ホフマン短篇集

E.T.A ホフマン著/ 池内 紀 編、訳/岩波文庫 赤414-2


ストーリー紹介

何かに憑かれた人々の奇怪な人生を綴る、
「クレスペル顧問官」、「G町のジェズイット教会」、
「ファールンの鉱山」、「砂男」、「廃屋」、
「隅の窓」の六編を収録した短篇小説集。


当時は知的障害や、ジプシー(ロマ)と言われる流浪の人々に対する、
偏見が根強かったので、本の中にも差別表現がいくつか出てきます。
お読みになる際は、あらかじめそれを念頭に置くことをお勧めします。


感想


これらの短篇集には共通点があります。
まず、「隅の窓」を除いた全編に共通するのは、
主人公が様々なものに魅惑され、人生を狂わされるということ。

また、幾つかの短篇に共通するものは、
男女の純愛と謎の老人、「眼窩」を意味する「コッパ」です。
例えば、「コッペリウス」「ストラ=コッパルベリ山」など。

「眼窩」のみならず、「鏡」「望遠鏡」も出てきます。
鏡は真実を映すものとして有名ですね。
また、「窓」もある意味では「鏡」に類しています。

編纂した方の着想でしょうが、とても面白いと思いませんか?

以下は、あらすじ、引用文の紹介、友人との議論の中から出た考察です。
注:「クレスペル顧問官」、「ファールンの鉱山」は省略します。
「G町のジェズイット教会」について
「隅の窓」について
「砂男」について
「廃屋」について





以下は、「G町のジェズイット教会」に関しての感想です。

ビルクナーの手紙




「才能を疑い出すのがまさしく才能のあかしなんだよ。
 (略)たえず自信満々でいられるのは単なるばかであって、
 当人が錯覚しているだけのことだ。(略)
 努力はただ自分の足らなさを知ったときにはじまるのだから。
 我慢して頑張っておくれ!ーそうすれば力がつく。」
(P73:『G町のジェズイット教会』)


イタリア留学中の画学生ベルトルトに、師のビルクナーが送った手紙から。
私はこの台詞でかなり救われました。

芸術に留まらず、なにかに打ち込んでいる人に捧げたい台詞です。
大変心強いので、かなり長く引用しました。


ちなみに、『G町のジェズイット教会』は、
語り手が滞在したG町の教会で出会った建物の装飾画家ベルトルトと、
彼を巡る不思議な物語です。

絵に対する強い情熱を持ち、『精神のより高度な意味合い』や、
『より高貴なもの』を言葉では否定しながらも心では渇望するベルトルド。
それを軽蔑し、思想的に彼を苛める物質万能論者ヴァルター教授。
そしてベルトルドの過去から彼が殺人を犯したのではないかと推察する語り手。

ヴァルターの話ではベルトルドが死んだとされているみたいですが、
私には、ついに苦しみから解き放たれ未完の大作を完成させたベルトルドも、
その不幸な妻子もどこかで幸福に暮らしているのだ、と思えてなりません。

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以下は、「隅の窓」に関しての感想です。

「タトエ今ハ酷イトシテモ、イツマデモ酷イママニ続キハシナイ」
(P273:『隅の窓』)


フランスの作家スカロンをモデルにした、
語り手の「従兄」のベッドの天蓋のところにとめてある紙から。

「従兄」は腰から下が動かなくなる難病に苦しめられてはいるが、
精神は自由闊達で、題名にもなっている「隅の窓」から市場を眺めては、
「私」とともに市場に行き交う人々の事情を推理していきます。


身体は不自由でも精神は自由な「従兄」ですが、
それでも病気は彼の身体や精神を蝕み、時には負けそうになる。
そんな時、彼は上に引用したラテン語の文句を思い出すのです。

人生は辛いことの連続だと思います。
でも、それに打ち勝とうとし続ける小さな努力こそが、
幸せな気分で人生の終りを迎えるためには必要なのではないでしょうか。

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以下は、「砂男」に関しての少し詳しいあらすじと感想です。


少し詳しいあらすじ

砂男。それは、夜眠れぬ子供の目の中に砂をかける妖怪。
砂をかけられると眼球は飛び出し、砂男のものになるという。

主人公のナタナエルは幼い頃、自分の父と一緒に怪しい実験をしていた、
コッペリウスが「砂男」だと信じ、その影に怯えて暮らしていた。
成長した彼は、コッペリウスに良く似た晴雨計売りの男コッポラに出会う。
そして彼の望遠鏡をのぞいた途端、
スパランツァーニ教授の美しい娘オリンピアに心を奪われる。

後日、教授の催したパーティに現れたオリンピアの手は氷のように冷たかった。
その動きはぎこちなく、話しかけてもただため息をつくばかり。
しかしナタナエルがその目を凝視すると、愛と憧れが溢れてくる。

次にナタナエルが教授の家にやってくると、乱闘の末教授は血まみれで倒れ、
コッポラことコッペリウスが、オリンピアを抱えて逃げていった。
オリンピアは木でできた、ぜんまいで動く自動人形だったのだ。
ナタナエルをじっと見つめるオリンピアの眼球を教授が投げつける。
そしてナタナエルは発狂し、教授を殺そうとして精神病院に担ぎ込まれる。

その後、正気を取り戻したナタナエルだったが、
市庁舎の塔の上で、望遠鏡を覗いて婚約者クララを見た途端、
彼は再び発狂し、コッペリウスが予見した通り塔から身を投げて死ぬ。


感想

上にも紹介しましたが、あとがきによると、
コッペリウスの「コッパ」は「眼窩」を意味するそうです。

コッペリウスの望遠鏡は彼の言う通り、
第二の「目玉」に相当するのではないかと私は思います。
望遠鏡を通して見えるのは真実なのかもしれません。
(残酷な真実にナタナエルの精神は耐えられなかったのでしょう)

それに、オリンピアはたしかに自動人形かもしれませんが、
目玉には魂が宿っていたのかもしれません。
だから彼女の目玉が血まみれでころがっているのかもしれない。
(教授の血だという説の方がもっともらしいのですが)


ところで、ナタナエルの婚約者クララの名前は聖女に由来する名前です。
そのためか、理想の女性ではあっても、
あまりにも冷たい女性、人間の心をもたないお人形さんのように見えます。

狂気に陥ったナタナエルに対して、クララは彼に献身的に尽くしますが、
普通だったらショックでナタナエルを拒否するのではないでしょうか?

また、ナタナエルが死んだら彼の事は忘れて別の人と結婚して幸福に暮らす等、
彼女の愛というのはよっぽど薄っぺらいのだな、と感じさせられます。

これは他の短篇「ファールンの鉱山」のユッラとは正反対の行為です。
(ユッラは婚約者エーリスが失踪した後もずっと彼を愛し続け独り身を通した)

ところで、普通のTVゲーム(特にRPG)のヒロインの大多数は、
クララのような「理想の女性」なんですよね・・・
(これはゲームの男性主人公にも言える事なのかもしれませんが)

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以下は、「廃屋」に関しての感想です。


あらすじ

物語は『スパランツァー二の蝙蝠』こと、
テオドールが手帳を見ながら話した、彼の実体験である。

とある町にやってきたテオドールは不思議な鏡をのぞき、
そこに美しい腕と顔を垣間みる。

そして狂女アンゲリカとジプシー達の織りなす
不可思議な事件に巻き込まれていく。


悲しい物語ではありますが、
「気が狂った」とされる人々への作者の優しいまなざしを感じました。

例えば、物語に出てくる狂女アンゲリカがまだ三十歳だった頃、
許婚S伯爵の愛情が、若い妹ガブリエレの方に移り、
アンゲリカの父Z伯爵もそれを容認する。

娘に対して人間扱いしているとは到底思えない処置です。

アンゲリカは孤独でした。ジプシー達の魔術に心奪われ、
狂気の世界に入りこんでしまうのも当然かと思われるのです。
(誰でも些細な事から病に陥るものなんでしょうね・・)


ところで、狂女アンゲリカとその妹の娘エドヴィーネ、
死んだS伯爵と語り手テオドールの間には対応関係があります。

第一に、捕われているのはアンゲリカなのに、
鏡に映ったエドヴィーネが捕われていたのだとテオドールが主張してやまないこと。

第二に、アンゲリカを裏切ったのはテオドールではなく、
その妹と結婚したS伯爵なのに、アンゲリカが死ぬとテオドールの心の重荷が降りること。

さらに、アンゲリカはS伯爵に裏切られたあと、
ジプシーの女性に彼女と結婚する花婿の話を聞かされますが、
テオドールが初めて老いたアンゲリカに会った時、
アンゲリカは彼を花婿と呼ぶのです。


テオドールが出会った奇怪な物語は、S伯爵の罪滅ぼしなのかもとか、
アンゲリカと伯爵は本当は愛し合っていたのかもしれない、
など、いろいろ考えさせられました。

ちなみに、あとがきによると、スパランツァーニというのは、
十八世紀(1700年代)イタリアの自然科学者のことらしいです。


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