ルース・ベネディクト「菊と刀」

(「菊と刀」R・ベネディクト著、角田安正 訳/解説、光文社古典新訳文庫、2008)

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きっかけ
各章引用と所感


きっかけ

Twitterで紹介されていたため、興味をもっていたところ、最近知人が読んでみろと貸してくれた。

訳者は、解説文において「社会での競争に破れた者は、恐らく家庭においても安らぎを得られないはずである。
にもかかわらず、日本社会にアメリカ型の競争を無批判に導入すべきなのであろうか」と結んでいる。

考えてみると、競争社会(成果主義)を無批判に導入したために、
「ミスを恐れて何もしない」人間ばかりの世の中になってしまったのではないだろうか。

というわけで、学んだ事をこのHPを読んでくれている人と共有しようと思いました。
このノートは引用(茶色の文)とその感想(黒の文)で学習内容をまとめています。

各章引用と所感

「日本の軍部は戦争映画を次々に制作し続け、中国が日本を「愛する」様子を描いた。
それは、絶望のあまり心身を病んだ中国の娘が、日本の兵士とか技師と恋に落ちることによって幸福を見出すというイメージである。(P154)」

  1. 本文にもあるように、当時の日本人は自分達が劣っている東アジアの国々に優れた日本(=父、兄、夫)の属国(=娘、妹、妻)としての相応の身分を与えてやることで相手を貧困と列強(欧米)の支配から解放してあげているつもりだったようだ。当時の考え方をよく表している。
  2. また、典型的な日本の少女漫画の構図が見て取れる。苦境にある少女は男性の庇護の元にのみ「居場所」を得られる。ベネディクトは、日本人は、生まれで決まるヒエラルキーごとに与えられた「応分の場」を与えられることで、日本人は安心するのだ、と説く。少女漫画の究極のテーマ「私の居場所」は、日本人が常に、何事にも「応分の場」があり、階級を飛び越えることを著しく忌み嫌う姿勢の裏で、玉の輿などの階級観飛び越えを許す柔軟さがあるような日本人の二面性をよく表しているものなのではないだろうか?
「しかし日本では、(略)迷惑がられずに恩を受け入れてもらえるのは運の良い場合である。
偶然に厚意を受けて借りを作るという状況は、恩が含意する状況ではあるが、日本人はそれを好まない。
(略)
恩から発生するあらゆる結果に巻き込まれるのは願い下げにしたくなるのである、
(略)
事故があったとき、日本の街頭には人だかりができる。だが、群衆は手をこまねいて何もしようとしない。
それは別段、率先して行動する力を欠いているからではない。
一般人が無用の手出しをすると、助けられた側は恩を負うことになる。
それがわかっているから手を出さないのである。(P166)」

  1. あてはまらないかもしれないが、もしかするとイジメが起きた時に誰も被害者を助けないのはこのためかもしれない。
  2. 電車や坂道で老人や妊婦を助けられないのも、こういう心理が無意識に行われているからではないだろうか。
  3. 少し年配の人になると、手助けを断る人も多いが、「恩」の煩わしさから逃れるためならどんなことでも耐えようと、彼らは意識的に行動しているのだろう。
「(中国から輸入した概念のうち)仁が抜けたあとの空白には、義務を条件的なものとするような観念を何ら据えなかった。
その結果、日本における孝行は無条件のものとなった。
孝行は、それが親の悪事や不正を大目に見るということを意味するような場合ですら、守らなければいけない義務と化したのである。
孝行をやめることが許されるのは、孝行が天皇に対する義務と矛盾する場合だけであった。
親が卑しむべき人間であるとか、親のせいで幸福がそこなわれているからといって、孝行をやめることはできない。(P192)」

  1. 戦前の日本では、親殺しは非常に重い罪でした(他の国でも同様ではあるけれど)。しかし、戦後は親に強姦された少女が親を殺した事件をもってその罪を刑罰から除くなど、温情深い一面も持ち合わせていたことも確かです。だからベネディクトのこの意見は、あくまでも戦前のみにあてはまると思います。
  2. ただし、本文によると、日本人は親への返しきれない「恩」を子どもを可愛がることで返すという一面があるという。日本人にとっては親子関係は永遠に続く円環構造をなしているという話を「昔話と日本人の心」(河合隼雄、岩波文庫)で読んだことがある。孝行という言葉を親への献身と単純に解釈すると、混乱するかもしれない。
「日本人の注意は、その時その場のことに集中する。(略)
日本人は具体性のない思索をめぐらすことや、目の前にない対象物のイメージを思い浮かべることに関心を持たない。(P197〜198)」

  1. ニュースでは常にそのときの社会の問題を伝えているが、問題提起の結果どうなったか、についてはさほど興味を持たない。
  2. 日本における抗議デモの類いは基本的に長続きしない。
  3. 内部告発があっても、そのときは謝罪する。代表が辞めるとすら言う。しかしメディアや大衆の目がそそがれなくなった途端、組織は元に戻る。告発した社員は秘密裏に辞めさせられ、告発された組織の体質は変わらない。日本人が自らを変えるのは、アメリカの捕虜となった日本兵や玉音放送後の日本人がそうであったように、これまで正しいと信じていたことが崩れた(=これまで自分は騙されていたと感じた)時だけである。会社で言えば、倒産の危機に直面したり業界が死に瀕したりと、のっぴきならなくなった時である。問題解決能力の欠如は、日本人の大きな課題である。
「日本では、職業人としての名に対する義理は、非常に厳格である。
しかし、アメリカ人が考えるような高度な専門家の水準に達していない者にとっても、そのような義理は免除されない。
教師は言う。『知らないと認めるわけにはいかない。というのも、教師としての名に対する義理に縛られているから。』
(略)
いずれの場合においても、当人と職業は極端なまでに同一視される。
そして、ある人の行動や能力が批判されると、自動的にその人自身が批判されたことになるのである。
(略)
実業家にとって思いもよらないのは、自分が一貫して正しかったと断言して初めて自尊心が保てるとか、
自分の過ちを認めたら辞任か辞職のいずれかを選ばなければならないと行った考え方である。
しかし日本では、このような保身の姿勢は深く浸透している。
だから、相手に向かって職業上の過失を犯しているなどと四の五の言わないことが、一般的な礼儀であり、世間知でもある。(P242〜243)」

  1. 福島第一原子力発電所の事故時に、海洋学専攻でもない原子力工学専攻の教授が、なぜ、専門外なのにもかかわらず、放射能の海への拡散についてあんなにも自信を持って語らねばならなかったか、がわかった。欧米では無責任な態度と見なされるだろう。また、日本の若者も彼らの態度を無責任で利権を守るための行為だと思ったようだが。
  2. 日本の大企業が、問題が起こった際になぜ事実を隠し、社内で周知のことを公表しようとしないのか、もわかった。
「(日本の若者に心理テストとして課題を与えた時に)被験者をひとりにして問題に取り組ませたところ、順調に進歩を遂げた。
ミスも減り、スピードも上がった。その上で競争相手を連れてきたところ、被験者は間違いを犯し始め、スピードも格段に鈍ったのである。
被験者が最高の成績を収めたのは、自分の記録の更新を目指したときであって、他人との優劣を比較したときではない。
(略)
被験者はテストが競争形式になったとたん、『競争相手に負けるのではないか』という危惧で頭が一杯になり、それが作業成績に影響した。
(略)
小学校の教師は次のような指示を与えられている。生徒が本人自身の過去に照らして成績を伸ばすよう指導せよ。
生徒が自分の出来を他の生徒と比較するような機会は与えてはならない。(P244, P246)」

  1. ゆとり教育は旧制小学校では常識だった。小学校(今の小中学校)では修身の成績(内申点)が重用視されるが、旧制中学(今の高校)になってから突如、競争にさらされるようになる。これもゆとり教育と全く変わらない。
  2. 果たして日本は、海外に学んでゆとり教育を導入したのか、それとも戦前の日本に「温故知新」したくて形式だけ輸入しただけなのか。そういえば本文には、明治維新の原動力であった「尊王攘夷」そのものが「温故知新」であると説明されている。そうか。そうだったのか!
  3. 日本人はけっして競争を恐れるわけではない。失敗して恥をかくのを恐れるだけなのだ。よく確認すること、ミスなく仕事をすることはどの社会でも通用する強みだと思う。しかし、恥をかくのを恐れてあまりにも事前検討をしすぎると、せっかくのチャンスを逃してしまうかもしれない。完璧主義になりすぎないこと、これが大事。
「田舎ではまた、若者が夜、娘を訪なうことがある。若者は、娘の一家が寝静まり、娘も床に就いたころを見計らってやって来る。
娘は若者の誘いを受け入れることもあれば、断ることもある。
若者は手ぬぐいで頬かむりをしている、そうしておけば、断られた場合でも、翌日恥を感じる必要がないからである。
頬かむりするのは、自分がだれなのかを娘に悟られないようにするためではない。
頬かむりは単なる便法であって、こうしておけば、恥をかいたことを自分から認める必要がなくなるというだけなのである。(P248〜249)」

  1. 恋愛においても、「恥をかく」ことが最も忌むべきこととされている。ここでは、娘に拒絶されることが恥となるのである。だから、頬かむりでアイデンティティを隠すことによって、彼女が拒絶したのは自分ではない、だから自分は恥をかかされていない、そう考える。面子ではない。
  2. だから、日本人はリスクを恐れる人種ではけっしてない。リスクでなく、恥をおそれているのである。だから、「負けるのは恥じゃない」と自分に言い聞かせられれば、どんな悲惨な失敗からも立ち直り、新たなチャレンジに果敢に取り組むことができる。
「必要なのは、尊敬を勝ち取ることである。 日本人はその目的のために使う手段を、状況の要請に従って、手に取ることもあれば放棄することもある。
状況が変わると、進路を変更し新たな方向を目指すことができる。
日本人は、変わるということを道徳の問題とは思っていない。その点で欧米人とは異なっている。(P272〜273)」

  1. 日本人の強み、それは、「尊敬=名誉」を勝ち得るためなら「自分を変えることを厭わない」ということ。つまり、時代の変化に対する適応性を持っていること。これは進化論的には大きな強みになるだろう。
  2. 文化遺産が世界遺産に登録されることを、日本人は「尊敬=名誉」を得たのだと思う。欧米人はアイデンティティを保てたと思う。
「日本人の人生観は、忠、孝、義理、仁、人間の楽しみなどの領域ごとにかくかくしかじかと定められている。
日本人の目には、「人間の義務全体」は細分化され、国ごとに色分けされた地図のような観を呈している。
(略)
日本人は、孝を目的とするときには、それに見合った行動をする。
また、単に義理のために、あるいは仁の領域において行動するときには、西洋人の目から見てまったく人が変わったように行動する。
しかも、それぞれの領域においてすら、規範は融通が利く。
したがって、その領域の内部で条件が変われば、まったく異なる行動が当然のこととして要求されるほどである。(P309〜310)」

  1. 家と会社で人格を分けるのは、日本人ならでは。一貫性を持たないのではなく、「領域=場(居場所、地位)」を分けるのである。
  2. 分(=生まれつき与えられた自分の居場所、つまり身分)をわきまえるという考え方は、日本特有の考え方だ。本文でも指摘されているように、成金は軽蔑の対象であり、非差別民も自分の応分を守る(=仕事を奪われない)かぎりどんなに貧乏でも文句を言わない(そのために娘を売ることも子どもをつぶすことも厭わない)。金で身分を買う(息子を婿養子に出す)ことについて、日本人は必ずしもやぶさかではない。
  3. 日本人は平等という概念を輸入したが、相変わらず民主主義ではなく権威主義であり、政治家も世襲が多い。全くと言っていいほど抵抗感を持たないのは、こういった伝統のためか?
「日本では、『おのれを重んずる(自重する)』ということはすなわち、自分が注意深いプレイヤーであることを絶えず示すということに他ならない。
それは、英語の語法と違って、価値ある行動規準を意識的に守るということを意味しない。
(略)
だれかに「自重せよ」と言われたとしよう。その意味はこうである。
『そつのないように、自分の状況にかかわる要因を一つ残らず検討せよ。批判の種になるような、あるいは成功の可能性を引き下げるような言動はいっさいするな』。
(略)
ある従業員が、『私は自重しなければならない』と言ったとしよう。
それが意味するのは、『権利を主張しなければならない』ということではなく、『雇用主を困らせるようなことはいっさい言わない』ということである。(P348〜349)」

  1. 日本型経営の悪い点としてよく挙げられそうなポイントである。全く、痛い所をついてくる(笑)。
  2. しかし日本には、本文にもあるが『誠』という徳目も存在する。『誠心』とは、人目を欺こうとしない(隠しごとをしない)ことである。誠をつきつめるなら、雇用主を困らせないよう、たとえ間違ったことをしていてもそれを告発しないなんてありえない。そして、そういう英雄的な行為は国を超え、時代を超え、いつどこでも徳目とされているはずだ。とすると、日本人はけっして組織改革のできない人種ではあるまい。
「悟りを開く前の人間は、現在のやり方で十分なのだろうかと心配し、自己を、衆人環境の中に置かれ賞賛または非難の裁定を待つ身だと想定する。
この障壁は、日本人ならだれもが非常に切実に感じる恥の壁である。瓦によって門戸がたたき壊され、ぽっかりと出口ができると、人は自由の身になり、瓦を投げ捨てる。
(略)
日本人特有の、徳目と徳目の板挟みは解決したわけである。
(略)
わたしたちアメリカ人が『自責の念に縛られない人』という言い方をするとき、悪事を働きながら、それにともなうべき罪の意識を欠いた人のことを意味する。
ところが、日本人が同じフレーズを用いるとき、念頭にあるのは緊張がほぐれた人、干渉されない人である。
(略)
日本人の哲学によれば、人間は心の奥底では善なのだという。内なる衝動が直接行動となって具現化するとき、おこないはよいものとなる。
しかも、努力を要することなく。
だからこそ日本人は、恥という自己検閲を排除することを目的として、達人の域にたどり着くための修練を積むのである。
その境地に達したときに初めて第六感が束縛から自由になる。
それは、自意識及び人生の葛藤からの究極的な解放である。(P390, 396〜397)」

  1. どうやったら楽に生きられるんだろう?という問いに対する答えを与えてくれている。それは『ありのままの(善なる)自己』を解放することだ。日本人は今でも(無意識的に)『世間様の目』を恐れ、自己を抑圧しつづけている。欧米ではわがままなことが、日本ではただ自由になり悟りを得ることに繋がりうる。
  2. しかし現在の日本人は自由を手にしてしまっており、これまでとは異なっている。個人の幸せを求めるようになってきている。
  3. 個人の幸せをより指向するようになっただけであり、けっして責任感が失われたわけではないと思う。しかし戦前のように、(男に生まれたばっかりに、義務に責任に恩に義理に、とあまりにも重い荷を殆ど一人で背負わされる)「頼りがいのある」男性は少なくなり、そういう男性を求める昔ながらの価値観を持った女性の婚期が遅れるのは仕方ないと思う。
「教師から聞き分けがないとか生意気だとかいった連絡が入ったり、修身の成績が不可だったりすると、家族は背を向ける。
商店主から、何か悪さをしたと苦情が寄せられると、『家名が汚された』ことになる。
家族は一丸となって当の子どもを責める。
(略)
いずれにせよ一家としては、その男の子を世間に対する家族の代表と見なすという姿勢を示す。
だから男の子は、人様の批判を浴びるようなことをすれば、家でつるし上げられる。
世間様に対する義理を欠いているではないか、というわけである。
(略)
学校の友達からは、迷惑をかけたという理由で、仲間外れにされる。
(略)
『ある社会において、徒党を組む社会集団(拡大家族を含む)が機能しているとしよう。
そのような社会の大半においては、集団は通常、ほかの集団の攻撃や批判にさらされているメンバーを、結束して守ろうとする。
所属する集団から受け入れられている限り、人は外の世界に立ち向かうことができる。
緊急事態が発生した場合や攻撃にさらされた場合、所属する集団から全面的な支援を得られるという安心感に支えられているからだ。
しかし、見たところ、日本には逆のことが当てはまるようである。
すなわち、よその諸集団から是認されないと、自分の所属する集団の支持も得られないということである。
(略)
このような仕組みになっているため、『外界』から認められるということが重要性を帯びる。
日本と同じほどそれを重視する社会は、ほかにはまず見当たらない。』(ジェフリー・ゴアラー)(P430〜431)」

  1. 日本特有のイジメ、若年者の家出はこのような日本的な暗黙の了解事項が、無意識的に、子ども達の心の中に涵養されることによって発生するのではないか、と思わされる。「昔はよかった」なんてとんでもない。昔は、「虐められるやつはそれ相応のことをしたに違いない」と言われ、いじめられっ子がその汚名をそそぐためには、自殺するか偽証して相手に謝るかしかなかっただけのことである(幸田文「おとうと」参照)。
  2. 引用しないが、本文にある通り、日本における自殺は、自分の主張を通すための脅しであると同時に、汚名=恥をそそぐための最終手段なのである。イジメ自殺で遺書が残されるのはそのためであり、遺書によってその子の清さが周知され、その子の受けた汚名=恥はそそがれる。
  3. セクハラや社内イジメなどで上司や会社を訴えた場合、日本ではほぼ間違いなく、訴訟にはならない。和を乱したかどで辞めさせられても自らの潔白を主張し続けるか、それとも耐え忍ぶかだ(多くの被害者は後者を選ぶ。そして自らが地位を得た後は、若妻が意地悪な姑に変わるがごとく、自らが虐める側に回る者も稀にいる)。
  4. 2011年現在、冤罪事件がよく報道されるようになったが、冤罪が後を絶たないのも、こうした日本独特の風習によるものなんじゃないかと感じた。
「日本人が用いる一定の象徴を見れば、彼らの性格に見られる二つの側面を明らかにするのに役立つ。
二つの側面は、しつけが途中で切り替わることに由来する。
初期に形成される側面は、『恥をともなわない自己』である。
それがどの程度残っているかは、鏡に自分の顔を映せば分かる。
彼らに言わせれば、『鏡は永遠の純粋さを映し出す』。
(略)
また、『干渉する自己』を映し出すわけでもない。
そこに映し出されるのは、魂の奥底である。
人はそこに、おのれの『恥をともなわない自己』を見出すはずである。
鏡の中を覗けば、自分自身の、魂の扉としての目が見えてくる。
そのおかげで、『恥をともなわない自己』として生きることが容易になる。(P454)」

  1. 自己を抑圧しきっている日本人が解放される唯一の方法、それは「鏡を見る」ことだ。曇りない刀のように心が澄んでいる状態、それが日本人にとっての悟りを開いた状態である。日本におけるヒーローは、悟りを開いた者に他ならない。とすると、刀とは、鏡のことだったのではないか。なぜ日本のゲームであれほどまでに主人公の武器が刀でなければならないのか、感覚的にわかってきたような気がする。
  2. 日本人は自分を束縛している「世間の物笑いの種になる(=恥をかく)」と言われる行為の範囲を(その行為の結果を注意深く考える必要があるが)減らしてゆくことによって、己の可能性を無限に拡大することもできる。逆に言えば、どういうことが恥になるかは時代によって変わるため、行動様式がめまぐるしく変わりうる。世代間の価値観の格差は他の人種よりもずっと大きい。従って、ワンピース世代とガンダム世代の価値観の隔たり(鈴木貴博、「「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱」)は、両世代にとっての「恥となるのはどんな場合なのか?」、つまり恥の基準が全く異なることからくるのではないのだろうか?



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