと言います。そしてこのままだと手遅れになると警鐘を鳴らすと同時に、今ならまだ間に合うとも言います。
ムーアの危機意識は概ね正当ですし、大いに共感を覚えます。しかし私たちにとってさらに重要なことは、ムーアにも見落とされているある重要な事実です。
それは、大衆の既成政治や民主党やへの幻滅が本当だとしても、それだけがトランプ勝利の要因ではないということです。トランプの勝利の決定的な要因は、トランプが「アメリカファースト」の呼号にとどまらず、その手段として経済的利益の米国だけへの露骨な囲い込み、貿易戦争、為替戦争、経済戦争の発動に打って出たという点にあるのです。
トランプは、これまでのすべての米国資本主義延命策、つまりグローバリゼイション、その邪魔になるアフガンやイラクなどの部族的紐帯の破壊、IT化、金融化等々は限界を示すか失敗に終わってしまった。自分だけがその事を見抜いている、だからその轍は踏まない、自分は米国資本主義の危機の唯一の解決策として、中国や欧州や日本との貿易戦争に非妥協的に打って出る、「アメリカファースト」の中身はそうあるべきだと宣言したのです。もちろん、トランプのこの認識はすべて直感レベルのもので、理論的なものでは全くありませんが。
このトランプ戦略は、言うまでもなく大きな限界のある戦略、と言うよりもこれまでの米国資本主義延命策の中でも最も矛盾に満ちた政策、世界全体に大きな災厄をもたらすこと必定の最悪の政策です。しかし、少なくとも第2次世界外戦後はまだ一度も試されていないと言う意味で「新鮮な」政策です。というより、それ以上に、現代資本主義の危機の未曾有の深刻さ、万策が尽きた上での深刻な危機の予感が、この未曾有の愚策を必然化したのだという事が重要です。
この事を見ず、トランプもいずれ現実から学ぶだろう、妥協点を探るようになるだろうなどと期待するのは愚の骨頂です。トランプが直感している現代資本主義の危機の深さ、それに見合った対抗戦略をしっかりと立てて、それに沿った系統的な日常活動を効果的に展開できなければ、私たちはトランプ(や安倍晋三)とともに、歴史の奈落に再び引きずり込まれて行ってしまうに違いありません。
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三つ目の映画は「フロリダ・プロジェクト」。米国のマイノリティに視線を合わせた作品を作り続けているショーン・ベイカー監督の作品です。プロジェクトの言葉には、ディズニーランド計画という意味と、低所得者向け施策という二重の意味があります。米国社会の実相、真実が容赦なく描かれています。子役の演技が秀逸、特に最後にともだちに別れを告げに行ったときの演技は鳥肌ものです。いったい、6歳の子どもにどうしてこんな複雑な感情を表現する演技が出来たのだろう。米国に生きる多くのこうした庶民の声は、一体誰が代弁するのだろう。先に述べた、コルテスたちがやってくれるのだろうか。
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四つ目は「イット・カムズ・アット・ナイト」。「外には恐怖、中には狂気」とパンフレットに書かれています。心理劇と銘打たれてはいますが、少し読み替えれば、まさに今、トランプや安倍がつくり出そうとしている状況と同じではないかと思います。本当かどうかも分からぬ外の恐怖におののく中の狂気はどこに向かうのか。
今朝の映画感想は、特に「華氏119」がついつい長くなりました。ごめんなさい。
■(18年12月26日)
出かけに読んだ新聞でも、株価下落のニュースが大きく取り沙汰されている。やれ、トランプリスクだ、トランプ相場だと、表層を撫でるだけの議論が横行している。
トランプの軽率で乱暴な言動も、米中摩擦の激化も、株価暴落のきっかけであるには違いないが、経済危機の本当の背景、原因は別の所にあり、その根本原因がむしろトランプ政治や米中摩擦等々を引き起こし、そして株価の暴落を引き起こしているのだという事は語られない。
昨日も同じようなことを書いたが、根本原因は、資本主義の業病である過剰生産と過剰資本だ。それがもたらす利潤の減少と資本が資本として成り立つだけの投資分野の縮小。現代の資本は、こうやればその隘路を突破出来るのではないかと妄想して、資本のグローバリゼイション、規制緩和による通信から介護事業まで含めた新たな投資分野の乱開拓、経済のIT化、限度を超えた信用膨張、経済の金融化とマネーゲーム化を押し進めてきたが、それらは資本主義の過剰生産、過剰資本の矛盾をより巨大化させつつ、危機の爆発を先延ばしにしてきたにすぎなかった。
こうした問題は、国政の問題、世界経済の問題で、流山市政とは直接に関係ないなどと言うなかれ。流山市が乗っかって(悪乗りして)進めてきた、つくばエクスプレス沿線開発という高度成長期以来の巨大開発事業。それにともなう商業流通資本の集積、マンションの林立、戸建て住宅の乱造、人口と子どもたちの数の膨張。それにともなう子育て施設の不足、高齢者福祉の停滞、緑の環境の破壊等々のまちづくりの歪みと矛盾は、上で見た現在の日本と世界の経済がはらむ、信用膨張とバブルを背景にした矛盾の集積と一体なのだから。
ところが、流山の市長も副市長も、企画政策の担当者も、こうした問題意識は皆無。つくばエクスプレス沿線開発で流山市は千載一遇のチャンスを手にしている。このチャンスを掴んで開発を進めるぞ、人口誘致だ、固定資産税の増収だ、シンボル的ハコモノ作りだ、オリンピック・パラリンピックだ、外国人観光客誘致だとまだ浮かれている。
彼らの意識には、バブル景気も、その崩壊も、外部からやってくる天然自然の現象。バブルには、バブルという認識も警戒心もなく無邪気に乗っかってはしゃぐだけ。崩壊が起きれば、国が景気対策の財政大盤振る舞いでまた助けてくれるに違いないと、他力本願。自分たちには無関係、責任もない、という感覚。
しかし、今日の自治体運営が、そんな脳天気集団、狭い経験主義者の集団に務まるわけがない。特に流山市のような、それ自体がバブル現象以上のものではない、国が日本経済へのてこ入れ策として実施している、巨大開発のまっただ中にある自治体の運営においてはそうだ。世界と日本の経済の全体を見渡し、同時に市民の暮らしのディティールにまでしっかりと目を配り、英明な判断と選択を間断なく行って行くことが出来る市のトップ集団でなければならない。そうでないならば、いずれ市民に対して、大きな災厄を押しつけることになってしまうのは間違いないだろう。
■(18年12月25日)
今日はクリスマス。キリストの降臨祭には何の義理もないけれど、とりあえずそれにかこつけて、私による私用の檄を、以下に記します。
★ ★ ★
米国企業を中心とする世界の巨大資本は、資本の利潤率の低下の趨勢に悩まされてきたが、鳴り物入りのIT技術革命でも経済の金融化でもそれを打ち払うことは出来なかった。そこに登場したのがトランプ。彼は、これが資本主義にとって最後で最良の処方箋だとして、米国第一を唱え、貿易戦争、経済戦争を発動し、縮小する利益の排他的な囲い込みに打って出たのだ。おりしも、世界経済は、信用の野放図な膨張、超金融緩和、資産バブル、それによる危機の爆発の引き延ばし策の賞味期限も切れはじめ、引き延ばしてきたツケが上乗せされた分だけさらに大きなパニックの予感に怯えなければならなくなっている。
中国はかなり以前から、アフリカや中南米などで独自の勢力圏づくりを進めていたが、今では全世界を股にかけた一帯一路構想、世界最強国をめざす野望の前提となる中国製造2025を打ち出すことで、米国の支配層に一層の危機感を抱かせた。かくして、米中の戦いは、単なる経済戦争の域を超えて、最先端の科学技術力、情報技術力、それを応用した軍事能力での優位をかけた総力戦の様相を呈し始めている。
米国は今や経済でも政治でも傷だらけ、老いて衰退しつつある大国であることは誰の目にも明らかだが、しかしトランプの下で世界中に災厄をまき散らしながら、最後の巻き返しに必死だ。ロシアも米国以上の老大国だが、プーチンの下で超大国復権の叶わぬ夢を追っている。こうした中で、中国はまだのりしろを残した新興大国として、さらなる隆盛を求めて気を吐いている。そして、こうした諸大国の動きに巻き込まれながら、欧州も、中東も極東もその他の世界の各地も、これまでの位置に留まり続けることが出来なくなっている。
かかる光景の中で、日本の支配層の目は何を見ているか。40年も前のジャパン・アズ・ナンバーワンの残影、それどころか80年も100年も前のアジアの盟主への郷愁に取り憑かれた愚かな首相を戴いて、それと一緒にこの板子1枚下は荒波の世界に漂おうとしている。かすかに現実感覚を思い出して一帯一路に秋波を送ったりはしたが、米国がファーウェイ排除を本格化すると、政権ともども直ぐにそれに追随をする。プーチンからは、支配層としての主体性も矜恃も持たないと見透かされて次々と変化球を投げつけられるが、まるで手が出ない。
こんな我が国の安倍政権や資本の勢力も、労働者民衆に対する労働力の再生産さえ許さぬ徹底した搾取強化、身ぐるみを引っぺがす苛斂誅求、止むに止まれぬ抗議の声に対する無法な強権抑圧にだけは一貫した姿勢で励んできた。秘密保護法や共謀罪や戦争法、派遣労働拡大、労基法改悪=過労死促進法の強行採決。外国人労働力の都合の良いときだけの安上がり使い捨てめざす入管難民法、狭まる資本の投資分野を強引に創出せんとする水道法の改悪強行。そして辺野古の新基地建設強行、消費税の10%への増税と憲法の改悪の狙い等々。
もちろん、日本ばかりでなく、世界の各国の支配層も同じようなクズばかりだ。だから、米国ではサンダースやコルテスの闘いが生じた。韓国ではろうそく革命が起きた。そしていまフランスから欧州にかけては黄色いベスト運動が広がりつつある。そして私たち日本の民衆も、彼らと同じ世界に生きている。私たちは、私たちが置かれた立場にふさわしい行動を示さなければならないし、示すことが出来るという事を、実証して見せなければならない。
■(18年12月23日)
今朝は久しぶりにNHKの「日曜討論」を見た。テーマは「景気は、暮らしは、日本経済の先行きを読む」。消費税増税や景気対策や米中摩擦の影響などが議論をされていた。
高橋進、飯田泰之、細川昌彦、矢嶋康次などは、多少の強調点の違いはあるが、いずれも経済成長主義者。日本企業の競争力をどう高めるか、そのために働き方改革が重要だ、税制改革や消費税増税はそのための施策実行に必要だ、米中の対立激化と新冷戦の中を日本はどう生き抜くか等々の議論に終始。
珍しく井手英策が出ていたが、持論の消費税増税必要論を前提にしつつ、“増税で取り上げておいて返すという安易なやり方はダメ、子育て支援や人材育成に充てるべき”程度の主張しか述べられず。消費税増税が、働く者に対しては、労働過程での剰余労働の搾取にさらに加えての追加収奪の強化であること。消費税は逆累進性の税であって経済的弱者をさらに苦しめる税であること。働く者と経済弱者を犠牲にして資本と資本の国家を助ける政策であること。この真実については相変わらず頬被り。井手英策を含めて消費税増税論者は、増税は財政再建や社会保障のために必要だとは言うが、安倍政権下においては軍拡のためにも用いられることについては沈黙。労働政策、社会保障政策、産業政策、外交や軍事は、政権の意思の下に有機的に結びつけられて一体として押し進められているという当たり前のことを語らない。
比較的まともなのは、水野和夫。彼は、少々の意訳が許されれば、“労働生産性の向上が大事などと言うが、それならば労働生産性の概念から言っても、労働時間を短縮するのが筋。欧州では生産性向上などは主張されず、現状の生産性の上でどうやって国民生活を豊かにするかが課題とされている”“景気が良くなっていると言うがそれは資産バブルに過ぎない。資産バブルを増長させる政策はだめ”と、その限りでは正論を述べていた。
多くの論者が、今後の日本経済の行く末は対外要因が大きく影響するなどと、自分の予測が外れてもそれは私のせいではありませんよと予防線を張っていた。しかし今の世界と日本の経済は相互に緊密に結びついているので、どこからどこまでが対外要因で、ここからが国内要因などと線引きは出来なくなっていることの認識こそ肝要。
米国と中国の貿易戦争・経済戦争・ハイテクと軍事における覇権闘争も、英国のブレグジットも、ドイツのメルケルの支持を後退させた移民問題も、フランスから始まった大衆デモも、実は現在の世界経済が置かれた行き詰まりから必然的に生じてきていること。つまりは本当なら水野和夫がその知見を生かしてしっかりと展開すべきだった、資本の利子率・利潤率の低下の傾向、資本が資本として成り立つ条件を失いつつある現実、つまりは資本主義の歴史的な限界の顕現化に根底があるのだということが語られるべき(この点、私の18年10月13日と11月8日のFB投稿でラフ書きしておきました)。
したがって、働く者と市民の努力が集中されるべきは、末期症状を呈しつつあり、放置すれば世界の民衆への未曾有の大災厄をもたらしかねないこの資本の体制、利潤目当ての生産の仕組みからどうやって脱出するかという課題。もちろん、簡単に成し遂げられる事業ではなく、長期にわたる試行錯誤や紆余曲折が避けられない課題であることは間違いない。しかし、現場での地べたを這う日々の努力や模索も、この大きな問題意識と結びつかないと、その意味は半減してしまう。
例え微力であろうとも、私はそういう問題意識で頑張ろうと思う。
■(18年12月3日)
昨日は午後から夕方にかけて平和運動センター関東ブロックの総会に参加。総会の第1部では、安倍政権の下で急速に進む沖縄を始めとする全国の基地強化と軍拡の動き、東海第2原発の再稼働に向けた動きと一体の被害者切り捨て、憲法の改悪に向けた策動などとの闘いの方針を議論し、採択しました。
第2部は、会場となった川崎市でかねてから取り組まれているヘイト団体との闘いの意義について、川崎地方自治研究センターの板橋洋一さんの講演を受けました。タイトルは「ヘイトスピーチに抗する川崎の闘い ヘイトスピーチとの闘いは日本の市民社会を問う」でした。
ヘイト団体は、在日コリアンを始めとする日本社会のマイノリティーに対してあらん限りの差別的言動、彼らに対し危害を加えよという扇動まで含めた、極めておぞましく犯罪的な言動を繰り広げてきました。こうしたヘイト集団の蛮行に対して、川崎では在日コリアンや地域の住民、労働者・市民が連帯して闘いを起こし、ヘイトを封じ込める活動を力強く展開してきています。そうしたことが可能となったのも、川崎の地でコリアン、市民、労働者たちが長い年月をかけて作り上げてきた共生の実績が大きな力となっていること、それが保守からリベラル・革新まで含めた反ヘイトでの連携を生んでいることがよく理解できる講演でした。また、ヘイト集団に取り込まれている若者の心の鬱屈、空虚さ、閉塞感、それを社会問題として捉える必要、この問題の解決策を模索して行くことが重要だとの指摘も、大いに納得できるものでした。
流山でもこれまで3度ほど、ヘイト活動家による平和団体の活動への嫌がらせが発生し、私ものその場に居合わせたことがあります。最近では外国人観光客で賑わい、外食店や土産物店などで外国人の労働者が多く働く浅草の街でもヘイトデモが繰り広げられるようになっています。浅草でヘイトデモを行うなどは、自ら墓穴を掘っているようなものですが、私たちもその墓穴をさらに大きく深く掘るお手伝いをしたいと思います。
■(18年11月25日)
2025年の万博開催地が日本の大阪に決まったということで、世論の一部が沸き立っている。これで大阪の経済も、日本の経済も活気づくに違いないと。
そんなことはあり得ない。あり得るのは、経済の活性化どころか、うまくいって一時的な空景気の演出か、悪くすればそれすらの失敗。
経済界や政府の思惑は、2020年のオリンピック・パラリンピックバブル後の経済の大規模な落ち込みを万博バブルで回避しようということ。しかし、今日すでに趨勢となってしまっている企業の利潤率の低下、新たな投資をしようにも企業として成り立つだけの利潤を得られなりつつある、資本主義にとっての致命的な壁は、万博のような土木建築への国や自治体の財政投入では回避できない。
土木建築だけではない、大阪万博ではAIやVRや自動運転等々ハイテクノロジーの分野にも梃子入れするのだと言っても、大した違いはないどころか、過剰資本、過剰投資、資本の利潤圧迫縮小にさらに拍車をかけるだけ。そして、日本の経済が例え万博まで破綻を回避し持ちこたえたとしても、その後に大規模で深く深刻な経済の落ち込みが必ず控えている。
ジャレド・ダイアモンドが、資本主義に必然な短期視野、隣人に対する無関心と冷淡、私的利益と利潤優先等々の文化の下では人類文明は2050年までしか保たないと悲嘆している中で、2025年の万博に有頂天になっている、この危機感の大欠如、問題意識の大喪失はどうだ。
私たちは、ジャレド・ダイアモンドとは違って、資本主義の経済システムとそれに必然な文明崩壊の要素を、働く人々と市民によるこのシステムに対する闘い、対抗社会の形成の取組によって克服しなければならないと決意し、克服し得ると確信している。
大阪万博というチャチなバブル、大した演目もない薄っぺらなサーカスに浮かれている場合じゃない。生活と労働の足元から、闘いを準備していこう。
■(18年11月8日)
米国の中間選挙は、上院はトランプの共和党が多数を維持、下院は民主党が勝利。これを米国民のバランス感覚の証左と評する者もいるが、バランス感覚云々はあまりに平板な見方だ。
トランプの掲げる「自国第1」「アメリカファースト」は、利潤率の低下に苦悩する先進諸国の資本が、どうやってその利潤を回復させるかという課題についての、彼なりの満を持しての回答だ。
資本間の競争を地球大に拡大するグローバリゼイションを進めても、その国際競争の主戦場を製造業はダメだと割り切ってIT産業に移してみても、金融部門に移してみても、規制緩和・破壊を徹底してみても、芳しい成果は得られなかった。グローバリゼイションは自国の資本をも痛めつけた。産業規制緩和で公的部門を新たに資本進出の場に組み込んだが、もともと資本としては利潤を上げられない部門だったからこそ行政に委ねていた領域だから、労働者に徹底した低賃金、低処遇を押しつけたとしても大した利潤は得られなかった。それに倣って全産業分野で労働規制緩和を進め、労働者への搾取を徹底しても、利潤は思うように回復していない。信用を野放図に膨張させ、マネーゲームにいそしんでは見たものの、リーマンショックを生じさせ、今またそれをはるかに凌駕する金融危機の招来に怯えなければならない事態となった。だったらいっそ保護主義だ、競合する先進諸国に対する、とりわけ最大のライバルとなりつつある中国に貿易戦争・為替戦争を仕掛けて自国資本の利益を図る以外に無い。
この、トランプなりの回答に対して、明確な対案を示せない限り、トランプに対する本当の勝利はあり得ない。下院で多数議席を得た米国の民主党に、その対案はあるか。米民主党内の古い翼にはその戦略、政策やアイデアはない。米民主党の中で台頭しつつある新しい翼、サンダースやコルテスなどの民主社会主義勢力はどうか。この勢力も、民主党主流派と同じく、保護主義政策や対中国の強硬姿勢ではトランプの共和党と大きな違いはなさそうだ。しかしこの新勢力は、主流派よりはるかに、人権、民主主義、多様性、再分配の強化、働く人々と民衆の要求の擁護に熱心ではある。
米民主党の中の新勢力が、米国社会内の民衆、働く人々の立場にさらに明確に、深く根を下ろし、その地点から社会政策、経済政策、外交政策の全般においてオルタナティブを提起する方向に進み得るなら、トランプの共和党に勝利する可能性が生まれるかもしれない。
資本の世界は、利潤率の低下の趨勢に苦しみ、それを資本のグローバリゼイション、経済のハイテク化・ICT化や、徹底した規制緩和と規制破壊、信用膨張・金融化・マネーゲームへの狂奔によっても克服できないどん詰まりの状況に陥りつつある。トランプが矢も楯もたまらず手を染めた保護主義、貿易戦争も、事態をさらに悪化させるばかりか、米国と中国という現代世界の2大パワー間の総力戦の不気味さを呈し始めている。
資本はより大なる利潤の獲得を本性とするが、新たな投資を行っても資本として成り立つだけの利潤を得られなくなって久しい。自らが生んだ矛盾を自らの手では解決し得なくなった現代資本主義、その根底が利潤動機の生産のシステムにあるのだとすれば、それを克服する方途を探り、示してみせる以外に道は無い。
その鍵は、働く人々自身よる下からの変革の取組みに存する。何よりも労働と生産の現場、それを土台とする経済システム全体、それと親和し結びついた社会関係、それらを保守し固定化させようと強権を振るう政治のあり方に対し、下からの、働く人々と市民の協力と協働の力をもって利潤動機の経済社会を乗り越える闘いが求められている。米国民主党の民主社会主義勢力に求められているのは、そうした闘いに勇気を持って乗り出すこと。彼らは、そのために歴史の舞台の登場したのだということを、自らの運動の変革と強化を通して示す必要がある。
だから、最初に戻るが、米国中間選挙が示したものは、米国市民の「バランス感覚の発揮」などという薄っぺらな話しではなく、現代社会、現代資本主義が逢着した危機的状況をどう突破していくかという課題での、資本と労働の厳しいせめぎ合い、その重要な一局面だという事。働く人々を中核とする民衆は、この闘いに勝利するしかない。それが出来ないならば、今や激化するばかりで本当の戦争さえ招き寄せかねない貿易戦争、労働力の再生産さえ不可能にさせるほどの労働者への徹底した搾取強化等々で、社会と人類全体を奈落に引きずり込もうとする資本の勢力と心中する以外に無いことを知るべき。
もとより、その事が問われているのは米国の労働者民衆だけでなく、日本の私たちもまったく同じだ。米国の教訓を我がこととして受けとめ、米国や世界の働く仲間・民衆とともに、この腐りつつある資本の世界を変革を目指そう。この闘いは、事の性格上、長期にわたる、紆余曲折が予想される、堅固な意思と根気と、それを支えるしっかりとした見通しが求められる闘いとなる。しかし一歩一歩、着実に、闘いの中から学び、陣地を固め広げながら、資本が支配する社会の根底からの変革を目指して活動に取り組もう。
(2015年12月27日)
■「力には力を」はえせリアリズム
「敵は国内にいる」――中国脅威論に対して日中の民衆の連帯を対置しよう
戦争法反対の駅頭活動をしていると、「中国はどうする?」と聞いてくる人がいる。戦争法を採決されてしまった根本原因は、結局はここにある。安倍晋三の最大の拠り所は、彼自身が意識的に煽ってきた中国脅威論だ。
中国脅威論の本質は、「力には力を」の論理だ。中国の強大化と軍拡推進は事実である。しかしその軍拡の動機は、先発の経済軍事大国である米国そして日本に対抗して、新興の大国としての権益を追求し拡大しようというものであり、日本や米国は紳士的で中国が乱暴者というわけではない。中国は遅れて国民経済発展を成し遂げ、ようやく日本を追い越し、米国にも迫ろうという段階まできたのだが、既得権益を守ろうとする米国や日本が牽制を加えている構図だ。日本の支配層の中でも安倍晋三はとりわけ、中国への対抗心が旺盛で、劣等感とも優越意識ともつかぬ立場から、反中国の政策を推し進めてきた。中国の経済軍事大国としてのめざましい台頭に対して、日本自身も更なる軍拡を、米国との軍事同盟の強化を、そして戦争が出来る国内体制づくりを、と突っ走っている。
この悪循環にどう対抗し、この構図をどう崩していくべ...きなのか。戦争法を使わせず、廃止に追い込んでいくための市民の闘いは、このことへの答えを持たない限りとうてい勝ち目は無い。
「力には力を」の論理の背景には、利権や権益をめぐる争いがある。資源や商品市場や金融覇権、そして何よりも民衆への支配力を、どの国の支配層が手中に収めるかという利害争奪があり、それを確実なものにするため外交覇権、軍事覇権が追求されている。かつてなら列強の独占資本による市場分割・再分割・ブロック化の闘争をいうことだが、現在はかつてとは比較にならないほど高度に発展した生産力の故に、世界市場をどの国の支配層が一手におさめるか、ないしは主導しつつ牛耳るかの争いとなっている。中国は米国に対して、太平洋を、そして世界を中・米の2国で別け合おう、分割支配しようと持ちかけているが、米国支配層は「10年(30年)早いわ!」と拒絶し、米国の専一支配にこだわり、日本などを従えてそれを追求している。そこから、中・日・米の間の外交上、軍事上のあらゆる問題が発生している。
では、「力には力を」ではない、他の解決法はあるのか。それは、ある。あるだけでなく、これこそが、「力には力を」のえせリアリズムに対する本当のリアリズムに立った方途だ。
それは第1に、日本や米国や中国のそれぞれの国内において、働く者や市民が政治への影響力を強め、自国の覇権主義的外交・軍拡政策を押さえつけ、発動させない力を大きく形成していくことだ。それぞれの国の民衆が、敵は海の向こうではなく「国内にいる」ことをしっかりと理解して、自国の支配層に対する牽制力と規制力を高めていくことだ。この闘いは、当然に諸国のとりわけ日本と中国の民衆の連帯と共同の追求、そしてそれに基づく闘いにならざるを得ない。日中の民衆は相互の連帯を切実に求めており、その試みはすでに開始されている。
第2には、それぞれの国の民衆が、それぞれの国の社会経済の仕組みを変えていく闘いを発展させることだ。それは、各国において、利潤のための経済活動と、その活動を後押ししている既成政治を後退させ、人々の福祉と生活の向上のための新たな経済活動と、それを創りだしていくための新しい政治の力を発展させていくことだ。これは、中長期の展望に立つ闘いだが、しかしこれがあればこそ、当面の、目の前の闘いの意味も正しく理解され、背骨の入った力強いものとなり得る。
こうした闘いの前進が実現されないならば、この利潤動機の経済システムはますます矛盾と混乱を深め、人々に対する災厄の大きな震源となっていかざるを得ない。資本の強欲は、格差と貧困を耐えがたいまでに深刻化させ、利権や権益をめぐる争いは破壊と殺戮を繰り返し発生させ、自然環境の破壊は不可逆的な段階にまで達しようとしている。これらは、ヒトが本来持って生まれた、社会の一員として調和と友好を愛し、人の役に立つことを尊び、自然の懐に抱かれることで健康に過ごし、その中でこそ幸福を感じるという本性と端的に対立するものだ。この対立の程度が、かくも著しく高まり、飽和点に達してしまった以上、私たちは社会変革の闘いを前進させることに、生き残りの道を求めるというリアリズムに立つしかない。
(2015年11月29日)
■深刻化する子どもの貧困
貧困の温床=雇用の劣化を生み出す大企業の貪欲に反撃を
子どもの貧困の問題が、メディアでも頻繁に取り上げられるようになった。日本の子どもの貧困率は 16・3%で6人に1人。OECD・経済協力開発機構加盟国の35カ国中で悪い方から9番目。中でも1人親世帯の貧困率は54・6%に達し、OECD中で最悪だ。しかも日本の貧困ラインは年々下がり、2012年で年収122万円。日本の貧困の深刻さを示すこれらの数字は、多くの人々の意識にものぼるほどになった。..
こうした数字の背後には、学用品など学校生活に必要なものを買えない子ども、病気になっても病院にかかれない子ども、それどころか日々の食事にも事欠く生身の子どもたちの窮状が存在する。そうした子どもたちは、学校から疎外され、地域の中でも孤立し、さらに崩壊する家庭の中でどこにも行き場のない状況に追い込まれ、中には虐待などで本当に命を失う子どもたちも多数発生するようになってしまった。
貧困に捕らえられた子どもたちは昔からいた。しかしその貧困率の上昇が顕著に見られるようになったのは、日本で新自由主義と呼ばれる政治経済潮流が力を持ち始めた1980年代からだ。そして今では、日本は先進資本主義諸国の中でも最悪の貧困国のひとつになってしまった。つまり、中曽根政権、小泉政権、二次にわたる安倍政権という露骨な資本家的政権の下で、日本の子どもたちは、衣食住という人として最低限の欲求さえ満たせないような劣悪な状況の下に追いやられようとしているのだ。
新自由主義とは、言うまでもなく、経済のあり方を市場の論理、むき出しの資本の論理の下に差し出せという要求だ。社会保障は、資本の最大限利潤の追求の犠牲に供せよ。社会福祉は企業の利潤追求活動にとって邪魔にならない程度に切り縮めよ。労働者の生活は労働力再生産のために必要な最低限ぎりぎりにまで引き下げよ。
更に、資本のグローバル競争に勝ち抜けとのかけ声がかまびすしい。資本にとって、商品を売り込む市場を主に海外で確保することが可能なのであれば、自国の労働者に商品を買ってもらう必要は無い。資本の生産活動に必要な労働力が主に海外で調達可能であれば、国内の労働力は再生産の面倒を見る必要は薄れる。だから労働者にまともな家庭は必要ない、路上の片隅があれば良い、ということにさえなってしまう。資本のこうした要求が、派遣労働を拡大し、無権利と低賃金の労働者を大量に発生させてきた。事実、多くの若者は家庭を築くことが出来ず、既婚世帯も崩壊に危機にさらされ、最も不利な立場に置かれた人々は実際に路上に掃き出されている。
資本主義の成熟と爛熟は、資本の利潤率の低下を必然的にもたらす(水野和夫はこの事実を下手くそなやり方ながら改めて実証的に示した)。かつての英国病、欧州諸国の経済停滞、日本の低成長はその現れだ。やがては中国もその後を追うだろう。資本は、利潤率の低下を、金融術策・マネーゲームで挽回しようとしたがそれで実体経済自体が回復することはあり得ない。そして他国から金融収奪するばかりか、株や債権への投資をそそのかして国内の小金持ちからも収奪することで、富の格差を更に拡大した。更には、為替や株価の乱高下、バブルとその破裂など、経済に極端な波乱を生み出し、格差の拡大を更に深めた。
マネーゲームだけでは足らないと、これまで資本が避けてきた公共政策の分野にまで、規制緩和・民間活力導入を叫んで割り込んできた。しかし元々利潤を期待できないからこそ資本は手を出さず、政府にゆだねてきた領域だから、うまく行くはずがない。そしてそこでも、資本として成り立つだけの利潤を上げるためには、働く者へのさらなる徹底した搾取に走らざるを得ず、事実、公共サービスの委託、介護や保育等々の分野では、食えない、暮らせない賃金の押しつけがまかり通ることになってしまった。
無権利で低賃金の派遣労働の一層の拡大、労基法の改悪や解雇規制の緩和などの働く者に過酷な現在の雇用政策は、まさにそうした資本の要求の顕現だ。そしてこうした雇用政策、その背後にある労働者に対する資本の歯止め無い搾取欲こそ、格差と貧困の拡大を深刻化させ、最も弱い立場に置かれる子どもたちに、衣食住にさえ事欠く状況を強いている元凶だ。
安倍晋三が唱える「一億総活躍社会」などはデマゴギーとインチキの最たるものだ。来年夏の国政選挙で票を掠めようというペテンに過ぎない。私たちは、子どもたちの健康と命を守るためにも、そしてその未来を保障するためにも、資本の貪欲な搾取を跳ね返し、資本との真剣な闘いに挑まなければならない。