6・26福島ハンカチパレード参加の報告
はじめに―――6・23福島集会
6.26の「福島一万人ハンカチパレード」が「ハイロ(廃炉)アクション」「子供たちを放射能から守る福島ネットワーク」などを中心とする実行委員会によって呼びかけられました。
この日は、10時から「生活村」開設(12時半開会式)、午後1時半から県庁前で集会―デモというスケジュールでした。
当日、私は、11時頃福島駅に到着し、駅の近くのビル4Fに開設された「生活村」を見て、その後、県庁前集会―デモに参加しました。
その後、これも開設されたばかりという「情報センター」の打ち上げ会で、現地の話や主催者の意見など聞きながら交流することができました。
福島原発事故収束の見通しが立たない中、政府が隠蔽してきた震災直後の放射能飛散状況などが次々と露呈すると共に、関東の広い地域に及ぶ「ホットスポット」も多く見つかり始めています。
避難区域(半径20K、30K)外部の飯館村などが計画的避難区域に指定されましたが、今や、福島市が、それに次ぐような高い線量を示しています。県内約30万の児童・生徒の少なくないものが、高い線量の学校に(半ば無理やり)通わされ、地産の原乳はじめ高線量が疑われる給食を(避けられずに)採らされています。
4月19日に、学校は年20mシーベルトまで、という途方もない基準を通告した政府・文科省は、5月28日になって、ようやく、1mシーベルトを目指すと表明し、それを上回る土壌除染などに国の費用を支出することを認めました。しかし、20mシーベルトまで安全という基準を公式に撤回したわけではありません。
飯館村外部に見つかった伊達市などの高線量地域に対しては、政府は、各家毎に調査し、高い場合に避難を勧奨する、という避難区域拡大をようやく打ち出しました。
この各家毎というのは、(ともかく、政府責任の避難者を少しでも減らすためとはいえ)驚いた方策です。今、線量が低くとも、隣家土壌の線量が高ければ、風で舞い上がり吸い込まれて内部被曝を生む危険性(というより必然性に近い)は充分あり、他の地域が汚染されて行く可能性も充分あります。なにより、福島原発は、今だ周囲に放射性物質をまき散らしているのです。
生徒を避難させるという動きはまったく見られません。生徒の基準を20mシーベルトにするという動機が、なにより佐藤雄平県政によって、安全を演出することで「県内産業への風評被害をさける」ところにあったことが、(私は前に推測を含めて書いたのですが)この間、より具体的に明らかになりました(といって、それを受け入れた菅政権も同罪です)。
20mシーベルトは安全と言い回ってきた県のアドバイザー山下俊一は、放射線をおそれる親を「利己的」などと罵倒するにいたり、挑戦的な姿勢をむき出しにしていますが、100mシーベルトまで大丈夫と言って回っているその山下俊一が、実は、二年前、医学界雑誌に、「18歳未満は、10m―100mの間は危険」という論文を発表していたことが発覚しました。この連中は、金のためか人体実験のためか、自分も信用していない「安全」を吹いて回ってきたのです。
こうした情勢の中にあって、福島市で、国、県の住民を被曝に晒す政策を批判し、脱原発を求める集会が呼びかけられ、全国にも伝えられました。
上のような情勢下、現地のただ中で、全国にも呼びかけられて行われる集会として、6・23は特別の重要性をもつものと思いました。そのため、この集会に参加して現地の活動を応援すると共に、また、現地の様子を少しでもつかみたいと思ったことが、この福島のイベントに参加した動機です。
(1)前日
台風接近もあり、2,3日前から、26日当日、福島は雨になりそうとの予報が出ていました。
こうして前日、主催の中心団体であるハイロ(廃炉)アクションは、「福島から声をあげるべく、立ち上がりましょう。 雨天決行ですが、明日の予報は弱雨のようです。放射線量の高い地域でもありますので、防護対策を各自しっかりとお願いいたします。お子さん連れ、若い方の参加はご遠慮ください」と呼びかけを出しています。
特に福島の人たちは、すでに被曝量が蓄積しているので、(本来、この行動の中心になるべき)「お子さん連れ、若い方」の参加を控える指示は当然の賢明な処置です。とはいえ、このような指示が出ることに、このイベント、デモ―――放射線問題の特異な性格が実感されました。
(2)福島駅
当日、私が行動した範囲は、〈福島駅―生活村(アオウゼ・MAXふくしま4階)―県庁(県庁に戻るデモ)―「情報センター」―福島駅〉という範囲(どこも駅から15分くらいの範囲内)です。
午前11時頃到着した福島駅には、駅の通路に「頑張ろう福島」「頑張ろう東北」というメッセージボードコーナーがありました。また、駅前では、4人の女性(3人が学生)が震災募金活動を行っていました。このことは後で書きます。
駅や、その周辺に、一見したところ、特に変わった空気は感じられない様子です。
人ではかなり少なく感じましたが、3・11前を知らないので比較できません。この日は、比較を聞き忘れました。
(3)生活村
生活村は、駅から10分ほどのビルの4Fの一室(教室3、4個分くらいの広さ?)で、なかに多くのコーナー、ブースがあります。
部家内外の壁には、5・23の対文科省交渉の記事を始め、関連する記事を拡大したものや、県内の各地の食材の線量を書いた表をはじめ、放射線、原発にかかわる情報、医学的情報などが貼られていて、熱心に写し取っている人が幾人も居ました。
また、それを説明するコーナーなどもいろいろ出ています。
小さい子ども連れがかなり多く、部家の一画や外のロビーの「託児コーナー」でもかなりの子供をあずかっていました。
後で聞いた話しでは、生活村の一画で、京大助教の小出氏の講演か討論のビデオ放映を行い、これも人が集まり評判が良かったと聞きました。小出氏は「京大熊取6人衆」と言われる中の1人で、原子力利用の危険性を正当に指摘したこの人たちは、定年や定年間際まで、教授、助教授にもなれず、徹底して「干されて」いました。「助教」とは助手のことです。小出氏は、書籍やネットで、原発問題を考える人たちに圧倒的に支持されてる1人です。
人は相当ごった返していて子供連れも多く目に付きました。
(4)線量測定
今回、私は単独で来ましたが、東京から「9条改憲阻止の会」メンバーが30人ほど来ていて、生活村でばったり会いました。他に、フリーター労組や各地の反原発団体なども参加していました。
生活村から県庁前に移動する途中で、その1人が持ってきた線量計で歩道の地上近くを測ったところ、3,3μシーベルト/時を示しました。
昨日から、南相馬市などいろいろなところを測ったそうですが、その中で最高値を示したと言っていました。
1mシーベルト/年から20mシーベルト/年への引き上げが問題になりましたが、このとき、文科省は、20mシーベルト/年に、3、8μシーベルト/時が相当するとしています。
これは、勝手な換算で、3、8μを24時間と365日をかければ、20mをはるかに越すのですが、外に出ている時間を8時間とするなど、手前勝手な条件を入れて数を緩く(高く)はじき出しているのです。しかし、そのような操作して、高い値にした3、8μシーベルト/時にさえ近い値が、福島市中の繁華街の歩道で出たことになります。
3,3μを単純年換算すると丁度30mシーベルト/年になります。とんでもない線量です。
この測定一つでも、福島市内のおそらく多くの場所が、基本である限度量1ミリシーベルト/年をはるかにこえ、チェルノブイリでの避難義務の線量5ミリも上回っていることが推測されました。
(線量計を持ってないので、この測定に立ち会えたのはありがたいことでした。この携帯型測定器は22万円だそうです)
(5)県庁前集会―デモ
集会は、県庁建物前の県庁敷地内で行われました。
前述のように、子供連れと若者の参加遠慮を呼びかけており、生活村に多く来ていた子供連れの人たちも来ていません。晴れていれば、県内から、さらに多くの参加があったと思われます。
参加は主催者発表千名で、「一万人」には少しとどきませんでした(^^)。
発言概略を紹介します。
・主催者挨拶 佐々木慶子
この原発事故の責任はどこにあるのか。
昨年から、プルサーマル反対、福島を第二のチェルノブイリにするな、核のゴミ捨て場にするな、をかかげて県庁前で訴えを続けてきた。
しかし、事故を防げなかった。
全世界に放射能をまき散らし、県民として申し訳ない。
子供の健康も明るい未来も奪った。
福島県知事こそ、世界、子供に謝って欲しい。
全てを廃炉に
福島の子供を避難させよ
自然エネルギーへの転換を。
・脱原発福島ネットワーク 武藤類子
25年前のチェルノブイリ事故以来、原発に反対してきたが力及ばずこのような事故を起こした。
福島第一原発が40年経った。
それを契機にハイロ(廃炉)アクションを計画した。
第一原発一号炉建設40年の今年3月26日から来年3月26日までを行動期間として、3月26日にイベントを計画していたが、その前に3・11がきた。
文科省も県も人の命を守ろうとしない。その罪は重い。
原発は、人々の無関心の上に建てられてきた。
原発は、事故を起こさなくとも、ウラン採掘者、燃料など輸送業者、原発労働者他の被曝なしには成り立たない。原発は、人の犠牲の上に成り立っている。
日常、何気なく使う電気のコンセントの向こう側のこうした犠牲に思いを馳せる必要がある。
誰かに従うのではなく、自分で考え行動しよう。緩やかにつながり助け合おう。
・放射能から子供たちを守る福島ネットワーク 佐藤幸子
福島は世界に名を馳せた。原発事故を起こした福島として有名になってしまった。
子どもをここに居させてはいけない。
しかし、国は聞こうとしない。
こうした国には子どもをおけないとさえ思う。
1人でも多く子どもを遠くに逃がしたい。
それでも職場のある人、お年寄りなど残らざるをえない人も出てくる。内部被ばくの検査が必要。
避難した子は友達に会いたがっている。厳しい状況に置かれている。
・福島の老朽原発を考える会 青木
今、このとき、佐藤雄平知事もいる県庁前で声を上げる意味は大きい。
声を上げなければ、国も県も動かない。
国は、20mしーべるとをはっきり撤回したわけではない。
6月30日に、トップが菅である原子力災害対策本部に対して、交渉で、さらに追及したい。避難、調査など、国に認めさせなければならないことが多くある。
・福島在住の韓国人 チョン・ヒョンシル
25年前日本に来て、福島に10年前に来た。
NPOの福韓ネットをやっている。
韓国から帰国を要請してきた。しかし、その中で福島に残った。
韓国の親戚からは毎日電話が来る。
自分は福島に止まって福島の実状を伝えて行きたい。
・浪江町住民 佐藤健太
原発から16Kmのところで酪農をやっていた。300の和牛を飼っている。
週一回、入って世話をしている。
国、県から殺処分するよういわれているが、到底出来ない。
牛を生かし続けたい。
被曝した牛を研究する材料にして、後世に伝えたい。
(注・半径20Km内の「警戒区域」内は、順次の「一時帰宅」以外、中に入れないはずですが、16Kmというのが私の聞き違いでなければ、家畜をもつ人の一部が、定期的に入ることは出来るということかも知れません。浪江町は、ほとんどが、20Km内と20Km〜30Km内に入っています)
・丸木美術館 小野寺
原爆の問題を訴えてきた丸木夫妻は、今、生きていれば、ここに来ていたに違いない。 そう思って、20年前に、丸木さんが書いた横断幕を持って参加した。
IAEAに重松という者が居て、チェルノブイリ事故のとき、わざわざ健康診断は必要なしと結論を出し、多くの子どもがガンで死んでゆく要因になった。
重松の弟子が長瀧で、その弟子が山下俊一である。
子弟揃って、子どもを死に追いやっている。
山下の根源に重松が居る。
・同日の京都の行動とのアピール交換。
(以上、雨中のメモなので、とりわけ不正確部分が多い可能性があり、私の文責で書きました)
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集会中、雨がやや強くなってきたようです。
3時頃、デモ出発。
県庁前から福島駅周辺を通って県庁前に戻るコースでした。
約3kmということで、1時間少しかかっています。
沿道の人通りは多くありませんが、これは、福島市内で雨中のためと思われます。
(レインコート準備など「防護対策」は充分していったのですが、現地では、最初は雨も弱く、かなり蒸し暑かったので着ないでしまいました。メモを取るときとデモ中も、かなり濡れました。蒸し暑いときのレインコートはかなり大変で、警戒区域への一時帰宅者にとって防護服が大変な負担であることが実感できます)
(6)「情報センター」
集会後、「情報センター」というところで、この日の集会や生活村を主催した人たちを始め福島で活動している人たちの話しを聞くことが出来ました。
「情報センター」は駅から10〜15分くらいのところで、小さい雑居ビルの3Fの一室です。線量の測定、情報収集などを目的に、開設したばかりということで、本格的な(携帯よりは大きい)線量測定器が一台あります。この日は、持ち込んだサクランボ二箱ほど(店で売っているような大きさの箱です)分をすりつぶして測定を始めていました。残念ながら、私は測定中に時間切れになって、結果を見るまでは出来なかったのですが。
―――福島で、被曝と闘う人たちが、「生活村」「情報センター」といった人々の集まる場、情報提供の拠点などを持つところまでこぎつけています。
現地で聞きたいことは山ほどありますが、特定のデータ、具体的な政治・組織情報といったものよりも、なにより、高い放射線量という未踏の状況下の生活、経験などの感触に少しでも触れたいと思っていました。
そのため、主に、いろいろな人と雑談風に話したので、具体的な報告が難しいものも多いのですが、私にとっては非常に有意義で、これだけでも参加した意義は多大でした。
断片的になりますが、幾つかを報告します。
聞いた内容は、避難状況、学校との対応、自主避難をめぐる問題、山下俊一をめぐる問題、パン屋経営での問題、この日開設した「生活村」の展望、その他、生活や県内の様子など諸々です。
震災直後の避難をめぐる混乱は凄まじいものだったようです。
政府・県からは情報が入らない一方、独、仏など国外から放射能飛散状況の情報が入り、それが伝達され、早く避難した人もいるけれども、多くは、何も知らず、避難出発も遅れ、その上、放射能が降り注いだ北西部に向けて逃げることになりました(この後半部分は、最近、ようやく暴かれ始めています)。
この3月26日から一年間「ハイロ(廃炉)アクション年」が設定されていて、3月26日には、避難についての啓発や情報提供なども計画していたということでした。しかし、事故の方が早くやってきました。
この間、原発の危険を主張してきた人たちは、避難準備も整えてきたので、避難の際の服装、動き方など、的確に対応できたが、大半の人は、そうした知識もなく、避難も遅れ、多く被曝することになったということです。
各国の対応は早く、仏は1000Kmまで西に逃げるよう指示していた、1000Kだと九州くらいまでかかる。中国は、バス十数台をしたてて新潟に逃げた、など、外国の対応は際だっていたということでした。
学校については、娘を関西に避難させていた人のところに、始業式を行うので福島に戻るよう連絡が入り、おかしいのではないかと電話で話したところ「上からの指示なので、従って貰うしかない」の一点張りであった、といった話を聞きました。
学校では、放射線の話はまっくでず、各家庭でも「フリーズ」状態なので、まわりに避難する生徒が出ると、それによって、他の生徒もはじめて問題を知る、といった状況が多いといっていました。
(私が見た情報では、福島県約30万の生徒中、1万ほどが避難しているとなっていたことを聞いたところ)それは、避難区域・緊急時避難準備区域(半径30Km)内も入っている数だと思う。少し前で、郡山では400人、福島市では250人くらい。その後も毎日、避難する生徒が少しずつあるので、さらに増えていると思う。
ホットスポットの学校では、3分の1が避難したところもある。しかし、多くの学校では、避難者は、未だ、点々といる程度である。
………こんな感じでした。
ホットスポットでは、多くの生徒が避難しているのは(こんなところでもほとんどが避難しないでいるのではなく)良いことだと思う反面、それでも、半数以上がホットスポットに通いながら避難できない状態です。むしろ、多くの生徒が避難した後に、避難できずに残される人たちの思いはどんなかとも思います。生徒が避難組と残留組に引き裂かれているのは、これはこれで、なんとも痛ましいことです。
(教師などは?)自分の子供がいる教師も多くいる。しかし、ほとんどの教師が、上からの指示にしばられて声を上げられない。反発した教師などは辞めていったが数は少ない。教育委員会にも子供を避難させている者が多くいる。
(福島市内などのホットスポットは、震災直後に出来たものが多いのか、どの程度固定しているのかについて)
基本は、震災直後に大量の放射能が降り注いだことによる。ホットスポットは、おおよそは固定している。しかし、そこから土壌が舞い上がって別のところに降り注いだり、福島原発が今も出している放射能があるので、今後も固定した状態が続くとは言えない。
(自主避難は、政府・東電の責任逃れで、原発事故による避難なのに補償なしというのはあまりにひどい話と思うが現地ではどう受け止めているのか)
当然、補償すべきことだ。補償しないなら、避難した後でも、集団で訴訟することなど考えている。そのため、避難する人たちには、かかった経費の記載やできるだけ領収書をとって保存することなどを徹底するよう呼びかけている。
(パン屋をやっている人に。放射能汚染の中で食品をあつかうなかでのことを聞かせて欲しい)
原乳があぶないので、原乳を使う製品はすべて止めた。ケーキなど。
今後は水が心配になってくる。パンの製造に多くの水を使うので、安全な水を確保しなければならない。
(原乳をつかう製品をすべてやめたら、収入にひびかないか)
3・11前とまったく変わってしまったが、それ以前と同じにはならないと、その状態を受け入れている。3・11前と同じではないということを自分で確認し続けたいような気持ちもある。
まわりには、3・11や原発事故以降も変わっていないと思いこみたがっている人も多くいる。そのような人たちは、線量調査などにも反発する。事実を見たがらない。
(買いに来る客が製品に不安を持つことなどは)
うちでは安全なものしか使わないと信頼を得ているので、そのことで変化はない。
(他のパン屋、商店などは)
店を閉じたところもある。しかし、以前通りのところも多い。
「情報センター」の担当者から。
県が、市、町とJAに計測器を配ると言っていた。ここにあるものより一つ上級の機種だ、と報告。
「JAにも配るの」「それでは、こちらも、いろいろ、何々JAをつくってゆこう」
などと発言。
他に、山下俊一をめぐる話、山下は、間違いなく5月23日の対文科省交渉の場にいたという話などが飛び交いました。
私は、8時過ぎに辞去。
集まりは、出たり入ったりしながら、途中、今日は誰かの誕生日だからなどと、ケーキが持ち込まれてローソクを吹き消してケーキを配ったり、今や福島は(毒物の蔓延した)「風の谷」になっているが、「風の谷のナウシカ」の封切りは3月11日だった、我々は「風の谷」で行こうなどと賑やかにやっていて、深刻な中でも明るい空気でした。
私はすべて初対面ですが、抵抗なく、非常に気持ちよく話して過ごせました。
(7)駅前募金活動
なお、福島では、脱原発集会に来ないような人の考え、感触などにも触れたいと思ってはいたのですが、日帰りでは、イベント関係者以外の話しを聞く機会を得ることはまず不可能と思っていました。しかし、福島駅を出て、一度生活村に着いてからですが、駅前で震災の募金をしていた人たちが居たことを思いだしました。これが唯一の機会だろうと思って、10分ほどの距離ですが、一度駅までとって返しました。
駅前の、かなり閑散としたところで、女性四人で募金活動を行っています。
カンパをした上で、「東京から反原発イベントに来たけれども、原発についてどのように感じているのか出来れば聞かせて欲しい。現地では複雑な思いもあって話しにくいかも知れないので、無理ならばよいのだけれど」などと、できるだけやわらかく(ただし、正体を隠すなどウソは付かずに)言ったところ、「話せないとうことなどありません」といったのですが、その後、譲り合ってなかなか話が出てきません。あまり追及しても気の毒だし、大体目的は達したので、そこで止めました。
離れ際に、チラシ(といっても数センチ四方に点みたいな文字で書いてある代物ですが)を渡されたので、後で読んでみると、この募金活動は、福島県の学生を中心とする団体で、震災に直面して何か出来ることがないかと募金活動を始めた、といったことなどが書いてあります。その経緯など、少し長い文があるのですが、にもかかわらず、その中に原発、放射線のことは一言も出てきません。福島のただ中での、おそらく自発的な被災者支援活動でありながら、原発、放射能問題にまったく触れずに募金活動を行っている団体があることに、福島の一断面がでているように思いました。
(そのような人たちの原発についての考えを聞くことが出来ればければ、更にいろいろな面がつかめたはずです。今日の反原発集会に来た者であることを明かしてしまうと、聞き出しにくくなるという予感はあったのですが、聞かれれば答えなければならないし、率直に言わないで聞きだそうとすることなどをやると、現地の反原発運動への不信拡大など悪影響もわずかながら考えられるし、なにより、隠蔽や小手先の策を弄することは最大避けるべきだと思っているので、当初から立場を明かして話すことを決めて接しました。予感通りの結果にはなったのですが、これはこれで良かったと思います)
(8)最後に
福島現地では、子供連れや若者に参加を控えるよう促す集会に、東京はじめ各地からかなりの参加があったようです。そうしたなかの1人として、被曝と闘う福島現地を少しでも応援することになったのではないかと思い、参加して良かったと思いました。
現地では、被曝の危険を感じる人たちが、思った以上に孤立していて、そうした人たちが少ない情報しか得られていない現状にあるようです。
未だネットを使っていない人や、もしかすると、個人としては自由には使いにくい人なども多くいるのかも知れません。
放射能問題は「ないこと」にしたいという姿勢で生活している人が非常に多いことも、改めて感じさせられました。
「生活村」で、多くの人が、はりだしてある情報を移したり、ネットでは配信されている小出氏の話に聞き入ったりなどしていました。
「生活村」や「情報センター」などをつくり出して、福島の被曝との闘いは、「これから」が次の段階に進もうとしているのかもしれません。
子供たちを放射能から守る福島ネットワークとともに、その活動と結びついている「生活村」や「情報センター」なども一層応援して行きたいと思っているところです。
この問題は、原発利権や産業のために、子供(をはじめとする)住民の命を無視する政策を強行する国や県に対する闘いです。
多くの労働者住民から将来への希望も現在の生活も奪っている現代社会への様々な分野の闘いと不可分に結びついた課題だと思っています。